興宮の夕空。
圭一は、ビルからビルへとスイングしながら、先ほどの話を思い返していた。
間宮律子。
北条鉄平。
そして、鹿骨総合生体科学研究所。
おそらく、間宮律子があの研究所で何らかの試験を受けていたことは分かった。
しかし、鉄平についてはまだ不明なままである。
「……詩音」
圭一は、通信装置へ声を掛けた。
『はい、圭ちゃん?』
すぐに、詩音の声が返ってきた。
『……どうでした? 警察署は』
「……いやぁ、なかなか大変だったぜ」
『……まさか、本当に窓から行ったんじゃないでしょうね?』
「…………」
『……圭ちゃん?』
「い、いやぁ……」
『……もう! 本当にやったんですか!?』
圭一は、思わず苦笑した。
「ま、まあまあ! 結果的にはちゃんと話を聞いてもらえたんだからさ!」
『……まったく、圭ちゃんは……』
通信の向こうで、詩音が溜息をつくのが聞こえた。
圭一は、慌てて話題を変えた。
「……それよりさ、すげえ話が聞けたぜ」
『……へえ?』
詩音の声が、少しだけ変わった。
『……何が分かったんです?』
「間宮律子のことだよ」
『……あの女の人ですか?』
「ああ。本人に会わせてもらえたんだ」
『……本当に?』
「おう。大石のおっさんが色々と手配してくれてさ」
圭一は、次のビルへウェブを撃ち込んだ。
「……それで、分かったんだよ。あいつがどうしてあんな身体になったのか」
『……!』
通信の向こうで、詩音が息を呑む気配がした。
『……どういうことです?』
「……研究だよ」
圭一は答えた。
「金を貰って、身体の検査とか薬の試験とかを受けてたんだと。それで、だんだん身体がおかしくなっていったらしい」
『……なるほど』
詩音の声が、少しだけ低くなった。
『……それで、その研究はどこで?』
圭一は、僅かに間を置いた。
そして、ゆっくりと答えた。
「……ダム研究所、だと思う」
通信の向こうが、静かになった。
『……え?』
「ダムの近くにある、あの研究所だよ。間宮律子は、そこの絡みがあると思う」
『……本当ですか?』
「ああ。本人がそう言ってた」
圭一は、夕暮れの街を見下ろした。
「……どうやら、俺たちが思ってたよりも、話が大きいみたいだぜ」
『……そうですね』
詩音は、しばらく考えてから答えた。
『……でも、圭ちゃん。それなら鉄平さんとの関係も分かったんですか?』
「……いや、そっちはまだだ」
圭一は首を振った。
「昔からの知り合いだとは言ってたけど、本当に同じ研究に参加したかどうかまでは分からなかった。間宮律子も、詳しいことは知らねえみたいだ」
『……なるほど』
詩音は、小さく息を吐いた。
『……じゃあ、研究所と鉄平さんを直接繋ぐ証拠は、まだないんですね』
「……ああ」
圭一は頷いた。
「でも、あそこが間宮律子と関係してたのは確かだ。少なくとも、本人はそう証言してる」
『……そうですね』
詩音は、静かに答えた。
『……これは、もう少し調べてみる必要がありそうです』
「……ああ」
圭一も頷いた。
「葛西さんにも相談してくれねえか? あの研究所に関係してる会社とか、鉄平の金の動きとかさ」
『ええ。もちろんです』
詩音は答えた。
『……ただし、圭ちゃん』
「……ん?」
『勝手に研究所へ突っ込んだりしないでくださいね?』
「……分かってるって!」
圭一は苦笑した。
『本当ですかぁ?』
「本当だ」
詩音は小さく笑った。
しかし、その声には先ほどまでの軽さがなかった。
『……では、まず情報を集めましょう。研究所がどんな場所なのか、そこで何が行われているのか。そこを調べないことには始まりませんから』
「……ああ」
圭一は、再び前方へウェブを撃ち込んだ。
白い糸がビルの外壁へ張りつき、身体が大きく弧を描く。眼下には、夕暮れの興宮が広がっていた。
そして、その街から遠く離れた山間部には、ダム湖と一つの研究所が存在している。
鹿骨総合生体科学研究所。
以前、鷹野三四と出会った場所。
自分の糸の研究について、親切に助言をしてくれた女性の勤め先。
圭一は、彼女の笑顔を思い出した。
「……鷹野さん」
その名前を呟いた後、圭一は小さく首を振った。まだ、何も分からない。あの女性が事件に関わっていると決まったわけではないし、研究所で何が行われていたのかも、今はまだ知らない。
しかし、間宮律子があの施設に通っていたという事実は、無視できなかった。
「……確かめなきゃ、分かんねえよな」
圭一は、夕暮れの空を見上げた。そして、次のビルへ向かって勢いよく跳んだ。その背中を追うように、白い糸が空へ伸びていく。
前原圭一が新たに手に入れたのは、事件の答えではなかった。これまで漠然と疑っていた場所へ、初めて繋がった一本の手掛かり。その先に何が待っているのかは、まだ分からない。ただ、スパイダーマンの新たな調査は、こうして始まったのだった。
§
昼下がり、昼食の時間になると、圭一たちはいつものように部活メンバーで集まっていた。六月に入ってからというもの、興宮の気温は日に日に上昇しており、校舎の窓から吹き込む風にも、既に夏の気配が感じられる。廊下では生徒たちが賑やかに行き交い、教室の方からは机を動かす音や笑い声が聞こえていた。圭一は弁当の卵焼きを口へ運びながら、魅音が昨日のテレビ番組について熱心に話すのを聞き流していた。
話題は相変わらずキャプテン・トミタケだった。その名前を聞くたびに、圭一は何とも言えない気分になる。つい先日、リザードウーマンと戦っていたのが自分だということなど、目の前の仲間たちは知る由もないのだから、何とも皮肉な話だった。
もっとも、今日の圭一には別の関心事があった。
鹿骨総合生体科学研究所。
昨日、大石と間宮律子から聞き出した話が、どうにも頭から離れなかった。リナはあの研究所で試験を受けていたという。そして、鉄平もまた、突然の借金返済とあの異様な装甲という、説明のつかない事情を抱えていた。
二人が同じ研究に関わっていたという完全な証拠は、まだない。しかし、あの研究所が何かを隠しているのではないかという疑念は、日に日に大きくなっていた。
「……というわけですの!」
突然、沙都子が自慢げに声を上げた。圭一は顔を上げた。
「……ん? 何が?」
「もう! 圭一さん、ちゃんと人のお話を聞いていらっしゃいますの!?」
沙都子は頬を膨らませたが、すぐに得意げな表情を取り戻した。
「今週の金曜日、わたくしたちの学年は社会見学でダムの研究所へ行きますのよ!」
「……研究所?」
圭一の箸が止まった。その隣では、詩音も弁当へ伸ばしかけていた手を止めている。
「……おい、沙都子。それって、まさか……」
「ええ! ダム研究所ですわ」
圭一は思わず身を乗り出した。
「沙都子! それ、マジか!?」
「まあ! そんなに驚かなくてもよろしくてよ?」
沙都子はますます胸を張った。
「残念ながら、圭一さんのような汚れきった殿方とは違って、わたくしたちには立派な研究施設へ入る資格があるんですの!」
「誰が汚れきった殿方だ!?」
圭一は反射的に言い返したが、すぐに考え直した。今は沙都子の挑発に乗っている場合ではない。
「いや、ちょっと待て。あの研究所って、普通に見学できるのか?」
「もちろんですわ。学校で申し込みをして、先生方も一緒に行くんですもの」
「みぃ。社会見学は明後日の金曜日なのです」
梨花が小さく頷いた。
「研究所では、お薬や新しい医療技術についてお勉強するのですよ。いろいろな展示も見られるそうなのです。にぱー☆」
「……へえ」
圭一は腕を組んだ。表向き、鹿骨総合生体科学研究所は再生医療や生体材料の研究で知られる施設である。ならば、学校の社会見学を受け入れていても何ら不思議ではない。むしろ、地域への研究成果の紹介や広報活動の一環として、積極的に実施している可能性もある。
しかし圭一にとって重要なのは、そこではなかった。あの研究所の中へ、一般の人間が入れる。しかも、数十人の小学生と引率教師を迎える大規模な行事として。これは、どう考えても聞き逃せない話だった。
「……ねえ、沙都子」
それまで黙っていた詩音が、柔らかな声で尋ねた。
「当日は、研究所の人たちが案内してくれるんですか?」
「ええ、そう聞いておりますわ」
「へえ。だったら、普段は見られない場所も見せてもらえるかもしれませんねぇ」
「もちろんですわ! それに……」
沙都子はそこで言葉を切り、いかにも重大な秘密を発表するように周囲を見渡した。
「なんと、当日は特別な方がいらっしゃるそうですの!」
「特別な方?」
レナが首を傾げる。
「誰かな? かな?」
「をーっほっほっほ! 驚いてはいけませんわよ!」
沙都子は両手を腰に当てた。
「キャプテン・トミタケですわ!」
「えええっ!?」
真っ先に声を上げたのは魅音だった。
「ちょっと待って! あのキャップが来るの!?」
「ええ! 先生がおっしゃってましたわ。研究所の安全についてお話をしてくださるそうですの!」
「うわぁ、いいなぁ!」
魅音は羨ましそうに身を乗り出した。
「おじさんも見てみたいなぁ! あの盾、実物だとどんな感じなんだろ!」
「はぅ〜! レナもちょっと気になるな!」
「みぃ。富竹は子供たちにもお話をしてくれるのです」
梨花はいつものように微笑んだ。一方、圭一は口をへの字に曲げていた。
「……また、あいつかよ」
「ん? 何か言った、圭ちゃん?」
「いや、何でもねえ!」
圭一は慌てて首を振った。しかし、詩音にはしっかり聞こえていたらしい。彼女は笑いを堪えるように口元へ手を当てながら、圭一へちらりと目を向けた。
「……ふふっ」
「……何がおかしいんだよ」
「いえいえ、別に」
詩音は素知らぬ顔でお茶を飲んだ。その様子に圭一は眉を寄せたが、すぐに視線を沙都子へ戻した。
「……それで、沙都子。研究所には何時くらいに行くんだ?」
「確か、午前十時からだったと思いますわ。午後には学校へ戻る予定ですの」
「……ふぅん」
「圭一さん、随分と熱心ですわね?」
「そ、そうか?」
「ええ。圭一さんなら普段なら社会見学のお話なんて、途中で寝てしまいそうですわね」
「失礼な奴だな、お前は!」
沙都子が得意げに笑い、魅音とレナもつられて笑った。しかし詩音だけは、その会話を聞きながら何かを考えているようだった。やがて、彼女は何気ない調子で尋ねた。
「沙都子、キャプテン・トミタケさんが来るなら、警備の方も大勢いるんですかね?」
「さあ……そこまでは存じませんわ」
沙都子は首を傾げた。
「でも、先生のお話では、自衛隊の方もいらっしゃるそうですわよ。安全管理のお仕事についても紹介してくださるんですって」
「……なるほど」
詩音は小さく頷いた。圭一も、その言葉の意味を考えた。見学者の受け入れ。研究所の案内。自衛隊関係者による説明。そして、キャプテン・トミタケの参加。少なくとも、当日は研究所の職員たちが普段とは異なる業務に従事することになるだろう。ただし、それだけで研究所の警備が手薄になるとは限らない。むしろ、子供たちを大勢受け入れるのだから、普段以上に警備が厳しくなる可能性さえある。それでも、何か変化があることだけは間違いなさそうだった。
「……へえ。面白そうだな」
圭一は、わざと興味のなさそうな調子で呟いた。
「まあ、楽しんでこいよ、沙都子」
「をーっほっほっほ! 当然ですわ!」
沙都子は笑い、再び社会見学で見られる予定の展示物について語り始めた。圭一は適当に相槌を打ちながら、隣の詩音へ視線を向けた。詩音も、ほんの一瞬だけ圭一を見た。二人は何も言わなかった。しかし、その視線だけで十分だった。
昼休みが終わる少し前。圭一と詩音は、校舎の端にある人気の少ない階段へ移動していた。開け放たれた窓からは暖かい風が吹き込み、遠くの校庭では昼休みを楽しむ生徒たちの声が響いている。
「……で、どう思う?」
圭一が尋ねた。
「もちろん、研究所の話ですよね?」
「ああ。沙都子たちの社会見学だよ」
圭一は手すりにもたれかかった。
「明後日、あの研究所に学校の連中が来る。しかも、キャプテン・トミタケまで参加するんだろ?」
「そうですね」
詩音は腕を組んだ。
「研究所にしてみれば、随分と大きな行事みたいですね。見学者の受け入れ準備も必要でしょうし、研究員の方々も案内に駆り出されるはずです」
「……ってことはさ」
圭一は声を潜めた。
「もしかしたら、研究所の警備にも隙ができるんじゃねえか?」
詩音は少し考え込んだ。
「可能性はあります。でも、逆に警備が厳しくなるかもしれませんよ?」
「……ああ、そうか」
「特に、自衛隊の関係者まで参加するとなれば、何も対策をしていないとは思えませんから」
圭一は頷いた。
「……でもよ、全員がいつも通りってわけじゃないだろ?」
「ええ。それは確かに」
詩音はゆっくりと頷いた。
「少なくとも、普段とは違う一日になるでしょうね」
「だろ?」
圭一は少しだけ笑った。
「だったら、チャンスかもしれねえ」
研究所には、未だに分からないことが多すぎる。リナが証言した人体実験。鉄平へ渡った金。二人の異常な身体能力。そして、研究所の職員たちが何を知っているのか。警察の捜査だけで、すぐにすべてが明らかになるとは限らない。
「……俺たちも、何か調べてみる必要があるよな」
圭一は呟いた。詩音は、その顔をじっと見つめた。
「……圭ちゃん」
「ん?」
「まさか、明後日の社会見学に合わせて、研究所へ行くつもりですか?」
「……まあ、そういうことだ」
圭一は肩を竦めた。
「もちろん、沙都子や梨花ちゃんたちに迷惑を掛けるつもりはねえよ。あいつらは普通に見学してりゃいいんだ」
「……そうですか」
詩音はしばらく黙っていた。そして、小さく息を吐いた。
「……やっぱり、そう言うと思いました」
「何だよ、その言い方」
「だって圭ちゃん、こういう話を聞いたら絶対に放っておけないでしょう?」
「……まあな」
圭一は苦笑した。しかし、詩音の表情は真面目だった。
「ただ、一つ約束してください」
「……何だ?」
「研究所の中で何が起きているのか、まだ分からないんです。だから、無理に奥まで入ろうとしたり、危険な場所へ突っ込んだりしないでください」
「……分かってるって」
「本当ですか?」
「本当だよ!」
詩音は、疑わしそうに圭一を見つめた。
「……圭ちゃん、昨日も同じことを言ってませんでした?」
「うっ……」
圭一は言葉に詰まった。確かに、昨日のリザードウーマンとの戦いでも、詩音に無茶をするなと何度も言われていた。その結果が、全身の痛みと顔の痣である。
「……いや、今回はちゃんと慎重にやるって!」
「……そうしていただけると助かります」
詩音は小さく笑った。それから、ふと思い出したように尋ねた。
「……ところで、圭ちゃん」
「ん?」
「ウェブシューターの方は、大丈夫なんですか?」
圭一は自分の手首へ目を向けた。今は制服姿なので装置を身につけていないが、昨日のリザードウーマンとの戦闘を思い出せば、改良すべき点はいくらでもあった。
「……ああ。実は、ちょっと考えてることがあってさ」
「……へえ?」
圭一は、にやりと笑った。
「三号だよ。ウェブシューター三号!」
「……また新しいのを作るんですか?」
「もともと二号がデカかったからな。コンパクト化を狙って作ってたんだ。それに、今度はちょっと面白い仕掛けも考えてるんだぜ?」
「……面白い仕掛け?」
「へへっ。完成してからのお楽しみってやつだ!」
詩音は呆れたように笑った。
「……まったく。圭ちゃんって、本当にこういうことになると元気ですねぇ」
「そりゃそうだろ! スパイダーマンの装備は、常に進化し続けるんだからな!」
§
その日の夕方。帰宅した圭一は、早々に自室へ籠もっていた。机の上には、ウェブシューター二号と、その改良案を書き込んだノートが広げられている。
二号は実戦でも十分に使える装置だった。しかし、改良を重ねるうちに本体が大きくなり、特にウェブ・グレネードを使うために後付けした機構は、手首の動きを妨げることがあった。
それ以上に厄介なのが、カートリッジの交換である。
グレネードを使用した後、通常のウェブを撃てる状態へ戻すには、取り付けた部品を外して交換しなければならなかった。これでは戦闘中に使い分けることなど難しく、下手をすればウェブスイングで逃げることさえできなくなってしまう。
「……やっぱ、いちいち付け替えてる暇なんかねえよなぁ」
圭一は二号の外装を取り外し、内部の部品を机へ並べた。今回の三号では、ウェブを撃ち出す機構そのものは大きく変えず、カートリッジの取り付け部分を改良するつもりだった。
余っていた薄いアルミ板を金鋸で切り出し、ヤスリで角を落としてから、手首に沿うように曲げる。そこへ二号から取り外した射出機構を組み込み、カートリッジを固定する金具を新しく取り付けた。何度か位置を調整した末に、ようやく小さな留め具だけで着脱できる形へ収めることができた。
「……よし。これならどうだ?」
圭一は通常のウェブ用カートリッジを差し込み、固定されたことを確かめると、留め具を押して取り外した。そして、今度はグレネード用のものを装着する。
カチリ。
「……おお!」
先ほどまで苦労していた交換が、随分と簡単になっていた。圭一は何度か取り付けと取り外しを繰り返し、満足そうに頷いた。
「へへっ。これなら、グレネードを使った後でも、すぐ普通の糸に戻せるぜ!」
さらに外装を薄く作り直したことで、本体も二号より一回り小さくなった。袖の下へ収めても不自然に膨らまず、手首を曲げた時の引っ掛かりも少ない。
もちろん、一度に使えるウェブの量が増えたわけではない。あくまで既存の機能を、より使いやすくした改良型である。
それでも、圭一にとっては十分な進歩だった。
「……よっしゃ! 三号、完成!」
§
翌日、六月二日の放課後。圭一は詩音と葛西に付き添われ、以前にも装備の試験で使った倉庫へ来ていた。
「……さて、見てろよ!」
圭一は新しいウェブシューター三号を装着し、両手首を軽く回した。
「へえ。随分と小さくなりましたねぇ」
詩音は感心したように装置を眺めた。
「だろ!? でも、今回の改良は見た目だけじゃないんだぜ!」
「……ほう?」
「まあ、見てろって!」
圭一は試験用の的へ右腕を向けた。指を曲げると、白い糸が勢いよく伸びて的へ張りつく。続いて、圭一は手首の留め具を押し、装着していたカートリッジを取り外した。
「……ん? もう交換するんですか?」
「ああ。今度はこっちだ!」
圭一はグレネード用のカートリッジを差し込み、再び的へ腕を向けた。放たれた白い塊は的の足元へ着弾すると、そこから大量のウェブを周囲へ広げた。
「……おお! 相変わらず派手ですねぇ!」
詩音は目を丸くした。
「へへっ! でも、本番はここからだぜ!」
圭一は空になったカートリッジを取り外すと、腰のポーチから通常ウェブ用の予備を取り出した。手首の装置へ差し込み、再び腕を伸ばす。
シュッ!
白い糸が真っ直ぐに伸び、別の的へ張りついた。
「……よっしゃ!」
圭一は得意げに振り返った。
「どうだ!? これならグレネードを使った後でも、すぐにスイングへ戻れるんだぜ!」
「……なるほど!」
詩音は感心したように頷いた。
「前の二号って、グレネードを付けるたびに面倒そうにしてましたもんねぇ」
「そうなんだよ! あれじゃ戦ってる最中に交換できねえからな!」
「ふふっ。ようやく実用的になったわけですね」
「……おい! 前のだって十分実用的だっただろ!?」
圭一が抗議すると、詩音は楽しそうに笑った。
一方、葛西は装置を見つめながら、静かに頷いた。
「……なるほど。確かに、これなら使える装備の幅が広がりますね。ただし、交換用のカートリッジを持ち歩かなければならないことに変わりはありません」
「……そうですね。そこはまだ課題です」
圭一は素直に認めた。しかし、二号と比べれば、戦闘中の使い勝手は格段に向上している。
少なくとも、昨日よりは柔軟に戦えそうだった。
「……へへっ。なかなかいい感じだぜ!」
「……そうですねぇ」
詩音は微笑んだ。しかし、すぐに少し真面目な表情へ戻った。
「でも、圭ちゃん。明日は戦いに行くわけじゃありませんからね?」
「……分かってるって。目的は研究所の調査だろ?」
「ええ。ですから、今日はもう一つ、確認しておきたいものがあるんです」
詩音はそう言って、鞄から一枚の折り畳まれた紙を取り出した。
「……昨日話していた、研究所の図面ですよ」
そう言って詩音が取り出したのは、大きく折り畳まれた一枚の紙だった。
「おおっ!? もう手に入ったのか!?」
「ええ。葛西さんに、以前あそこの工事に関わった業者さんへ問い合わせてもらったんです。もっとも、詳しい設計図までは残っていなかったみたいですけどね」
詩音が倉庫の机へ紙を広げると、そこには鹿骨総合生体科学研究所の敷地と、幾つもの建物の配置が描かれていた。
「……でっけえなぁ」
圭一は思わず呟いた。改めて図面で見ると、研究所の規模は想像以上だった。正門から続く道路の先には大きな本館があり、その奥にも複数の建物が並んでいる。
「こっちが正面玄関のある本館ですね。明日の社会見学で使われる展示施設も、この辺りにあるみたいです」
詩音は図面の手前側を指差した。
「それで、奥にあるのが研究棟。さらに、その横に設備関係の建物があるそうです」
「……へえ。こんなに分かれてんのか」
「ええ。ただし、これは建設当時の大まかな配置図ですからね。現在の内部構造まで正確に分かるわけじゃありませんし、地下施設についても何も載っていません」
圭一は腕を組み、図面を眺めた。
「……じゃあ、どこに例の研究資料があるかまでは分かんねえか」
「そうですねぇ。そもそも、あそこで怪しい研究をしているという確証も、まだないわけですから」
「……まあ、そうなんだけどさ」
圭一は図面の奥へ目を向けた。
「でも、この研究棟ってやつは気になるな。普通に考えりゃ、医学とか生体材料の研究もそこでやってるんだろ?」
「その可能性はありますね」
詩音は頷いた。
「ただ、一般公開される本館と違って、研究棟の方は見学の予定に入っていないみたいなんです」
「……なるほどなぁ」
「ですから、明日はまず見学できる範囲で情報を集めましょう。研究棟がどんな建物なのか、公開されている研究内容と合わせて確かめるんです。そこから先は、現地で見たものを踏まえて考えるしかありません」
圭一は研究棟の位置を指で示した。
「……とりあえず、調べるならこの辺りからってことか」
「ええ。でも、圭ちゃん。くれぐれも無茶はしないでくださいよ? 研究所の中がどうなっているかなんて、私たちにも分からないんですから」
「……分かってるって!」
圭一は笑った。しかし、詩音はなおも心配そうな顔をしていた。
「それに、明日はキャプテン・トミタケさんもいらっしゃるんでしょう?」
「……ああ。そういや、あいつも来るんだったな」
圭一は顔をしかめた。テレビで見た、巨大な瓦礫を軽々と持ち上げる男。国家公認の英雄として称賛されているキャプテン・トミタケが、あの研究所と深い関係を持っていることは確かだった。
「……ま、できれば鉢合わせしたくねえな」
「ふふっ。向こうも、圭ちゃんが来るなんて思ってないでしょうけどね」
「そりゃそうだろ。俺は社会見学に行くだけなんだからな!」
「……本当ですかぁ?」
「……ったく、信用ねえなぁ!」
圭一は苦笑した。詩音と葛西も小さく笑ったが、机の上に広げられた図面を見れば、明日の調査が決して簡単なものではないことは明らかだった。
それでも、少なくとも手掛かりは得られた。
圭一はもう一度、研究棟の位置へ目を向けた。
§
その日の夜。圭一は自室の机に向かい、最後の準備を進めていた。ベッドの上には、修理を終えた赤と青のスーツが広げられている。肩や脇腹のほつれを直し、新しいウェブシューターを装着しても袖が引っ掛からないことを確かめると、圭一は満足そうに頷いた。
「……よし。これで準備完了だな」
机の上には、昼間に確認した研究所の配置を簡単に写し取ったメモが置かれていた。正面の本館と、その奥の研究棟。詳しい内部構造は分からないが、少なくとも明日、何を確かめたいのかは決まっていた。
そして、もう一つ気になることがあった。
鷹野三四。
以前、ダム湖で出会った研究者。圭一の実験について親身になって話を聞き、科学の面白さを語ってくれた女性だった。彼女が所長を務める研究所に、本当に何か秘密があるのだろうか。
「……鷹野さん、か」
圭一は小さく呟いた。
あの時の笑顔が嘘だったとは思いたくない。しかし、だからといって、何もかも信用していい理由にはならなかった。
「……まあ、確かめなきゃ分かんねえよな」
圭一はノートを閉じ、畳んだスーツを鞄へ収めた。
明日の目的は、鹿骨総合生体科学研究所と、北条鉄平や間宮律子との関係を調べること。可能であれば、人体強化研究に関する手掛かりも得たい。
「……よし」
圭一は鞄へ目を向け、にやりと笑った。
「今度こそ、何か掴んでやるからな」
§
翌朝、六月三日。
ダム湖の周辺には初夏の陽光が降り注ぎ、山々の緑が鮮やかに輝いていた。その山間に建つ鹿骨総合生体科学研究所へ、一台のバスが近づいていく。興宮総合学園の校外学習用のバスだった。
研究所の正門には職員たちが集まり、見学者を迎える準備を進めていた。その中には、赤と白を基調としたスーツに身を包み、円形の盾を持ったキャプテン・トミタケの姿も見える。
「……おお。本当にいやがる」
研究所から少し離れた山の斜面。木々の間に身を潜めた圭一は、眼下の光景を眺めながら呟いた。
赤と青のスーツに、白いレンズのついたマスク。両手首には、昨日完成させたばかりのウェブシューター三号が装着されている。
圭一はポケットの中に入れた配置図のメモを確かめると、再び研究所へ目を向けた。正門の奥には一般公開される本館があり、その背後には、昨日の図面で確認した研究棟が建っている。
「……あっちか」
まだ、何があるのかは分からない。だが、鉄平やリナの事件に繋がる手掛かりが、あの建物のどこかに残っているかもしれなかった。
圭一は両手首の装置を軽く動かし、ゆっくりと息を吐いた。
「……よっしゃ」
そして、研究所の奥へ視線を向けた。
「それじゃあ、スパイダーマンの社会見学といきますか!」