楓お姉ちゃんの家でパソコンの応急処置をしているうちに、すっかり遅くなってしまった。
結局ボクは、そのまま夕食までご馳走になることになった。
外で遊んでいたれんげちゃんもいつの間にか合流し、三人で食卓を囲む。
昼間、学校の周りを歩き回って泥だらけになった服は、パソコンの掃除でさらに埃まみれになっていた。
それを見た楓お姉ちゃんは、
「もういい。服は洗濯機に放り込んどくから、ボク君は風呂入ってこい」
と、半ば強制的にボクをお風呂場へ送り込んだ。
一条家には楓お姉ちゃんから連絡を入れてくれているらしい。
至れり尽くせりとは、こういうことを言うのかもしれない。
◇
「はぁ……」
肩まで湯船につかり、ボクは大きく息を吐いた。
湯気が頬を撫で、鼻の奥に石けんの甘い匂いが広がる。昼間に浴びた土埃のざらつきも、汗で重くなっていた肌も、温かなお湯にゆっくりほどけていった。
今日一日の疲れが、お湯の中へ溶けていくようだった。
「なんだかボク、環境の変化についていけないな……」
一昨日までは東京の自宅にいた。
昨日は一条家へやって来た。
そして今日は、知り合ったばかりの楓お姉ちゃんの家で夕食を食べ、お風呂まで借りている。
たった二日なのに、ずいぶん長い時間が経ったような気がした。
「夏休みって、こんなに忙しかったっけ……」
ぼんやり天井を眺めていると――。
ガラッ。
湿った空気を切り裂くように、浴室の戸が勢いよく開いた。
「ボク君!」
「……え?」
「覚悟するん!!」
「ええっ!?」
勢いよく振り返ったボクは、目を丸くした。
湯気の向こうに、なぜか水着姿のれんげちゃんが立っていた。濡れた床に小さな足音が響き、両手には水鉄砲が握られている。
「……れんげちゃん」
「なん?」
「何してるの?」
「一緒に遊びにきたん!」
「なんで水着なの!?」
れんげちゃんは不思議そうに首を傾げた。
「お風呂で水遊びするなら、水着が正装なん」
「そんな決まり聞いたことないよ!?」
「では――」
れんげちゃんが水鉄砲を構える。水滴が銃口の先でぷるりと揺れた。
嫌な予感がした。
「いざ尋常に、勝負なん!」
「ちょ、ちょっと待って!」
ピュッ!
「うわっ!」
冷たい水が頬をかすめ、ボクは咄嗟に桶で受け止めた。湯船の熱気の中に、ひやりとした水しぶきが飛び散る。
「甘いん!」
「なんで!?」
れんげちゃんは素早くしゃがむ。
そして風呂椅子の陰から取り出したのは――。
さっきより明らかに大きい、タンク付きの水鉄砲だった。
「いつ用意したの、それ!?」
「第二形態なん!」
「水鉄砲に第二形態なんてあるの!?」
「発射なん!」
ブシャアアアッ!
「うわあああっ!」
耳をつんざくような水音とともに、太い水の束が飛んできた。桶に猛烈な水圧がかかり、腕がびりびりと震える。跳ね返った水が顔や肩に当たり、せっかく温まった体が一気に冷えていく。
「ちょ、強い! れんげちゃん、それ強すぎる!」
「まだまだなん!」
「お風呂で戦争しないでー!」
必死に桶で防御するものの、これはもう水鉄砲というより放水だった。
ついに耐えきれず、桶が手からすっぽ抜ける。
「あっ!」
桶が床に落ち、甲高い音を立てて転がった。
「隙ありなん!」
れんげちゃんはすかさず最初の水鉄砲へ持ち替えた。
その銃口が、ぴたりとボクへ向けられる。
「ちぇっくめいと、なん!」
ニヤリ。
勝ち誇った顔だった。
「……れんげちゃん」
「なん?」
「それ、どこで覚えたの?」
「テレビなん!」
「やっぱり……」
その瞬間だった。
ガラッ!!
湯気の向こうから、今度は怒鳴り声が浴室いっぱいに響いた。
「れんげぇぇぇぇぇ!!」
「なん!?」
今度こそ、本当に怖い人が現れた。
楓お姉ちゃんだった。
「お前、人んちの風呂で何やってんだ!」
「ボク君と親睦を深めていたん!」
「どう見ても戦争だろうが!」
「水による平和的交流なん」
「どこが平和だ!」
楓お姉ちゃんは、れんげちゃんの水鉄砲を取り上げる。
「しかもなんで水着まで持ってきてんだ!」
「お風呂で遊ぶなら必要と思って、一回家に取りに帰ったん」
「そこまでして入るな!」
「むぅ……」
れんげちゃんが不満そうに頬を膨らませる。
楓お姉ちゃんは大きなため息をつくと、今度はボクに向かって頭を下げた。
「すまんな、ボク君。こいつなりに歓迎してるつもりなんだ。たぶん」
「たぶんなんだ……」
「れんげ、出るぞ」
「まだ決着が――」
「ついてる! お前の負けだ!」
「なんと!?」
楓お姉ちゃんに連行されながら、れんげちゃんが振り返る。
「ボク君! 次は負けないん!」
「次もあるの!?」
ガラガラ、ピシャン。
戸が閉まる音のあと、浴室には換気扇の低い唸りと、床を伝う水滴の音だけが残った。
静かになった浴室で、ボクは一人取り残された。
「…………」
床には二丁の水鉄砲。
ひっくり返った桶。
ずれた風呂椅子。
壁や床には細かな水滴がびっしり張りつき、石けんの匂いに混じって、どこかプラスチックのような水鉄砲の匂いまで漂っている。
さっきまで普通のお風呂だった場所が、何かの戦場みたいになっている。
「田舎って……すごいところだなぁ……」
たぶん、田舎は関係ない。
◇
それからしばらくして。
着替えを済ませたボクは、少し警戒しながら居間へ戻った。
廊下にはまだ湿った空気が残っていて、髪の先から落ちた水滴が首筋を冷たく伝っていた。
「……れんげちゃん?」
そこで再び、目を疑った。
れんげちゃんが正座していた。
しかも先ほど使っていたバスタオルを頭から被り、まるで昔のお嫁さんの綿帽子みたいにしている。
さらに三つ指までついていた。
「…………」
隣では楓お姉ちゃんが額を押さえている。
もう何も言いたくない、という顔だった。
「な、何してるの?」
聞くのが怖い。
とても怖い。
れんげちゃんがゆっくり顔を上げた。
「ボク君」
「はい」
「ごめんなさい、なん」
「え?」
「ウチはボク君のお風呂に勝手に乱入して、水鉄砲でめちゃくちゃにしてしまったん」
「う、うん……」
ちゃんと反省している。
よかった。
ボクは少し安心した。
「楓お姉ちゃんに聞いたら、人に迷惑をかけたら責任を取らないといけないと言われたん」
「そうだね」
「だから責任を取るん」
「うん?」
なんだろう。
また嫌な予感がしてきた。
「こうなれば――」
れんげちゃんは、ぐっと拳を握った。
「ボク君のお嫁さんになるん!!」
「どっひゃあああああ!?」
ボクはその場で腰を抜かした。
「なんでそうなるの!?」
「責任を取るなら結婚するものなん!」
「誰に聞いたの!?」
「テレビなん!」
「またテレビ!?」
楓お姉ちゃんを見る。
楓お姉ちゃんは無言で両手を合わせていた。
ごめん。
口は動いていないけれど、確かにそう言っている。
「れ、れんげちゃん。大丈夫だよ!」
「なん?」
「ボク、怒ってないから!」
「でもウチはボク君のお風呂を戦場にしたん」
「戦場だった自覚はあるんだ……」
「責任重大なん」
「大丈夫! 知らなかったんだし、ボクも楽しかったから!」
……ちょっとだけ。
最後の放水は本気で怖かったけど。
「だから結婚しなくても大丈夫だよ。ボクたち、まだ子供だし」
「いつなら大丈夫なん?」
「え?」
「大人になったら大丈夫なん?」
「え、えっと……」
困った。
なんでボクは昨日会ったばかりの女の子と結婚について話し合っているんだろう。
「と、とりあえず今は普通に遊ぼうよ! ね?」
「…………」
れんげちゃんはしばらく考え込む。
やがて、ぱっと笑顔になった。
「よく分からんけど、ボク君が大丈夫なら分かったん!」
「よかったぁ……」
ようやく話が通じた。
ボクが胸を撫で下ろした、その直後。
「では、また一緒にお風呂で遊ぶん!」
「え?」
「次は夏海も呼ぶん!」
「待って待って待って!」
「水鉄砲も増やしておくん!」
「増やさなくていいよ!」
横を見る。
楓お姉ちゃんも頭を抱えていた。
どうやらボクたちは、何かとんでもない方向へ話を着地させてしまったらしい。
「……ボク君」
「……はい」
「今のは忘れろ。次から風呂場には鍵かけとけ」
「……はい」
「なんでなん!?」
れんげちゃんだけが納得していなかった。
◇
その後、楓お姉ちゃんの車で一条家まで送ってもらった。
夜道を走る車の窓には、街灯の黄色い光が流れていく。昼間の蝉の声は遠のき、タイヤが道路を擦る音だけが静かに続いていた。
部屋へ戻ったボクは、借りてきた釣り道具を床に広げる。
「明日はどこで釣ろうかな……」
竿。
仕掛け。
餌を入れる容器。
今日見つけた王冠も机の上へ並べてみる。
学校の近くにも、まだ探していない場所がある。
川も、もっと上流まで行ってみたい。
そんなことを考えていると――。
コンコン。
「ボク君、入るね」
「はーい」
蛍お姉ちゃんだった。
両手にカップを持っている。
「おかえりなさい。今日は駄菓子屋さんのところでご飯食べたんだって?」
「うん」
「はい、これ。ホットミルク」
「ありがとう、蛍お姉ちゃん」
温かいカップを受け取る。陶器の熱が冷えた指先にじんわり染み込み、甘いミルクの香りが鼻をくすぐった。
蛍お姉ちゃんは自分のコーヒーを一口飲むと、机の上を覗き込んだ。
「絵日記、今日は何を書くの?」
「うーん……」
ボクは絵日記帳を開いた。
紙が擦れるかすかな音が、静かな部屋に響く。
「今日は色々ありすぎて、何を書こうか悩んでるんだ」
「いいなぁ。私なんて、あれから家で人形作って、お母さんと買い物に行ったくらいだよ」
「ボクは学校の近くで王冠と甲虫を探したよ」
「うんうん」
「それから駄菓子屋さんのパソコン直して」
「うん」
「ご飯食べて」
「うん」
「れんげちゃんとお風呂で遊んだ」
「ふえええええええっ!?」
蛍お姉ちゃんが突然大声を出した。手にしていたカップの中で、コーヒーがちゃぷりと揺れる。
「な、なに!?」
「れ、れんちゃんと!? お風呂!?」
「うん」
「ボ、ボク君! それはダメだよ!」
「でも、れんげちゃん水着だったよ?」
「水着!?」
「水鉄砲持って入ってきた」
「…………」
蛍お姉ちゃんの表情が止まった。
「途中で武器が大きくなった」
「武器!?」
「タンクが付いてて、すごい水が出るやつ」
「あ……水鉄砲……」
「楓お姉ちゃんに怒られて連れていかれたけど」
「お、おほほほ……」
蛍お姉ちゃんが乾いた笑いを浮かべた。
「れんちゃんなら……やりそうかな……」
「でもね、そのあとお嫁さんになるって言われた」
「ふえええええええええっ!?」
今日一番の声だった。
「な、なんで!?」
「お風呂を水鉄砲でめちゃくちゃにした責任を取るんだって」
「れんちゃん、どこでそんな知識を……」
「テレビだって」
「ああ……」
なぜか蛍お姉ちゃんは納得した。
「だから結婚しなくていいよって言っておいた」
「そ、そうなんだ……」
「うん。普通に遊ぼうって」
「そっか……」
蛍お姉ちゃんは、ほっと胸を撫で下ろした。
そして少し考えてから、ボクを見る。
「でもボク君」
「なに?」
「これからは女の子がお風呂に入ってきても、一緒に遊んじゃダメだからね?」
「水着でも?」
「水着でも」
「蛍お姉ちゃんでも?」
「はわわわわわっ!?」
蛍お姉ちゃんが真っ赤になった。耳まで赤く染まり、持っていたカップから甘い湯気がふわりと立ち上る。
「だ、だ、ダメですー!」
「そうなんだ?」
「そうなの!」
「でも昔、一緒に入ったことあるから蛍お姉ちゃんならいいのかなって」
ボクは鉛筆を動かしながら答えた。
「む、昔は昔! 今は今なの!」
「難しいなぁ……」
「難しくないよ!」
蛍お姉ちゃんはそう言いながらも、どこか安心した顔をしていた。
やがて時計を見る。
「ほら、明日もラジオ体操あるんでしょ? そろそろ寝たほうがいいよ」
「うん」
「絵日記書いたら、ちゃんと歯磨きして寝るんだよ」
「分かった。蛍お姉ちゃん、おやすみなさい」
「うん。おやすみ、ボク君」
蛍お姉ちゃんが部屋から出ていく。
戸が閉まると、部屋には時計の針の音と、窓の外から聞こえる遠い虫の声だけが残った。
ボクはもう一度、今日一日のことを思い返した。
ラジオ体操。
夏海ちゃんから出された試練。
王冠探し。
虫探し。
川。
駄菓子屋。
パソコン修理。
そして――。
「……やっぱりこれかな」
鉛筆を握り直す。芯が紙の上を走る、さらさらという音がする。
今日の絵は、水鉄砲を持って得意げに笑うれんげちゃんにした。
その横には、桶を盾にして逃げ回っているボク。
水しぶきが飛び散る様子や、れんげちゃんのいたずらっぽい笑顔を思い出しながら、色鉛筆で少しずつ色を重ねていく。
絵の下に、今日あったことを書く。
〜絵日記〜
8月2日
駄菓子屋さんのお家で、れんげちゃんとお風呂で水鉄砲をして遊んだ。
仲良くなれたのはいいけど、お嫁さんになられたらちょっと困る。