「……ん……」
目を開けると、部屋の中は真っ暗だった。
昼間まであれほど重かった身体が、嘘みたいに軽い。
ぼくは布団の中でもぞもぞと身体を動かしてみる。
頭も痛くない。
喉もそんなに変じゃない。
身体のだるさも、ほとんど消えていた。
「……治った?」
たくさん寝たせいなのか、むしろ目はぱっちりと冴えている。
枕元の時計を見る。
「……十時?」
夜の十時を、少し回ったところだった。
どうりで眠くないはずだ。
今日一日、ほとんど寝ていたんだから。
ぼくはしばらく天井を見つめていた。
そして――ふと思い出す。
「……そうだ!」
がばっ、と布団から起き上がった。
「蛍! あれを見に行こう!」
せっかく田舎に来たのだ。
東京ではなかなか見ることのできない、本物の蛍を見てみたい。
昼間とは違う虫だっているかもしれない。
そう思った瞬間、もう布団の中にはいられなかった。
着替えを済ませ、懐中電灯、虫取り網、虫籠、それから携帯電話。
必要そうなものをリュックに詰める。
そっと扉を開けた。
廊下は静まり返っている。
――夜は一人で出歩いちゃ駄目だからね。
おじちゃんとおばちゃんから、そう言われていたのを思い出す。
「…………」
少しだけ迷う。
でも。
「……ちょっとだけなら」
好奇心が勝った。
階段を一段。
また一段。
ぎしっ、と鳴りそうになるたびに足を止める。
そーっと。
そーっと。
玄関までたどり着き、音を立てないように扉を開けた。
夜の空気が、すうっと頬を撫でる。
昼間に熱をためていた土の匂いに、青い草と湿った水路の匂いが混じっていた。遠くでは、夜露を含んだ稲の葉が風に擦れ、さらさらとささやいている。
「よし!」
小さく拳を握る。
こうしてぼくは、一条家のみんなには内緒で、夜の探索へ繰り出した。
昼間とはまるで違う世界だった。
田んぼの向こうから、低く長く響くカエルの声。草むらでは、コオロギやスズムシが途切れ途切れに鳴き、風が吹くたび、稲の波が月明かりを淡く揺らしている。
遠くの山は墨を流したように真っ黒で、その上に広がる空には、東京では見たこともないほどたくさんの星が浮かんでいた。星明かりが田んぼの水面に細く映り、夜の大地まで静かに瞬いているようだった。
懐中電灯を消すと、本当に何も見えない。
闇は深く、手を伸ばせばそのまま吸い込まれてしまいそうだった。
それでも、流れる水のせせらぎや草の揺れる音が、ぼくをそっと導いてくれる。ひんやりした夜風が首筋を撫で、昼間の暑さを洗い流していた。
不思議と怖くはなかった。
「蛍って……川にいるんだっけ?」
農道脇の用水路を覗き込む。
月のない水面を、細い流れがさらさらと滑っていく。けれど、光るものは一つもない。
代わりに草むらから飛び出してきた虫を、網でさっと捕まえた。
「おっ!」
エンマコオロギだ。
虫籠に入れると、少し前に捕まえたスズムシと一緒になって、
コロコロ――。
リンリン――。
夜の静けさに溶け込むような、小さな音楽会を始めた。
「いいねえ」
虫籠を耳元へ近づけながら歩く。
細かな羽音と鳴き声が、掌の中からこぼれてくる。
「でも蛍、いないなあ……」
もう一度、用水路を覗く。
「どこにでもいるわけじゃないのかな?」
ぼくは昔読んだ本の内容を思い出してみる。
「確か……きれいな水があって、草があって……あんまり水温が高くないところだったかな?」
だったら、もう少し山のほうがいいかもしれない。
「よし。行ってみよう」
虫籠をぶら下げ、再び歩き始めた。
れんげちゃんの家がある辺りまで来た時だった。
「……あれ?」
一台の車が停まっている。
エンジンがかかったままだ。
こんな時間に車が動いていること自体、この辺りでは珍しい。
何となく気になって中を見る。
「あっ」
後部座席に、女の子がいた。
「ほのかちゃん?」
ぼくは窓を軽く叩いた。
コンコン。
顔を上げたほのかちゃんと目が合う。
驚いた顔をした後、彼女は車のドアを開けて降りてきた。
「ぼくさん……?」
「どうしたの?」
ほのかちゃんは返事をしなかった。唇をきゅっと結び、握りしめた手を膝の前で隠すようにしている。けれど、目元は赤く、頬には涙の跡が残っていた。
「……お父さんに、おしごとができちゃったの」
「え?」
「東京に帰らないといけないの……」
ほのかちゃんは俯いた。足元の小石を、靴の先で何度も撫でる。
「れんげちゃんにも……ばいばい、言えてないよ……」
最後の言葉だけ、喉の奥でほどけた。
ぼくは何か言おうとして、口を閉じた。
れんげちゃんとほのかちゃんは、今日までずっと一緒に遊んでいた。明日の朝、いつものように目を覚ましたれんげちゃんが、隣にほのかちゃんがいないことを知ったら、どんな顔をするだろう。
「……今日、帰っちゃうの?」
「うん……」
ほのかちゃんは頷いたあと、すぐに顔を背けた。
「お父さん、急いでじゅんびしてるから、まだちょっとかかると思うけど……先に車で待ってなさいって」
「そっか……」
ぼくは車の中を見た。後部座席には、閉じかけの鞄と、丸められた服が置かれている。ほのかちゃんの帰る場所は、もうここではなくなりかけていた。
「れんげちゃん、起こしたら……だめかな」
「……起こしたら、泣いちゃうかも」
「うん」
「でも、起こさなかったら……明日の朝、もっと泣いちゃう」
ほのかちゃんの指が、ぎゅっとスカートの裾をつまんだ。
ぼくは少し考えた。
「……ほのかちゃん」
「なあに?」
「じゃあさ、こういうのはどう?」
ぼくは思いついたことを話した。
ほのかちゃんは黙って聞いていたが、途中で何度も瞬きをした。やがて、伏せていた顔が少しずつ上がっていく。
「……それ、いいの?」
「うん! 時間がないから急ごう!」
「うん!」
ほのかちゃんは初めて、ちゃんとぼくの顔を見て笑った。
二人で走る。
向かったのは、すぐ近くの電話ボックス。
夜の中にぽつんと浮かぶ明かりの下で、白い蛍光灯が濡れたアスファルトと二人の影を青白く照らしていた。ガラス越しに機械の低い唸りと遠くの虫の声を聞きながら――。
ぼく達は大急ぎで、最後の共同作業を始めた。
◇ ◇ ◇
「……これでだいじょうぶ」
「ありがとう、ぼくさん!」
ほのかちゃんは受話器を置いたあとも、しばらくその上に手を置いていた。指先を離すと、今度は胸の前で両手を握る。
作業を終えたほのかちゃんは、再び車へ戻った。
しばらくすると家の中から物音が聞こえてくる。
そろそろ、お父さんが出てくるのだろう。
開いた窓越しに、ほのかちゃんと向かい合う。
「じゃあね、ほのかちゃん」
「うん……」
返事は明るくしようとしていたけれど、声の奥には寂しさが残っていた。ほのかちゃんは笑おうとして、うまく口元を上げられず、窓枠に置いた手を見つめた。
ぼくも、胸の奥が落ち着かなかった。
たった数日しか一緒にいなかったのに、もう会えなくなると思うと、いつもの「じゃあね」とは違う言葉に聞こえた。
少し寂しそうに笑ったあと、ほのかちゃんは何かを思い出したように顔を上げた。
「あの、ぼくさん」
「ん?」
「うどん屋さんで、わたしが寝ちゃった時……電車まで運んでくれたの、ぼくさんだったんですよね」
「あ……」
「あとから、れんげちゃんにきいたの。ほんとうにありがとう」
ほのかちゃんは、窓から伸ばした手を引っ込め、膝の上で指を絡めた。
ぼくは照れ臭くなって、頬を掻いた。
「ううん。大したことじゃないよ」
「でも……わたし、起きたら電車の中で。ぼくさんの顔、見てないから」
「寝てたもんね」
「うん。だから、ちゃんと言いたかったの」
ほのかちゃんは一度目を伏せ、それから小さく笑った。
「ありがとう」
今度は、さっきよりはっきり聞こえた。
ほんの数日前に会ったばかりなのに。
なんだか、ずっと前から一緒に遊んでいたような気がする。
だからこそ、こんなに早く別れが来るなんて、まだうまく受け止められなかった。
「短い間だったけど、楽しかったよ」
「わたしもです」
「東京に帰ってもさ、またどこかで会えるよ」
自分に言い聞かせるように、ぼくは笑った。
ほのかちゃんはすぐには頷かなかった。窓の外へ顔を向け、暗い農道の先を見ている。
「……ほんとうに?」
「うん。絶対」
言い切った自分の声が、夜の中で少しだけ浮いた。
本当に会えるかどうかなんて分からない。それでも、今ここで「もう会えないかもしれない」と言ってしまったら、ほのかちゃんがもっと悲しくなってしまう気がした。
「……うん!」
ほのかちゃんが小指を差し出した。
その指は、少し震えていた。
ぼくも小指を出す。
二本の指を絡ませる。
「やくそく」
「やくそくです」
指を離したあとも、ほのかちゃんはしばらく自分の小指を見つめていた。何度も確かめるように、親指で小指の付け根を撫でる。
ぼくも同じように、小指に残った温かさを感じていた。
この約束があれば、離れていても、また会える気がした。
ぼくはもう一つ思い出した。
「あっ、そうだ!」
ポケットを探る。
「これ、持っていって」
ほのかちゃんの掌に、小さなものを乗せた。
「……ガラス?」
電話ボックスの明かりへかざす。
淡い橙色のガラスが、きらりと輝いた。
「きれい……」
「ビーチグラスだよ」
「ビーチグラス?」
「長い間、海の波に削られて丸くなったガラスなんだ。この前、海で探してたんだよ」
ほのかちゃんは指先で、丸くなった表面を撫でた。
「ほんとだ……。つるつるしてる」
「何個か見つけたから、その一つ。ほのかちゃんにあげる」
「いいの?」
「うん。夏休みの記念」
ほのかちゃんは、すぐには握らなかった。掌の上のガラスをじっと見つめ、明かりに透かし、それからそっと両手で包んだ。
「……ありがとう。わたし、これたからものにする!」
「うん!」
その笑顔を見て、ぼくは少しだけ安心した。
でも、笑っているほのかちゃんの目には、まだ帰りたくない気持ちが残っているように見えた。ビーチグラスを握る手だけが、なかなか開かなかった。
家の中から扉の開く音がした。
「じゃあ、お父さんが来る前にぼくは行くね」
「うん」
「ほのかちゃん、またね」
「うん! みんなにもよろしく言ってね!」
「分かった!」
「……ばいばい!」
「またね!」
ぼくは手を振った。
さようなら、とは言わなかった。
さようならと言ってしまったら、本当にこれで終わってしまうような気がした。
また会えるなら――『またね』でいい。
農道へ出る。
振り返ると、ほのかちゃんはまだ窓から手を振っていた。けれど、笑顔のままではいられなくなったのか、何度も唇を噛み、手だけを大きく動かしている。
ぼくも大きく手を振り返してから、その場を離れた。
ちょうど入れ違いに、ほのかちゃんのお父さんとおばあちゃんが家から出てきた。
「ほのか、ごめんな。突然で……」
運転席へ乗り込んだお父さんが申し訳なさそうに言った。
「ここでお友達もできたそうなのにな」
「ううん。だいじょうぶ」
ほのかちゃんは首を振った。
膝の上のビーチグラスを、見えないように手の中へ隠す。
「それより、お父さんがこんな時間に東京まで運転するほうが心配だよ」
「……驚いたな」
お父さんが目を丸くする。
「さっきまであんなにぐずってたのに」
「本当に。ほのかは偉いねえ」
おばあちゃんが窓越しに頭を撫でた。
ほのかちゃんは撫でられるまま、少しだけ目を細めた。けれど、手の中のビーチグラスは離さなかった。
「お母さん、すみません。こんな突然で……」
「いいんだよ。あんた達の元気な顔が見られただけで十分さ」
おばあちゃんは優しく笑った。
「また遊びに来なさい」
「うん。また来る」
その言葉を口にした瞬間、ほのかちゃんの胸に、ほんの少しだけ明るいものが灯った。
また来る。
また会う。
今はそれだけを信じたかった。
「おばあちゃん、身体に気をつけてね」
「ああ。ほのかもね」
車のギアが入る。
低いエンジン音が夜の田園に響き、タイヤが砂利を踏む音が、しゃり、しゃり、と遠ざかっていく。
ゆっくりと動き始めた。
窓の外で、おばあちゃんが手を振っている。
その姿が少しずつ小さくなっていった。
「…………」
ほのかちゃんはシートにもたれた。
胸の奥が、ぽっかりと空いていた。
明日の朝。
れんげちゃん、悲しむだろうな。
ちゃんとお別れしたかった。
もう一度、一緒に遊びたかった。
ぼく君にも、もっと話したいことがあった。
短い時間だったけれど、二人と過ごした夏は、もう自分の中で大切な思い出になっていた。
だから、これで終わりにしたくなかった。
ほのかちゃんは窓の外を見たまま、掌を開いた。
橙色のビーチグラスが、街灯のない車内でかすかに浮かんでいる。
指を閉じる。
また開く。
そんなことを何度か繰り返していると――。
「ん?」
お父さんが前方を見た。
「あれ……蛍か?」
「えっ?」
ほのかちゃんが身を乗り出した。
農道の先。
大きなクスノキの辺りに、小さな光が浮かんでいる。
ひとつ。
また、ひとつ。
ゆらり。
ゆらり。
橙色の光が、夜の中で揺れていた。
闇の底から、誰かが小さな灯りをそっと掲げているようだった。光は風に合わせてかすかに震え、消えたかと思うと、また淡く浮かび上がる。
「蛍……?」
でも、何かがおかしい。
普通の蛍より、少し明るい。
車が近づいていく。
ほのかちゃんは窓を開けた。
夜風とともに、草と土と水の匂いが車内へ流れ込む。遠くの虫の声が、エンジン音の隙間から聞こえてきた。
そして――。
クスノキの横を通り過ぎる、その瞬間。
「あっ!」
ほのかちゃんは見つけた。
木の枝の上。
懐中電灯の光を、もう一つの橙色のビーチグラスへ当てたり隠したりしている、小さな男の子。
光を向けて。
隠して。
また光らせる。
枝葉の隙間で、橙色の光がふっと灯り、次の瞬間には夜の闇へ溶けていく。
まるで蛍のように。
ぼく君だった。
目が合った。
ぼく君が笑う。
ほのかちゃんは息を呑み、窓枠に手をついた。声を出そうとして、喉の奥が詰まる。
ぼく君は、もう一度だけ光を掲げた。
その笑顔を見た瞬間、ほのかちゃんの胸に溜まっていた寂しさが、少しだけほどけた。
離れてしまうのは悲しい。
でも、ぼく君は「またね」と言ってくれた。
約束もした。
だから、これはさよならではない。
また会うための、いったんのお別れなのだ。
ぼく君が枝の上から、大きく手を振った。
「…………!」
ほのかちゃんの顔から、寂しそうな表情が消えた。
窓から身を乗り出し、力いっぱい手を振る。
「またねーっ!!」
夜の田んぼへ、声が響いた。
声は稲の波を越え、黒い山の裾へ吸い込まれていく。そのあとを追うように、どこかでカエルが一声鳴き、クスノキの葉がざわざわと揺れた。
「ほのか?」
運転中のお父さんには、よく見えなかったらしい。
「あれ、蛍だったのか?」
ほのかちゃんは座席へ戻った。
掌の中には、さっきもらったビーチグラス。
それを大切そうに握る。
「うん!」
満面の笑顔で答えた。
「蛍がね――」
もう一度、遠ざかっていくクスノキを見る。
小さな光が、まだ瞬いている。
「わたしが悲しい顔してたから、なぐさめに来てくれたの。きっと!」
「……そうか」
お父さんは、それ以上聞かなかった。
ただ、少しだけ優しい顔になった。
「たった数日だったけど……来てよかったな、ほのか」
「うん!」
今度は迷わず答えた。
「すっごく楽しかった!」
そして少し考えてから、にっこり笑う。
「また、ぼく君たちに会えるよね」
その言葉は、お父さんに聞かせるためというより、自分自身に確かめるためのものだった。
「でも、あたしの夏休みはまだまだあるんだからね。東京に帰っても、どこか連れていってね!」
「ははは。分かった、分かった」
車は夜の農道を走っていく。
赤いテールランプが二つ。
闇の中で、赤い二つの星のように揺れながら、少しずつ、小さくなっていった。
「…………行っちゃった」
ぼくはクスノキの枝に座ったまま、その光を見送っていた。
見えなくなるまで。
ずっと。
「気をつけてね、ほのかちゃん」
ポケットの中に残った、もう一つのビーチグラスを握る。
指先に伝わるつるりとした感触が、さっきまでの光をまだ覚えているようだった。
今度こそ、辺りは真っ暗になった。
けれど、完全な闇ではなかった。
頭上には星がこぼれるほど輝き、足元では虫たちが鳴き、水路の水が細く流れている。夜の田園は、静かな光と音で満たされていた。
「…………」
ほのかちゃんは、もう見えないクスノキの向こうを見つめていた。
東京へ帰れば、今日のことは夢のように遠くなるかもしれない。
それでも、掌の中のビーチグラスがある。
小指に残った約束がある。
そして、夜の中で揺れていた、あの小さな光がある。
「また、会えますように……」
ほのかちゃんは、誰にも聞こえない声で呟いた。
車は走り続ける。
けれど、心の中にはまだ、あの村の夜が残っていた。
ぼくも、ほのかちゃんが帰っていったあと、しばらくクスノキの枝から動けなかった。
胸の奥が、変な感じだった。
寂しい。
でも、悲しいだけじゃない。
また会いたい。
その気持ちが、暗い夜の中で小さな光みたいに残っていた。
そこで、ふと思った。
ほのかちゃんの夏休みは、この村では今日で終わった。
じゃあ――。
「……あれ?」
ぼくは首を傾げる。
「ぼくが帰るのって……いつだっけ?」
お母さんが赤ちゃんを産んだら。
確か、そういう話だった。
「…………」
夏休み中に生まれなかったら?
ずっとここにいるのかな。
じゃあ逆に――。
「明日、生まれたら……ぼく、明日帰るの?」
急に分からなくなった。
「……あっれえ?」
さっきまで少し格好つけてほのかちゃんを見送っていたのに。
自分のことになると、何も分からない。
「ぼくも、いつ帰るのか分かんないや……」
なんとも釈然としない気持ちのまま、木から降りる。
本当はこれから、本物の蛍を探しに行くつもりだった。
でも――。
「ふわぁ……」
大きなあくびが出た。
身体も少し重い。
そういえば、ぼくは今日、風邪で寝込んでいたんだった。
「……帰ろ」
本物の蛍は、また今度でいい。
農道を歩く。
夜露に濡れた草が足元でひやりと揺れ、土の道は昼間より柔らかく感じられた。遠くの田んぼからは、カエルの低い声と虫たちの細かな合唱が重なっている。
虫籠からは、
コロコロ。
リンリン。
相変わらず、二匹の虫が鳴いている。
ぼくは夜空を見上げた。
「蛍を見る機会……まだあるよね、神さま」
返事はない。
ただ、星だけが、たくさん光っている。
今日、ほのかちゃんは帰っていった。
いつか、ぼくもここから帰る。
だけど――。
それが明日なのか。
一週間後なのか。
夏休みの最後なのか。
まだ、ぼくには分からない。
だったら。
「……明日もいっぱい遊ぼう」
それでいい。
また会える日が来るまで、ぼくはぼくの夏休みを過ごそう。
ほのかちゃんとの約束を、胸の中にしまって。
ぼくの夏休みは――
まだ、終わっていないのだから。