朝のラジオ体操を終え、一条家へ戻ったボクは、いつものように朝ご飯の席についていた。
開け放した窓から、蝉の声が途切れずに流れ込んでくる。朝だというのに、縁側の向こうにはもう白っぽい陽射しが満ちていて、畳の上までじんわり暑かった。
焼きたての目玉焼きと味噌汁、それに白いご飯。
目玉焼きの縁は香ばしく、黄身の表面には朝の光がつやつやと映っている。味噌汁から立ちのぼる湯気には、出汁と味噌の匂いが混じっていた。
朝から動いたせいか、いつもよりお腹が空いている。
「そういえばボク君」
おばちゃんが、焼き上がった目玉焼きの皿をボクの前に置きながら言った。
「昨日、加賀山さんのお家でパソコンを直してあげたんだって? すごく喜んでたよ」
「うん! あり合わせの部品だったけど、なんとか直ってよかったよ」
「昔から機械いじりは好きだったけど、パソコンまで直せるようになったんだねえ」
感心したように言われ、ちょっとだけ誇らしくなる。
「近所にいる博士に教えてもらったんだ!」
「博士?」
「うん! 変な物ばっかり発明してるおじちゃんなんだけど、電気のことはすっごく詳しいんだよ!」
何を作っているのかよく分からない機械が部屋中に転がっているような人だけど、機械のことで困った時にはいつも色々教えてくれる。
すると、それまで黙ってご飯を食べていたおじちゃんが顔を上げた。
「へえ。じゃあボク君、今度の休みにおじちゃんのノートパソコンも見てもらえないかな?」
「あら?」
おばちゃんが振り返る。
「あなた、あれ最近買い替えたばっかりじゃなかった? もう調子悪いの?」
「いや……まあ、その……ちょっとばかりな」
なぜか歯切れが悪い。
「日曜日にでも見てくれるかい?」
「うん! いいよ!」
「助かるよ」
すると今度は、向かいに座っていた蛍お姉ちゃんがおずおずと手を挙げた。指先が膝の上で小さく揺れている。
「あの……ボク君。私のゲーム機も、今度見てもらっていいかな?」
「ゲーム機?」
「最近、ちょっと調子悪くて……」
蛍お姉ちゃんはそう言って、少しだけ上目遣いにこちらを見た。いつもなら遠慮してしまいそうな顔だったけれど、ボクがすぐに頷くと、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「いいよ!」
「あらあら」
おばちゃんが楽しそうに笑う。
「ボク君、大人気ね♪」
「だって、蛍お姉ちゃんのゲーム機ならすぐ直してあげたいもん」
そう言うと、蛍お姉ちゃんは一瞬だけ目を丸くして、それから耳まで赤くした。
「そ、そう? じゃあ……お願いしようかな」
「うん! 昔からお姉ちゃんの困ったことは、ボクが解決するって決めてるから!」
「昔からって……ボク君、まだ小さい頃のこと覚えてるの?」
「覚えてるよ。お姉ちゃんが泣いてたら、ボクが隣に座ってあげたもん」
「それ、私が転んで泣いた時に、ボク君までつられて泣いただけじゃない」
蛍お姉ちゃんがくすくす笑う。その笑い方が懐かしくて、胸の奥が少しくすぐったくなった。
ボクは照れくさくなって、ご飯をかき込んだ。炊きたての米粒が舌に甘く、味噌汁の熱さが喉を通っていく。向かいから、蛍お姉ちゃんの小さな笑い声が聞こえる。
田舎に来て三日目。
なんだか知らないうちに、ボクは一条家の電気屋さんみたいになっていた。
◇
「ごちそうさまでした!」
家族みんなでの朝ご飯が終わると、おじちゃんは早々に仕事へ向かった。
おばちゃんも今日は街まで買い出しに行くらしい。
ボクは部屋に戻り、昨日楓お姉ちゃんから借りた釣り道具を広げていた。
釣竿。
仕掛け。
重り。
針。
昨日捕まえておいた餌もある。
本で見たり、ネットで調べたりはした。
でも、本当に魚を釣るのは今日が初めてだ。
「これがここで……こっちが……」
一人で仕掛けを確認していると、
コンコン。
扉が鳴った。
「ボク君、入っていい?」
「うん!」
扉を開けて入ってきたのは蛍お姉ちゃんだった。
「ボク君。明日なんだけど、みんなで海に行くの。よかったら一緒に行かない?」
「海?」
思わず手が止まる。
「うん。電車でちょっと遠出するんだけど……どうかな?」
「行きたい!」
考えるより先に返事をしていた。
「ほんと? よかった」
蛍お姉ちゃんも嬉しそうに笑う。弾んだ声を聞いていると、誘ってくれたことがますます嬉しくなった。
「じゃあ明日は、朝ご飯を小鞠先輩の家で食べてから出発するみたい。遅れないようにね」
「うん! ありがとう、蛍お姉ちゃん!」
「どういたしまして」
蛍お姉ちゃんはそう言って、ボクの髪を軽く撫でた。子ども扱いされたようで少し照れたけれど、その手つきが懐かしくて、嫌ではなかった。
撫で終えた手が、ほんの少しだけ名残惜しそうにボクの髪の上で止まる。
「……大きくなったね、ボク君」
「そうかな?」
「うん。でも、私にとってはいつまでも弟だよ」
その言葉に、胸の奥がぽっと温かくなった。
明日は海。
それだけで楽しみが一つ増えた。
「ところで、ボク君は今日はどうするの?」
「釣り!」
手入れを終えた釣竿を持ち上げる。
「楓お姉ちゃんに道具を借りたから、昨日教えてもらった池に行ってみるんだ。蛍お姉ちゃんは?」
「私は……」
蛍お姉ちゃんは少し考え込んだ。
どうやら今日は特に予定がないらしい。
「じゃあ私も、ペチの散歩ついでに一緒に行っていいかな?」
「ほんと?」
「うん」
「やった! 一緒に行こう!」
思わず声が大きくなった。
「蛍お姉ちゃんと遊びに行くなんて久しぶりだなあ」
「ふふっ。そうだね」
蛍お姉ちゃんは笑いながら、少しだけ目を細めた。嬉しそうなのに、どこか照れくさそうでもある。
「昔は、私の後ろをずっとついてきてたのにね」
「今だってついていくよ!」
「もう、ボク君ったら」
蛍お姉ちゃんはそう言いながら、ボクの釣竿を持つ手元を覗き込んだ。
「でも、無茶はしないでね。危ない時は、ちゃんと私を呼ぶんだよ」
「うん! 蛍お姉ちゃんがいるから大丈夫!」
その返事に、蛍お姉ちゃんは一瞬だけ黙った。やがて、照れ隠しのようにボクの額を指先で軽く弾く。
「……そういうこと、簡単に言わないの」
「え? どうして?」
「なんでもない」
嬉しそうなボクを見て、蛍お姉ちゃんも笑った。
その顔はなんとなく――お姉ちゃんというより、本当の弟を見るみたいだった。
けれど、その笑顔の奥には、弟だからというだけではない、ボクだけに向けられた特別な柔らかさがあるようにも見えた。
◇
楓お姉ちゃんから教えてもらった池までは、ボクにとって初めて通る道だった。
朝の熱気はもうすっかり濃くなっていて、舗装された田舎道からは、焼けた土と乾いた草の匂いが立ちのぼっている。道の脇では蝉が一斉に鳴き、頭上の入道雲は真っ白に膨らんでいた。遠くの田んぼからは水の匂いと、青い稲の匂いが風に乗ってくる。
ならば当然、ただ歩くだけではもったいない。
道端に落ちている物を見ればジェットサイダーの王冠ではないかと確認し、木の幹を見れば珍しい虫がいないか探す。
そして――。
「待って! 今なんかいた!」
「え?」
「虫!」
網を構えて草むらへ突撃する。
草の葉が腕に触れるたび、朝露の残りがひやりと肌を濡らした。足元からは小さな虫がぱっと飛び立ち、青臭い草の匂いが鼻をくすぐる。
当然、なかなか前へ進まない。
しばらくして、蛍お姉ちゃんがボクの姿をじっと見た。
「ボク君……すごい荷物だね」
「そう?」
「うん……」
虫取り網。
虫籠。
釣竿。
釣り道具一式。
さらに、おじちゃんから借りたキャンプ用のクーラーボックス。
自分でも改めて見ると、すごい。
まるで学期末に、机の中へ置きっぱなしにしていた教科書やら道具箱やら朝顔の鉢植えやらを、一日で全部持ち帰ろうとしている一年生みたいだった。
「持ってあげようか?」
「うーん……ちょっと失敗だったかも」
さすがに認めざるを得ない。
「でも、釣りしてる時に虫相撲に使えそうな甲虫が出てきたら困るし……」
「ボク君、欲張りすぎだよ」
蛍お姉ちゃんは苦笑すると、ボクの虫取り網と虫籠を受け取った。
「これは私が持つね」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「……うん」
にっこり笑うボクを見て、蛍お姉ちゃんも少し嬉しそうに笑った。受け取った網を肩にかける仕草が、昔から何度もボクの荷物を持ってくれた時と同じだった。
「昔も、こうやって私の後ろを歩いてたよね」
「うん。お姉ちゃんが先に行っちゃうと、迷子になりそうだったから」
「迷子になったのは一度だけでしょ?」
「一度でも大変だったよ。お姉ちゃんが見つけてくれなかったら、ボク、ずっと泣いてたと思う」
「……だから、今度もちゃんと見てるからね」
蛍お姉ちゃんはそう言って、ボクの肩に落ちていた草の葉をそっと払った。
なんだか本当に弟ができたみたい。
そんなことを考えていた、その直後だった。
「あっ!」
「どうしたの?」
「蛍お姉ちゃん! 珍しい蝶々!」
「えっ?」
「捕って! 捕って!」
「ええええっ!?」
突然の指令に、蛍お姉ちゃんが慌てて虫取り網を構える。
「ま、待って! 私、虫取りなんて――」
「そっち! そっち行った!」
「えっ!? どっち!?」
「右!」
「こっち!?」
「それ左!」
「ボク君~~!」
静かな田舎道に、蛍お姉ちゃんの悲鳴が響いた。蝶はひらひらと逃げ、網が空を切るたび、乾いた風が草の葉をざわめかせた。
◇
そんなこんなで予定よりずいぶん時間はかかったものの、途中でジェットサイダーの王冠を一つ見つけることができた。
そしてようやく、目的の池へ到着した。
池は木々に囲まれ、濃い緑の影を水面に落としていた。水は一見すると静かだったけれど、岸辺では小さな魚が水面を弾き、ぱちん、と涼しげな音を立てている。湿った土と水草の匂いが鼻に届き、木陰に入ると、照りつける道より少しだけ涼しかった。
「つ……着いた……」
蛍お姉ちゃんは木陰に入るなり、へたり込んだ。額には細かな汗が浮かび、首筋を伝った汗が白いシャツを少しだけ濡らしている。
「さあ! やるぞー!」
対するボクは元気いっぱいだった。
初めての釣り。
それだけで疲れなんてどこかへ吹き飛んでいる。
「ボク君、元気だねえ……。私、ちょっと休憩するね」
「うん!」
蛍お姉ちゃんは木にもたれ、こちらを見守る。
ペチだけはまだ元気で、ボクの周りをぐるぐる回っていた。湿った落ち葉を踏むたび、くしゃりと音がする。
「よーし……」
昨日覚えた通りに餌をつける。
餌の匂いが指先に残り、少しぬるりとした感触がした。
重りをつける。
そして竿を構え――。
「えいっ!」
振る。
仕掛けは、
へろへろへろ……。
トプン。
水面に小さな波紋が広がり、針と重りが水の中へ沈んでいく。思っていたより、ずっと近くに落ちた。
「……これでいいのかな?」
「どうだろう……」
蛍お姉ちゃんも釣りには詳しくないらしい。
本やネットで見た通りにしたはずだけど、どうにも心許ない。
それでも、とりあえず待ってみることにした。
十分。
二十分。
三十分。
陽射しは木の葉の隙間からちらちらと落ち、水面に白い光の粒を散らしている。風が止まると、蝉の声と遠くの鳥の声だけが耳に残った。
「……こないね」
「うん……」
二人並んで体育座りをして、池を眺める。
水面は静かなものだった。
風が吹くたび、木々の影がゆらゆら揺れるだけ。水草の先が水面を撫で、細い波紋が岸へ寄せては消えていく。
ペチに至っては、竿の横ですっかり眠ってしまった。寝息に合わせて耳がぴくぴく動いている。
「……退屈だね」
蛍お姉ちゃんが立ち上がり、お尻についた夏草をぱんぱんと払った。
「うん……」
釣りって、もっとこう、
釣竿を振ったらすぐ魚が食いついて、
「うわー!」
となるものだと思っていた。
「夏海お姉ちゃん、意外と我慢強く待ってるのかな?」
「…………」
蛍お姉ちゃんが黙った。
たぶん、同じ人を思い浮かべている。
「……夏海先輩は」
「うん」
「待てなくなったら池に入っていきそう」
「やっぱり?」
二人で笑った。
容易に想像できた。
「ねえ、ボク君」
「なに?」
「魚が釣れるまで、私と遊ばない?」
「遊ぶ?」
「うん。せっせっせー、とか」
「せっせっせー?」
聞いたことのない言葉だった。
「女の子がよくやる遊びなんだけど……ボク君にはつまらないかな?」
「やってみたい! どんなの?」
「えっとね――」
蛍お姉ちゃんはボクの前に立つと、両手を出した。
「リズムを取りながら、相手と手を合わせるの」
そして、一人で見本を見せてくれる。
「せっせっせーの、よいよいよい♪」
ぱん、ぱん、と手を叩き、
「アルプスいちまんじゃーく♪」
歌に合わせて器用に手を動かしていく。
右。
左。
自分の手。
相手がいるはずの場所。
くるりと手を返して、また叩く。
「すごい!」
思わず目を輝かせた。
「これ、二人でやるの?」
「そうだよ。綺麗に合うと気持ちいいんだよ」
「やる!」
「じゃあ最初はゆっくりね」
向かい合って両手を出す。
「せっせっせーの――」
ぱん。
「あっ」
いきなり違う。
「ボク君、そっちじゃないよ」
「こっち?」
「それは次!」
「ええっ!?」
一回目は散々だった。
手は空振りする。
左右を間違える。
蛍お姉ちゃんの手ではなく腕を叩く。
途中から歌まで分からなくなる。
「かなり間違えちゃったね……」
「む、難しい……!」
蛍お姉ちゃんは笑いをこらえながら、間違えたボクの手をそっと正しい位置へ導いた。
「ここは、私の手を見てね。大丈夫、もう一回やろう」
その声が優しくて、失敗した恥ずかしさが少しだけ薄れた。
でも二回目。
三回目。
四回目。
繰り返すうちに、少しずつ動きが合ってくる。
ぱん。
ぱん。
ぱぱん。
二人の手が綺麗に重なる。手のひらが触れるたび、乾いた音が木陰に響いた。
「――らんら、らんらんらん♪」
「へいっ♪」
ぱん!
最後の手が綺麗に合った。
「できた!」
「すごい、ボク君!」
蛍お姉ちゃんも嬉しそうだ。
「もうちょっとで、ゆっくりコースは完璧だね」
「これでゆっくりなの!?」
思わず自分の手を見る。
「女の子の遊びもハードだね……」
「あはは……」
蛍お姉ちゃんが笑った。
「もう一人いたら、ゴム跳びも教えられるんだけど」
「ゴム跳び?」
「うん。それはまた今度ね」
「やってみたい!」
「じゃあ、次に遊ぶ時に教えてあげる」
蛍お姉ちゃんはそう言って、約束するように小指を差し出した。
ボクも小指を絡める。
「約束!」
「うん、約束」
絡めた小指を離す時、蛍お姉ちゃんの指がほんの少しだけ名残惜しそうにボクの指を追った。
二人で笑い合う。
その時だった。
「ワンッ! ワンッ!」
突然、ペチが激しく吠えた。
「ん?」
振り返る。
「――あっ!」
蛍お姉ちゃんの顔色が変わった。
「ボク君! 竿!」
「え?」
「引いてる!!」
固定していた釣竿が、大きくしなっていた。竿先が水面すれすれまで引き込まれ、糸がぴんと張っている。
しかも――。
「ペチ!?」
ペチが竿を咥え、必死に踏ん張っている。
ずるっ。
ずるずるっ。
前足が土を掻き、爪が地面に食い込む。それでも竿は池へ引っ張られていく。
ペチごと持っていかれそうだ。
「うわあああっ!」
慌てて駆け寄り、まずペチの首輪をつかんで竿から引き離す。ペチが口を離した瞬間、ボクは両手で竿の柄を握り直した。
その直後――。
グンッ!!
「うわっ!?」
腕が持っていかれそうになった。
竿の柄が手のひらに食い込み、糸が風を切って低く唸る。水面の下では、何かが泥を巻き上げたのか、茶色い濁りが広がっていた。
「な、なにこれ!?」
「ボク君、離さないで!」
蛍お姉ちゃんも後ろから竿を掴む。
背中がぴたりと触れ、すぐそばで蛍お姉ちゃんの息が弾んだ。汗と夏の草の匂いが混じった空気が、頬に熱くかかる。
「まず竿を立てて! 糸を水面に寝かせないで!」
「こう!?」
「うん! それから、魚が走ったら逆らわずに少し下げるの!」
ボクが竿先をわずかに下げると、張り詰めていた力がほんの少し緩んだ。けれど、魚はその隙を逃さなかった。
池の奥へ向かって、一気に走る。
ググググッ!
「うわあっ!」
竿がさらに曲がる。ボクは足を開き、腰を落として耐えた。蛍お姉ちゃんも背中から支えるように体重をかける。
「今度は止まるまで耐えて! 無理に引かないで!」
「でも、逃げちゃうよ!」
「糸が切れたらもっと逃げちゃう!」
魚の動きに合わせて、竿先が左右へ振られる。こちらが引けば魚は潜り、こちらが緩めれば池の奥へ走る。力を込める瞬間と、耐える瞬間を間違えれば、糸が切れる。
「止まった!」
濁りの中心が、ふっと静かになった。
「今! 竿を立てて、少しずつ引くよ!」
「うん!」
二人で腰を落とし、竿を胸元まで引き寄せる。
ぐっ。
さっきよりわずかに魚が岸へ寄った。
「効いてる!」
「まだ! 魚がまた走るよ!」
その言葉どおり、次の瞬間、魚が身をひねった。
グンッ!!
竿が跳ね、二人の腕が同時に引き伸ばされる。
「きゃっ!」
蛍お姉ちゃんの足がずるりと滑った。ボクはとっさに竿を抱え込み、蛍お姉ちゃんは地面に手をついて踏みとどまる。
「お姉ちゃん、大丈夫!?」
「だ、大丈夫! それより竿!」
糸が水面を斜めに走っていた。魚は底へ潜ろうとしているらしく、濁りが渦を巻き、岸辺の水草が根元から引きちぎられそうに揺れている。
「ボク君、少しだけ緩めて!」
「緩めたら逃げちゃうよ!」
「でも、このままだと糸が切れる!」
「じゃあ、どうすればいいの!?」
焦りで声が裏返った。
蛍お姉ちゃんも答えを出せないまま、竿を握り直す。手のひらが汗で滑り、指先が白くなるほど力を込めていた。
「魚が止まったら、少しずつ巻くの!」
「巻くって言っても、リールがないよ!」
「じゃあ、魚が疲れるまで耐えるしかない!」
「そんなの、いつまで!?」
返事の代わりに、魚がまた走った。
グンッ!!
「うわあっ!」
「きゃあっ!」
ボクの肩が抜けそうになり、蛍お姉ちゃんの体が背中からぶつかってきた。竿の柄が手のひらに食い込み、じんとした痛みが腕を駆け上がる。
それでも、離せない。
ここで手を放したら、魚も竿も全部持っていかれる。
「ボク君、頑張って!」
「蛍お姉ちゃんも!」
「頑張ってるよぉ!」
魚は池の奥へ向かい、こちらは岸へ引き戻そうとする。
人間二人と魚一匹。
力は互角だった。
竿は弓のようにしなり、糸は今にも切れそうな高い音を立てている。水面の下では大きな影が身をひねるたび、波が岸へ押し寄せ、泥水が足元を濡らした。
「見えた!」
蛍お姉ちゃんが叫んだ。
水の中で、黒い影が大きく揺れている。
太陽の光を受けた水面が砕け、その下から銀色の鱗が一瞬だけ浮かび上がった。魚は岸へ寄せられかけていた。あと少し。あと少し引けば、姿を出せる。
「で……でかっ!」
「今だよ、ボク君! 魚が頭を振る前に引いて!」
「うん!」
魚が一瞬止まった。
その隙に、二人で足を踏ん張る。ボクが竿を立て、蛍お姉ちゃんが背中から押すように支えた。
「せーのっ!」
全身の力を竿へ集めた。
魚の頭が水面からわずかに持ち上がる。大きな口が開き、水がごぼりと鳴った。
「いける!」
「もう少し!」
岸まで、あと数十センチ。
けれど魚は、最後の力を振り絞った。
グンッ!!
今までで一番強い引きだった。
竿が限界までしなり、糸がぴんと張り詰める。ボクの手が滑り、蛍お姉ちゃんが肩で支えた。蛍お姉ちゃんも歯を食いしばり、足を土へ食い込ませている。
「離さないで!」
「離してない!」
「もう無理……!」
「まだ! まだ耐えて!」
魚は水中で体をくねらせ、針を外そうと暴れた。水面が大きく割れ、濁った水しぶきが二人の顔にかかる。
糸が震える。
竿が軋む。
ボクの腕が限界に近づく。
蛍お姉ちゃんの指も、竿を握ったまま小刻みに震えていた。
「ボク君……!」
「なに!?」
「あと少しだけ……!」
「うん!」
魚がまた頭を振った。
その瞬間、竿先が大きく右へ跳ねる。ボクは竿を左へ倒して動きを受け止め、蛍お姉ちゃんがすかさず糸の向きを岸へ戻した。
「今、もう一度!」
二人で声を合わせ、最後の力を振り絞る。
「せーのっ!」
魚の頭が、今度こそ水面から大きく出た。
「出た!」
「もう少し!」
その時。
「ワンッ!」
ペチが飛び出した。
「ペチ!?」
ペチは竿ではなく、張り詰めた糸へ向かって跳びついた。
「待って、ペチ! 噛んじゃだめ!」
止める間もなかった。
ぶちっ。
乾いた音が、蝉の声を切り裂いた。
「あっ!」
張り詰めていた力が、一瞬で消えた。
竿が跳ね返り、ボクと蛍お姉ちゃんの体が後ろへ持っていかれる。
「うわっ!」
「きゃっ!」
二人揃って尻もちをついた。湿った土の冷たさが服越しに伝わり、手のひらに細かな砂が食い込む。
「切れた……?」
ボクは震える手で竿を見た。
糸の先には、何もついていない。
池の中では、魚影がまだ暴れていた。
大きな影が水面を横切り、濁った波が岸へ押し寄せる。魚は逃げようとしているのか、針を外そうとしているのか、何度も身をひねった。
「まだ見える!」
蛍お姉ちゃんが叫ぶ。
ボクも立ち上がり、池を覗き込んだ。
魚影はゆっくりと遠ざかっていく。
一度、二度と水面が大きく揺れ、最後に銀色の鱗が陽射しを反射した。
そして――。
池の底へ消えていった。
「…………」
「…………」
ボクも蛍お姉ちゃんも、何も言えなかった。
耳の奥では、さっきまでの水音と自分の荒い息だけがいつまでも響いていた。
やがて蛍お姉ちゃんが、隣に座ったまま小さく息を吐く。
「……残念だったね」
「うん……」
「でも、ボク君と一緒に引っ張れて、ちょっと楽しかったかも」
そう言って笑う蛍お姉ちゃんの頬には、まだ興奮の赤みが残っていた。額の汗を手の甲で拭うと、指先が少し震えている。
「お姉ちゃん、手、痛くない?」
「少しだけ。でも、ボク君のほうが痛そう」
蛍お姉ちゃんはそう言って、ボクの手のひらを取った。赤くなった跡を見つめ、指先でそっと砂を払う。
「無茶しちゃだめって言ったでしょ」
「でも、お姉ちゃんが一緒だったから頑張れたんだよ」
「……そういうところ、昔から変わらないね」
蛍お姉ちゃんは困ったように笑いながら、ボクの手をすぐには離さなかった。
ペチだけが、
「ワン!」
と、仕事をやり遂げたような顔で尻尾を振っている。
ボクは空っぽになった釣り糸を見た。切れた先が風に揺れ、もう何もついていない針が、かすかに光を返している。
初めての釣り。
初めてかかった魚。
そして――初めて逃がした大物。
「……蛍お姉ちゃん」
「なに?」
「あれ、絶対もう一回釣る」
蛍お姉ちゃんはしばらく黙っていたけれど、
「……うん」
やがて笑った。
「その時は、もっと丈夫な釣り道具を用意しようね」
「蛍お姉ちゃんも一緒に来てくれる?」
尋ねると、蛍お姉ちゃんは一瞬だけ目を丸くした。それから、当たり前のことを言うように頷いた。
「もちろん。今度は私も、ちゃんとボク君を手伝うから」
「約束だよ」
「うん。約束」
蛍お姉ちゃんはそう言って、さっきのように小指を差し出した。
ボクも小指を絡める。
今度は、すぐには離さなかった。
その言葉が嬉しくて、ボクは笑った。
こうしてボクの初めての釣りは――。
魚、一匹も釣れず。
謎の大物との敗北で終わったのだった。