「ん……んん……ん?」
ぼくは、いつの間にか眠っていたらしい。
目を開けるとテレビはついたまま。さっきまで見ていたアニメの音が、遠い水底から響いてくるように、ぼんやりと耳に入ってくる。
身体を起こそうとして――動かなかった。
「……重い」
というか、苦しい。
胸の上に、何かがずしりとのしかかっている。
「んんっ……!」
手足をばたばたさせて、必死に脱出しようとした、その時だった。
むにゅ。
右手のひらに、ふわりと沈み込むような柔らかい感触が触れた。
「……?」
なんだろう。
寝ぼけた頭のまま、ぐっぱっ、ぐっぱっ、と手を動かす。
「んにゃー……」
「…………」
すぐ耳元で、人の声がした。
ぼくは反射的に手を引っ込める。
そして、この声には聞き覚えがあった。
「夏海おねえちゃーん……苦しいよー」
「ん……あれ?」
ぼくの上に半分覆い被さるようにして眠っていた夏海お姉ちゃんが、むくりと身体を起こした。
「ウチも寝てた」
口元をぬぐいながら、まだ眠そうな目をこする。
「ぼくが寝てる間に何してたの?」
テレビはつけっぱなし。
部屋の時計を見ると、結構な時間が経っていた。
「いやー、ボク君が気持ちよさそうに寝てたからさ。ウチもちょっと横になろうかなーって思ったら……」
「寝ちゃったの?」
「寝ちまった」
「ぼく、病人なんだから寝るのは当然だよ」
「めんごめんご。いやー、それにしてもよく寝たぁ!」
夏海お姉ちゃんは両腕を上げ、大きく伸びをする。
ところが途中で、ぴたりと動きを止めた。
「…………ん?」
何かを考えるように、自分の身体を見る。
それから、ゆっくりぼくを振り返った。
「ボク君」
「なに?」
「……さっき、ウチが寝てるのをいいことに、変なところ触った?」
「えっ?」
「いや、なんか……違和感が」
「知らないよ!」
そう答えてから、ぼくは自分の右手を見る。
「……あ」
「その『あ』は何だ、その『あ』は」
「さっき苦しくて暴れてた時、なんか柔らかいものを掴んだかも……」
「…………」
「でも、何かは見てないよ?」
夏海お姉ちゃんの目が細くなった。
「ボク君……高くつくよ」
「ええっ!?」
「ふっふーん!」
さっきまで寝ぼけていた夏海お姉ちゃんが、急に元気になる。
「とうとうボク君の弱みを握ったぞー! 蛍に知られたくなかったら――」
「ねえ、夏海お姉ちゃん」
「言い逃れは聞かーん!」
「いや、そうじゃなくて。テレビ」
「へ?」
二人でテレビを見る。
いつの間にかアニメは終わり、昔録画したらしいホームビデオが流れていた。
画面の中には、小さな女の子が映っている。
『あー! にいちゃんだー!』
夏海お姉ちゃんの動きが止まった。
『ウチ、にいちゃんのお嫁さんになるー!』
「…………」
次の瞬間。
ダダダダッ!
速かった。
たぶん今日一番速かった。
夏海お姉ちゃんは一瞬でテレビの前まで移動すると、
ブチッ!
まるで証拠を消し去るように、電源を切った。
「…………」
「…………」
静寂。
さっきまで流れていた映像の余韻だけが、部屋の空気に取り残されている。
やがて、窓の外からセミの声がじわじわと押し寄せてきた。
「夏海お姉ちゃん」
「……何も見てないよね?」
「うん」
「何も聞いてないよね?」
「……うん」
「よし」
ぼくは布団の横に置かれていたゲーム機を手に取った。
「じゃあ……これでチャラってことで」
「…………」
返事はなかった。
「あああああああああああああ!!」
夏海お姉ちゃんは頭を抱え、床を転がり始めた。
「昔のウチぃぃぃぃ!! なんでそんなこと言ったぁぁぁぁ!!」
ゴロゴロ。
ゴロゴロ。
その時、部屋の扉が開いた。
「ボク君、夏海先輩、お昼ご飯――」
蛍が固まった。
「……どうしたんですか?」
床では夏海お姉ちゃんが悶絶している。
「うん。ちょっと中二病みたいなのが爆発したみたい」
「……?」
蛍は首を傾げた。
「夏海先輩、中一ですけど……」
「似たような病気だから大丈夫」
「そうなんですか?」
「うん。たぶん、しばらくしたら治るよ」
「うあああああ……!」
「夏海お姉ちゃん、治ったら下に来てね」
ぼくは蛍の背中を押し、そのまま部屋をあとにした。
*
「わあ……これが茶粥なんだ」
湯気の立つお茶碗を前にして、ぼくは思わず声を上げた。
薄く色づいたお粥の中には、さいころくらいの大きさに切られたサツマイモ。
一口食べる。
「……おいしい」
立ちのぼるほうじ茶の香ばしい匂い。
舌の上でほどける、柔らかいお米。
そこへ時々混じる、サツマイモのほのかな甘さ。
朝からあまり食欲のなかったぼくでも、不思議なくらいするすると食べられた。
「よかった。そのくらい食べられるなら、すぐ元気になるわよ」
おばちゃんが優しく笑う。
「おかわり!」
「あらあら」
空になったお茶碗を渡すと、すぐによそってくれた。
一方、元気なみんなのお昼ご飯は焼きそばだった。
「これも美味しいです」
小鞠お姉ちゃんが嬉しそうに頬張る。
「蛍はいいなあ。毎日こんな美味しいご飯食べてるんだ」
「えへへ」
褒められた蛍も嬉しそうだ。
すると、おばちゃんが階段の方を見る。
「それにしても夏海ちゃん、どうしたのかしら?」
「たぶん、もうすぐ――」
ドン。
ドン。
ドン。
階段から、床板を揺らすような重い足音が聞こえてきた。
「……あれは応えた……」
夏海お姉ちゃんが、幽霊みたいな顔で降りてきた。
「アルマゲドンと大地震が同時に来た気分だわ……」
「あっ、夏海お姉ちゃん。治った?」
「なんとかね……」
椅子に座った夏海お姉ちゃんは、突然ぼくの肩に手を置いた。
「ボク君」
「なに?」
「今日の出来事によって、ウチらの友情はさらに深まった」
「……そうなの?」
「そうなのだ。よって今後も共に夏休みを謳歌しようではないか!」
「う、うん……」
「では焼きそばをいただく!」
ずるずるずるっ!
ものすごい勢いで焼きそばを食べ始める。
ぼくたちは顔を見合わせた。
「夏海、何かあったの?」
「小鞠には関係ない!」
「なんで怒るのよ!」
いつもの二人に戻ったようなので、ぼくは安心して茶粥を食べることにした。
*
――その頃。
越谷家では、もう一つの事件が起きていた。
「あら?」
掃除をしていた雪子が、夏海の布団の下から何かを見つける。
一学期の成績表。
そして――数枚のテスト用紙。
「…………夏海」
低い声が、誰もいない部屋に響いた。
ちょうどその頃、居間にいた卓は何かを察したらしい。
無言で立ち上がる。
玄関へ向かう。
靴を履く。
そして――脱出。
兄の危機察知能力は、妹より遥かに優秀だったという。
*
「午後からどうしよっか?」
食事が終わると、小鞠お姉ちゃんがみんなに尋ねた。
「ボク君には悪いけどさー」
夏海お姉ちゃんが窓の外を見る。
「暑くなってきたし、川で飛び込みでもしようよ! れんちょんとほのかちゃんも、川でカニ捕るって言ってたし!」
「うん。ぼくは大丈夫だよ」
本当は少し羨ましかったけれど、仕方ない。
「昼からも寝てる。夏海お姉ちゃん、ゲームもうちょっと借りてていい?」
「いいともいいとも!」
夏海お姉ちゃんは急にぼくの耳元へ顔を近づける。
「ただし……」
「?」
「あのアルマゲドンは、慎重に保管するように」
「……わかった」
二人だけに通じる暗号だった。
「アルマゲドン?」
小鞠お姉ちゃんが首を傾げる。
「何でもない!」
夏海お姉ちゃんの声が裏返った。
「じゃあ、ぼくは二階に行くね」
「ちゃんと寝てなよー!」
「はーい」
ぼくが二階へ戻ると、三人も外へ出ていった。
窓から何となく眺めていると、蛍の声が聞こえてきた。
「あの……飛び込みって何ですか?」
「そのまんまだよ。川に飛び込むの!」
「えっ」
「こんな暑い日は川遊びに限るって!」
「でも……高いところからですよね?」
蛍の声が明らかに不安そうになる。
すると小鞠お姉ちゃんが胸を張った。
「大丈夫だよ。ちょっと高いけど、飛んじゃえば気持ちいいから!」
「…………」
「あ、そうだ! 怖かったら私と一緒に飛び込んであげる」
「小鞠先輩と……?」
蛍の声が変わった。
「はい! やってみます!」
「よーし、行こ!」
三人が走っていく。
その姿が小さくなるまで、ぼくは窓から見送っていた。
「……飛び込みかあ」
やっぱり、羨ましい。
「ぼくもやってみたかったなあ……」
布団へ潜り込む。
薬が効いたのか、朝よりずっと身体は楽になっていた。
でも、「もう大丈夫だから行ってくる!」なんて言ったところで、おばちゃんに止められるのは分かっている。
「早く治ってくれないかなあ……」
目を閉じる。
遠くから聞こえるセミの声が、少しずつ薄れ、だんだん遠くなっていった。
*
夢を見た。
ずっと昔。
まだ、ぼくが小さかった頃。
北海道へ行った日の夢。
広い牧場。
どこまでも続く草原。
草滑りをして――途中で怖くなって転んだ。
『うわあああん!』
『だいじょうぶ?』
みどりちゃんが手を差し出してくれた。
その手を握って、二人で走った。
牛を間近で見て泣いた。
大きすぎたからだ。
工場見学では、動いているベルトコンベアを見てまた泣いた。
なんだか吸い込まれそうで怖かった。
……あれ?
ぼく、泣いてばっかりだ。
これ、本当に楽しかった思い出なのかな?
でも――楽しかった。
みどりちゃんと一緒だったから。
そして夕方。
オレンジ色に染まった空の下。
ぼくとみどりちゃんは、何かを話していた。
『ボク君――』
『うん』
『――――』
聞こえない。
『約束だよ』
約束?
何の?
ぼくは何て答えたんだっけ。
思い出せそうで――
思い出せない。
*
「……ん」
目を開ける。
天井が見えた。
「あれ……?」
しばらくぼんやりしてから、身体を起こす。
「なんで、みどりちゃんの夢なんか見たんだろう……」
喉が渇いていた。
ぼくは布団から出て、一階へ降りる。
居間では、おばちゃんがテーブルを片付けていた。
テーブルの上には、二つのカップ。
「あら、起きたの?」
「うん。誰か来てたの?」
「ああ。さっきまで、みどりちゃんが来てたのよ」
「えっ?」
思わず足を止めた。
「ぼくに?」
「そう。ボク君と遊びたかったみたい。でも風邪だって聞いて、お見舞いに変わっちゃったけどね」
「そうなんだ……」
なんだか申し訳なくなる。
「悪いことしちゃったな」
「そんなことないわよ」
おばちゃんは笑った。
「『また今度遊ぼう』って言ってたから。早く身体を治して、一緒に遊んでらっしゃい」
「うん」
「それにしても、みどりちゃんも大きくなったわねえ。親戚の集まりで会った時は、まだ小さかったのに」
「…………」
ぼくは、さっき見た夢を思い出す。
「……だからかな」
「何が?」
「ううん。なんでもない」
偶然なのかな。
みどりちゃんが来ていた時に、ぼくはみどりちゃんの夢を見ていた。
そして――あの約束。
夕焼けの中で交わした、何か。
「なんだったっけ……」
聞けば、みどりちゃんは覚えているかもしれない。
だけど。
なぜだろう。
本人に聞いてはいけないような気がした。
自分で思い出さなきゃいけない。
そんな気がする。
窓の外では、夏の太陽が少しずつ西へ傾き始めていた。
赤みを帯びた光が、部屋の床へ細長く差し込んでいる。
ぼくは冷たい麦茶を飲みながら、もう一度だけ考える。
――ぼくとみどりちゃんは、あの日。
いったい、何を約束したんだろう。