――絵日記。
8月5日
今日は朝からばてばて……。
ほのかちゃんが東京に帰っちゃった。
ぼくも帰ったら、会いに行ってみよう。
最後の一文字を書き終えたぼくは、鉛筆を置いて大きく伸びをした。
「うーん……また忘れちゃったなあ」
これで二日連続だ。
本当なら一日の終わりに書くはずの絵日記なのに、一昨日は海水浴で疲れ果て、昨日は風邪で寝込んでしまった。
昨夜は目が覚めたものの、思いがけない出来事があって、それどころではなかったし……。
「やっぱり、絵日記はその日のうちに書かないとダメだね」
ぼくは出来上がった絵を眺めながら、ぽりぽりと頭をかいた。
昨日のことは、もちろん覚えている。
でも、時間が経つと、どうしても細かな景色や色合いが曖昧になってしまう。
あの夜の星空も、ほのかちゃんの泣き顔も、ちゃんと描いておきたかった。
「……よしっ!」
ノートを閉じて引き出しにしまうと、ぼくはラジオ体操へ向かう準備を始めた。
昨日までの体のだるさは、すっかり消えていた。
熱もないし、頭もすっきりしている。
ただ、今日のラジオ体操は少しだけ気が重かった。
……れんげちゃんに、伝えなくちゃいけないことがあるからだ。
◇
朝の公園には、いつもと変わらない光景が広がっていた。
青々と茂る木々。
朝日を浴びて輝く草花。
そして、ラジオから流れる軽快な体操の音楽。
その中に、一人だけ明らかに違う動きをしている女の子がいた。
「いっち、にー! さん、しー!」
腕を大きく広げ、くるりと回転。
続いて謎のステップを踏み、最後には両手を天高く突き上げる。
……うん。
今日も絶好調だね、れんげちゃん。
ぼくはその隣に並ぶと、いつもの挨拶を口にした。
「にゃんぱすー」
「むっ!?」
れんげちゃんの動きが止まった。
くるりとこちらを向くと、大きな瞳を輝かせる。
「ボク君からうちの挨拶で来るとは! ようやくここのルールが身に染みてきたんな!」
「あはは、そうかもしれないね」
「うむ! よい心がけなん!」
満足そうに頷いたれんげちゃんだったが、ふと思い出したようにぼくの顔を覗き込んだ。
「それよりボク君、もう体は治ったのん?」
「うん。すっかり元気になったよ」
「それはよかったん!」
ぱあっと笑顔になるれんげちゃん。
その顔を見た途端、胸の奥がちくりと痛んだ。
「……ねえ、れんげちゃん」
「なん?」
「ラジオ体操が終わったら、ちょっとお話ししたいんだ。時間をくれるかな?」
「……む?」
れんげちゃんが不思議そうに首を傾げる。
「ボク君、どうしたんな? なんかいつもと雰囲気が違うのん」
「うん……ちょっと真剣なお話なんだ」
「真剣?」
「だから……お願い」
ぼくが真面目な顔で頼むと、れんげちゃんはしばらくこちらを見つめていた。
やがて、こくりと頷く。
「……わかったん」
「ありがとう!」
ぼくは笑顔を取り戻すと、大きく両腕を広げた。
「じゃあ、元気にいくよ!」
「むむっ! ボク君、やる気満々なん!」
「れんげちゃんには負けないからね!」
「望むところなん!」
ぼくはいつも以上に大きく体を動かした。
れんげちゃんも負けじと、謎のダンスに磨きをかける。
傍から見れば、いつもと変わらない朝の光景だっただろう。
けれど、ぼくの胸の中には、昨夜のほのかちゃんの泣き顔が残っていた。
「……ボク君、ほんとにどうしたのん?」
れんげちゃんの小さな呟きは、ラジオの音楽にかき消された。
◇
ラジオ体操が終わると、子供たちは一斉に雪子さんのところへ集まっていった。
毎朝恒例のスタンプを押してもらうためだ。
ぼくはれんげちゃんを誘って、公園の端にあるベンチへと向かった。
木陰になっているそこは、朝の涼しい風が通り抜ける場所だった。
「……れんげちゃん」
「なん?」
「ほのかちゃんのことなんだけど……」
その名前を聞いた途端、れんげちゃんの顔が明るくなった。
「ほのかちん!今日は水車を見に行く約束してるん!」
「…………」
ぼくは一瞬、言葉を失った。
……やっぱり、まだ知らないんだ。
「……あのね、れんげちゃん」
ぼくは昨夜の出来事を、ゆっくりと話し始めた。
風邪で一日寝込んでいたせいで、夜中に目が覚めてしまったこと。
外へ出たとき、偶然ほのかちゃんに会ったこと。
そして、お父さんの都合で急に東京へ帰らなくちゃいけなくなったこと。
「…………」
れんげちゃんは、黙って聞いていた。
「……ほのかちん、帰っちゃったのん?」
「……うん」
「……今日、水車……」
「……うん」
「……約束したのん」
その声が、少しずつ小さくなっていく。
大きな瞳が潤み、やがて一粒の涙が頬を伝った。
「……うち、まだ……」
ぽろっ。
「……さよなら、言ってないのん……」
ぼくはポケットからハンカチを取り出した。
そっと涙を拭いてあげると、れんげちゃんはぼくのシャツに顔を埋めた。
小さな手が、ぎゅっと服を握りしめる。
声を上げて泣くわけじゃない。
ただ、静かに、次から次へと涙をこぼしていた。
ぼくはその背中を優しく撫でた。
「……れんげちゃん」
「…………」
「ほのかちゃんも、すごく泣いてたよ」
「……ほのか……」
「れんげちゃんに会って、ちゃんとさよならしたかったって」
ぼくは携帯電話を取り出した。
「だからね、これを見てほしいんだ」
◇
ベンチの上に携帯電話を立てかける。
昨夜、ほのかちゃんにお願いして撮影した動画。
ぼくは再生ボタンを押した。
画面の中に、少し目を赤くしたほのかちゃんが映し出された。
『……れんげちゃん』
「……ほのかちん!」
れんげちゃんが画面に顔を近づけた。
『お別れの言葉も言えずに、ごめんなさい』
ほのかちゃんは、少しだけ俯いた。
『ほんの数日だったけど……すっごく楽しかった!』
そして、涙をこらえながら笑顔を見せる。
『一緒に遊んでくれて、ありがとう!』
「…………」
『ここはお父さんの実家がある場所だから……またお休みがあったら、遊びに来るね』
ほのかちゃんの声が震えた。
『だから……れんげちゃんも……』
ぽろっ。
画面の向こうで、ほのかちゃんの涙がこぼれた。
『……泣かないでね』
「……ほのかぁ……」
れんげちゃんの瞳からも、涙があふれた。
画面の中と外。
二人の女の子が、同じように泣いていた。
『……ごめんなさい』
ほのかちゃんは袖で涙を拭うと、もう一度顔を上げた。
『れんげちゃん。今度会うときは……今日、見に行くはずだった水車を見せてね』
そして、画面に向かって小指を立てた。
『……約束だよ』
れんげちゃんは、しばらくその小指を見つめていた。
やがて――。
「……うん」
小さな手を持ち上げる。
「……約束なん」
画面の向こうの小指に、自分の小指を重ねた。
「今度は……絶対、一緒に行くのん……」
動画が終わった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
遠くでは、雪子さんが子供たちにスタンプを押している。
セミが鳴いている。
いつもと同じ、夏の朝。
だけど、れんげちゃんにとっては、少しだけ違う朝になってしまった。
やがて、れんげちゃんはごしごしと涙を拭いた。
「……ありがとなん、ボク君」
「……うん」
「ボク君が夜に出歩いてなかったら……うち、ほのかの言葉、聞けなかったん」
「……そうだね」
「だから……ありがとなん」
ぼくは微笑んだ。
「それとね、れんげちゃん」
もう一度ポケットに手を入れる。
「これ、あげる」
取り出したのは、小さな青いビーチグラス。
海で拾った、波に磨かれたガラスの欠片だった。
朝日を受けて、淡い青色に輝いている。
「……綺麗なん」
れんげちゃんが目を丸くした。
「もらっていいのん?」
「うん。ほのかちゃんには橙色のをあげたんだ」
「……ほのかにも?」
「そう。だから、れんげちゃんには青色」
れんげちゃんは両手で大切そうに受け取った。
光に透かして眺める。
「……お空みたいなん」
「うん、綺麗だよね」
「……大事にするのん」
れんげちゃんは、たすき掛けにしていたポシェットを開けた。
そして、宝物をしまうように、そっとビーチグラスを入れる。
ぱちん。
留め具を閉じると、ぼくに向かって丁寧に頭を下げた。
「ボク君、ありがとうなん」
「どういたしまして!」
れんげちゃんは雪子さんのところへ向かい、スタンプをもらった。
そして、そのまま帰ろうとしたのだけれど――。
ぴたり。
突然、足を止めた。
「……ん?」
くるりと振り返る。
そして、ぼくに向かってびしっ! と指を突きつけた。
「ボク君!」
「は、はいっ!」
「ボク君は、勝手にいなくならないように!」
「……え?」
「うち……」
れんげちゃんは、少しだけ唇を尖らせた。
「……もっと泣いちゃうんな!!」
そう言うと、くるりと背を向けて走り去っていった。
「…………」
ぼくはその小さな背中を見送った。
……そっか。
ほのかちゃんが突然帰っちゃったから、心配になったんだね。
「……うん」
ぼくは小さく頷いた。
「ボクは大丈夫だよ」
でも。
夏休みが終わったら、ぼくも東京に帰らなくちゃいけない。
……そのときは、ちゃんとさよならを言おう。
絶対に。
◇
「ふうーっ……」
大仕事を終えた気分だった。
ほのかちゃんの気持ちを、れんげちゃんに届けることができた。
これで一安心だ。
「さて、スタンプもらって帰ろうっと♪」
ぼくは雪子さんのところへ向かった。
「雪子さーん! スタンプお願いしまーす!」
「…………」
「……あれ?」
雪子さんは、なぜかじっとぼくを見つめていた。
その目が、妙に冷たい。
「……ぼく君」
「はい?」
「……やるわねえ」
「……え?」
「れんげちゃんを振るなんて」
「…………はい?」
雪子さんは、スタンプ台に判子を押しつけた。
ぐりぐりぐり。
「……あの子の、どこが気に入らなかったの?」
「えっ!? な、なんのこと!?」
「泣いてたじゃない」
「えっ、いや、あれは……」
「しかも、抱きつかせておいて……」
ぐりぐりぐりぐり。
「……いいお大尽ねえ」
「ち、違うよ!?」
どすんっ!!
スタンプが押された。
いや、押されたというより、叩き込まれた。
紙がしわしわになっている。
「…………」
ぼくは恐る恐る雪子さんを見上げた。
……こ、この目。
どこかで見たことがある。
そうだ。
夏海お姉ちゃんが言っていた――。
『アルマゲドン』!!
「ゆ、雪子さん! 誤解だよ!」
「何が?」
「れんげちゃんは、ほのかちゃんが帰っちゃったから泣いてたんだよ!」
「……ほのかちゃん?」
「そう! だから動画を見せて、それで……!」
「動画?」
「う、うん!」
「……詳しく聞かせてもらおうかしら」
「ええええっ!?」
こうして、ぼくの朝ご飯はどんどん遠ざかっていった。
◇
一方、その頃。
一条家の食卓では、蛍がテーブルに突っ伏していた。
「……ボク君、遅いなあ」
目の前には、目玉焼きとソーセージ。
今日は珍しく、蛍が自分で焼いたものだった。
「せっかく一緒に食べようと思ったのに……」
お父さんは既に出勤し、お母さんも家事に忙しい。
朝食の時間は、とっくに過ぎている。
「……冷めちゃうよぉ」
そんなときだった。
プルルルル……。
「あっ、電話」
蛍は近くにあった子機を取った。
「はい、一条です」
『あっ! 蛍? 私、小鞠!』
「先輩っ!?」
がばっ!
蛍が勢いよく起き上がった。
「お、おはようございます! どうしたんですか、こんな朝早く!」
『えっとね、今日よかったら街までお出かけしない?』
「…………!」
蛍の表情がぱあっと明るくなった。
『実は昨日、うちにアルマゲドンが落ちて……』
「……アルマゲドン?」
『夏海が外出禁止になっちゃったんだ』
「ああ……」
蛍は何となく察した。
越谷家のアルマゲドン。
つまり、雪子さんの雷である。
『それでね、お母さんが帰ってくる前に出かけたいんだ。下手に家にいたら、とばっちりが来そうで……』
「行きますっ!!」
『えっ!?』
「ぜひっ! ぜひ行きます!!」
『そ、そう? じゃあ駅で待ち合わせね』
「はいっ! わかりました!」
電話を切った蛍は、しばらく子機を抱きしめていた。
「……先輩と……」
ぽつり。
「……街へ、お出かけ……」
にぱあああっ♡
「やったあああっ!!」
しかし。
次の瞬間、蛍の顔が真剣になった。
「……はっ!」
服。
そう、服である。
憧れの先輩と、街へお出かけ。
これは普段着で行くわけにはいかない。
「ど、どうしよう! 何を着ていけば……!」
蛍は階段を駆け上がった。
「おかあさーん!!」
……こうして、一条家の二階では、小さなファッションショーが開催されることになった。
◇
「……ただいまあ」
ぼくは、とぼとぼと一条家の玄関を開けた。
長かった。
本当に長かった。
雪子さんに事情を説明して、動画まで見せて、ようやく誤解が解けた頃には八時を回っていた。
「……お腹すいたぁ」
ぐうううう。
お腹が盛大に鳴った。
「あら、ボク君。お帰りなさい」
おばちゃんが台所から顔を出した。
「今日は随分遅かったわね」
「うん……ちょっと、いろいろあって……」
「あらあら」
おばちゃんは苦笑した。
「蛍もね、一緒に朝ご飯を食べようって待ってたんだけど、急に用事ができたみたいで、さっき出かけたわよ」
「えっ、そうなんだ」
ぼくは少し申し訳なくなった。
「……お姉ちゃんに悪いことしちゃったなあ」
「ふふっ。大丈夫よ。ご飯はラップしてあるから、温めて食べなさい」
「はーい!」
ぼくは椅子に座り、目玉焼きとソーセージを頬張った。
……おいしい。
お腹がすいていると、何でもご馳走だ。
ところが。
「……それと、ボク君」
「んむ?」
おばちゃんの声が、少しだけ真面目になった。
「夜遊びなんて、しちゃダメよ」
「ぎくっ!!」
思わず、ご飯を飲み込みかけた。
「ごほっ! ごほっ!」
「あらあら、慌てなくてもいいのに」
「な、なんで……」
「今朝ね、お部屋を掃除しようと思って入ったの」
「…………」
「そしたら、びっくり。蛍が一匹、部屋の中を飛び回ってたのよ」
「……あ」
昨夜、捕まえた蛍。
虫かごに入れたつもりが、逃げていたらしい。
「ちゃんと捕まえて、網に入れておいたけど……」
おばちゃんは、ぼくの向かいに座った。
「ボク君。夜中に一人で出歩いたんでしょう?」
「……うん」
「ダメよ。万が一のことがあったら、悲しむ人がいるんだからね」
「……ごめんなさい」
ぼくは素直に頭を下げた。
昨夜は、たまたまほのかちゃんに会えた。
でも、もし転んで怪我をしていたら。
もし道に迷っていたら。
おばちゃんたちに、すごく心配をかけてしまう。
「好奇心旺盛なのはいいことよ。でもね、男の子はこの時期、思いもよらない事故に遭うことがあるの」
「……うん」
「だから、無茶だけはしないでね」
「……わかった!」
ぼくが頷くと、おばちゃんは優しく微笑んだ。
「いい子ね。さあ、ご飯を食べたら、今日も目一杯遊んでらっしゃい」
「はーい!」
おばちゃんは立ち上がると、台所へ戻っていった。
ぼくは残ったソーセージを口に運ぶ。
「……そっかあ。蛍お姉ちゃん、今日はお出かけかあ」
少し寂しいけれど、仕方ない。
さて、今日は何をしよう?
……あっ!
「そうだ!」
ぽん、と手を叩いた。
「ちょうどいいや! 頼まれてたゲーム機、直しておこうっと♪」
◇
朝食を済ませたぼくは、二階へ上がった。
蛍お姉ちゃんから、ゲーム機のコントローラーの調子が悪いと相談されていたのだ。
「えーっと……これだね」
机の上にゲーム機を置く。
工具箱からトルクスドライバーを取り出し、裏蓋のネジを外していく。
かちゃ、かちゃ。
「……うーん」
内部を確認すると、バッテリー付近の接続ケーブルに変色が見つかった。
「……あれ?」
よく見ると、被覆の一部が熱で傷んだようになっている。
「……焼けてるなあ」
ぼくは顔をしかめた。
「接触不良かな? バッテリーも弱ってるのかもしれない……」
バッテリーの電圧が下がっただけでケーブルが焼けるわけではない。接触抵抗の増加や過電流が起きていないか、確認する必要がありそうだ。
「これは、ちゃんと調べないと危ないなあ」
無理に電源を入れるのはやめておこう。
ぼくはバッテリーの型式をメモ帳に書き留めた。
「あとでネットで調べて、交換部品が買えるか確認しようっと」
とりあえず、危ないところには触らず、外した部品を整理する。
……さて。
「それにしても……」
ぼくは、ふとベッドの方を見た。
「……お姉ちゃん、急いでたのかな?」
そこには、なかなか凄まじい光景が広がっていた。
シャツ。
スカート。
ワンピース。
カーディガン。
普段着から、お洒落な服まで。
まるで小さな洋服屋さんが、ベッドの上で店を開いたみたいだった。
「……すごいなあ」
ぼくは感心した。
お姉ちゃん、こんなに服を持ってたんだ。
何となく、一枚の服を手に取ってみる。
「……あれ?」
ぼくは首を傾げた。
蛍お姉ちゃんは小学五年生。
ぼくは小学三年生。
だけど、身長はぼくの方がずっと低い。
当然、服の大きさも違う。
「……でも、これなら……」
少し大きめだけど。
袖を折れば、何とかなるかもしれない。
「…………」
ぼくは服を見つめた。
そして。
「……ボクも、着られるかな?」
その瞬間。
九歳の少年の頭の中で、何かが閃いた。
それが好奇心なのか。
単なる思いつきなのか。
それとも――。
新たな騒動の始まりなのか。
……このときのぼくは、まだ何も知らなかった。