川で偶然ジェットサイダーの王冠を見つけたボクは、その後もしばらく川辺を歩き回った。
王冠は一つだけだったけれど、代わりに釣りに使えそうな生き餌はそこそこ集まった。
これなら、今度はちゃんと釣りができる。
小さな収穫を鞄にしまい、ボクは学校をあとにした。
帰りもバスに乗ろうと思っていた。
――けれど。
「……これは、ちょっとダメかな」
自分の姿を見下ろす。
山を歩き、川辺を歩き、しゃがんでは石をひっくり返していたせいで、靴もズボンも泥だらけだった。
さすがに、この姿でバスの座席に座るのは気が引ける。
仕方なく、ボクは歩いて帰ることにした。
ところが――これが失敗だった。
「暑い……」
太陽は、ほとんど真上。
空を見上げても雲らしい雲はなく、容赦のない日差しが頭の上から降り注いでいる。肌はじりじり焼かれ、首筋を流れた汗がシャツの襟に吸い込まれていく。
山道を歩いていた時は木陰があった。
川辺では水の近くを吹く風があった。
でも、町道へ出るとそれすらない。
しかもアスファルトから熱気がむわっと立ち上ってくる。遠くの景色まで陽炎で揺らめき、靴の裏からもじわじわと熱が伝わってきた。
「帰りに……駄菓子屋、寄ってみよう……」
朝、れんげちゃんに教えてもらった店だ。
冷たい飲み物くらいはあるかもしれない。
それだけを希望に、ボクは重たい足を前へ進めた。
やがて道の先に、長いトンネルが見えてきた。
入口の黒い影が、まるで大きく口を開けて待っているように見える。
中へ入った瞬間――。
「うわぁ……涼しい……」
ひやりとした空気が頬を撫でた。
外の熱気を押し返すように、トンネルの奥から冷たい風が流れてくる。汗ばんだ肌からすっと熱が引いていき、火照った体がようやく息をついた。
思わず足を止める。
薄暗い天井からは、ぽた、ぽた、と水滴の音が響いていた。車の音も蝉の声も遠のき、さっきまでの真夏の町が嘘みたいに静かだ。
ずっとここにいたい。
本気でそう思ったけれど、トンネルに住むわけにもいかない。
名残惜しみながら歩き出し、薄暗い道を抜ける。
眩しい夏の日差しに目を細めた、その先。
朝に教えてもらった駄菓子屋があった。
古びた木造の店先には、色あせた看板と、風に揺れるラムネやアイスの旗。開け放した入口の奥には、所狭しと並んだ菓子の袋や瓶入りの飴が見える。甘い粉菓子と、少し埃っぽい木の匂いが混ざった、昔から変わっていないような空気が漂っていた。
そして店先のベンチには――。
「にゃんぱすー」
聞き覚えのある声。
「あっ。にゃ、にゃんぱすー」
未だに意味はわからない。
でも挨拶だということだけは、なんとなく理解してきた。
れんげちゃんは朝と同じ場所に座り、画用紙に何かを描いていた。
「何の絵を描いてるの?」
「具の絵を描いてるん」
「ぐ?」
ボクは首を傾げる。
「具って……お味噌汁の?」
「具をお味噌汁に入れたら、たぬき汁になるん」
「えっ」
ますます意味がわからない。
れんげちゃんの画用紙を覗き込んでみる。
少なくとも、豆腐やワカメには見えない。
どう見ても動物だ。
「ボク君、たぬき汁食べたいですか?」
「食べたくないよ!?」
そもそも何を入れるつもりなのだろう。
「……具って、名前なの? ペット?」
「またウチの家に来たら教えてあげるん」
「う、うん」
「今は絵に集中したいから、ボク君は買い物してくるんな」
「……はい」
なんだろう。
年下のはずなのに、追い払われてしまった。
まだまだ、れんげちゃんの考えていることはボクには難しい。
店の中へ入る。
店内は外より少しひんやりしていた。天井から回る古い扇風機が、かすかな音を立てながら生ぬるい風を送っている。棚には色とりどりの駄菓子がぎっしり並び、透明な瓶の中では小さな飴玉が光を弾いていた。
棚に残っていたジェットサイダーを一本。
それから、なんとなく目に入ったきな粉餅を一つ取った。
「お願いします」
カウンターへ持っていくと、店番をしていたお姉さんが顔を上げた。
「ん? 見ない顔だな。新入りか」
新入り。
転校生とか旅行者じゃなくて、新入りなんだ。
「百七十円」
「はい」
お金を渡す。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「おう。それで、しばらくこっちにいるのか?」
「うん。夏休みの間はいると思う」
「へぇ。どこの家に厄介になってるんだ?」
「えっと……一条さんのお家」
「ああ、蛍ちゃんのところか」
お姉さんは納得したように頷いた。
それから、少し考えて。
「だったら、何か必要な物があったらここで言いな。取り寄せられる物なら手配してやるし、物によってはレンタルもしてる」
「ほんと!?」
思わず身を乗り出した。
「実はボク、釣りがしたいんだけど、お姉ちゃんの家には釣り道具がなくて……」
「釣りかぁ」
お姉さんは腕を組んだ。
「あー……ウチに使ってない竿があるな。でも、わざわざ金取って貸すような代物でもないし……」
少し考えてから、ぽんと手を叩く。
「よし。夏休みの間、貸してやるよ」
「えっ!? いいの!?」
「ただし条件がある」
お姉さんが人差し指を立てる。
「食べられる魚が釣れたら、たまにウチにも回すこと。どうだ?」
「いいよ!」
即答した。
「でも、この辺って食べられる魚が釣れるの?」
「釣れる釣れる。主にマスだな。夏海なんかは、たまにヤマメまで釣ってくるぞ」
「ヤマメ?」
「警戒心が強いから、大人でも狙って釣るのは難しい魚だ」
「へぇ……」
やっぱり夏海お姉ちゃんはすごい。
虫相撲も強くて、釣りも上手。
朝の自信満々な態度にも、ちゃんと理由があるんだ。
「夏海お姉ちゃん、やっぱりすごいんだね」
「あいつは遊びに関してだけは天才だからな」
お姉さんは遠い目をした。
「その代償として、人として必要な知能をいくらか失っているが」
「そんなことあるの!?」
「あるんだよ。身近にな」
妙に説得力があった。
「そういう君は何か得意なことないのか?」
「ボク?」
腕を組んで考える。
虫取りでは夏海お姉ちゃんに勝てそうにない。
釣りもこれから。
運動だって、特別得意というわけじゃない。
「うーん……」
しばらく考えて、一つだけ思いついた。
「家では、インターネットとかパソコンとか、デジタル家電には詳しいって言われるよ」
「……ん?」
「お父さんもお母さんも、そういうの苦手だから。パソコンの設定とか、ネットに繋がらない時とかはボクがやってる」
その瞬間。
お姉さんの目が変わった。
「……君」
「なに?」
両手を握られた。
「えっ」
ものすごく真剣な目で見つめられる。
なんだろう。
捕食される小動物って、こんな気分なのかもしれない。
「この地に……救世主が来た」
「え?」
「名前は?」
「ボクはボクだよ」
「そうか、ボク君」
「うん」
「ちょっと来てくれ」
「えっ? どこに?」
有無を言わさず店の奥へ連れていかれた。
そこは店ではなく、普通の家の居間だった。
そして机の上には、一台のパソコンが置かれている。
ブラウン管のモニター。
大きな本体。
かなり古いタイプだ。
「こいつなんだ」
「パソコン?」
「ああ。最近調子が悪くてな。ついに数日前から動かなくなった」
お姉さんが電源スイッチを押す。
――何も起きない。
ファンの音もしない。
ランプも点かない。
「完全に無反応なんだね」
「そうなんだ」
ボクは本体の周囲を覗き込んだ。
「モニターは?」
「そっちは電源入る」
「じゃあ、本体かな……」
電源ケーブルを確認する。
コンセントも問題なさそうだ。
「電源ランプも点かないし、ファンも回らない。起動時の自己診断画面にも進まないから……電源まわりが怪しいと思う」
「……びおす?」
「パソコンが一番最初に動かすところ」
「なるほど」
お姉さんは頷いているけれど、たぶんよくわかっていない。
電源を抜き、しばらく待ってからケースを開ける。
中には埃がかなり溜まっていた。
「うわぁ……」
「汚いか?」
「うん」
「即答するなよ」
でも、それ以上に気になるものがあった。
独特の臭い。
焦げたような、それとは少し違う臭い。
「……たぶん、電源だと思う」
「わかるのか?」
「匂いがするから。でも、電源の中は危ないから簡単には触れないよ」
「危ない?」
「コンセントを抜いてても電気が残ってることがあるから」
ボクは内部を確認しながら、目立って傷んでいる部分を探していく。
やがて、低電圧側にある部品の一つが明らかに膨らんでいるのを見つけた。
「あった」
「何が?」
「電解コンデンサ。これ、もうダメになってる」
「……こんな小さいので動かなくなるのか?」
「なるよ。パソコンって、小さい部品がいっぱい集まって動いてるから」
「へぇ……」
お姉さんが、ものすごく感心した顔をしている。
「交換できそうか?」
「同じような部品があれば、応急処置ならできるかもしれない。でも、これだけ古いと他の部品も傷んでると思う」
「壊れた家電ならあるぞ」
「ほんと?」
「ああ。ビデオデッキが一台死んでる」
「じゃあ、使える部品があるか見てみたい。それと半田ごてある?」
「半田ごて?」
お姉さんはしばらく考えて。
「ああ! あの先っぽが熱くなるやつか!」
「そう、それ」
「物置にあったと思う。待ってろ」
しばらくして、古いビデオデッキと工具箱が運ばれてきた。
ボクは使えそうな部品を探す。
容量。
耐圧。
極性。
それから、取り付けられる大きさ。
「あ……これなら組み合わせれば近くできるかも」
「わかるのか?」
「数字が書いてあるから」
「私には呪文にしか見えん」
「間違えると壊れるから、ちゃんと見ないとダメだよ」
完全な修理ではない。
あくまで応急処置。
使える部品を選び、低電圧側の傷んだ部分を置き換えていく。
そして――。
「……よし」
ケースを戻す。
ケーブルを繋ぐ。
「電源、入れてみるね」
「頼む」
スイッチを押す。
――ブゥン。
「!」
ファンが回った。
ランプが点灯する。
やがてモニターに文字が現れ――。
カリカリカリ……。
懐かしい音を立てながら、ハードディスクが動き始めた。
「……動いた」
お姉さんが呟いた。
「動いたぞ!!」
「わっ!?」
突然肩を掴まれた。
「すごいな君!!」
「お、お姉ちゃん痛い!」
「あ、悪い!」
やがて見慣れたデスクトップ画面が表示された。
ボクもほっと息を吐く。
「でもね」
「ん?」
「これで直ったと思っちゃダメだよ」
「えっ」
「応急処置だから」
内部を指差す。
「他のコンデンサも膨らみ始めてるし、電源そのものがかなり古いよ。今度は別のところが壊れるかもしれない」
「オーバーホールできないか?」
「できないことはないと思うけど……」
少し考える。
「そこまでお金と手間をかけるなら、新しいパソコンを買った方がいいよ。OSも古いでしょ?」
「……まあな」
「サポートが終わったら、インターネットに繋いで使い続けるのもよくないし」
「そっかぁ……」
お姉さんは少し寂しそうにパソコンを見る。
「学生の頃から使ってたんだ。愛着があってな」
「だったら、なおさら今動いてるうちに大事なデータを別のところにコピーした方がいいよ」
「新しいパソコンに移せるかな……」
「うん。買ったらボクが手伝うよ」
「本当か?」
「いいよ」
「……助かる」
お姉さんは嬉しそうに笑った。
「よし。それじゃあ今回のお礼に、ボク君にはいいことを教えてやろう」
「いいこと?」
「ああ」
お姉さんは少し声を潜める。
「夏海に釣果で勝ちたいんだろ?」
「!」
思わず姿勢を正した。
「だったら――川じゃなくて、池に行きな」
「池?」
「あの池にはな……主がいる」
「ぬし……?」
その響きだけで、なんだかすごそうだった。
「魚?」
「ああ。ただし食べられる魚じゃない」
「大きいの?」
「デカいぞ」
お姉さんはボクを上から下まで見る。
そして――。
「ボク君よりデカい」
「ええっ!?」
思わず大声が出た。
「そんな魚いるの!?」
「いる。私も何度か見たことがある」
「釣れる?」
「さあな」
お姉さんはニヤリと笑った。
「少なくとも私は、釣り上げた奴を知らない」
「……!」
「もし奴を釣り上げられたら、ここらじゃ文句なしで一番デカい魚を釣ったことになる」
胸が高鳴った。
夏海お姉ちゃんに勝てる。
それだけじゃない。
そんな大きな魚なら――。
釣ってみたい。
「ただし」
浮かれ始めたボクに、お姉さんが釘を刺す。
「今すぐ狙うのはやめとけ」
「えー」
「普通の仕掛けじゃ切られるかもしれないし、下手すりゃ竿ごと池に持っていかれる。まずは川で普通の魚を釣れるようになってからだ」
「……はーい」
「よろしい」
そう言って、お姉さんは物置から一本の釣竿を持ってきた。
「ほら。約束の品だ」
「ありがとう!」
釣竿を受け取る。
少し古いけれど、まだ十分に使えそうだ。
ジェットサイダーの王冠。
釣り餌。
そして――釣竿。
さらに、池には謎の『主』。
夏海お姉ちゃんから出された試練は、朝より少しだけ現実味を帯びてきた。
「絶対釣ってやる……」
「だから今すぐ行くなよ?」
「…………」
「おい、その沈黙はなんだ」
店の外から声が聞こえた。
「駄菓子屋ー。具が描けたん!」
「おー、れんげ。ちょっと待ってろ」
お姉さんが店先へ戻っていく。
ボクも釣竿を抱えて、その後を追った。
田舎に来て二日目。
虫相撲も。
川釣りも。
王冠集めも。
まだ何一つ、夏海お姉ちゃんには勝てそうにない。
でも――。
パソコンなら、たぶん勝てる。
「……これで勝ったことにならないかな?」
「ならんと思うん」
店先から、れんげちゃんの冷静な声が返ってきた。
「やっぱり?」
夏休みは、まだ始まったばかりだった。