人間がするようなことではない。
「……俺、何してんだ?」
圭一の顔から笑みが消えた。右手を見る。左手を見る。壁に吸い付いている。昼間、沙都子の髪を離せなかったのも、これだったのか。胸の奥に重いものが戻ってくる。
「……これのせいで、沙都子の髪……」
楽しい。確かに、少しだけ楽しい。だが同時に、怖かった。この力が何なのか分からない。いつからこうなったのかも分からない。そして一歩間違えば、自分以外の誰かを傷つける。
圭一はゆっくりと壁を下りた。今度はさっきまでのような面白半分ではなく、一つ一つの動きを確かめるように慎重に手足を動かす。
床へ戻る。両足がついた瞬間、妙な安心感があった。
圭一はその場に座り込み、しばらく自分の掌を見つめていた。
「……なんなんだよ、これ」
答える者はいない。ただ部屋の上の方では、昨日自分を噛んだ蜘蛛が作った細い巣だけが、夕日の光を受けて僅かに揺れていた。
圭一の視線が止まる。
蜘蛛。
昨日、引っ越してきたばかりの部屋で手の甲を噛んだ、あの黒い蜘蛛。確かに柄や色合いは珍しい。ただ、大したことはないと思って、そのまま逃がした。
そして翌日には、手が物に張り付き、壁まで登れるようになっている。
いくらなんでも、偶然で片付けるには出来すぎていた。
「……まさか、あいつか?」
圭一は手の甲を見る。噛まれた場所には、まだ小さな痕が残っていた。
巣が残っているなら、まだ部屋のどこかにいるかもしれない。少なくとも、原因を考える材料にはなる。圭一は立ち上がり、天井近くへ視線を向けた。細い糸を辿っていくと、壁と天井の境目に小さな黒い影が見えた。
「……いた」
昨日の蜘蛛だった。
圭一は机の上に置いてあった透明な小物入れを手に取る。殺すつもりはなかった。ただ、このまま部屋の中を好き勝手に歩き回らせる気にもなれない。
「悪いけど、ちょっと捕まってもらうぞ」
椅子を持ってこようとして、圭一は一度手を止めた。必要ない。
さっき、自分は壁を登っていた。
何とも言えない顔で壁を見る。まだ慣れない感覚だったが、掌を押しつけると、やはりぴたりと吸い付いた。
圭一は小物入れを片手に、ゆっくりと壁を登っていく。さっきより慎重に、だが動きそのものはすでに少し滑らかになっていた。蜘蛛との距離が縮まる。
「よし……動くなよ」
小物入れを近づけた瞬間、蜘蛛が動いた。壁を横へ走り、そのまま巣を伝って天井の隅へ逃げていく。
「うわ、速っ!」
圭一も慌てて追う。しかし指先が届く寸前、蜘蛛は壁と天井の僅かな隙間へ身体を滑り込ませ、そのまま見えなくなった。
「……逃げやがった」
圭一は隙間を覗き込んだが、暗くて何も見えない。
仕方なく床へ下りる。蜘蛛が消えた場所の真下には、本棚が置かれていた。ひょっとすると、隙間を通ってその裏へ降りたのかもしれない。
圭一は本棚の横へ回り込んだ。
かなり重い。教科書や漫画も詰まったままで、一人で簡単に動かせるようなものではない。だが、少しだけ前へずらせば後ろを確認できる。圭一は右手を本棚の側面に掛け、そのまま引いた。次の瞬間、本棚が一気に動いた。
「うおっ!?」
予想していた重さがまるでなかった。大きな棚が床を滑り、勢い余って手前へ傾く。圭一は反射的に腕を伸ばした。倒れかけた本棚が止まった。片手だった。
「……え?」
圭一はしばらく動けなかった。教科書も漫画も入ったままの本棚を、右腕一本で支えている。それなのに、腕が震える様子もない。
慌てて両手を添え、本棚を元の位置へ戻す。
今度は意識して力加減を確かめるように押した。それでも簡単に動いた。圭一の表情が変わる。壁に張り付くこととは、また違う異常だった。
「……嘘だろ」
試しに本棚の下へ指を掛け、ほんの少しだけ持ち上げてみる。床から浮いた。圭一はすぐに下ろした。重い音が部屋に響き、慌てて廊下へ目を向ける。母親が来る様子はない。
圭一はもう一度、自分の手を見た。昨日までなら、こんなことは出来なかった。壁を登れるようになっただけではない。身体そのものまで、何かが変わっている。視線が再び、蜘蛛の消えた天井へ向く。
「……やっぱり、あいつなのか?」
偶然とは思えなくなってきた。蜘蛛に噛まれた。その翌日から、身体がおかしくなった。体調も変だったし、少なくともその二つが無関係だと考える方が難しい。圭一はベッドの端へ腰を下ろした。掌を開いたり閉じたりしながら、さっき動かした本棚を見る。壁に張り付く。力が強くなっている。なら、他にも何か変わっているのかもしれない。そこまで考えたところで、圭一は少しだけ黙った。怖さは残っている。
だが、それとは別に、どうしても抑えきれない好奇心もあった。
「……少しくらいなら、確かめてもいいよな」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
そのとき、階下から母親の声が響いた。
「圭一ー、ご飯できたわよー!」
「っ!」
圭一は反射的に本棚から距離を取った。別に見られているわけでもないのに、悪いことをしていたところを見つかったような気分になる。
「今行く!」
大きな声で返し、もう一度だけ自分の掌を見る。壁を登った。重い本棚まで簡単に動かした。
考えることは山ほどあったが、夕飯を抜いてまで悩み続ける気にはなれない。
「……まあ、飯食ってからだな」
部屋を出ようとして、ドアノブへ手を掛ける。その瞬間、圭一は少しだけ躊躇した。さっきの本棚を思い出したからだ。恐る恐る、指先だけでドアノブを回す。
普通に開いた。
「…………」
我ながら馬鹿らしくなり、そのまま階段を下りた。
食卓では、いつも通りの夕食が待っていた。母親からすれば、今日の圭一が学校で沙都子の髪を切る大騒動を起こし、そのうえ自室の壁を這い回り、本棚を片手で支えていたなど知る由もない。
圭一も当然話さなかった。
ただ、いつものように箸を持つだけでも妙に気を遣った。握り潰すわけがないとは思いつつも、どこまで力を入れていいのか分からない。湯呑みを持つ手にも、自然と余計な慎重さが入る。
「圭一、どうしたの?」
「え?」
「さっきからご飯を食べるのに、ずいぶん真剣な顔してるけど」
「……いや。今日の米、一粒一粒を噛み締めて食おうかと思って」
母親が怪訝そうな顔をする。
「急にどうしたのよ」
「食への感謝に目覚めたんだよ。思春期ってそういうもんだろ」
「初めて聞いたわよ、そんな思春期」
何とか誤魔化し、圭一は味噌汁へ手を伸ばした。
そのときだった。
母親の肘が、テーブルの端に置いてあったスプーンへ僅かに触れた。銀色のスプーンが転がり、床へ落ちる。
はずだった。
カシャン、と鳴るより前に、圭一の右手が動いていた。
「…………」
テーブルの下。
圭一の指の間に、落ちたはずのスプーンが挟まっている。
母親が目を丸くした。
「あら、すごい。よく取れたわね」
「……あ、ああ」
圭一自身も、どうやって取ったのか分からなかった。
落ちるのを見た。それは間違いない。だが「取ろう」と考えるより先に、身体が勝手に動いていた。
「反射神経よかったかしら、圭一って」
「……今日からよくなったのかもな」
「何それ」
母親は笑ったが、圭一は笑えなかった。
また一つ増えた。
壁に張り付く。異常な力。そして、今の反応速度。
食事を終えて部屋へ戻ってからも、圭一はしばらく掌を見つめていた。しかし、むやみに家の中で試す気にはなれなかった。本棚のようなことがもう一度起きれば、今度こそ何かを壊しかねない。
結局、その日は蜘蛛をもう一度探しただけで終わった。もちろん見つからなかった。
そして翌日。
興宮総合学園へ登校した圭一を待っていたのは、本人にとって最悪とも最高とも言い難い偶然だった。
体力測定である。
「……マジかよ」
校庭へ並んだ測定器具を見ながら、圭一は呟いた。
昨日なら何とも思わなかった。むしろ身体を動かすのは嫌いではない。だが今は事情が違う。自分の身体がどこまでおかしくなっているのか、本人ですら分かっていない。
隣では魅音が楽しそうに肩を回していた。
「どうしたの圭ちゃん。まさか運動苦手?」
「誰がだ。こう見えて俺は文武両道の万能美少年だぞ」
「圭ちゃんって、自分で美少年って言っちゃうんだ」
魅音がニヤニヤと笑みを浮かべる。
「圭一くん、昨日転校してきたばっかりなのに元気だね。はぅ」
「そこだけが取り柄なんですのね」
沙都子の一言に、圭一の眉が跳ねた。沙都子は何とか機嫌を取り戻したらしい。圭一のすべてを許したわけではないが。
「おい沙都子。昨日の件があるからって、今日まで俺が大人しくしてると思うなよ?」
「髪をむしった人が随分偉そうですわね」
「ぐっ……!」
そこを突かれると何も言えなかった。
最初の種目は握力だった。
圭一は順番を待ちながら、前の生徒たちが測定器を握るのを眺めていた。
三十七、四十二、四十五。
教師が数字を読み上げるたび、周囲から「おお」とか「普通じゃん」とか、好き勝手な声が飛ぶ。圭一はそれを聞きながら、何度も自分に言い聞かせていた。力を入れすぎるな。本棚を動かしたときの感覚からして、本気で握るのはどう考えてもまずい。名前を呼ばれ、測定器を受け取る。
「前原、思い切り握っていいぞ」
教師がそう言った。
それが一番困る。
「……先生、本当に?」
「何だ?」
「いや、壊しても弁償とかないですよね?」
「何を馬鹿なこと言ってる。いいからやれ」
周囲から笑いが起きた。
「圭ちゃん、握力計にビビってんの?」
魅音まで面白そうに言ってくる。
「うるせえ。俺は道具を大切にする心優しい男なんだよ」
軽口を返しながら、圭一は握力計を構えた。
少しだけ。
本当に、少しだけ力を込める。
ぎゅっ、と握った瞬間だった。
針が跳ねた。
「四十……五十……」
教師の声が止まる。針はいつまで経っても止まらない。誰かが固唾を呑んだときか、圭一が力を抜いたのか、よく分からないまま握力計を離す。
「……八十二?」
「は?」
思わず圭一も測定器を覗き込んだ。
八十二キロ。
一瞬、見間違いかと思った。
周囲の笑いも止まっている。
「前原、お前……今、本気でやったのか?」
「いや……まあ、それなりに?」
嘘だった。
むしろ、かなり抑えた。
教師は眉を寄せ、握力計を一度確認した。
「もう一回やってみろ」
「え、いや、俺はもう十分――」
「いいから」
仕方なく構え直す。
今度はさっきよりさらに力を抜いた。
壊すな。絶対壊すな。
指先に力を入れる。
「……七十六」
また周囲がざわついた。
さっきより低い。
だが、それでもおかしい。
「圭ちゃん、何それ」
後ろから魅音が覗き込んでくる。
「知らねえよ。俺が聞きたい」
「前原、お前、何かスポーツやってたのか?」
「いや、特には……」
東京にいた頃だって、こんな握力はなかった。以前ならせいぜい人並みだったはずだ。
教師は少し首を傾げたあと、
「……もう一度。今度はちゃんと力入れてみろ」
と言った。圭一は嫌な予感がした。
「先生、今のでも結構やりましたけど」
「二回とも数字が違いすぎる。ちゃんと測らないと記録にならん」
その言い方に、少しだけ意地になった。別に本気を出すつもりはない。ほんの少し。さっきより少しだけ強く握ればいい。圭一は息を吐き、握力計を握った。針が一気に上がった。
八十。
九十。
「お、おい――」
さらに上がる。
百。針が端にぶつかった。
ガンッ、と小さな音がした。
「…………」
圭一は固まった。握った手には、まだ余裕があった。むしろそこで初めて気づいた。
――まだ、全然力を入れていない。
慌てて手を離す。
「前原! もういい!」
教師が握力計を取り上げた。周囲がしんと静まり返っている。圭一は自分の右手を見た。痛くもない。指も震えていない。本当に、ただ軽く握っただけだった。
「……圭ちゃん?」
魅音が横から顔を覗き込む。
「違う」
「まだ何も言ってないけど」
「これは俺じゃない。器具が古かった。うん、絶対そうだ」
「でも圭一君、針、一番端まで行ってたよね……?」
レナまで不思議そうに言う。
「レナ。世の中には知らなくていい真実があるんだ」
「前原」
教師が低い声で呼んだ。圭一は恐る恐る振り返る。
「次からは先生が止めたらすぐ離せ」
「……はい」
周囲から遅れてどっと声が上がった。
「百って何だよ!」
「握力計壊す気か!」
「ゴリラじゃん!」
「誰がゴリラだ!!」
反射的に言い返したものの、圭一自身は笑えなかった。
百キロ。握力計の上限。それでも、自分の手には余裕があった。本棚を軽々動かしたときとは、また違う感覚だった。どこまで力を入れれば、本気になるのか。それが、自分でも分からない。
そしてこの日。圭一にとって本当の悪夢は、ここから始まった。
握力は、まだ最初の種目に過ぎなかった。
五十メートル走。
スタートの合図と同時に地面を蹴った瞬間、身体が前へ飛び出した。景色が一気に後ろへ流れ、本人が驚いて速度を緩めたにもかかわらず、ゴールへ着いたときには教師が時計を見つめたまま動かなくなった。
立ち幅跳びでは、軽く跳んだつもりが測定用の場所を大きく越えた。
「うおっ!?」
着地した本人が一番驚いた。
ソフトボール投げではさらに悲惨だった。当然今までのとんでも記録のことを思い出して加減したにもかかわらず、放たれたボールは高々と空へ舞い上がり、校庭の奥まで飛んでいった。
全員がその軌道を見送る。
しばらくして、魅音が口を開いた。
「……圭ちゃんさ」
「言うな」
「何者?」
「俺が聞きたい」
冗談ではなかった。
午後には、昨日まで「新しく来た転校生」程度だった前原圭一の名前が、妙に広まっていた。
廊下を歩けば顔を見られる。別のクラスの生徒まで噂している。教師からは運動部の経験を聞かれ、上級生からは何部に入るつもりなのかと声を掛けられた。
何の実績もない転校生だったはずが、一日で学校中から注目されてしまった。
当の圭一本人は、嬉しいというより困惑していた。
身体能力まで明らかに変わっている。力だけではない。走る速度も、跳ぶ高さも、身体の動きそのものも昨日までとはまるで違う。
原因は、もうほぼ決まっている。あの蜘蛛だ。
問題は、どうして蜘蛛に噛まれただけでこんなことになるのかだった。
放課後。帰ろうとしていた圭一の肩へ、後ろから腕が回された。
「圭ちゃーん。ちょっといいかな?」
声を聞くだけで嫌な予感がした。
「……何だよ魅音」
振り向くと、魅音の隣にはレナがいる。その少し後ろには梨花と沙都子までいた。
「いやあ、今日の活躍を見てね。おじさん、ぜひ圭ちゃんには我が部に入っていただきたいなーと」
「部?」
「そう。我が校最強にして最恐の部活!」
魅音が胸を張る。圭一は周囲を見る。レナ。梨花。沙都子。
どう見ても運動部の構成ではない。
「……何部なんだよ」
魅音がにやりと笑った。
「それは来てからのお楽しみ」
「絶対ろくでもねえだろ」
結局、半ば引きずられるように教室へ連れて行かれた。そこで圭一が見せられたのは、ボールでもラケットでもない。
トランプだった。
「…………」
机の中央に置かれたカードを見て、圭一はゆっくり魅音へ顔を向けた。
「おい」
「何かな?」
「今日の俺の体力測定を見て、なんでトランプに勧誘するんだよ」
「強い奴と勝負するのが部活だから!」
「競技が違いすぎるだろ!」
レナが笑い、梨花も楽しそうに「にぱー☆」と微笑んでいる。沙都子だけはすでに勝ち誇った顔をしていた。
「圭一さん程度、わたくしが簡単に叩き潰して差し上げますわ」
「上等だ! カードゲームなら身体能力なんか関係ねえ。昨日今日来た俺に負けて泣くんじゃねえぞ!」
そうして始まった、圭一にとって初めての部活。
最初のゲームはジジ抜きだった。
ルール自体は簡単だ。一枚だけカードを抜いた状態で配り、同じ数字の組を捨てていく。最後まで組にならない一枚――ジジを持っていた者が負け。
ゲームが進み、圭一の手札も少なくなっていった。いや、少なくなったというより、明確に圭一以外にカードが次々と切られていく。圭一も減っていはいたが、なぜか自分の減りだけおかしいと気付いた圭一。そのタイミングで、圭一が引く番になった。
対面にいるのは魅音。
「さあ圭ちゃん。好きなのをどうぞ」
魅音がカードを扇状に広げる。その顔が腹立たしいほど笑っていた。
「その顔……絶対何か企んでるだろ」
「えー? おじさん何にも知らないよ?」
絶対嘘だ。圭一は魅音の手札へ手を伸ばした。
右端。
取ろうとした、その瞬間だった。
ぞくっ。
「……?」
首筋に、妙な感覚が走った。
寒気とは少し違う。身体の奥から「そっちはまずい」と言われたような、意味の分からない感覚。圭一の指が止まる。
魅音の目が、ほんの僅かに動いた。
「…………」
圭一は右端から手を離し、隣のカードへ移した。
すると、さっきの妙な感覚が消えた。
「……?」
試しにもう一度、右端へ指を戻す。
ぞわっ。
また来た。
圭一は眉を寄せた。
何だこれ。
魅音を見る。目が笑っている。
だが、さっきまでより若干ぎこちない。
「……へえ」
「な、何かな圭ちゃん?」
圭一は右端を避け、その隣の一枚を抜いた。
数字を見る。
自分の手札と組になる。
「よし!」
「なっ!?」
魅音が露骨に悔しそうな顔をした。
圭一はカードを捨てながら、もう一度だけ魅音の右端を見る。
さっきまでそこにあった一枚。
理由は分からない。
だが、あれを取ってはいけないと身体が知っていた。
「…………」
圭一は自分の指先を見た。
壁に張り付く。
怪力。
異常な脚力と反射神経。
そして今の、わけの分からない感覚。
昨日までの自分の身体には、一体何が起きているのか。
そんな圭一の思考を、沙都子の声が打ち切った。
「圭一さん! ぼーっとしている暇はありませんことよ!」
「おっと」
圭一は顔を上げる。
今は考えても仕方がない。
それより――。
「いいぜ。何だか知らねえけど、今日の俺は絶好調らしいからな!」
「その余裕、いつまで続きますかしら!」
騒がしい声が教室に響く。
このときの圭一はまだ知らなかった。
ジジを引くかどうか程度の小さな違和感が、いずれ自分の命を何度も救うことになるなど、知るはずもなかった。