「ちょっと、待ってください」
ギクッと、圭一は去ろうとした足を静止させた。その声を止めた主は――。
「えっと、魅お……いや、お嬢さんどうかしました? もう俺……じゃない、僕は悪党やっつけたんで、これで」
そんな言葉を残し、さらっと場を去ろうとすると、ガシッと腕を掴まれる。
「名前は? 助けてもらったのに、何もせずに帰るなんてずるいです」
「……」
言葉を詰まらせる圭一。さっき名乗っていたというのに、急に圭一自身の内に名乗るのに恥ずかしさが勝った。
「えっと……」
「あれぇ? さっき名乗ってたのに言えないんですかぁ?」
魅音はさらに不敵な笑みを浮かべていく。なんて奴だ、と圭一は彼女を助けたことを後悔する。しかし、ここで圭一はとんだ勘違いをしていた。この女の子の正体は園崎詩音。魅音ではない。魅音ならば、確かに助けられたことの感謝や名前くらいは聞くだろうが、ここで意地悪するほどに小悪魔ではない。そして、詩音は気づいていた。この覆面男の正体を。
「まあ、名前は言いたくないならいいですけど」
魅音だと勘違いされた詩音はそう言って、ようやく圭一の腕を離した。
圭一は何も答えなかった。普段より高く作った声を出すのも、もうやめておいた方がいい。喋れば喋るほど、何かが漏れる。
「ただ、一つだけ訂正しておきますね」
圭一は視線だけを向ける。
「私、魅音じゃありません」
「…………」
「園崎詩音。魅音の双子の妹です。私は旧校舎の方にいるので、あなたとは普段会いませんけど」
圭一はすぐには反応しなかった。
目の前の顔は、どう見ても魅音だった。髪も、顔立ちも、似ている。でも、声はよく聞けば魅音のものじゃない。
だがここで何かしらリアクションしてしまえば、それだけで「魅音を知っている」と教えることになる。
「……そうですか」
短く、それだけ返す。詩音は少しだけ目を細めた。
「驚かないんですね」
「双子くらい、別に珍しくないでしょう」
また低い声を作る。自分でも白々しいと思ったが、詩音は特に突っ込んでこなかった。
「そうですねぇ」
その代わり、詩音は何気ない調子で話を続けた。
「そういえば、お姉から最近よく聞くんですよ。新校舎に変な転校生が来たって」
圭一は黙っている。
「前原圭一君、でしたっけ」
反応しない。
「体力測定ですごい記録を出したり、沙都子と喧嘩したり、毎日騒がしい人みたいですね」
それでも圭一は動かなかった。詩音は少しだけ間を置く。
「この前なんて、沙都子の髪をふざけて引っ張って、泣かせたとか」
圭一の指が僅かに動いた。だが、それだけだった。
「しかも本人はろくに謝らなかったらしいですよ。酷いですよねぇ」
「…………」
違う。圭一の中で、その一言だけが浮かぶ。ふざけて引っ張ったわけではない。手が離れなくなったのだ。沙都子の髪を切ることになって、圭一自身も後悔していた。
だが、言わない。
言えば終わる。圭一は黙ったまま、ゆっくりと背を向けた。
「それじゃあ」
今度こそ帰る。詩音も追ってこない。何歩か歩いた。後ろから声もない。
どうやら諦めたらしい。圭一は内心で少しだけ息を吐いた。
その瞬間だった。
「――圭ちゃん」
耳元で声がした。
「うわっ!?」
圭一の身体が反射的に跳ねる。いつの間にか詩音がすぐ後ろまで来ていた。振り向いた圭一の口から出たのは、作っていた甲高い声ではない。完全に、いつもの声だった。詩音の目が細くなる。
「あ」
圭一自身も気づいた。
遅かった。
詩音の手が伸びる。
圭一は慌てて覆面を押さえようとしたが、その一瞬の動揺で出遅れた。
「ちょ――」
するり、と布が外れる。
夜風が頬に触れた。
「…………」
圭一は固まった。詩音も何も言わない。
数秒ほど、二人の間に妙な沈黙が落ちた。
やがて詩音が、ゆっくりと笑う。
「……やっぱり、圭ちゃんでしたか」
「…………」
圭一は顔を覆った。
「最悪だ……」
「そんなに落ち込まなくても」
「落ち込むわ! なんで取るんだよ!」
今度はもう声を変える意味もない。
詩音は手にした覆面を眺める。
「だって、ここまで怪しかったら確認したくなるじゃないですか」
「確認の仕方が強引すぎるだろ!」
「ちゃんと何回も様子見ましたよ?」
「何回も?」
詩音は指を一つ立てる。
「まず体格。次に喋り方。それから、お姉から聞いてた異常な運動能力」
二つ目。
「あと、私を見たとき。完全に『魅音に見つかった』って顔してました」
「覆面してただろ!」
「身体は正直ですよ?」
「……」
言い返せない。詩音はさらに楽しそうに続ける。
「それに、前原圭一って名前を出しても無反応。沙都子の話をわざと間違えても、ちゃんと耐えた」
「……わざとだったのかよ」
「はい。でも最後の『圭ちゃん』は駄目でしたね」
圭一は頭を抱えた。完全に遊ばれていた。
「……最初から気づいてたのか?」
「最初からじゃありません。ああでも、圭ちゃん、途中から魅音って言いかけてたじゃないですか」
「で、罠張ったと」
「そういうことです」
悪びれもしない。圭一はしばらく恨めしそうに詩音を見ていたが、やがて声を落とした。
「……頼むから、誰にも言うなよ」
詩音の表情が少しだけ変わる。
「お姉にも?」
「特に魅音には」
即答だった。
「絶対面白がるし、学校中に広まったら終わりだ。親にも何も言ってない」
詩音は圭一の顔をしばらく見つめる。さっきまでのからかうような笑みは、少しだけ薄れていた。
「分かりました」
「本当か?」
「助けてもらった恩くらいは返しますよ」
そう言って、詩音は覆面を圭一へ返した。圭一は受け取ると、すぐに顔を隠す。
「……二度と取るなよ」
「善処します」
「絶対やる奴の返事じゃねえだろ、それ」
詩音は楽しそうに笑った。けれど、そのまま別れるのかと思いきや、今度は少し考えるように顎へ指を当てる。
「でも、これからどうしましょうか。私も圭ちゃんと同じ学校なんですよ」
「同じ学校?もう二週間以上経ったけど、お前に会ったことないけど」
「ああそれは、お姉に新校舎の方に来るなって口うるさく言われてるんです」
「……新校舎って、ああそうなのか。詩音は旧校舎の方のクラスだったから会ったことないのか」
圭一は納得してポンと手を叩く。
「それで圭ちゃん。これからどうしましょうか。例えばですよ? 学校で会ったらどうするんです?」
「どうするって……普通に話せばいいだろ」
「普通に?」
「お前は魅音の妹で、俺は魅音の友達。今日以降、俺と詩音が会ったとしても別に隠す必要ねぇだろ」
圭一は少し考えてから付け加えた。
「ただし、今夜のことは別だ」
「今夜のこと?」
詩音がわざとらしく首を傾げる。
「その顔やめろ。分かってんだろ」
「何のことでしょう?」
「もう練習始めなくていい!」
詩音がくすくすと笑う。圭一は指を一本立てた。
「とにかく、学校では俺がこの格好してたことは知らない。俺が夜に何してるかも知らない。それだけ守ってくれればいい」
「なるほど。昼間に会った時は、普通の前原圭一君として接する」
「そう」
「でも私は圭ちゃんの秘密を知っている」
「それを口に出すなって言ってんだよ!」
また笑われた。
圭一は早くも思った。もしかしたら、自分はとんでもなく面倒な相手に秘密を知られたのではないか。
「じゃあ、お姉たちの前でも普通に話しかけていいんですね?」
「それはいい。お前が魅音の妹なのは本当なんだし、俺たちが日常で会っても問題はない...はずだ」
「『昨日はありがとうございました』くらいなら?」
「何に対してだよって聞かれるだろ!」
「じゃあ『昨日の夜は格好良かったですよ』」
「絶対言うな!!」
夜の路地に圭一の声が響いた。詩音はとうとう堪えきれなくなったように声を上げて笑った。
「分かりました、分かりました。圭ちゃんが夜に何をしているかについては、私は何も知らない。これでいいでしょう?」
「最初からそう言ってるんだよ……」
圭一は深い溜息を吐いた。何だ、この会話は。
秘密を握られたばかりだというのに、なぜ初対面の相手と今後の演技について打ち合わせをしているのか。
圭一は頭を抱えたくなった。
「じゃあ、もしまた夜に会ったら?」
「……また?」
「今日みたいに」
詩音はさっきまで男たちがいた辺りを見る。
「私が何かに巻き込まれて、圭ちゃんがその格好で来たら」
「その時は……」
圭一は少し考えた。
「普通に助ける」
「正体知ってても?」
「知ってるとか関係ないだろ」
「なるほど」
詩音は少しだけ嬉しそうに笑った。
「じゃあ、私が先に圭ちゃんを見つけたら?」
「声かけんな」
「即答ですね」
「当たり前だろ。誰が見てるか分からないんだから」
「じゃあ見なかったことにする?」
「それが一番いい」
「困ってても?」
「……それは」
圭一は言葉を止める。詩音は何も言わず待った。
「状況による」
「曖昧ですねぇ」
「しょうがねぇだろ! まだ俺だって何も決めてないんだから!」
思えば、本当に何も決めていなかった。仮面を被る。夜の街へ出る。悪さをしている奴がいたら止める。今のところ、それだけだった。誰かに正体を知られた時のことなど考えていない。誰かと協力するつもりもなかったし、昼と夜の自分をどう切り分けるのかすら決めていない。
ただ、勢いで始めた。
そのツケが、早くも目の前に立っている。詩音はそんな圭一の様子を見て、少しだけ笑みを柔らかくした。
「じゃあ、一つだけ決めません?」
「何を」
「人がいる時は、私は何も知らない。圭ちゃんも私が知ってることを匂わせない」
「……それでいい」
「二人だけの時は?」
「普通でいいだろ」
「この格好の時でも?」
詩音が覆面を指差す。
圭一は少し迷った。
「……二人だけなら、圭一でいい」
詩音の目がわずかに細くなった。
「圭ちゃん、でいいんですか?」
「好きに呼べよ」
「では遠慮なく」
何だか嬉しそうだった。
「あと」
圭一が続ける。
「何かあっても、一人で首突っ込むなよ」
「私が?」
「今日みたいなのがまたあったら、逃げろ。俺が来るとは限らないんだから」
詩音は少しだけ驚いたように圭一を見る。
「心配してくれてるんです?」
「助けた直後にまた捕まったら俺が馬鹿みたいだろ!」
「素直じゃありませんねぇ」
「うるせぇ!」
圭一はそっぽを向いた。
だが、本気だった。
今日だって間に合ったのは偶然に近い。自分に力があったからどうにかなっただけで、いつでも助けられるわけではない。
そのことくらいは圭一にも分かっていた。しばらくして、詩音が小さく息を吐いた。
「……分かりました」
今度はからかうような声ではなかった。
「無茶はしません」
「本当だろうな」
「たぶん」
「お前もその返事かよ!」
二人とも少し笑った。その笑いが収まったところで、詩音がふと圭一を見る。
「でも、圭ちゃん」
「ん?」
「怖くないんですか?」
唐突な問いだった。
「何が」
「こういうことするの」
圭一は一瞬だけ黙った。
「……別に」
すぐに返したが、自分でも少し嘘だと思った。
最初に夜へ出た時は、ずっと心臓が速かった。強くなった身体を試してみたいという気持ちは確かにあった。自分が今まで出来なかったことをやれる、その興奮もあった。
それでも、相手が何人もこちらへ向かってきた時。
予想外の武器を出された時。怖くないと言えば嘘になる。能力を持ったからといって、恐怖まで消えたわけではない。
「……まあ、ちょっとはな」
結局、そう答えた。
「でも、俺なら何とか出来ることもあるし」
「それで戦うんですか?」
「戦うっていうか……」
圭一は少し考える。正義の味方になろうなどとは考えていない。世界を救う気もない。
「目の前で困ってる奴がいて、俺なら何とか出来るなら……まあ、何とかするだろ」
答えてから少し恥ずかしくなった。
「なんだよ」
詩音が黙っている。
「いえ」
「何だよ、その顔」
「圭ちゃん、思ったよりいい人なんですね」
「思ったよりって何だ!」
「お姉から聞いてた話では、もっと騒がしくて、負けず嫌いで、調子に乗りやすくて――」
「魅音あいつ俺のこと何て言ってんだよ!?」
「でも」
詩音の表情から、ふっと笑みが消えた。
「今日は、本当にありがとうございました」
圭一の口が止まる。
「さっきも言ってただろ」
「ちゃんと言ってませんでしたから」
詩音は軽く頭を下げた。
「ありがとうございました、圭ちゃん」
からかいではない。罠でもない。試されてもいない。
ただ真っ直ぐに礼を言われた。圭一はどう反応したものか分からなくなった。悪党数人を相手にするより、こういう方が困る。
「……どういたしまして」
結局、それしか言えなかった。覆面をしていて良かった、と少し思った。多分、ほんの少しだけ照れている。遠くから車の音がした。詩音がそちらへ目を向ける。
「あ、迎えが来たみたいです」
「迎え?」
「はい。知り合いに頼みました」
やがて道路の向こうから一台の車が近づいてくる。
「じゃあ、私はこれで」
「おう」
詩音は二、三歩進んだ。
しかし、また止まる。圭一は嫌な予感がした。
「……今度は何だよ」
詩音が振り返る。
「さっきの約束」
「秘密のことか?」
「それもですけど」
詩音は人差し指を口元へ立てた。
「人前では、私たちは何も知りません」
「おう」
「二人の時だけ、私は全部知ってる」
「……言い方は気になるけど、まあそうだ」
「そしてお姉には内緒」
「絶対だぞ」
「分かりました」
詩音はにっこり笑った。
「じゃあ、また会いましょうね。圭ちゃん」
「……また?」
「同じ学校なんですから、会うでしょう?」
言われてみれば当然だった。
ただ、新校舎と旧校舎で普段の生活場所が違うという話だったし、毎日顔を合わせるわけではないだろう。
「まあ、そのうちな」
「はい。そのうち」
妙に含みのある返事だった。
圭一は少し引っ掛かったが、深く考える前に詩音は車へ向かった。ドアを開ける直前、もう一度だけこちらを振り返り、軽く手を振る。
圭一も仕方なく片手を上げた。
車が走り出す。赤いテールランプが夜道の向こうへ小さくなり、やがて見えなくなった。
一人残された圭一は、しばらくその方向を見ていた。
「……なんなんだ、あいつ」
初対面だった。
正確には、途中まで魅音だと思い込んでいたので、園崎詩音という人間を認識して話した時間など僅かなものだ。
それなのに秘密を知られた。
誰にも知られるつもりはなかった。親にも、魅音にも、レナにも、沙都子にも、梨花にも。自分一人で始めたことだった。自分だけが知っていればいいと思っていた。それが今日、初めて他人の中に入った。
怖くないと言えば嘘になる。詩音が気を変えれば終わりだ。魅音に一言話せば、そこからどこまで広がるか分からない。
だから本来なら、秘密を知られたことは最悪のはずだった。なのに、圭一は妙なことに気づいた。さっきまで胸の奥にあった緊張が、少しだけ軽くなっている。
秘密を知られた。それなのに誰にも言わないと言われた。そのことに、どこかほっとしている自分がいた。
「……いやいや」
圭一は首を振る。安心するには早すぎる。あの女は絶対に面倒だ。魅音よりずっと性格が悪いかもしれない。
何より、最後の「また会いましょうね」という言い方が妙に気になる。
「まあ、旧校舎なんだろ」
そうそう頻繁には会わない。そう自分へ言い聞かせ、圭一は覆面の位置を直した。この夜、前原圭一は初めて、自分以外の人間に秘密を知られた。
しかも、その相手は園崎魅音の双子の妹。
それが幸運だったのか、それとも厄介な相手に弱みを握られただけなのか。少なくとも、この時の圭一にはまだ判断できなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。この日を境に、彼が夜の街で背負う秘密は、もう彼一人だけのものではなくなった。