東方狡兎録   作:真紀奈

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因幡国にて
転生、そして出会い


 かつて人間であった「彼」は、特段長いとも短いともつかぬ生を終え、輪廻の理に(のっと)り新たな生へと旅立とうとしていた。

 しかし如何なる運命の悪戯か、「彼」は魂の洗浄が完全でない状態で生まれ落ちてしまった。

 前世の記憶を持ち越して新たな生を受けたのだ。まあ、まれによくある現象である。

 

 此度の生に()ける種族が人間でなかったのは、幸であろうか、不幸であろうか。何れにせよ最早受け容れるしかない事でもあるが。

 まあ、生まれ落ちた時から知性を宿しているのを不審に思われる事が無い点では……新たな姿が「兎」であるのは幸運と言えるだろう。

 野生の草食動物は概して、幼い頃から危険に対処する為に或る程度の行動を取る事が出来る。

「彼」が乳離れしてすぐに行動を起こしても、何も不思議な事ではなかったのだ。

 

 最初に取り掛かったのは、危険な植物の判別であった。

 兎の主食は野草であるから、食べられない草を知らない事は命に関わる。

「彼」は熱心に親兎の教えを受けた。覚えの悪い兄弟姉妹が誤って毒草を食べそうになるのを見る都度注意し、また万一の為に薬草も覚えて行った。

 親兎の庇護(ひご)を離れる頃には、既に周囲に知らない草は無いと自信を持って言えた。

 

 立派な兎として独り立ちした「彼」を待っていたのは、「繁殖」という名の巨大な壁だった。

 此処まで触れなかったが、今世の「彼」は雌兎である。前世の経験を記憶し確かな知性を宿す「彼」とて、雌兎として雄兎と交尾するなど完全に未体験領域であった。

 思い至ってから雄兎を見る度に思い切り構えていたのだが、全くの杞憂(きゆう)であった。

 動物の交尾は淡白なのだ。曰く女性が感じる快楽は男性の其れの何十倍……とか関係無かった。まるで事務作業だとは、後日の「彼」の談である。

 

 子を産み、育て、死んで行く……そう思っていた「彼」だが、どうも様子がおかしいことに気付いたのは齢三十を過ぎた頃からであった。兎はこんなに長生きしただろうか?

 現に他所の兎は殆どが十年程で死んでいる。

 実は原因は「彼」が徹底して毒草を避け、簡易ながら薬草の栽培までしていた事にあるのだが、この時は未だ知る由も無かった。兄弟姉妹や子孫も同様に長生きしていた事も、問題発覚を遅らせるのに一役買っていた。

 長生きで知識の豊富な彼らは自然と周囲の兎達を主導する立場になり、伝えられた知識は兎達の寿命をどんどん伸ばして行った。

「彼」が齢百を数えた頃には言語のような物も生まれ、兎の社会が形成されて来た。

 

 兎達は繁栄し、じわじわと勢力を広げ、やがて海に辿り着いた。

 海を越える事は出来ないので別方向に進んで行ったが、やはり海に行き当たってしまった。

 此処は意外と小さな島だったのだ。

 小さな島では今以上に増える兎を養いきれない事に「彼」は気付き、多少の無茶をしてでも海の向こうへ行かねばならぬと決意した。

 手段として思い付いたのは、島の周囲をうろつく鮫であった。「彼」の記憶にある古説話に、兎が鮫の背を踏んで海を渡ったという話がある。

 巧く行くかは判らないが、やらねばならぬのだ。

 

 目論見(もくろみ)通りに鮫を騙して一列に並べ、兎の群れが一斉に海を渡って行く。

「鮫は兎より二匹多かった」と最後に渡り終えた「彼」が告げ、挑発しなかった事で丸く収まるかと思ったその時、要らぬ横槍が入った。

 浜を通りがかって様子を見ていた人間達が、鮫達は騙されて利用されたのだと教え、鮫達と一緒になって兎達に制裁を加えたのだ。

 全身に傷を負わされ海水を浴びせられ、痛みに悶えながら、「彼」はこの状況が正に古説話「因幡の素兎(しろうさぎ)」だと考えていた。兎が一匹ではなく大群ではあるが、もし今が伝説の渦中であるのなら……

 

「君達、そんなに苦しんでどうしたんだい?」

 

 そう、後にオオクニヌシとなる青年、オオナムチが助けに来てくれるのだ。


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