ぼくのなつやすみ〜のんのんといっしょ〜   作:Edward

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8月1日

のどかな田園地帯を、たった二輌編成の古びた電車が走っていた。

 

窓の外を流れていくのは、青々とした田んぼと山ばかり。

 

時折、ぽつんと民家が現れては後ろへ消えていく。

 

しばらく見ていなかった景色ではある。

 

けれど――。

 

「ちっとは変わってくれたら、帰り甲斐もあるんだけどなあ〜」

 

宮内ひかげは座席に深く腰掛けたまま、大きく伸びをした。

 

東京から久しぶりに帰ってきたというのに、窓の外に広がっているのは記憶の中とほとんど変わらない景色。

 

山。

 

田んぼ。

 

畑。

 

また山。

 

見事なくらい何も変わっていない。

 

車内には誰もいないと思っていたから、独り言も遠慮なく口から出た。

 

ところが――。

 

「…………」

 

視線を感じた。

 

ひかげが顔を向ける。

 

そこに、一人の少年が座っていた。

 

年齢は十歳くらいだろうか。

 

足元には小さな旅行鞄。

 

かわいい狼の描かれた赤いシャツに半ズボン。おかっぱ気味に切り揃えられた髪に、まだ幼さの残る丸い頬。

 

その少年と、ばっちり目が合った。

 

「…………」

 

「…………」

 

ちょっと気まずい。

 

だが、ひかげは少年の顔に見覚えがあった。

 

「あれ? 君、新幹線で見かけたね?」

 

「うん」

 

「一緒にいたお父さんは?」

 

少年は少し寂しそうに目を伏せた。

 

「……お父さん、急に仕事が入ったみたいで東京に帰っちゃった。降りる駅には迎えに来てくれてるから、大丈夫みたい」

 

「そっか」

 

東京から、こんな田舎まで一人旅。

 

ひかげは少しだけ感心した。

 

「えらいね。切符、ちょっと見せてみ? 一応どこで降りるのか見てあげるよ」

 

「うん」

 

少年から渡された切符を見る。

 

そして、ひかげは眉を上げた。

 

「あれ?」

 

自分の切符と見比べる。

 

「私と同じとこじゃん」

 

「そうなの?」

 

「そうそう。東京から来て降りる駅まで一緒って、なかなかの偶然だね」

 

切符を返しながら、ひかげは自分を指差した。

 

「私、宮内ひかげ。君は?」

 

「ボク」

 

「うん。君は?」

 

「ボクだよ」

 

「…………」

 

ひかげは数秒考えた。

 

「名前が?」

 

「みんな、ボクって呼ぶよ」

 

「……へえ〜」

 

ずいぶん斬新な自己紹介である。

 

まあ、本人がそう言うならいいか。

 

「じゃあボク君ね」

 

「うん」

 

「ところでボク君、この辺の子じゃないよね? 見かけない顔だけど」

 

「東京から来たんだ。お母さんがもうすぐ赤ちゃん産むから、お家が大変なんだって。それで夏休みの間、叔母さんの家に預けられることになったの」

 

「ああ、なるほどね」

 

ひかげは納得したように頷き、それから窓の外へ目を向けた。

 

相変わらず、田んぼと山しかない。

 

「東京から来たなら驚くよ〜。すっごい田舎だから」

 

「田舎って?」

 

「え?」

 

予想外の質問だった。

 

ひかげにとって『田舎』とは説明するようなものではない。

 

ここが田舎。

 

それだけである。

 

少し考えてから、窓の外を指差した。

 

「なーんにもないところ。コンビニもないし、ビルもないし、お店だってほとんどない。あるのは山と川と田んぼくらい!」

 

「…………!」

 

ところが。

 

少年の顔が、ぱあっと輝いた。

 

「それって、すごいところだよ!」

 

「……へ?」

 

「ボク、こんなにいっぱいの山とか田んぼとか、遠足くらいでしか見たことないよ!」

 

窓に顔を寄せる。

 

先ほどまで何の変哲もないと思っていた景色を、少年は宝物でも眺めるような目で見つめていた。

 

「川もあるの?」

 

「あるけど」

 

「魚いる?」

 

「いるいる」

 

「虫も?」

 

「そりゃもう、嫌になるくらい」

 

「カブトムシもいる?」

 

「いるんじゃない?」

 

「すごい!」

 

「…………」

 

ひかげは思わず少年を見る。

 

自分にとっては、生まれた時からそこにあるもの。

 

見飽きるほど見てきた山も川も田んぼも、この子にはこんなに輝いて見えるらしい。

 

「……見方が変われば、変わるもんだわ」

 

小さく呟く。

 

「私はもう見飽きたけどね」

 

だが、その声は少年には届いていなかった。

 

窓の外を流れていく景色を追いかけながら、これから始まる夏休みに胸を膨らませている。

 

そんな横顔を見ているうちに、ひかげの口元にも小さな笑みが浮かんでいた。

 

◇

 

「ボク君ー。そろそろ降りるよー。準備しなー」

 

抑揚のない声が聞こえた。

 

「……ん?」

 

ボクは目を開けた。

 

いつの間にか眠っていたらしい。

 

慌てて窓の外を見ると、さっきより太陽がずいぶん傾いていた。

 

夕方にはまだ少し早い。

 

けれど、お昼に食べたご飯はとっくに消化されていて、そろそろおやつが欲しくなる時間だった。

 

「ん? 食べる?」

 

見ると、ひかげお姉ちゃんが細長いキャンディを舐めていた。

 

もう一本を差し出してくれる。

 

「いいの?」

 

「いいよ」

 

「ありがとう、ひかげお姉ちゃん」

 

包装を剥いて口に入れる。

 

甘い。

 

思わず笑うと、ひかげお姉ちゃんが妙な顔をした。

 

「おー……」

 

「?」

 

「素直に喜ばれると破壊力あるわー。れんげもこれくらいなら可愛がりたくなるのになー」

 

「れんげ?」

 

「あー、私の妹」

 

妹がいるらしい。

 

「この間一年生になったばっかり。向こうで会ったら紹介したげるよ」

 

「うん」

 

「ボク君は何年生?」

 

「三年生」

 

「おっ。じゃあ、ちょうどいいや。一緒に遊んであげて」

 

「でも二年も違うよ?」

 

「それでも一番近いんだよねー」

 

「?」

 

どういう意味だろう。

 

ひかげお姉ちゃんは何でもないことのように続けた。

 

「うちの学校、小学校と中学校が一緒なんだけど、生徒が全部で五人しかいないんだ」

 

「五人?」

 

思わず聞き返した。

 

学校なのに?

 

東京なら、一つの教室だけでももっとたくさんいる。

 

「四月に転校してきた子がいるらしいから五人。いなかったら四人」

 

「少ないね。少子化ってこと?」

 

「あはははは!」

 

突然ひかげお姉ちゃんが笑い出した。

 

「少子化どころか、もともと人がいないんだって!」

 

「そうなの?」

 

「そうなの。れんげには同級生もいないし、その転校生も五年生らしいからね。ボク君が一番年齢近いんじゃない?」

 

そんな学校があることにも驚いた。

 

でも。

 

どんな子なんだろう。

 

れんげちゃん。

 

「わかった。会ったら一緒に遊んでみる」

 

「うん、頼んだぞ、ボク君」

 

その時だった。

 

電車がゆっくりと速度を落としていく。

 

「あっ、着いた!」

 

ひかげお姉ちゃんが慌てて荷物を拾い上げた。

 

電車が止まる。

 

ひかげお姉ちゃんがドアの横にあるボタンを押すと、ぷしゅっと音を立てて扉が開いた。

 

「ほら、降りるよ!」

 

「うん!」

 

旅行鞄を持って、その後を追う。

 

電車から一歩、外へ出た。

 

むっとするような夏の空気。

 

どこかから聞こえる蝉の声。

 

そして、東京とはまるで違う匂いがした。

 

草と、土と、太陽の匂い。

 

ボクは大きく息を吸った。

 

――このときのボクは、まだ知らなかった。

 

この夏、川で遊ぶことも。

 

山を駆け回ることも。

 

見たことのない虫を追いかけることも。

 

そして――たくさんの人たちと出会うことも。

 

何もかもが初めてで。

 

何もかもが新鮮で。

 

やがて決して忘れることのできない、大切な思い出になっていくことを。

 

こうして――。

 

ボクの、忘れられない夏休みが始まった。

 

◇

 

ホームに降りたボクは、旅行鞄を持ったまま辺りを見回した。

 

迎えに来てくれているはずだけど――。

 

「あっ!」

 

少し離れたところで、三人の家族がこちらへ手を振っていた。

 

その中から一人の女の人が駆け寄ってくる。

 

「ボク君! 久しぶりねえ!」

 

「わっ」

 

目の前まで来ると、女の人はボクと目線が合うところまで腰を屈めた。

 

「大きくなって……」

 

優しく頭を撫でられる。

 

「おばちゃんのこと覚えてる? 前に会ったの、まだ幼稚園の頃だったから……覚えてないかな?」

 

「…………」

 

顔を見つめる。

 

どこかで会ったような気もする。

 

でも、思い出せない。

 

困って俯くと、おばちゃんは笑った。

 

「いいの、いいの。無理に思い出さなくても」

 

そう言って、もう一度頭を撫でてくれる。

 

「おばちゃんはね、ボク君のお母さんのお姉ちゃんなの。三月までは東京に住んでたんだけど、お父さんの転勤でこっちに引っ越してきたの」

 

「そうなんだ」

 

「それで、ボク君のお母さんも赤ちゃんを産む準備があるでしょう? 夏休みの間、うちで預かることになったの。急に決まっちゃってごめんなさいね」

 

ボクは首を横に振った。

 

「おばちゃん、これからよろしくお願いします」

 

「まあ」

 

おばちゃんが嬉しそうに笑う。

 

「そんなにかしこまらなくていいのよ。自分のお家だと思って、思いっきり遊んでね」

 

「うん!」

 

「そうそう。家族を紹介しなくちゃ」

 

おばちゃんが振り返る。

 

後ろにいた二人がこちらへやって来た。

 

まずは男の人。

 

「こっちがおばちゃんの旦那さん。仕事と出張で家にいないことも多いんだけどね」

 

「こんにちは、ボク君」

 

おじちゃんは少し照れくさそうに笑った。

 

「男の子とキャッチボールするのが夢だったんだ。今度の休みにでも一緒に遊ぼう」

 

「うん。おじちゃん、よろしくね」

 

「おお!」

 

なぜかそれだけで、おじちゃんはとても嬉しそうだった。

 

「よかったわねえ」

 

おばちゃんが笑っている。

 

そして。

 

「こっちが娘の蛍」

 

その名前を聞いた瞬間。

 

ボクの中で、何かが引っ掛かった。

 

女の子が一歩前へ出る。

 

背が高い。

 

長い黒髪。

 

お姉さん――というより、最初は大人の人なのかと思った。

 

「ボク君。蛍です」

 

少し恥ずかしそうに微笑む。

 

その顔を見た時。

 

遠い記憶が、ふっと蘇った。

 

小さかった頃。

 

自分より大きな女の子に手を引いてもらって、一緒に遊んだことがある。

 

「……蛍お姉ちゃん?」

 

「うん!」

 

蛍お姉ちゃんの顔が明るくなる。

 

「覚えててくれたんだ」

 

「覚えてる!」

 

懐かしい。

 

でも――。

 

ボクは蛍お姉ちゃんを下から上まで見た。

 

「そんなに大きかった?」

 

「はうっ!?」

 

「なんか、大人みたい」

 

「はううっ!?」

 

なぜか蛍お姉ちゃんが真っ赤になった。

 

後ろで、おばちゃんが笑い出す。

 

「あはは! 大きいでしょう? この子、これでも五年生なのよ。この一年でぐーんと背が伸びちゃって」

 

「五年生?」

 

「そう。見た目は大人っぽくなったけど、頭の中はちゃんと五年生だから気にしないでね」

 

「お、お母さん!?」

 

「うん、わかった」

 

「ボク君まで!?」

 

おばちゃんとおじちゃんが笑う。

 

ボクには、どうして蛍お姉ちゃんが慌てているのかよくわからなかった。

 

でも、なんとなく楽しい人だと思った。

 

「蛍お姉ちゃん、これからよろしくね」

 

手を差し出す。

 

蛍お姉ちゃんは一瞬きょとんとしてから、にっこり笑って握り返してくれた。

 

「うん。よろしくね、ボク君」

 

その時。

 

「しょーねーん! じゃーねー!」

 

声がした。

 

振り返る。

 

ホームの向こうで、ひかげお姉ちゃんがこちらへ手を振っていた。

 

「ひかげお姉ちゃん!」

 

ボクも手を振り返す。

 

ひかげお姉ちゃんの隣には、大人の女の人がいた。

 

お母さん……ではなさそう。

 

お姉ちゃんのお姉ちゃんだろうか。

 

「あれ? 先生だ」

 

蛍お姉ちゃんが呟いた。

 

「先生?」

 

「うん。でも、隣の人誰だろう?」

 

「…………?」

 

先生なのに、お姉ちゃん?

 

ますますわからなくなった。

 

まあ、いいや。

 

また会えるって言ってたし。

 

その時に聞けばいい。

 

「さあ、私たちも帰りましょう」

 

おばちゃんの声に振り返る。

 

「お家までちょっとあるからね」

 

「うん!」

 

旅行鞄を握り直す。

 

駅の外には、見たこともない景色が広がっていた。

 

高いビルはない。

 

人混みもない。

 

車の音もほとんど聞こえない。

 

代わりに聞こえてくるのは、風に揺れる木々の音と、どこか遠くから響いてくる蝉の声。

 

東京にはないものばかりだった。

 

――どんな夏になるんだろう。

 

そんなことを考えながら。

 

ボクは蛍お姉ちゃんたちの後を追い、初めて見る田舎の道へと歩き出した。

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