楽しい時間というものは、どうしてこんなにも早く過ぎてしまうのだろう。
昼間はあれほど眩しかった太陽も、いつの間にか西へと傾き始めていた。
海水浴客でいっぱいだった砂浜にも少しずつ空白が目立ちはじめ、あちこちでパラソルを畳んだり、浮き輪の空気を抜いたりする人たちの姿が見える。
ぼくと蛍お姉ちゃんも着替えを終え、帰り支度の手伝いをしていた。
空き缶やペットボトルなんかの資源ごみは、海水浴場で自治体が回収してくれるらしい。それ以外のごみも、出張していた駄菓子屋にお願いして一緒に持って帰ってもらえることになった。
おかげで帰りの荷物はずいぶん軽くなった。
「これで最後かな?」
「うん。たぶん大丈夫」
ごみを出し終えたぼくと蛍お姉ちゃんは、みんなのところへ戻るため、波打ち際を並んで歩いていた。
ザザーン……。
寄せては返す波の音。
昼間なら子供たちの歓声にかき消されていたその音が、今は潮風に乗って、静かな浜辺いっぱいに響いている。
西の空では、沈みかけた夕日が雲の縁を淡く染めていた。海面には細長い光の道が伸び、波が寄せるたび、橙色のきらめきが砕けてはまた集まっていく。
「昼の砂浜も活気があってよかったけど……夕方の砂浜って、落ち着いた感じがするね」
蛍お姉ちゃんが海を眺めながら言った。
「落ち着いたっていうより、なんだか寂しく感じるよ」
「もう……」
蛍お姉ちゃんが口を尖らせる。
「ぼく君は、もう少し女の子の気持ちを汲み取れるようにならないと、れんちゃんに嫌われちゃうよ?」
「えっ!?」
思わず足が止まった。
「なんでそこで、れんげちゃんが出てくるの?」
「え?」
蛍お姉ちゃんも止まる。
「あ……そっか」
「なに?」
「ぼく君が行方不明になったせいで、有耶無耶になっちゃったんだった」
「行方不明じゃないよ!? 人助けしてただけだよ!」
「それでね。実は、ぼく君がいない間に……」
蛍お姉ちゃんから話を聞く。
「…………」
聞けば聞くほど、ぼくの顔から表情が消えていった。
「それで、れんちゃんがね――」
「夕方の砂浜……落ち着いてていいなあ……」
「ぼく君?」
「波の音って……いいなあ……」
「ぼく君がまた壊れたー!」
ぼくは現実から逃げた。
今は海だけを見よう。
何も考えず、夕日と波だけを見ていよう。
「……よしっ!」
パンッ!
蛍お姉ちゃんが自分の頬を両手で叩いた。
「ぼく君ー」
「……なに?」
虚ろな目で振り返る。
すると蛍お姉ちゃんは長い髪を両手で左右に持ち上げ――
「ウチ、ザリガニとか好きなん」
「…………」
妙に似ていた。
「れんげちゃんは、たぶんサワガニのほうが好きだと思うよ……」
「そ、そうだよね! ザリガニはダメだよね!」
「ダメじゃないと思うけど……」
「…………」
「…………」
しばらく二人で見つめ合う。
そして――
「ぷっ」
「あははははっ!」
二人同時に吹き出した。
「ぼく君、れんちゃんの真似うまいねー!」
「蛍お姉ちゃんはベタすぎるよー!」
「だって髪型から入らないと分からないでしょ!」
「れんげちゃん、そんなに髪長くないよ!」
「あはははっ!」
なんだか急に、全部どうでもよくなってきた。
ぼくと蛍お姉ちゃんは自然に手を繋ぎ、みんなが待っている場所へ向かう。
波打ち際を歩けば、ときどき足元まで海水が届いた。
ひんやりして気持ちいい。
「あーるーぷーすーいちまんじゃーく♪」
「こやりのうーえーで♪」
「アルペン踊りを――」
「さあ踊りましょ♪」
手を繋いだまま、二人で歌う。
「らーんら、らんらんらんらんらんらん♪」
「らーんら、らんらんらんらんらんらん♪」
帰り支度をしていた何人かが、ぼくたちを見て笑っていた。
きっと傍から見れば、仲のいい姉弟に見えたのだろう。
「ちょっとー! お嬢ちゃんたち、いいですかー?」
「え?」
呼び止められて振り返った瞬間――
パシャッ!
「わっ!?」
フラッシュが光った。
蛍お姉ちゃんが驚いてぼくの腕を掴む。
そこには、大きなカメラを持った金髪の外国人のおじさんが立っていた。
「突然ごめんなさい!」
おじさんは慌てて頭を下げた。
「私は世界中の夕日を撮っているフォトグラファーです。この夕日と、仲良く歩いている君たちがあまりにもマッチしていたので……つい撮ってしまいました」
そう言って名刺を差し出してくる。
「へえー!」
ぼくは名刺とカメラを交互に見る。
「金髪のおじちゃん、その写真くれるの?」
「もちろんでーす!」
「やったー!」
「ただ、私はここに数日滞在したあと、すぐ故郷へ帰らなければなりません。写真が出来たら送ってあげますよ」
「ほんと!?」
ぼくは喜んでキッズ携帯を取り出した。
「じゃあメールアドレス――」
「ぼく君」
蛍お姉ちゃんの声が低くなった。
「なに?」
「知らない人に住所まで教えちゃダメだよ」
「あ……」
そういえば、お母さんにも言われていた。
「じゃあメールだけ!」
「それなら……帰って、おばさんにも確認してもらおう?」
「うん!」
おじさんはそんなぼくたちを見て笑った。
「お姉ちゃん、しっかりしてますねー」
「お、お姉ちゃん……」
蛍お姉ちゃんの顔がちょっと嬉しそうになった。
「では近いうちに送ります。楽しみに待っていてください!」
「はーい!」
手を振りながら、外国人のおじさんを見送る。
その横で蛍お姉ちゃんが、ぼくをじーっと見ていた。
「……なに?」
「ううん」
蛍お姉ちゃんは小さく笑った。
ぼく君は警戒心が強いくせに、一度「この人は大丈夫」と思った相手には驚くほど無防備になる。
親から教えられたことを素直に信じる。
けれど、それだけじゃない。
自分で見て、自分で触って、自分で確かめたものも信じる。
機械を直す時だって、きっと同じなのだろう。
「なーんでもない。さあ、帰ろっか」
「……変な蛍お姉ちゃん」
「なによー」
二人はまた手を繋いで、みんなのところへ戻っていった。
◇ ◇ ◇
帰りの電車。
遊び疲れたぼくたちは、見事なくらい全員ぐったりしていた。
電車が走り出してしばらくすると、会話も途切れ――
気づいた時には乗り換え駅だった。
「お腹すいたー……」
「ウチもー……」
乗り換えまで少し時間がある。
そこで駅構内にあった立ち食いうどん屋さんへ向かうことになった。
「いやあ、都会になるとお店があるから助かるなー」
一穂先生が嬉しそうに言う。
「次が最後の電車だからねー。乗り遅れても知らないよー」
自分で提案したくせに、そんな注意まで付け加えた。
「……ここ、都会なの?」
夏海お姉ちゃんが駅の外を見る。
「……結構、田舎なような」
蛍お姉ちゃんも小声で突っ込んだ。
街灯は少ない。
その向こうには畑が見える。
ぼくも二人の意見に黙って頷いた。
しかし生粋の田舎暮らしのみんなにとっては、駅にうどん屋さんがある時点で都会らしい。
「いらっしゃい!」
お店に入ると、一角へ案内された。
ところが――
「あら、この子たちはちょっと届かないねえ」
ぼく、れんげちゃん、ほのかちゃん。
三人には立ち食い用の台が高すぎた。
「椅子は三脚で大丈夫ですか?」
店員さんが持ってきてくれる。
「…………」
その瞬間、小鞠お姉ちゃんが固まった。
「三脚……」
「先輩?」
「私には……いらないんですね……」
「小鞠先輩!?」
どうやら相当気にしているらしい。
うどんが出てきても、
「蛍……私ってそんなに小さく見える?」
「だ、大丈夫ですよ! ちゃんと中学生に見えますから!」
「今、一瞬考えたよね?」
「考えてません!」
まだやっている。
その隣では――
ドバッ。
「…………」
夏海お姉ちゃんが固まっていた。
手には七味唐辛子の瓶。
蓋が外れたらしい。
うどんの上には――
山。
「…………」
「…………」
夏海お姉ちゃんの額から汗が流れる。
七味のせいではない。
まだ食べていない。
そして、その目がゆっくり横へ動いた。
小鞠お姉ちゃんのうどん。
夏海お姉ちゃんは、自分のきつねうどんに乗っていた油揚げへ箸を伸ばした。
山盛りの七味を乗せた油揚げをひっくり返し――
「夏海お姉ちゃん!」
「びくぅっ!!」
「それ、ロシアンルーレットだね!」
「へ?」
「いつも夏海お姉ちゃんは遊び心があって面白いよ!」
「…………」
全員の視線が夏海お姉ちゃんへ集まった。
小鞠お姉ちゃんは即座に自分の丼を抱きかかえる。
「夏海」
「はい」
「今、何を企んでた?」
「にゃ、にゃははは……」
夏海お姉ちゃんの目に涙が浮かぶ。
「瓶の蓋が……取れた……」
「だからって私のうどんに移すなぁ!!」
騒ぎを聞いた店主さんがやってきた。
「ああ! お客さん、すみませんねえ! 蓋が緩んでたんですね。せっかくのうどんをダメにしちゃって。すぐ取り替えますから!」
「えっ!? いいんですか!?」
そして新しく出てきたうどんには――
エビが一尾、乗っていた。
「おおおおっ!」
夏海お姉ちゃんの目が輝く。
「なっつみちゃん、ラッキー♪」
「さっき人のうどんを犠牲にしようとした人が言う台詞じゃないよ!」
「そうだ、ぼく君!」
「なに?」
「今日の海の潜水! ウチ、負けたからな!」
「あっ!」
「約束通り、秘密を一つ教えてやろう!」
「ほんと!?」
「明日な!」
「やったー!」
ぼくは両手を上げた。
明日がまた楽しみになった。
◇ ◇ ◇
「先輩!!」
蛍お姉ちゃんの声が響いた。
「電車来ました!!」
「え?」
全員が固まる。
遠くから――
プァァァァン!
警笛。
「やばっ!」
「走れーっ!!」
一斉に店を飛び出した。
電車が入ってくるのは反対側のホーム。
階段を越えなければならない。
「小鞠先輩!」
「えっ――きゃあ!?」
蛍お姉ちゃんが小鞠お姉ちゃんを抱える。
「れんちょん、乗れ!」
「了解なん!」
夏海お姉ちゃんがれんげちゃんを背負った。
「ほのかちゃん!」
「んー……」
「起きて! 電車来たよ!」
ぼくはほのかちゃんの肩を揺する。
「えへへ……海、楽しかったなあ……」
「寝てる!」
完全に夢の中だった。
「ほのかちゃん! 起きて!」
「むにゃ……」
「…………」
もう時間がない。
「ダメだこりゃ」
ぼくはしゃがみ込んだ。
「よいしょっ!」
ほのかちゃんを背負う。
重い。
ぼくと同じくらいの子供一人を背負って階段を走るなんて、簡単なわけがない。
「うおおおおおっ!」
それでも走る。
「ぼく君、急いでー!」
「待ってぇぇぇ!」
足がガクガクする。
それでもなんとか階段を上り、反対側へ駆け下り――
閉まりかけるドアへ滑り込んだ。
プシュー。
「セ……セーフ……」
危なかった。
ほのかちゃんを座席に寝かせ、その横へ崩れるように座る。
「ぼく君、頑張ったな!」
夏海お姉ちゃんが肩を叩いてくる。
「ウチ、ぼく君ならできるって信じてたよ!」
「…………」
「なんだよ?」
「絶対、ほのかちゃんのこと忘れてたでしょ」
「ぎくっ」
「やっぱり!」
「まあまあ! 全員乗れたんだから言いっこなし!」
「まったくもう……」
すると小鞠お姉ちゃんが車内を見回して――固まった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「荷物……」
見ると、ぼくたちの荷物は全部、すでに車内へ運び込まれていた。
「いつの間に……」
その横で一人、余裕の表情で音楽を聴いている人物がいた。
「お兄ちゃん……いつの間に全部運んだの……?」
返事はない。
音楽を聴きながら、涼しい顔をしている。
「すごい……」
ぼくも感心する。
ところが――
「ねえねえは?」
れんげちゃんの一言。
「…………」
「…………」
「…………」
全員が止まった。
「え?」
一斉に窓を見る。
ホームのベンチ。
「すぅ……すぅ……」
夜風に吹かれながら、気持ちよさそうに眠っている一穂先生。
電車はゆっくりと動き始めていた。
「ねえねえ」
れんげちゃんが窓に張り付く。
「ねえねえー」
ホームが遠ざかる。
「…………」
夏海お姉ちゃんが、れんげちゃんの肩へそっと手を置いた。
「れんちょん……ドンマイ」
「…………」
れんげちゃんは静かに振り返った。
「ウチ、どんまいなん?」
その日。
ぼくたちは家に帰るなり、大人たちへ救援を求めることになった。
◇ ◇ ◇
「……あら?」
夜。
一条家のリビングへやってきたおばちゃんが、足を止めた。
「もう寝ちゃったの?」
ソファには蛍お姉ちゃん。
そのすぐそばには、ぼく。
家に帰ったところまでは覚えている。
そこから先は、二人とも完全に電池切れだった。
蛍お姉ちゃんの頭がぼくのほうへ傾き、ぼくもその肩にもたれかかるように眠っていた。
「ふふっ……」
おばちゃんが小さく笑う。
「今日一日で、本当の姉弟みたいになっちゃったわね」
二人にタオルケットをかける。
そして、ふと気づいた。
「…………」
海水浴。
汗だく。
駅まで全力疾走。
「……お風呂、入ってないわね」
少し考える。
けれど、二人の幸せそうな寝顔を見ると――
「まあ、今日はいいか」
おばちゃんは苦笑した。
「明日の朝にしましょう」
部屋の電気を消す。
「おやすみ、二人とも」
静かになったリビングに、二人分の寝息だけが残った。
――なお。
翌朝。
自分がぼくのすぐ隣で、一晩中寄り添うように眠っていたことに気づいた蛍お姉ちゃんが――
「え……?」
数秒停止したあと。
「ええええええええええええええっ!?」
一条家中に響く大声を上げることになるのだが。
それは、また明日のお話。