いつもより少し早く目が覚めた。
障子の隙間から差し込む朝の光が、部屋の床を細長く照らしている。窓の向こうでは、夜露に濡れた田んぼがきらきらと輝き、遠くで鳥の声がかすかに響いていた。
ぼんやり天井を見上げていたぼくは、ふと思い出した。
「あっ……昨日、絵日記書いてないや」
慌てて机に向かい、ノートを開く。
昨日はいろんなことがありすぎた。
海に行って、泳いで、迷子になって――。
鉛筆を握り、短く書き留める。
『8月4日 晴れ
みんなと海に行った。
まいごセンターにつれていかれて、ちょっとこまった。
北海道のみどりちゃんとあって、おどろいた。
身長、おいつけるかな?』
最後に、海とパラソル、それからみんなの絵を簡単に描き加える。
「……よし」
ノートを閉じると、今度は机の端に置いてある小さなノートパソコンを開いた。
メールを確認して、ネットを少しだけ眺める。
いつもなら、ここから今日何をしようか考えるところなのだけれど――。
「……なんか、しんどいかも」
身体が重い。
昨日、海ではしゃぎすぎたからだろうか。
そう思いながらも、ラジオ体操を休むほどではないと思って家を出た。
◇
「……ボク君?」
朝の静けさの中に、遠くから声が響いた。
「ボク君? どうしたんな?」
腕を振りながら、ぼんやり立っていたぼくの顔を、れんげちゃんが下から覗き込んでいた。朝日に照らされたその顔が、心配そうに揺れている。
「あ……れんげちゃん」
「さっきから動きがへんなのん」
「昨日の疲れかな……。なんか、ぼーっとしちゃって……」
「そうなん?」
れんげちゃんは首を傾げ――次の瞬間には、
「ウチはぐっすり寝たから元気いっぱいなんなー!」
くるんっ、と勢いよく回った。
朝から絶好調だった。
ラジオ体操というより、今日もレッツダンシングである。
「元気だなあ……」
いつもなら笑って見ていられるのに、今日はそれすら少しつらい。
腕を上げる。
下ろす。
身体を曲げる。
いつも簡単にできる動きなのに、身体が言うことを聞いてくれない。視界の端がぼんやり滲み、足元の地面がゆっくり揺れているように感じた。
そしてラジオ体操が終わる頃――。
「……あれ?」
足から力が抜けた。
膝が崩れ、身体がその場にぺたんとうずくまる。
「ボク君!」
蛍お姉ちゃんが駆け寄ってきた。
「どうしたの!?」
「なんか……くらくらする……」
蛍お姉ちゃんの手が額に触れる。
ひんやりした指先が触れた瞬間、その表情が変わった。
「熱い……。ボク君、熱があるよ!」
「え?」
「帰ろう。私がおぶっていくから」
「だ、大丈夫だよ。歩け――」
言い終わる前に、身体がふわっと浮いた。
「わっ」
蛍お姉ちゃんに背負われていた。
背中越しに伝わる体温と、しっかりした腕の感触。けれど、ぼくの頭はますますぼんやりして、周りの景色が後ろへ流れていく。
「しっかりつかまってて!」
そのまま蛍お姉ちゃんは、一目散に走り出した。
朝露の残る田んぼ道を、蛍お姉ちゃんの足音が規則正しく駆けていく。それを見送ったれんげちゃんが、ぽつりと言う。
「……ほたるん、コマちゃん担いだり、ボク君背負ったり……」
少し考えて、
「ぱわふるなん……」
朝の田んぼ道に、感心した声が響いた。
◇
「……ん……」
目を開ける。
ぼんやりとした視界の中に、見慣れた天井が浮かんだ。
「あれ……?」
自分の部屋だ。
額には冷たいシートが貼られている。ひやりとした感触が、熱で火照った頭に心地よかった。
枕元には、おばちゃんが座っていた。
「あ、起きた?」
「おばちゃん……?」
「ボク君、大丈夫? ラジオ体操の途中で倒れたんだよ。覚えてる?」
「うん……なんとなく」
額に手を当ててもらう。
ひんやりした手が気持ちよくて、思わず目を細めた。
「まだ熱があるわね。さっきはもっと高かったから座薬も入れたけど、気持ち悪くない?」
「うーん……」
少し身体を動かしてみる。
「なんか、お尻に違和感ある……」
「あはは。でも大丈夫そうね」
おばちゃんは、張りつめていたものがほどけたように安心して笑った。
「お昼になったら、お粥を作ってあげるから。それまで寝てなさい」
「うん……」
「そうだ。ボク君、白粥と茶粥、どっちが好き?」
「ちゃがゆ?」
聞いたことのない言葉だった。
「お粥って、茶色いのもあるの?」
「やっぱり知らないんだ」
おばちゃんが笑う。
「おばちゃんもこっちに来て初めて知ったのよ。じゃあ、あとで作ってあげる」
「うん。ありがとう」
おばちゃんが立ち上がろうとする。
その時――。
「……おばちゃん」
「ん?」
ぼくは少し迷ってから、おばちゃんのスカートの裾をちょこんとつまんだ。
「お願いしていい?」
「なあに?」
「……ちょっとだけ、一緒にいて」
自分でも、子供っぽいお願いだと思った。
でも今日は、熱に浮かされた身体も、見慣れない天井も、ひとりきりになることも、全部が心細かった。
おばちゃんは少し驚いたあと、優しく笑ってもう一度座ってくれた。
「ボク君も、まだまだ甘えたさんね」
「……うん」
「でも夏休みが終わった頃には、お母さんから連絡が来るんでしょう?」
ぼくは黙って頷いた。
「弟か妹が生まれたら、ボク君もお兄ちゃんなんだから。しっかりしないとね」
「……うん」
お兄ちゃん。
その言葉は、嬉しいはずだった。
楽しみにもしている。
なのに今日はなぜか、胸の奥が少しだけ寂しくなった。
お兄ちゃんになったら、もうこんなふうに甘えちゃいけないのかな。
熱のせいなのか、目の奥がじんと熱くなる。そんなことを考えながら目を閉じる。
頭を撫でてくれる手が、とても気持ちよかった。
やがて――。
すう……。
規則正しい寝息が、静かな部屋に溶けていく。
その時、部屋の扉が静かに開いた。
「……ボク君、寝た?」
蛍だった。
「ええ。今、寝たところ」
おばちゃんは小声で答える。
「慣れない場所に来て、毎日あれだけ遊んでいたら疲れるわよね。今日は一日お休みかな」
「夏海先輩と小鞠先輩が来てるんだけど……今日は帰ってもらった方がいいかな?」
「そうね。今日一日様子を見て、熱が上がるようならお医者さんに診てもらいましょう。でも、多分明日には元気になると思うわ」
「……ボク君、大丈夫かな」
蛍は心配そうに眠っている顔を覗き込む。
熱で赤くなった頬と、額に貼られた冷却シート。その寝顔を見つめる蛍の声は、いつもよりずっと小さかった。
「大丈夫よ」
おばちゃんは微笑んだ。
「小さい頃なんて、何度も熱を出してたんだから」
「そうなの?」
「蛍は覚えてないでしょうけどね。東京にいた頃、ボク君が熱を出したって聞いて、何度もお手伝いに行ったのよ」
そう言って、おばちゃんは眠るぼくの髪をそっと撫でる。
「……こんなに大きくなって」
その声に、蛍は首を傾げた。
おばちゃんの目が、少しだけ潤んでいたからだ。
「ねえ、蛍」
「なに?」
「こっちに来てから……ボク君、どう?」
「え?」
急な質問に戸惑いながら、蛍は少し考える。
「すごく元気だよ。毎日みんなと遊んでるし……」
そして、ふっと笑った。
「なんていうのかな。向日葵みたい」
「向日葵?」
「うん。気がついたら、みんなボク君の周りに集まってて……いつの間にか、ボク君を中心にみんなが動いてるみたい」
「……そう」
おばちゃんはもう一度、ぼくを見る。
「向日葵か……」
小さく呟いて、頷いた。
「じゃあ、向日葵君が起きた時のお粥でも作りますか」
「うん。私、先輩たちを部屋に通してるから戻るね」
二人は静かに部屋を出ていった。
◇
ところが。
蛍の部屋では、病人のいる家とは思えない事態が進行していた。
「うおおっ! 蛍、こんな最新ゲーム持ってるのかー! いいなあ!」
夏海がテレビの前を陣取り、画面いっぱいに広がる光と爆発音に夢中になっている。
その横では小鞠が、蛍のアルバムを発見していた。
「へえー。蛍って昔は――」
一ページめくる。
「……え?」
もう一ページ。
「ええっ!?」
写真と現在の蛍を交互に見る。
「こ、これ……まだ一年前の蛍だよね!?」
「んー?」
夏海はゲームをしながら生返事をする。
「この一年で何があったの!?」
小鞠にとっては重大事件だった。
自分よりずっと小さかったはずの蛍が、わずか一年で自分を遥かに追い越している。
「絶対、何か秘密がある……」
そして、机の上にもう一冊のアルバムを見つけた。
「あれだ!」
椅子の上に立ち、手を伸ばす。
しかし――。
「んっ……あとちょっと……!」
ぐらっ。
「あ」
椅子が傾いた。
「ねーちゃん!?」
ゴンッ!
「いたぁっ!」
小鞠の後頭部がタンスに直撃した。
その衝撃で、タンスの扉がゆっくり開く。
そして――。
「お待たせしましたー」
ちょうど蛍が部屋へ戻ってきた瞬間。
どさどさどさどさどさっ!
大量の何かが、雪崩のように降り注いだ。
「…………」
蛍が固まる。
「…………」
小鞠も固まる。
夏海が一つ拾い上げた。
「……ねーちゃん?」
そこには、小鞠そっくりのぬいぐるみ。
いわゆる――コマぐるみ。
小鞠も一つ拾う。
「こ、これ……」
じーっと見る。
「わたし?」
「本当だ」
夏海も別の一体を拾う。
「ねーちゃんがいっぱい」
「…………」
蛍の顔から血の気が引いた。
「あ……あの……これは、その……!」
言い訳。
何か言い訳をしなければ。
しかし、頭の中は真っ白になり、言葉が出てこない。
「ち、違うんです! 違わないんですけど、違うというか、その――!」
ところが。
「すごい!」
「……え?」
小鞠はコマぐるみを両手で持ち、目を輝かせていた。
「蛍、こんなの作れるんだ!」
「え……はい」
「私もお気に入りのぬいぐるみがあるんだけど、ちょっと破れちゃっててさ。蛍なら直せそうだね!」
「もちろんです!」
一瞬で蛍の顔が明るくなる。
「それに、私にも作り方教えてよ!」
「はい! 喜んで!」
小鞠先輩のお役に立てる。
蛍にとって、それだけで先ほどの危機はすべて吹き飛んだ。
ただ一人。
「えー……」
夏海だけが露骨につまらなそうな顔をしていた。
「ウチ、そういうチクチクするの苦手なんだけどー」
「あんたは持ってきたゲームでもしてなさい」
「ちぇー」
夏海はカバンをごそごそ探る。
「せっかく今日は、ボク少年に秘密を一個教えてやろうと思ってたのになあ」
中から出てきたのは、古いゲームソフトと一本のビデオテープ。
蛍がそれを見る。
「でも夏海先輩。うち、ビデオデッキないですよ?」
「え?」
「それに、このゲームもかなり古いから……うちのゲーム機じゃ動かないと思います」
「なんだとぉ!?」
夏海が絶望した、その時。
「……ぼくの部屋にあるよ」
「「「え?」」」
三人が振り返る。
扉のところに、パジャマ姿のぼくが立っていた。
顔はまだ熱で赤く、髪も寝起きのまま。けれど、隣の部屋から響く声があまりに大きくて、眠っていられなかった。
「ボク君!?」
蛍が驚く。
「寝てなくて大丈夫なの?」
「だって……」
ぼくは半分閉じた目で答えた。
「それだけ隣ではしゃいでたら、目も覚めるよ……」
「あ……」
三人が気まずそうに黙った。
ただし一人を除いて。
「おおーっ! ボク少年!!」
夏海が飛びついてくる。
「復活したかー!」
「してないよ……」
「それよりデッキあるの!?」
「あるけど……」
ぼくは眠い目をこすった。
「おじちゃんが倉庫にあった古いビデオデッキとかゲーム機を持ってきて、直してほしいって言うから……動くようにはしておいたんだ」
「さすがボク少年!」
「だから病人なんだってば……」
「では動作確認に参りましょう!」
「え、ちょっ――」
夏海に手を引かれ、そのまま部屋へ連行された。
◇
「いやー、ボク君がいて助かったー!」
ぼくの部屋に入った途端、夏海は元気いっぱいだった。
「ウチ、あんなぬいぐるみチクチクするの、性に合わんよ」
「小鞠ちゃんは楽しそうだったけど……」
「ねーちゃんは意外とそういうの好きだからなー」
ぼくはテレビの後ろに回り、ケーブルを確認する。
「えっと……これはこっちで……入力を切り替えて……」
ビデオデッキを接続。
夏海から受け取ったテープを入れる。
ウィーン。
ガチャッ。
古い機械が低く唸り、画面に砂嵐が走る。
しばらくして、ざらついたノイズの向こうから映像が浮かび上がった。
「あっ!」
ぼくは思わずテレビに近づいた。
「これ、昔流行った超人シリーズだ!」
「おっ?」
夏海がニヤリとする。
「ボク君も知ってるのか。通だねー」
「この話、ぼくまだ見たことない!」
「マジで? これウチの父ちゃんが見てた時代のやつだぞ?」
「うん。ストリーミング放送で時々やってるの見てたから」
「…………」
夏海の動きが止まった。
「どうしたの?」
「いや……」
夏海は腕を組む。
「同じ作品の話をしてるはずなのに……」
首を傾げる。
「なんだろう。この微妙に話が噛み合ってない感じ」
「?」
ぼくは意味が分からず首を傾げた。
ブラウン管のテレビでは、何十年も前の超人たちが、色あせた画面の中で元気いっぱいに戦っている。
隣の部屋からは、小鞠ちゃんと蛍お姉ちゃんの楽しそうな声。
そしてぼくの隣では、夏海が古いビデオテープを抱えている。
熱に浮かされた身体はまだ重く、頭も少しぼんやりしていた。
風邪をひいて、今日は何もできないと思っていたけれど――。
こういう一日も、悪くないのかもしれない。
……ただ。
「ボク少年、次これ見よう!」
「夏海ちゃん……ぼく、一応病人なんだけど……」
「寝ながら見れば問題なし!」
「そういう問題かなあ……」
結局。
ぼくの静養日は、あんまり静かな一日にはなりそうになかった。