「二人とも、忘れ物はない?」
玄関先で、おばちゃんが声をかけてきた。
ぼくと蛍お姉ちゃんは顔を見合わせる。
今日は待ちに待った――海だ。
「はーい! いっぱい持ったよ!」
元気よく返事をして、玄関を飛び出した。
いつものラジオ体操よりもずっと早く目が覚めてしまったくらい、今日は楽しみだった。
海では何をしよう。
泳いで、水鉄砲をして、砂浜でも遊びたい。
そんなことばかり考えながらラジオ体操を終えると、ぼくと蛍お姉ちゃんは越谷家へ向かうことになった。
ただし、その途中で夏海お姉ちゃんから一つ頼まれている。
――無人野菜売り場で、朝ご飯に使う野菜を買ってきてほしい。
無人野菜売り場。
名前だけは聞いたことがあるけど、一体どんなお店なんだろう。
「そういえば、海に行くなら水着も忘れちゃいけないよね」
歩きながら、蛍お姉ちゃんが持ち物を確認するように呟いた。
「うん! ぼくはちゃんと持ってきたよ!」
「私も大丈夫。小鞠ちゃんたちも、もう準備してるのかな」
「きっと大丈夫だよ。夏海お姉ちゃんは、海のことばかり考えてそうだけど」
「小鞠ちゃんは……去年の水着があるって言ってたかな」
「去年の?」
「うん。まだ着られるからって」
その時は、特に気に留めなかった。
そんなことを考えながら歩いていると――。
「あっ! 蛍お姉ちゃん! きっとこれだよ!」
畑の脇に、小さな屋根のついた棚を見つけた。
そこには袋詰めされたナスやトマト、キュウリなんかがずらりと並んでいる。
そして、その横には手書きの札。
『一袋 100円』
「安っ!」
思わず声が出た。
東京のスーパーなら、こんな値段では買えない。
蛍お姉ちゃんも珍しそうに棚を覗き込む。
「本当に無人で販売してるんだね……」
「…………」
ぼくは辺りを見回した。
人はいない。
店員さんもいない。
「そんなわけないよ」
「え?」
「きっと監視カメラが……」
棚の上を見る。
ない。
柱を見る。
ない。
屋根を見る。
――ない。
「……ない!」
さらに料金箱らしきものを確認する。
「じゃあ、この賽銭箱みたいなのは……」
ちょっと触ってみる。
ガタッ。
「取り外せる!?」
「ボ、ボク君?」
「こんな防犯でどうやって商売が成り立つの!?」
ぼくは完全に取り乱していた。
野菜よりも、この販売システムそのもののほうが気になって仕方がない。
蛍お姉ちゃんも困ったように笑う。
「私も最初は信じられなかったんだけど……この辺りの家って、出かける時でも鍵をかけないことがあるらしいよ」
「えっ!?」
怪談でも聞かされたような気分で振り返った。
「それどころか、夏海先輩は家の鍵を見たことがないって言ってたよ」
「…………」
ぞくっ。
背筋に寒気が走った。
真夏なのに。
「がーん……」
「そこまでショック受ける?」
「だって近所では、ゴミ出しの間に泥棒が入ることもあるから、一瞬でも家から離れる時は鍵をかけるようにって教えられてきたんだよ……」
「ボク君のところも、なかなか極端だね……」
蛍お姉ちゃんは苦笑しながら、頼まれた野菜を選んで料金箱へお金を入れた。
ぼくは、その様子を呆然と眺める。
「……ありえない」
「まだ言ってる……」
「パソコンにはウイルス対策ソフト。携帯電話には自動ロックと指紋認証。家の玄関にはディンプルキーが二つ……それが普通だと思ってたのに……」
ぼくは頭を抱えた。
「田舎……ぼくの想像を遥かに超えてくる……」
「ボク君が壊れちゃった……!」
蛍お姉ちゃんは泣きそうな顔で、ぼくの手を引いて歩き始めた。
さっきまで海へ行くとはしゃいでいた弟が、突然手のかかるポンコツになったのである。
「にゃんぱすー」
途中で、れんげちゃんとほのかちゃんに会った。
二人も越谷家へ向かうところだったらしい。
「あっ、れんちゃん! お願い、ボク君を助けてあげてー!」
「どうしたん、ほたるん。ボク君がどうなったですか?」
「無人販売所を見てショック受けちゃったの!」
「ありえない……お金はレジに……レジのお金は警備会社が……」
「おーい。ボク君、どうしたんですのん?」
「あっ、れんげちゃん!」
ぼくは救いを求めるようにれんげちゃんを見る。
「無人販売なのに野菜が置いてあって、お金を入れる箱も無人で、その箱まで固定されてなくて――!」
「…………」
れんげちゃんは、しばらくぼくを見つめた。
そして静かに頷く。
「ボク君は疲れてるんな」
「えっ」
「今日はコマちゃんの家で寝てたほうがいいん」
「そんなに!?」
れんげちゃんの大きな瞳に見つめられていると、少しだけ頭が冷静になってきた。
すると彼女は、おもむろにポケットから毛糸を取り出した。
「これを見るんな」
器用に指を動かし、あやとりを作る。
「これはウチが考えた――宇宙なん!」
「宇宙……?」
「そうなん」
れんげちゃんは真剣そのものだった。
「この真ん中をよーく見るんな」
「う、うん……」
「ボク君が考えてることなんて、この広い宇宙のほんのちっぽけな一部にしかすぎないんな」
「…………!」
なぜだろう。
妙に説得力があった。
「……たしかに」
「ボク君!?」
蛍お姉ちゃんが驚く。
「この広い宇宙なら、鍵をかけない家とか、誰も見張ってない野菜売り場くらいあっても大したことじゃないのかも……」
「納得しちゃった!?」
れんげちゃんはさらに続ける。
「今日は海に行くんな」
「うん」
「海は広いんな。いろんなことを包んで流してくれるん」
「……そうだね!」
ぼくは勢いよく立ち上がった。
「難しいことは忘れて海に行こう!」
ぐっ、と拳を突き上げる。
完全復活である。
「海だー!」
「おー!」
れんげちゃんも拳を上げた。
「れんちゃん……ある意味すごい……」
蛍お姉ちゃんは安心したような、それ以上に不安になったような複雑な表情をしていた。
ほのかちゃんも隣で呆然としている。
ぼく自身も、なぜ納得できたのかはよく分からなかった。
◇
「いただきまーす!」
越谷家へ到着すると、買ってきた野菜を使った朝ご飯が待っていた。
ラジオ体操でお腹を空かせたぼくたちは、一斉に箸を伸ばす。
焼き魚。
漬物。
炊きたてのご飯。
そして――。
「雪子おばちゃん!」
ぼくは味噌汁を見て目を丸くした。
「お味噌汁にトマトが入ってるよ!」
「あ、本当だ」
ほのかちゃんも箸でトマトを摘まみ、不思議そうに眺めている。
雪子おばちゃんは、そんなぼくたちを見て首を傾げた。
「あら? 都会のお味噌汁には入ってないのかい?」
「入ってないと思う……」
「少なくとも、うちでは見たことないです」
蛍お姉ちゃんも頷いた。
「まあ食べてみなよ」
夏海お姉ちゃんが得意げに言う。
「ナスと同じくらいメジャーな逸品だから!」
本当かなあ。
ぼくと蛍お姉ちゃん、それにほのかちゃんは顔を見合わせ――同時に口へ運んだ。
「あっ」
トマトの酸味。
それを味噌の塩気が包んでいる。
思っていたよりずっと合う。
むしろ暑い夏の朝には、この酸味がさっぱりしておいしい。
「おいしい!」
「本当だ……」
「でしょー?」
なぜか夏海お姉ちゃんが胸を張った。
すると、れんげちゃんが味噌汁を見つめながら呟いた。
「やっぱり……ウチらの住んでるここは、田舎なん?」
以前から彼女が抱えている大問題らしい。
「だから、それはないって!」
夏海お姉ちゃんが即座に否定する。
「ウチらの住んでるところが田舎なわけないじゃん!」
ぼくには、その時点で答えが出ているようにしか思えなかった。
「だって、みんな車は最低一台持ってるし!」
「都会は電車とかバスがいっぱいあるから、車はいらないってひかねえが言ってたのん」
「アスファルトの道だっていっぱいあるし!」
「信号がないから早く着くだけなん。それに都会には砂の道なんてないって、ひかねえが言ってたのん」
「…………」
夏海お姉ちゃんが沈黙した。
完全に論破されている。
というより、ここまで材料が揃っているのに、どうしてれんげちゃんはまだ結論を出していないんだろう。
ぼくは少し考えてから口を開いた。
「ここは都会じゃないと思うよ」
「なんと……!」
れんげちゃんに衝撃が走る。
「でもね」
ぼくは続けた。
「都会にはないものが、ここにはいっぱいあるよ」
「どういうことなん?」
「東京は確かに物がいっぱいあるし、人もいっぱいいるよ。でも――」
今朝の無人販売所を思い出す。
「ここには無人の野菜売り場がある」
「あるんな」
「泳げる川もある」
「あるん」
「虫相撲に使う虫だって、山へ行けば見つけられる」
「いっぱいおるんな」
「東京だと、カブトムシやクワガタはお店で買わないと、なかなか手に入らないんだよ」
「なんと!?」
れんげちゃんが箸を置いた。
「虫を……買うん?」
「うん」
「山に行けばいるのに?」
「東京には、その山がないんだよ」
「…………」
れんげちゃんは大きく目を見開いた。
「ウチの常識が壊れていきそうなん……」
「ぼくも同じだよ」
思わず笑ってしまう。
「今朝、無人販売所を見てぼくの常識も壊れたから」
都会には、都会のいいところがある。
田舎には、田舎のいいところがある。
どっちが上とか下とかじゃなくて、住んでみないと分からないことがいっぱいあるんだ。
この夏休みにここへ来なかったら、ぼくはきっと知らないままだった。
れんげちゃんはしばらく考え――。
「なるほどなん」
満足そうに頷いた。
「はいはい! 難しい話はそこまで!」
雪子おばちゃんがパンパンと手を叩く。
「ご飯食べたら早く支度しな! そろそろ一穂ちゃんが迎えに来るんよ!」
「そうだった! 海!」
夏海お姉ちゃんが飛び上がる。
「あれ? にいちゃんは?」
「何言ってんだい。とっくに食べ終わって、部屋で準備してるよ」
「はやっ! あたしも準備しないと!」
残っていたご飯を一気にかき込むと、夏海お姉ちゃんは部屋へ走っていった。
「なんで二人とも直前まで準備しないのかな……」
小鞠お姉ちゃんが呆れたように言って――。
「あっ」
何かを思い出したらしい。
「お母さん、私の水着は?」
「あんた身長伸びなかったんだから、去年のと同じのでいいでしょ?」
「えっ」
小鞠お姉ちゃんの顔が固まった。
「だ、だってあれは……」
しかし雪子おばちゃんは朝食の片付けで忙しい。
娘の異変に気づくことなく、食器を持って台所へ行ってしまった。
「…………」
小鞠お姉ちゃんだけが、その場に取り残された。
ついさっきまで楽しみだったはずの海。
ところが彼女の心は今――。
誰よりも早く、深海へ沈み始めていた。
「あたし、海なんて行ったことないから楽しみだよー!」
ほのかちゃんが嬉しそうにぼくへ話しかけてくる。
「ぼくも! 東京には泳げるような海なんて近くにないから、楽しみなんだ!」
「ふっふーん♪」
れんげちゃんが得意げに笑う。
「ここには砂浜がいっぱいあるのん! ボク君には改良型水鉄砲をお見舞いするんな!」
「望むところだよ!」
「海なんー!」
「おー!」
浮かれきった声が部屋いっぱいに響く。
その横で――。
「…………去年の水着……」
小鞠お姉ちゃんだけが、一人静かに沈んでいく。
まだ海に着いてすらいない。
けれど――。
彼女の不幸な一日は、もう始まっていた。