あれから、二週間が経った。
最初の数日は、自分の身体が自分のものではなくなったような気味の悪さがあった。壁へ手を置けば吸い付き、少し力を入れれば重い家具まで簡単に動く。学校の体力測定では加減したつもりで握力計を壊しかけ、走れば周囲が驚くほどの記録を出した。
だが、人間というものは案外慣れるものらしい。圭一もこの妙な身体との付き合い方を少しずつ覚えていた。
自室の隅には、引っ越してくる前から使っていた十キロのダンベルが二つ置かれている。以前なら片手で何度も持ち上げればそれなりに腕へ効いていたものだが、今となってはほとんど重さを感じない。
「……やっぱ軽いな」
左右の手に一つずつ持ち、そのまま何度か上げ下げする。腕に疲労感すらない。だからといって限界を確かめるために家の家具を片っ端から持ち上げるほど馬鹿でもなかった。少なくとも、本棚を倒しかけた一件で、力加減だけは覚えた。
今度はベンチプレス台でベンチプレスをやってみる。いつもなら五十キロ代の重量が限界だった。試しに、大きめの二十五キロのプレートを四枚取り付ける。
「百キロか。普通の俺なら、すぐ潰れて終わりだけど……」
正確にはバーの重さもあるので、それ以上になる。だが今の圭一にとって、そんな細かい差は大して重要ではなかった。
ベンチに仰向けになり、バーベルを握る。
一応、少しだけ緊張した。
百キロを超える重量が胸の上にある。いくら身体がおかしくなったとはいえ、もし思ったほど力が強くなっていなければ笑い話では済まない。
圭一はラックから慎重にバーを外した。
「……ん?」
両腕を伸ばしたまま、動きが止まる。
重い。
確かに重さは感じる。
だが、それだけだった。
以前六十キロを持ったときには、腕から肩、胸まで一気に力を込めなければ支えられなかった。それが今は、少し重い鞄でも持っている程度の感覚しかない。
圭一はゆっくり胸元まで下ろし、そのまま押し上げた。
すっと上がった。
「…………」
もう一度。
下ろす。
上げる。
今度は少し速く。それでも簡単に持ち上がった。
「軽っ……」
思わず声が漏れた。
五回。十回。
回数を重ねても腕に疲労が来ない。それどころか、まだ本気で力を入れている感覚すら薄かった。
圭一は一度バーをラックへ戻し、上体を起こした。
「いや、待て待て」
目の前にあるプレートを見る。
二十五キロが四枚。それだけで百キロ。そこにバー自身の重さまで加わっている。
以前なら、そもそもラックから外すこと自体を躊躇する重量だ。
それを今は十回持ち上げても、息一つ乱れていない。
圭一は自分の腕を見る。見た目が急に太くなったわけではない。筋肉は以前から多少ついていたが、昨日までと大きく変わったようには見えなかった。
なのに、出せる力だけが明らかに違う。
「……どこまでいけんだ、これ」
興味が湧いた。
余っているプレートへ手を伸ばしかける。
だが、そこで止まった。
本棚を動かしたときのことを思い出したからだ。
自分の限界を試す前に、今度はこのベンチやバーの方が壊れるかもしれない。そもそも家庭用の器具で、人間離れした力を測ろうというのがおかしい。
「……やめとくか」
少し惜しかったが、圭一はプレートを外し始めた。
限界は分からない。
だが、少なくとも百キロ程度では話にならない。
それだけ分かれば十分だった。最後のプレートを床へ置き、圭一は改めて右手を握った。壁に張り付く。異常な反射神経。妙に早い傷の治り。そして、今の怪力。二週間前までなら、全部漫画の中の話だった。
「……マジでどうなってんだよ、俺の身体」
そう呟きながらも、その表情には最初の頃ほどの恐怖はなかった。むしろ、少し笑っていた。怖くないわけではない。ただ、それ以上に知りたくなっていた。自分はどれだけ速く走れるのか。どれほど高く跳べるのか。この力を、本気で使えばどこまで出来るのか。
そして何より――この力を、何に使えるのか。
そこまで考えたところで、圭一は僅かに目を細めた。そして、変わったのは筋力だけではない。体育でついた擦り傷は翌日にはほとんど消え、筋肉痛も以前より明らかに早く引いた。壁や天井へ張り付くのも、今では意識すれば簡単にできる。
もう一つ。不意に首筋や後頭部の辺りへ走る、妙なむず痒さ。
ジジ抜きで外れの札を引きそうになったとき。飛んできたボールが背後から頭へ当たりそうになったとき。階段で前を歩いていた生徒が突然転びそうになったとき。
理由は分からない。ただ、何か良くないことが起きる少し前になると、身体の方が先に反応した。
圭一はそれを勝手に「むずむず」と呼んでいた。
能力なのかどうかすら、まだ分からない。それでも、あの日蜘蛛に噛まれて以来、自分の身体が普通ではなくなったことだけはもう疑いようがなかった。
その蜘蛛自体は、ギリギリ捕まえられた。今は、小瓶の中に捕まえたまま。蜘蛛はそこに巣を張ったまま暮らしている。
だが、代わりに妙なものが残っていた。部屋の天井近くに作られていた蜘蛛の巣である。
最初は掃除しようとしただけだった。二週間も放置していた巣など、指で払えば簡単に切れると思っていた。しかし、摘まんで引いた糸は予想以上に粘り、簡単には千切れなかった。
「……何だこれ」
少し強く引く。伸びる。それでも切れない。普通の蜘蛛の糸とは明らかに違った。壁を登れる自分。異常な身体能力。そして異常な糸を作る蜘蛛。
もはや偶然と考える方が難しかった。
圭一は残っていた糸を少量だけ保存した。調べる設備も知識もない。だが、その妙な強度と粘着性には妙に惹かれるものがあった。
それが何に使えるのか。その時点では、まだ分からなかった。
きっかけになったのは、ある朝だった。
食卓のテレビから興宮のニュースが流れていた。ここ数年で急速に人口が増えた街では、商店やビルが次々と建つ一方、窃盗や恐喝、不良同士の揉め事も増えているらしい。
昨夜も駅の近くで店員を脅して金を奪った男たちが逃走中だという。
母親が嫌そうに眉を寄せた。
「嫌ねえ。これだけ発展したのに、不良だの強盗だのまで増えるなんて。圭一も夜に変なところ歩かないでよ?」
「分かってるって」
そう答えながら、圭一はテレビを見ていた。
以前なら、それで終わっていた。
強盗を見かけたって警察を呼ぶ。何人もの不良に囲まれれば逃げる。それが普通だった。
だが今なら。圭一は自分の手を見る。
力がある。速く走れる。相手の攻撃も、妙なむずむずのおかげで避けられる。
だったら――。
「……俺なら、止められるんじゃねえか?」
最初は、それだけだった。世界を救おうなどとは考えていない。正義の味方になろうとも思っていない。ただ、自分なら今まで出来なかったことが出来るかもしれない。
――大いなる力には、大いなる責任が伴う。
東京にいた頃、一度だけ母から言われた言葉だった。
あの時は、こんな大層な話ではなかった。少しばかり頭が回って、人より口が立つ。それをいいことに、自分の力を振り回しかけた圭一を母が叱った。ただ、それだけの話だったはずだ。
なのに今、その言葉だけが妙にはっきりと思い出された。
圭一は自分の掌を見る。あの頃とは比べものにならない、本当の意味での「力」だった。
「……責任、か」
母が今の自分を見たら、何と言うだろう。
やめなさい、と叱るだろうか。それとも――。
結局、その日の夜、圭一は黒いパーカーと動きやすいズボンを身につけ、顔には家にあった布を加工した簡単な覆面をつけた。
鏡を見る。
「…………」
どう見ても怪しかった。
「いや、犯罪者捕まえる前に俺が職質されるだろ、これ」
だが顔を出して歩き回るよりはマシだった。
こうして前原圭一の、最初の夜回りが始まった。結果から言えば、拍子抜けするほど簡単だった。
裏路地で学生から金を巻き上げようとしていた三人組を見つけた。少し離れた場所から声を掛けると、当然のように囲まれた。
そして数十秒後。
「……え」
最後に残った男が、地面へ座り込んで圭一を見上げていた。
圭一自身も困惑していた。
拳が遅い。身体の動きが分かる。避けようと思う前に避けられる。それどころか、少し押しただけで相手が数歩も後ろへ下がってしまう。
こんなに違うのか。
「もうやめとけよ。次は警察な」
できるだけ低い声を出してみたが、覆面の下では笑いを堪えるので精一杯だった。
初めて人を助けた。それだけなのに、身体の奥が妙に熱かった。
それから圭一は、何度か夜の興宮を歩くようになった。不良同士の喧嘩。酔った男の暴力。窃盗。最初こそ緊張していたが、今の圭一の身体能力なら、大抵の相手にはどうにかなった。
拳が飛んでくれば避けられる。掴まれても振りほどける。逃げられても追いつける。
自分でも驚くほどだった。
だが、相手がいつまでも素手とは限らない。
ある夜、路地裏で男を追い詰めたときだった。相手が懐へ手を入れた瞬間、首筋に強烈なむず痒さが走った。
圭一は反射的に横へ跳ぶ。
直後、男の手に刃物が光った。
「うわっ……!」
避けられた。
次も、その次も。
男が腕を振るたびに、例のむずむずが先に危険を知らせてくれる。攻撃そのものも、圭一の目には以前よりずっと遅く見えた。
それでも、気軽に近づけるものではなかった。
相手を殴り倒すだけなら簡単かもしれない。だが、今の力で加減を間違えればどうなるか分からない。かといって、刃物を持っている手へ素手で飛び込むのも気が進まない。
結局、その夜は隙を見て腕を掴み、どうにか刃物を落とさせた。
家へ戻った圭一は、ベッドの上へ寝転がりながら天井を見ていた。
「……もっと離れたところから、あれだけ取れねえかな」
相手の身体を傷つけず、手に持っている物だけ奪う。出来るなら、その方がずっといい。そこで視界に入ったのが、天井近くに残っている細い蜘蛛の糸だった。圭一は身体を起こした。
「……これか」
以前調べた時、普通の蜘蛛の糸とは比べものにならないほど丈夫だった。引っ張ってもなかなか切れず、何かへ触れれば妙に絡みつく。
だが、その時の圭一はそれ以上深く考えていなかった。丈夫な蜘蛛の糸。自分を噛んだ妙な蜘蛛が作る、妙な糸。その程度だった。圭一はしばらく糸と自分の手を交互に見ていた。
その日の夜から、試行錯誤が始まった。
最初にやったのは、実験ではなかった。調べることだった。
次の日、学校帰りに本屋へ寄った。蜘蛛の図鑑を一冊。それだけでは足りず、別の日には図書館へ行った。
日本に生息する蜘蛛についての本。巣の張り方を扱ったもの。獲物を捕らえるための粘着糸と、蜘蛛自身が移動するための糸の違い。腹部にある糸を作る器官。一本に見える糸が、実際には用途ごとに性質の異なるものだということ。
読み始めてみると、思っていたよりずっと複雑だった。
「……蜘蛛って糸一種類じゃねえのかよ」
自室で本を開いたまま、圭一は呟いた。
同じ蜘蛛でも、巣を支える糸と獲物を捕まえる糸では性質が違う。強さを優先するもの。伸びやすいもの。粘着するもの。それを知ってから、圭一は瓶の中の蜘蛛を見る目が少し変わった。
自分が保存していた糸にも、微妙な違いがあった。妙に伸びるもの。やたら切れにくいもの。指へ触れただけでしつこく張り付くもの。
「……こいつ、普通の蜘蛛と同じように作り分けてんのか?」
当然、蜘蛛は答えない。それでも調べる価値はありそうだった。そこから本は増えていった。蜘蛛だけではない。
生物の身体についての本。
筋肉や腱の仕組み。
繊維について。
合成樹脂について。
高分子という言葉が出てきたところで、圭一は完全に分からなくなり、今度は高校化学の参考書まで買った。机の上に開いた参考書を睨みながら、
「待て待て待て。何で蜘蛛調べてた俺が分子量とか溶解性とか読んでんだよ」
と一人で突っ込んだこともある。
だが、読めば少しずつ分かる。
物質は、ただ混ぜれば同じ性質になるわけではない。柔らかいもの。硬いもの。伸びるもの。
溶けるもの。固まるもの。圭一が欲しいのは、そのどれか一つではなかった。
軽くて、切れにくく、ある程度伸びて、しかも先端だけは物へ食いつく。蜘蛛の糸そのものを大量に使えば一番早い。
だが、それはすぐに諦めた。
「……足りねえ」
瓶の中の蜘蛛を見る。いくら特殊でも、一匹の蜘蛛が作れる量など知れている。夜の街で何度も使える長さを、この蜘蛛一匹に作らせるなど無理がある。
そこで圭一は考え方を変えた。
蜘蛛の糸そのものを使うのではなく、あの性質だけを何か別の材料へ移せないか。
そこからが長かった。
机の引き出しに、小さな容器やビーカーが増え始めた。
樹脂について調べ、溶剤について調べ、アセトンという名前も覚えた。何を混ぜればどうなる、という単純な話ではないこともすぐに分かった。粘るだけでは駄目。固まるだけでも駄目。硬ければ曲がらない。柔らかければ引っ張った時に耐えられない。
蜘蛛糸から採った僅かな素材を混ぜたり、表面へ利用したり、普通の繊維と組み合わせたり。もちろん専門家でもない圭一に、最初から狙ったものなど作れるはずがなかった。
一つ目は、乾いた途端に板のように硬くなった。
「……縄じゃねえな、これ」
二つ目は、柔らかかった。柔らかすぎた。引っ張ると伸びたまま戻ってこない。
「ゴム以下じゃねえか」
三つ目は、粘着力だけは強かった。強すぎた。
机へ置いたまま翌朝になると、下に敷いていた紙と一体化していた。
「…………」
しばらく見つめる。
「知らねえ。これはもう知らねえ」
その紙は今も机の隅に残っている。
そして何度か失敗するうちに、一つだけ妙なことへ気づいた。
蜘蛛から採った糸を細かくしたものや、その表面に残った成分を加えた試作品だけ、同じ材料でも僅かに性質が変わる。
伸び方が違う。
裂けにくい。
固まった後でも、引っ張れば一本の方向へ粘るように耐える。
理由は分からない。
圭一が持っている本にも、そんな蜘蛛の話など載っていなかった。
「……絶対普通じゃねえよな、お前」
瓶を覗く。
蜘蛛は今日も何も答えなかった。
それでも、使える。理屈が全部分からなくても、何度も試して共通する性質があるなら利用できる。
最初に実戦用として形になったのは、完全な人工糸ではなかった。
普通の丈夫な縄と溶剤をしみこませ、これを芯にする。
そこへ圭一が試していた繊維状の素材を組み合わせ、先端付近には蜘蛛糸を参考にした粘着性を持たせる。
見た目はまだ、ただの長い縄だった。
だが、以前より軽く、普通の縄より簡単には裂けない。何かへ絡めば、強く引いても外れにくい。圭一は完成した試作品を持ち上げた。
「……とりあえず、十三号」
机の横には、その前に作られた十二個の失敗作が転がっている。また、溶剤も親にバレないよう勝っていたので、空き箱が腐るほどあった。失敗したものは、名前をつけるほどのものでもない。
だが十三号だけは、ようやく使えそうだった。圭一は部屋の椅子を少し離れた場所へ置いた。
「よし……」
縄を振る。
一度目は外れた。
二度目も外れた。
三度目で、ようやく椅子の背へ絡みついた。
「おっ!」
圭一はそのまま腕を引いた。
椅子が床を滑り、一気に手元へ飛んでくる。
「うおっ!?」
慌てて受け止めた。
危うく自分の脛へ直撃するところだった。
「……もうちょい加減いるな、これ」
だが、使える。
その事実に、圭一の表情が変わった。
今度は空き箱。少し離れた鞄。それから、部屋の隅に置いてあった軽い道具。何度も失敗しながら、少しずつ狙った場所へ絡ませられるようになっていく。最初に考えていたのは、相手の持っている物を奪うためだった。
だが、試しているうちに別の使い方にも気づいた。数日後、圭一は人気のない場所で縄を手にしていた。
前方には太い柱がある。
「……いけるか?」
縄を投げる。先端が柱へ絡みついた。何度か引いて、外れないことを確認する。圭一は少し下がった。
そして走る。地面を蹴り、縄を握ったまま身体を宙へ投げ出した。
「うおおおっ!?」
予想以上だった。
自分の脚力に、縄を支点にした勢いが加わる。身体は地面を離れ、そのまま柱を中心に大きく弧を描いた。
一瞬だけ、足元から地面が消える。
風が頬を抜けた。
圭一は慌てて近くの壁へ足をつけ、そのまま張り付いた。
「…………」
数メートル下に地面がある。
ゆっくり顔を上げる。
さっきまで立っていた場所が、思った以上に遠かった。
「……すげえ」
思わず笑みが浮かぶ。
壁を登るだけでも十分おかしかった。
だが、この縄を使えば、もっと速く、もっと遠くへ移動できる。
圭一はもう一度、別の場所へ縄を投げた。
今度は少し高い位置。
身体を蹴り出す。
一度目より滑らかに宙を横切る。
「ははっ!」
楽しかった。
子供の頃に高いところから飛び降りた時のような怖さと、それを上回る妙な高揚感。落ちても壁へ張り付けるという安心感もあって、何度か繰り返すうちに圭一の動きは少しずつ大胆になっていった。
もっとも、問題も多い。
縄そのものを持ち歩かなければならない。使った後は回収しなければならない。狙いを外せば何にもならないし、飛び移るたびにいちいち投げる必要がある。
それに何より、今の縄は完全に安定しているわけではない。
作るたびに僅かに硬さが違う。粘着する部分も一定ではない。
蜘蛛の糸を参考にしている以上、その材料にも限りがある。それでも、以前より出来ることは明らかに増えた。
圭一は手元の縄を見た。
「……これ、結構いけるんじゃね?」
まだ、ただの試作品だった。
後に圭一自身がこんなものを使っていたことを恥ずかしく思うほど、不格好で使い勝手も悪い。
それでも、この一本の縄が、壁を這うだけだった圭一に初めて「空中を移動する」という感覚を教えた。
そして同時に、それは圭一にもう一つの考えを芽生えさせていた。
もし、この長い縄を持ち歩かなくてもいい方法があるとしたら。
必要な時だけ、もっと細く、もっと長い糸を出せるとしたら。
その時の圭一には、まだ形すら思い浮かんでいなかった。
だが後に彼の両手首へ収まることになる装置の原型は、間違いなくこの頃から始まっていた。
そんなある日の夜だった。興宮の繁華街から少し外れた場所を歩いていた圭一の首筋に、突然あの感覚が走った。
「……?」
今までより強い。圭一は足を止めた。近くに人通りはない。表通りから一本入った細い路地。古い雑居ビルが並び、その奥から複数の男の声が聞こえていた。
圭一は音を立てないよう近づいた。数人の男が、一人の少女を囲んでいる。
緑色の髪。
「……あれは、魅音か?」
いつもの魅音の服装と違い、ノースリーブの白い服、ズボンではなく黒いスカートを着ていた。どうしたことか、この状況、男勝りな魅音でもまずいらしい。
魅音は壁際へ追い込まれていた。それでも怯えた様子を見せず、男たちを睨んでいる。
「お断りします。何度言わせれば分かるんです?」
「そう言うなよ。こっちだって仕事を紹介してやるって言ってんだ」
男の一人が笑った。
仕事という言葉とは裏腹に、まともな話ではないことくらい圭一にも分かった。周囲にいる連中の雰囲気も、これまで相手にした不良とは違う。
「薬の運びでもいい。店に出てもらってもいい。若いんだから使い道はいくらでもあるだろ?」
「……最低ですね」
魅音の表情が冷たくなる。男が苛立ったように腕を伸ばした。その瞬間だった。圭一の身体に、むず痒さが鋭く走った。考えるより先に手が動く。腰にまとめていた試作十三号号を放った。
白い糸を編み込んだ先端が男の手首へ絡みつく。
「なっ!?」
圭一が横へ引くと、伸ばされていた腕が大きく逸れた。男たちが一斉に振り返る。路地の入口。黒いパーカー。適当な覆面。そして手には、一本の奇妙なロープ。圭一は自分でも格好がついていないことくらい分かっていた。
だが、ここまで来て引き返す理由もない。
「女の子一人囲んで何やってんだよ。人数いないと何もできないのか?」
「誰だ、てめえ」
「俺は覆面蜘蛛男だ!」
「ちっ!ふざけてんのか、てめぇ!!」
男が何かを取り出そうとした。
圭一はロープを近くの柱へ放った。先端が絡みつく。強く引くと身体が前へ浮いた。
「うおっ――!」
予想していた以上の勢いだった。
圭一の身体が大きく弧を描いて路地を横切る。そのまま男たちの頭上を越え、反対側の壁へ足をつけた。
一瞬。
横向きのまま壁へ張り付く。
全員が固まった。魅音まで目を見開いている。圭一自身も少し驚いていた。
「……おお」
想像以上に上手くいった。
すぐに咳払いする。圭一は声を甲高く、魅音にバレないように高い声で話す。
「えーっと……とりあえず」
壁に張り付いたまま男たちを見下ろす。
「その子から離れてもらおうか」
路地に沈黙が落ちた。そして魅音は、自分を助けに現れたどう見ても怪しい覆面の少年を見上げながら、ゆっくりと目を細めた。
<雑談>
どれだけUAあるか確認したら、すごいですね。一時間当たりでたくさん見られてる...やっぱスパイダーマンってデカい存在やねんなと、身をもって実感した作者です。
あ、それと気づいた人も気づかなかった人もいると思いますが、明確にこっちの描写ミスで魅音の学校でのクラス、魅音はもうこの年で受験生ですから、圭一とは学年が違いますねぇ...
……はい。元々は普通に作者のミスです(笑)。
書き始めた時に原作の分校の感覚でそのまま二人を同じクラスにしてしまい、「いや、今作の興宮は普通に大きな学校なんだから、中二と中三が同じクラスなのはおかしくないか?」と後から気付きました。
そこで本作の興宮総合学園では、中学二・三年生については一部で「縦割りの生活学級(ホームグループ)」を採用している、という設定にしています。
ホームルームや昼食、清掃、学校行事などは二・三年生が同じ生活学級で過ごし、国語・数学・英語などの通常授業はそれぞれの学年に分かれて受けています。
なので圭一と魅音は「同じクラスの仲間」ではありますが、授業までずっと一緒というわけではありません。
完全に後付けではありますが、せっかくなので原作の分校にあった「年齢の違う子たちが同じ教室で過ごす雰囲気」を、規模の大きくなった興宮総合学園にも少し残す形にしました。
というわけで、中三の魅音が受験生なのに中二の圭一たちといつも一緒にいる理由は、こんな感じです。