策士というのは、策を持っている人間のことだと思われている。
違う。
策士というのは、相手に策を持たせない人間のことだ。
自分の手の内を増やすより、相手の手の内を減らす方が、ずっと早く勝てる。手が一つしかない相手は、その一つを使うしかない。使う手が分かっている相手との勝負は、勝負ではなく、ただの確認になる。
私は、その確認をされる側に立っていた。
「何のために来たのか、と申しますのは」
萩原さんは、穏やかな声のまま、繰り返した。
中庭の石畳は、まだ濡れていた。夕方の光が、濡れた石の上で薄く伸びていた。萩原さんは、その光の上に、少しも足を濡らさずに立っているように見えた。
「お二人の転入の書類を、拝見しました。拝見して、少し困ってしまいました。書類が、きれいすぎて」
「きれいすぎる」
私は、思わず繰り返した。
「ええ。本物の書類には、少しだけ汚れがあるものです。書き損じの跡や、日付の揃わないところや、誰かが急いで判を押した滲みが。お二人の書類には、それが一つもありませんでした。一つもない書類というのは、書類を作ることに慣れた人が、急いで作ったものです」
隣で、彼が、小さく首を傾げた。さっき吐いた息の続きのように、言った。
「慣れた人が急いで作ったのなら、汚れくらい、わざと付けそうなものだけど」
「わざと付けた汚れは、わざとらしい汚れになります。付けない方が、まだ、ごまかしが利く。お二人の書類を作った方は、それをよくご存じの方なのでしょうね」
萩原さんは、にっこりと笑った。
「それと、もう一つ。あなた」
萩原さんの目が、彼を見た。
「歩き方は、よく練習なさいましたね。座り方も。声も。でも、階段を降りる時だけ、足が、男の人の幅に戻ります。今朝、三度、拝見しました」
彼は、何も言わなかった。
言わなかったけれど、スカートの裾を、ほんの少しだけ握り直した。
私は、背中が冷たくなるのを感じた。
今朝から、私たちは、誰にも見られていないと思っていた。廊下の生徒たちは、誰もこちらを見なかった。見ないふりの上手な子たちだ、と私は思った。
見ないふりをしていたのではなかった。見ていたことを、私たちに気づかせなかっただけだった。
「……それで、私たちをどうするの」
「どうもいたしません。まだ」
まだ、と萩原さんは言った。
紫木さんの、まだ、とは、まるで違う響きだった。紫木さんの、まだ、は、決めていないという意味だった。萩原さんの、まだ、は、もう決めてあることを、まだ口にしていないという意味だった。
「少し、お話を伺いたいだけです。ただ、お二人ご一緒だと、お話の仕方が難しくなるので」
萩原さんは、彼の方へ、半歩だけ体を向けた。
「あなたは、生徒会室へいらしてください。殿方とは、殿方なりのお話の仕方がありますから」
「ぼくだけ?」
「ええ。こちらの方は、ここでお待ちいただきます。お一人では退屈でしょうから、案内の者を付けますね」
萩原さんが、校舎の方を振り返った。
振り返った先の、渡り廊下の柱の陰から、一人の生徒が、ゆらりと出てきた。
ずたずたに裂けた、黒いセーラー服。
一時間目の教室で、窓際の前から三番目の席にいた生徒だった。
「……ゆらぁり」
その生徒は、それだけ言って、私の三歩横に立った。立ったまま、私の方を見なかった。見ないまま、私の首のあたりを、また測っていた。
右手に、何かを持っていた。
刃物だった。
料理に使う包丁よりずっと長くて、ずっと厚い刃物を、その生徒は、傘でも持つように、ぶら下げていた。
「この子は、
萩原さんは、短く言い切って、彼を促した。
彼は、私を見た。
見て、何か言いかけて、やめた。
やめたまま、萩原さんの後について、校舎の中へ消えていった。
中庭に、私と、西条さんが残った。
西条さんは、何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。
言葉を探さなかったわけではない。探して、見つからなかった。この生徒に向かって言うべき言葉が、私の持っている言葉の中に、一つもなかった。
西条さんは、刃物をぶら下げたまま、空を見上げていた。
雲が、ゆっくりと流れていた。
「……ゆらぁりぃ」
私に言ったのではなかった。誰に言ったのでもなかった。空に向かって、自分の揺れ方を確かめているような声だった。
逃げようか、と考えた。
考えて、すぐに打ち消した。三歩の距離は、走れば一息で詰められる。走る前の一歩目で、首に刃物が届く。届く速さを、私は見たことがない。見たことがないのに、届くことだけは分かった。
助けを呼ぼうか、と考えた。
呼ぶには、息を吐かなければならない。大きな声で呼ぶには、大きく吐かなければならない。大きく吐けば、吐いた息の分だけ胸が動く。動いた胸を、この生徒は見逃さない。呼ぶ前に、呼んだことが知られてしまう。呼べば来る、と潤さんは言った。呼ばなくても来る、とも。
どうやって呼べばいいのかは、聞いていなかった。
鞄の中で、スマートフォンが震えた。
震え方で、電話だと分かった。
知らない番号だった。
西条さんは、震えた鞄の方を、ちらりとも見なかった。見ないまま、刃物を持つ手の指が、一本だけ動いた。
私は、ゆっくりと、鞄に手を入れた。
鞄の中の手が、スマートフォンより先に、ノートの角に触れた。いちばん後ろのページに十一桁の数字が書いてあるノートだ。触れたのは偶然だった。偶然なのに、指は、そこで一度止まった。
この電話が、あの番号からなら、と一瞬だけ思った。
思ってから、画面を見る前に、もう知っていたことに気づいた。あの人は、かけてこない。四度電話して、四度とも、かけたのは私の方だった。
かけてこない人の電話を、震えた鞄の中に一瞬だけ探した自分を、私は、刃物の前で、少しだけ軽蔑した。
ゆっくり、と自分に言い聞かせた。速く動けば、速く動いたと思われる。速く動いたと思われたら、その速さに合わせて、刃物が動く。
スマートフォンを耳に当てた。
『堀北さんですね』
穏やかな声だった。
聞き覚えのある声だった。聞き覚えがあるのに、すぐには誰なのか分からなかった。分からなかったのは、その声を、電話越しに聞いたことが一度もなかったからだ。
『お久しぶりです。坂柳です』
息が、止まった。
『突然のお電話、失礼いたします。番号は、綾小路くんから頂きました』
坂柳さん。
一年生の秋、あの卓の向かいに座っていた人。私の兄を、私に何の断りもなく、賭けの台に載せた人。
綾小路くんと同じ朝に、学校を去った人。
『……どうして』
『どうして、というのは、どうして番号を知っているのか、という意味でしょうか。それとも、どうして今、という意味でしょうか』
坂柳さんは、少しだけ笑った。ふふっ、と、息を吐くような笑い方だった。
『前者でしたら、もうお答えしました。後者は、偶然です。……ただ、今のあなたの声を聞く限り、綾小路くんの予想は、当たったようですね。堀北さんは、いずれ、自分では抜け出せない場所に座るだろう。その時のために、と言って、彼はあなたの番号を私に渡しました』
《いずれ、自分では抜け出せない場所に座る》
綾小路くんは、それを予想していた。
予想して、自分ではなく、坂柳さんに番号を渡した。
『あの人は、自分で電話をかけてこないのね』
『かけない方が、損がないと考えたのでしょうね。あなたがかければ、彼は答えます。でも、彼からかければ、それは彼の手になる。綾小路くんは、自分の手を、あなたの盤面に置きたくないのです』
私は、何も言えなかった。
『それと、もう一つ。これは、私の都合です』
坂柳さんの声が、ほんの少しだけ、低くなった。
『一年生の秋、私は、あなたのお兄さんを、あなたに断らずに賭けの台に載せました。勝ち負けがついて、もう済んだことではありますが、済んだことと、詫びたことは、別のことです』
『……』
『ですから、今日は、お手伝いをさせてください。お詫びの、一つ目として』
一つ目、と坂柳さんは言った。
二つ目があるのかどうかを、私は訊かなかった。
訊く前に、西条さんが、一歩、こちらに近づいた。
『今、どこにいらっしゃいますか。状況だけ、短く』
坂柳さんの声が、変わった。
穏やかなのは同じだった。ただ、言葉の一つ一つが、置かれる場所を決めてから置かれているように聞こえた。
私は、小声で話した。澄百合学園。潜入。連れ出す相手。
坂柳さんは、黙って聞いていた。
綾小路くんとは違う黙り方だった。綾小路くんは、聞きながら、何も考えていないように黙る。坂柳さんは、聞きながら、全部を並べ替えているように黙った。
『萩原さんという方は、お二人を分けましたね』
『ええ』
『分けたのは、お二人から、同じ質問の答えを、別々に取るためです。答えが揃えば、本当のことだと分かる。揃わなければ、どちらかが嘘をついていると分かる。どちらにしても、萩原さんは、何かが分かります』
『……私は、どうすればいいの』
『何もしないでください』
即答だった。
『あなたが何か答えれば、それは、萩原さんが待っている答えの片方になります。答えなければ、片方が欠けます。欠けた答えからは、何も分かりません。分からないことは、こういう手を打つ方にとって、いちばん困ることです』
『でも、訊かれたら』
『訊かれたら、訊き返してください。質問には、質問で。萩原さんが一つ訊いたら、あなたも一つ訊く。答えは渡さず、質問だけを渡す。そうしているあいだは、盤面が一手も進みません』
一手も進まない。
一年生の秋、あの卓で、私は一手ごとに、何かを失っていた。振り込むたびに、点棒が減った。減った点棒は、戻らなかった。
進めないことで、守れるものがある。
『時間を稼ぐ、ということね』
『時間を稼ぐ、ということです。その学園にはもう一人、外から入っている方がいらっしゃるのでしょう。その方が来るまで、盤面を止めておけば足ります』
潤さんのことを、私は、まだ話していなかった。
話していないのに、坂柳さんは、もう一人いることを知っていた。
『……どうして分かるの』
『あなたが、怖がっていないからです』
坂柳さんは、少しだけ笑った。
『刃物を持った人が二歩先にいて、そんな声で話せる人は、来ることを知っている誰かを待っている人です。そうでなければ、ただの愚か者です。堀北さんは、そうですね。愚か者ではありません、私はあの卓でそれを理解しています。』
怖がっていない。
自分では、分からなかった。分からなかったけれど、言われてみれば、私の声は、少しも震えていなかった。
震えていないのは、怖くないからではなかった。
怖いのに、降りるつもりが、どこにもないからだった。
降りるつもりがないなら、座っているしかない。座っている人間は、震えない。震えるのは、立ち上がろうとして、立ち上がれない人間の方だ。
『最後に、一つだけ』
坂柳さんが言った。
『その刃物の方が近づいてきても、動かないでください。逃げる人は、追いかけられます。動かない人は、追いかけようがありません』
私は、通話を切らないまま、スマートフォンを胸ポケットに差し込んだ。
西条さんが、私の前に立った。
二歩。一歩。
刃物の先が、私の首の横に、そっと当たった。
冷たかった。
切れてはいなかった。当てただけだった。当てたまま、西条さんは、首を傾げた。
近くで見ると、西条さんの目は、驚くほど幼かった。幼くて、ぼんやりしていて、焦点がどこにも合っていなかった。合っていないのに、刃物の先だけは、一ミリも揺れていなかった。
「……ゆらぁり」
西条さんが、私の顔を覗き込んだ。
私は、動かなかった。
逃げなかった。目を逸らさなかった。息も、止めなかった。止めたら、止めたことが、刃物に伝わる気がした。
あの日曜日の卓で、三度振り込んだ時も、私は、こうして座っていた。座っていることしか、できなかった。
座っていることしかできない人間が、座っている。
それだけのことだった。
西条さんの首が、反対側に傾いた。
傾いたまま、しばらく、私を見ていた。
見ていて、それから、ほんの少しだけ、眉を寄せた。
「……逃げないの」
初めて、意味のある言葉だった。
私は、答えなかった。答えの代わりに、坂柳さんに言われたとおり、訊き返した。
「あなたは、どうして、切らないの」
西条さんは、目を丸くした。
丸くして、それから、ゆっくりと、刃物を下ろした。
下ろした刃物を、また傘のようにぶら下げて、一歩、後ろに下がった。
「……ゆらぁりぃ」
さっきより、少しだけ、楽しそうに聞こえた。
楽しそうに聞こえたのは、私の耳のせいかもしれなかった。
萩原さんが戻ってきたのは、それから十分ほど経ってからだった。
一人だった。
「お待たせいたしました」
萩原さんは、私と西条さんを見比べて、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
細めた目が、西条さんの下ろされた刃物の上で止まった。止まって、すぐに私の顔に戻った。
「……彼は」
私は訊いた。
「生徒会室で、少しお休みいただいています。ご心配なく。お話は、とても楽しかったです。あの方は、言葉で遊ぶのがお上手ですね。私も、少しだけ、遊ばせていただきました」
遊ばせていただいた、と萩原さんは言った。
何をして遊んだのかは、言わなかった。
「では、あなたにも、同じことを伺います。お二人は、何のために、この学園にいらしたのですか」
訊かれた。
答えれば、彼の答えと、揃うか、揃わないかが分かる。
私は、坂柳さんの声を思い出した。《質問には、質問で》。
「彼は、何と答えたの」
萩原さんの笑顔が、ほんの少しだけ、固まった。
固まって、すぐに戻った。
「それを申し上げたら、あなたは、同じことを答えるでしょう」
「同じことを答えたら、あなたは、何が分かるの」
「本当のことが分かります」
「揃った答えが本当だと、どうして分かるの。二人で、同じ嘘を決めてきたのかもしれないのに」
萩原さんは、黙った。
黙ったのは、ほんの一秒だった。
「では、質問を変えます」
萩原さんは、声の高さを一つも変えずに言った。
「紫木一姫さんを、ご存じですか」
喉の奥で、何かが、一度だけ引っかかった。
知っている、と言えば、連れ出す相手を渡すことになる。知らない、と言えば、嘘を一つ渡すことになる。どちらを渡しても、この人の手の中で、何かが一つ揃う。
私は、引っかかったものを、飲み込んだ。
「知っていたら、あなたは、何が分かるの」
萩原さんは、また、黙った。
今度は、一秒より、少しだけ長かった。
そのあいだに、萩原さんの目の奥で、何かがいくつも並べ替えられたように見えた。並べ替えて、並べ替えて、最後に、一つの形に落ち着いたように見えた。
「……なるほど」
萩原さんは、にっこりと笑った。
さっきまでの笑顔とは、少しだけ違う笑顔だった。
「あなたは、答えを持っていないのではなく、答えを渡さないことにしたのですね。どなたかの入れ知恵でしょうか。それとも、あなたご自身の」
「さあ」
私は言った。
「それを答えたら、あなたは、何が分かるの」
萩原さんは、今度こそ、声を立てて笑った。
上品な笑い声だった。上品なのに、笑い声の端が、少しだけ冷たかった。
「今日のところは、私の負けにしておきます」
その時だった。
校舎の向こうで、何かが壊れる音がした。
大きな音だった。扉が一枚、蝶番ごと外れたような音だった。続いて、誰かの悲鳴と、誰かの笑い声が、同時に聞こえた。
笑い声の方に、聞き覚えがあった。
萩原さんが、音の方を振り返った。振り返って、ほんの少しだけ、眉を寄せた。
「……そちらの方も、いらしていたのですね」
萩原さんは、私に向き直って、丁寧に頭を下げた。
「失礼いたします。お話の続きは、また後ほど。玉藻、行きましょう」
西条さんは、刃物をぶら下げたまま、萩原さんの後について歩き出した。
歩き出して、一度だけ、こちらを振り返った。
「……またね」
私に向けた、別れの言葉だった。
二人の姿が、渡り廊下の向こうに消えた。
胸ポケットの中で、スマートフォンは、まだ通話中だった。
私は、それを耳に当てた。
『終わりましたか』
坂柳さんの声は、さっきと少しも変わっていなかった。
『……ええ。今日のところは、と言っていたわ』
『今日のところは、と言う方は、明日の手を、もう決めています。お気をつけて』
坂柳さんは、少しだけ間を置いた。
『それと、堀北さん』
『何』
『あなたは、何もしませんでしたね』
『あなたが、何もするなと言ったのよ』
『ええ。言いました。でも、言われて何もせずにいられる人は、そう多くありません。刃物の前では、なおさらです』
坂柳さんは、ふふっ、と笑った。
『一年生の秋、あの卓で、あなたは三度振り込みました。三度振り込んで、席を立たなかった。私は、向かいの席で、それを見ていました。あの時、少しだけ、不思議に思ったのです。この人は、何を持っていて、席を立たないのだろう、と』
『……何も、持っていなかったわ』
『そうでしょうね。今日、分かりました』
坂柳さんの声が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。
『何も持っていない人が、席を立たない。それは、持っている人が席を立たないのより、ずっと扱いにくいのです。萩原さんも、今ごろ、そう思っていらっしゃるでしょう』
通話が、切れた。
切ったのは、向こうだった。
私は、スマートフォンを耳から離して、画面を見た。
知らない番号が、通話履歴のいちばん上に並んでいた。その少し下に、櫛田さんの名前があった。さらにその下に、十一桁の、名前のない番号があった。
知らない番号と、名前のない番号が、同じ画面の中にあった。
一つは、かけてこない人の番号。一つは、かけてきた人の番号。
私は、新しい方の番号を、連絡先に登録した。かけてきた人の番号だけが、名前を持つことになった。
名前の欄に、坂柳、と打ち込んだ。
打ち込んでから、少しだけ迷って、その後ろに、さん、と付け足した。
校舎の中から、彼が出てきたのは、日が沈みかけた頃だった。
顔色が、いつもより、さらに悪かった。
「……大丈夫なの」
「大丈夫じゃないけど、生きてはいる」
彼は、私の隣に立った。立って、今度は、一つ空けた。
「生徒会室で、何をしていたの」
「ちょっとした、クイズをしただけだよ」
「クイズ」
「うん。ぼくが出して、あの人が解いた」
彼は、それ以上は言わなかった。
言わないまま、暮れていく空を見上げていた。見上げている横顔は、何かを一つ、取られた人間の顔に見えた。
何を取られたのかを、私は訊かなかった。
訊けば、彼は答えるかもしれない。答えなくても、私は、何かを察してしまうかもしれない。察したものは、私の持ち物になる。彼が取られたものを、私が持つ理由は、どこにもなかった。
一つ空けた席の向こうにあるものは、一つ空けた席の向こうに、置いておく。
それが、この男の隣の隣に座る、いちばん正しい座り方なのだと、私は思った。
「やっほー、お二人さん」
暗くなりかけた中庭に、場違いに明るい声が響いた。
渡り廊下の屋根の上から、赤い人が飛び降りてきた。飛び降りて、濡れた石畳の上に、音もなく着地した。着地した拍子に、ワインレッドのスーツの裾が、一度だけ翻った。
「さっきの音は、潤さんですか」
「ん? ああ、扉が一枚、勝手に外れたんだよ。古い学校だからねー、これが」
潤さんは、楽しそうに言った。楽しそうに言いながら、私の顔を、上から下まで一度だけ眺めた。
「さっき、子荻ちゃんとすれ違ったよ。珍しく、つまんなそうな顔してた。あんたでしょ」
「私は、何もしていません」
「何もしないで、あの子にあの顔をさせたなら、やるじゃん」
すれ違っただけで、そこまで読んだらしかった。
「それと、玉藻ちゃん。刃物、抜いたのに、使った跡がなかった。あんた、あの子の前で、動かなかったでしょ」
「……動けなかっただけです」
「動けないのと、動かないのは、違うんだよ」
「一字違いですね」
「その一字が、全部なんだよ」
潤さんは、片方の口の端を上げた。
「動けない奴は、震えるの。あんたは、震えてなかった。……その座り方、どこで覚えたのかは、あとでゆっくり聞かせてもらうよ。今は、それどころじゃないからね」
それどころではない。
その言い方が、少しだけ引っかかった。この人にとって、それどころではないことが、この学園にあるのだろうか。
「作戦、変えるよ」
潤さんは、彼の方を見た。彼は、一つ空けた場所で、壁にもたれていた。
「この学校の生徒を、一人ずつ相手にするのは、面倒くさい。全員、子荻ちゃんの駒だからね。駒を一個ずつ倒しても、指してる奴が無事なら、盤面は終わらない」
盤面、と潤さんは言った。坂柳さんと同じ言葉だった。
「だから、指してる奴の、さらに上に行く。明日の朝、理事長に直談判する。姫ちゃんを、自主退学ってことにしてもらう。学校が自分で出すって決めたら、誰も追いかけてこられないでしょ」
自主退学。
自分で、退く。
その言葉を、私は、何度も聞いたことがあった。
一年生の十月。綾小路くんが、退学届を出した。同じ朝に、坂柳さんも出した。一週間後に、赤木くんもいなくなった。二年生のどこかで、佐倉さんも、自分で学校を辞めた。
綾小路くんの時だけは、その場にいた。ほかの人が自分で退いたことは、いつも、後から知った。
知った時には、席はもう、空いていた。
「……紫木さんは、それを望んでいるんですか」
潤さんは、少しだけ私を見た。
見て、それから、肩をすくめた。
「さあね。それは、本人に訊いてみな」
それだけ言って、潤さんは、また屋根の上に跳び上がった。
暗い空に、赤い色が、一瞬だけ見えて、消えた。
中庭に、私と、彼が残った。
「出たら、何をすればいいのか分からない、と言っていたわ」
私は言った。
「紫木さん」
「言ってたね」
彼は、壁にもたれたまま、空を見ていた。
「明日、あの子は、自分で退く理由を、誰かに作ってもらうことになる。作ってもらった理由で、外に出る」
「それは、悪いこと?」
「さあ。ぼくは、いつも、誰かに作ってもらった理由で、外に出てきたから」
彼は、それ以上は言わなかった。
言わないまま、校舎の方へ歩き出した。
一つ空けて、私も、歩き出した。
宿舎の部屋に戻ると、壁の向こうは、昨夜よりも静かだった。
物音一つしなかった。椅子を引く音も、溜め息も。眠っているのかもしれなかった。眠っていてほしい、と思った。思ったことに、少しだけ驚いた。
寝台に腰を下ろして、スマートフォンの画面をもう一度見た。
坂柳さん。
登録したばかりの名前が、連絡先の中で、まだ少しだけ浮いていた。浮いているように見えたのは、たぶん、私の目のせいだった。
一年生の秋、あの人は、私に何も言わずに、兄さんを賭けの台に載せた。
賭けの台に載ったのは、兄さんだった。兄さんは、それを知っていて、黙って座っていた。座っていた兄さんの顔を、私は、まっすぐに見られなかった。
あの時、私は、坂柳さんを許さないと思った。
許さない、と思ったことは覚えている。いつ許したのかは、覚えていない。たぶん、許していない。許さないまま、二年半が過ぎて、許さないことを、思い出さなくなっていた。
思い出さなくなることと、許すことは、違う。
違うのに、今日、あの人の声を聞いた時、私は、許していないことを、少しも思い出さなかった。
お詫び、と坂柳さんは言った。
詫びる、と、侘しい、は、偏が違うだけだ。言葉を添えれば詫びになり、人だけが残れば侘しくなる。
坂柳さんの詫び方は、言葉ではなかった。
何もしないでください、と言った。訊かれたら訊き返せ、と言った。刃物の前で動くな、と言った。あれは、詫びの言葉ではなく、詫びの手だった。
手で詫びる人に、言葉で許すと言うのは、たぶん、釣り合わない。
だから、言わないでおくことにした。
通話履歴の画面に戻ると、いちばん下に、十一桁の、名前のない番号があった。
綾小路くんは、それを予想して、坂柳さんに番号を渡したらしい。
予想されていた、ということに、腹が立った。
腹が立って、それから、腹が立つ理由を探した。予想が外れていれば、腹は立たなかった。当たっていたから、腹が立った。
私は、自分では抜け出せない場所に座っている。
抜け出せない、というのは、正確ではない。
今日の夕方、潤さんが屋根の上から飛び降りてきた時、私は、抜け出そうと思えば、抜け出せた。明日の朝、通用口から出て、駅まで歩けば、それで済む。誰も、追いかけてはこない。
抜け出せるのに、座っている。
綾小路くんは、たぶん、そこまで予想していた。予想していて、自分では電話をかけてこなかった。
私は、どちらにもかけずに、画面を消した。
壁の向こうで、ようやく、小さな物音がした。寝返りを打つような音だった。
それきり、また静かになった。
静かになった壁に、私は、少しだけ背中をつけた。
冷たかった。冷たい壁の向こうに、何かを一つ取られた人間が、眠っていた。
取られたものを、私は知らない。
知らないまま、壁に背中をつけて、目を閉じた。
廊下を通る足音は、今夜も、一つもしなかった。しないことに、もう慣れ始めていた。