昨日書き忘れていた絵日記を、ラジオ体操へ出かける前に書き込む。
八月六日
『みどりちゃんの財布を探しに、歩いて停留所まで行った。』
そこまで書いたところで、ぼくは鉛筆を止めた。
「……うーん、違うなあ」
消しゴムでごしごしと文字を消す。
昨日は色々なことがあった。
みどりちゃんと歩いた長い道のり。照りつける太陽。うるさいくらいに鳴いていたセミ。
そして、夜。
ぼくにとって、もう一つの大事件があったのだ。
『きのう、とうとうアシスト君が完成した! 決戦は近い。』
「……よしっ!」
鉛筆を置いて、満足げに頷く。
今日こそ、あいつを釣り上げてやる。
池の主。
ぼくの釣り竿をへし折り、二度までも逃げおおせた、あの巨大な魚。
待ってろよ!
今度こそ、勝負だ!
◇ ◇ ◇
ちゃん♪ ちゃん♪ ちゃ♪ ちゃ♪ ちゃ♪ ちゃ♪
いつもの音楽が、旭ヶ丘の朝に響き渡る。
まだ朝早いというのに、太陽はすでに元気いっぱいだった。
田んぼの向こうから吹いてくる風は少しだけ涼しいけれど、今日も暑くなりそうだ。
「おおー! 今日のボク君は、ずいぶん気合いが入ってるんなー」
隣でラジオ体操とは似ても似つかない、謎のレッツダンシングを披露しているれんげちゃんが声をかけてきた。
「うん! 今日は池の主を釣りに行くんだ! 今度こそ釣り上げて、夏海お姉ちゃんの釣果に勝ってみせるよ!」
ぼくは腕をぶんぶん振り回した。
その瞬間。
ぷすっ。
「ひゃいっ!?」
両脇腹に、突然何かが突き刺さった。
正確には、れんげちゃんの人差し指である。
素っ頓狂な声を上げたぼくに、周囲の視線が一斉に集まった。
「れ、れんげちゃん! 何するんだよ!」
「ボク君、力が入りすぎなんな」
「へ?」
「こういう時こそ、心を落ち着かせるん。魚に気配を悟られてはいけないのん」
れんげちゃんは相変わらずの半眼で、妙に達観したことを言う。
「……本当に、魚にそんなことがわかるの?」
「主は今まで誰にも釣られずに生き残ってきた猛者なん。ボク君も何度も逃げられているから、きっと警戒されてるんな」
「なるほど……」
「今日は水面に近づきすぎず、静かに待つのん。魚は水の中からでも、光の屈折で岸の様子が見えることがあるん」
「……れんげちゃん」
「なんなん?」
「本当に小学一年生?」
光の屈折を理解している小学一年生。
以前、車の速度について話した時も、時速五十キロメートルという概念を普通に理解していた。
どうなっているんだ、この子は。
「小学三年生で、変な機械をいっぱい作るボク君に言われたくないんな」
「うぐっ!」
即答だった。
しかも反論できない。
「……二人とも、低学年とは思えないよ」
隣で体操していた蛍お姉ちゃんが、呆れたように呟いた。
そう言う蛍お姉ちゃんも、東京から引っ越してきた小学五年生とは思えないほど大人びている。
……ただし、身長だけではなく。
「蛍お姉ちゃんも、小学生に見えないよ?」
「えっ!?」
「大人っぽいもん」
「あ、ありがとう……?」
なぜか複雑そうな顔をされた。
褒めたつもりだったんだけどなあ。
◇ ◇ ◇
ラジオ体操が終わると、ぼくは昨日完成したばかりの新兵器を台車に載せて運び始めた。
その名も――。
《アシスト君》!
大きなコンテナボックスに収められた機械は、昨日の夜、ぼくがようやく完成させた秘密兵器である。
蛍お姉ちゃんは前回の釣り竿破損事件を心配して同行。
れんげちゃんは新兵器に興味津々といったところだ。
「ボク君、それって電気が必要なんでしょ? どうやって動かすの?」
「ふっふっふっ。実はね、ちょっとがめついお姉ちゃんにお願いしたんだ」
「がめつい?」
「うん。子供相手だからって足元を見て、すっごく高い料金を請求してきたんだよ」
「……へえ?」
「そうなんだよ。まったく、世の中って世知辛いよねえ」
「ほほう。そいつは大変だったなあ?」
「そうなんだよ!」
……ん?
今、知らない声が混ざったような。
「で、そのがめついお姉ちゃんってのは、誰のことだ?」
「楓お姉ちゃ……」
ぎぎぎ。
ぼくは油の切れたロボットのように、ゆっくりと振り返った。
そこには、窓を開けたワンボックスカー。
そして運転席から、じとーっとこちらを睨む楓お姉ちゃんの姿があった。
「……おはようございます」
「おう、おはよう。ずいぶん楽しそうな話をしてたじゃねーか」
「楓お姉ちゃん! 発電機を持ってきてくれてありがとう!」
満面の笑みでごまかす。
ごつん。
「あいたっ!」
「聞こえてたっつーんだ。せっかく発電機を用意してやったのに、その言い草は何だ?」
「はーい、ごめんなさーい」
頭をさすりながら反省する。
ちなみに発電機のレンタル代は、ぼくのお小遣いからきっちり徴収されている。
楓お姉ちゃん、商売に関しては容赦がない。
「で、その箱の中身に発電機を使うのか?」
「うん! 楓お姉ちゃんは先に池まで行ってて。蛍お姉ちゃんとれんげちゃんも、車に乗せてもらう?」
「ウチ、乗るんー!」
れんげちゃんが元気よく手を上げた。
「私はボク君と一緒に運ぶよ。交代で押せば楽になるし」
「ありがとう、蛍お姉ちゃん!」
「じゃあ、先に行って準備しておくからなー」
「ボク君、ドンマイなんなー!」
れんげちゃんを乗せた車が走り去っていく。
ミーン、ミーン。
早くもミンミンゼミが鳴き始めていた。
ぼくと蛍お姉ちゃんは、台車をごろごろと押しながら歩き出す。
「……蛍お姉ちゃん」
「なあに?」
「ドンマイって、こんな時に使う言葉だったっけ?」
「……れんげちゃんの言うことは、あんまり気にしない方がいいよ」
「それって、ディスってるってやつ?」
「あわわわ! ち、違うの! そういう意味じゃなくって!」
慌てふためく蛍お姉ちゃん。
今日も旭ヶ丘は平和だった。
◇ ◇ ◇
池に到着すると、楓お姉ちゃんはすでに発電機を車から降ろし、準備を終えていた。
それどころか、簡易パラソルまで設置している。
「おおー!」
「お前ら、遅かったな」
「楓お姉ちゃん、すごい! 準備が早いね!」
「これくらい普通だろ。発電機は池から十分離した場所に置いてある。燃料も入れたし、あとはお前の準備待ちだ」
発電機は屋外の風通しのよい平らな場所に置かれ、排気がこちらへ流れてこない向きになっていた。
水辺で電気を使うのだから、漏電対策も欠かせない。
今回は楓お姉ちゃんが発電機と電源設備を管理し、ぼくは低電圧側の操作だけを担当する約束だった。
「よーし! じゃあ、アシスト君の出番だ!」
コンテナボックスを開ける。
中から取り出したのは、改造した釣り竿と、透明なアクリルケースに収められた動力ユニット。
竿は以前の面影がほとんどなくなっていた。
ロッドは素材そのものを変更。
軽くて丈夫な複合素材を使い、負荷が集中する部分も補強してある。
そして最大の特徴が、動力ユニットだ。
内部にはモーターと減速機、巻き取り機構。
その横には制御用のインバーターと小型コンピューターを組み込んでいる。
回転部分は透明なケースで覆い、手や衣服が巻き込まれないようにした。
もちろん、非常停止スイッチも装備済み。
「……おいおい」
楓お姉ちゃんが、機械を見ながら呆れた声を出す。
「主を釣るために、何を作ったんだよ……」
「これ、もう釣り竿じゃないですよね……?」
蛍お姉ちゃんまで首を傾げている。
「大丈夫! ぼくが設計して、部品を買って、組み立てたんだから!」
「いや、そういう問題じゃ……」
「それに、自由研究の一環でもあるんだ!」
ぼくは胸を張った。
「夏休みの宿題が一つ片づくし、主も釣れる! 一石二鳥だよ!」
「……自由研究って、そういうもんだったか?」
「少なくとも、私の知っている自由研究とは違います……」
二人の反応が冷たい。
失礼な。
これでも結構苦労したんだぞ。
「ボク君、それでどうやって釣るん?」
れんげちゃんが興味深そうに覗き込んできた。
「ふっふっふっ。簡単に言うと、魚が強く引っ張ったら少し糸を出して、弱くなったら巻き取るんだよ」
「ほう」
「それを自動で繰り返すの。魚の力に合わせてモーターを制御するんだ」
「つまり、魚と機械が根比べするん?」
「そういうこと!」
「……魚、かわいそうなんな」
「えっ!?」
なんだろう。
ものすごく悪いことをしている気分になってきた。
ともあれ、今日は機械の実験が目的でもある。
竿を固定金具に装着し、糸をガイドに通す。
負荷を検出するセンサーを取り付け、コントローラーに接続。
最後に非常停止スイッチと安全カバーを確認した。
「よし、準備完了!」
「こっちもいいぞ」
楓お姉ちゃんが発電機を始動させる。
ぶるるるる……。
低いエンジン音が響いた。
防雨対策を施した電源設備を確認し、楓お姉ちゃんが接続を許可する。
コントローラーの電源を入れると、小さな表示灯が点灯した。
「アシスト君、起動!」
ぼくは釣り竿を手に持ち、仕掛けを池へ投げ込んだ。
ぽちゃん。
水面に小さな波紋が広がる。
竿を固定して、待機モードに切り替える。
「よーし、いけー!」
……。
「……いけー、だけに池ー」
れんげちゃんが、ぽつりと呟いた。
沈黙。
蛍お姉ちゃんが目を逸らした。
楓お姉ちゃんは煙草でも取り出しそうな顔をしている。
「……れんげちゃん」
「なんなん?」
「それ、ぼくが言おうと思ってたのに……」
「先手必勝なんな」
くそう。
小学一年生に先を越された。
肝心の池の主も、寒い駄洒落を嫌ったのか、まったく姿を現さない。
聞こえるのは発電機の低い音と、セミの大合唱ばかりだった。
◇ ◇ ◇
「……暇だね」
十分。
二十分。
何の反応もない。
アシスト君は待機モードのまま、静かに池を見つめている。
「そうだ。せっかくだから、内職でもしようかな」
「……内職?」
蛍お姉ちゃんが首を傾げた。
「うん。おじちゃんのスマートフォンを直そうと思って」
「お父さんの?」
「昨日、お風呂で湯船に落としたんだって。電源が入らなくなったらしいんだ」
「もうー! だからあの携帯電話、防水じゃないって何度も言ったのに!」
蛍お姉ちゃんが頭を抱えた。
どうやら常習犯らしい。
ぼくは持参した工具箱を開けた。
精密ドライバー。
樹脂製の分解工具。
静電気対策用品。
それから、洗浄用の無水エタノールと専用のクリーニング用品。
「ただし、水没した携帯は危ないからね。バッテリーが傷んでいたら、ぼくには直せないよ」
「そうなの?」
「うん。リチウムイオン電池は無理に通電したり、壊れたまま充電したりすると危ないんだ。だから、電源は入れずに持ってきてもらったんだよ」
「ボク君、詳しいんなー」
「博士に教えてもらったんだ!」
まずは外観を確認する。
変形や膨張、異臭などは見当たらない。
それでも安全とは限らないため、楓お姉ちゃんに見守ってもらいながら、電源を入れずに慎重に内部を確認した。
「……うわあ」
内部には水分が入り込んだ痕跡があった。
「おじちゃん、お風呂にどれくらい沈めてたんだろう……」
「すぐ拾い上げたって言ってたけど……」
「お湯は厄介なんだよ。乾いても汚れが残るし、腐食することがあるから」
バッテリーの状態は、見た目だけでは判断できない。
危険がない範囲で内部を点検し、取り外し可能な部品の一部を専用の道具で清掃する。
水分や汚れの痕跡が残る部分は、無理に触らず専門の修理店へ任せることにした。
「……今日はここまでかな」
「えっ!? 直らないの?」
蛍お姉ちゃんが悲しそうな声を上げた。
「まだわからないよ。でも、無理に電源を入れて壊したら意味ないでしょ?」
「そっか……」
「それに、おじちゃんが前に頼んでくれた時、パソコンに携帯のバックアップが残ってるのを確認してあるから、データはある程度戻せると思うよ」
「本当!?」
蛍お姉ちゃんの顔がぱあっと明るくなった。
「うん! ただし、最近のデータは残っていないかもしれないけどね」
「それでもよかったー!」
ほっと胸を撫で下ろす蛍お姉ちゃん。
そこで、れんげちゃんが質問した。
「ボク君、修理したらお金もらえるん?」
「うん! 今回は三千円もくれるんだ!」
「なっ! 三千円!?」
れんげちゃんが目を見開いた。
「ボク君、お大臣様なんな!」
「えへへー」
「……でも、普通のお店に頼んだらもっと高いと思うよ?」
蛍お姉ちゃんが冷静に突っ込んだ。
「そうなんだけど、ぼくは趣味だからね。直らなかったらお金はもらわないし」
「おいおい」
楓お姉ちゃんが呆れたように口を挟んだ。
「そんな値段で何でも引き受けてたら、田舎の商売が成り立たなくなるぞ」
「えー? でも、ぼくは夏休みだけだよ?」
「それでも、ほどほどにしとけよ」
楓お姉ちゃんは苦笑した。
その時だった。
「そういえば、おじちゃん、会社の携帯だから壊したら始末書を書くことになるって言ってたなあ」
「……え?」
「始末書を書いたら、ボーナスがどうとか言ってたけど……」
ぴしっ。
蛍お姉ちゃんの表情が固まった。
「……ボーナス?」
「うん」
「お父さんの?」
「うん」
「……それって……」
蛍お姉ちゃんの顔色が、みるみる青くなる。
「ボク君!!」
「ひゃいっ!?」
「お願い! 絶対に直して!!」
「ええっ!?」
「お父さんのボーナスが減っちゃったら……私のお小遣いがあああ!!」
半泣きで肩を掴まれた。
「ほ、蛍お姉ちゃん! 落ち着いて!」
「お願いだからあああ!」
「ほたるん、どうしたんな!?」
れんげちゃんが驚いている。
楓お姉ちゃんは腕を組んで、呆れたように言った。
「……どうやらボク君の修理結果が、一条家の家計を左右するらしいな」
「そんな大げさな!」
「ふっふっふっ……」
れんげちゃんが得意げに笑った。
「さすが、ウチが見込んだ男なんな」
「……お前、いつからボク君の保護者になったんだ?」
楓お姉ちゃんのツッコミが、朝の池に響いた。
◇ ◇ ◇
その時だった。
「……ん?」
れんげちゃんが、ふと池の方を向いた。
「どうした、れんげ?」
「……あしくさ君が動いてるん」
「アシスト君だよー」
ぼくは笑いながら訂正した。
……そして、固まった。
「……え?」
アシスト君の表示灯が、待機状態から負荷検出状態へ切り替わっている。
モーターが静かに回転していた。
「……あ」
コントローラーの表示を確認する。
負荷が増えている。
しかも、かなり大きい。
「ひ、引いてるー!!」
ぼくの叫び声に、全員が一斉に振り返った。
池の水面が大きく波打っている。
ぎゅるるる……。
アシスト君のモーターが回転数を変えた。
魚が強く引く。
制御装置が負荷を検出し、糸を送り出す。
引きが弱まる。
今度はモーターが巻き取りを始める。
まるで魚と機械が、見えない綱引きをしているようだった。
「すごいのん! アシスト君が主と戦ってるんな!」
「よしっ! そのまま、そのまま!」
ぼくはコントローラーに釘付けになった。
トルク制御は正常。
巻き取り速度も問題なし。
魚の引きに応じて、プログラムが自動的に出力を調整している。
「やった! 成功だ!」
「おい、ボク君! まだ喜ぶのは早いぞ!」
楓お姉ちゃんが水面を指差した。
ばしゃんっ!
大きな波紋が広がる。
水中に、巨大な黒い影が見えた。
「……あれ?」
ぼくは首を傾げた。
「前に見た主より、大きくない?」
「うん……それに、何だか形が違うような……」
蛍お姉ちゃんも不安そうに覗き込む。
細長い胴体。
大きな頭。
鯉とは明らかに異なる姿。
水面近くをうねるように泳ぐその影を見て、れんげちゃんの表情が変わった。
「……あれは」
「どうした、れんげ?」
楓お姉ちゃんが尋ねる。
「……この池にも、異形の魚がいたん」
「異形?」
「この間、テレビで見たのん……」
れんげちゃんが、静かに指を差した。
「……雷魚なんな」
「ライギョ?」
聞き慣れない名前だった。
「外国から来た魚で、日本の川や池にも住んでるん。大きくて、他の魚も食べるん」
「……へえ」
その瞬間。
ばしゃあああっ!!
巨大な魚が水面から姿を現した。
「うわあああっ!?」
蛇のように長い胴体。
大きく裂けた口。
まだら模様の体表。
水面を叩く尾びれの迫力に、ぼくたちは思わず後ずさった。
「で、でっかい!!」
「雷魚なん! すっごく大きいのん!」
「……こりゃ驚いたな」
楓お姉ちゃんまで目を丸くしている。
アシスト君は魚の引きに合わせて、少しずつ糸を巻き取っていた。
しかし、魚影が近づくにつれて、ぼくは妙な気持ちになってきた。
「……ねえ、楓お姉ちゃん」
「何だ?」
「これ、釣り上げてもいいのかな?」
「……どういう意味だ?」
「だって、ぼくが釣りたかったのは池の主でしょ? この魚、違うみたいだし……」
楓お姉ちゃんは、少し考え込んだ。
「そうだな。まずは安全に取り込もう。雷魚は歯もあるし、暴れると危ないから、お前らは近づくなよ」
「はーい!」
楓お姉ちゃんが大型の網を準備する。
魚の動きが弱まったところで、慎重に網へ誘導。
ついに――。
ばしゃんっ!
巨大な雷魚が、網の中に収まった。
「やったあああ!!」
ぼくは両手を上げた。
「アシスト君、大勝利!!」
「……いや、勝ったのは機械だろ」
楓お姉ちゃんがぼそりと呟いた。
「設計したのはぼくだから、ぼくの勝ち!」
「それ、夏海が納得すると思うか?」
「……うっ」
痛いところを突かれた。
蛍お姉ちゃんが、困ったように笑う。
「でも、自由研究としては大成功だと思うよ?」
「でしょ!?」
「……釣り大会としては、どうかわからないけど」
「蛍お姉ちゃんまでえええ!」
そんなぼくたちをよそに、れんげちゃんは雷魚をじっと見つめていた。
「……かみなりおやじ」
「……へ?」
「この子の名前、かみなりおやじにするん」
「……なんで?」
「雷魚だからなん」
なるほど。
わかるような、わからないような。
それが宮内れんげという少女である。
◇ ◇ ◇
「……さて、どうするか」
楓お姉ちゃんは、雷魚を収めた大きな容器を見下ろした。
雷魚は日本の各地に定着している外来魚だが、だからといって、勝手に別の池へ移していいわけではない。
その場所の生態系や、自治体の取り扱いを確認する必要がある。
「とりあえず、元の池へ戻すのも含めて、どう扱うか確認しないとな」
「……持って帰るの?」
「いや、勝手に別の場所へ放すのはまずい。役場か詳しい人に聞いてからだな」
「そっか……」
ぼくは少し残念そうに頷いた。
せっかく釣り上げたのに。
「……そうだ」
楓お姉ちゃんが、何かを思いついたように顔を上げた。
「一時的に置いておける場所なら、心当たりがあるな」
「え?」
「越谷ん家だ」
「……ええっ!?」
蛍お姉ちゃんが目を丸くした。
「越谷先輩のお家ですか!?」
「雪子さん、前に庭の池に魚が欲しいって言ってただろ?」
「……でも、それって」
「もちろん、池には放さない。大きな容器ごと、少しの間だけ預かってもらえないか聞いてみるんだ」
楓お姉ちゃんは、にやりと笑った。
「……それに」
「それに?」
「夏海の反応が、ちょっと楽しみだろ?」
……あ。
この人。
絶対に何か企んでる。
◇ ◇ ◇
ピンポーン♪
「はーい!」
越谷家の玄関が開いた。
出てきたのは小鞠お姉ちゃん。
……ただし、口には大きな煎餅を咥えていた。
「……お前」
楓お姉ちゃんが呆れたように言う。
「朝っぱらから、ずいぶん優雅だな」
「ふぁっ!?」
小鞠お姉ちゃんが慌てて煎餅を口から離した。
「ち、違うの! ちょっとお腹が空いたから、つまんでただけ!」
「別に責めてねーよ」
「も、もう! それで、朝からみんなでどうしたの?」
「ちょっと頼みがあってな」
「頼み?」
「雪子さん、前に庭の池に魚が欲しいって言ってただろ?」
「うん! お母さん、ずっと探してるよ」
「今日、ボク君が大きな魚を釣り上げてな」
「えっ!? 本当!?」
小鞠お姉ちゃんの目が輝いた。
「すごいじゃん! もしかして池の主!?」
「……いや、主じゃないんだが」
「大きいの?」
「……大きさだけは保証する」
「へえー! 見たい見たい!」
楓お姉ちゃんは、ここで少しだけ真面目な顔になった。
「ただし、庭の池に放すわけじゃないぞ。引き取り先を探すまで、容器ごと一時的に預かってもらえないか相談したいんだ」
「そうなんだ。じゃあ、お母さん呼んでくるね!」
小鞠お姉ちゃんが家の中へ駆け戻っていく。
その背中を見送った楓お姉ちゃんは、ぼくたちに振り返った。
「……よし」
「……楓お姉ちゃん?」
「準備しとけ」
「何の?」
「……驚くぞ、あいつら」
悪い笑みだった。
間違いなく悪い笑みだった。
◇ ◇ ◇
「へえー、大きな魚が釣れたの?」
しばらくして、雪子おばちゃんが庭へ出てきた。
その後ろには小鞠お姉ちゃん。
そして、夏海お姉ちゃんと卓お兄ちゃんまでついてきている。
「誰が釣ったんだ?」
夏海お姉ちゃんが興味津々で尋ねた。
「ぼくだよ!」
「へえー! やるじゃん、ボク君!」
「ただし、機械を使ってだけどね」
蛍お姉ちゃんが小さく付け加えた。
「……機械?」
夏海お姉ちゃんが首を傾げる。
「まあ、それは後で説明するよ」
ぼくは苦笑した。
楓お姉ちゃんが、大きな容器を指差した。
「とりあえず、こいつを見てくれ」
「……ん?」
夏海お姉ちゃんが覗き込む。
その瞬間。
ばしゃあああっ!!
雷魚が大きく身をよじり、容器の中で暴れた。
「うおおおおおっ!?」
夏海お姉ちゃんが飛び上がった。
「な、何じゃこりゃあああ!?」
「きゃああああっ!!」
小鞠お姉ちゃんが悲鳴を上げる。
「へ、蛇!? 蛇なの!?」
「魚だよ、ねーちゃん!」
「こんな魚いるわけないでしょおおお!!」
「いるから、ここにいるんだって!」
夏海お姉ちゃんの冷静なツッコミ。
……いや、本人もかなり興奮しているけど。
「……あらまあ」
雪子おばちゃんが、目を丸くした。
「これは……ずいぶん立派な魚ねえ」
「お、お母さん!? 落ち着いてる場合じゃないよ!」
「だって、魚が欲しいって言ってたし……」
「欲しいって言ったけど、こんなのじゃないいいい!」
小鞠お姉ちゃんの叫び声が庭に響いた。
その横で、卓お兄ちゃんは無言のまま雷魚を見つめている。
……そして。
そっと、一歩後ずさった。
「兄ちゃんまで引いてる!?」
夏海お姉ちゃんが叫ぶ。
楓お姉ちゃんは、とうとう我慢できなくなったらしい。
「……ぷっ」
肩が震えている。
「……くくっ」
「駄菓子屋あああ!!」
「はははははっ!」
ついに大笑いを始めた。
「いやあ、悪い悪い! まさかここまで驚くとは思わなかった!」
「絶対わざとでしょおおお!!」
小鞠お姉ちゃんの抗議が飛ぶ。
楓お姉ちゃんは笑いながらも、事情を説明した。
「こいつは雷魚って魚だ。別の池に放すわけにはいかないから、役場に確認して引き取り先を探そうと思ってな。それまで安全に保管できる場所があれば、と思ったんだ」
「……なるほどねえ」
雪子おばちゃんは頷いた。
「でも、うちの池に放すのは駄目なのね?」
「ああ。生き物を勝手に移すのはよくないからな」
「じゃあ、庭の日陰に容器を置いて、しばらく様子を見ましょうか。もちろん、ちゃんと管理できるならだけど」
「助かるよ。必要な道具はこっちで用意するし、私も毎日様子を見に来る」
「……えっ!?」
夏海お姉ちゃんが振り返った。
「じゃあ、しばらくうちにいるの!?」
「そうなるな」
「……マジで!?」
夏海お姉ちゃんの顔が、みるみる輝いていく。
「すっげえええ!!」
小鞠お姉ちゃんとは正反対の反応だった。
「ねーちゃん! 見てよ! この口! めっちゃでかい!」
「見たくないいいい!!」
「名前つけようぜ! 名前!」
「もうついてるん」
れんげちゃんが、すっと前に出た。
「……へ?」
「かみなりおやじなんな」
沈黙。
夏海お姉ちゃんが雷魚を見る。
れんげちゃんを見る。
もう一度、雷魚を見る。
「……かみなりおやじ」
「そうなん」
「……いいじゃん!」
「えええええっ!?」
今度は小鞠お姉ちゃんが叫んだ。
「何でそれで納得するの!?」
「だって雷魚だろ? かみなりおやじ! ぴったりじゃん!」
「どこがあああ!!」
れんげちゃんと夏海お姉ちゃんは、なぜか意気投合していた。
「かみなりおやじ、よろしくなんな」
「よっしゃ! ウチが世話してやるぜ!」
「……夏海」
雪子おばちゃんが、にっこり笑った。
「言ったわね?」
「……へ?」
「生き物のお世話は大変なのよ。ちゃんと最後まで責任を持てるの?」
「……えーっと」
「お掃除も、水の管理も、毎日必要になるわよ?」
「……あのー」
「楓ちゃんと一緒に、ちゃんと勉強してからね?」
「……はい」
夏海お姉ちゃんの勢いが、みるみる萎んでいった。
楓お姉ちゃんが、また笑い始める。
「はははっ! 自分で言ったんだから、頑張れよ!」
「駄菓子屋あああ!!」
……ああ。
この人、本当に楽しんでる。
◇ ◇ ◇
帰り道。
楓お姉ちゃんの車に乗ったぼくたちは、朝からの大騒動を思い返していた。
「……本当に、あれでよかったんでしょうか」
蛍お姉ちゃんが、少し心配そうに尋ねる。
「大丈夫だ。雪子さんにも説明したし、引き取り先が決まるまでは私が責任を持つよ」
「……よかった」
「それに、夏海のやつ、案外ああいうの好きだからな」
楓お姉ちゃんが笑う。
「ただ、飽きたからって放り出すわけにはいかない。そこはきっちり教えてやらないとな」
「そうですね」
蛍お姉ちゃんも微笑んだ。
ぼくは窓の外を眺める。
青い空。
どこまでも続く田んぼ。
朝から鳴き続けるセミ。
そして、遠ざかっていく越谷家。
……結局、池の主は釣れなかった。
アシスト君の実験には成功したけれど、夏海お姉ちゃんとの勝負は、まだ決着がついていない。
「……次こそ、主を釣るぞ!」
ぼくは小さく拳を握った。
その時。
「ボク君」
れんげちゃんが、隣から声をかけてきた。
「なあに?」
「かみなりおやじ、また会いに行くんな」
「……うん」
「次は、お土産持っていくのん」
「お土産?」
「……雷おこし」
「…………」
楓お姉ちゃんの肩が震えた。
蛍お姉ちゃんが口元を押さえた。
ぼくは天を仰いだ。
「……れんげちゃん」
「なんなん?」
「それ、魚は食べないと思うよ……」
「……そうなん?」
しばらく考え込んだれんげちゃんは、やがてぽんと手を打った。
「じゃあ、夏海にあげるん!」
「……そっち!?」
車内に笑い声が響いた。
こうして、アシスト君の初陣は幕を閉じた。
釣果は巨大な雷魚、一匹。
池の主との勝負は、次回へ持ち越し。
そして越谷家には、思いがけない珍客がやって来た。
名前は――。
《かみなりおやじ》。
……何だか、ぼくの夏休みは日に日におかしな方向へ進んでいる気がする。
でも。
こんな毎日も、悪くない。
八月の青い空の下、ぼくたちを乗せた車は、のんびりと田舎道を走っていった。
今日も旭ヶ丘は、平和である。
……たぶん。