相変わらず、孤高と孤独の意味を履き違えているようだな。
兄にそう言われたのは、高校一年の春だった。
その時の私は、言われた意味が分からなかった。分からないまま、分かったふりをして、卒業までを過ごした。卒業して、ようやく分かった。孤高というのは、高いところに一人で立っていることだ。孤独というのは、低いところに一人で座っていることだ。
どちらも、一人であることに変わりはない。
違うのは、高さだけだ。
孤高と孤独は、頭に同じ一字を載せている。高いか、独りか。下の一字を入れ替えるだけで、褒め言葉が悪口になる。日本語というのは、ずいぶん安上がりにできている。
春は、思っていたより騒がしかった。
京都に来て二週間になる。駅前には観光客がいて、大学には新入生がいて、どちらでもない人が、そのどちらかのふりをして歩いている。私はどちらのふりもしていない。ふりをするのにも、体力がいる。
観光客というのは、字のとおりなら光を観に来る客だ。京都の光は、だいたい古い。古い光を観るために、新しい人が毎日やって来る。光の方は、観られていることに、とっくに飽きているだろうに。
部屋は大学から歩いて二十分のところにある。六畳のワンルームで、窓が一つ、机が一つ、本棚が一つ。本棚には教科書と、高校の三年間で使ったノートが並んでいる。捨てようと思って、捨てられなかったノートだ。
そのうちの一冊のいちばん後ろに、紙が一枚挟んである。
罫線の切れ端。数字が十一桁。名前はない。
卒業してから、一か月が経つ。
かける手段は、もうある。高校の外に出た人間は、誰にでも電話をかけていい。かけてはいけない理由は、どこにもない。
かけていない。
理由を考えようとすると、いつも同じところで手が止まる。かけて、何を言うのか。三年かけて、何を持ってきたと言うのか。Aクラスでは、卒業できなかった。一年生の秋に、私は最後まで座ると決めた。決めて、座って、座り続けて、気がついたら卓のどこにも私の席はなかった。
そんな話をするために、この番号を使いたくはない。
だから、紙はノートのいちばん後ろに挟まったままでいる。毎朝、鞄に入れて大学へ行き、毎晩、そのまま持ち帰る。開いたことは一度もない。
逃げたわけではない、と自分に言う。
逃げる、と、逃れる。同じ字で、送り仮名が一つ違うだけだ。逃げるのは自分の足で、逃れるのは運のおかげだ。私は、運に頼った覚えがない。だから、逃れたのではない。
誰も私を知らない場所を選んだら、京都だった。それだけのことだ。
大学の教室には、一週間で地図ができる。
地図というのは、行く場所を描くものだと思っていた。教室の地図は違う。行かない場所を描くためにある。
入学した最初の週に、そのことに気づいた。誰が誰の隣に座るか。どこに人が集まって、どこに集まらないか。最初の講義でたまたま隣になった二人が、次の講義でも隣に座る。三回目には、そこはもう二人の席だ。連絡先を交換する光景も、あちこちで見た。スマートフォンを向け合って、画面に何かを読み取らせて、それで知り合いが一人増える。あれほど手軽に増えるものを、私は高校の三年間で一度も増やせなかった。
増やせなかった、というのは正確ではない。
増やそうとした時期は、確かにあった。一年生の秋から冬にかけて、私は自分のやり方を変えようとした。人を見ること。人に頼ること。人と並んで座ること。そういうことを、教えてくれた人がいた。教えるつもりなど、あの人には欠片もなかったはずだけれど。
その人がいなくなってから、私のやり方は少しずつ元に戻った。
戻ったことに気づいたのは、三年生の冬だった。気づいた時には、もう遅かった。
だから今、私は窓際のいちばん後ろに座る。
誰も隣に来ない席を選ぶのは、もう癖になっていた。
午後の一般教養は、百人入る大教室で行われる。
窓際のいちばん後ろは、日差しが斜めに入って、机の半分だけが白く光る。本を読むのにちょうどいい。私が座ると、両隣と前の二列が空く。誰かが意地悪をしているわけではないと思う。ただ、教室に入ってきた一人ひとりが、空いている席を探して、私の近くの席を見て、なんとなく別の席を選ぶ。その「なんとなく」が百回重なると、ああいう形になる。
なんとなく、の中身は分かっている。
私の顔だ。私が人を見る時の顔だ。高校の頃、何度か言われた。怒っているのかと。怒っていない時の方が、怖いと。
直そうと思ったことはある。直らなかった。直す理由が、途中でなくなった。
その日も、私は本を開いていた。
開いていただけで、読んではいなかった。同じ段落を三回目に読み直していた時、教室の入り口から誰かが入ってきた。
男だった。
細くて、目立たなくて、誰にでも似ている顔だった。誰にでも、というのは比喩ではない。目鼻立ちが整っていないわけでも、崩れているわけでもない。ただ、どこかで見たことがある気がする。それが誰なのか思い出そうとすると、思い当たる顔が一つではなく、いくつも浮かぶ。そういう顔だった。誰にでも似ているということは、誰にも似ていないということと、たぶん同じくらい珍しい。
男は入り口で足を止めて、教室を見回した。
前の方に、空いている席はいくつもあった。まともな判断をする人間なら、そちらへ行く。
男は、こちらへ歩いてきた。
窓際のいちばん後ろの列。私の座っている列だ。
隣に来る、と思った。隣に来たら、私は席を立つ。立って、前の方の空いている席へ移る。そう決めて、本の上で指を止めた。
男は、私の隣を一つ空けて、座った。
隣ではない。一つ空けた、その向こうだった。
隣の、隣。他人と呼ぶには近すぎて、隣人と呼ぶには一人分遠い。日本語には、この距離の名前がない。名前のない距離に座られると、人は、どこまで警戒していいのか分からなくなる。
空いた席が一つ、そこに残った。
講義は退屈だった。
教授はスクリーンの文字を読み上げるだけで、学生の半分はスマートフォンを机の下で触っていて、残りの半分は眠っていた。
私は本を読むふりをしながら、隣の隣を見ていた。
視界の端に、入れていた。
男は何もしていなかった。
ノートを開いていない。スマートフォンも出していない。眠ってもいない。教授の方を向いているけれど、聞いているようには見えなかった。ただ、座っていた。座って、そこにいた。
一人、思い出した。
高校の教室の、私の隣の席だ。始業の五分前には必ず座っていて、何も見ていない顔で窓の外を見ていた人。そこにいるのに、いないように見える人。
似ている、と思った。
思ってから、すぐに打ち消した。似ていない。隣の席の彼は、何も見ていないふりをして、全部を見ていた。この男は、たぶん本当に何も見ていない。見ていないのに、見られている気がする。それが、彼とはまるで違う種類の気味悪さだった。
もう一人、思い出しかけた。
思い出しかけて、やめた。その人の顔を、こんな退屈な講義の途中で思い出したくなかった。
チャイムが鳴った。
教授がスクリーンを消すのと同時に、百人分の椅子が床を擦った。私は本を閉じて、鞄にしまった。
男は座ったままだった。立ち上がる人の波を、座ったまま見送っている。急ぐ用事がないのか、急ぐという動作そのものを持っていないのか、どちらなのかは分からなかった。
立ち上がる時に、一度だけ男の方を見た。
目が合ったわけではない。視線が、空いた一つの席を越えて、男の机の端をかすめただけだ。
それでも、気づかれた気がした。
「何か用?」
訊くつもりはなかった。口が先に動いた。高校の頃からの悪い癖だ。気になったものを、気にならないふりをして放っておくことができない。
「いや。別に」
男の声は、思っていたより普通だった。普通すぎて、何の印象も残らない声だった。
別に、というのは、用がないという意味ではない。用を言う気がない、という意味だ。私も、高校で何度か使った。使う側に回ると便利で、使われる側に回ると、こんなに腹が立つ言葉だとは知らなかった。
「そう」
私はそれだけ言って、通路に出た。
振り返らなかった。振り返る理由がなかった。名前を訊く理由も、名乗る理由もなかった。同じ講義を取っている、顔もよく覚えていない学生が一人。それ以上のものではない。
それ以上のものではない、と思った。
廊下に出たところで、後ろから声をかけられた。
「ねえねえ! さっきの講義の、窓際の人だよね!」
振り向くと、女の子が一人、小走りで追いかけてきていた。背は私より少し低い。髪は朱の混じった短いボブで、顔は幼い。走ってきたせいか、それとも元からなのか、頬が赤かった。
「そうだけれど」
「あたし、同じクラス! 語学の! 覚えてない? 覚えてないよね、あたしも今日まで声かけられなかったし!」
覚えていなかった。語学のクラスに何人いたのかさえ、私は数えていない。
「何か用?」
今日二度目だった。同じ言葉を、同じ温度で。
女の子は怯まなかった。怯まないどころか、両手を胸の前で握って、一歩前に出てきた。
「用っていうか! いっつも一人で座ってるでしょ? それがね、なんか、もったいないなって! 《満開の桜並木、ただし全部造花》みたいなっ!」
意味が分からなかった。
分からなかったけれど、悪口ではないことだけは分かった。悪口を言う人間は、あんなふうに自分の言葉に自分で頷いたりしない。
「造花で困ることはないわ。枯れないもの」
「えっ、そういう返し? すごい、頭いい!」
頭がいいと言われて、嬉しくなかったのは久しぶりだった。昔はそう言われるたびに、当然だと思っていた。今は、それしか言うことがないのだと思ってしまう。
「あたし、
「一文字、余るのね」
「余ってないよ! ちょうどだよ! い、が一個多いのがあたしなの!」
余りを自分の芯だと言い張る人間を、私は初めて見た。
名乗られた以上、名乗らないわけにはいかなかった。それくらいの礼儀は、高校で教わった。
「堀北よ」
「ほりきたさん! 下の名前は?」
「必要ないでしょう」
「必要ないかあ! じゃあ今は、ほりきたさんで!」
今は、という言い方が引っかかった。今でなければ、いつがあると思っているのだろう。
「あ、そうだ。さっき、ほりきたさんの隣の隣に座ってた男の子。知り合い?」
「知らないわ」
「そっかあ。あの子も語学一緒なんだよ。いっつも一人で、いっつも何もしてないの。ほりきたさんと並んでるとね、《無人島が二つ、ただし橋は架かってない》みたいだった!」
橋が架かっていないのは、架ける理由がないからだ。そう言い返そうとして、やめた。言い返したら、架ける理由について話し合うことになりそうだった。
葵井さんは、それ以上は踏み込んでこなかった。「また語学でね!」と手を振って、廊下の向こうで待っていた友達らしい二人のところへ走っていった。一人は背の高い、茶色い髪を波打たせた女の子で、もう一人は小柄で、髪を二つに結んでいた。葵井さんが何か言うと、背の高い方がこちらを一度見て、すぐに目を逸らした。
あれが、普通の距離なのだろう。
普通。普く通じる、と書く。普く通じるはずのものが、私にだけ通じない。それを普通と呼ぶ人たちの方が、たぶん正しい。正しい人たちは、数が多い。
興味を持って、近づいて、断られたら、笑って引き返す。また来ると言い残して。私が三年かけて覚えられなかったことを、あの子は息をするようにやっていた。
帰り道に、知らない路地を一本通った。
大学から部屋までの道は、まだ二通りしか覚えていない。その日はどちらでもない道を選んだ。理由はない。少し遠回りをしたかっただけだ。
古い木造の建物が並ぶ路地の途中で、足が止まった。
音がした。
硬いものが、硬いものにぶつかる音。乾いていて、細かくて、途切れずに続く。二階の窓が少しだけ開いていて、音はそこから降ってきていた。窓の下に、色の褪せた看板が出ていた。麻雀、と書いてあった。
雀は、すずめと読む。すずめと、すずね。一文字しか違わない。違う一文字が、たぶん全部だ。
牌を混ぜる音だった。
知っている音だった。一年生の秋に、私はあの音の中に座っていた。座って、負けかけて、取り返して、山に残った最後の一枚を、自分で数えた。
あの日曜日の卓で温まった手の温度を、私はまだ覚えている。
覚えているのに、その手で、あれから何も掴んでいない。
二階の窓の向こうで、誰かが笑った。年を取った男の声だった。あの人の声ではない。あの人は、あんなふうに声を上げて笑わなかった。笑う時は、口の端だけで笑った。
私は看板から目を離して、歩き出した。
振り返らなかった。振り返ったら、二階に上がる階段を探してしまいそうだった。
部屋に帰って、鞄を机の上に置いた。
ノートを出して、いちばん後ろを開きかけて、閉じた。
スマートフォンには、兄の番号が入っている。
入学式の朝に、短いメッセージが一通届いた。おめでとう、とだけ書いてあった。私は二行で返した。ありがとうございます。頑張ります。それきり、どちらからも何も送っていない。
頑張ります、と書いた指が、送信したあとで少し震えた。何を頑張るのか、自分でも分かっていなかったからだ。
兄は昔から、言葉を足さない人だった。足さない言葉の分だけ、こちらが考える。高校の三年間で、私は兄の言わなかったことを考えるのに、ずいぶん時間を使った。今は、考えないようにしている。考えれば、相変わらず、という兄の声が聞こえる気がする。
相変わらず、というのは、変わらないことを言うのに、変わるという字を使う。変わらなかった妹を言い表すのに、兄は、変わるという字しか持っていなかったのだ。
一度は変わりかけたはずの妹に、あの言葉がもう一度当てはまってしまったことを、兄はまだ知らない。
十一桁の紙と、兄の番号。私の手元には、かけられる番号が二つある。
どちらにも、かけていない。
あの男は、隣に来なかった。来たら席を立つつもりでいた私の判断を、最初から知っていたみたいに、一つ空けて座った。
偶然だろう。
偶然でなければ、気味が悪い。
窓の外で、どこかの寺の鐘が鳴った。京都では、知らない寺の鐘がよく鳴る。誰のために鳴っているのか、私は一度も知ろうとしたことがない。
空席というのは、誰も座っていない席のことではない。
誰かが座っていたことを、覚えている席のことだ。
誰も座ったことのない席は、ただの椅子でしかない。
その週、窓際のいちばん後ろの列で、私の隣の隣は空いたままだった。
月曜も、水曜も、金曜も。
あの男は来なかった。
最初の月曜は、気にしなかった。大学の講義を休む人間は珍しくない。二日目の水曜も、まだ気にしていなかった。気にしていないことを確かめるために、一度だけその席を見た。三日目の金曜になって、確かめる回数が増えていることに気づいた。
私は、数えていた。
隣の隣が空いている回数を。
数える理由はない。名前も知らない相手だ。一度、何か用かと訊いて、別にと返されただけの相手だ。その相手が講義に来ないことを、私が数える筋合いはどこにもない。
それなのに、空いた席に日差しが当たっているのを見ると、そこに誰も座っていないことを、いちいち確かめてしまう。
窓際のいちばん後ろの列は、元に戻っていた。私の両隣と、前の二列が空いている。一週間前と同じ形だ。何も変わっていない。
変わっていないはずなのに、一つ空けた向こうの席だけが、前より広く見えた。
語学の授業は、二十人ほどの小さな教室で行われる。
大教室と違って、ここでは窓際のいちばん後ろに座っても、教師の目が届く。だから私は、真ん中より少し後ろの、誰の隣でもない席に座ることにしていた。
その日、私が座るより先に、その席の隣に鞄が置かれていた。
「ほりきたさん! おはよう!」
葵井さんだった。
「おはよう」
「隣、取っといた! えらくない?」
「頼んでいないわ」
「頼まれてないのに取っとくのが、友達の始まりなんだよ! 《予約なしで行列のできる店、ただし客は一人》みたいなっ!」
例によって、意味は分からなかった。
分からなかったけれど、断る理由を探しているうちに、私はもうその席に座っていた。座ってしまってから、座らない理由を並べるのは、負けを認めるより格好が悪い。
葵井さんの向こう側には、三人が座っていた。
「紹介するね! むいみちゃんと、
一番奥にいたのは、背の高い女の子だった。茶色い髪を波打たせていて、ジーンズを穿いている。廊下で葵井さんを待っていた、あの子だ。私を見て、軽く顎を引いた。会釈というより、確認に近い仕草だった。
「……
それだけだった。それ以上は言わない、と顔に書いてあった。私も、それ以上は求めなかった。似たもの同士の挨拶というのは、たぶんこういうものなのだろう。
その手前に、小柄な女の子がいた。髪を二つに結んでいて、耳元で小さな光物が揺れている。大人しそうな顔で、こちらを見て、それから葵井さんを見て、少しだけ笑った。
「
「なっていないわ」
「うん。だから、なるって」
「堀北さんは、どうしていつも窓際の後ろなの?」
「後ろには、誰もいないから」
「背中を見られないから?」
「見られても困らないわ。見られているかどうかを、気にしなくていいだけ」
江本さんは、少しだけ首を傾げた。それから、小さく頷いた。
「私も、そう。後ろに誰かいると、そっちの方が気になっちゃう」
江本さんは、葵井さんと違って声を張らなかった。張らないのに、言葉が届く。葵井さんが投げる人だとしたら、江本さんは置く人だった。
三人目は、茶色い髪の、どこにでもいそうな男子だった。
「宇佐美。秋春でいいよ。よろしく、堀北さん」
人当たりのいい笑顔だった。人当たりがよすぎて、どこに当たっているのか分からない笑顔だった。葵井さんが何か言うたびに、宇佐美くんは誰よりも早く笑った。笑う場所を、いつも半拍だけ早く見つけていた。
葵井さんが、満足そうに頷いた。
「これで五人! あとはいっくんが来れば六人なんだけど」
「いっくん?」
「ほら、こないだ言った男の子。ほりきたさんの隣の隣の。あの子ね、今週ずっと休みなの。どこ行ってるんだろ」
葵井さんは、知らないことを嬉しそうに言った。
私は、知らないことを黙って聞いた。
いっくん、という呼び方を、私は頭の中で一度だけ繰り返した。名前ではない。たぶん、名前の切れ端だ。切れ端だけを渡されて、残りを知らないまま、人はその相手を呼べるものなのだろうか。
呼べるのだろう。葵井さんは、呼んでいる。
「いっくんって、ちゃんとした名前は何て言うの」
訊いたのは、私ではなく江本さんだった。
「えっとね、それが知らないの! 訊いても、いっくんでいいよって。ずるいよね!」
「ずるいね」
江本さんは、そう言って笑った。笑いながら、窓の外を見た。そのとき一瞬だけ、江本さんの顔から表情が抜けた気がした。抜けて、またすぐに戻った。見間違いだったのかもしれない。
授業が終わって片づけていると、葵井さんが身を乗り出してきた。
「ねえ、ほりきたさんって、高校どこ? 京都じゃないよね、言葉が違うもん」
「東京よ」
「東京のどこ?」
少し迷った。迷ってから、本当のことを言った。嘘をつくほどの理由もなかった。
「政府が作った学校。全寮制で、三年間、外と連絡が取れないところ」
葵井さんは、目を丸くした。
「え、何それ! 《修学旅行、ただし三年間》みたいなっ!」
「楽しいものではなかったわ」
「楽しくなかったの?」
「楽しいかどうかを考える暇が、なかったの」
答えてから、言いすぎたと思った。葵井さんは、それ以上は訊かなかった。訊かない代わりに、少しだけ真面目な顔をした。
その横で、
「……外と連絡が取れないって、家族とも?」
貴宮さんが、初めて自分から口を開いた。
「家族とも」
「三年間」
「ええ」
貴宮さんは、それ以上は何も言わなかった。ただ、葵井さんの肩に、軽く手を置いた。何のためにそうしたのか、私には分からなかった。分からなかったけれど、その手は、葵井さんを守る手に見えた。
講義が終わって、一人で学食へ向かった。
五人で行こうと葵井さんに誘われたのを、断った。断ると、葵井さんは「じゃあ今度ね!」と言って、あっさり引き下がった。引き下がり方まで、一週間前と同じだった。
一人で食べる昼食には、慣れている。
孤食、という言葉がある。孤高の孤と、同じ字だ。高くはない。ただ、一人で食べている。
高校の三年間、昼休みに誰かと机を並べたことは、数えるほどしかない。数えるほど、というのは誇張ではなかった。実際に数えられる。そして、その数えられる日の半分以上は、一年生の秋に固まっている。
あの秋のことを、私はなるべく思い出さないようにしている。
本当は、思い出すたびに、何も思い出していないふりをしている。
一年生の春のことだ。
政府が作った全寮制の高校に、私は兄を追って入った。外との連絡は禁じられ、クラス単位で点数を競わされ、点数の足りない者は退学になる。そういう学校だった。
入学式の日、同じクラスに、場違いな男の子が一人いた。
麻雀しか知らない男の子だった。私より二つ年下だったと知ったのは、ずっと後、あの人が学校を去る直前のことだ。
赤木しげる。
赤木くんの席は、教室の後ろの方にあった。
そこで頬杖をついて、たいていは何も聞いていなかった。誰かと馴れ合うことを避けていたのではない。避けるという発想そのものが、あの人にはなかったのだと思う。
一人で十分だと、私はその頃、口に出して言い張っていた。一人で十分な人間は、そんなことを口に出して言ったりしない。そのことに、当時の私は気づいていなかった。
赤木くんは、口に出さなかった。
一人で十分だとも、誰かが必要だとも言わなかった。ただ、そこにいた。教室の後ろで、廊下で、購買の前で。
あの人について覚えているのは、変なことばかりだ。
一度、自動販売機で買った缶を、開けずにポケットに入れるのを見た。買ったのに、飲まなかった。パンを一口かじりながら、振り返りもせずに歩いていったこともある。
どうして缶を開けなかったのか、私は訊かなかった。訊けば、何か答えが返ってくる。返ってきた答えが、子どもの屁理屈だったら困ると思った。屁理屈ではなかったら、もっと困ると思った。
麻雀しか知らない男の子の、気取った真似だと思うことにした。
今は、少しだけ分かる。開けてしまえば、中身は飲むか捨てるかしかない。開けずに持っていれば、まだどちらにもならない。未開封というのは、未だ開いていない、というだけだ。開かない、とは一言も言っていない。あの人は、どちらにもならないものを、ポケットに入れて歩いていたのかもしれない。
ノートのいちばん後ろの紙を、私が開かずに持ち歩いているのと、同じように。
あの人がいる場所は、いつも少しだけ空気が違った。賭場の空気、と後になって言葉にできたけれど、その頃の私には、何が違うのか分からなかった。
分からないまま、私は秋に、あの人の隣に座ることになった。
その夜、部屋でノートを開いた。
いちばん後ろの紙は、開かなかった。開かずに、ノートの背を指でなぞった。
一年生の頃、隣の席には綾小路くんがいた。
目立たない男子だった。目立たないように振る舞っている、と気づいたのは、ずっと後のことだ。成績も運動も、いつも真ん中より少し下。平らに見えるように削るには、もともと尖っているものが要る。誰とも揉めず、誰とも深く付き合わない。何も見ていない顔で、窓の外を見ている。
私はその頃、彼に向かって何度も言った。友達はいらない。一人で十分だ。誰かと馴れ合うために、この学校に来たのではない。
綾小路くんは、そのたびに、ただ聞いていた。否定もしなかったし、同意もしなかった。聞いて、それから、どうでもいいことのように、一言だけ返してきた。
あの一言一言が、どうでもいいことではなかったと分かったのは、彼がいなくなってからだ。
一年生の十月。綾小路くんは、学校を辞めた。負けた者は自分で退学届を出す、という約束の卓があって、彼はその卓で負けた側に座っていた。私も、同じ卓にいた。月曜の朝に出します、と言った彼の声に、迷いはなかった。
一週間後には、赤木くんもいなくなった。
綾小路くんが届を出した翌朝、一時間目の前にノートを開くと、紙が一枚落ちた。いつ挟まれたのか、分からなかった。
字に、見覚えがあった。癖がなくて、誰が書いたのか分からないように書いた字。癖がないことが、綾小路くんの癖だった。
あの学校では、外と連絡が取れない。だから、この番号には、卒業するまでかけられなかった。卒業した今は、かけられる。
かけていない。
かけて、何を言えばいいのか。
赤木くんのいなくなった卓で、私は降りた。降りたまま、ここにいる。
ノートを閉じた。閉じたノートを、鞄の底にしまった。
明日も、鞄に入れて大学へ行く。そして、開かずに持ち帰る。
金曜の午後、大教室の講義が終わった。
隣の隣は、最後まで空いていた。
私は本を閉じ、鞄にしまい、立ち上がった。立ち上がる時に、空いた席を見ないようにした。見ないようにした分だけ、空いた席の形が目に残った。
机の上に、春の日差しが斜めに当たっていた。誰も座っていない席に当たる日差しは、誰かが座っている席に当たる日差しより、少しだけ白い。
来週は来るのだろうか、と思った。
思ってから、すぐに打ち消した。
来ても来なくても、私の座る場所は変わらない。
変わらないはずだ。
廊下に出ると、葵井さんたちの声が遠くで聞こえた。笑い声が四つ。そのうちの一つが、他の三つより少しだけ遅れて重なった。誰の声なのかは、分からなかった。
私は、一つ空けた席のことを考えるのをやめて、階段を降りた。
帰り道、私はまた、あの路地を通った。
雀荘の窓は、今日も少しだけ開いていた。牌を混ぜる音が、二階から降ってきた。乾いていて、細かくて、途切れずに続く音。
先週ここを通った時は、振り返ったら階段を探してしまいそうで、振り返らずに通り過ぎた。
今日は、看板の前で一度だけ立ち止まった。
立ち止まって、二階の窓を見上げた。窓の向こうに、人の影がいくつか動いていた。誰かが牌を切る音がした。誰かが、それを鳴く声がした。
あの卓に、私の席はない。
あったとしても、座り方を、私はもう忘れかけている。
看板から目を離して、歩き出した。今日も、振り返らなかった。振り返らなかったことを、少しだけ後悔しながら、部屋に帰った。