ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第10話 策師(錯視)

策士というのは、策を持っている人間のことだと思われている。

 

違う。

 

策士というのは、相手に策を持たせない人間のことだ。

 

自分の手の内を増やすより、相手の手の内を減らす方が、ずっと早く勝てる。手が一つしかない相手は、その一つを使うしかない。使う手が分かっている相手との勝負は、勝負ではなく、ただの確認になる。

 

私は、その確認をされる側に立っていた。

 

 

 

 

 

「何のために来たのか、と申しますのは」

 

萩原さんは、穏やかな声のまま、繰り返した。

 

中庭の石畳は、まだ濡れていた。夕方の光が、濡れた石の上で薄く伸びていた。萩原さんは、その光の上に、少しも足を濡らさずに立っているように見えた。

 

「お二人の転入の書類を、拝見しました。拝見して、少し困ってしまいました。書類が、きれいすぎて」

 

「きれいすぎる」

 

私は、思わず繰り返した。

 

「ええ。本物の書類には、少しだけ汚れがあるものです。書き損じの跡や、日付の揃わないところや、誰かが急いで判を押した滲みが。お二人の書類には、それが一つもありませんでした。一つもない書類というのは、書類を作ることに慣れた人が、急いで作ったものです」

 

隣で、彼が、小さく首を傾げた。さっき吐いた息の続きのように、言った。

 

「慣れた人が急いで作ったのなら、汚れくらい、わざと付けそうなものだけど」

 

「わざと付けた汚れは、わざとらしい汚れになります。付けない方が、まだ、ごまかしが利く。お二人の書類を作った方は、それをよくご存じの方なのでしょうね」

 

萩原さんは、にっこりと笑った。

 

「それと、もう一つ。あなた」

 

萩原さんの目が、彼を見た。

 

「歩き方は、よく練習なさいましたね。座り方も。声も。でも、階段を降りる時だけ、足が、男の人の幅に戻ります。今朝、三度、拝見しました」

 

彼は、何も言わなかった。

 

言わなかったけれど、スカートの裾を、ほんの少しだけ握り直した。

 

私は、背中が冷たくなるのを感じた。

 

今朝から、私たちは、誰にも見られていないと思っていた。廊下の生徒たちは、誰もこちらを見なかった。見ないふりの上手な子たちだ、と私は思った。

 

見ないふりをしていたのではなかった。見ていたことを、私たちに気づかせなかっただけだった。

 

「……それで、私たちをどうするの」

 

「どうもいたしません。まだ」

 

まだ、と萩原さんは言った。

 

紫木さんの、まだ、とは、まるで違う響きだった。紫木さんの、まだ、は、決めていないという意味だった。萩原さんの、まだ、は、もう決めてあることを、まだ口にしていないという意味だった。

 

「少し、お話を伺いたいだけです。ただ、お二人ご一緒だと、お話の仕方が難しくなるので」

 

萩原さんは、彼の方へ、半歩だけ体を向けた。

 

「あなたは、生徒会室へいらしてください。殿方とは、殿方なりのお話の仕方がありますから」

 

「ぼくだけ?」

 

「ええ。こちらの方は、ここでお待ちいただきます。お一人では退屈でしょうから、案内の者を付けますね」

 

萩原さんが、校舎の方を振り返った。

 

振り返った先の、渡り廊下の柱の陰から、一人の生徒が、ゆらりと出てきた。

 

ずたずたに裂けた、黒いセーラー服。

 

一時間目の教室で、窓際の前から三番目の席にいた生徒だった。

 

「……ゆらぁり」

 

その生徒は、それだけ言って、私の三歩横に立った。立ったまま、私の方を見なかった。見ないまま、私の首のあたりを、また測っていた。

 

右手に、何かを持っていた。

 

刃物だった。

 

料理に使う包丁よりずっと長くて、ずっと厚い刃物を、その生徒は、傘でも持つように、ぶら下げていた。

 

「この子は、西条玉藻(さいじょうたまも)といいます。あまりお喋りではありませんが、よろしくお願いしますね」

 

萩原さんは、短く言い切って、彼を促した。

 

彼は、私を見た。

 

見て、何か言いかけて、やめた。

 

やめたまま、萩原さんの後について、校舎の中へ消えていった。

 

 

 

 

 

中庭に、私と、西条さんが残った。

 

西条さんは、何も言わなかった。

 

私も、何も言わなかった。

 

言葉を探さなかったわけではない。探して、見つからなかった。この生徒に向かって言うべき言葉が、私の持っている言葉の中に、一つもなかった。

 

西条さんは、刃物をぶら下げたまま、空を見上げていた。

 

雲が、ゆっくりと流れていた。

 

「……ゆらぁりぃ」

 

私に言ったのではなかった。誰に言ったのでもなかった。空に向かって、自分の揺れ方を確かめているような声だった。

 

逃げようか、と考えた。

 

考えて、すぐに打ち消した。三歩の距離は、走れば一息で詰められる。走る前の一歩目で、首に刃物が届く。届く速さを、私は見たことがない。見たことがないのに、届くことだけは分かった。

 

助けを呼ぼうか、と考えた。

 

呼ぶには、息を吐かなければならない。大きな声で呼ぶには、大きく吐かなければならない。大きく吐けば、吐いた息の分だけ胸が動く。動いた胸を、この生徒は見逃さない。呼ぶ前に、呼んだことが知られてしまう。呼べば来る、と潤さんは言った。呼ばなくても来る、とも。

 

どうやって呼べばいいのかは、聞いていなかった。

 

鞄の中で、スマートフォンが震えた。

 

震え方で、電話だと分かった。

 

知らない番号だった。

 

西条さんは、震えた鞄の方を、ちらりとも見なかった。見ないまま、刃物を持つ手の指が、一本だけ動いた。

 

私は、ゆっくりと、鞄に手を入れた。

 

鞄の中の手が、スマートフォンより先に、ノートの角に触れた。いちばん後ろのページに十一桁の数字が書いてあるノートだ。触れたのは偶然だった。偶然なのに、指は、そこで一度止まった。

 

この電話が、あの番号からなら、と一瞬だけ思った。

 

思ってから、画面を見る前に、もう知っていたことに気づいた。あの人は、かけてこない。四度電話して、四度とも、かけたのは私の方だった。

 

かけてこない人の電話を、震えた鞄の中に一瞬だけ探した自分を、私は、刃物の前で、少しだけ軽蔑した。

 

ゆっくり、と自分に言い聞かせた。速く動けば、速く動いたと思われる。速く動いたと思われたら、その速さに合わせて、刃物が動く。

 

スマートフォンを耳に当てた。

 

 

 

『堀北さんですね』

 

 

 

穏やかな声だった。

 

聞き覚えのある声だった。聞き覚えがあるのに、すぐには誰なのか分からなかった。分からなかったのは、その声を、電話越しに聞いたことが一度もなかったからだ。

 

 

 

『お久しぶりです。坂柳です』

 

 

 

息が、止まった。

 

『突然のお電話、失礼いたします。番号は、綾小路くんから頂きました』

 

坂柳さん。

 

一年生の秋、あの卓の向かいに座っていた人。私の兄を、私に何の断りもなく、賭けの台に載せた人。

 

綾小路くんと同じ朝に、学校を去った人。

 

『……どうして』

 

『どうして、というのは、どうして番号を知っているのか、という意味でしょうか。それとも、どうして今、という意味でしょうか』

 

坂柳さんは、少しだけ笑った。ふふっ、と、息を吐くような笑い方だった。

 

『前者でしたら、もうお答えしました。後者は、偶然です。……ただ、今のあなたの声を聞く限り、綾小路くんの予想は、当たったようですね。堀北さんは、いずれ、自分では抜け出せない場所に座るだろう。その時のために、と言って、彼はあなたの番号を私に渡しました』

 

《いずれ、自分では抜け出せない場所に座る》

 

綾小路くんは、それを予想していた。

 

予想して、自分ではなく、坂柳さんに番号を渡した。

 

『あの人は、自分で電話をかけてこないのね』

 

『かけない方が、損がないと考えたのでしょうね。あなたがかければ、彼は答えます。でも、彼からかければ、それは彼の手になる。綾小路くんは、自分の手を、あなたの盤面に置きたくないのです』

 

私は、何も言えなかった。

 

『それと、もう一つ。これは、私の都合です』

 

坂柳さんの声が、ほんの少しだけ、低くなった。

 

『一年生の秋、私は、あなたのお兄さんを、あなたに断らずに賭けの台に載せました。勝ち負けがついて、もう済んだことではありますが、済んだことと、詫びたことは、別のことです』

 

『……』

 

『ですから、今日は、お手伝いをさせてください。お詫びの、一つ目として』

 

一つ目、と坂柳さんは言った。

 

二つ目があるのかどうかを、私は訊かなかった。

 

訊く前に、西条さんが、一歩、こちらに近づいた。

 

 

 

 

 

『今、どこにいらっしゃいますか。状況だけ、短く』

 

坂柳さんの声が、変わった。

 

穏やかなのは同じだった。ただ、言葉の一つ一つが、置かれる場所を決めてから置かれているように聞こえた。

 

私は、小声で話した。澄百合学園。潜入。連れ出す相手。萩原子荻(はぎはらしおぎ)という生徒。書類を見抜かれたこと。彼だけが連れていかれたこと。ずたずたの服を着た、刃物を持った生徒が、三歩先にいること。今は、二歩だということ。

 

坂柳さんは、黙って聞いていた。

 

綾小路くんとは違う黙り方だった。綾小路くんは、聞きながら、何も考えていないように黙る。坂柳さんは、聞きながら、全部を並べ替えているように黙った。

 

『萩原さんという方は、お二人を分けましたね』

 

『ええ』

 

『分けたのは、お二人から、同じ質問の答えを、別々に取るためです。答えが揃えば、本当のことだと分かる。揃わなければ、どちらかが嘘をついていると分かる。どちらにしても、萩原さんは、何かが分かります』

 

『……私は、どうすればいいの』

 

『何もしないでください』

 

即答だった。

 

『あなたが何か答えれば、それは、萩原さんが待っている答えの片方になります。答えなければ、片方が欠けます。欠けた答えからは、何も分かりません。分からないことは、こういう手を打つ方にとって、いちばん困ることです』

 

『でも、訊かれたら』

 

『訊かれたら、訊き返してください。質問には、質問で。萩原さんが一つ訊いたら、あなたも一つ訊く。答えは渡さず、質問だけを渡す。そうしているあいだは、盤面が一手も進みません』

 

一手も進まない。

 

一年生の秋、あの卓で、私は一手ごとに、何かを失っていた。振り込むたびに、点棒が減った。減った点棒は、戻らなかった。

 

進めないことで、守れるものがある。

 

『時間を稼ぐ、ということね』

 

『時間を稼ぐ、ということです。その学園にはもう一人、外から入っている方がいらっしゃるのでしょう。その方が来るまで、盤面を止めておけば足ります』

 

潤さんのことを、私は、まだ話していなかった。

 

話していないのに、坂柳さんは、もう一人いることを知っていた。

 

『……どうして分かるの』

 

『あなたが、怖がっていないからです』

 

坂柳さんは、少しだけ笑った。

 

『刃物を持った人が二歩先にいて、そんな声で話せる人は、来ることを知っている誰かを待っている人です。そうでなければ、ただの愚か者です。堀北さんは、そうですね。愚か者ではありません、私はあの卓でそれを理解しています。』

 

怖がっていない。

 

自分では、分からなかった。分からなかったけれど、言われてみれば、私の声は、少しも震えていなかった。

 

震えていないのは、怖くないからではなかった。

 

怖いのに、降りるつもりが、どこにもないからだった。

 

降りるつもりがないなら、座っているしかない。座っている人間は、震えない。震えるのは、立ち上がろうとして、立ち上がれない人間の方だ。

 

『最後に、一つだけ』

 

坂柳さんが言った。

 

『その刃物の方が近づいてきても、動かないでください。逃げる人は、追いかけられます。動かない人は、追いかけようがありません』

 

私は、通話を切らないまま、スマートフォンを胸ポケットに差し込んだ。

 

 

 

 

 

西条さんが、私の前に立った。

 

二歩。一歩。

 

刃物の先が、私の首の横に、そっと当たった。

 

冷たかった。

 

切れてはいなかった。当てただけだった。当てたまま、西条さんは、首を傾げた。

 

近くで見ると、西条さんの目は、驚くほど幼かった。幼くて、ぼんやりしていて、焦点がどこにも合っていなかった。合っていないのに、刃物の先だけは、一ミリも揺れていなかった。

 

「……ゆらぁり」

 

西条さんが、私の顔を覗き込んだ。

 

私は、動かなかった。

 

逃げなかった。目を逸らさなかった。息も、止めなかった。止めたら、止めたことが、刃物に伝わる気がした。

 

あの日曜日の卓で、三度振り込んだ時も、私は、こうして座っていた。座っていることしか、できなかった。

 

座っていることしかできない人間が、座っている。

 

それだけのことだった。

 

西条さんの首が、反対側に傾いた。

 

傾いたまま、しばらく、私を見ていた。

 

見ていて、それから、ほんの少しだけ、眉を寄せた。

 

「……逃げないの」

 

初めて、意味のある言葉だった。

 

私は、答えなかった。答えの代わりに、坂柳さんに言われたとおり、訊き返した。

 

「あなたは、どうして、切らないの」

 

西条さんは、目を丸くした。

 

丸くして、それから、ゆっくりと、刃物を下ろした。

 

下ろした刃物を、また傘のようにぶら下げて、一歩、後ろに下がった。

 

「……ゆらぁりぃ」

 

さっきより、少しだけ、楽しそうに聞こえた。

 

楽しそうに聞こえたのは、私の耳のせいかもしれなかった。

 

 

 

 

 

萩原さんが戻ってきたのは、それから十分ほど経ってからだった。

 

一人だった。

 

「お待たせいたしました」

 

萩原さんは、私と西条さんを見比べて、ほんの一瞬だけ、目を細めた。

 

細めた目が、西条さんの下ろされた刃物の上で止まった。止まって、すぐに私の顔に戻った。

 

「……彼は」

 

私は訊いた。

 

「生徒会室で、少しお休みいただいています。ご心配なく。お話は、とても楽しかったです。あの方は、言葉で遊ぶのがお上手ですね。私も、少しだけ、遊ばせていただきました」

 

遊ばせていただいた、と萩原さんは言った。

 

何をして遊んだのかは、言わなかった。

 

「では、あなたにも、同じことを伺います。お二人は、何のために、この学園にいらしたのですか」

 

訊かれた。

 

答えれば、彼の答えと、揃うか、揃わないかが分かる。

 

私は、坂柳さんの声を思い出した。《質問には、質問で》。

 

「彼は、何と答えたの」

 

萩原さんの笑顔が、ほんの少しだけ、固まった。

 

固まって、すぐに戻った。

 

「それを申し上げたら、あなたは、同じことを答えるでしょう」

 

「同じことを答えたら、あなたは、何が分かるの」

 

「本当のことが分かります」

 

「揃った答えが本当だと、どうして分かるの。二人で、同じ嘘を決めてきたのかもしれないのに」

 

萩原さんは、黙った。

 

黙ったのは、ほんの一秒だった。

 

「では、質問を変えます」

 

萩原さんは、声の高さを一つも変えずに言った。

 

「紫木一姫さんを、ご存じですか」

 

喉の奥で、何かが、一度だけ引っかかった。

 

知っている、と言えば、連れ出す相手を渡すことになる。知らない、と言えば、嘘を一つ渡すことになる。どちらを渡しても、この人の手の中で、何かが一つ揃う。

 

私は、引っかかったものを、飲み込んだ。

 

「知っていたら、あなたは、何が分かるの」

 

萩原さんは、また、黙った。

 

今度は、一秒より、少しだけ長かった。

 

そのあいだに、萩原さんの目の奥で、何かがいくつも並べ替えられたように見えた。並べ替えて、並べ替えて、最後に、一つの形に落ち着いたように見えた。

 

「……なるほど」

 

萩原さんは、にっこりと笑った。

 

さっきまでの笑顔とは、少しだけ違う笑顔だった。

 

「あなたは、答えを持っていないのではなく、答えを渡さないことにしたのですね。どなたかの入れ知恵でしょうか。それとも、あなたご自身の」

 

「さあ」

 

私は言った。

 

 

 

「それを答えたら、あなたは、何が分かるの」

 

 

 

萩原さんは、今度こそ、声を立てて笑った。

 

上品な笑い声だった。上品なのに、笑い声の端が、少しだけ冷たかった。

 

「今日のところは、私の負けにしておきます」

 

その時だった。

 

校舎の向こうで、何かが壊れる音がした。

 

大きな音だった。扉が一枚、蝶番ごと外れたような音だった。続いて、誰かの悲鳴と、誰かの笑い声が、同時に聞こえた。

 

笑い声の方に、聞き覚えがあった。

 

萩原さんが、音の方を振り返った。振り返って、ほんの少しだけ、眉を寄せた。

 

「……そちらの方も、いらしていたのですね」

 

萩原さんは、私に向き直って、丁寧に頭を下げた。

 

「失礼いたします。お話の続きは、また後ほど。玉藻、行きましょう」

 

西条さんは、刃物をぶら下げたまま、萩原さんの後について歩き出した。

 

歩き出して、一度だけ、こちらを振り返った。

 

「……またね」

 

私に向けた、別れの言葉だった。

 

二人の姿が、渡り廊下の向こうに消えた。

 

 

 

 

 

胸ポケットの中で、スマートフォンは、まだ通話中だった。

 

私は、それを耳に当てた。

 

『終わりましたか』

 

坂柳さんの声は、さっきと少しも変わっていなかった。

 

『……ええ。今日のところは、と言っていたわ』

 

『今日のところは、と言う方は、明日の手を、もう決めています。お気をつけて』

 

坂柳さんは、少しだけ間を置いた。

 

『それと、堀北さん』

 

『何』

 

『あなたは、何もしませんでしたね』

 

『あなたが、何もするなと言ったのよ』

 

『ええ。言いました。でも、言われて何もせずにいられる人は、そう多くありません。刃物の前では、なおさらです』

 

坂柳さんは、ふふっ、と笑った。

 

『一年生の秋、あの卓で、あなたは三度振り込みました。三度振り込んで、席を立たなかった。私は、向かいの席で、それを見ていました。あの時、少しだけ、不思議に思ったのです。この人は、何を持っていて、席を立たないのだろう、と』

 

『……何も、持っていなかったわ』

 

『そうでしょうね。今日、分かりました』

 

坂柳さんの声が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。

 

『何も持っていない人が、席を立たない。それは、持っている人が席を立たないのより、ずっと扱いにくいのです。萩原さんも、今ごろ、そう思っていらっしゃるでしょう』

 

通話が、切れた。

 

切ったのは、向こうだった。

 

私は、スマートフォンを耳から離して、画面を見た。

 

知らない番号が、通話履歴のいちばん上に並んでいた。その少し下に、櫛田さんの名前があった。さらにその下に、十一桁の、名前のない番号があった。

 

知らない番号と、名前のない番号が、同じ画面の中にあった。

 

一つは、かけてこない人の番号。一つは、かけてきた人の番号。

 

私は、新しい方の番号を、連絡先に登録した。かけてきた人の番号だけが、名前を持つことになった。

 

名前の欄に、坂柳、と打ち込んだ。

 

打ち込んでから、少しだけ迷って、その後ろに、さん、と付け足した。

 

 

 

 

 

校舎の中から、彼が出てきたのは、日が沈みかけた頃だった。

 

顔色が、いつもより、さらに悪かった。

 

「……大丈夫なの」

 

「大丈夫じゃないけど、生きてはいる」

 

彼は、私の隣に立った。立って、今度は、一つ空けた。

 

「生徒会室で、何をしていたの」

 

「ちょっとした、クイズをしただけだよ」

 

「クイズ」

 

「うん。ぼくが出して、あの人が解いた」

 

彼は、それ以上は言わなかった。

 

言わないまま、暮れていく空を見上げていた。見上げている横顔は、何かを一つ、取られた人間の顔に見えた。

 

何を取られたのかを、私は訊かなかった。

 

訊けば、彼は答えるかもしれない。答えなくても、私は、何かを察してしまうかもしれない。察したものは、私の持ち物になる。彼が取られたものを、私が持つ理由は、どこにもなかった。

 

一つ空けた席の向こうにあるものは、一つ空けた席の向こうに、置いておく。

 

それが、この男の隣の隣に座る、いちばん正しい座り方なのだと、私は思った。

 

 

 

 

 

「やっほー、お二人さん」

 

暗くなりかけた中庭に、場違いに明るい声が響いた。

 

渡り廊下の屋根の上から、赤い人が飛び降りてきた。飛び降りて、濡れた石畳の上に、音もなく着地した。着地した拍子に、ワインレッドのスーツの裾が、一度だけ翻った。

 

「さっきの音は、潤さんですか」

 

「ん? ああ、扉が一枚、勝手に外れたんだよ。古い学校だからねー、これが」

 

潤さんは、楽しそうに言った。楽しそうに言いながら、私の顔を、上から下まで一度だけ眺めた。

 

「さっき、子荻ちゃんとすれ違ったよ。珍しく、つまんなそうな顔してた。あんたでしょ」

 

「私は、何もしていません」

 

「何もしないで、あの子にあの顔をさせたなら、やるじゃん」

 

すれ違っただけで、そこまで読んだらしかった。

 

「それと、玉藻ちゃん。刃物、抜いたのに、使った跡がなかった。あんた、あの子の前で、動かなかったでしょ」

 

「……動けなかっただけです」

 

「動けないのと、動かないのは、違うんだよ」

 

「一字違いですね」

 

「その一字が、全部なんだよ」

 

潤さんは、片方の口の端を上げた。

 

「動けない奴は、震えるの。あんたは、震えてなかった。……その座り方、どこで覚えたのかは、あとでゆっくり聞かせてもらうよ。今は、それどころじゃないからね」

 

それどころではない。

 

その言い方が、少しだけ引っかかった。この人にとって、それどころではないことが、この学園にあるのだろうか。

 

「作戦、変えるよ」

 

潤さんは、彼の方を見た。彼は、一つ空けた場所で、壁にもたれていた。

 

「この学校の生徒を、一人ずつ相手にするのは、面倒くさい。全員、子荻ちゃんの駒だからね。駒を一個ずつ倒しても、指してる奴が無事なら、盤面は終わらない」

 

盤面、と潤さんは言った。坂柳さんと同じ言葉だった。

 

「だから、指してる奴の、さらに上に行く。明日の朝、理事長に直談判する。姫ちゃんを、自主退学ってことにしてもらう。学校が自分で出すって決めたら、誰も追いかけてこられないでしょ」

 

自主退学。

 

自分で、退く。

 

その言葉を、私は、何度も聞いたことがあった。

 

一年生の十月。綾小路くんが、退学届を出した。同じ朝に、坂柳さんも出した。一週間後に、赤木くんもいなくなった。二年生のどこかで、佐倉さんも、自分で学校を辞めた。

 

綾小路くんの時だけは、その場にいた。ほかの人が自分で退いたことは、いつも、後から知った。

 

知った時には、席はもう、空いていた。

 

「……紫木さんは、それを望んでいるんですか」

 

潤さんは、少しだけ私を見た。

 

見て、それから、肩をすくめた。

 

「さあね。それは、本人に訊いてみな」

 

それだけ言って、潤さんは、また屋根の上に跳び上がった。

 

暗い空に、赤い色が、一瞬だけ見えて、消えた。

 

中庭に、私と、彼が残った。

 

「出たら、何をすればいいのか分からない、と言っていたわ」

 

私は言った。

 

「紫木さん」

 

「言ってたね」

 

彼は、壁にもたれたまま、空を見ていた。

 

「明日、あの子は、自分で退く理由を、誰かに作ってもらうことになる。作ってもらった理由で、外に出る」

 

「それは、悪いこと?」

 

「さあ。ぼくは、いつも、誰かに作ってもらった理由で、外に出てきたから」

 

彼は、それ以上は言わなかった。

 

言わないまま、校舎の方へ歩き出した。

 

一つ空けて、私も、歩き出した。

 

 

 

 

 

宿舎の部屋に戻ると、壁の向こうは、昨夜よりも静かだった。

 

物音一つしなかった。椅子を引く音も、溜め息も。眠っているのかもしれなかった。眠っていてほしい、と思った。思ったことに、少しだけ驚いた。

 

寝台に腰を下ろして、スマートフォンの画面をもう一度見た。

 

坂柳さん。

 

登録したばかりの名前が、連絡先の中で、まだ少しだけ浮いていた。浮いているように見えたのは、たぶん、私の目のせいだった。

 

一年生の秋、あの人は、私に何も言わずに、兄さんを賭けの台に載せた。

 

賭けの台に載ったのは、兄さんだった。兄さんは、それを知っていて、黙って座っていた。座っていた兄さんの顔を、私は、まっすぐに見られなかった。

 

あの時、私は、坂柳さんを許さないと思った。

 

許さない、と思ったことは覚えている。いつ許したのかは、覚えていない。たぶん、許していない。許さないまま、二年半が過ぎて、許さないことを、思い出さなくなっていた。

 

思い出さなくなることと、許すことは、違う。

 

違うのに、今日、あの人の声を聞いた時、私は、許していないことを、少しも思い出さなかった。

 

お詫び、と坂柳さんは言った。

 

詫びる、と、侘しい、は、偏が違うだけだ。言葉を添えれば詫びになり、人だけが残れば侘しくなる。

 

坂柳さんの詫び方は、言葉ではなかった。

 

何もしないでください、と言った。訊かれたら訊き返せ、と言った。刃物の前で動くな、と言った。あれは、詫びの言葉ではなく、詫びの手だった。

 

手で詫びる人に、言葉で許すと言うのは、たぶん、釣り合わない。

 

だから、言わないでおくことにした。

 

通話履歴の画面に戻ると、いちばん下に、十一桁の、名前のない番号があった。

 

綾小路くんは、それを予想して、坂柳さんに番号を渡したらしい。

 

予想されていた、ということに、腹が立った。

 

腹が立って、それから、腹が立つ理由を探した。予想が外れていれば、腹は立たなかった。当たっていたから、腹が立った。

 

私は、自分では抜け出せない場所に座っている。

 

抜け出せない、というのは、正確ではない。

 

今日の夕方、潤さんが屋根の上から飛び降りてきた時、私は、抜け出そうと思えば、抜け出せた。明日の朝、通用口から出て、駅まで歩けば、それで済む。誰も、追いかけてはこない。

 

抜け出せるのに、座っている。

 

綾小路くんは、たぶん、そこまで予想していた。予想していて、自分では電話をかけてこなかった。

 

私は、どちらにもかけずに、画面を消した。

 

壁の向こうで、ようやく、小さな物音がした。寝返りを打つような音だった。

 

それきり、また静かになった。

 

静かになった壁に、私は、少しだけ背中をつけた。

 

冷たかった。冷たい壁の向こうに、何かを一つ取られた人間が、眠っていた。

 

取られたものを、私は知らない。

 

知らないまま、壁に背中をつけて、目を閉じた。

 

廊下を通る足音は、今夜も、一つもしなかった。しないことに、もう慣れ始めていた。

 

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ようこそ超能力者のいる教室へ -2年生編-(作者:オールF)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

母の善意から最初志望していた高校ではなく、高度育成高等学校に入学した斉木楠雄。自身の希望する進学先、就職先への進学、就職が確約されていると謳われていた高校は実力至上主義の学校だった。しかも、超能力者故に教師や先輩の無意識のテレパシーで、数々のネタバレを喰らいながらも平穏に学園生活を送ることを目指していたが───────!?▼1年生編▶︎https://syo…


総合評価:11676/評価:9.11/連載:71話/更新日時:2026年10月08日(木) 00:04 小説情報

魔法先生ギルガメッシュ(作者:長LAVA)(原作:魔法先生ネギま!)

 一度目の死後、彼はギルガメッシュとして古代ウルクに生を受けた。▼ 王となり、エルキドゥと出会い、その死を見届け、不死を求めて世界を巡る。▼ やがて自ら不死を捨て、ウルクの王として126年の生涯を終えた。 ▼ そして、二度目の死。▼ 次に目を覚ました時、ギルガメッシュは再び若き肉体を得ていた。▼ そこは、魔法使いたちが存在する現代――『魔法先生ネギま!』の世…


総合評価:7860/評価:7.38/連載:24話/更新日時:2026年09月20日(日) 23:43 小説情報

堀北さんは諦めない!(作者:BM-13)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

Dクラスの生徒、堀北鈴音は気がつくと登校初日のバスの中。▼しかし彼女には、すでにその学校で過ごした記憶があった。▼何度も繰り返した経験を元に、彼女はこのループを終わらせてAクラスで卒業することができるのか?▼「この周回は捨てるわ」▼「土下座?別に構わないわ」▼「別に見てもいいわよ?減るものじゃないし」▼※あらすじ詐欺です。▼※一部AIを使って添削をしておりま…


総合評価:1470/評価:8.76/連載:10話/更新日時:2026年10月07日(水) 08:00 小説情報

ようこそ超能力者のいる教室へ -1年生編-(作者:オールF)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

母の善意からPK学園ではなく、高度育成高等学校に入学した斉木楠雄が教師や先輩の無意識のテレパシーで、数々のネタバレを喰らいながらも平穏に学園生活を送ることを目指す話。▼2年生編▶︎https://syosetu.org/novel/420896/▼高度育成高等学校くーちゃんのイラストをいただいたので公開しやがれーッ!▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼突如作者の中…


総合評価:20515/評価:9.03/完結:133話/更新日時:2026年09月08日(火) 00:00 小説情報


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