のどかな田園地帯を、たった二輌編成の古びた電車が走っていた。
窓の外を流れていくのは、青々とした田んぼと山ばかり。
時折、ぽつんと民家が現れては後ろへ消えていく。
しばらく見ていなかった景色ではある。
けれど――。
「ちっとは変わってくれたら、帰り甲斐もあるんだけどなあ〜」
宮内ひかげは座席に深く腰掛けたまま、大きく伸びをした。
東京から久しぶりに帰ってきたというのに、窓の外に広がっているのは記憶の中とほとんど変わらない景色。
山。
田んぼ。
畑。
また山。
見事なくらい何も変わっていない。
車内には誰もいないと思っていたから、独り言も遠慮なく口から出た。
ところが――。
「…………」
視線を感じた。
ひかげが顔を向ける。
そこに、一人の少年が座っていた。
年齢は十歳くらいだろうか。
足元には小さな旅行鞄。
かわいい狼の描かれた赤いシャツに半ズボン。おかっぱ気味に切り揃えられた髪に、まだ幼さの残る丸い頬。
その少年と、ばっちり目が合った。
「…………」
「…………」
ちょっと気まずい。
だが、ひかげは少年の顔に見覚えがあった。
「あれ? 君、新幹線で見かけたね?」
「うん」
「一緒にいたお父さんは?」
少年は少し寂しそうに目を伏せた。
「……お父さん、急に仕事が入ったみたいで東京に帰っちゃった。降りる駅には迎えに来てくれてるから、大丈夫みたい」
「そっか」
東京から、こんな田舎まで一人旅。
ひかげは少しだけ感心した。
「えらいね。切符、ちょっと見せてみ? 一応どこで降りるのか見てあげるよ」
「うん」
少年から渡された切符を見る。
そして、ひかげは眉を上げた。
「あれ?」
自分の切符と見比べる。
「私と同じとこじゃん」
「そうなの?」
「そうそう。東京から来て降りる駅まで一緒って、なかなかの偶然だね」
切符を返しながら、ひかげは自分を指差した。
「私、宮内ひかげ。君は?」
「ボク」
「うん。君は?」
「ボクだよ」
「…………」
ひかげは数秒考えた。
「名前が?」
「みんな、ボクって呼ぶよ」
「……へえ〜」
ずいぶん斬新な自己紹介である。
まあ、本人がそう言うならいいか。
「じゃあボク君ね」
「うん」
「ところでボク君、この辺の子じゃないよね? 見かけない顔だけど」
「東京から来たんだ。お母さんがもうすぐ赤ちゃん産むから、お家が大変なんだって。それで夏休みの間、叔母さんの家に預けられることになったの」
「ああ、なるほどね」
ひかげは納得したように頷き、それから窓の外へ目を向けた。
相変わらず、田んぼと山しかない。
「東京から来たなら驚くよ〜。すっごい田舎だから」
「田舎って?」
「え?」
予想外の質問だった。
ひかげにとって『田舎』とは説明するようなものではない。
ここが田舎。
それだけである。
少し考えてから、窓の外を指差した。
「なーんにもないところ。コンビニもないし、ビルもないし、お店だってほとんどない。あるのは山と川と田んぼくらい!」
「…………!」
ところが。
少年の顔が、ぱあっと輝いた。
「それって、すごいところだよ!」
「……へ?」
「ボク、こんなにいっぱいの山とか田んぼとか、遠足くらいでしか見たことないよ!」
窓に顔を寄せる。
先ほどまで何の変哲もないと思っていた景色を、少年は宝物でも眺めるような目で見つめていた。
「川もあるの?」
「あるけど」
「魚いる?」
「いるいる」
「虫も?」
「そりゃもう、嫌になるくらい」
「カブトムシもいる?」
「いるんじゃない?」
「すごい!」
「…………」
ひかげは思わず少年を見る。
自分にとっては、生まれた時からそこにあるもの。
見飽きるほど見てきた山も川も田んぼも、この子にはこんなに輝いて見えるらしい。
「……見方が変われば、変わるもんだわ」
小さく呟く。
「私はもう見飽きたけどね」
だが、その声は少年には届いていなかった。
窓の外を流れていく景色を追いかけながら、これから始まる夏休みに胸を膨らませている。
そんな横顔を見ているうちに、ひかげの口元にも小さな笑みが浮かんでいた。
◇
「ボク君ー。そろそろ降りるよー。準備しなー」
抑揚のない声が聞こえた。
「……ん?」
ボクは目を開けた。
いつの間にか眠っていたらしい。
慌てて窓の外を見ると、さっきより太陽がずいぶん傾いていた。
夕方にはまだ少し早い。
けれど、お昼に食べたご飯はとっくに消化されていて、そろそろおやつが欲しくなる時間だった。
「ん? 食べる?」
見ると、ひかげお姉ちゃんが細長いキャンディを舐めていた。
もう一本を差し出してくれる。
「いいの?」
「いいよ」
「ありがとう、ひかげお姉ちゃん」
包装を剥いて口に入れる。
甘い。
思わず笑うと、ひかげお姉ちゃんが妙な顔をした。
「おー……」
「?」
「素直に喜ばれると破壊力あるわー。れんげもこれくらいなら可愛がりたくなるのになー」
「れんげ?」
「あー、私の妹」
妹がいるらしい。
「この間一年生になったばっかり。向こうで会ったら紹介したげるよ」
「うん」
「ボク君は何年生?」
「三年生」
「おっ。じゃあ、ちょうどいいや。一緒に遊んであげて」
「でも二年も違うよ?」
「それでも一番近いんだよねー」
「?」
どういう意味だろう。
ひかげお姉ちゃんは何でもないことのように続けた。
「うちの学校、小学校と中学校が一緒なんだけど、生徒が全部で五人しかいないんだ」
「五人?」
思わず聞き返した。
学校なのに?
東京なら、一つの教室だけでももっとたくさんいる。
「四月に転校してきた子がいるらしいから五人。いなかったら四人」
「少ないね。少子化ってこと?」
「あはははは!」
突然ひかげお姉ちゃんが笑い出した。
「少子化どころか、もともと人がいないんだって!」
「そうなの?」
「そうなの。れんげには同級生もいないし、その転校生も五年生らしいからね。ボク君が一番年齢近いんじゃない?」
そんな学校があることにも驚いた。
でも。
どんな子なんだろう。
れんげちゃん。
「わかった。会ったら一緒に遊んでみる」
「うん、頼んだぞ、ボク君」
その時だった。
電車がゆっくりと速度を落としていく。
「あっ、着いた!」
ひかげお姉ちゃんが慌てて荷物を拾い上げた。
電車が止まる。
ひかげお姉ちゃんがドアの横にあるボタンを押すと、ぷしゅっと音を立てて扉が開いた。
「ほら、降りるよ!」
「うん!」
旅行鞄を持って、その後を追う。
電車から一歩、外へ出た。
むっとするような夏の空気。
どこかから聞こえる蝉の声。
そして、東京とはまるで違う匂いがした。
草と、土と、太陽の匂い。
ボクは大きく息を吸った。
――このときのボクは、まだ知らなかった。
この夏、川で遊ぶことも。
山を駆け回ることも。
見たことのない虫を追いかけることも。
そして――たくさんの人たちと出会うことも。
何もかもが初めてで。
何もかもが新鮮で。
やがて決して忘れることのできない、大切な思い出になっていくことを。
こうして――。
ボクの、忘れられない夏休みが始まった。
◇
ホームに降りたボクは、旅行鞄を持ったまま辺りを見回した。
迎えに来てくれているはずだけど――。
「あっ!」
少し離れたところで、三人の家族がこちらへ手を振っていた。
その中から一人の女の人が駆け寄ってくる。
「ボク君! 久しぶりねえ!」
「わっ」
目の前まで来ると、女の人はボクと目線が合うところまで腰を屈めた。
「大きくなって……」
優しく頭を撫でられる。
「おばちゃんのこと覚えてる? 前に会ったの、まだ幼稚園の頃だったから……覚えてないかな?」
「…………」
顔を見つめる。
どこかで会ったような気もする。
でも、思い出せない。
困って俯くと、おばちゃんは笑った。
「いいの、いいの。無理に思い出さなくても」
そう言って、もう一度頭を撫でてくれる。
「おばちゃんはね、ボク君のお母さんのお姉ちゃんなの。三月までは東京に住んでたんだけど、お父さんの転勤でこっちに引っ越してきたの」
「そうなんだ」
「それで、ボク君のお母さんも赤ちゃんを産む準備があるでしょう? 夏休みの間、うちで預かることになったの。急に決まっちゃってごめんなさいね」
ボクは首を横に振った。
「おばちゃん、これからよろしくお願いします」
「まあ」
おばちゃんが嬉しそうに笑う。
「そんなにかしこまらなくていいのよ。自分のお家だと思って、思いっきり遊んでね」
「うん!」
「そうそう。家族を紹介しなくちゃ」
おばちゃんが振り返る。
後ろにいた二人がこちらへやって来た。
まずは男の人。
「こっちがおばちゃんの旦那さん。仕事と出張で家にいないことも多いんだけどね」
「こんにちは、ボク君」
おじちゃんは少し照れくさそうに笑った。
「男の子とキャッチボールするのが夢だったんだ。今度の休みにでも一緒に遊ぼう」
「うん。おじちゃん、よろしくね」
「おお!」
なぜかそれだけで、おじちゃんはとても嬉しそうだった。
「よかったわねえ」
おばちゃんが笑っている。
そして。
「こっちが娘の蛍」
その名前を聞いた瞬間。
ボクの中で、何かが引っ掛かった。
女の子が一歩前へ出る。
背が高い。
長い黒髪。
お姉さん――というより、最初は大人の人なのかと思った。
「ボク君。蛍です」
少し恥ずかしそうに微笑む。
その顔を見た時。
遠い記憶が、ふっと蘇った。
小さかった頃。
自分より大きな女の子に手を引いてもらって、一緒に遊んだことがある。
「……蛍お姉ちゃん?」
「うん!」
蛍お姉ちゃんの顔が明るくなる。
「覚えててくれたんだ」
「覚えてる!」
懐かしい。
でも――。
ボクは蛍お姉ちゃんを下から上まで見た。
「そんなに大きかった?」
「はうっ!?」
「なんか、大人みたい」
「はううっ!?」
なぜか蛍お姉ちゃんが真っ赤になった。
後ろで、おばちゃんが笑い出す。
「あはは! 大きいでしょう? この子、これでも五年生なのよ。この一年でぐーんと背が伸びちゃって」
「五年生?」
「そう。見た目は大人っぽくなったけど、頭の中はちゃんと五年生だから気にしないでね」
「お、お母さん!?」
「うん、わかった」
「ボク君まで!?」
おばちゃんとおじちゃんが笑う。
ボクには、どうして蛍お姉ちゃんが慌てているのかよくわからなかった。
でも、なんとなく楽しい人だと思った。
「蛍お姉ちゃん、これからよろしくね」
手を差し出す。
蛍お姉ちゃんは一瞬きょとんとしてから、にっこり笑って握り返してくれた。
「うん。よろしくね、ボク君」
その時。
「しょーねーん! じゃーねー!」
声がした。
振り返る。
ホームの向こうで、ひかげお姉ちゃんがこちらへ手を振っていた。
「ひかげお姉ちゃん!」
ボクも手を振り返す。
ひかげお姉ちゃんの隣には、大人の女の人がいた。
お母さん……ではなさそう。
お姉ちゃんのお姉ちゃんだろうか。
「あれ? 先生だ」
蛍お姉ちゃんが呟いた。
「先生?」
「うん。でも、隣の人誰だろう?」
「…………?」
先生なのに、お姉ちゃん?
ますますわからなくなった。
まあ、いいや。
また会えるって言ってたし。
その時に聞けばいい。
「さあ、私たちも帰りましょう」
おばちゃんの声に振り返る。
「お家までちょっとあるからね」
「うん!」
旅行鞄を握り直す。
駅の外には、見たこともない景色が広がっていた。
高いビルはない。
人混みもない。
車の音もほとんど聞こえない。
代わりに聞こえてくるのは、風に揺れる木々の音と、どこか遠くから響いてくる蝉の声。
東京にはないものばかりだった。
――どんな夏になるんだろう。
そんなことを考えながら。
ボクは蛍お姉ちゃんたちの後を追い、初めて見る田舎の道へと歩き出した。