【あらすじ】
深夜のシャーレに残された一枚の書き置き。
『皆さん お世話になりました』
最初にそれを見つけてしまったのは 先生のことを(いろいろな方法で)誰よりもよく知っている三人の生徒だった。
やがてクロノスの速報がキヴォトス中を駆けめぐり 空には季節外れの雲が広がっていく。
そのころ先生は――新潟県南魚沼市で稲を刈っていた。

会話中心の長編SSです(本文約42,000字)。
キャラクターの口調や関係性には注意していますが 独自解釈およびif設定を含みます。

【注意】
・超絶曇らせ(ただしギャグ寄り 湿度高め)
・先生の実家や家族に関する独自設定(現実の地名が登場します)
・先生の家族の交通事故(命に別状はありません)と 先生の軽い負傷
・盗聴 覗き つきまといなどのネタ(作中で先生がきちんと線を引きます)
・独占欲 修羅場 先生×生徒を思わせる表現
・『外』行きのバスなど 原作にない設定

以上の要素が苦手な方はご注意ください。

1 / 1
第1話

『皆さん お世話になりました

 実家が大変なことになったので 帰らせていただきます

 シャーレの鍵は いつもの場所に置いておきます

 本当にありがとうございました  先生』

 

 深夜三時のシャーレで先生はペンを置いた。

 卓上ライトの丸い光の中に便箋が一枚だけ浮かんでいる。読み返してみると思っていたよりずっと改まった文面になっていた。

 

先生「……なんか 遺書みたいになっちゃったな」

 

 誰もいないオフィスを見回す。明日になればいつものように誰かが来て いつものように騒がしくなるはずの部屋だった。

 

先生「一週間か……みんな 大丈夫かな」

 

 眠気で頭が回っていない自覚はあった。

 先生は少し考えてから便箋を裏返した。ペン先が短く走る。給湯室のほうを一度だけ振り返ってからもう一行。

 

先生「よし これで大丈夫」

 

 何がどう大丈夫だったのか。

 それを先生が思い知るのはもう少し先の話になる。

 

 電話が鳴ったのはその一時間ほど前のことだった。

 その夜も先生は書類の山と向き合っていた。ホワイトボードには明日の当番の名前が書いてある。机の端には栄養ドリンクの空き瓶が何本も並んでいた。毎朝ドアの前に置かれている差し入れで 差出人はいまだにわからない。

 夜食にしようと給湯室に立った。冷蔵庫には明日の当番の子のために買っておいたプリンがふたつ。その奥から冷凍おにぎりを取り出して電子レンジに入れる。

 毎年秋になると実家から三十キロの米袋が届く。それを炊いて握って冷凍しておくのが徹夜続きの先生のささやかな命綱だった。

 鼻歌まじりに残り時間を眺めていたところでスマホが震えた。画面には母の名前が出ている。こんな時間に母から電話が来たことは一度もなかった。

 

先生「もしもし 母さん? どうしたの」

 

母『あ 出た出た あんたやっぱり起きてたんね 夜中にごめんねぇ』

 

先生「それはいいけど……何かあった?」

 

母『ちょっとね 父さんと軽トラごと田んぼに落っこちちゃって』

 

先生「……え?」

 

母『ほら十字路のとこ あそこで横から車にぶつけられてさ くるっと回って田んぼにどぼーん』

 

先生「どぼーんって……事故? ふたりとも大丈夫なの!?」

 

母『大丈夫大丈夫 ちゃんと生きてるすけ 父さんが右足折って 母さんは左の手首 いま病院』

 

先生「大丈夫じゃないよそれ!」

 

 思わず声が大きくなった。

 受話口の向こうで母はけらけらと笑っている。いつもの調子だった。それでようやく先生は息を吐くことができた。

 命に別状はない。ひとまずはそれでいい。

 

母『でね ここからが本題なんだけど』

 

先生「事故より本題があるの?」

 

母『稲刈り まだ三枚残ってんのよ』

 

 先生は黙った。

 母も少しだけ黙った。

 

母『コシヒカリは待ってくんないよ 刈り遅れたら胴割れするし 今年は久しぶりにいい出来なんだわ 源さんも自分とこで手いっぱいだしねぇ』

 

先生「……わかった 帰るよ」

 

母『え いいの? あんた仕事は』

 

先生「一週間くらいなら大丈夫だよ」

 

 背後で電子レンジがチンと鳴った。

 

先生「急ぎの書類は今夜のうちに片付けていくし それにね 私がいなくても ここはちゃんと回るから」

 

母『そうかい……悪いねぇ 向こうの子たちにもちゃんと言っていくんだよ お世話になってんだから』

 

先生「うん 書き置きしていく ちゃんとお礼も書いておくよ」

 

母『書き置きって……あんたそういうとこ昔っから』

 

先生「大丈夫だって 始発で行くから 父さんにもよろしくね」

 

 通話を切ると給湯室はまた静かになった。

 レンジの中でおにぎりが湯気を立てている。先生はそのひとつを手に取ってかじった。

 実家の米の味がした。父と母が去年育てた米の味だった。

 

先生「……刈りに行かないとな」

 

 それから先生は急ぎの書類を片付けて 引き出しから便箋を一枚取り出した。

 母に言われたとおり まずはお礼から書くことにした。

 

 その通話を聞いていた生徒がもう一人いた。

 

 ミレニアムサイエンススクール。ヴェリタスの部室の片隅で音瀬コタマは大きなヘッドホンを両手で押さえていた。

 午前二時十三分。

 モニターの波形が跳ねる。シャーレの給湯室に仕掛けておいた集音器が先生の声を拾っていた。

 ふだんなら夜更かしの先生の鼻歌を聞きながら静かに眠りにつく時間だ。けれどその夜の声は鼻歌ではなかった。

 

先生『……え……事故……?』

 

先生『……大丈夫じゃないよ……!』

 

 コタマは目を閉じて耳を澄ませた。

 ところが肝心なところで砂嵐のような雑音が割り込んでくる。ざらざらとした音が先生の声を削り取っていく。

 

先生『……わかった 帰るよ』

 

先生『……ザッ……ザザ……なら大丈夫だよ』

 

 チン。

 

先生『私がいなくても ここはちゃんと回るから』

 

先生『……うん 書き置きしていく ちゃんとお礼も書いておくよ』

 

 そこで声は途切れた。

 コタマはヘッドホンを外さないまま同じ箇所を三回再生した。

 

コタマ「二・四ギガヘルツ帯の干渉……電子レンジですね よりによっていちばん大事なところで」

 

 事故。帰る。私がいなくても。書き置き。お礼。

 拾えた単語を並べるたびに指先が冷たくなっていく。

 

コタマ「心拍数上昇 血流加速 体温上昇……原因は」

 

 コタマはそこで言葉を切った。

 いつもなら不明と続けるところだった。

 

コタマ「……明白です」

 

 コタマは立ち上がった。

 盗聴器の点検に行く。シャーレの集音器は電子レンジ対策が甘かった。だから点検に行く。それ以外の理由はない。

 誰に聞かせるでもなくそう三回繰り返してから彼女は部室を出た。

 

 午前四時四十八分。

 D.U.外郭地区のはずれに古い給水塔が一本立っている。そのてっぺんで天見ノドカは寝袋から上半身だけを出していた。

 レッドウィンターから背負ってきた望遠鏡はいつものように二キロ先のシャーレへ向けてある。天体観測が趣味だと本人は言い張っている。ただし夜明け前のこの時間にレンズを空へ向けたことは数えるほどしかなかった。

 

ノドカ「ふわぁ……先生 今朝も早いですねぇ……」

 

 レンズの向こうでシャーレの通用口が開いた。

 出てきたのは先生だった。それはいい。徹夜明けの先生が外の空気を吸いに出てくるのはよくあることだ。ノドカはその時刻を毎朝きちんと記録している。

 

ノドカ「……ん?」

 

 先生は大きなスーツケースを引いていた。

 旅行用の いちばん大きなやつだ。

 

ノドカ「出張……? でも予定表にはそんなの……」

 

 なぜ先生の予定表を把握しているのか。そこには触れないでおく。

 先生は通用口の前で立ち止まってシャーレを見上げた。長いあいだそうしていた。それから建物に向かって深々と頭を下げる。顔を上げた先生は指先で目元をぬぐった。

 

ノドカ「え……」

 

 先生はスーツケースを引いて歩き出した。向かう先は外郭地区の終点のさらに先にあるバス停だった。

 朝靄の中に一台のバスが停まっている。運転席では帽子をかぶった柴犬の運転手が新聞を広げていた。

 ノドカは倍率を上げた。

 行き先表示の文字がくっきりと見える。

 

 ――外。

 

ノドカ「……そと?」

 

 キヴォトスの外。先生がもともといた場所。

 バスは先生を乗せるとゆっくりと朝靄の向こうへ消えていった。

 

ノドカ「せ……先生!? ちょっと待っ――」

 

 叫んだところで二キロ先には届かない。

 届いたとしてもそれはそれで困るのだ。なんでそんなところから見ていたのかと聞かれたら答えようがない。

 ノドカは寝袋を蹴飛ばすと望遠鏡を背負い直して給水塔のはしごを駆け下りた。

 

 午前五時二十分。

 鷲見セリナは紙袋を胸に抱えてシャーレの廊下を歩いていた。

 中身は栄養ドリンクと手作りの生姜湯を入れた水筒。毎朝これを先生の部屋の前に置いていくのがセリナの日課だった。名前は書かない。先生がそれを謎の差し入れと呼んでありがたそうに飲んでいることをセリナは知っている。それで十分だった。

 けれど今朝は様子が違った。

 先生の部屋の明かりが消えている。この時間の先生はたいてい書類の山と格闘しているはずなのに。物音もない。寝息も聞こえない。人の気配そのものがなかった。

 

セリナ「……先生?」

 

 ちなみにシャーレの防犯カメラにセリナが映ったことは一度もない。

 救護騎士団では「セリナはどこにでもいる」と半ば本気でささやかれている。本人はそれを少しだけ気にしていた。

 暗いオフィスに足を踏み入れたそのときだった。

 

セリナ「――っ」

 

 部屋の奥に人影があった。

 ふたつ。

 ひとつは給湯室の前にしゃがみ込んでいる。もうひとつは入口近くの壁にもたれて肩で息をしていた。

 

コタマ「……誰ですか」

 

ノドカ「そっちこそ誰ですか!」

 

セリナ「あ あの……!」

 

 三人の声が重なった。

 手探りで壁のスイッチを入れたのはコタマだった。蛍光灯が何度かまたたいて部屋を白く照らし出す。

 

 トリニティの制服で紙袋を抱えた生徒。

 ミレニアムの制服でヘッドホンを首にかけ ドライバーを握った生徒。

 レッドウィンターの制服で背中に望遠鏡を背負った生徒。

 

セリナ「……トリニティ総合学園 救護騎士団の鷲見セリナです」

 

コタマ「ミレニアムサイエンススクール ヴェリタスの音瀬コタマです」

 

ノドカ「レッドウィンター連邦学園 二二七号特別クラスの天見ノドカです!」

 

 自己紹介が終わると気まずい沈黙が降りてきた。

 

コタマ「念のため伺いますが 皆さんはなぜこんな時間にシャーレへ?」

 

セリナ「わ 私は 先生の朝の健康状態を確認しに……」

 

ノドカ「毎朝ですか?」

 

セリナ「……毎朝です」

 

ノドカ「毎朝……」

 

セリナ「コ コタマさんは?」

 

コタマ「機材の点検です」

 

ノドカ「何の機材ですか?」

 

コタマ「……音響機材です」

 

セリナ「ノドカさんは……?」

 

ノドカ「さ 散歩です!」

 

コタマ「レッドウィンターから?」

 

ノドカ「ちょっと長めの散歩です!」

 

 三人はそれぞれ別の方向へ目をそらした。

 誰も相手の答えを信じていない。そして誰も自分の答えを信じてもらえるとは思っていなかった。

 

セリナ「あの……それで 先生は?」

 

コタマ「いません」

 

ノドカ「いません……」

 

 コタマとノドカの返事はほとんど同時だった。どちらもひどく硬い声をしていた。

 セリナは二人の顔を見比べてから先生の机に目をやった。

 書類がいつもよりきれいに片付いている。ペン立てのペンは全部キャップが閉まっている。ふだんの先生の机ではまずありえない光景だった。

 その真ん中に便箋が一枚 マグカップを重しにして置かれていた。

 

セリナ「……これ」

 

 セリナはマグカップをどけて便箋を手に取った。

 三人は肩を寄せ合うようにしてそれを覗き込んだ。

 

『皆さん お世話になりました

 実家が大変なことになったので 帰らせていただきます

 シャーレの鍵は いつもの場所に置いておきます

 本当にありがとうございました  先生』

 

 蛍光灯がジジ……と小さく鳴った。

 誰も便箋を裏返さなかった。

 

 最初に声を出したのはノドカだった。

 

ノドカ「実家に……帰らせていただきます……?」

 

 語尾が裏返った。

 

ノドカ「それ 夫婦が別れるときに言うやつじゃないですか!」

 

セリナ「ノドカさん 声が大きいです……」

 

ノドカ「だって! お世話になりましたって これもう完全に辞める人の挨拶ですよ!」

 

 セリナは便箋を持ったまま動けずにいた。

 抱えていた紙袋が腕から滑り落ちる。床にぶつかった水筒がごとりと鈍い音を立てた。

 

コタマ「……お世話に なりました」

 

 コタマが小さく読み上げた。

 いつもと同じ平坦な声だった。けれど最後の一音だけがかすかに揺れていた。

 

コタマ「やはり そういうことでしたか」

 

セリナ「やはり……?」

 

ノドカ「コタマさん 何か知ってるんですか!?」

 

コタマ「昨夜の二時十三分 先生は電話で誰かと話していました」

 

セリナ「電話……」

 

コタマ「事故 帰る 私がいなくてもここは回る 書き置きをしていく お礼も書いておく そういう内容でした」

 

ノドカ「なんでそんなことまで知ってるんですか」

 

コタマ「……」

 

ノドカ「ミレニアムからここまで何キロあると思ってるんですか」

 

コタマ「私の耳は誤魔化せませんので」

 

ノドカ「答えになってないです!」

 

コタマ「では伺いますが ノドカさんはなぜ先生がここにいないと即答できたのですか」

 

ノドカ「うっ」

 

セリナ「そういえば……入ってきたときノドカさん すごく息を切らしていましたよね」

 

ノドカ「そ それは……」

 

 ノドカは天井を見て床を見て 最後に観念したように肩を落とした。

 

ノドカ「四時四十八分に先生が大きなスーツケースを持って通用口から出てきて シャーレを見上げて 頭を下げて 目元をぬぐって 外郭地区の終点のバス停から『外』行きのバスに乗りました」

 

コタマ「時刻まで」

 

ノドカ「……天体観測をしていたら たまたま」

 

コタマ「朝の五時前に 地上のバス停を」

 

ノドカ「き 金星が! すごく綺麗だったので!」

 

セリナ「金星は地面にはありません……」

 

ノドカ「セリナさんだって! 毎朝って何ですか毎朝って!」

 

セリナ「わ 私はただ 先生のお部屋の前に栄養ドリンクを……」

 

ノドカ「えっ あの謎の差し入れってセリナさんだったんですか!?」

 

コタマ「先生は毎朝ひとりで『今日もありがとう 謎の人』と言っています」

 

セリナ「どうしてコタマさんがそれを……」

 

コタマ「……」

 

 三人は顔を見合わせた。

 そして同時に悟った。

 ここにいる全員が 同じ種類の人間なのだと。

 

セリナ「……お二人も なんですね」

 

コタマ「何のことでしょう」

 

ノドカ「何のことですか」

 

 気まずさをごまかすようにセリナが便箋へ目を落とした。

 

セリナ「シャーレの鍵は……いつもの場所……」

 

コタマ「入口の植木鉢の下ですね」

 

ノドカ「植木鉢の下ですね」

 

セリナ「植木鉢の下です……」

 

 また沈黙が降りた。

 三人とも知っていた。当番の生徒でもないのに。

 ノドカが入口まで走って植木鉢を持ち上げた。

 持ち上げてから気がついた。鉢の土から細い針金のようなものが一本ひょこりと顔を出している。

 

ノドカ「……コタマさん これ何ですか」

 

コタマ「音響機材です」

 

ノドカ「植木鉢の中に?」

 

コタマ「音響機材です」

 

 鉢の下に鍵はあった。いつもと同じ場所にいつもと同じように。

 それがかえって決定的だった。

 

コタマ「整理します」

 

 コタマはホワイトボードの前に立った。ふだん先生が業務の予定を書き込んでいるボードだ。彼女はマーカーを取って項目を並べていく。

 

 深夜の電話。事故。帰る。

 私がいなくても回る。

 書き置き。お礼。

 大きなスーツケース。シャーレへの一礼。涙。

 『外』行きのバス。

 置いていかれた鍵。

 お世話になりました。

 

コタマ「結論」

 

 マーカーの先がボードの上で止まった。

 先生はシャーレを辞めてキヴォトスの外へ帰った。その一行をコタマは書かなかった。書けなかった。

 マーカーのキャップを閉める小さな音がやけに響いた。

 セリナは便箋をそっと机の上に戻した。マグカップもそのとおりに重ね直す。先生が置いていったままの形にしておきたかった。

 

ノドカ「……」

 

 ノドカがふらふらと給湯室へ向かった。

 

セリナ「ノドカさん?」

 

ノドカ「何か……手がかりがあるかもしれないので……」

 

 冷蔵庫の扉が開く音がした。

 しばらくしてノドカが戻ってくる。両手にプリンをひとつずつ持っていた。

 

コタマ「それは」

 

ノドカ「冷蔵庫に入ってました」

 

コタマ「先生のものでは」

 

ノドカ「先生はもう帰ってこないんですよ!?」

 

 ノドカはプリンのふたをはがしてスプーンを突き立てた。

 ひと口。ふた口。

 

ノドカ「だったら……だったらこれは……私が食べるしかないじゃないですか……っ」

 

 泣きながら食べていた。

 ひとつ目を空にするとノドカは迷わずふたつ目のふたをはがした。

 

セリナ「ふ ふたつとも……」

 

ノドカ「甘いもの食べないと落ち着かないんですぅ……」

 

 誰も止めなかった。止める気力が残っていなかった。

 

セリナ「どうしましょう……」

 

ノドカ「どうしましょう……」

 

コタマ「どうしましょう」

 

 三人の声が見事にそろった。

 

セリナ「とにかく連邦生徒会に知らせないと リン行政官に……」

 

コタマ「何と報告しますか」

 

セリナ「それは……先生がいなくなったって……」

 

コタマ「なぜそれがわかったのかと聞かれます」

 

セリナ「書き置きがあったから……」

 

コタマ「なぜ早朝のシャーレにいたのかと聞かれます」

 

セリナ「……」

 

ノドカ「先生が『外』行きのバスに乗ったって言ったら なんで知ってるのって聞かれます」

 

コタマ「先生が深夜に電話していたと言えば なぜ知っているのかと聞かれます」

 

セリナ「毎朝来ていたと言ったら……」

 

ノドカ「毎朝って何ですかって聞かれます」

 

 八方塞がりだった。

 先生のことをいちばんよく知っている三人は その知り方のせいで誰にも何も言えなかった。

 

コタマ「まずは先生に直接連絡を」

 

 セリナがモモトークを開いた。震える指で文字を打つ。

 

『先生 おはようございます

 お体の具合は大丈夫ですか

 困っていることがあったら いつでも呼んでください』

 

 送信。

 未読のまま。

 コタマが通話をかけた。呼び出し音すら鳴らずに無機質な音声が流れてくる。

 

音声『おかけになった電話は 電波の届かない場所にあるか――』

 

 キヴォトスの外まで届く電波はない。

 三人ともそれを知っていた。知っていて それでも誰も通話を切ろうとしなかった。

 

 午前七時。

 オフィスの扉が勢いよく開いた。

 

マイ「おはようございます! クロノススクール報道部です! 本日はシャーレの先生への密着取材のお約束で――」

 

 カメラを構えたまま飛び込んできたのは風巻マイだった。その後ろでは川流シノンがマイクを握っている。

 二人はオフィスの光景を見て固まった。

 泣き腫らした目の救護騎士団員。ホワイトボードの前で動かないミレニアム生。空のプリン容器をふたつ抱えたレッドウィンター生。

 そして机の上の 一枚の便箋。

 

シノン「……マイ先輩」

 

マイ「ええ カメラを」

 

 シャッター音が鳴った。

 ノドカが反射的に顔を隠す。プリンの容器が床を転がった。

 マイは机に歩み寄って便箋を覗き込んだ。その目がみるみる輝いていく。

 

マイ「これは……スクープです……!」

 

コタマ「待ってください 公表するのは――」

 

シノン「マイ先輩 まだ裏が取れていません」

 

マイ「裏なら放送しながら取ります!」

 

シノン「それは裏を取るとは言いません」

 

マイ「キヴォトスの皆さんには知る権利があるんです! シャーレの先生の辞任という歴史的な――」

 

セリナ「やめてください!」

 

 セリナが机に飛びつくようにして便箋をつかみ取った。

 胸に抱きしめる。くしゃくしゃになるくらい強く。

 

セリナ「これは……先生のものです……っ」

 

 マイは一瞬だけ言葉に詰まった。

 けれどすぐにカメラを持ち直す。シャッターはもう十分に切ってあった。

 

マイ「……ご協力ありがとうございました! 撤収です!」

 

シノン「先輩!」

 

 嵐のように二人は去っていった。

 開け放たれた扉の向こうで朝の光がやけに白かった。

 

 正午。

 D.U.中心街の大型ビジョンが一斉に切り替わった。

 

マイ『緊急速報です! 連邦捜査部シャーレの先生が 辞任した可能性があります!』

 

 画面いっぱいに映し出されたのはあの便箋だった。

 表だけが くっきりと。

 

マイ『現場に残されていたのはこの一枚の書き置き! 「お世話になりました」「帰らせていただきます」 先生はすでにキヴォトスを離れたとみられています!』

 

シノン『……なお 現在事実関係を確認中です』

 

マイ『現場には第一発見者とみられる生徒三名の姿がありました!』

 

 モザイクのかかった映像が流れた。

 ひとりは紙袋を抱え ひとりはホワイトボードの前に立ち尽くし ひとりはプリンの容器を抱えている。

 

ノドカ「なんでプリンのとこだけモザイク薄いんですかぁ……」

 

 大型ビジョンの前の人だかりの後ろで三人は身を寄せ合っていた。

 誰かが息をのんだ。誰かが嘘でしょとつぶやいた。誰かがその場にしゃがみ込んだ。

 ざわめきは波紋のように広がっていく。大通りからビルの谷間へ。ビルの谷間から路地裏へ。路地裏からキヴォトス中へ。

 

セリナ「私たちのせいです……」

 

 セリナの声は小さかった。

 

セリナ「私が あのとき書き置きをすぐにしまっていれば」

 

コタマ「いいえ 私がクロノスの足音に気づいていれば」

 

ノドカ「私が……プリンを食べてなければ……」

 

コタマ「それは関係ないと思います」

 

 三人は空を見上げた。

 さっきまで雲ひとつなかったはずの空に 灰色の雲がぽつんと浮かんでいる。

 ちょうどD.U.の真上だった。

 

 雲は広がっていった。

 D.U.の上空から東へ 西へ。誰かがため息をつくたびにひと回りずつ膨らんでいくようだった。

 

 最初に雲の下に入ったのはミレニアムだった。

 セミナーの執務室では早瀬ユウカが速報を映したモニターの前で固まっていた。

 

ユウカ「辞任……?」

 

 隣で生塩ノアが黙ってモニターを見つめている。

 ユウカは乾いた笑い声を立てた。

 

ユウカ「そんなはずないわ だって先生 今月の経費精算だってまだ出してないのよ 出すもの出さずに辞めるなんて そんな計算の合わない話……」

 

 言いながらユウカは引き出しを開けた。

 中には分厚いファイルが一冊入っている。先生が提出した領収書の束だ。そのほとんどに赤いハンコが押してあった。

 

 ――却下。

 

ユウカ「ほら ちゃんと全部ここに……」

 

 ページをめくる手が止まった。

 

 生徒への差し入れ アイス三十本。却下。

 ゲーム開発部の部室の電球。却下。

 アビドスへのお見舞いの果物。却下。

 補習授業部の参考書。却下。

 救護騎士団への消毒液。却下。

 

 どれもユウカが私的な支出だと判断して突き返したものだった。

 そしてその全部の余白に 先生の字で小さく同じ言葉が書き添えてあった。

 

『了解 これは自分で払っておくね』

 

ユウカ「……」

 

ノア「ユウカちゃん」

 

ユウカ「待って 計算するから」

 

 ユウカは電卓を引き寄せた。

 指が驚くほど速く動く。先生の給与。生活費。却下した領収書の合計。

 

ユウカ「先生の手取りがこれで……毎月の自腹がこれで……」

 

 液晶に表示された数字の頭に 小さな横棒がついていた。

 

ユウカ「……マイナス」

 

ノア「……」

 

ユウカ「先生……お金がなくなって 実家に帰ったんだ……」

 

ノア「ユウカちゃん それはさすがに」

 

ユウカ「私が……経費で落としてあげなかったから……」

 

 ユウカの肩が震えた。

 電卓を握る指に力がこもる。ボタンがかちかちと意味もなく鳴った。

 

ユウカ「私のせいだ……私のせいだ……っ」

 

 ノアは何も言わずに自分の手帳を開いた。

 そこには先生がこの部屋で口にした言葉が日付つきで全部書き留めてある。ノアはそれを最初のページからゆっくりとめくっていった。

 

ノア「記録を読み返してみても……先生が辞めたいと言った日は一日もないんです」

 

ユウカ「……」

 

ノア「最後にここで言った言葉は 『ユウカはいつも頑張ってるね』でした」

 

ユウカ「やめてよ……今それ聞いたら……」

 

 そのとき執務室の扉が蹴り開けられた。

 

ネル「おいユウカ! 先生が辞めたってマジか!?」

 

 飛び込んできたのは美甘ネルだった。

 ネルは部屋の真ん中で足を止めると眉をひそめてあたりを見回した。

 

ネル「……っつーか なんだここ 湿度高すぎねぇか?」

 

ユウカ「え?」

 

 言われてユウカはようやく気がついた。

 窓が真っ白に曇っている。書類の端がしんなりと波打っている。電卓の液晶に細かい水滴が浮いていた。

 

ノア「さっきから湿度計が九十八パーセントを指していますね」

 

ネル「九十八!? ここ室内だろ!? ……おい あたしの髪うねってきたんだけど」

 

 ネルはがしがしと頭をかいた。それからふいに黙り込んだ。

 

ネル「……なんも言わずに行っちまったのかよ 先生」

 

 壁に拳を当てる。殴るというより押しつけるような力のなさだった。

 

ネル「ふざけんなよ……あたしまだ ちゃんと礼も言ってねぇのに」

 

 同じころミレニアムの別の棟では ゲーム開発部の部室の窓から天童アリスが空を見上げていた。

 

アリス「先生が……パーティーから離脱しました……」

 

モモイ「アリス……」

 

アリス「アリスがレベル上げをサボったからでしょうか……」

 

モモイ「アリスのせいじゃないよ! むしろ私たちが先生を徹夜でゲームに付き合わせたから……」

 

ミドリ「……それはお姉ちゃんのせいだね」

 

モモイ「ミドリも一緒にやってたじゃん!」

 

 言い合う二人の声もどこか弱かった。

 アリスは窓に額をくっつけた。ガラスの向こうでは灰色の雲が空を埋め尽くそうとしている。

 

アリス「空に巨大なボスが出現しました……アリスはあの雲を『くもくも』と名付けます」

 

モモイ「そのまんまじゃん……」

 

 その名前は一時間後にはクロノスの放送で採用されていた。

 

シノン『――続いてお天気です D.U.上空で発生した雲 通称「くもくも」は各自治区の上空へ急速に拡大しています 湿度は各地で九十パーセントを超え……ええと ミレニアムでは精密機器の結露が相次いでいるとのことです』

 

 くもくもはゲヘナの空にも届いていた。

 風紀委員会の執務室で空崎ヒナは書類にサインを続けていた。

 

アコ「ヒナ委員長! あの ニュースは……」

 

ヒナ「見たわ」

 

アコ「でしたら……」

 

ヒナ「今日の分の書類 あと四十七枚あるの」

 

 ヒナは顔を上げなかった。

 ペンが紙の上を走る。署名。日付。次の書類。署名。日付。次の書類。いつもと同じ速さで いつもと同じ順番で。

 天雨アコはその横顔を見つめたまま動けなかった。いつもどおりだった。いつもどおりすぎた。

 

ヒナ「アコ 午後の巡回の割り振りを」

 

アコ「委員長……」

 

ヒナ「仕事は仕事だから」

 

 パキ と小さな音がした。

 ペン先が折れていた。書類の上にインクがにじんで広がっていく。ぽつり。ぽつり。にじみはひとつではなかった。

 ヒナはゆっくりと天井を見上げた。

 

ヒナ「……雨漏り?」

 

アコ「いえ……」

 

 天井に染みはない。

 アコの視線がヒナの顔に移る。ヒナはその視線から逃げるように手の甲で目元をこすった。

 

ヒナ「……湿気ね」

 

アコ「……はい 湿気です」

 

 アコはそう答えるしかなかった。

 ヒナは折れたペンを机に置いた。それから窓の外を見た。灰色の空の下でゲヘナの街がかすんでいる。

 

ヒナ「前に一度 先生に頭を撫でてほしいって言ったことがあるの」

 

アコ「……え」

 

ヒナ「夜中に書類が終わらなくて 電話で手伝ってもらったことも何回もある 先生は一度も嫌だって言わなかった」

 

 ヒナは自分の手のひらを見下ろした。

 

ヒナ「私が……甘えたから 先生は疲れちゃったのね」

 

アコ「そんなこと……!」

 

ヒナ「巡回に出るわ」

 

アコ「外は雨です!」

 

ヒナ「……ちょうどいいわ」

 

 ヒナは傘も持たずに出ていった。

 残されたアコは閉じた扉を見つめていた。やがてその唇が小さく動いた。

 

アコ「私だって……先生に何回も言いました……ヒナ委員長に近づかないでくださいって……」

 

 アコはその場にしゃがみ込んだ。

 

アコ「私のせいです……私のせいで先生は……」

 

 ちなみにゲヘナでは温泉開発部が「掘らずとも街中から湯気が出る」と歓喜の声をあげていた。この街でいま笑っているのは彼女たちくらいのものだった。

 

 トリニティにも雨が降り始めていた。

 ティーパーティーのテラスで聖園ミカは頬杖をついて笑っていた。

 

ミカ「あはは そっかぁ 先生辞めちゃったんだ☆」

 

ナギサ「ミカさん……」

 

ミカ「まあそうだよね 先生だって疲れちゃうよね だってさ 私 先生にいっぱい迷惑かけたし あんなこともこんなこともしちゃったし」

 

 ミカは指を折って数えはじめた。

 一本。二本。三本。

 五本目を折ったところで指が止まった。

 

ミカ「……」

 

 笑顔はそのままだった。

 笑顔のまま ミカは何も言わなくなった。雨音だけがテラスの屋根を叩いている。

 

ミカ「……私のせい じゃんね」

 

ナギサ「それは違います」

 

 桐藤ナギサはきっぱりと言ってティーポットを傾けた。

 紅茶がカップを満たす。満たしてもまだ注ぎ続ける。ソーサーにあふれ テーブルクロスに広がり テーブルの端からぽたぽたと床へ落ちていく。

 

ミカ「ナギちゃん……お茶 あふれてるよ」

 

ナギサ「……あら」

 

 ナギサはポットを置いた。

 置いてからしばらく 広がっていく紅茶の染みをぼんやりと眺めていた。

 

ナギサ「……私も 先生にはお願いばかりしていましたね」

 

ミカ「ナギちゃんまで そういうこと言わないでよ……」

 

 二人の前ではスコーンが湿気を吸ってしなしなになっていた。

 

ミカ「スコーン しなしなだね」

 

ナギサ「……しなしなですね」

 

ミカ「……」

 

ナギサ「……」

 

ミカ「しなしなだね……」

 

 そこへ一通の伝言が届いた。百合園セイアからだった。

 目を通したナギサの指先がかすかにこわばった。

 

ナギサ「……セイアさんが 夢を見たそうです」

 

ミカ「夢?」

 

ナギサ「先生が 金色の海の中に立っていたと」

 

 ミカの顔からすっと表情が消えた。

 

ミカ「金色の……海……?」

 

ナギサ「とても穏やかな顔で 光に包まれていたそうです」

 

ミカ「それ……天国じゃん……!」

 

ナギサ「ミカさん 落ち着いて」

 

ミカ「天国じゃんね!? 先生 辞めたんじゃなくて もっと遠くに行っちゃったってこと!?」

 

ナギサ「セイアさんの夢は いつも少しわかりにくいだけです きっと」

 

 そう言うナギサのカップの中で 紅茶の表面に細かい波紋が立っていた。

 その夢は正しかった。先生はたしかにそのころ金色の海の中にいた。

 コンバインに乗って。

 

 くもくもはついに砂漠の空まで覆った。

 アビドスに雨が降った。それは誰も覚えていないくらい久しぶりのことだった。

 

アヤネ『ほ ホシノ先輩! 砂漠に雨が……! 観測史上初めてです!』

 

セリカ『ちょっと何これ!? 砂が泥になってるんだけど! 自転車進まないんだけど!』

 

ノノミ『あら……あっちの砂丘 うっすら緑色になってきましたね……苔でしょうか……』

 

 無線から聞こえてくる後輩たちの声を聞き流しながら 小鳥遊ホシノは校舎の屋上に寝転がっていた。

 雨粒が顔に当たる。ホシノは目を閉じたままだった。

 

ホシノ「うへ~……雨だぁ……」

 

 足音が近づいてきた。

 ばさりと傘が開く音がして 顔に当たる雨がやんだ。

 

シロコ「ん ホシノ先輩 風邪ひく」

 

ホシノ「シロコちゃんかぁ……ありがとね~」

 

 砂狼シロコは傘を差したまま隣にしゃがみ込んだ。

 しばらく二人とも黙っていた。

 

ホシノ「……ねえ シロコちゃん」

 

シロコ「ん」

 

ホシノ「おじさんさ……」

 

 ホシノは言いかけてやめた。

 目を開けて灰色の空を見上げる。

 

ホシノ「……ううん 私さ」

 

 シロコの耳がぴくりと動いた。

 ホシノが自分のことを私と呼ぶとき それはふざけていないときだ。

 

ホシノ「先生に いっぱい背負わせちゃったよね 借金のことも 学校のことも 私のことも」

 

シロコ「……」

 

ホシノ「先生優しいからさ 断れなかったんだよ きっと ずっと」

 

 ホシノは小さく笑った。笑い声にはなっていなかった。

 

ホシノ「私のせいだね」

 

シロコ「……ん」

 

 シロコはポケットから何かを取り出した。

 見慣れた覆面だった。

 

シロコ「ん 先生を取り戻す 外に行く乗り物 全部襲う」

 

ホシノ「……うへ それはやめとこっか」

 

シロコ「……ん」

 

 シロコは覆面をポケットにしまった。

 そして傘を少しだけホシノのほうへ傾けて 自分の肩が濡れるのも構わずにそこに座り続けた。

 

シロコ「……ん 先生は 帰ってくる」

 

ホシノ「どうして そう思うの」

 

シロコ「わからない でも 先生だから」

 

 ホシノは返事をしなかった。

 ただ傘の下で ほんの少しだけシロコのほうへ肩を寄せた。

 

 そのころ。

 新潟県南魚沼市は 雲ひとつない快晴だった。

 『外』行きのバスの終点は 田んぼの真ん中にぽつんと立つ錆びたバス停だった。スーツケースを引いて降り立つと乾いた稲の匂いがした。キヴォトスにはない匂いだった。

 バスの運転席では柴犬の運転手がまた新聞を広げている。

 

先生「ありがとうございました」

 

運転手「あいよ」

 

 運転手は新聞から目を上げずにそれだけ言った。

 先生は大きく伸びをした。徹夜明けの背中がばきばきと鳴った。

 

先生「……ただいま」

 

 その足で病院に寄って両親の顔を見てから 先生は田んぼへ向かった。

 

源さん「おう先生 おかえり!」

 

先生「源さん ご無沙汰してます しばらくお世話になります」

 

 隣の田んぼの源さんはコンバインの運転席から日焼けした腕を振った。

 源さんは先生のことを先生と呼ぶ。遠くの学校で先生をやっているらしいと聞いてから ずっとそうだ。

 

源さん「親父さんとおっかさんは」

 

先生「さっき病院で会ってきました ふたりとも思ったより元気で」

 

源さん「そうらろ あの二人が簡単にくたばるわけねぇすけ」

 

 見渡すかぎり金色だった。

 頭を垂れたコシヒカリの穂が風にさざ波を立てている。その向こうに八海山の稜線がくっきりと見えた。空は高く どこまでも青い。赤とんぼがすいすいと畦の上を横切っていく。

 

源さん「雲ひとつねぇ 稲刈り日和らな」

 

先生「ほんとに 晴れてよかった」

 

 先生は父の古いコンバインに乗り込んだ。

 エンジンをかける。懐かしい振動が背中に伝わってくる。刈り取られた稲が吸い込まれ 籾がタンクに溜まっていく音がする。藁の匂いが風に乗って流れてきた。

 夕方までに刈った籾は家の乾燥機に入れた。

 ただし家で食べる分だけは昔から天日干しと決まっている。最後のひと畝だけは鎌で刈って束にし 田んぼの脇に並ぶはさ木に掛けた。竹に渡した稲束が何段にも重なって 金色の大きな屏風のようになる。

 

源さん「はさ掛けの米は うめぇすけな」

 

先生「父さんの口癖でしたね それ」

 

源さん「親父さん ここの米を毎年先生んとこに送ってたろ」

 

先生「はい 向こうで夜中に食べてます 冷凍おにぎりにして」

 

源さん「はっは そりゃ親父さんも本望らろ」

 

 源さんは稲束を掛ける手を止めて 田んぼの向こうの山を指さした。

 

源さん「見な 八海山に笠みてぇな雲がかかったら 次の日は雨らすけな 覚えとけ」

 

先生「今日はかかってないですね」

 

源さん「ああ 当分は晴れらろう」

 

 それから源さんは思い出したように先生の顔を見た。

 

源さん「そういや先生 向こうの子らには ちゃんと言ってきたんか」

 

先生「書き置きしてきました」

 

源さん「書き置きぃ?」

 

先生「大丈夫ですよ みんなしっかりしてますから」

 

源さん「……先生の大丈夫は 昔っから当てになんねぇすけなぁ」

 

 二人で笑った。

 はさ木の上を赤とんぼがすいと横切っていった。

 夜は実家の縁側で 早めに刈ってあった田んぼの新米を炊いておにぎりにして食べた。

 

アロナ「せんせぇ……ここ 圏外ですぅ……」

 

 シッテムの箱の画面の中でアロナが目をこすっていた。

 

アロナ「キヴォトスとの通信が全然つながりません……アロナ 省電力モードに入りますね……おやすみなさい……むにゃ……」

 

先生「うん おやすみアロナ」

 

 モモトークも圏外のままだった。

 先生は画面を閉じて夜空を見上げた。満天の星だった。

 

先生「まあ 書き置きしてきたし 大丈夫だよね」

 

 虫の声がする。乾燥機が低くうなっている。

 

先生「向こうも晴れてるといいな」

 

 二日目になってもくもくもは晴れなかった。

 むしろ育っていた。

 

 その朝 三人は『外』行きのバス停にいた。

 午前四時五十分。誰が言い出したわけでもなかった。気がつくと三人ともここに来ていた。

 ノドカは望遠鏡を抱え コタマはヘッドホンを首にかけ セリナは昨日と同じ紙袋を抱えていた。中の栄養ドリンクは 渡す相手がいないまま二本に増えていた。

 朝靄の向こうからヘッドライトが近づいてくる。

 バスが停まって扉が開いた。柴犬の運転手が新聞から顔を上げる。

 

運転手「乗るかい」

 

 誰も答えなかった。

 ノドカの足が半歩だけ前に出て 止まった。コタマはステップの一段目を見つめたまま動かなかった。セリナは紙袋の持ち手を握りしめていた。

 追いかけたい。

 けれど追いかけた先で もし先生に困った顔をされたら。来ないでほしかったと言われたら。

 先生が自分で選んだ道なら それを邪魔する権利が自分たちにあるのだろうか。

 

運転手「……乗らないのかい」

 

コタマ「……すみません」

 

 扉が閉まった。

 バスは朝靄の中へ消えていった。三人はそのテールランプが見えなくなるまでそこに立っていた。

 

ノドカ「……乗りませんでしたね」

 

コタマ「乗れませんでした」

 

セリナ「……先生が 自分で決めたことですから」

 

 セリナの声は 自分に言い聞かせているように聞こえた。

 

 その日の夕方 クロノスは特別番組を組んだ。

 

マイ『特別番組 先生はなぜキヴォトスを去ったのか!』

 

 スタジオのセットには大きなパネルが据えられていた。

 タイトルは『先生を追いつめた要因ランキング』。その下に小さく独自調査と書いてある。

 

シノン『あの 先輩 このランキングの根拠は』

 

マイ『独自調査です!』

 

シノン『調査した記憶がないんですが』

 

マイ『第五位! 「深夜にまで及ぶ業務依頼」! とある自治区の委員長が 深夜二時に先生へ電話をかけていたという証言が――』

 

 ゲヘナの風紀委員会室でアコがモニターを見上げた。

 ヒナは昨日から巡回に出たまま戻っていない。

 

アコ「……委員長のことです……」

 

マイ『第四位! 「借金問題への巻き込み」!』

 

セリカ「ちょっと! これうちのことじゃない!」

 

 アビドスの教室でセリカが立ち上がった。

 窓際の席のホシノは何も言わなかった。窓の外では今日も砂漠に雨が降っている。

 

マイ『第三位! 「度重なるトラブルと破壊行為」!』

 

ミカ「……あはは 私だ」

 

 トリニティのテラスでミカがつぶやいた。ナギサはもう否定しなかった。黙ってミカの手を握っていた。

 

マイ『第二位! 「経費の締め付け」! とある学園の会計担当が先生の領収書を次々と却下していたという――』

 

ユウカ「なんで知ってるのよぉ……!」

 

 セミナーの執務室にユウカの悲鳴が響いた。

 

マイ『そして栄えある第一位は――!』

 

シノン『先輩 さすがにこれ以上は』

 

マイ『「生徒が多すぎる」!』

 

 キヴォトスが静まり返った。

 

シノン『……それは 全員じゃないですか』

 

マイ『全員です!』

 

シノン『報道ってなんでしたっけ』

 

 その日のうちにくもくもは倍の大きさになった。

 キヴォトスにいる生徒の数だけ 私のせいだという声があった。

 

 その夜 ヒナはシャーレの前にいた。

 巡回の途中だった。少なくとも本人はそのつもりだった。ゲヘナからD.U.まで巡回に来る風紀委員長はいない。

 ずぶ濡れの前髪から雨粒が落ちる。見上げた先生の部屋の窓は暗かった。

 ヒナはモモトークを開いた。

 文字を打つ。消す。また打つ。

 

『先生 頭』

 

 そこまで打って指が止まった。ヒナはそれを全部消した。それから短く打ち直して送信した。

 

『おやすみなさい』

 

 未読のまま。

 ヒナはしばらく画面を見つめていた。それから暗い窓に向かって 雨音に消えるくらいの声で同じ言葉を言った。

 

ヒナ「……おやすみなさい 先生」

 

 屋上の暗がりに誰かがうずくまっている気配がした。

 ヒナは何も言わなかった。今夜ここにいる理由は きっと向こうも同じだった。

 

 三日目の朝には連邦生徒会が記者会見を開いた。

 壇上に立った七神リンの目の下には濃いくまが浮いていた。フラッシュが一斉に焚かれる。

 

マイ「先生の辞任は事実ですか!」

 

リン「連邦生徒会は先生から辞表を受理していません」

 

マイ「受理していない つまり提出はされたということですね!?」

 

リン「そういう意味ではありません」

 

マイ「否定はしないんですね!」

 

リン「……」

 

 翌日のクロノスの見出しは『連邦生徒会 辞表の存在を否定せず』だった。

 会見場の隅でシノンがマイの袖を引いた。

 

シノン「先輩 裏 まだ取れてませんよね」

 

マイ「……」

 

 マイは答えなかった。

 会見のあとリンはシャーレへ向かった。先生がいないあいだ業務を止めるわけにはいかない。それが首席行政官の仕事だった。

 机の上には書類が積み上がっていた。リンはそれを一枚ずつ片付けはじめた。

 陳情書。予算申請。自治区間の調整案。生徒からの相談。どれも先生が少しずつ手をつけていた。そして全部の書類の余白に 先生の字で小さなメモが残されていた。

 

『ここは本人たちの意見を聞いてから』

『この件はハレがすごく頑張ってた』

『急がなくていい ちゃんと話を聞く』

 

リン「……」

 

 リンは時計を見た。日付が変わっていた。

 書類の山はまだ半分も減っていない。先生はこれを毎日こなしていた。そのうえで生徒に呼ばれればどこへでも出かけていった。

 

リン「私は……」

 

 リンはペンを置いて眼鏡を外した。

 レンズが曇っていた。ここ数日はいつもそうだった。

 

リン「先生に 頼りすぎていたのですね」

 

 眼鏡を拭く。かけ直す。

 レンズはまたすぐに曇った。

 

 クロノスは街頭インタビューも流した。

 

ヒフミ『あうぅ……先生とペロロ様の限定グッズを買いに行く約束をしていたんです……私が何度も行列に付き合わせたから……』

 

ハナコ『うふふ……もしかすると 私の冗談が少し過激すぎたのかもしれませんね……うふふ……ふふ……』

 

ミユ『私なんかが先生に助けてもらったから……先生の運を全部吸い取っちゃったんです……』

 

シノン『あの なぜゴミ箱の中からお答えに』

 

ミユ『ここが一番落ち着くので……』

 

イロハ『はぁ……私がサボった分の仕事 全部先生に回してたの さすがにまずかったですかね……』

 

イブキ『イロハ先輩 先生もう遊びに来ないの……?』

 

イロハ『……』

 

フウカ『湿気がひどくて 炊いたご飯が全部おかゆになっちゃうんです……先生 前に私のご飯おいしいって言ってくれたのに……もう食べてもらえないのかな……』

 

カンナ『失踪届は出ていない 事件性もない 公安局が動く理由は何もない……』

 

シノン『局長?』

 

カンナ『……何もないんだ』

 

 そのころには 先生のモモトークに未読のメッセージが山のように積み上がっていた。

 誰に言われたわけでもない。届かないことはわかっていた。それでも送らずにはいられなかった。

 

『先生 領収書 全部通します だから帰ってきてください』

『夜中に電話するのは もうやめる だから』

『先生 私いい子にするから ね☆ ……ほんとだよ』

『うへ おじさん ちゃんと起きて仕事するからさ』

『ん 銀行は襲わない たぶん』

『アリスはレベル九十九になって待っています』

『業務はすべて私が処理しておきます 先生はご心配なく ……ご心配なく』

『あなた様 お帰りをお待ちしております いつまでも いつまでも いつまでも』

『もうヒナ委員長に近づくなとか言いません ですから』

『先生のプリン 食べちゃってごめんなさい』

 

 未読の数字はとうに四桁を超えていた。

 

 三日目の夜のうちに シャーレの前には花束が置かれはじめていた。

 最初に誰が置いたのかはわからない。ひとつが三つになり 三つが十になり 四日目の朝には誰かが写真立てまで持ってきていた。

 

ノドカ「先生 死んでません!」

 

 ノドカが叫んだ。

 隣でコタマとセリナが立ち尽くしている。

 

コタマ「……辞めただけです」

 

セリナ「辞めた だけ……」

 

 口にしてみるとその「だけ」がどうしようもなく重かった。

 見上げるとシャーレの屋上に人影があった。狐の面をつけた生徒が雨の中に正座している。狐坂ワカモだった。あの速報が流れた日からずっとそこにいるらしい。ヴァルキューレが何度か説得に来たが 誰も近づけなかったという。

 

ワカモ「あなた様……わたくしを置いて どちらへ行ってしまわれたのですか……」

 

 雨が面を伝って落ちていく。

 

ワカモ「わたくしがいけなかったのですね……あなた様に愛をお注ぎしすぎて……器があふれてしまったのですね……」

 

 献花台の前にはほかにも生徒たちが集まりはじめていた。

 誰かに呼ばれたわけではない。気がつくと足がここへ向いていた。そういう顔をした生徒ばかりだった。

 分厚いファイルを抱えたユウカがいた。三日三晩巡回を続けてずぶ濡れになったヒナがいて その後ろには傘を差しかけようとして差しかけられずにいるアコがいた。ナギサに付き添われたミカがいた。ホシノとシロコがいた。モモイとミドリに両手を引かれたアリスがいた。入口の前には書類の束を抱えたリンが立っていた。

 

ユウカ「……先生が辞めたのは 私のせいなんです」

 

 最初に口を開いたのはユウカだった。

 誰に向けたのでもない言葉だった。

 

ヒナ「違うわ」

 

 ずぶ濡れのヒナが静かに言った。

 

ヒナ「私のせい」

 

ミカ「えー 違うよ 私のせいだよ☆」

 

ホシノ「みんな待ってよ~ いちばん悪いのはおじさんだからさ」

 

シロコ「ん 私のせい」

 

アリス「アリスのせいです!」

 

アコ「ヒナ委員長のせいではありません! 私のせいです!」

 

リン「いいえ 業務を押しつけたのは連邦生徒会です つまり私の責任です」

 

ワカモ「いいえ! わたくしのせいです!」

 

 屋上からワカモの声が降ってきた。

 一瞬の沈黙のあと ユウカがファイルを開いた。

 

ユウカ「私は先生の領収書を 三百十二枚却下しました」

 

 ヒナがわずかに目を細めた。

 

ヒナ「私は深夜二時に 先生へ四十三回電話をかけたわ」

 

ミカ「私なんて先生の前で色々壊しちゃったし いっぱい迷惑かけたし もう数えきれないよ」

 

ホシノ「おじさんは九億円の借金を先生に見せちゃったからねぇ あれは重かったと思うなぁ」

 

シロコ「銀行を一緒に襲った」

 

リン「私は先生がキヴォトスに来たその日に 業務を押しつけました」

 

アリス「アリスは先生のセーブデータを三回消してしまいました」

 

ワカモ「わたくしは あなた様のお部屋に何度も忍び込みました!」

 

 誰ひとり譲らなかった。

 自分がいちばん悪いのだと全員が本気で言い張っていた。言い張るたびに空がひと回り暗くなる。献花台の花が湿気を吸ってしおれていった。

 

カンナ「……おい 今いくつか事件性のある発言が混ざっていなかったか」

 

 警備に来ていた尾刃カンナのつぶやきは 誰の耳にも届かなかった。

 その輪から少し離れた献花台の陰で三人は身を寄せ合っていた。

 

コタマ「……皆さんのせいではありません」

 

 コタマが小さくつぶやいた。

 

ノドカ「え?」

 

コタマ「あの夜の電話で 先生は事故と言っていました 先生が帰ったのは向こうで何かが起きたからです ここにいる誰かが原因である可能性は低いと考えられます」

 

ノドカ「じゃあ それ言ってあげないと!」

 

 ノドカが腰を浮かせかけて 止まった。

 コタマも動かなかった。セリナも動かなかった。三人とも同じことを考えていた。

 どうやって知ったのかと聞かれる。

 

セリナ「……私たちが黙っているから 皆さんが自分を責めているんですね」

 

コタマ「はい」

 

ノドカ「それって……」

 

コタマ「私たちのせいです」

 

 献花台の向こうでは まだ私のせい選手権が続いていた。

 三人は誰も その輪に入っていけなかった。

 

 その日のクロノスの天気予報は もはや天気予報の体をなしていなかった。

 

シノン『キヴォトス全域 湿度は測定不能です 測定器がすべて壊れました ミレニアムでは全サーバーが結露のため停止 トリニティでは大聖堂の鐘が湿気で鳴らなくなりました アビドス砂漠の緑化率は過去最高を記録しています』

 

 シノンは原稿から顔を上げた。

 

シノン『なおミレニアムの研究者たちは この雲を「感情由来の気象現象」と結論づけました 原因は――』

 

 シノンは一度だけ言いよどんだ。

 

シノン『……キヴォトス中の生徒が いっせいに落ち込んでいることだそうです』

 

 その夜も三人は給水塔の上にいた。

 あの朝から なんとなく毎晩ここに集まるようになっていた。誰が言い出したわけでもない。ほかに行く場所がなかっただけだ。

 ノドカが張ったブルーシートが風に煽られてばたばたと鳴っている。雨はやむ気配がなかった。

 

コタマ「……」

 

 コタマはヘッドホンをつけたまま膝を抱えていた。

 漏れ聞こえてくるのは先生の声だった。おはよう。ありがとう。今日もお疲れさま。ごめんね遅くなって。

 

ノドカ「それ ずっと聞いてるんですか」

 

コタマ「先生の声は 四千二百時間分あります」

 

ノドカ「よんせん……」

 

コタマ「一日八時間聞いても 一年半で終わってしまいます」

 

 コタマは少しだけヘッドホンを押さえる手に力をこめた。

 

コタマ「一生分には 足りません」

 

ノドカ「……」

 

コタマ「合成音声も作ってあります 録音した先生の声を学習させたものです 先生が一度も言ったことのない言葉でも 言わせることができます」

 

 コタマが端末を操作すると ヘッドホンから漏れてくる声が変わった。

 穏やかな声だった。

 

合成音声『大丈夫だよ コタマ すぐ帰るから』

 

 ノドカが息をのんだ。本物とまったく区別のつかない声だった。

 

コタマ「……でも」

 

 コタマは再生を止めた。

 

コタマ「言わせた言葉は 一度も嬉しくありませんでした」

 

 ノドカは何か言いかけて やめた。

 コタマはヘッドホンを外すと端末を操作した。画面にあの夜の波形が表示される。

 

コタマ「三日かけてノイズを除去しました 電話の向こうの声が ほんの少しだけ拾えています」

 

セリナ「先生の……話していた相手の?」

 

コタマ「はい 再生します」

 

 ざらざらとした雑音の奥で誰かの声が揺れていた。

 年配の女性の声のようだった。言葉はほとんど聞き取れない。ただ一か所だけ はっきりと浮かび上がる音があった。

 

『……うおぬま……』

 

ノドカ「うおぬま……? 魚の 沼……?」

 

コタマ「キヴォトスの地図を全部照合しました 該当する地名はありません」

 

セリナ「それじゃあ……」

 

コタマ「外の地名です」

 

 ブルーシートがひときわ大きく鳴った。

 

コタマ「先生の帰る場所は 最初から外にあったんですね」

 

 しばらく誰も口をきかなかった。

 ノドカは望遠鏡を覗いていた。レンズの先にあるのは二キロ向こうのシャーレだ。窓はどれも暗い。

 

ノドカ「……今日も 明かりついてませんね」

 

セリナ「ノドカさん……」

 

ノドカ「毎晩ここから見てたんです 先生の部屋の明かりが消えるまで 先生 いっつも遅くまで起きてて 消えたと思ったらまたついて また消えて」

 

 ノドカの声がだんだん小さくなっていく。

 

ノドカ「あの明かりが好きだったんです 明かりのついてないシャーレは ただの建物です」

 

 ノドカはレンズから目を離さなかった。

 離したら泣いてしまうことを たぶん本人がいちばんよくわかっていた。

 

ノドカ「私 自分から先生に会いに行ったこと 一回もないんです ずっと見てただけで だから……先生にとって私なんて たまに会う生徒のひとりでしかないんです」

 

コタマ「私もです」

 

 コタマが言った。

 

コタマ「先生の声を誰よりも聞いていました なのに先生が何を考えていたのか 何ひとつわかっていませんでした」

 

ノドカ「私も……いちばん見てたのに 先生が泣いてるとこなんて あの朝初めて見ました」

 

 二人の視線がなんとなくセリナに向いた。

 セリナは膝の上で両手を握りしめていた。その手の甲に雨粒がいくつも落ちていた。

 

セリナ「……私 今まで先生がどこにいても 行けたんです」

 

コタマ「……」

 

セリナ「先生が怪我をしたら すぐにわかって 気がついたらそばにいて 手当てをして 怒って また無茶をしたんですねって言って……それが 私のいちばん得意なことでした」

 

 セリナは顔を上げなかった。

 

セリナ「でも今は行けないんです 先生がどこにいるのかわからないんです 先生が……怪我をしていないから」

 

 声が震えた。

 

セリナ「私は 先生が怪我をしたときにしか 先生のそばに行けないんですね」

 

ノドカ「セリナさん……」

 

セリナ「救護騎士団としては 先生が怪我をしていないことを喜ぶべきなのに……喜ばなきゃいけないのに……どうして……っ」

 

 セリナは両手で顔を覆った。

 ノドカがその背中におそるおそる手を置いた。コタマは黙ってセリナの隣に座り直した。三人の肩がかすかに触れ合った。

 

ノドカ「……外行きのバス 明日の朝も五時に来ます」

 

コタマ「また見送りますか」

 

セリナ「……先生が自分で決めたことなら」

 

 セリナは顔を覆ったまま言った。

 

セリナ「私たちが追いかけたら 先生を困らせてしまうかもしれません」

 

コタマ「……合理的な判断です」

 

ノドカ「……ですよね」

 

 誰も納得していなかった。

 それでも誰も 動けなかった。

 三人の頭の上でくもくもが低く鳴った。

 

 四日目の昼下がり 先生は市内の病院にいた。

 四人部屋の窓際のベッドで父が右足を吊られている。その横の丸椅子では 左手首にギプスを巻いた母が見舞いのりんごを右手一本で器用にむいていた。

 

母「あんた ずいぶん日焼けしたねぇ」

 

先生「毎日コンバインに乗ってるからね」

 

母「田んぼはどうだい」

 

先生「あと二枚 週末までには終わると思う」

 

父「……」

 

 父は窓の外を見ていた。昔から口数の少ない人だった。

 

母「それで 向こうの子たちにはちゃんと言ってきたんかね」

 

先生「書き置きしてきたよ」

 

母「書き置きだけ?」

 

先生「大丈夫だって 裏にちゃんと書いておいたから」

 

 りんごをむく母の手が止まった。

 

母「……裏ぁ?」

 

先生「うん 裏」

 

母「あんた……小学二年のときのこと忘れたんかね」

 

先生「え?」

 

母「連絡帳の裏に『あしたはおばあちゃんちに行くので休みます』って書いてさ 表には何にも書かないで 誰も気づかなくて 次の日学校中で大騒ぎになったねっか 担任の先生が泣きながらうちまで来て 校長先生まで田んぼの中を探し回って」

 

先生「……あったね そんなこと」

 

母「あったねじゃないよ 人間ってのはそう簡単に変わんないもんだねぇ」

 

 母は呆れたように笑ってりんごの最後のひと皮をむき終えた。

 先生も笑った。さすがに今回は大丈夫だろう。向こうの子たちはしっかりしているし ちゃんと裏も見てくれるはずだ。

 先生はそう信じていた。

 信じていたので それ以上は考えなかった。

 

母「でもまあ あんたが帰ってきてから毎日晴れてるねぇ 晴れ男だわ」

 

先生「向こうも晴れてるといいんだけど」

 

母「向こうの子たちの話してよ あんた電話じゃ仕事の話しかしないんだから」

 

先生「話って言っても……」

 

 先生は少し考えてから窓の外に目をやった。八海山がよく見えた。

 

先生「お金の計算がすごく得意な子がいてね 私が無駄遣いするとものすごく怒るんだ 領収書もほとんど突き返されちゃう」

 

母「あらまぁ しっかりした子だねぇ」

 

先生「うん でもその子が怒ってくれるから 私はなんとかやれてるんだと思う 自分で払うって決めたのは私だしね あの子が見ててくれなかったら 今ごろもっとひどいことになってたよ」

 

 先生は指を折った。

 

先生「夜遅くまで頑張りすぎちゃう委員長もいる 一回だけ頭を撫でてほしいって言われてね ちょっと嬉しかったな ああいうことをなかなか言えない子だから」

 

母「ふうん」

 

先生「すぐに自分のせいにしちゃう子もいる ほんとはすごく優しいのに 自分のことをいちばん信じてあげられてないんだよね 借金だらけの学校を守ってる子たちもいるし 徹夜でゲームに付き合わされたりもするし……あ それと」

 

 先生は少しだけ照れくさそうに笑った。

 

先生「毎朝誰かが 部屋の前に栄養ドリンクを置いていってくれるんだ 名前も書いてなくて 誰なのかずっとわからないんだけど あれのおかげで朝起きられてるようなもんだよ」

 

母「……あんた」

 

先生「ん?」

 

母「その子たちのこと ほんとに好きなんだねぇ」

 

先生「うん」

 

 先生は迷わずにうなずいた。

 

先生「自慢の生徒たちだよ」

 

 そのとき病室のテレビが天気予報に切り替わった。

 

アナウンサー『――新潟県内は週末にかけて天気が崩れる見込みです 中越地方では土曜日の朝から雨となり……』

 

 ずっと黙っていた父が初めてこちらを向いた。

 

父「雨の前に刈り終われ コシは倒れやすいすけ」

 

先生「わかってる 明日と明後日で残りの二枚を刈るよ」

 

父「源さんに頼れ」

 

先生「源さんだって自分のとこで手いっぱいだよ 大丈夫 ひとりでできるから」

 

父「……それが大丈夫じゃねぇって言ってんだ」

 

 父の声は低かった。怒っているようにも聞こえた。

 

父「おめぇは昔っから なんでもひとりで抱え込む 全部ひとりでやろうとすんな」

 

先生「……」

 

父「人に頼るのも仕事のうちらぞ」

 

先生「……うん」

 

 先生はうなずいた。

 うなずいたけれど その言葉の本当の重さを知るのは次の朝のことだった。

 

 五日目の朝はひどく冷え込んだ。

 残り二枚のうち手前の田んぼには朝霧が低く垂れこめていた。コンバインで刈る前に田んぼの四隅だけは鎌で手刈りしておかなければならない。機械が向きを変えるための場所を作るのだ。

 朝露が乾くまでコンバインは入れない。だからその前に隅刈りを済ませておく。先生は夜明け前から一人で鎌を握っていた。

 

先生「よっ……と」

 

 稲の束をつかんで根元に鎌を当てる。ざくりと手応えがある。刈った束を畦に並べる。また次の束をつかむ。

 この四日間ほとんど眠っていなかった。夜は乾燥機の番をして 昼は田んぼと病院のあいだを行ったり来たりしていた。それでも手は止めなかった。あと少しだ。あと少しで終わる。

 

先生「……これで三つ目」

 

 四つ目の隅に移ろうと一歩踏み出したときだった。

 ぬかるみに長靴が取られた。

 体が傾く。とっさに稲をつかもうと伸ばした左手に 右手の鎌の刃が当たった。

 

先生「っ――」

 

 鋭い痛みが走った。

 左の手のひらに赤い線が一本走っている。じわりと血がにじみ出して指のあいだからこぼれた。金色の穂の上に赤い点がぽつぽつと落ちる。

 

先生「いっ……たぁ……」

 

 深くはない。けれど浅くもない。

 先生は首にかけていた手ぬぐいを外して手のひらにきつく巻きつけた。白い布がみるみる赤く染まっていく。

 

先生「……やっちゃったな」

 

 しゃがみ込んだまま先生は息を吐いた。

 父の声が耳の奥でよみがえる。全部ひとりでやろうとすんな。

 

先生「……これくらいなら まだ」

 

 そう言って先生は立ち上がろうとした。

 

 同じ瞬間。

 D.U.の二十四時間営業のカフェで セリナはココアのカップを両手で包んでいた。

 向かいの席ではコタマとノドカがテーブルに突っ伏している。三人とも一睡もしていなかった。窓の外は今日も雨だった。

 

セリナ「――あ」

 

 カップがテーブルに落ちた。

 ココアが広がっていく。セリナは気にも留めずに立ち上がった。目を見開いて どこか遠くを見ている。

 

ノドカ「セリナさん……?」

 

セリナ「先生が」

 

コタマ「……」

 

セリナ「先生が 怪我をしました」

 

 コタマとノドカが同時に顔を上げた。

 

ノドカ「ど どこで!?」

 

セリナ「南魚沼です」

 

コタマ「みなみ……?」

 

 セリナの頬を涙が伝っていた。

 けれどその唇はかすかに笑っていた。

 

セリナ「よかった……っ」

 

ノドカ「えっ」

 

セリナ「いえ よくないです 全然よくないです 先生が怪我をしたのに よかったなんて救護騎士団として絶対に言っちゃいけません でも――」

 

 セリナは胸の前でぎゅっと両手を握った。

 

セリナ「やっと 先生のところに行けます」

 

 次の瞬間 セリナの姿は消えていた。

 椅子がゆらゆらと揺れている。こぼれたココアからまだ湯気が立ちのぼっていた。

 

ノドカ「き……消え……」

 

コタマ「みなみうおぬま」

 

 コタマは端末を取り出してあの夜の波形を呼び出した。

 

コタマ「うおぬま……一致しました」

 

ノドカ「外の地名……!」

 

コタマ「先生は南魚沼という場所にいます そしてセリナさんは今 そこへ向かいました」

 

 コタマは立ち上がった。ノドカも立ち上がった。

 二人は顔を見合わせた。

 

ノドカ「……これ 抜け駆けですよね」

 

コタマ「抜け駆けです」

 

 南魚沼の田んぼに風が吹いた。

 朝霧がふっと揺れてほどけていく。

 

セリナ「ケガをされた方は……」

 

 声がした。

 先生が顔を上げると畦道の上に少女が一人立っていた。白い救護騎士団の制服。腕章。頭の上でぼんやりと光る光輪。

 足音はしなかった。バスの音も車の音も何ひとつしなかった。ただ 気がついたらそこにいた。

 

セリナ「……いらっしゃいますね」

 

先生「セ……セリナ!?」

 

 先生は赤く染まった手ぬぐいを押さえたまま固まった。

 ちょうどそこへ畦道の向こうから軽トラが一台走ってきた。運転席から源さんが身を乗り出す。

 

源さん「おーい先生 朝飯持ってきたぞ……って」

 

 源さんの目がセリナの頭の上で止まった。

 

源さん「……どっから湧いて出た?」

 

 セリナは答えなかった。

 答えるより先に畦道を駆け下りていた。ぬかるみに膝をつく。白い制服が泥で汚れるのも構わなかった。

 

セリナ「手を見せてください」

 

先生「あ うん……」

 

 セリナは先生の左手を両手で受け取ると手ぬぐいを慎重にほどいた。

 傷口があらわになる。セリナの目がすっと細くなった。

 

セリナ「長さ三センチ 深さは……腱までは届いていません 指を一本ずつ動かしてください」

 

先生「こう?」

 

セリナ「はい しびれはありますか」

 

先生「ない……と思う」

 

セリナ「縫うほどではありません でも土の中で切っていますから このままにはできません」

 

 腰のポーチから次々と道具が出てくる。洗浄用の生理食塩水。消毒液。滅菌ガーゼ。傷口を寄せるためのテープ。包帯。

 セリナの手つきに迷いはなかった。傷口を洗い流し 消毒し テープで丁寧に寄せていく。

 

先生「っ……しみる……」

 

セリナ「我慢してください」

 

先生「はい……」

 

 ガーゼを当てて包帯を巻く。きつすぎず ゆるすぎず。最後に端を留めたところでセリナの手がふっと止まった。

 そのままセリナは包帯の上からそっと先生の手を包んだ。

 

セリナ「痛いの痛いの……飛んでいけ……」

 

 小さな声だった。

 その声の終わりのほうでセリナの手が震えはじめた。治療のあいだは少しも震えなかった手だった。

 

セリナ「どうして……」

 

先生「セリナ?」

 

セリナ「どうして黙って いなくなったんですか……っ」

 

 ぽたりと包帯の上に雫が落ちた。

 

先生「え 黙ってって……書き置き 置いてきたよね?」

 

セリナ「書き置きなんて……!」

 

 セリナは何か言いかけて唇を噛んだ。

 先生は困ったように眉を下げた。それから無事な右手でセリナの頭にそっと触れた。

 

先生「ごめんね びっくりさせたね」

 

セリナ「……」

 

先生「実はね 実家の両親が事故にあったんだ 命に別状はないんだけど 二人とも入院しちゃって稲刈りができなくなってね 一週間だけ手伝いに帰ってきてたんだよ」

 

セリナ「……一週間」

 

先生「うん 一週間」

 

セリナ「辞めたんじゃ……」

 

先生「辞める? 何を?」

 

 セリナは顔を上げた。

 先生はきょとんとしていた。本当に何のことだかわからないという顔だった。

 

セリナ「……先生を」

 

先生「え 辞めないよ?」

 

 あっけないくらい普通の声だった。

 セリナの体から力が抜けた。泥の上にぺたんと座り込む。

 

セリナ「……よかった……」

 

 カフェで口にしたのとは違う よかっただった。

 セリナは泣きながら笑っていた。笑いながら泣いていた。どちらなのか本人にもわからなかった。

 

源さん「なんだかよくわからんが……先生の知り合いかね」

 

先生「あ はい 向こうの学校の生徒で……セリナ どうやってここに?」

 

セリナ「先生が怪我をしたので」

 

先生「……そっか」

 

源さん「そっかで済むんかい」

 

先生「済むんです この子の場合は」

 

源さん「最近の看護婦さんはすげえなぁ」

 

 源さんが持ってきてくれたおにぎりを三人で畦に並んで食べた。

 朝霧はすっかり晴れていた。金色の田んぼの向こうに八海山がそびえている。キヴォトスの灰色の空とは何もかもが違っていた。

 

先生「キヴォトスのみんなは元気にしてる? 書き置き見て びっくりしてなかったかな」

 

 セリナの手が止まった。

 いくつもの光景が頭の中に浮かんだ。雨のシャーレ。並べられた花束。屋上のワカモ。ヘッドホンを抱えて膝を丸めるコタマ。暗いシャーレに望遠鏡を向け続けるノドカ。私のせいだと言い続けるキヴォトス中の生徒たち。

 言わなければいけない。

 セリナは先生の顔を見た。

 目の下に濃いくまがある。頬が少しこけている。包帯を巻いたばかりの左手。たぶんこの数日ほとんど眠っていない。

 本当のことを言えば先生は今すぐキヴォトスへ戻ろうとするだろう。この手で。眠らないまま。それとも稲刈りを先に終わらせようとしてもっと無理をするだろうか。どちらにしても先生は休まない。

 だから言わないほうがいい。

 救護騎士団としての判断です とセリナは自分に言い聞かせた。

 それは嘘ではなかった。

 けれど全部でもなかった。

 胸の奥のもっと小さなところで 別の声がささやいていた。

 ――ここには 私しかいない。

 

セリナ「……はい」

 

 セリナは笑った。

 

セリナ「皆さん お元気です」

 

 セリナが先生についた 初めての嘘だった。

 

先生「そっか よかった」

 

 先生がほっとしたように笑う。

 その笑顔がセリナの胸のいちばん痛いところに刺さった。

 

 そこからのセリナはてきぱきと動いた。

 

セリナ「先生 今日はまず病院に行きましょう」

 

先生「え でも稲刈りが」

 

セリナ「土の中で刃物の傷を負ったときは 破傷風の予防接種が必要です」

 

先生「でも」

 

セリナ「必要です」

 

先生「……はい」

 

セリナ「それと ご両親のお怪我も診せていただけますか」

 

先生「セリナが?」

 

セリナ「救護騎士団ですから」

 

 病院の四人部屋でセリナを見た母は目を丸くした。

 

母「あらまぁ かわいい看護師さんだこと」

 

セリナ「は はじめまして トリニティ総合学園救護騎士団の 鷲見セリナと申します」

 

母「とりにてぃ……? まあまあ 遠いとこからよう来たねぇ」

 

 母はセリナと先生の顔を見比べて にんまりと笑った。

 

母「で あんたの彼女かね?」

 

先生「生徒だよ!」

 

セリナ「か かのじょ……!? い いえ 私は先生の……その……専属の……」

 

母「専属!?」

 

先生「セリナ それも違うよね!?」

 

 それからセリナは二人の怪我を順番に診た。

 父のギプスの縁に指を当てて腫れを確かめ 母の手首の固定具の締め具合を見る。病棟の看護師にいくつか質問をしてメモを取る。その手つきに迷いはなかった。

 

セリナ「固定もきれいですし 腫れも引いてきています お二人とも順調に回復されていますよ」

 

母「あらまぁ ほんとの看護師さんみたいだねぇ」

 

セリナ「救護騎士団ですから」

 

 先生が破傷風の注射のために病室を出ていくと 母はセリナを手招きした。

 

母「ねえ あの子なんでもひとりで抱え込むすけね よろしく頼むよ」

 

セリナ「……はい」

 

母「そういやね この前あの子言ってたよ 毎朝名前も書かずに部屋の前に栄養ドリンクを置いていってくれる子がいるって」

 

 セリナの肩がびくりと跳ねた。

 

母「あれのおかげで朝起きられてるんだって そりゃあもう嬉しそうにねぇ」

 

セリナ「……そう なんですか」

 

 声がうわずった。顔が熱くなっていくのが自分でもわかった。

 母はしばらくセリナの真っ赤な耳を眺めていた。

 

母「……ふうん あんたかい」

 

セリナ「……っ!」

 

母「大丈夫 言わないよ」

 

 母はころころと笑った。

 窓際のベッドで父が低くつぶやいた。

 

父「……世話んなるな」

 

セリナ「い いえ!」

 

父「あいつはひとりで全部やろうとするすけ 見張っといてくれ」

 

セリナ「見張るのは得意です」

 

父「……そうか」

 

 昼過ぎに田んぼへ戻ると源さんがコンバインを用意して待っていた。

 

源さん「先生が怪我したって聞いて黙ってらんねぇよ うちのは昨日で終わったすけ 今日は手伝う」

 

先生「源さん……でも」

 

 言いかけて先生は口を閉じた。

 父の声を思い出していた。人に頼るのも仕事のうちらぞ。

 

先生「……ありがとうございます お願いします」

 

源さん「おう」

 

 残っていた四つ目の隅はセリナが刈った。

 先生から借りた鎌を握って 慎重に けれど驚くほど手際よく稲の根元に刃を入れていく。

 

先生「上手だね」

 

セリナ「救護騎士団では 包帯を切るのも邪魔な枝を払うのも得意なんです」

 

源さん「たまげた あの子 米袋ひょいひょい担いでるぞ」

 

先生「キヴォトスの子たちは力持ちなんです」

 

 母が貸してくれたもんぺと手ぬぐい姿のセリナは すっかり田んぼに馴染んでいた。

 コンバインが唸る。籾がタンクに溜まっていく。先生は片手で軽トラの荷台を整え セリナはその横で籾の袋を運んだ。

 昼のおにぎりはセリナが食べさせた。

 

セリナ「先生 あーんしてください」

 

先生「いや 右手は使えるから」

 

セリナ「右手も鎌でお疲れですから」

 

先生「そういう理屈……?」

 

セリナ「あーん」

 

先生「……あーん」

 

源さん「いやぁ先生 ええ嫁さんもらったなぁ」

 

セリナ「よ よめ……!?」

 

先生「源さん! 生徒ですから!」

 

 セリナは自分のおにぎりをひと口かじって目を見開いた。

 

セリナ「……おいしい」

 

先生「でしょ」

 

セリナ「これが先生のお米なんですね 先生が夜中にいつもレンジで温めている 冷凍おにぎりの」

 

先生「……なんで知ってるの?」

 

セリナ「……な なんとなくです」

 

 夕方には手前の田んぼを刈り終えた。

 残りは奥の一枚だけになった。

 

源さん「明日は朝から降るって話だすけ 朝露なんか待ってらんねぇな 夜明けと同時に刈るぞ」

 

先生「はい」

 

 その夜セリナは先生の実家に泊まった。

 電話で母に許しをもらうと 空いてる部屋使いな 布団は押し入れ とあっさり言われた。

 家の中が静かになってからセリナはひとりで縁側に出た。

 星がすごかった。キヴォトスでも見たことがないくらいの星空だった。

 

セリナ「……ここは 晴れていますね」

 

 ポーチから折りたたんだ便箋を取り出す。

 あの朝シャーレで握りしめたまま ずっと持ち歩いていたものだった。くしゃくしゃのそれを膝の上に置いて セリナは表の文字だけを指でなぞった。

 お世話になりました。

 この一文のせいでキヴォトス中が泣いている。今この瞬間も。

 

セリナ「明日には……ちゃんと言います……」

 

先生「眠れない?」

 

 振り向くと先生が湯のみを二つ載せたお盆を持って立っていた。片手で器用に支えている。

 セリナは慌てて便箋をポーチに押し込んだ。

 

セリナ「せ 先生こそ寝てください」

 

先生「うん これ飲んだらね」

 

 先生はセリナの隣に腰を下ろした。

 湯のみから白い湯気が立ちのぼる。遠くで乾燥機が低くうなっていた。

 

先生「今日はほんとにありがとう セリナが来てくれなかったら 今日のぶんは終わらなかったよ」

 

セリナ「……いえ」

 

先生「父さんにね 人に頼るのも仕事のうちだって言われたんだ 昨日は正直よくわかってなかったんだけど 今日でちょっとだけわかった気がする」

 

セリナ「先生……」

 

先生「ん?」

 

セリナ「……あの」

 

 言うなら今だった。

 セリナは膝の上で両手を握りしめた。

 

先生「キヴォトスに帰ったら みんなに新米を配らないとね ちゃんとお礼も言わなきゃ」

 

セリナ「……」

 

先生「楽しみだなぁ」

 

 セリナは何も言えなかった。

 先生はしばらく星を眺めてから おやすみと言って部屋に戻っていった。

 縁側にひとり残されたセリナは 夜空に向かって小さく小さくつぶやいた。

 

セリナ「あと一日だけ……」

 

 その声は誰にも届かなかった。

 

セリナ「あと一日だけ 先生を……私だけの患者さんでいさせてください」

 

 星がまたたいた。

 その夜の南魚沼には雲ひとつなかった。明日の朝に雨が降るとはとても思えない空だった。

 

 その日の夕方 キヴォトスではクロノスがまた速報を流していた。

 

マイ『続報です! トリニティ救護騎士団の生徒が D.U.のカフェから忽然と姿を消しました! 先生の後を追ったのでしょうか!』

 

シノン『……目撃者の証言によると 消える直前に「よかった」と言っていたそうです』

 

マイ『よかった!? いったい何がよかったのでしょう! キヴォトスに新たな謎が――』

 

 くもくもがまたひと回り大きくなった。

 

 同じ夜 トリニティの救護騎士団の詰め所では蒼森ミネが窓の外の雨を見つめていた。

 セリナがカフェから消えたという報告は朝のうちに届いていた。

 

ミネ「……セリナが救護に向かいましたね」

 

 団員たちがざわめく。

 

ミネ「救護を必要とする方がいるのなら セリナはどこへでも行きます 当然のことです」

 

 ミネは腕を組んだ。

 

ミネ「……ですが 私も行きたかったです」

 

 ミネの横顔は少しだけすねていた。

 

 そしてD.U.外郭地区の終点のさらに先 『外』行きのバス停では コタマとノドカが雨の中で夜を明かしていた。

 ノドカの寝袋に二人で並んでもぐりこみ ブルーシートを頭からかぶっている。

 

ノドカ「……コタマさん 起きてます?」

 

コタマ「起きています」

 

ノドカ「セリナさん 今ごろ先生と一緒なんですよね」

 

コタマ「おそらく」

 

ノドカ「……ずるいです」

 

コタマ「ずるいです」

 

 午前五時ちょうど。

 朝靄の向こうからヘッドライトが近づいてきた。帽子をかぶった柴犬の運転手が窓から顔を出す。

 

運転手「おや こないだの嬢ちゃんたちか 今日は乗るのかい」

 

ノドカ「の 乗ります!」

 

運転手「外まで片道三時間だよ 運賃はひとり二千四百円ね」

 

 ノドカは財布を開けた。

 中には百円玉が三枚と レッドウィンターの購買部の割引券が一枚入っていた。

 

ノドカ「……」

 

コタマ「二人分払います」

 

ノドカ「いいんですか!?」

 

コタマ「ヴェリタスの経費で落とします……いえ セミナーに却下されそうなので 自腹にします」

 

ノドカ「コタマさん……!」

 

運転手「そういや こないだも先生を乗せたなぁ」

 

ノドカ「えっ! な 何か言ってませんでしたか!?」

 

運転手「いやぁ わしゃ新聞読んでたからなぁ」

 

ノドカ「読まないでくださいよぉ……」

 

 バスは二人を乗せて走り出した。

 キヴォトスの街並みが後ろへ流れていく。ビルが減り 道が細くなり やがて景色そのものがぼんやりと白くかすんでいった。

 ノドカは座席に膝立ちになって後ろの窓から望遠鏡を覗いた。

 

ノドカ「……コタマさん」

 

コタマ「はい」

 

ノドカ「雲が ついてきてます」

 

 コタマはヘッドホンを片耳だけ外して目を閉じた。

 ゴロゴロと低い音がする。それはバスのエンジン音よりずっと近くで鳴っていた。

 

コタマ「雷鳴も近づいています」

 

ノドカ「なんでついてくるんですかぁ……」

 

コタマ「私たちの気持ちが重いからではないでしょうか」

 

ノドカ「否定できないです……」

 

 同じころ南魚沼では 夜明けとともに最後の一枚の刈り取りが始まろうとしていた。

 セリナは四時に起きて台所で新米のおにぎりを握った。母のエプロンを借りて 見よう見まねで塩をまぶす。炊きたての米が手のひらに熱い。形はいびつだったけれど ひとつ握るたびに少しずつ上手になっていった。

 

セリナ「……今日こそ言います」

 

 握りながら何度も口の中で繰り返した。

 今日こそ言う。朝のうちに言う。先生が田んぼに出る前に言う。

 けれど縁側で長靴を履いていた先生は セリナの顔を見るなり嬉しそうに笑った。

 

先生「おはようセリナ 今日で終わるね」

 

セリナ「……はい」

 

先生「終わったら キヴォトスに帰る準備しないとね お土産の米袋 何袋いるかなぁ」

 

セリナ「……」

 

 言えなかった。

 休憩のときに言おう。セリナはそう決めて おにぎりの包みを胸に抱えた。

 それが二度目の先延ばしだということには 気づかないふりをした。

 

 午前八時。

 バスは田んぼの真ん中にある錆びたバス停で停まった。二人を降ろすとバスはすぐにまた走り去っていった。

 見渡すかぎり金色だった。

 刈り取りの終わった田んぼと まだ穂を垂れている田んぼが どこまでも縞模様のように続いている。その向こうに大きな山がそびえていた。風が吹くたびに稲穂がさらさらと鳴った。

 

ノドカ「……外って こんなに広いんですね」

 

コタマ「音が違います」

 

 コタマはヘッドホンを首まで下ろして目を閉じた。

 

コタマ「虫の声 風の音 遠くで低いエンジン音……聞いたことのない機械です」

 

 見上げると二人の頭の上にはくもくもの切れ端がまだしつこく浮かんでいた。バスを追いかけてきた雲は 山の肩のあたりで少しずつ膨らみはじめている。

 

ノドカ「先生……どこにいるんでしょう」

 

コタマ「ノドカさんの出番です」

 

ノドカ「任せてください!」

 

 ノドカはバス停のベンチの上に三脚を立てた。望遠鏡を覗きこみ 田んぼの海をなめるようにゆっくりとレンズを回していく。

 

ノドカ「私の目から 逃れることはできません……!」

 

 レンズが止まった。

 

ノドカ「……いました!」

 

コタマ「どこですか」

 

ノドカ「二キロ先! いちばん奥の田んぼの畦道です! 先生と あと知らないおじいさんと……」

 

 ノドカの声が途切れた。

 

ノドカ「……セリナさんが」

 

コタマ「セリナさんが?」

 

ノドカ「もんぺ姿で……先生に……あーんって……おにぎりを……」

 

 コタマは無言でヘッドホンを装着した。

 鞄から小型のパラボラ集音器を取り出して ノドカが示した方角へ向ける。

 

先生『セリナ これでもう三個目だよ』

 

セリナ『先生は栄養が足りていません あーん』

 

先生『……あーん』

 

源さん『いやぁ ええ嫁さんらなぁ』

 

セリナ『よ よめ……っ』

 

ノドカ「なに言ってるんですか!? なに言ってるんですか!?」

 

コタマ「静かに」

 

先生『それにしても キヴォトスのみんなにも食べさせたいな この米』

 

セリナ『……キヴォトスの皆さんはお元気ですから 心配いりませんよ』

 

コタマ「……嘘です」

 

ノドカ「え?」

 

コタマ「今の一言だけ 声の基本周波数が揺れました 二ヘルツほど」

 

ノドカ「にへるつ……」

 

コタマ「セリナさんは 嘘をつくのが下手です」

 

ノドカ「っていうか……それ 先生に何も言ってないってことですか!?」

 

コタマ「そういうことになります」

 

ノドカ「抜け駆けどころじゃないじゃないですかぁ!!」

 

 二人は走り出した。

 畦道を駆け 用水路を飛び越え 刈り取りの終わった田んぼを突っ切っていく。望遠鏡ががちゃがちゃと鳴り ヘッドホンのコードが風に跳ねた。

 

 先生は最初 二人が誰なのかわからなかった。

 泥だらけの人影が二つ 金色の田んぼの向こうから猛然と迫ってくる。頭の上に光輪が二つ。

 

先生「……コタマ? ノドカ?」

 

セリナ「え……」

 

 セリナの手からおにぎりが落ちた。

 畦の手前で急停止したノドカが びしっとセリナを指さした。

 

ノドカ「見てましたよセリナさん!」

 

セリナ「ノ ノドカさん……」

 

ノドカ「全部見てました! あーんも! もんぺも! ええ嫁さんも!」

 

コタマ「全部聞いていました」

 

先生「え どこから?」

 

ノドカ「二キロ先からです!」

 

先生「二キロ……」

 

セリナ「こ これは治療の一環です! 先生は今左手を怪我しているんです だから先生は私の患者さんです 患者さんのお世話をするのは担当の救護騎士団員の仕事です」

 

コタマ「担当を決めた記録はありません」

 

セリナ「私が今決めました」

 

ノドカ「ずるいです!!」

 

 セリナはさっと先生の前に立って両手を広げた。

 先生を二人から隠そうとしているみたいだった。

 

セリナ「先生のお世話は 私がします」

 

コタマ「お言葉ですが」

 

 コタマが一歩前に出た。

 表情は変わらない。けれど声がいつもより半音高かった。

 

コタマ「先生のことをいちばん知っているのは私です 先生の声は四千二百時間分録音してあります くしゃみをする前の息の吸い方まで知っています」

 

ノドカ「私だって!」

 

 ノドカも一歩前に出た。

 

ノドカ「先生が毎朝七時十二分にあくびすることも! 寝癖が右側にだけつくことも! 書類に詰まるとペンを鼻と口のあいだに挟むことも! 全部知ってます!」

 

セリナ「私は 先生の血圧と脈拍と睡眠時間と 体重の推移を知っています」

 

先生「待って待って待って」

 

 先生は両手を上げた。包帯を巻いた左手も一緒に上がった。

 

先生「三人とも 今さらっとすごいこと言ったよね?」

 

 三人がぴたりと口を閉じた。

 

先生「四千二百時間って何? 七時十二分って何? 体重の推移って何!?」

 

コタマ「……」

 

ノドカ「……」

 

セリナ「……」

 

源さん「先生 モテるなぁ」

 

先生「源さん 今そういうのじゃないです!」

 

 コンバインの運転席で源さんは腹を抱えて笑っていた。

 

セリナ「と とにかく 先生は今日一日 私が責任を持って看護します」

 

ノドカ「じゃあ私は 責任を持って観察します!」

 

コタマ「では私は 責任を持って傍受します」

 

先生「全部いらないかな!?」

 

コタマ「……先生」

 

 最初にいつもの顔に戻ったのはコタマだった。

 

コタマ「その件はのちほど正式にお詫びします それより 先生にお伝えしなければならないことがあります」

 

先生「……うん」

 

コタマ「キヴォトスでは 先生は辞めたことになっています」

 

 風が止まった。

 

先生「……え?」

 

ノドカ「クロノスが速報を出したんです! 先生の書き置きを映して 先生が辞任したって! それからキヴォトス中ずっと雨で 砂漠に苔が生えて ミレニアムのサーバーが止まって シャーレの前にお花とか写真立てとかが並んでて!」

 

先生「お花!? 写真立て!? 私生きてるよ!?」

 

コタマ「皆さん 先生が辞めたのは自分のせいだと言っています」

 

先生「……みんなって」

 

コタマ「全員です」

 

 先生の顔からすっと血の気が引いた。

 ゆっくりと振り返る。その視線の先にいたのはセリナだった。

 

先生「セリナ……みんな元気だって……」

 

 セリナはうつむいていた。

 もんぺの膝のあたりを両手でぎゅっと握りしめている。泥のついた指先が白くなっていた。

 

セリナ「……ごめんなさい」

 

 かすれた声だった。

 

セリナ「知っていました 全部知っていて 言いませんでした」

 

先生「……」

 

セリナ「本当のことを言ったら 先生はきっと無理をすると思いました 怪我をしたまま眠らないままキヴォトスに戻ろうとするか 稲刈りを急いでもっと無理をするか……それは本当です 救護騎士団として 本当にそう思いました」

 

 セリナは顔を上げなかった。

 

セリナ「でも……それだけじゃありませんでした」

 

ノドカ「セリナさん……」

 

セリナ「ここには私しかいなくて 先生が私だけを見てくれていて 私だけを頼ってくれて……それが 嬉しくて」

 

 ぽたりと涙が落ちた。

 

セリナ「あと一日だけ あと一日だけって……そのあいだもキヴォトスの皆さんは泣いているのに」

 

 セリナの肩が震えた。

 

セリナ「私のせいです 皆さんがまだ泣いているのは 私のせいです……っ」

 

 ゴロ……と空が鳴った。

 先生は何か言おうとして口を開いた。そして閉じた。肌にまとわりつく空気が急に重くなっていた。

 さっきまで乾いていた風がじっとりと湿っている。

 

先生「……ねえ」

 

 三人が顔を上げた。

 

先生「なんか急に 湿度高くない?」

 

コタマ「え?」

 

ノドカ「え?」

 

セリナ「え?」

 

 四人はそろって空を見上げた。

 八海山の頂に黒い雲がかかっていた。

 笠みたいに。いや 笠どころではなかった。雲は山の肩からあふれ出して ゆっくりとこちらへ流れてくる。ゴロゴロと腹の底に響く音を立てながら。

 

源さん「……なんら ありゃ」

 

 コンバインから降りてきた源さんが ぽかんと口を開けた。

 

源さん「こんげな雲 生まれてこのかた見たことねぇ……」

 

コタマ「キヴォトスの雲です 私たちを追ってきました」

 

ノドカ「私たちが落ち込むと 大きくなるんです……」

 

 三人の顔がまた曇った。

 雲がまたひと回り大きくなった。

 

源さん「まずいぞ先生 今降られたら奥の田んぼ全部倒れっちまう コシは背が高ぇすけ 雨と風でいっぺんに寝ちまうぞ」

 

 先生は田んぼを見た。

 まだ半分以上残っている。金色の穂が重たい空の下で不安そうに揺れていた。

 

先生「……三人とも ちょっといい?」

 

 先生は畦の上に膝をついた。三人と目の高さがそろう。

 

先生「まず 私に謝らせて」

 

セリナ「でも 悪いのは私で……」

 

先生「ううん いちばん悪いのは私だよ」

 

 先生ははっきりと言った。

 

先生「書き置き一枚で済ませて 誰にも直接言わずに出てきた 大丈夫だろうって思い込んでた みんなをこんなに心配させたのは私だよ 本当にごめん」

 

 先生は三人に向かって頭を下げた。

 三人は息をのんだ。

 

先生「それでね セリナ」

 

セリナ「……はい」

 

先生「嘘はついてほしくなかったな」

 

 セリナの肩がびくりと揺れた。

 

先生「でも 私が倒れないようにって考えてくれたのも ほんとなんだよね」

 

セリナ「……はい」

 

先生「一人で来てくれて 手当てしてくれて 一緒に稲を刈ってくれて 私すごく助かったんだよ だから ちゃんと本当のことを話してくれてありがとう」

 

 セリナの目からまた涙があふれた。

 けれどそれはさっきまでの涙とは違う形をしていた。

 

先生「コタマ」

 

コタマ「……はい」

 

先生「四千二百時間のことは……うん あとでちゃんと話そうね」

 

コタマ「……」

 

先生「盗聴は 次からはやめようね」

 

コタマ「……善処します」

 

先生「善処じゃなくて」

 

コタマ「……やめます たぶん」

 

先生「たぶんかぁ」

 

 先生は少しだけ笑った。

 

先生「声が聞きたいなら話しに来てくれればいいよ 聞きたいことがあったら直接聞いて 私ちゃんと答えるから」

 

コタマ「……はい」

 

先生「ノドカも」

 

ノドカ「は はいっ」

 

先生「望遠鏡で見るんじゃなくて 会いにおいでよ」

 

 ノドカは目をぱちぱちさせた。

 

ノドカ「……会いに行っても いいんですか」

 

先生「もちろんだよ 部屋の明かりつけて待ってるから」

 

 ノドカの唇がふるえた。

 何か言おうとして言葉にならず ノドカはただこくこくと何度もうなずいた。

 

先生「それで……今いちばん大事なのは キヴォトスのみんなに本当のことを伝えることだと思う」

 

 先生は三人の顔を順番に見た。

 

先生「でも どうやって伝えるかは三人で決めてほしいな」

 

コタマ「……私たちで ですか」

 

先生「うん 三人が何を知ってたのか どうして黙ってたのか それは三人のことだから 私が代わりに言っちゃいけないと思うんだ」

 

 三人は顔を見合わせた。

 本当のことを伝えれば どうやって知ったのかも話さなければならない。盗聴も 覗きも 毎朝のことも 抜け駆けも。キヴォトス中の前で。

 

ノドカ「……全部 バレちゃいますね」

 

セリナ「……はい」

 

コタマ「合理的に考えれば 先生お一人が訂正の声明を出すのが最善です 私たちが名乗り出る必要はありません」

 

 コタマはそこで言葉を切った。

 

コタマ「……でも それは嫌です」

 

ノドカ「コタマさん……」

 

コタマ「私たちが黙っていたせいで 皆さんは自分を責め続けました それなら私たちが 自分の口で言うべきです」

 

 コタマは少しだけ視線を落とした。

 

コタマ「合理的な判断ではありません でも そうしたいんです」

 

セリナ「……私も 伝えます」

 

ノドカ「私もです!」

 

 三人の声がそろった。

 あの朝シャーレで「どうしましょう」とそろったときとは まるで違う声だった。

 先生はうなずいた。

 

先生「うん わかった 私も隣にいるよ」

 

コタマ「問題は方法です」

 

 コタマは空を見上げた。

 

コタマ「ここからキヴォトスへ届く電波はありません 先生の端末も ずっと圏外ですよね」

 

先生「うん アロナもずっと寝てて……」

 

コタマ「……いえ」

 

 コタマの目が頭上の黒い雲で止まった。

 

コタマ「あります」

 

ノドカ「え?」

 

コタマ「あの雲はキヴォトスから私たちを追ってきました つまりキヴォトスとつながっています 雲に電波を反射させれば 向こうへ届くかもしれません」

 

ノドカ「そんなことできるんですか!?」

 

コタマ「理論上は 不可能ではありません」

 

セリナ「やったことは……」

 

コタマ「ありません」

 

 コタマは鞄の中身を畦の上に広げた。無線機。ケーブルの束。折りたたみのアンテナ。工具。いつどこで傍受することになってもいいように いつも持ち歩いているものだった。

 

コタマ「アンテナ線をできるだけ高いところに張りたいのですが」

 

源さん「高いとこなら あれ使え」

 

 源さんが田んぼの脇のはさ木を指さした。

 稲束が何段にも掛けられた背の高い木の列だった。

 

コタマ「……はさ木」

 

源さん「おう 本当は稲を掛けるもんだがな 線くらいならなんぼでも掛けれる」

 

 コタマとノドカがはさ木によじ登って線を張った。セリナが下から工具を手渡す。先生はシッテムの箱を開いた。

 

先生「アロナ 起きて」

 

アロナ「むにゃ……せんせぇ……?」

 

 画面の中でアロナが目をこすった。

 次の瞬間 その目がまん丸に見開かれた。

 

アロナ「つ……つながってます! キヴォトスとつながってます!! どうしてですか!?」

 

先生「雲のおかげ……かな」

 

アロナ「雲!? ……あ あれ? せ 先生……」

 

 アロナの声が裏返った。

 

アロナ「モモトークの未読が……九千九百九十九件……カンストしてます!!」

 

 先生はモモトークを開いた。

 通知が滝のように流れ落ちていく。先生はそれを指で止めた。ひとつ またひとつと読んでいく。

 

『先生 領収書 全部通します だから帰ってきてください』

『夜中に電話するのは もうやめる だから』

『先生 私いい子にするから ね☆ ……ほんとだよ』

『うへ おじさん ちゃんと起きて仕事するからさ』

『ん 銀行は襲わない たぶん』

『アリスはレベル九十九になって待っています』

『業務はすべて私が処理しておきます 先生はご心配なく ……ご心配なく』

 

 先生の指が止まった。

 しばらく何も言わなかった。包帯を巻いた手で口元を覆う。

 

先生「……そんなこと 一回も思ったことないのに」

 

 声がかすれていた。

 領収書を突き返してくれるからなんとかやれていた。頭を撫でてと言われて嬉しかった。徹夜のゲームも借金の書類も夜中の電話も 先生にとっては全部大切な時間だった。

 それを一番伝えたかった相手に 何ひとつ伝わっていなかった。

 

セリナ「先生……」

 

先生「……大丈夫」

 

 先生は顔を上げた。

 目の端が少しだけ赤かった。それでも先生は笑った。

 

先生「落ち込むのはあとにする 今は みんなにちゃんと伝えなきゃ」

 

アロナ「先生! クロノスの放送電波を見つけました! 割り込めます!」

 

コタマ「割り込みます」

 

 そのころクロノスのスタジオでは マイが本番前の最終確認をしていた。

 

マイ「本日の特集は『先生のいないキヴォトス この一週間』! オープニングはシャーレ前の献花台からの中継で――」

 

シノン「先輩」

 

マイ「何?」

 

シノン「モニターが」

 

 スタジオのモニターが一斉に乱れた。

 砂嵐のあとに映し出されたのは見たことのない景色だった。金色の田んぼ。黒い雲。泥だらけの三人の生徒。そしてその真ん中に 左手に包帯を巻いた先生。

 

マイ「な 何これ!? 放送事故!? すぐ切って!」

 

 スイッチに伸びたシノンの手が 途中で止まった。

 

シノン「……いいえ」

 

マイ「シノン!?」

 

シノン「流します」

 

 シノンはまっすぐマイを見た。

 

シノン「これは裏を取るための映像です 先輩」

 

 マイは口を開きかけて 閉じた。

 それからゆっくりと息を吐いた。

 

マイ「……ええ 流しなさい 全部」

 

 キヴォトス中の画面が切り替わった。

 D.U.の大型ビジョンが。ミレニアムのモニターが。ゲヘナの街頭テレビが。トリニティのテラスのタブレットが。アビドスの教室の古いテレビが。

 雨の音にまぎれて 少し緊張した声が流れはじめた。

 

コタマ『ミレニアムサイエンススクール ヴェリタスの音瀬コタマです』

 

 コタマはカメラの前で背筋を伸ばしていた。

 

コタマ『最初にお伝えします 先生は 辞めていません』

 

 キヴォトス中が息をのんだ。

 

コタマ『そして……お詫びします 私は先生の部屋を盗聴していました 先生がいなくなった夜の電話も盗聴で聞いていました それをずっと黙っていました 申し訳ありませんでした』

 

 セミナーの執務室でユウカが固まった。

 

ユウカ「……盗聴?」

 

ノドカ『レッドウィンター連邦学園の天見ノドカです! 私は先生を毎日望遠鏡で覗いてました! 先生が外行きのバスに乗るところも見てました! 黙っててごめんなさい!』

 

 ゲヘナの風紀委員会室でアコが固まった。

 

アコ「……覗き?」

 

セリナ『トリニティ総合学園救護騎士団の 鷲見セリナです』

 

 セリナは一度だけ唇を噛んでからカメラを見た。

 

セリナ『私は毎朝先生のお部屋の前にいました そして昨日 先生を見つけたのに 皆さんに黙っていました 先生を……独り占めしたかったんです 本当にごめんなさい』

 

 トリニティのテラスでミカがカップを取り落とした。

 

ミカ「……独り占め?」

 

 ミレニアムのヴェリタスの部室では誰かが「知ってた」とつぶやき レッドウィンターの二二七号特別クラスの教室では誰かが「やっと言ったねぇ」と笑った。

 

 三人がそろって頭を下げると その隣に先生が並んだ。

 

先生『みんな 心配かけて本当にごめん』

 

 キヴォトス中が静まり返った。

 一週間ぶりに聞く声だった。

 

先生『私は先生を辞めてないよ 実家の両親が事故にあってね 稲刈りを手伝いに帰ってきてただけなんだ 両親はちゃんと元気だから大丈夫 この手は私の不注意で怪我しちゃっただけで セリナがちゃんと手当てしてくれたから これも大丈夫』

 

 先生は包帯の手を軽く振ってみせた。

 

先生『書き置きだけで済ませたのは 本当に私が悪かった みんなのせいなんかじゃないよ 誰ひとり みんなのせいじゃない』

 

 先生はそこで少し首をかしげた。

 

先生『一週間くらいで戻るって ちゃんと書いておいたんだけど……』

 

セリナ『……書いて ありませんでした』

 

先生『え? 書いたよ 裏に』

 

 沈黙が落ちた。

 画面の中でも。画面の外でも。キヴォトス中で。

 

セリナ『……うら?』

 

 セリナはゆっくりとポーチに手を入れた。

 出てきたのは 一週間ずっと持ち歩いていたくしゃくしゃの便箋だった。

 震える指でそれを広げる。

 そして 裏返した。

 

『追伸

 一週間くらいで戻ります

 冷蔵庫のプリンは 早い者勝ちです』

 

 カメラがその文字をはっきりと映し出した。

 キヴォトスが 一瞬だけ完全に止まった。

 

ユウカ「裏ぁぁぁぁ!?」

 

ミカ「裏ぁ!?」

 

セリカ「裏ぁ!?」

 

アコ「裏ぁ!?」

 

ヒナ「……うら」

 

 トリニティの奥の部屋では 百合園セイアが静かに目を伏せていた。

 

セイア「……金色の海とは 田んぼのことだったか」

 

 クロノスのスタジオで マイががくりと膝をついた。

 

マイ「う……裏が……取れました……」

 

シノン「最初から裏にありましたね」

 

 画面の中ではノドカがおずおずと手を挙げていた。

 

ノドカ『……あの』

 

先生『どうしたの ノドカ』

 

ノドカ『早い者勝ちなら……私の勝ちです』

 

先生『え?』

 

ノドカ『プリン 二つとも食べちゃいました』

 

先生『ノドカだったの!?』

 

 スタジオではマイがよろよろと立ち上がっていた。

 報道部員の本能だけで マイクを握り直している。

 

マイ「つ……続報です……先生を見つけ出したのは 盗聴 覗き 神出鬼没の三人の生徒……名付けて……キヴォトス三大ストーカー……!」

 

シノン「先輩 それは普通に名誉毀損です」

 

 セミナーの執務室でユウカが机に突っ伏した。

 

ユウカ「プリン……? プリンって……一週間……私……三百十二枚……」

 

ノア「よかったですね ユウカちゃん」

 

 ノアは手帳を開いて 新しいページに一行だけ書き足した。

 先生の書き置きは裏まで読むこと。

 

 ゲヘナの雨の街角では スマホの画面を見ていたヒナが小さく息を吐いた。

 

ヒナ「……そう」

 

 それだけ言うとヒナはその場の縁石に腰を下ろした。

 次の瞬間にはもう寝息を立てていた。一週間ぶんの眠気がいっぺんに押し寄せてきたのだった。

 

アコ「い 委員長が寝た……! 路上で……!」

 

 トリニティのテラスではミカが泣きながら笑っていた。

 

ミカ「なーんだ☆ なーんだぁ……もう……先生のばか……」

 

ナギサ「ええ 本当に」

 

 ナギサはようやくあふれたままの紅茶に気がついて 少しだけ笑った。

 

ホシノ「うへ~……よかったぁ……」

 

シロコ「ん」

 

 アビドスの屋上でシロコはポケットから覆面を取り出し 鞄のいちばん奥にしまい直した。

 

アリス「先生がパーティーに復帰しました! パンパカパーン!」

 

 シャーレの執務室ではリンが眼鏡を外していた。

 レンズは一週間ぶりに 少しも曇っていなかった。

 

リン「……まったく あの人は」

 

 リンはモモトークを開いて 短い文面を打ち込んだ。

 

ワカモ「あなた様ぁぁぁ……!」

 

 屋上のワカモは天に向かって両手を差し伸べていた。

 

カンナ「……この献花台 誰が片付けるんだ」

 

 カンナは深々とため息をついてから 画面の中の三人をにらんだ。

 

カンナ「それと 盗聴と覗きの件は 戻り次第公安局で話を聞かせてもらう」

 

 そして。

 キヴォトス中の生徒が 同時にほっと息を吐いた。

 その瞬間 空を覆っていたくもくもが震えた。

 くもくもは生徒たちの私のせいでできていた。その私のせいが いっぺんに消えた。かわりにキヴォトス中の生徒の胸に まったく同じ思いが浮かんだ。

 先生に会いたい。

 今すぐ。

 ゲヘナの路上で眠っていたヒナが ぱちりと目を開けた。

 

 南魚沼の空の雲がぐうっと膨らんだ。

 黒かった雲の底が 内側から光りはじめる。

 

ノドカ「せ 先生 雲が……!」

 

コタマ「キヴォトス側から 強いエネルギーが流れ込んでいます……!」

 

源さん「伏せろぉ!」

 

 先生はとっさに三人の前に出て両腕を広げていた。

 この中で自分がいちばん弱いことはわかっていた。それでも体が先に動いた。

 

 ドーン。

 

 空が割れた。

 腹の底を殴りつけるような音が 魚沼の盆地いっぱいに響き渡った。黒い雲が真ん中から裂けていく。裂け目から光の柱が差し込んで 金色の田んぼを照らし出した。

 

セリナ「せ 先生! 逆です! 守るのは私たちのほうです!」

 

先生「……つい」

 そして裂け目から 何かが降ってきた。

 雨ではなかった。

 

源さん「……なんら ありゃ」

 

 光輪だった。

 いくつもいくつも 流れ星のようにきらめきながら落ちてくる。

 

先生「……生徒だ」

 

源さん「生徒ぉ!?」

 

 雨の代わりに 生徒が降ってきた。

 

ミカ「せーんせーーーい☆」

 

 最初に着地したのはミカだった。

 畦道の真ん中にドゴォンと轟音を立てて降り立つ。土煙が晴れると 道の真ん中に見事な穴が空いていた。

 

ミカ「えへへ ちょっと着地失敗しちゃった☆」

 

源さん「道に穴あけんなぁ! 田んぼに降りるなよ! 畦に降りろ 畦に!」

 

ユウカ「きゃあああっ!」

 

 ばしゃーんと盛大な水音を立てて ユウカが用水路に落ちた。

 這い上がってきたユウカはずぶ濡れのまま先生に詰め寄った。

 

ユウカ「先生!! 書き置き一枚で一週間って どういう計算ですか!! だいたい大事なことを裏に書くなんて 経理の基本以前の問題です!!」

 

先生「ご ごめん……」

 

ユウカ「それに……っ」

 

 ユウカの声が詰まった。

 

ユウカ「……領収書 これからはちゃんと見ますから 自分で払う前に 相談してください……っ」

 

先生「……うん ありがとう ユウカ」

 

ヒナ「……先生」

 

 気がつくとヒナがすぐ隣に立っていた。

 ずぶ濡れの制服のまま 先生の袖の端をそっとつまんでいる。

 

ヒナ「……おかえりなさい とは まだ言わないわ」

 

先生「ヒナ」

 

ヒナ「先生が帰ってくる場所は キヴォトスだから」

 

 それだけ言うとヒナは先生の肩にこつんと額を預けた。

 すぐに寝息が聞こえてきた。

 

アコ「委員長!? ここで寝ないでください委員長!」

 

ナギサ「ミカさん! 待ってください!」

 

 ナギサはティーカップを片手に持ったまま 優雅に畦へ降り立った。紅茶は一滴もこぼれていなかった。

 

シロコ「ん 着地成功」

 

 シロコは自転車ごと降ってきていた。

 

ホシノ「うへ~……ここ 空気おいしいねぇ……」

 

 ホシノははさ木の上に布団のように引っかかっていた。

 

アリス「アリス 新しいマップに到着しました! ここが先生のふるさとですね!」

 

ミネ「救護ぉぉぉぉっ!!」

 

 ひときわ大きな声とともに 盾を構えたミネが納屋の屋根に突っ込んだ。

 ドーン。本日二度目だった。

 

セリナ「ミネ団長!?」

 

ミネ「セリナ! 救護が必要な方はどちらですか!」

 

セリナ「あの……もう終わりました……」

 

ミネ「……そうですか」

 

 ミネは屋根の上で少しだけしょんぼりした。

 

ワカモ「あなた様ぁぁぁ!!」

 

 狐の面の生徒がまっすぐ先生へ飛びついてくる。

 その前にセリナがすっと立ちはだかった。

 

セリナ「先生は今 私の患者さんです」

 

ワカモ「……なんですって?」

 

コタマ「先生の声の記録は私が」

 

ノドカ「先生の観察記録は私が!」

 

ワカモ「あなた様の未来はわたくしが!」

 

ユウカ「先生の家計は私が管理します!」

 

先生「待って なんか増えてる!」

 

 源さんがぱんぱんと手を叩いた。

 

源さん「ほれほれおめぇら! 稲刈り手伝う気あるんか!」

 

 一瞬の静寂のあと。

 

全員「あります!」

 

 そこから先はあっという間だった。

 シロコが鎌を握ると目にも止まらぬ速さで稲が刈れていった。ヒナは寝ぼけまなこのまま一株の乱れもなく束をそろえた。ミカは稲束を十個まとめて肩に担いだ。ユウカは収量を計算しながら軽トラへの積み込みを指揮した。アリスは稲刈りクエストですと叫んで泥の中を駆け回った。ホシノははさ木の上で昼寝をしようとしてユウカに引きずり下ろされた。ワカモとセリナは 先生におにぎりを食べさせる権利をめぐって無言の火花を散らしていた。

 コタマはコンバインのエンジン音に耳を澄ませて言った。

 

コタマ「三番目のプラグの調子が悪いです」

 

源さん「わかるんか!?」

 

源さん「そっちのおめぇは その鎌さばきどこで覚えた」

 

シロコ「銀行……じゃない 独学」

 

源さん「銀行?」

 

ユウカ「一反あたりの収量……ちょっと待ってください これ ものすごくいい数字じゃないですか……!」

 

源さん「魚沼のコシらすけな」

 

アリス「アリスはこのコンバインを 稲刈り丸と名付けます!」

 

源さん「そいつにはもう名前ついてるぞ 親父さんは二号って呼んでた」

 

アリス「二号……! では一号はどこにいるのですか!?」

 

源さん「田んぼに落ちた軽トラだ」

 

 ミネは稲の葉で指を切ったユウカの手に 包帯を三重に巻いていた。

 

ユウカ「ちょっと! かすり傷です! これじゃ電卓が打てません!」

 

ミネ「救護に かすり傷という概念はありません」

 

 ワカモは鎌を扇のように優雅に振るい 刈った稲を一束ずつ先生の足元に並べていく。

 

ワカモ「あなた様 わたくしの刈った稲を どうぞお納めくださいませ」

 

先生「並べるのはそこじゃなくて はさ木のほうに……」

 

 ノドカははさ木のてっぺんで望遠鏡を空に向けていた。

 

ノドカ「南西方向 雲なし! 北西も雲なし! 快晴です!」

 

 空にはもう雲ひとつなかった。

 あれほど空を覆っていたくもくもは 生徒たちを降らせたあと跡形もなく消えていた。八海山の上に大きな虹がかかっていた。

 奥の田んぼは昼前に刈り終わった。

 

 夕焼けが田んぼを赤く染めていた。

 畦道には大きな鍋と山盛りのおにぎりが並んでいる。源さんの奥さんが炊いてくれた新米だった。生徒たちはそれをほおばりながら口々に騒いでいた。おいしい。甘い。お米ってこんな味がするの。先生これを毎日食べてたんですか。ずるい。

 先生のところへは入れ替わり立ち替わり生徒たちがやってきた。

 

ミカ「ねえ先生 ほんとに 私のせいじゃない?」

 

先生「うん ミカのせいじゃないよ」

 

ミカ「……そっか☆」

 

 ミカは少しだけ鼻をすすった。

 

ミカ「じゃあ今度は 私のおかげって言わせてあげるね」

 

ホシノ「ねえ先生 今度おじさんにも稲刈り教えてよ アビドスでもお米って育つかなぁ」

 

先生「この一週間で 砂漠に苔は生えたらしいね」

 

ホシノ「苔はお米じゃないよぉ」

 

シロコ「砂を全部どかせば 田んぼになる」

 

ホシノ「シロコちゃん それ何年かかるのかなぁ」

 

アリス「先生! アリスと一緒にセーブしましょう!」

 

先生「セーブ?」

 

アリス「はい! この一週間のデータは消さずに残しておきます 次は先生がパーティーから離脱しないように アリスがちゃんと見張ります!」

 

先生「見張る子がまた増えた……」

 

 ヒナははさ木の陰でまだ眠っていた。その横でアコが どこから持ってきたのか団扇でそっと風を送っていた。

 

 騒ぎが少し落ち着いたころ 先生は朝のうちに届いていたメッセージをもう一度開いた。リンからだった。

 

『先生 業務が山積みです

 ……おかえりなさい』

 

 先生はその短い文面をしばらく眺めていた。

 ちゃんと帰ろう。そう思った。

 やがて先生は輪から少し離れた畦に腰を下ろした。隣にはいつのまにか コタマとノドカとセリナが並んでいた。

 

コタマ「……先生」

 

先生「ん?」

 

コタマ「先生の足音は 長靴でもわかりました」

 

先生「それはすごいね」

 

コタマ「……録音よりも 直接聞く声のほうが いい音でした」

 

先生「そっか じゃあ これからはいっぱい話そうね」

 

コタマ「……はい」

 

 コタマはヘッドホンを首にかけたまま 一度も耳に戻さなかった。

 

ノドカ「先生 あの」

 

先生「なに?」

 

ノドカ「あの朝 先生 シャーレに頭を下げて 泣いてましたよね」

 

先生「え?」

 

ノドカ「四時四十八分です こう 目元をぬぐって……」

 

先生「……ああ あれは行ってきますって挨拶しただけだよ 昔からの癖でね 見上げてたのは電気を消したか確かめてただけで」

 

ノドカ「じゃあ 涙は」

 

先生「……たぶん あくび」

 

ノドカ「あくび……」

 

 ノドカはしばらく固まっていた。それから ふにゃりと笑った。

 

ノドカ「私 先生のあくびで一週間泣いてたんですね」

 

先生「……ほんとにごめん」

 

ノドカ「部屋の明かり ほんとにつけて待っててくれますか」

 

先生「うん 約束する」

 

ノドカ「じゃあ……今度はちゃんとノックします」

 

 ノドカはそう言って空を見上げた。一番星が出ていた。

 

ノドカ「それと 今度一緒に星を見てくれませんか ここの星すごいって セリナさんが」

 

先生「いいね ノドカの望遠鏡で見せてよ」

 

ノドカ「はい! 今度はちゃんと空に向けます!」

 

 最後にセリナが 膝の上で手を組んだまま小さく口を開いた。

 

セリナ「……先生」

 

先生「うん」

 

セリナ「怪我をしていなくても 会いに行っていいですか」

 

先生「もちろん 怪我してなくても いつでもおいで」

 

 先生は笑った。

 

先生「毎朝の栄養ドリンクも セリナだったんだね」

 

セリナ「……ご存知だったんですか」

 

先生「昨日病院でね 母さんがこっそり教えてくれたんだ セリナが隠したそうだったから 黙ってたんだけど」

 

セリナ「お お母様ぁ……! 言わないって……!」

 

先生「ありがとう あれのおかげで毎朝ちゃんと起きられてるんだよ」

 

 セリナは真っ赤になって手ぬぐいで顔を隠した。

 

 そのとき先生のスマホが鳴った。

 画面に母の名前が出ている。ビデオ通話だった。

 

母『あんた 源さんから聞いたよ 空から娘っこがいっぱい降ってきたんだって?』

 

先生「うん……まあ……」

 

母『ちょっと顔見せてごらん』

 

 先生がスマホを向けると 生徒たちがわらわらと集まってきて画面に手を振った。

 母は目を丸くした。

 

母『あらぁ まあまあ こんなにいっぱい……みんなかわいい子だこと』

 

先生「みんな 私の自慢の生徒たちだよ」

 

母『そうかいそうかい』

 

 母はにこにこと笑った。

 そして 実にさりげなく言った。

 

母『で どの子がうちの嫁さんになってくれるんだい?』

 

 田んぼが静まり返った。

 虫の声すら止んだ気がした。

 セリナがゆっくりと顔を上げた。コタマがヘッドホンを外した。ノドカが望遠鏡を下ろした。ワカモが面の奥で目を細めた。眠っていたはずのヒナが目を開けた。ミカがにっこりと笑った。ユウカが電卓を握りしめた。

 生徒たちの視線が 音もなくぶつかり合う。

 

セリナ「……お母様には 昨日ご挨拶を済ませております」

 

コタマ「お母様の声紋は 先ほど登録しました」

 

ノドカ「ご実家の場所は もう完璧に把握しました!」

 

ワカモ「わたくし 嫁入りのお支度でしたら いつでも」

 

ミカ「えー じゃあ私も立候補しちゃおっかな☆」

 

ユウカ「ちょっと! 家計の管理なら私が一番適任です!」

 

ヒナ「……」

 

 ヒナは何も言わなかった。いつのまにか先生の隣に戻ってきて 袖の端をさっきより少しだけ強くつまんでいた。

 

先生「母さん!! みんな私の大事な生徒だから!!」

 

 先生の叫びは 誰の耳にも届いていなかった。

 八海山の頂に 小さな雲がひとつぽつんと生まれた。

 ひとつ。またひとつ。

 遠くでゴロゴロと何かが鳴った。

 

先生「……ねえ」

 

 先生はおそるおそる空を見上げた。

 

先生「なんか また湿度高くない?」

 

全員「え?」

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。