ぼくのなつやすみ〜のんのんといっしょ〜   作:Edward

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8月2日の午後

川で偶然ジェットサイダーの王冠を見つけたボクは、その後もしばらく川辺を歩き回った。

 

王冠は一つだけだったけれど、代わりに釣りに使えそうな生き餌はそこそこ集まった。

 

これなら、今度はちゃんと釣りができる。

 

小さな収穫を鞄にしまい、ボクは学校をあとにした。

 

帰りもバスに乗ろうと思っていた。

 

――けれど。

 

「……これは、ちょっとダメかな」

 

自分の姿を見下ろす。

 

山を歩き、川辺を歩き、しゃがんでは石をひっくり返していたせいで、靴もズボンも泥だらけだった。

 

さすがに、この姿でバスの座席に座るのは気が引ける。

 

仕方なく、ボクは歩いて帰ることにした。

 

ところが――これが失敗だった。

 

「暑い……」

 

太陽は、ほとんど真上。

 

空を見上げても雲らしい雲はなく、容赦のない日差しが頭の上から降り注いでいる。肌はじりじり焼かれ、首筋を流れた汗がシャツの襟に吸い込まれていく。

 

山道を歩いていた時は木陰があった。

 

川辺では水の近くを吹く風があった。

 

でも、町道へ出るとそれすらない。

 

しかもアスファルトから熱気がむわっと立ち上ってくる。遠くの景色まで陽炎で揺らめき、靴の裏からもじわじわと熱が伝わってきた。

 

「帰りに……駄菓子屋、寄ってみよう……」

 

朝、れんげちゃんに教えてもらった店だ。

 

冷たい飲み物くらいはあるかもしれない。

 

それだけを希望に、ボクは重たい足を前へ進めた。

 

やがて道の先に、長いトンネルが見えてきた。

 

入口の黒い影が、まるで大きく口を開けて待っているように見える。

 

中へ入った瞬間――。

 

「うわぁ……涼しい……」

 

ひやりとした空気が頬を撫でた。

 

外の熱気を押し返すように、トンネルの奥から冷たい風が流れてくる。汗ばんだ肌からすっと熱が引いていき、火照った体がようやく息をついた。

 

思わず足を止める。

 

薄暗い天井からは、ぽた、ぽた、と水滴の音が響いていた。車の音も蝉の声も遠のき、さっきまでの真夏の町が嘘みたいに静かだ。

 

ずっとここにいたい。

 

本気でそう思ったけれど、トンネルに住むわけにもいかない。

 

名残惜しみながら歩き出し、薄暗い道を抜ける。

 

眩しい夏の日差しに目を細めた、その先。

 

朝に教えてもらった駄菓子屋があった。

 

古びた木造の店先には、色あせた看板と、風に揺れるラムネやアイスの旗。開け放した入口の奥には、所狭しと並んだ菓子の袋や瓶入りの飴が見える。甘い粉菓子と、少し埃っぽい木の匂いが混ざった、昔から変わっていないような空気が漂っていた。

 

そして店先のベンチには――。

 

「にゃんぱすー」

 

聞き覚えのある声。

 

「あっ。にゃ、にゃんぱすー」

 

未だに意味はわからない。

 

でも挨拶だということだけは、なんとなく理解してきた。

 

れんげちゃんは朝と同じ場所に座り、画用紙に何かを描いていた。

 

「何の絵を描いてるの?」

 

「具の絵を描いてるん」

 

「ぐ?」

 

ボクは首を傾げる。

 

「具って……お味噌汁の?」

 

「具をお味噌汁に入れたら、たぬき汁になるん」

 

「えっ」

 

ますます意味がわからない。

 

れんげちゃんの画用紙を覗き込んでみる。

 

少なくとも、豆腐やワカメには見えない。

 

どう見ても動物だ。

 

「ボク君、たぬき汁食べたいですか?」

 

「食べたくないよ!?」

 

そもそも何を入れるつもりなのだろう。

 

「……具って、名前なの? ペット?」

 

「またウチの家に来たら教えてあげるん」

 

「う、うん」

 

「今は絵に集中したいから、ボク君は買い物してくるんな」

 

「……はい」

 

なんだろう。

 

年下のはずなのに、追い払われてしまった。

 

まだまだ、れんげちゃんの考えていることはボクには難しい。

 

店の中へ入る。

 

店内は外より少しひんやりしていた。天井から回る古い扇風機が、かすかな音を立てながら生ぬるい風を送っている。棚には色とりどりの駄菓子がぎっしり並び、透明な瓶の中では小さな飴玉が光を弾いていた。

 

棚に残っていたジェットサイダーを一本。

 

それから、なんとなく目に入ったきな粉餅を一つ取った。

 

「お願いします」

 

カウンターへ持っていくと、店番をしていたお姉さんが顔を上げた。

 

「ん? 見ない顔だな。新入りか」

 

新入り。

 

転校生とか旅行者じゃなくて、新入りなんだ。

 

「百七十円」

 

「はい」

 

お金を渡す。

 

「ありがとう、お姉ちゃん」

 

「おう。それで、しばらくこっちにいるのか?」

 

「うん。夏休みの間はいると思う」

 

「へぇ。どこの家に厄介になってるんだ?」

 

「えっと……一条さんのお家」

 

「ああ、蛍ちゃんのところか」

 

お姉さんは納得したように頷いた。

 

それから、少し考えて。

 

「だったら、何か必要な物があったらここで言いな。取り寄せられる物なら手配してやるし、物によってはレンタルもしてる」

 

「ほんと!?」

 

思わず身を乗り出した。

 

「実はボク、釣りがしたいんだけど、お姉ちゃんの家には釣り道具がなくて……」

 

「釣りかぁ」

 

お姉さんは腕を組んだ。

 

「あー……ウチに使ってない竿があるな。でも、わざわざ金取って貸すような代物でもないし……」

 

少し考えてから、ぽんと手を叩く。

 

「よし。夏休みの間、貸してやるよ」

 

「えっ!? いいの!?」

 

「ただし条件がある」

 

お姉さんが人差し指を立てる。

 

「食べられる魚が釣れたら、たまにウチにも回すこと。どうだ?」

 

「いいよ!」

 

即答した。

 

「でも、この辺って食べられる魚が釣れるの?」

 

「釣れる釣れる。主にマスだな。夏海なんかは、たまにヤマメまで釣ってくるぞ」

 

「ヤマメ?」

 

「警戒心が強いから、大人でも狙って釣るのは難しい魚だ」

 

「へぇ……」

 

やっぱり夏海お姉ちゃんはすごい。

 

虫相撲も強くて、釣りも上手。

 

朝の自信満々な態度にも、ちゃんと理由があるんだ。

 

「夏海お姉ちゃん、やっぱりすごいんだね」

 

「あいつは遊びに関してだけは天才だからな」

 

お姉さんは遠い目をした。

 

「その代償として、人として必要な知能をいくらか失っているが」

 

「そんなことあるの!?」

 

「あるんだよ。身近にな」

 

妙に説得力があった。

 

「そういう君は何か得意なことないのか?」

 

「ボク?」

 

腕を組んで考える。

 

虫取りでは夏海お姉ちゃんに勝てそうにない。

 

釣りもこれから。

 

運動だって、特別得意というわけじゃない。

 

「うーん……」

 

しばらく考えて、一つだけ思いついた。

 

「家では、インターネットとかパソコンとか、デジタル家電には詳しいって言われるよ」

 

「……ん?」

 

「お父さんもお母さんも、そういうの苦手だから。パソコンの設定とか、ネットに繋がらない時とかはボクがやってる」

 

その瞬間。

 

お姉さんの目が変わった。

 

「……君」

 

「なに?」

 

両手を握られた。

 

「えっ」

 

ものすごく真剣な目で見つめられる。

 

なんだろう。

 

捕食される小動物って、こんな気分なのかもしれない。

 

「この地に……救世主が来た」

 

「え?」

 

「名前は?」

 

「ボクはボクだよ」

 

「そうか、ボク君」

 

「うん」

 

「ちょっと来てくれ」

 

「えっ? どこに?」

 

有無を言わさず店の奥へ連れていかれた。

 

そこは店ではなく、普通の家の居間だった。

 

そして机の上には、一台のパソコンが置かれている。

 

ブラウン管のモニター。

 

大きな本体。

 

かなり古いタイプだ。

 

「こいつなんだ」

 

「パソコン?」

 

「ああ。最近調子が悪くてな。ついに数日前から動かなくなった」

 

お姉さんが電源スイッチを押す。

 

――何も起きない。

 

ファンの音もしない。

 

ランプも点かない。

 

「完全に無反応なんだね」

 

「そうなんだ」

 

ボクは本体の周囲を覗き込んだ。

 

「モニターは?」

 

「そっちは電源入る」

 

「じゃあ、本体かな……」

 

電源ケーブルを確認する。

 

コンセントも問題なさそうだ。

 

「電源ランプも点かないし、ファンも回らない。起動時の自己診断画面にも進まないから……電源まわりが怪しいと思う」

 

「……びおす?」

 

「パソコンが一番最初に動かすところ」

 

「なるほど」

 

お姉さんは頷いているけれど、たぶんよくわかっていない。

 

電源を抜き、しばらく待ってからケースを開ける。

 

中には埃がかなり溜まっていた。

 

「うわぁ……」

 

「汚いか?」

 

「うん」

 

「即答するなよ」

 

でも、それ以上に気になるものがあった。

 

独特の臭い。

 

焦げたような、それとは少し違う臭い。

 

「……たぶん、電源だと思う」

 

「わかるのか?」

 

「匂いがするから。でも、電源の中は危ないから簡単には触れないよ」

 

「危ない?」

 

「コンセントを抜いてても電気が残ってることがあるから」

 

ボクは内部を確認しながら、目立って傷んでいる部分を探していく。

 

やがて、低電圧側にある部品の一つが明らかに膨らんでいるのを見つけた。

 

「あった」

 

「何が?」

 

「電解コンデンサ。これ、もうダメになってる」

 

「……こんな小さいので動かなくなるのか?」

 

「なるよ。パソコンって、小さい部品がいっぱい集まって動いてるから」

 

「へぇ……」

 

お姉さんが、ものすごく感心した顔をしている。

 

「交換できそうか?」

 

「同じような部品があれば、応急処置ならできるかもしれない。でも、これだけ古いと他の部品も傷んでると思う」

 

「壊れた家電ならあるぞ」

 

「ほんと?」

 

「ああ。ビデオデッキが一台死んでる」

 

「じゃあ、使える部品があるか見てみたい。それと半田ごてある?」

 

「半田ごて?」

 

お姉さんはしばらく考えて。

 

「ああ! あの先っぽが熱くなるやつか!」

 

「そう、それ」

 

「物置にあったと思う。待ってろ」

 

しばらくして、古いビデオデッキと工具箱が運ばれてきた。

 

ボクは使えそうな部品を探す。

 

容量。

 

耐圧。

 

極性。

 

それから、取り付けられる大きさ。

 

「あ……これなら組み合わせれば近くできるかも」

 

「わかるのか?」

 

「数字が書いてあるから」

 

「私には呪文にしか見えん」

 

「間違えると壊れるから、ちゃんと見ないとダメだよ」

 

完全な修理ではない。

 

あくまで応急処置。

 

使える部品を選び、低電圧側の傷んだ部分を置き換えていく。

 

そして――。

 

「……よし」

 

ケースを戻す。

 

ケーブルを繋ぐ。

 

「電源、入れてみるね」

 

「頼む」

 

スイッチを押す。

 

――ブゥン。

 

「!」

 

ファンが回った。

 

ランプが点灯する。

 

やがてモニターに文字が現れ――。

 

カリカリカリ……。

 

懐かしい音を立てながら、ハードディスクが動き始めた。

 

「……動いた」

 

お姉さんが呟いた。

 

「動いたぞ!!」

 

「わっ!?」

 

突然肩を掴まれた。

 

「すごいな君!!」

 

「お、お姉ちゃん痛い!」

 

「あ、悪い!」

 

やがて見慣れたデスクトップ画面が表示された。

 

ボクもほっと息を吐く。

 

「でもね」

 

「ん?」

 

「これで直ったと思っちゃダメだよ」

 

「えっ」

 

「応急処置だから」

 

内部を指差す。

 

「他のコンデンサも膨らみ始めてるし、電源そのものがかなり古いよ。今度は別のところが壊れるかもしれない」

 

「オーバーホールできないか?」

 

「できないことはないと思うけど……」

 

少し考える。

 

「そこまでお金と手間をかけるなら、新しいパソコンを買った方がいいよ。OSも古いでしょ?」

 

「……まあな」

 

「サポートが終わったら、インターネットに繋いで使い続けるのもよくないし」

 

「そっかぁ……」

 

お姉さんは少し寂しそうにパソコンを見る。

 

「学生の頃から使ってたんだ。愛着があってな」

 

「だったら、なおさら今動いてるうちに大事なデータを別のところにコピーした方がいいよ」

 

「新しいパソコンに移せるかな……」

 

「うん。買ったらボクが手伝うよ」

 

「本当か?」

 

「いいよ」

 

「……助かる」

 

お姉さんは嬉しそうに笑った。

 

「よし。それじゃあ今回のお礼に、ボク君にはいいことを教えてやろう」

 

「いいこと?」

 

「ああ」

 

お姉さんは少し声を潜める。

 

「夏海に釣果で勝ちたいんだろ?」

 

「!」

 

思わず姿勢を正した。

 

「だったら――川じゃなくて、池に行きな」

 

「池?」

 

「あの池にはな……主がいる」

 

「ぬし……?」

 

その響きだけで、なんだかすごそうだった。

 

「魚?」

 

「ああ。ただし食べられる魚じゃない」

 

「大きいの?」

 

「デカいぞ」

 

お姉さんはボクを上から下まで見る。

 

そして――。

 

「ボク君よりデカい」

 

「ええっ!?」

 

思わず大声が出た。

 

「そんな魚いるの!?」

 

「いる。私も何度か見たことがある」

 

「釣れる?」

 

「さあな」

 

お姉さんはニヤリと笑った。

 

「少なくとも私は、釣り上げた奴を知らない」

 

「……!」

 

「もし奴を釣り上げられたら、ここらじゃ文句なしで一番デカい魚を釣ったことになる」

 

胸が高鳴った。

 

夏海お姉ちゃんに勝てる。

 

それだけじゃない。

 

そんな大きな魚なら――。

 

釣ってみたい。

 

「ただし」

 

浮かれ始めたボクに、お姉さんが釘を刺す。

 

「今すぐ狙うのはやめとけ」

 

「えー」

 

「普通の仕掛けじゃ切られるかもしれないし、下手すりゃ竿ごと池に持っていかれる。まずは川で普通の魚を釣れるようになってからだ」

 

「……はーい」

 

「よろしい」

 

そう言って、お姉さんは物置から一本の釣竿を持ってきた。

 

「ほら。約束の品だ」

 

「ありがとう!」

 

釣竿を受け取る。

 

少し古いけれど、まだ十分に使えそうだ。

 

ジェットサイダーの王冠。

 

釣り餌。

 

そして――釣竿。

 

さらに、池には謎の『主』。

 

夏海お姉ちゃんから出された試練は、朝より少しだけ現実味を帯びてきた。

 

「絶対釣ってやる……」

 

「だから今すぐ行くなよ?」

 

「…………」

 

「おい、その沈黙はなんだ」

 

店の外から声が聞こえた。

 

「駄菓子屋ー。具が描けたん!」

 

「おー、れんげ。ちょっと待ってろ」

 

お姉さんが店先へ戻っていく。

 

ボクも釣竿を抱えて、その後を追った。

 

田舎に来て二日目。

 

虫相撲も。

 

川釣りも。

 

王冠集めも。

 

まだ何一つ、夏海お姉ちゃんには勝てそうにない。

 

でも――。

 

パソコンなら、たぶん勝てる。

 

「……これで勝ったことにならないかな?」

 

「ならんと思うん」

 

店先から、れんげちゃんの冷静な声が返ってきた。

 

「やっぱり?」

 

夏休みは、まだ始まったばかりだった。

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