蛍お姉ちゃんの部屋にある姿見の前で、ぼくはくるりと一回転してみた。
「おおっ! なかなか似合うじゃん♪」
鏡に映っているのは、見慣れた自分の姿……のはずなのに、どうにも別人に見えてしまう。
それもそのはず。
今のぼくは、青いワンピースを着て、頭には白いキャペリンをかぶっているのだ。
そう。
女の子の格好をしているのである。
そもそもの発端は、蛍お姉ちゃんの部屋で見つけた服だった。
ぼくでも着られそうな服がいくつかあったので、ちょっとした好奇心から試してみたのだけれど……。
これが意外なほど似合ってしまった。
もともと背が低く、身体の線も細い。おまけに色白で童顔ときている。
普段は男の子らしい格好をしているから気にならないけれど、帽子で髪を隠してしまえば、鏡の中にはどこからどう見ても女の子が立っていた。
「うーん……。これなら誰もぼくだって気づかないんじゃないかな?」
ふふふ……。
なんだか面白くなってきたぞ。
こうなったら、みんなを驚かせてやろう!
「靴は……あっ、これでいいや!」
部屋の隅にあったピンク色のサンダルを見つける。
靴下を脱いで履いてみると、これまた不思議なほどしっくりきた。
「よーし! 完璧!」
鏡の前でもう一度くるりと回ってみる。
ワンピースの裾がふわりと広がった。
……うん。
これは絶対にバレないぞ!
ぼくは悪戯心を胸いっぱいに膨らませ、意気揚々と外へ飛び出したのだった。
◇ ◇ ◇
「うーん……。なんかスースーするなあ……」
夏の日差しが照りつける田舎道。
ぼくはワンピースの裾を気にしながら、てくてくと歩いていた。
普段は半ズボンだから、足元を風が通り抜ける感覚がどうにも落ち着かない。
それに、サンダルというのも慣れないものだ。
「女の子って、いつもこんな格好してるんだ……」
思わず感心してしまう。
もっとも、そんなことを考えていても、ぼくの目は自然と道端の茂みや側溝へ向かっていた。
ジェットサイダーの王冠集め。
これは夏海お姉ちゃんから課された試練なのだから、決して忘れてはいけない。
「あっ!」
道端の草むらに、小さな金属の輝きを見つけた。
しゃがみ込んで拾い上げると……。
「やった! これ、まだ持ってないやつだ!」
思わぬ収穫に、ぼくはにんまりと笑った。
ワンピース姿で王冠を拾い集める女の子。
……傍から見れば、ずいぶん変わった子に見えるかもしれない。
まあ、いいや。
さて。
誰から騙してやろうかな?
蛍お姉ちゃんは、この服を知っているから駄目だ。
幸い、今は小鞠お姉ちゃんと一緒に町まで買い物に行っている。
となると……。
「……あっ! そうだ!」
ぼくはぽんっと手を叩いた。
いい人を思いついたぞ!
あの人なら、きっと面白い反応をしてくれるに違いない。
「ふふふ……。絶対に驚くぞー♪」
悪戯が成功した時の光景を想像して、笑いを噛み殺しながら歩いていると……。
「あの、すみません!」
不意に、背後から声をかけられた。
「はーい?」
振り返ったぼくは、その場で固まった。
……え?
……ええっ!?
そこに立っていたのは、見覚えのある女の子。
海水浴場で再会した、北海道のみどりちゃんだったのだ!
「みどりちゃ……!」
危ないっ!!
思わず名前を呼びそうになり、慌てて口を閉じる。
そして、キャペリンを深くかぶり直した。
ま、まずいぞ……。
まさか、こんなところで知り合いに遭遇するなんて!
心臓がどきどきと早鐘を打つ。
去年の冬、舞台で主人公を演じた時だって、こんなに緊張しなかった気がする。
でも、ここで正体がバレたら、せっかくの変装が台無しだ。
ぼくは小さく息を吸い、少しだけ声を高くした。
「は、はい。なんでしょう?」
「あの……一条さんのお家って、この道を真っ直ぐ行けばいいのかな?」
「えっ? ……はい、合ってますよ」
そう答えてから、ぼくはみどりちゃんの様子がおかしいことに気がついた。
額には大粒の汗。
頬は赤く、呼吸も少し荒い。
いつもはしっかり者のみどりちゃんが、今にも倒れてしまいそうなほど疲れ切っていた。
「……あの、大丈夫ですか? すごく疲れているみたいですけど」
「あはは……。ちょっと失敗しちゃったんだわ」
みどりちゃんは困ったように笑った。
「実はね、バスでこっちまで来たんだけど、お財布を落としちゃったみたいなの」
「ええっ!?」
「それで、座席の下とか探しているうちに降りるところを通り過ぎちゃって……。慌てて降りたら、結局お財布も見つからないし、ここがどこなのかも分からなくなっちゃったんだわ」
「そ、それは大変ですね……」
なんということだろう。
あの、しっかり者のみどりちゃんが!
ぼくより背が高くて、相撲も強くて、いつもぼくの面倒を見てくれていたみどりちゃんが!
……ちょっと意外だ。
でも、こんな一面を見られたのも、この格好をしていたおかげかもしれない。
「それでね、一条さんのお家に行けば何とかなるかなって思ったんだけど……」
「でも、ここからだとまだ結構歩きますよ?」
「そうなの……?」
みどりちゃんの肩が、がくりと落ちた。
……うーん。
これは、放っておけないな。
「だったら、ちょっと休憩しませんか?」
「えっ?」
「近くに駄菓子屋さんがあるんです。そこのお姉さんなら、この辺りのバスのことも詳しいと思いますよ」
ぼくは、ちょうど向かおうとしていた駄菓子屋の方向を指差した。
「でも……私、お金持ってないんだわ」
「大丈夫! わ……私に任せてください!」
危ない危ない。
つい、いつもの一人称が出そうになってしまった。
「それに、みどりさんはこの辺りの人じゃないですよね? 私、今日は暇だから、一緒に探してあげます!」
「えっ……でも、そんな……」
「いいから、いいから! 一条さんのお家に急ぎの用事があるなら、先に行ってもいいですけど」
「ううん。ちょっとお見舞いがてら顔を見に来ただけだから、急ぎじゃないの」
……お見舞い?
あっ。
そういえば、ぼくが風邪を引いたこと、みどりちゃんにも伝わっていたのかな?
「じゃあ、決まりですね!」
「……うん!」
みどりちゃんは、ようやく少しだけ笑顔を見せた。
「ありがとう! それじゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。助けてください!」
「はいっ! まずは聞き取り調査から始めましょう!」
ぼくは得意げに胸を張った。
……あれ?
これじゃ、まるで探偵みたいだ。
◇ ◇ ◇
「いらっしゃーい」
駄菓子屋の扉を開けると、いつものように楓お姉ちゃんが迎えてくれた。
「あれ? ……ああ、確か海に来てた子だよな?」
「はい! みどりと言います!」
「ああ、よろしくな。……で、そっちの子は?」
ぎくっ!
楓お姉ちゃんの視線が、ぼくへ向けられた。
しまった。
名前を考えてなかった!
「えっ? わ、私……?」
「そう。見かけない顔だけど、どこの子だ?」
「え、ええっと……」
どうしよう。
本名を名乗ったら一発でバレる。
かといって、変な名前をつけても怪しまれるかもしれない。
その時、ふと頭に浮かんだのは、先日ネットで調べたビーチグラスのことだった。
珍しい色のビーチグラス。
その中に、琥珀色というものがあったはずだ。
……よし!
「こ、こはくって言います!」
「こはく?」
「はい! こはくです!」
「へえ……。珍しい名前だな」
楓お姉ちゃんは、少し首を傾げた。
……まずい。
この人、勘が鋭いからなあ。
ここは先手必勝だ!
「お、お姉さん!」
「ん?」
「実は、みどりさんがバスにお財布を落としちゃったみたいなんです。何かいい方法はありませんか?」
「……財布?」
楓お姉ちゃんの表情が、すっと真面目なものに変わった。
「そりゃ大変だな。どのバスに乗ってたか分かるか?」
「ええっと……」
みどりちゃんが乗車した場所や時間を説明すると、楓お姉ちゃんは少し考え込んだ。
「それなら、この辺りを走ってるバスだな。最終的には隣町の終点に集まるから、そこの営業所に問い合わせれば見つかるかもしれないぞ」
「本当ですか!?」
「ああ。運転手が回収してる可能性もあるし、誰かが届けてくれてるかもしれない。まあ、必ず見つかるとは言えないけどな」
「ありがとうございます!」
みどりちゃんの顔が、ぱっと明るくなった。
「こはくちゃん! 行ってみよう!」
「うん! ……あっ、でもちょっと待って!」
立ち上がろうとするみどりちゃんの手を、ぼくはそっと握った。
そして、楓お姉ちゃんに向き直る。
「お姉さん! かき氷を二つください!」
「おう。何味にする?」
「イチゴと、小豆!」
「はいよ。ちょっと待ってな」
ほどなくして、二つのかき氷が出来上がった。
ぼくは代金を払うと、みどりちゃんを連れて店の外にある長椅子へ向かった。
「はい、どうぞ!」
「えっ? 私に?」
「うん!」
みどりちゃんの手に、小豆のかき氷を渡す。
「……でも、早く行かなくていいの?」
「駄目だよ。みどりちゃん、さっきから汗びっしょりだもん」
ぼくは隣に腰掛け、イチゴのかき氷を一口頬張った。
「んーっ! 冷たーい!」
頭の奥が、きーんとする。
夏の暑さで火照った身体には、これがたまらない。
「まずは休憩! お水も飲んで、ちゃんと元気になってから行こうよ」
「……こはくちゃんって、しっかりしてるんだね」
「えへへ……」
そう言われると、ちょっと照れるなあ。
みどりちゃんは小豆のかき氷をしゃくしゃくと食べ始めた。
そして、ふと首を傾げる。
「……そういえばさ」
「ん?」
「どうして私が小豆のかき氷を好きだって知ってたの?」
「…………」
ぎくうっ!!
し、しまったあああ!!
そうだった!
みどりちゃんが小豆のかき氷を好きなのは、昔から知っていたことだった!
でも、初対面のこはくちゃんが知っているはずがない!
「あ、あはは……」
ぼくは必死に頭を回転させた。
考えろ、ぼく!
ここで正体がバレたら全部台無しだ!
「ほ、ほら! 疲れた時って甘いものが欲しくなるでしょ?」
「うん?」
「それに、小豆は栄養もあるし、カロリーもあるから! 疲れているみどりさんにはいいかなーって!」
「……ふうん?」
みどりちゃんは不思議そうな顔をした。
……セーフ?
……セーフだよね?
「でも、ありがとう。私、小豆のかき氷、大好きなんだわ」
「そ、そうなんだ! 偶然だねー!」
あはははは……。
……心臓に悪い。
◇ ◇ ◇
「それにしても……」
かき氷を食べながら、みどりちゃんがぽつりと呟いた。
「こはくちゃんって、本当に優しいね」
「えっ?」
「こんなに親切にしてもらったの、ボク君以来かな」
……ん?
「……ボク君?」
「うん! こはくちゃんも知ってる?」
「え、えっと……」
「夏休みの間、一条さんのお家にお世話になってる男の子なんだけど」
「ああ……。ごめんなさい。一条さんのお家の人は知ってますけど、その子には会ったことがないです」
「そっかあ」
みどりちゃんは少し残念そうに笑った。
「ボク君はね、私の従兄弟なんだわ」
「へ、へえ……」
「でもね、ちょっと不思議な男の子なの」
……嫌な予感がする。
「昔から機械が大好きでね。私が大切にしてた目覚まし時計を、勝手にバラバラに分解しちゃったことがあるの!」
「…………」
……あったっけ、そんなこと?
「しかもね! テレビのリモコンを鏡に向けて、赤外線が反射するかどうか実験してたの!」
「……へ、へえ」
……それは覚えてる。
確か、角度を変えながら何度も試したんだよね。
「それから、草滑りをした時なんて、スピードが出すぎて大泣きしちゃって!」
「…………」
「夜に牛を見せたら、目が光ってるのを見て『人魂だー!』って、また大泣きするし!」
「…………」
「私と相撲を取って負けた時なんて、悔しくてべそかいてたんだよ!」
「……そ、そうなんだ」
……待って。
ぼく、そんなに泣き虫だったっけ?
というか、みどりちゃん。
初対面の女の子に、従兄弟の恥ずかしい思い出を次から次へと暴露するのはどうかと思うんだけど!
「ふふふっ! 本当に情けない男の子だったんだわ」
みどりちゃんは楽しそうに笑った。
ぼくは笑えなかった。
……うう。
なんだか、知らないところで自分の評判がどんどん下がっている気がする。
「でもね……」
ふいに、みどりちゃんの声が静かになった。
「……え?」
「ボク君って、本当に優しい子なの」
さっきまでの楽しそうな表情が、少しだけ変わっていた。
みどりちゃんはかき氷の器を膝に置き、遠くの空を見上げた。
白い入道雲が、ゆっくりと山の向こうへ流れていく。
「……私ね」
「……うん?」
「ボク君に、救われたことがあるんだ」
「…………え?」
思わず、いつもの声が出てしまった。
……救われた?
ぼくが?
みどりちゃんを?
何のことだろう。
まったく覚えがない。
さっきまでの恥ずかしい思い出とは違って、胸の奥に小さな何かが引っかかった。
「……それって、どういう……?」
聞き返してみたけれど、みどりちゃんはすぐには答えなかった。
ただ、遠くの雲を見つめている。
懐かしそうな。
それでいて、どこか寂しそうな顔だった。
……みどりちゃん?
ぼくは、もう一度声をかけようとした。
けれど、その前にみどりちゃんが小さく笑った。
「……ごめんね。変な話しちゃった」
「う、ううん……」
「さあ! そろそろ行こうか!」
みどりちゃんは勢いよく立ち上がった。
「お財布、見つけなきゃ!」
「えっ? あっ、うん!」
ぼくが慌てて立ち上がると、みどりちゃんは二人分のかき氷の器を持って店の中へ戻っていった。
「ごちそうさまでした!」
「おう。気をつけて行けよ」
楓お姉ちゃんが手を振る。
「ま、待ってよ、みどりちゃん!」
ぼくは慌てて後を追った。
「あっ! 楓お姉ちゃん、ごちそうさまでした!」
「……お、おう。お粗末様」
楓お姉ちゃんは少しだけ不思議そうな顔をしていた。
けれど、ぼくにはそれを気にする余裕なんてなかった。
◇ ◇ ◇
「……ねえ、みどりちゃん」
「なあに?」
「やっぱり、バスで行かない?」
駄菓子屋を出て、しばらく歩いたところで、ぼくは恐る恐る提案した。
しかし……。
「ううん! 歩いて行こうよ!」
「ええっ!?」
みどりちゃんは、すっかり元気を取り戻していた。
さっきまでの疲れ切った姿が嘘みたいだ。
「だって、北海道じゃ見られないものがいっぱいあるんだもん!」
「そ、そうかなあ……」
「そうだよ! ほら、あの木だって北海道じゃあまり見かけないし、あっちのお家も面白い形してる!」
「……へえ」
「それに、こうやって知らない道を歩くのって、楽しいじゃない?」
「…………」
……参ったなあ。
まさか、こんなことになるなんて。
みんなを騙して驚かせるだけのつもりだったのに、気がつけば女の子の格好のまま、隣町まで歩くことになってしまった。
しかも、履き慣れないサンダルで。
……神様。
ぼく、そんなに悪いことしましたか?
ちょっと悪戯しようとしただけじゃないですか。
「はあ……」
小さくため息をつく。
けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。
むしろ……。
「ねえ、こはくちゃん!」
「……ん?」
「さっき話したボク君のことなんだけどね!」
「……うん」
「小さい頃はね、本当に変わった子だったんだよ!」
……また、その話?
「でもね、あの子と一緒にいると、毎日何かが起こるの。退屈なんてしたことなかったなあ」
みどりちゃんは楽しそうに笑った。
「……そうなんだ」
「うん! 私が思いつかないようなことを、次から次へと考えるんだもん」
ぼくは黙って、その話に耳を傾けた。
……そういえば。
ぼくは、北海道の吉本家で過ごした頃のことを、あまり覚えていない。
楽しかったこと。
怒られたこと。
泣いたこと。
きっと、たくさんあったはずなのに。
みどりちゃんが話してくれる思い出の中には、ぼくの知らないぼくがいる。
いや……。
正確には、忘れてしまったぼくがいるんだ。
もしかしたら。
こうして話を聞いているうちに、何か思い出せるかもしれない。
あの時、どんなことを考えていたのか。
どんな気持ちで、みどりちゃんと遊んでいたのか。
そして……。
ぼくが、みどりちゃんを救ったという話。
それだけは、どうしても気になった。
「……ねえ、みどりちゃん」
「ん?」
「もっと聞かせてくれる?」
「えっ? ボク君の話?」
「うん。なんだか、その子のことが気になっちゃって」
「ふふっ! いいよ! いーっぱいあるんだから!」
みどりちゃんは嬉しそうに笑った。
夏の青空の下。
蝉の声が降り注ぐ田舎道を、二人で歩いていく。
ぼくの白い帽子が風に揺れ、青いワンピースの裾がふわりと広がった。
……まったく。
変装して誰かを騙すつもりだったのに。
まさか、変装したおかげで、自分の知らない昔話を聞くことになるなんて。
でも……。
こんな夏休みも、悪くないかもしれない。
ぼくは隣を歩くみどりちゃんを見上げ、小さく笑った。
「……それで? そのボク君って、ほかにどんなことしたの?」
「えーっとね! そうそう、あれはね……!」
……あっ。
そうだ。
ひとつだけ、忘れていたことがある。
ぼくは今、女の子だった。
そして、みどりちゃんはそのことに、まったく気づいていない。
……ふふふ。
やっぱり、この変装は大成功だ!
そう思いながら、ぼくはみどりちゃんの隣を歩き続けた。
もっとも、この先どれだけ歩かされるのか。
その時のぼくは、まだ知らなかったのである。