ぼくのなつやすみ〜のんのんといっしょ〜   作:Edward

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8月5日の朝

いつもより少し早く目が覚めた。

 

障子の隙間から差し込む朝の光が、部屋の床を細長く照らしている。窓の向こうでは、夜露に濡れた田んぼがきらきらと輝き、遠くで鳥の声がかすかに響いていた。

 

ぼんやり天井を見上げていたぼくは、ふと思い出した。

 

「あっ……昨日、絵日記書いてないや」

 

慌てて机に向かい、ノートを開く。

 

昨日はいろんなことがありすぎた。

海に行って、泳いで、迷子になって――。

 

鉛筆を握り、短く書き留める。

 

『8月4日 晴れ

 

みんなと海に行った。

まいごセンターにつれていかれて、ちょっとこまった。

 

北海道のみどりちゃんとあって、おどろいた。

 

身長、おいつけるかな?』

 

最後に、海とパラソル、それからみんなの絵を簡単に描き加える。

 

「……よし」

 

ノートを閉じると、今度は机の端に置いてある小さなノートパソコンを開いた。

 

メールを確認して、ネットを少しだけ眺める。

 

いつもなら、ここから今日何をしようか考えるところなのだけれど――。

 

「……なんか、しんどいかも」

 

身体が重い。

 

昨日、海ではしゃぎすぎたからだろうか。

 

そう思いながらも、ラジオ体操を休むほどではないと思って家を出た。

 

   ◇

 

「……ボク君?」

 

朝の静けさの中に、遠くから声が響いた。

 

「ボク君? どうしたんな?」

 

腕を振りながら、ぼんやり立っていたぼくの顔を、れんげちゃんが下から覗き込んでいた。朝日に照らされたその顔が、心配そうに揺れている。

 

「あ……れんげちゃん」

 

「さっきから動きがへんなのん」

 

「昨日の疲れかな……。なんか、ぼーっとしちゃって……」

 

「そうなん?」

 

れんげちゃんは首を傾げ――次の瞬間には、

 

「ウチはぐっすり寝たから元気いっぱいなんなー!」

 

くるんっ、と勢いよく回った。

 

朝から絶好調だった。

 

ラジオ体操というより、今日もレッツダンシングである。

 

「元気だなあ……」

 

いつもなら笑って見ていられるのに、今日はそれすら少しつらい。

 

腕を上げる。

 

下ろす。

 

身体を曲げる。

 

いつも簡単にできる動きなのに、身体が言うことを聞いてくれない。視界の端がぼんやり滲み、足元の地面がゆっくり揺れているように感じた。

 

そしてラジオ体操が終わる頃――。

 

「……あれ?」

 

足から力が抜けた。

 

膝が崩れ、身体がその場にぺたんとうずくまる。

 

「ボク君!」

 

蛍お姉ちゃんが駆け寄ってきた。

 

「どうしたの!?」

 

「なんか……くらくらする……」

 

蛍お姉ちゃんの手が額に触れる。

 

ひんやりした指先が触れた瞬間、その表情が変わった。

 

「熱い……。ボク君、熱があるよ!」

 

「え?」

 

「帰ろう。私がおぶっていくから」

 

「だ、大丈夫だよ。歩け――」

 

言い終わる前に、身体がふわっと浮いた。

 

「わっ」

 

蛍お姉ちゃんに背負われていた。

 

背中越しに伝わる体温と、しっかりした腕の感触。けれど、ぼくの頭はますますぼんやりして、周りの景色が後ろへ流れていく。

 

「しっかりつかまってて!」

 

そのまま蛍お姉ちゃんは、一目散に走り出した。

 

朝露の残る田んぼ道を、蛍お姉ちゃんの足音が規則正しく駆けていく。それを見送ったれんげちゃんが、ぽつりと言う。

 

「……ほたるん、コマちゃん担いだり、ボク君背負ったり……」

 

少し考えて、

 

「ぱわふるなん……」

 

朝の田んぼ道に、感心した声が響いた。

 

   ◇

 

「……ん……」

 

目を開ける。

 

ぼんやりとした視界の中に、見慣れた天井が浮かんだ。

 

「あれ……?」

 

自分の部屋だ。

 

額には冷たいシートが貼られている。ひやりとした感触が、熱で火照った頭に心地よかった。

 

枕元には、おばちゃんが座っていた。

 

「あ、起きた?」

 

「おばちゃん……?」

 

「ボク君、大丈夫? ラジオ体操の途中で倒れたんだよ。覚えてる?」

 

「うん……なんとなく」

 

額に手を当ててもらう。

 

ひんやりした手が気持ちよくて、思わず目を細めた。

 

「まだ熱があるわね。さっきはもっと高かったから座薬も入れたけど、気持ち悪くない?」

 

「うーん……」

 

少し身体を動かしてみる。

 

「なんか、お尻に違和感ある……」

 

「あはは。でも大丈夫そうね」

 

おばちゃんは、張りつめていたものがほどけたように安心して笑った。

 

「お昼になったら、お粥を作ってあげるから。それまで寝てなさい」

 

「うん……」

 

「そうだ。ボク君、白粥と茶粥、どっちが好き?」

 

「ちゃがゆ?」

 

聞いたことのない言葉だった。

 

「お粥って、茶色いのもあるの?」

 

「やっぱり知らないんだ」

 

おばちゃんが笑う。

 

「おばちゃんもこっちに来て初めて知ったのよ。じゃあ、あとで作ってあげる」

 

「うん。ありがとう」

 

おばちゃんが立ち上がろうとする。

 

その時――。

 

「……おばちゃん」

 

「ん?」

 

ぼくは少し迷ってから、おばちゃんのスカートの裾をちょこんとつまんだ。

 

「お願いしていい?」

 

「なあに?」

 

「……ちょっとだけ、一緒にいて」

 

自分でも、子供っぽいお願いだと思った。

 

でも今日は、熱に浮かされた身体も、見慣れない天井も、ひとりきりになることも、全部が心細かった。

 

おばちゃんは少し驚いたあと、優しく笑ってもう一度座ってくれた。

 

「ボク君も、まだまだ甘えたさんね」

 

「……うん」

 

「でも夏休みが終わった頃には、お母さんから連絡が来るんでしょう?」

 

ぼくは黙って頷いた。

 

「弟か妹が生まれたら、ボク君もお兄ちゃんなんだから。しっかりしないとね」

 

「……うん」

 

お兄ちゃん。

 

その言葉は、嬉しいはずだった。

 

楽しみにもしている。

 

なのに今日はなぜか、胸の奥が少しだけ寂しくなった。

 

お兄ちゃんになったら、もうこんなふうに甘えちゃいけないのかな。

 

熱のせいなのか、目の奥がじんと熱くなる。そんなことを考えながら目を閉じる。

 

頭を撫でてくれる手が、とても気持ちよかった。

 

やがて――。

 

すう……。

 

規則正しい寝息が、静かな部屋に溶けていく。

 

その時、部屋の扉が静かに開いた。

 

「……ボク君、寝た?」

 

蛍だった。

 

「ええ。今、寝たところ」

 

おばちゃんは小声で答える。

 

「慣れない場所に来て、毎日あれだけ遊んでいたら疲れるわよね。今日は一日お休みかな」

 

「夏海先輩と小鞠先輩が来てるんだけど……今日は帰ってもらった方がいいかな?」

 

「そうね。今日一日様子を見て、熱が上がるようならお医者さんに診てもらいましょう。でも、多分明日には元気になると思うわ」

 

「……ボク君、大丈夫かな」

 

蛍は心配そうに眠っている顔を覗き込む。

 

熱で赤くなった頬と、額に貼られた冷却シート。その寝顔を見つめる蛍の声は、いつもよりずっと小さかった。

 

「大丈夫よ」

 

おばちゃんは微笑んだ。

 

「小さい頃なんて、何度も熱を出してたんだから」

 

「そうなの?」

 

「蛍は覚えてないでしょうけどね。東京にいた頃、ボク君が熱を出したって聞いて、何度もお手伝いに行ったのよ」

 

そう言って、おばちゃんは眠るぼくの髪をそっと撫でる。

 

「……こんなに大きくなって」

 

その声に、蛍は首を傾げた。

 

おばちゃんの目が、少しだけ潤んでいたからだ。

 

「ねえ、蛍」

 

「なに?」

 

「こっちに来てから……ボク君、どう?」

 

「え?」

 

急な質問に戸惑いながら、蛍は少し考える。

 

「すごく元気だよ。毎日みんなと遊んでるし……」

 

そして、ふっと笑った。

 

「なんていうのかな。向日葵みたい」

 

「向日葵?」

 

「うん。気がついたら、みんなボク君の周りに集まってて……いつの間にか、ボク君を中心にみんなが動いてるみたい」

 

「……そう」

 

おばちゃんはもう一度、ぼくを見る。

 

「向日葵か……」

 

小さく呟いて、頷いた。

 

「じゃあ、向日葵君が起きた時のお粥でも作りますか」

 

「うん。私、先輩たちを部屋に通してるから戻るね」

 

二人は静かに部屋を出ていった。

 

   ◇

 

ところが。

 

蛍の部屋では、病人のいる家とは思えない事態が進行していた。

 

「うおおっ! 蛍、こんな最新ゲーム持ってるのかー! いいなあ!」

 

夏海がテレビの前を陣取り、画面いっぱいに広がる光と爆発音に夢中になっている。

 

その横では小鞠が、蛍のアルバムを発見していた。

 

「へえー。蛍って昔は――」

 

一ページめくる。

 

「……え?」

 

もう一ページ。

 

「ええっ!?」

 

写真と現在の蛍を交互に見る。

 

「こ、これ……まだ一年前の蛍だよね!?」

 

「んー?」

 

夏海はゲームをしながら生返事をする。

 

「この一年で何があったの!?」

 

小鞠にとっては重大事件だった。

 

自分よりずっと小さかったはずの蛍が、わずか一年で自分を遥かに追い越している。

 

「絶対、何か秘密がある……」

 

そして、机の上にもう一冊のアルバムを見つけた。

 

「あれだ!」

 

椅子の上に立ち、手を伸ばす。

 

しかし――。

 

「んっ……あとちょっと……!」

 

ぐらっ。

 

「あ」

 

椅子が傾いた。

 

「ねーちゃん!?」

 

ゴンッ!

 

「いたぁっ!」

 

小鞠の後頭部がタンスに直撃した。

 

その衝撃で、タンスの扉がゆっくり開く。

 

そして――。

 

「お待たせしましたー」

 

ちょうど蛍が部屋へ戻ってきた瞬間。

 

どさどさどさどさどさっ!

 

大量の何かが、雪崩のように降り注いだ。

 

「…………」

 

蛍が固まる。

 

「…………」

 

小鞠も固まる。

 

夏海が一つ拾い上げた。

 

「……ねーちゃん?」

 

そこには、小鞠そっくりのぬいぐるみ。

 

いわゆる――コマぐるみ。

 

小鞠も一つ拾う。

 

「こ、これ……」

 

じーっと見る。

 

「わたし?」

 

「本当だ」

 

夏海も別の一体を拾う。

 

「ねーちゃんがいっぱい」

 

「…………」

 

蛍の顔から血の気が引いた。

 

「あ……あの……これは、その……!」

 

言い訳。

 

何か言い訳をしなければ。

 

しかし、頭の中は真っ白になり、言葉が出てこない。

 

「ち、違うんです! 違わないんですけど、違うというか、その――!」

 

ところが。

 

「すごい!」

 

「……え?」

 

小鞠はコマぐるみを両手で持ち、目を輝かせていた。

 

「蛍、こんなの作れるんだ!」

 

「え……はい」

 

「私もお気に入りのぬいぐるみがあるんだけど、ちょっと破れちゃっててさ。蛍なら直せそうだね!」

 

「もちろんです!」

 

一瞬で蛍の顔が明るくなる。

 

「それに、私にも作り方教えてよ!」

 

「はい! 喜んで!」

 

小鞠先輩のお役に立てる。

 

蛍にとって、それだけで先ほどの危機はすべて吹き飛んだ。

 

ただ一人。

 

「えー……」

 

夏海だけが露骨につまらなそうな顔をしていた。

 

「ウチ、そういうチクチクするの苦手なんだけどー」

 

「あんたは持ってきたゲームでもしてなさい」

 

「ちぇー」

 

夏海はカバンをごそごそ探る。

 

「せっかく今日は、ボク少年に秘密を一個教えてやろうと思ってたのになあ」

 

中から出てきたのは、古いゲームソフトと一本のビデオテープ。

 

蛍がそれを見る。

 

「でも夏海先輩。うち、ビデオデッキないですよ?」

 

「え?」

 

「それに、このゲームもかなり古いから……うちのゲーム機じゃ動かないと思います」

 

「なんだとぉ!?」

 

夏海が絶望した、その時。

 

「……ぼくの部屋にあるよ」

 

「「「え?」」」

 

三人が振り返る。

 

扉のところに、パジャマ姿のぼくが立っていた。

 

顔はまだ熱で赤く、髪も寝起きのまま。けれど、隣の部屋から響く声があまりに大きくて、眠っていられなかった。

 

「ボク君!?」

 

蛍が驚く。

 

「寝てなくて大丈夫なの?」

 

「だって……」

 

ぼくは半分閉じた目で答えた。

 

「それだけ隣ではしゃいでたら、目も覚めるよ……」

 

「あ……」

 

三人が気まずそうに黙った。

 

ただし一人を除いて。

 

「おおーっ! ボク少年!!」

 

夏海が飛びついてくる。

 

「復活したかー!」

 

「してないよ……」

 

「それよりデッキあるの!?」

 

「あるけど……」

 

ぼくは眠い目をこすった。

 

「おじちゃんが倉庫にあった古いビデオデッキとかゲーム機を持ってきて、直してほしいって言うから……動くようにはしておいたんだ」

 

「さすがボク少年!」

 

「だから病人なんだってば……」

 

「では動作確認に参りましょう!」

 

「え、ちょっ――」

 

夏海に手を引かれ、そのまま部屋へ連行された。

 

   ◇

 

「いやー、ボク君がいて助かったー!」

 

ぼくの部屋に入った途端、夏海は元気いっぱいだった。

 

「ウチ、あんなぬいぐるみチクチクするの、性に合わんよ」

 

「小鞠ちゃんは楽しそうだったけど……」

 

「ねーちゃんは意外とそういうの好きだからなー」

 

ぼくはテレビの後ろに回り、ケーブルを確認する。

 

「えっと……これはこっちで……入力を切り替えて……」

 

ビデオデッキを接続。

 

夏海から受け取ったテープを入れる。

 

ウィーン。

 

ガチャッ。

 

古い機械が低く唸り、画面に砂嵐が走る。

 

しばらくして、ざらついたノイズの向こうから映像が浮かび上がった。

 

「あっ!」

 

ぼくは思わずテレビに近づいた。

 

「これ、昔流行った超人シリーズだ!」

 

「おっ?」

 

夏海がニヤリとする。

 

「ボク君も知ってるのか。通だねー」

 

「この話、ぼくまだ見たことない!」

 

「マジで? これウチの父ちゃんが見てた時代のやつだぞ?」

 

「うん。ストリーミング放送で時々やってるの見てたから」

 

「…………」

 

夏海の動きが止まった。

 

「どうしたの?」

 

「いや……」

 

夏海は腕を組む。

 

「同じ作品の話をしてるはずなのに……」

 

首を傾げる。

 

「なんだろう。この微妙に話が噛み合ってない感じ」

 

「?」

 

ぼくは意味が分からず首を傾げた。

 

ブラウン管のテレビでは、何十年も前の超人たちが、色あせた画面の中で元気いっぱいに戦っている。

 

隣の部屋からは、小鞠ちゃんと蛍お姉ちゃんの楽しそうな声。

 

そしてぼくの隣では、夏海が古いビデオテープを抱えている。

 

熱に浮かされた身体はまだ重く、頭も少しぼんやりしていた。

 

風邪をひいて、今日は何もできないと思っていたけれど――。

 

こういう一日も、悪くないのかもしれない。

 

……ただ。

 

「ボク少年、次これ見よう!」

 

「夏海ちゃん……ぼく、一応病人なんだけど……」

 

「寝ながら見れば問題なし!」

 

「そういう問題かなあ……」

 

結局。

 

ぼくの静養日は、あんまり静かな一日にはなりそうになかった。

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