ぼくのなつやすみ〜のんのんといっしょ〜   作:Edward

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8月6日の午後

8月6日の午後

 

「ねえ……まだ着かないのかなぁ?」

 

隣を歩くみどりちゃんから、すっかり弱気になった声が聞こえてきた。

 

無理もない。

 

真夏の太陽は容赦なく照りつけ、アスファルトから立ち上る熱気が、まるで下からも焼かれているような錯覚を覚えさせる。

 

ぼくはポケットから携帯電話を取り出すと、GPSを起動して現在地を確認した。

 

「えーっと……あ、ここだ。目的のバス停は……」

 

画面に表示された地図を指でなぞる。

 

「……まだ七キロくらいあるよ」

 

「うえええっ!? まだそんなにあるの!?」

 

みどりちゃんが情けない声を上げた。

 

「やっぱりバスに乗ればよかったかなぁ……」

 

「……今更気づいても遅いよ」

 

ぼくは思わずため息をついた。

 

子供の足で七キロ。

 

この暑さと疲労を考慮すると、あと二時間くらいは覚悟しなければならないだろう。

 

しかも、ぼくにはもう一つ厄介な問題があった。

 

暑い。

 

とにかく暑い!

 

青いワンピースは風通しがいいと思っていたのに、汗を吸った生地が肌に張りついて、なんとも気持ちが悪い。

 

おまけに頭には白いキャペリン。

 

これがまた蒸れるのだ。

 

普段なら帽子を脱いで風に当たりたいところだけど、今のぼくには絶対にできない。

 

なぜなら……。

 

(帽子を脱いだら、正体がバレちゃうかもしれないもん!)

 

そう。

 

現在のぼくは、蛍お姉ちゃんの服を借りて女の子に変装中。

 

しかも、偶然再会した北海道のみどりちゃんには《琥珀》という偽名まで名乗ってしまっている。

 

……どうしてこんなことになったんだろう。

 

ジーワ、ジーワ、ジーワ……。

 

アブラゼミが、まるで暑さを増幅させるかのように鳴き続けている。

 

最初は周囲の景色を楽しそうに眺めていたみどりちゃんも、今ではすっかり無口になっていた。

 

ただ、ひたすら足を前へ運ぶ。

 

ぼくも同じだった。

 

このままでは二人とも干からびてしまいそうだ。

 

「……ねえ、みどりちゃん」

 

「んー?」

 

「北海道って、やっぱり涼しいの?」

 

「んー、そんなことないべさ。北海道だって夏は暑いんだよ。短いけど三十度を超えることもあるし……」

 

そこまで言ったところで、みどりちゃんがぴたりと足を止めた。

 

「……あれ?」

 

「ん?」

 

「琥珀ちゃん、私が北海道に住んでるって言ったっけ?」

 

「…………え?」

 

しまった。

 

(ああああっ!!)

 

ぼくの背筋を冷たいものが走った。

 

そうだった!

 

みどりちゃんとは海水浴場で再会したけれど、今のぼくは別人という設定なのだ。

 

北海道のことなんて、聞いた覚えがない!

 

「え、えっと……ほら! その話し方! 北海道の言葉だと思ったから!」

 

「ああ、そういうことかぁ」

 

ほっ。

 

なんとかごまかせた。

 

……と思ったのも束の間。

 

「でもさぁ……」

 

「な、なに?」

 

「なんか、最初から知ってるみたいな言い方だったべさ?」

 

ぎくっ!

 

みどりちゃんが、じーっとぼくの顔を覗き込む。

 

「それに琥珀ちゃん、誰かに似てるような……」

 

「そ、そうかなぁ?」

 

「ちょっと帽子取ってみて?」

 

「えっ!?」

 

みどりちゃんの手が、ぼくのキャペリンに伸びてきた。

 

ぼくは慌てて帽子を深くかぶり直す。

 

「だ、だめっ! 日焼けしちゃうから!」

 

「そんなに?」

 

「そ、そう! 女の子は日焼けが大敵なんだよ!」

 

……我ながら、なんて苦しい言い訳だろう。

 

蛍お姉ちゃん、女の子って大変なんだね。

 

今まで知らなかったよ。

 

「あっ!!」

 

ぼくは突然、大きな声を上げた。

 

「みどりちゃん! あそこ見て!」

 

「え?」

 

「無人販売所があるよ! ちょっと休憩しよう!」

 

「えっ、ちょっと! 琥珀ちゃん!?」

 

とたとたと小走りで駆け出すぼく。

 

その後ろ姿を、みどりちゃんは不思議そうに見つめていた。

 

(あっぶなーい!!)

 

みどりちゃん、昔から勘が鋭かったけど、こんなに鋭かったっけ!?

 

---

 

無人販売所は、農家の軒先に設けられた小さな木造の小屋だった。

 

屋根の下には野菜が並べられ、横には古びた水道が設置されている。

 

「おっ!」

 

ぼくは思わず声を上げた。

 

そこには、茹でたトウモロコシが食べやすい大きさに切られて、小皿に並べられていたのだ。

 

「これにしよう!」

 

代金箱にお金を入れ、二人分のトウモロコシを取り出す。

 

「はい、みどりちゃん!」

 

「えっ、私の分も?」

 

「うん! お腹すいたでしょ?」

 

「……ありがとう、琥珀ちゃん」

 

ぼくはさっそくトウモロコシにかぶりついた。

 

しゃくっ!

 

「んんーっ! あまーい!」

 

茹で上がってから時間が経っているはずなのに、黄色い粒はまだ瑞々しく、噛みしめるたびに甘い汁が口いっぱいに広がる。

 

「おいしいーっ!」

 

続いて水道の蛇口をひねる。

 

ジャーッ!

 

両手で水を受けると、そのまま口へ運んだ。

 

「ぷはぁーっ!!」

 

冷たい!

 

気持ちいい!

 

「生き返るーっ!」

 

……もっとも、飲用できる水道であることは確認済みだ。

 

田舎だからといって、どんな水でも飲めるわけじゃない。

 

ぼくが夢中になって水を飲んでいると、背後からくすくすと笑い声が聞こえてきた。

 

「……琥珀ちゃんってさ」

 

「ん?」

 

「その格好の割に、なんか男の子みたいだね」

 

ぶふっ!!

 

危うく水を吹き出すところだった。

 

「そ、そうかなぁ!?」

 

「うん。もっとおしとやかな子かと思ってたべさ」

 

ぼくは自分の格好を見下ろした。

 

青いワンピース。

 

白いキャペリン。

 

ピンクのサンダル。

 

……うん。

 

どう見ても女の子だ。

 

しかも、蛍お姉ちゃんの服は小さい頃から妙に上品で、ぼくみたいな男の子が着ても、なかなかそれらしく見える。

 

(蛍お姉ちゃん……小さい頃から女子力高すぎるよ!)

 

対するみどりちゃんは、水玉模様のシャツに動きやすいズボン。

 

長い髪こそ女の子らしいけれど、服装だけなら夏海お姉ちゃんといい勝負だ。

 

「そ、そう? この辺じゃ普通だよ! みどりちゃんもやってみなよ!」

 

「えー?」

 

みどりちゃんは少し迷ったあと、手元のトウモロコシに視線を落とした。

 

黄金色の粒。

 

ほんのりと漂う甘い香り。

 

北海道でもトウモロコシは馴染み深い食べ物だ。

 

けれど、この炎天下を歩き続けた身体には、目の前の一本が何よりも魅力的に映った。

 

「……いただきます」

 

しゃくっ。

 

「…………!」

 

みどりちゃんの目が丸くなる。

 

「……甘い!」

 

「でしょ!」

 

「うん! すっごく甘いべさ!」

 

二口、三口。

 

気がつけば、みどりちゃんも夢中で頬張っていた。

 

そしてぼくと同じように水道の水を飲む。

 

「ぷはぁーっ!」

 

「あははっ! みどりちゃんも男の子みたい!」

 

「なっ!? 琥珀ちゃんが先にやったんでしょ!」

 

二人で顔を見合わせる。

 

そして……。

 

「あははははっ!」

 

「ふふっ! あはははっ!」

 

さっきまでの疲れが嘘のように、笑い声が夏空に響いた。

 

「元気出た?」

 

「うん! ばっちり!」

 

「よかった!」

 

「琥珀ちゃん、ありがとうね」

 

「……なんもさ!」

 

ぼくが北海道の言葉で答えると、みどりちゃんは一瞬きょとんとした。

 

それから、また笑い出した。

 

「もう! 琥珀ちゃん、やっぱり北海道のこと詳しいべさ!」

 

(あっ……またやっちゃった!)

 

……どうやら、ぼくは秘密を守るのがあまり得意ではないらしい。

 

---

 

休憩を終えたぼくたちは、再び田舎道を歩き始めた。

 

先ほどまでの炎天下とは違い、少しずつ雲が広がってきたおかげで、幾分か歩きやすくなっている。

 

「そういえばさ、みどりちゃん」

 

「なあに?」

 

「どうしてこの村に来たの?」

 

「んー……」

 

みどりちゃんは少し考えてから答えた。

 

「実はね、この夏休みに弟か妹が生まれるんだ」

 

「えっ! そうなの!?」

 

「うん!」

 

みどりちゃんは嬉しそうに笑った。

 

「うちは牧場だからさ、毎日やることがいっぱいあるんだよ。牛の世話もあるし、畑もあるし」

 

「へえー……」

 

「だから私も毎日手伝ってるんだけど、今は親戚の人が来てくれてるから、しばらく遊んでこいって」

 

「そうなんだ」

 

「お父さんがね、赤ちゃんが生まれたら今まで以上に忙しくなるから、最後の長い休みを楽しんでこいってさ」

 

「……優しいお父さんだね」

 

「うん。ちょっと寂しいけどね」

 

そう言って、みどりちゃんは照れくさそうに笑った。

 

ぼくは少し考える。

 

牧場。

 

毎朝飲んでいる牛乳。

 

食卓に並ぶお肉。

 

普段は当たり前のように口にしているけれど、その裏側では、毎日休まず働いている人たちがいる。

 

「……そっか」

 

「ん?」

 

「ぼく、牛乳とかお肉とか、もっと大事に食べなきゃいけないね」

 

「え?」

 

「だって、みどりちゃんたちが一生懸命働いて作ってくれてるんでしょ? 好き嫌いして残したら、罰が当たっちゃうよ」

 

みどりちゃんは驚いたように目を瞬かせた。

 

それから、ふわりと頬を緩ませる。

 

「……ふふっ」

 

「な、なに?」

 

「ううん。そう言ってもらえると、なんだか嬉しいなって」

 

「そう?」

 

「うん!」

 

みどりちゃんは空を見上げた。

 

「……そういえばね」

 

「ん?」

 

「私の親戚にも、琥珀ちゃんみたいなこと言ってくれた子がいるんだ」

 

どきっ。

 

……親戚?

 

「小さい頃にうちへ遊びに来た男の子なんだけどね」

 

「へ、へえー……」

 

「最初はすっごく好き嫌いが多かったんだよ。野菜もあんまり食べなかったし」

 

「…………」

 

「でもね、うちの野菜とか牛乳を食べてるうちに、だんだん好き嫌いがなくなったんだ」

 

「……そうなんだ」

 

「帰る頃には、嫌いだった野菜も食べられるようになっててさ。なんだか嬉しかったなぁ」

 

「へえー……よっぽどおいしかったんだね。みどりちゃんの家で採れる野菜……」

 

そこまで言ったところで。

 

ぼくの頭の中に、突然、一つの光景が浮かんだ。

 

……赤。

 

真っ赤な……。

 

トマト。

 

「…………あ」

 

足が止まる。

 

心臓が、どくん、と大きく跳ねた。

 

……そうだ。

 

ぼくは……。

 

ぼくは、あの牧場に行ったことがある。

 

ずっと昔。

 

まだ、ぼくもみどりちゃんも、今よりずっと小さかった頃。

 

忘れていたはずの記憶が、まるで古い写真を一枚ずつめくるように、ゆっくりと蘇ってきた。

 

---

 

あの日も、暑い夏だった。

 

北海道の短い夏。

 

広い畑には、真っ赤に熟したトマトがたくさん実っていた。

 

ぼくは、みどりちゃんと一緒に遊んでいた。

 

あの頃のみどりちゃんは、今よりもっと男勝りだった。

 

走るのも速い。

 

力も強い。

 

ぼくはよく追いかけ回されて、泣かされていたっけ。

 

でも……。

 

あの日は違った。

 

「……やめてよ!」

 

みどりちゃんの声。

 

「なんだよ、こんなトマト!」

 

見知らぬ男の子が、畑で採ったトマトをかじっていた。

 

「まずい! こんなの食えるかよ!」

 

そして。

 

ぐしゃっ!

 

男の子が投げつけたトマトが、みどりちゃんのスカートに当たった。

 

真っ赤な果汁が飛び散る。

 

「…………!」

 

みどりちゃんは、呆然と自分のスカートを見下ろした。

 

「……ひどい」

 

「なんだよ! まずいもんはまずいんだよ!」

 

「……お父さんとお母さんが……」

 

みどりちゃんの声が震える。

 

「一生懸命、作ったのに……!」

 

ぽろっ。

 

大粒の涙が、頬を伝った。

 

いつも元気で、ぼくを泣かせてばかりいたみどりちゃんが。

 

その場にしゃがみ込んで、泣いていた。

 

……その瞬間。

 

ぼくの頭の中が、真っ白になった。

 

「…………!」

 

気がついた時には、身体が動いていた。

 

どんっ!!

 

「うわっ!?」

 

ぼくは男の子に飛びかかった。

 

二人でもつれ合い、そのまま畑の土の上を転がる。

 

「な、なんだよお前!」

 

「……あやまれっ!!」

 

「いててっ! 何すんだよ!」

 

「みどりちゃんに、あやまれーっ!!」

 

力なんて、たいして強くなかった。

 

喧嘩だって、得意じゃなかった。

 

怖かった。

 

殴られるのも、痛いのも、嫌だった。

 

それでも。

 

ぼくは手を離さなかった。

 

だって。

 

あんなに元気なみどりちゃんが、泣いているんだ。

 

「……あやまれよぉっ!!」

 

気がつけば、ぼく自身も涙目になっていた。

 

結局、最後には男の子が泣きながら逃げていった。

 

残されたのは、泥だらけになったぼくと、スカートを汚したみどりちゃん。

 

「……ぐすっ」

 

みどりちゃんは、まだ泣いていた。

 

「……みどりちゃん」

 

「……なによぉ」

 

「もう大丈夫だよ」

 

ぼくは畑の脇にある水道へ走った。

 

ホースを引っ張ってくると、みどりちゃんのスカートに付いたトマトの果汁を洗い流す。

 

「……何してるの?」

 

「早く洗わないと、取れなくなっちゃうかもしれないから」

 

「……でも」

 

「大丈夫! お洗濯すればきっときれいになるよ!」

 

……もっとも、泥だらけになったぼく自身の服は、すでに手遅れだったけれど。

 

「…………」

 

みどりちゃんは、まだ元気がなかった。

 

どうしたら笑ってくれるんだろう。

 

ぼくは困って、周囲を見回した。

 

そこで。

 

畑の土の上に落ちている、一つのトマトを見つけた。

 

さっき、男の子が投げつけたものだ。

 

潰れて、泥だらけになっている。

 

「…………」

 

ぼくはそれを拾い上げた。

 

ホースの水で丁寧に泥を洗い流す。

 

そして。

 

がぶっ!

 

「……えっ!?」

 

みどりちゃんが目を丸くした。

 

「な、何してるの!?」

 

ぼくはトマトを頬張ったまま、にっこり笑った。

 

「……おいしい!」

 

「……え?」

 

「なんだ! あの子、まずいって言ってたけど、嘘じゃないか!」

 

しゃくっ。

 

もう一口。

 

「みどりちゃんのお家のトマト、すっごくおいしいよ!」

 

……本当は。

 

ぼくは、トマトがあまり好きじゃなかった。

 

独特の青臭さも、種の周りのぐにゅっとした食感も苦手だった。

 

でも。

 

この時のトマトは、不思議とおいしかった。

 

「…………」

 

みどりちゃんは、ぽかんとぼくを見つめていた。

 

やがて。

 

「……ほんと?」

 

「うん!」

 

「……おいしい?」

 

「すっごく!」

 

ぼくは残りのトマトを食べ終えると、手を差し出した。

 

「ねえ、みどりちゃん」

 

「……なあに?」

 

「一番おいしいトマト、どれ?」

 

「……え?」

 

「もう一つ食べたいな!」

 

その時だった。

 

みどりちゃんの顔が、くしゃっと歪んだ。

 

泣くのかな、と思った。

 

でも。

 

「……うんっ!」

 

それは、笑顔だった。

 

「こっち! こっちにすっごく甘いのがあるんだよ!」

 

みどりちゃんが、ぼくの手を握った。

 

小さくて、温かい手。

 

その手に引っ張られて、ぼくは畑の中を走り出した。

 

……そうだ。

 

あの時。

 

ぼくは、みどりちゃんを笑わせたかったんだ。

 

ただ、それだけだった。

 

---

 

「……琥珀ちゃん?」

 

遠くから声が聞こえる。

 

「……琥珀ちゃんってば!」

 

「……えっ!?」

 

ぼくは我に返った。

 

目の前には、心配そうに覗き込むみどりちゃんの顔。

 

「どうしたのさ? 急にぼーっとして」

 

「……あ、ごめんなさい」

 

ぼくは慌てて笑顔を作った。

 

でも。

 

胸の奥が、まだどきどきしている。

 

……思い出した。

 

あの時のこと。

 

どうして忘れていたんだろう。

 

ぼくが野菜を食べられるようになった理由。

 

あのトマトの味。

 

そして。

 

みどりちゃんの笑顔。

 

「……なんかね」

 

「ん?」

 

「昔のこと、思い出しちゃった」

 

「……昔のこと?」

 

「うん」

 

ぼくは少し俯いた。

 

「なんて言ったらいいのかな……。すごく懐かしくて、でも、なんだか胸がどきどきして……」

 

「…………」

 

「うまく言えないや。みどりちゃんに話しても、きっとわからないと思う」

 

すると。

 

「……わかるべさ」

 

「……え?」

 

ぼくは顔を上げた。

 

みどりちゃんが、こちらを見ていた。

 

いつもの元気な表情とは違う。

 

どこか遠くを見つめるような。

 

それでいて、とても優しい目。

 

「……私もね」

 

「…………」

 

「私も、そうなんだもん……」

 

どくん。

 

心臓が、もう一度大きく跳ねた。

 

……え?

 

それって……。

 

みどりちゃんは、ふいっと顔を背けた。

 

「……さっ!」

 

「え?」

 

「いつまでも歩いてたら、日が暮れちゃうべさ!」

 

「あっ、ちょっと!」

 

みどりちゃんが突然走り出した。

 

「み、みどりちゃん!?」

 

「ほら! 琥珀ちゃんも早く!」

 

「ま、待ってよーっ!」

 

ぼくも慌てて追いかける。

 

青いワンピースの裾が、風にふわりと広がった。

 

白いキャペリンを押さえながら、ぼくは必死に走った。

 

前を行くみどりちゃんの長い髪が、夕方の風に揺れている。

 

……なんだろう。

 

なんだか、あの時と反対だ。

 

昔は、みどりちゃんがぼくの手を引いて走っていた。

 

今は、ぼくがその背中を追いかけている。

 

「……あははっ!」

 

思わず笑ってしまった。

 

「なに笑ってるのさー!」

 

「なんでもなーい!」

 

夏の終わりには、まだ早い。

 

でも。

 

傾き始めた太陽は、田んぼを黄金色に染めていた。

 

昼間の熱気が少しずつ薄れ、風が汗ばんだ頬を優しく撫でていく。

 

みどりちゃんは、まるで胸の中に生まれた熱を振り払うように、どこまでも走り続けた。

 

そして。

 

「……あっ!」

 

坂道を越えた先。

 

ようやく、目的のバス停が見えてきた。

 

「着いたーっ!!」

 

「はぁ……はぁ……みどりちゃん、速すぎるよぉ……」

 

ぼくは膝に手をついて息を整えた。

 

結局、目的の財布は無事に見つかった。

 

停留所で預かってもらっていた財布を受け取ったみどりちゃんは、何度も頭を下げていた。

 

「よかったね!」

 

「うん! 琥珀ちゃんのおかげだべさ!」

 

「えへへ……」

 

やがて、帰りのバスがやって来た。

 

プシューッ。

 

扉が開き、二人で乗り込む。

 

冷房の効いた車内に入った途端、思わず声が出た。

 

「……ああ、生き返るぅ」

 

「ふふっ! 琥珀ちゃん、おばあちゃんみたい!」

 

「だってぇ……」

 

二人でくすくす笑いながら、並んで座席に腰を下ろす。

 

窓の外では、夕日に照らされた田園風景がゆっくりと流れ始めていた。

 

……そういえば。

 

みどりちゃんは、ぼくの正体に気づいているのだろうか。

 

ちらりと隣を見る。

 

みどりちゃんは、窓の外を眺めていた。

 

その横顔には、どこか満足そうな笑みが浮かんでいる。

 

「……ねえ、琥珀ちゃん」

 

「ん?」

 

「今日は、一緒に来てくれてありがとう」

 

「……うん!」

 

「……楽しかったよ」

 

「ぼくも!」

 

……あ。

 

また、ぼくって言っちゃった。

 

慌てて口を押さえる。

 

けれど。

 

みどりちゃんは、何も言わなかった。

 

ただ、少しだけ目を細めて。

 

「……ふふっ」

 

そう笑っただけだった。

 

ぼくは窓の外に視線を戻す。

 

……まあ、いいか。

 

今日のことは、きっと忘れない。

 

北海道の短い夏。

 

真っ赤なトマト。

 

泥だらけになって喧嘩した、幼い日の思い出。

 

そして。

 

青いワンピースを着たぼくと、北海道から来た女の子の、小さな冒険。

 

……いつか。

 

ずっと大きくなった時。

 

この日のことを、二人で笑いながら話せるといいな。

 

そんなことを考えながら、ぼくは夕焼けに染まる景色を眺め続けた。

 

八月六日。

 

ぼくは、忘れていた夏の思い出を、一つ取り戻した。

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