「あーあ……惜しかったなあ」
結局、釣果は坊主。
ボクと蛍お姉ちゃんは、さっきまでの激闘が嘘みたいに静まり返った池を背に、とぼとぼと次の目的地へ向かっていた。
魚は釣れなかった。
けれど、確かにいた。
竿が折れるんじゃないかと思うほどの、とんでもなく大きな何かが。
「でも、あれ以上は無理だったよ」
蛍お姉ちゃんが、困ったように眉を下げる。さっきまで竿を支えていた腕を気遣うようにさすりながら、慎重に言葉を選んだ。
「あのまま粘ってたら、ボク君が池に引きずり込まれてたかもしれないし……竿ごと持っていかれてたかもしれないよ」
「うーん……」
それはボクも認めざるを得なかった。
あの怪物を普通の仕掛けで釣り上げるのは無理だ。
「だったら、あれを釣るための工夫がいるね。なんか考えてみるよ!」
「えっ。また挑戦するの?」
「もちろん!」
ボクが胸を張ると、蛍お姉ちゃんは一瞬だけ目を丸くした。
「やっぱり……」
それから、予想どおりと言いたげに苦笑する。
一度逃した大物を、そのままにしておくなんて、男の子としてはできない相談だ。
それより――。
「蛍お姉ちゃんって、力強いよね」
「え……そうかな?」
蛍お姉ちゃんが、きょとんと首を傾げた。本人にはまるで自覚がないらしい。
「だって、あの魚にボクが持っていかれそうになってたのに、蛍お姉ちゃんが手伝ってくれたら、少しだけ互角になったもん」
「そ、そんなことないよ!」
蛍お姉ちゃんは、慌ててぶんぶんと両手を振った。
「きっと咄嗟だったからだよ。私、そんなに力強くないから」
「そうかなー?」
「そうだよ」
きっぱり言い切ったあと、蛍お姉ちゃんは照れたように視線を逸らした。
本人がそこまで言うなら、そういうことにしておこう。
「まあいっか! それより蛍お姉ちゃん、れんげちゃんのお家ってこっちなの?」
「うん。ほら、もう見えてきたよ」
蛍お姉ちゃんが指差した先に、大きな古民家が見えてきた。
立派な木造の家屋に、広い庭。その横には納屋があり、中には農具らしいものも見える。
いかにも田舎の農家、という感じの家だった。
「ほたるーん! ボク君ー! こっちなんなー!」
庭の方から、聞き慣れた声が飛んでくる。
ボクたちは玄関先に荷物を置き、声のする方へ回った。
「れんちゃん、おはよう。……あれ?」
蛍お姉ちゃんが足を止める。
れんげちゃんの隣に、見慣れない女の子がいた。
歳はボクやれんげちゃんと同じくらい。
手にはカメラを持っていて、れんげちゃんとは対照的に、どこか控えめでおとなしい雰囲気の子だった。
「れんちゃん、この子は?」
「さっき知り合ったのん。ほのかちん!」
れんげちゃんは、まるで自分の新しい発見を披露するように、胸を張って女の子を紹介した。
「石川ほのかです。おはようございます」
女の子――ほのかちゃんは、カメラを胸元に抱え直し、ぺこりと丁寧に頭を下げた。
「一条蛍です。よろしくね」
「ボクもよろしく!」
ボクも元気よく名前を名乗る。
話を聞いてみると、ほのかちゃんは夏休みの間、お父さんの実家へ遊びに来ているらしい。
「へえー! じゃあボクと似た感じだね。ボクも東京から来たんだ」
「ボクさんも東京なんですか?」
ほのかちゃんは、少し驚いたように目を輝かせた。
「うん!」
「じゃあ、近かったら東京でもどこかで会えるかもしれませんね」
「そうだね!」
東京から来た者同士、なんとなく親近感が湧いてくる。
ところが。
「むぅ……」
横から、むっつりとした圧力を感じた。
見ると、れんげちゃんが頬をぷくっと膨らませている。
片手には野菜の入ったバケツ。
そしてもう片方には――。
なぜか大根。
「ボク君はもっと遠慮するなん!」
「えっ?」
「せっかくウチに同い年の友達ができたところなのに、野暮はなしなん!」
れんげちゃんは大根を握り直し、ほのかちゃんとボクの間に割り込むように一歩踏み出した。
ぶんっ!
「うわっ! 危ないよ、れんげちゃん!」
振り回された大根を避け、慌ててれんげちゃんの手を掴む。
危ない。
大根とはいえ、当たれば普通に痛い。
「それより、その野菜は何?」
「…………」
手を押さえられたれんげちゃんは、急にしおらしくなったかと思うと、くるりと背中を向けた。
「そうだったのん。ほのかちんに『具』を見せようと思って準備したん」
「具?」
聞き覚えがある。
「あっ! 駄菓子屋さんで言ってた『具』のこと? ボクも見たい!」
「ボク君はダメなん!」
「ええっ!?」
「ほのかちんともっと仲良くなるには、今はボク君が邪魔なんな!」
れんげちゃんは、まるで重大な作戦を邪魔されたような顔で言い切った。
「がっくし……」
肩を落とす。
昨日は友達認定してくれたと思ったのに。
田舎の友情とは、なかなか厳しいものである。
「まあまあ」
そんなボクの頭を、蛍お姉ちゃんが優しく撫でてくれた。
「今はれんちゃん、同い年のお友達ができて嬉しいんだよ。邪魔されたくないだけだから」
「そっかぁ……」
ボクと蛍お姉ちゃんは、ほのかちゃんの手を引いて庭の隅へ向かっていくれんげちゃんを見送った。
◇
「おーい! ほたるんー! ボク君ー!」
ちょうど行き場をなくしていたところへ、今度は別の声が飛んできた。
振り返ると、夏海先輩と小鞠先輩が、大きな虫籠を持ってやってくる。
「あ、ボク君。来たよ!」
「うん!」
どうやら約束の時間らしい。
夏海先輩はボクを見るなり、にやりと挑発的な笑みを浮かべた。
「おー、ボク君! 夏休みを満喫してるみたいだな?」
「うん!」
「しかし、昨日の今日でこの夏海ちゃんに挑んでくるとは……いい度胸だ!」
夏海先輩は虫籠を掲げ、まるで観客に自慢するように胸を反らした。
そう。
今日は昨日、夏海先輩から言い渡された試練――虫相撲で勝負するために来たのだ。
「まずは挑んでみないと、勝てるかどうか分からないから!」
「少年、よく言った!」
夏海先輩は木陰に虫籠を置くと、ボクの前でどっかり胡座をかいた。
「この夏海ちゃんの最強軍団に、いきなり勝てると思うなよ! さあ来い!!」
「夏海……」
後ろから小鞠先輩の、呆れきった声が飛んでくる。
「またそんな格好して。お母さんに怒られるよ」
「母ちゃんの話はなしだよ、ねーちゃん! それにホットパンツなんだからいいでしょ!」
「そういう問題じゃないんだけど……」
「細かいこと気にしない!」
夏海先輩は、まったく反省する様子もなく、へらへら笑っている。
「はぁ……」
小鞠先輩は、こめかみを押さえるようにして深いため息をついた。
妹の将来が心配なのかもしれない。
「さあ、ボク君! 勝負だ!!」
夏海先輩が虫籠から取り出したのは、大きなノコギリクワガタだった。
「でかっ……」
ボクが持っているノコギリクワガタより、明らかに一回り大きい。
たぶん夏海先輩のコレクションでも、かなり強い個体なんだろう。
ごくりと唾を飲み込む。
でも、ここまで来て逃げるわけにはいかない。
ボクも虫籠を開ける。
取り出したのは、昨日自分の手で捕まえたノコギリクワガタ。
唯一、自力で捕まえたボクの選手だ。
「頼むよ……」
そっと台の上に置く。
ノコギリクワガタは、元気よくボクの手から離れた。
一方、夏海先輩は――。
「よーし、行け行け!」
ぺしぺし。
クワガタの背中を、指で叩いていた。
「えっ? 何してるの?」
「ふっふーん。ボク君、知らないな?」
夏海先輩が、得意げに人差し指を立てる。
「ノコギリクワガタは体力がある! こうやって背中を刺激して興奮させた方が、気性が荒くなって攻撃的になるんだよー!」
「へえー……そうなんだ」
「今さら知ってももう遅い!」
夏海先輩が勢いよく立ち上がり、びしっとクワガタを指差す。
「さあ行け! 私の――ストームジェット!!」
その号令に応えるかのように。
ストームジェットは動いた。
大顎を持ち上げ――。
羽を広げ――。
ブゥゥゥン!
「あっ」
「え?」
飛んだ。
戦場ではなく。
空へ。
「…………」
「…………」
ストームジェットは、その名に恥じぬ飛行能力を見せつけながら、一直線に森へ向かっていく。
「あ……ああっ!?」
夏海先輩の顔色が、みるみる変わった。
「私のストームジェットーーー!!」
しかし彼は振り返らない。
自由を得た戦士は、夏の森へ帰っていく。
「カムヒアーーー!! ストームジェットーーー!!」
ダダダダダッ!
夏海先輩が、全力で追いかけていった。
「ノー!! ストームジェーーーット!!」
声が遠ざかっていく。
残された一同は。
「…………」
ぽかーん。
誰も何も言えなかった。
ただ一人。
「あはっ……あははははははっ!!」
小鞠先輩だけが、お腹を抱えて爆笑していた。
普段の鬱憤までまとめて吹き飛んだような、遠慮のない笑い声だった。
「あははは! 夏海、バカじゃないの!? 自分で逃がしてるし!」
「えーっと……」
ボクは取り残された自分のノコギリクワガタを見る。
戦ってすらいない。
「これって……ボクの勝ちでいいのかな?」
「うん!」
小鞠先輩が、食い気味に即答した。
「ボク君の勝ち! 夏海が納得するかは知らないけど!」
そしてボクの手を掴み、高々と掲げる。
「勝者、ボク君ー!」
「やったー!」
まさかの一勝。
蛍お姉ちゃんは、なんとも言えない顔をしていた。
「よーし!」
すると突然、小鞠先輩が勢いよく立ち上がった。
「じゃあボク君! 夏海の代わりに、この小鞠お姉さんが相手をしてあげましょう!」
「小鞠先輩が?」
「ふふふ……」
小鞠先輩が、不敵に笑う。
「私の優雅なカナブンやカマキリたちの華麗な技に、翻弄されるがいいわ!」
びしっ!
決まった。
さっきの夏海先輩より、ちょっと格好いい。
ただ。
「あの……小鞠先輩」
「何?」
「先輩の籠の中に、ザリガニがいます」
「えっ?」
小鞠先輩が、恐る恐る虫籠を覗き込む。
数秒の沈黙。
「…………」
顔が引きつった。
「ぎにゃあああああああああ!!」
そこには。
夏海先輩が一緒に持ってきたらしいザリガニと――。
先ほどまで小鞠先輩が誇っていた、カナブンとカマキリの変わり果てた姿があった。
これ以上の説明はやめておこう。
夏休みの思い出にしては、刺激が強すぎる。
「な、な、な……」
小鞠先輩が、ぷるぷる震える。
そして。
「アホ夏海ーーーーー!!」
怒号が、山々にこだました。
◇
「あっち、騒がしいのん」
庭の隅。
遠くから聞こえてきた小鞠の絶叫に、れんげは首を傾げた。
「いつものことなん」
「ふふっ」
ほのかが、こらえきれないように小さく笑う。
二人の目の前では、れんげが怪しげな口笛で呼び寄せた『具』が、用意された野菜を一心不乱に食べていた。
ほのかは、その様子を楽しそうに眺める。
「れんげちゃんのお友達って、楽しそうだね」
「そうなん?」
「うん。蛍さんも夏海さんも小鞠さんも……それにボク君も。あんなに大きなお友達がたくさんいて、羨ましいな」
ほのかは、そっと具の頭を撫でる。
それから、嬉しそうにカメラを構えた。
カシャッ。
夏の日差しの下、野菜を頬張る具の姿が写真に収まる。
「ウチがいないと、みんなグダグダなんな。まったく……」
れんげはぶつぶつ言いながら、水を入れた皿を差し出した。口では呆れているのに、具の様子を見つめる目はどこか得意げだった。
具は顔を寄せ、美味しそうに水を飲み始める。
それを二人で眺めているうちに、れんげが何かを思いついたように顔を上げた。
「そうだ!」
「どうしたの?」
「ほのかちん、明日も用事ないん?」
「明日?」
「ウチと海に行くのん!」
「海?」
ほのかの顔が、ぱっと明るくなる。
「みんなで行くん! きっと楽しいのん!」
「行きたい!」
思わず答えてから、ほのかは「あっ」と声を上げた。
「でも、お父さんとおばあちゃんに聞かないと……」
「なら今から聞きに行くん!」
「えっ、今から?」
「ウチも一緒に頼んであげるん!」
れんげは、もう決めたと言わんばかりに立ち上がると、ほのかの手を取った。
「行くんな!」
「う、うん!」
ほのかも、嬉しそうに立ち上がる。
「私も海に行きたい! お父さんとおばあちゃんに聞いてみる!」
「決まりなん!」
二人は手を繋いだまま、駆け出した。
今日出会ったばかりなのに、もうずっと前から友達だったように。
夏休みという不思議な時間の中では、仲良くなるのに長い時間なんて必要ないのかもしれない。
庭の向こうでは、まだ小鞠の怒鳴り声と夏海の悲鳴が聞こえている。
そのさらに向こうでは、蝉が負けじと鳴いていた。
そして二人の心には、まだ見ぬ明日の海が広がっている。
八月三日。
今年の夏は、昨日よりも少しだけ賑やかに。
そして、少しだけ深くなっていった