晩ご飯を食べ終えたあと、ぼくは蛍お姉ちゃんと一緒に、明日の準備をしていた。
明日は海へ行く。
水着にタオル、着替え。それから帽子。
忘れ物がないように二人で荷物を確認していると、珍しく早い時間に帰ってきていたおじちゃんが、部屋の入口からひょこっと顔を出した。
「ボク君、ちょっといいかな?」
「なあに?」
「実はね、この前言ってたノートパソコンなんだけど……やっぱり調子が悪くてさ。ちょっと見てもらえないかな?」
「あ、うん。いいよ! それでパソコンは?」
「おじちゃんの部屋にあるんだ。来てくれるかい?」
「……?」
ノートパソコンなのに、持ってこなかったんだ?
ちょっとだけ不思議に思った。
「蛍、すまないけどボク君を少し借りるよ」
「う、うん……」
蛍お姉ちゃんも何か引っかかったような顔をしていたけれど、素直にうなずいて荷物の整理を再開した。
ぼくはおじちゃんについて二階の書斎へ向かった。
部屋に入って、机の上のノートパソコンを見る。
そして――ぼくは黙った。
「…………」
画面を見る。
おじちゃんを見る。
もう一度、画面を見る。
「…………」
ぼくの目から、みるみる光が消えていった。
「あ、いや、その……」
おじちゃんが明らかに挙動不審になっている。
画面には、ぼくくらいの子供にはあまり見せてはいけなさそうな広告が、これでもかというほど表示されていた。
しかも、消そうとしても次々と出てくる。
最後には、
『解除するには指定口座へ入金してください』
なんて表示まで出ていた。
「おじちゃん」
「はい」
「変なところ見た?」
「…………ネットを見ていたら、ちょっと変なサイトに入っちゃってね」
「お金払った?」
「…………」
「払ったんだね?」
「……払いました」
「はあ……」
思わずため息が出た。
大人って……。
表示されている金額は、ぼくにとってはとんでもない大金だった。
ジェットサイダーが五十本入った箱を――三箱くらい買える。
もったいない。
ものすごく、もったいない。
「まず、これ以上お金を払わないでね」
「えっ?」
「こういう表示は、払っても直らないことが多いんだ。画面に書いてある電話番号やメールアドレスにも連絡しちゃ駄目。相手に、まだ使っている人だって教えることになるから」
「そ、そうなのかい?」
「うん。それから、もし同じパスワードを他の場所でも使ってるなら、別の安全なパソコンやスマホから変更した方がいいよ。メールや銀行のパスワードも同じなら、特に急いだ方がいい」
おじちゃんの顔から、さらに血の気が引いた。
「銀行のパスワードも……?」
「同じならね。あと、カードや口座から本当にお金が出ていないかも確認して。出ていたら、すぐに銀行へ連絡するんだよ」
「わ、わかった……」
ぼくはノートパソコンの電源を切り、念のためネットワークケーブルを抜いた。無線通信も切って、これ以上外へつながらないようにする。
「どうして電源を切るの?」
「怪しいものが入っている時にネットにつないだままだと、パソコンの中の情報を送られたり、別のものを追加で入れられたりするかもしれないから。まずは外とのつながりを切るんだよ」
「なるほど……」
それから、ブラウザの履歴や一時ファイルを確認してみる。
けれど、普通に消しただけでは直りそうになかった。
どうやらブラウザだけじゃなく、もっと奥の方まで何か入り込んでいるらしい。
「うーん……」
「ど、どうかな?」
「おじちゃん、前に使ってたパソコンって、まだある?」
「え? ああ、そこにあるけど」
指差した先には、少し古いデスクトップパソコンが置かれていた。
「ちょっと借りるね」
ぼくは持ってきていた小さな工具箱から精密ドライバーを取り出した。
「ボク君、そんなものまで持ってるの?」
「いつ何が壊れるかわからないから」
「そ、そう……」
「ただし、この古いパソコンもネットにはつながないでね。感染しているかもしれないパソコンをつなぐと、こっちまでおかしくなることがあるから」
「わかった」
ノートパソコンの底面を開き、保存装置を取り外す。
それを古いパソコンにつないで、中身を外側から確認していく。
「いきなりファイルを開いたり、怪しいプログラムを実行したりはしないよ。まずは必要なデータだけを別の場所へコピーできるか確認するんだ」
「仕事の書類は大丈夫かい?」
「写真や文書を移す時も、実行ファイルや見覚えのないものは一緒に持っていかない方がいいよ。拡張子が変だったり、名前が数字だけだったりするものも注意してね」
普段なら見えないようになっている場所まで探していくと、案の定、怪しいものがいくつか見つかった。
「やっぱり変なの入ってる……」
「直せそう?」
「応急処置なら」
「応急処置?」
「うん。細かいところまで全部調べて直すのは大変だから、怪しいものを消して、パソコンがおかしくなる前の状態に戻してみる」
「そんなことできるのかい?」
「たぶん」
「たぶん!?」
「絶対って言ったら、壊れた時に困るでしょ?」
おじちゃんが黙った。
怪しいファイルや一時データを整理してから、保存装置をノートパソコンへ戻す。
電源を入れる。
しばらく待つ。
……起動した。
さっきまで画面いっぱいに出ていた怪しい広告も、今のところ現れない。
「おおっ!」
おじちゃんが歓声を上げた。
「まだ終わってないよ」
「はい」
「これ、いつからこうなったの?」
「ボク君が来る一日前だから……七月三十一日かな」
「じゃあ、まだ何とかなるかも」
システムの復元機能を開くと、問題が起こる前の日付の復元ポイントが残っていた。
「よかった」
ぼくは画面を指差す。
「とりあえず変な女の人は出てこなくなったけど――」
「その言い方やめてくれるかな!?」
「だって出てたし」
「はい……」
「でも、システムの復元だけで完全に安全になったとは限らないよ。復元ポイントより前から潜んでいるものもあるし、復元で消えない場所に残っていることもあるから」
「じゃあ、どうすればいいんだい?」
「明日、別の安全なパソコンから公式のウイルス対策ソフトを用意して、更新してから完全スキャンする。それでも怪しいなら、必要なデータだけを確認して、パソコンを初期化して最初から入れ直すのが一番安心だよ」
「初期化すると、仕事のデータは?」
「全部消えるから、先に必要なデータを外付けの保存装置へコピーする。ただし、コピーしたデータも安全か確認してから使うんだよ。バックアップがあるなら、感染する前のものを使うのがいいね」
「それは困るなあ……仕事でも使ってるんだよ」
ぼくは、じーっとおじちゃんを見る。
「……おじちゃん」
「はい」
「仕事で使ってるパソコンで、こんなところ見ちゃ駄目だよ」
「……はい」
「職場に変なの持っていったら、もっと大変なことになるよ」
「反省します……」
完全に先生と生徒みたいになってしまった。
「今回はこれくらいで済んだけど、もっと悪いのだったら、パソコンの中にあるものを勝手に送られたり、パスワードを盗まれたりすることもあるんだからね」
「今度から気をつけます……」
おじちゃんはしょんぼりしている。
でも、少しすると感心したようにパソコンとぼくを見比べた。
「しかしボク君、本当にすごいなあ。その歳でそこまでできるなら、今からでも仕事ができそうだ」
「じゃあ、お仕事したから報酬もらおうかな?」
「えっ」
「お仕事なんでしょ?」
「……もちろんだよ。子供だって仕事をしたら、ちゃんと報酬をもらわないとな」
おじちゃんは財布を取り出して、ぼくの手に五百円玉を一枚置いた。
「やった!」
五百円。
ジェットサイダーがいっぱい買える。
――そこで、ぼくはふと思った。
「おじちゃん」
「ん?」
「口止め料は?」
「ぐっ!」
おじちゃんが固まった。
「蛍お姉ちゃんとか、おばちゃんに知られたら困るんじゃない?」
「ボク君……君は大きくなったら、なかなかいい大人になりそうだね……」
おじちゃんは震える手でもう一枚、五百円玉をぼくの手に置いた。
合計、千円。
「ありがとう、おじちゃん! 秘密はぜーったいに守るからね!」
「……頼むよ。本当に」
「男の約束?」
「ああ。男の約束だ」
「うん!」
こつん。
ぼくとおじちゃんは拳を突き合わせた。
たぶん今まで見た中で、一番情けない男の約束だった。
◇
おじちゃんとの秘密の契約を終えて一階へ戻ると、蛍お姉ちゃんはちょうど明日の荷物をまとめ終えたところだった。
「あ、ボク君。お父さんのパソコン、終わった?」
「うん。遅くなってごめんね、蛍お姉ちゃん」
「大丈夫だよ。それより――」
蛍お姉ちゃんが笑う。
「スイカ切ってもらったから、一緒に食べよっか」
「食べる!」
二人で縁側に並んで腰を下ろした。
夜の庭には、昼間の熱がまだ土や板張りに残っていたけれど、軒先を抜ける風は昼よりずっと涼しかった。風鈴がちりん、と細く鳴り、遠くでは蝉の声が途切れ途切れに聞こえている。湿った土と草の青い匂いに、切ったばかりのスイカの甘い香りが重なっていた。
ぼくは大きく切ってもらったスイカにかぶりついた。
しゃくっ、と歯が入る。
口いっぱいに冷たい果汁が広がり、暑さで火照っていた舌を気持ちよく冷やしていく。甘い。
冷たい。
「おいしいね」
「うん!」
しばらく黙々と食べていたけれど、ぼくは口の中に残った種を庭へ向けて――
ぷっ!
飛ばした。
黒い種が、月明かりを一瞬だけ弾いて、土の上へ落ちる。
すると隣から、
ぷっ!
ぼくより少し先へ種が飛んだ。
「……蛍お姉ちゃん?」
「なに?」
何でもないような顔をしている。
「今、勝負した?」
「してないよ?」
「じゃあ――」
ぷっ!
「これならどうだ!」
「あっ!」
今度はぼくの種の方が遠い。
「……負けないからね」
蛍お姉ちゃんの目つきが変わった。
ぷっ!
「うわっ、遠い!」
ぷっ!
「えいっ!」
ぷっ!
「ボク君、今の近い!」
「まだまだ!」
種が夜の空気を小さく切り、ぷつぷつと土へ落ちていく。スイカの皮を指で押すたび、ぬるりとした果汁が手にまとわりつき、甘い匂いが鼻の奥に残った。二人の笑い声は、風鈴の音や虫の声に混ざって、暗い庭へ吸い込まれていった。
いつの間にか二人とも、顔を真っ赤にしながら本気でスイカの種を飛ばし合っていた。
そして、どちらからともなく吹き出した。
「あはははは!」
「ふふっ、何やってるんだろうね、私たち」
ぼくは残ったスイカをかじりながら、蛍お姉ちゃんを見る。
「蛍お姉ちゃん、大きくなったけど子供っぽいね」
「ええっ!?」
「だってスイカの種、本気で飛ばしてた」
「ボク君が勝負を始めたんでしょ!」
「でも蛍お姉ちゃんも本気だったよ?」
「う……」
言葉に詰まってから、蛍お姉ちゃんは少し笑った。
「だから私、そんなに変わってないんだよ。まだまだ子供だもん」
「でも、おばちゃん言ってたよ」
「何を?」
「蛍お姉ちゃんの服、婦人服売り場に行かないとないから大変だーって」
「お母さん……!」
蛍お姉ちゃんが顔を赤くした。
「去年一年で急に大きくなっちゃったから大変だったんだよ。服がすぐ着られなくなっちゃって」
ぼくは自分の手足を見る。
まだ短い。
「ボクも大きくなるかなあ」
「なるよ」
「ほんと?」
「うん」
「ぼく、ちんちくりんだから……」
「大丈夫。私だって昔は小さい方だったんだから。ボク君もそのうち、急に伸びるかもしれないよ」
「そっかあ」
なんだか楽しみになってきた。
「じゃあ、次にここへ来た時、どっちが大きくなってるか勝負だね!」
ぷっ!
ついでに種を飛ばす。
蛍お姉ちゃんは複雑そうな顔で、残っていたスイカを一口かじった。
「……私はもう、あんまり伸びてほしくないんだけど」
「なんで?」
「色々あるの」
「ふーん?」
よくわからない。
その時だった。
「二人ともー」
おばちゃんの声がして、ぼくと蛍お姉ちゃんが同時に振り返った。
カシャッ!
暗くなりかけた縁側に、カメラのフラッシュが光った。
「わっ!」
「もー、お母さん! 突然撮るのなしだよ!」
「あら、いいじゃない。すごくいい写真が撮れたわよ」
おばちゃんがデジタルカメラの画面を見せてくれる。
そこには縁側に並んで座って、食べかけのスイカを手に笑っている、ぼくと蛍お姉ちゃんが写っていた。
「夏休みが終わったら、まとめてプリントしてあげるからね」
「もう……」
蛍お姉ちゃんは恥ずかしそうだったけれど、ぼくはその写真がなんだか気に入った。
「明日は朝早いんでしょう? そろそろ寝なさい」
「はーい」
蛍お姉ちゃんが立ち上がる。
「ボク君も寝よっか」
「うん!」
ぼくも縁側から立ち上がった。
「おばちゃん、おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
「蛍お姉ちゃんも、おやすみなさい」
「おやすみ、ボク君。また明日ね」
明日は海だ。
布団に入ったら、すぐに眠れるかな。
それとも楽しみで、なかなか眠れないかな。
そんなことを考えながら、ぼくは自分の部屋へ戻った。
8月3日 晴れ
蛍お姉ちゃんと、スイカの種を飛ばしあった。
蛍お姉ちゃんは大きいけど、まだ子供みたいだった。
ぼくも、もっと大きくなるかな?
次にここへ来た時には、
ぼくの方が大きくなってるかな?