8月1日の夕方
駅を出てから、車に揺られること二十分ほど。
窓の外には田んぼと畑がどこまでも続き、その合間に昔ながらの古い家がぽつぽつと並んでいた。
瓦屋根に、木造の壁。
東京ではほとんど見かけないような家ばかりだ。
そんな景色の中に、一軒だけ妙に新しい家が見えてきた。
白い壁の、コンクリート造りの一戸建て。
「あれがうちよ」
おばちゃんが指差した。
東京なら珍しくもない家だけど、この景色の中に建っていると、なんだかそこだけ別の場所から持ってきたみたいだ。
これが、これから夏休みの間お世話になる一条家だった。
家に入ると、ボクはすぐ二階へ案内された。
蛍お姉ちゃんの部屋の隣。
六畳くらいの洋室で、中には簡単なベッドと机が置かれている。
そして東京から送っておいた荷物も、もう届いていた。
「ここがボク君のお部屋よ。荷物は先に開けて適当にしまっておいたけど、違ってたら自分で直してちょうだい」
「はーい」
「夕飯まではまだ少しあるから……よかったら、その辺を散歩してきてもいいわよ」
「うん! ちょっと見てくる!」
知らない町を歩いてみたい。
さっそく部屋を飛び出そうとした、その時だった。
「あ、ちょっと待って!」
おばちゃんがエプロンのポケットから、小さな携帯電話を取り出した。
ストラップを伸ばし、ボクの首にかける。
「これは?」
「キッズ電話。これがあれば家に電話できるし、戻ってきてほしい時にはこっちから連絡できるの。防水だから、ちょっとくらい濡れても大丈夫!」
えっへん、と言わんばかりにおばちゃんが胸を張った。
すごい。
田舎に来ても、こういうところはちゃんとしている。
……と思ったのだけど。
「あれ?」
画面を見てみる。
アンテナが一本も立っていない。
「おばちゃん。これ、電波ないよ?」
「はうっ!?」
おばちゃんが慌てて携帯を受け取る。
すると――。
「あ、立った」
アンテナが表示された。
もう一度、ボクが受け取る。
圏外。
おばちゃんが持つ。
アンテナが立つ。
ボクが持つ。
圏外。
「…………」
「…………」
おばちゃんは少し考えてから、ぽん、と手を叩いた。
「ああ! ボク君の身長じゃ電波が届かないのね!」
「電波ってそんなギリギリの高さを飛んでるの!?」
「田舎だからねー」
「田舎すごい!」
「仕方ないわね。何かあったら狼煙でも上げよっか?」
「ずこーっ!」
思わず、その場で滑る真似をした。
おばちゃんは楽しそうに笑っている。
結局、電話はほとんど使い物にならなさそうだったけど、GPSだけは動いているらしい。
もしもの時には居場所が分かるから、とそのまま持たされることになった。
まあ、何かあれば迎えに来てくれるだろう。
玄関を出ようとすると、後ろから声がした。
「ボク君、お出かけ?」
振り返ると、蛍お姉ちゃんが立っていた。
その足元には、一匹の犬。
蛍お姉ちゃんの手にはリードが握られている。
「うん。ちょっとこの辺を見てみようかなって。蛍お姉ちゃんは散歩?」
「そう。この子、うちで飼ってるペチ。今日はまだお散歩に行けてないから」
「ペチ!」
呼んでみると、ペチは尻尾を振った。
かわいい。
「そうだ!」
蛍お姉ちゃんがぱっと笑顔になる。
「私がこの辺、案内してあげる」
「ほんと?」
「うん!」
「ありがとう、蛍お姉ちゃん!」
こうしてボクは、蛍お姉ちゃんとペチと一緒に散歩へ出ることになった。
家を離れると、すぐに景色が変わった。
というより――。
道がない。
いや、道はある。
でも、東京でいう『道路』とは全然違う。
アスファルトで舗装された道は少なくて、田んぼの間を通る細い農道がどこまでも続いている。
車もほとんど通らない。
聞こえるのは、風に揺れる草の音。
どこからともなく聞こえてくる虫の声。
そして――。
カナカナカナカナ……。
夕暮れの空に、ひぐらしの声が響いていた。
時折、ツクツクボウシの声も混じる。
東京でよく聞いていたアブラゼミやクマゼミとは違う。
うるさいはずの蝉の声なのに、不思議とうるさく感じなかった。
むしろ、ずっと聞いていたくなる。
長い電車の旅で疲れていた身体が、少しずつ軽くなっていくようだった。
「ボク君、今日は疲れたでしょう?」
隣を歩く蛍お姉ちゃんが聞いてきた。
「うん。でも、ここに来たら元気になった」
「ふふっ。よかった」
蛍お姉ちゃんは嬉しそうに笑った。
「今日はもう夕方だから遠くには行けないけど、明日からもっといろんなところに連れていってあげるね」
「ほんと!?」
「うん。この辺、いっぱい面白いところがあるんだよ」
「楽しみ!」
明日はどこへ行くんだろう。
山かな。
川かな。
それとも、もっと変な場所があるのかな。
考えるだけでワクワクしてきた。
「そうだ、蛍お姉ちゃん」
「なあに?」
「ボク、夏休みの宿題はだいたい終わらせてきたんだけど、自由研究と絵日記が残ってるんだ。困ったら教えてくれる?」
「もちろんいいよ♪」
蛍お姉ちゃんは少し考える。
「自由研究なら、ここは題材がいっぱいあるよ。虫とか植物とか、川の生き物とか。ボク君は何を調べたい?」
「うーん……」
考えてみる。
でも――。
「まだ思いつかないや!」
「だよね。今日来たばっかりだもんね」
蛍お姉ちゃんが笑う。
「私もまだ決めてないから、一緒に考えよっか」
「うん!」
蛍お姉ちゃんの右手にはペチのリード。
そして左手は、ボクの手を握っていた。
少しずつ空が赤くなっている。
そろそろ帰らないと。
そう思って、ボクたちは家へ向かった。
――はずだった。
「…………」
「…………」
さっきから同じような木を何本も見ている気がする。
道も、だんだん細くなっている。
農道だったはずなのに、いつの間にか山道になっていた。
さらに進む。
もっと細くなる。
ついには――。
「蛍お姉ちゃん」
「な、なあに?」
「ここ、本当に近道?」
「…………」
蛍お姉ちゃんの顔が引きつった。
そして。
「まよったぁぁぁぁ!!」
山の中に絶叫が響いた。
「どーしよー!! ごめんねボク君!! 私が迷子になっちゃったぁぁ!!」
「ええええっ!?」
さっきまであんなに頼れるお姉ちゃんだったのに!
蛍お姉ちゃんは完全に取り乱していた。
帰り道、思ったより遠くまで来てしまったので、蛍お姉ちゃんが「近道があるよ」と言い出した。
その時、なんとなく嫌な予感はした。
でも蛍お姉ちゃんはボクより年上だし、この辺にも詳しい。
大丈夫だと思ってついてきた。
……それが失敗だった。
そういえば。
遠い記憶の中にも、こんなことがあった気がする。
蛍お姉ちゃんは――。
ものすごい方向音痴だったような……。
あの時はボクの地元だったから、ボクが道を知っていた。
でも今回は違う。
ボクにとっても初めての土地だ。
つまり。
「…………」
詰んだ。
「蛍お姉ちゃん。大丈夫だよ。泣かないで」
「だってぇぇ……!」
「きっと、おばちゃんとおじちゃんが探しに来てくれるよ」
「お父さんもお母さんも引っ越してきたばっかりだから、この辺のこと全然分からないよぉ! 探せないよぉぉ! ごめんなさいぃぃ!」
「うーん……」
これは困った。
どうしよう。
ふと、足元を見る。
ペチがこちらを見上げていた。
「…………ペチ」
尻尾を振る。
「君なら、分かる?」
ペチが首を傾げる。
ボクは首から下げていたキッズ電話を手に取った。
さっきまでおばちゃんが持っていた。
つまり、おばちゃんの匂いが残っているかもしれない。
「これ、おばちゃんの匂いする?」
ペチの鼻先へ持っていく。
すん。
すんすん。
すんすんすんすん――。
突然、ペチが辺りをぐるぐる回り始めた。
「わっ!?」
そして。
ダッ!!
猛然と走り出した。
「ペーーーチーーーー!?」
リードを持っていた蛍お姉ちゃんが引きずられる。
「蛍お姉ちゃん、行こう!」
「ちょ、ちょっと待ってぇぇぇ!」
「大丈夫! ペチならきっと家に帰れるよ!」
前からペチ。
後ろからボク。
蛍お姉ちゃんは目を白黒させながら山道を走ることになった。
結果から言えば――。
ペチは本当に家へ帰る道を知っていた。
ただし。
「これ……道なの?」
草を掻き分け。
「ひゃあああっ!」
斜面を下り。
「蛍お姉ちゃん、頭!」
「きゃっ!」
木の枝を避け。
獣道みたいなところまで通った。
確かに最短距離だったのかもしれない。
犬にとっては。
どれくらい歩いただろう。
ようやく見覚えのある景色が見えてきた。
「あ……!」
一条家だ。
「帰ってきたぁぁ……」
蛍お姉ちゃんがへなへなと力を抜く。
ボクも足が棒みたいになっていた。
ペチだけは元気いっぱいに尻尾を振っている。
「ペチ……すごい……」
玄関までたどり着き、荒い息を整えながら扉を開けた。
「ただいまぁ……」
「あっ! 二人とも!」
おばちゃんがパタパタと玄関まで走ってきた。
「どこ行ってたのー! もうとっくに夕飯の時間よ。心配したじゃない!」
「ご、ごめんなさい!」
蛍お姉ちゃんが口を開くより先に、ボクが答えた。
「蛍お姉ちゃんにいろいろ案内してもらってたら、遅くなっちゃった」
「えっ?」
蛍お姉ちゃんが驚いてボクを見る。
「ち、違――」
わんっ!
「わっ!?」
突然、ペチが蛍お姉ちゃんへ飛びついた。
「ペチ! な、何するの!?」
蛍お姉ちゃんがペチを抱き止める。
ナイス、ペチ。
「ペチ、お腹空いてるんじゃない? 早くご飯あげないと」
「もう。しょうがないわね」
おばちゃんは腰に手を当てる。
「蛍はペチの足を拭いて、ご飯をあげて。ボク君は手を洗ってきなさい」
「はーい」
「は、はーい……」
ボクは洗面所へ。
蛍お姉ちゃんはお風呂場へ行って、泥だらけになったペチの足を洗う。
手を洗っていると、隣から小さな声がした。
「ボク君」
「ん?」
「……ありがとう」
蛍お姉ちゃんが、ペチの足を洗いながらこちらを見ていた。
「私が迷子になったこと、言わないでくれて」
「なんでもないよ」
「でも……」
「蛍お姉ちゃんの意外なところが見られて、楽しかったし」
「もうっ!」
蛍お姉ちゃんが頬を膨らませた。
「それ、フォローしてるの? からかってるの?」
「どっちだろ?」
「ボク君!」
ボクは笑った。
蛍お姉ちゃんも、少し遅れて笑った。
その日の夕飯は、とてもおいしかった。
たくさん歩いたからかもしれない。
お風呂に入ると、一気に疲れが出た。
東京から六時間。
そのあと、まさかの山中遭難。
長い長い一日だった。
「ボク君」
誰かが呼んでいる。
「ボク君?」
肩を優しく揺らされた。
でも、もう目を開けることができなかった。
「寝ちゃったみたい」
おばちゃんの声がする。
「そりゃ疲れてるだろう。東京から六時間だからな」
おじちゃんの声もした。
「よし。俺が連れていこう」
身体がふわっと浮いた。
おじちゃんがボクを抱き上げてくれたらしい。
「……軽いな」
その一言に、すぐ別の声が反応した。
「お父さん」
蛍お姉ちゃんだ。
「誰と比べたの?」
「ははは。すまん、蛍と比べてしまった」
「もうっ!」
みんなが笑っている。
その声を遠くに聞きながら、ボクは二階へ運ばれた。
ベッドに寝かされ、布団がかけられる。
「やっぱり男の子もいいわねぇ」
「だな」
「ちょっと! お父さん、お母さん!」
また蛍お姉ちゃんの声。
おじちゃんとおばちゃんは笑いながら部屋を出ていった。
最後に残った蛍お姉ちゃんが、ベッドのそばまでやってくる。
しばらく、ボクの顔を見ていたようだった。
「……今日はありがとう、ボク君」
小さな声。
そして。
「おやすみ」
カチャ。
静かに扉が閉まった。
こうして。
田舎で過ごす、ボクの最初の一日は終わった。
明日は何があるんだろう。
山。
川。
虫。
知らない場所。
まだ会ったことのない人たち。
そんなものが全部待っているとも知らず――。
ボクは朝まで、ぐっすり眠った。
絵日記
8月1日 一条家に到着!
蛍お姉ちゃんとペチと散歩に行った。
いきなり迷子になった。
でもペチが帰り道を見つけてくれた。
蛍お姉ちゃんと一緒に頑張った!
田舎の道はむずかしい。