十二という数は、何かを数え終えた時の数だ。
十二か月で、一年が終わる。十二時間で、時計の針は一周する。十二の音で、音階は元の音に戻ってくる。
だから、十二で終わったものは、終わったように見えて、たいてい、もう一度始まる。
一年が終わって、また一年が始まるように。
針が一周して、また同じ数字を指すように。
夜が明ける少し前に、扉を叩く音がした。
叩く、というより、指の背で二度、撫でるような音だった。廊下を来る足音は、しなかった。しなかったのに、扉の前には、もう誰かが立っていた。
手前の部屋を選んだのに、私の扉の前を誰かが通る音を、私は聞き逃した。
聞き逃したのではない。聞こえるように歩いていなかったのだ。
「ほりきたさん、起きてますか?」
扉を開けると、紫木さんが、寝間着の上に黒いカーディガンを羽織って立っていた。手に、菓子パンの袋を一つ持っていた。
「師匠、いますか?」
「隣の部屋よ」
「よかったぁ」
紫木さんは、胸に手を当てて、ほうっと息を吐いた。吐いてから、少しだけ照れたように笑った。
「昨日の夜、姫ちゃん、ちょっと心配になったんです。師匠、朝になったら、いなくなってるんじゃないかなって」
なぜ心配になったのかは、言わなかった。言わないまま、隣の扉の方を、首を伸ばして覗いた。
「起こさないの」
「起こしません! いるって分かったら、それでいいんです」
いるって分かったら、それでいい。
昨日の夕方、中庭で、彼が言ったことを思い出した。あの子は、明日の朝、師匠がまだいるかどうかを確かめに来る。来て、いたら、それで一日分は足りる。
本当に、来た。
来て、確かめて、一日分を受け取っていた。
「これ、師匠の朝ごはんです。ほりきたさんから渡してください」
紫木さんは、菓子パンの袋を、私の手に押しつけた。
「自分で渡せばいいでしょう」
「姫ちゃんが渡すと、師匠、遠慮しちゃうので。昨日のお昼、半分残してたでしょう? ほりきたさんからなら、たぶん、食べます」
半分残したのを、見ていた。
ここを出てから食べる、と彼が言ったのも、たぶん、聞いていた。聞いていて、ここを出る前に食べさせようとしている。
「……分かったわ」
「ありがとうございます! 情けは人の為ならず、です!」
それは、たぶん、合っていた。
合っていることに、本人は、少しも気づいていない顔をしていた。
紫木さんは、来た時と同じように、足音を立てずに廊下を戻っていった。小さくて、まっすぐな背中だった。
情けは人の為ならず。人に情けをかけるのは、巡り巡って自分のためだ、という意味だという。たいていの人は、逆に覚えている。情けをかけると、その人のためにならない、と。
一つのことわざが、読む人によって、正反対のことを言う。紫木さんが、どちらの意味で言ったのかは、分からなかった。
隣の扉の前の床に、菓子パンの袋を置いた。叩かなかった。叩かなくても、この男は、たぶん、もう起きている。
扉の向こうから、ありがとう、と言う声がした気がした。
気がしただけかもしれなかった。
朝になって、私たちは、四人で理事長室へ向かった。
潤さんが先頭を歩いた。その後ろを、紫木さんが、彼の袖を掴んで歩いた。彼は、袖を掴まれたまま歩いた。私は、その一つ後ろを歩いた。
日曜日の朝の校舎は、昨日よりさらに静かだった。
授業のない日の学校の廊下を、私は、高校の三年間で何度も歩いたことがある。誰もいない廊下は、誰もいないことを、足音で教えてくれる。自分の足音しか聞こえない廊下は、少しだけ広く感じる。
この廊下は、違った。
足音が、自分たちのものしか聞こえないのに、少しも広く感じなかった。どこかで、誰かが、足音を立てずに、こちらと同じ速さで歩いている気がした。
「紫木さん」
私は、前を歩く小さな背中に声をかけた。
「はい、ほりきたさん!」
紫木さんは、振り返らずに答えた。振り返らないまま、袖を掴む手に、少しだけ力を入れたように見えた。
「昨日、あなたは、出たら何をすればいいのか分からない、と言ったわね」
「言いました!」
「今日、潤さんは、あなたを外に出すために、理事長に会いに行く。あなたは、それを望んでいるの」
紫木さんは、少しだけ歩く速さを落とした。
落として、それから、また元の速さに戻した。
「師匠と一緒なら、出たいです」
迷いのない声だった。
迷いのない声のまま、紫木さんは、言葉を足した。
「師匠のいないところに出るのは、たぶん、嫌です。姫ちゃん、一人で外に出たら、何をするか分からないので」
何をするか分からない。
何をすればいいか分からない、ではなかった。
その違いに、私が気づいたのは、少し後になってからだった。
「師匠はね、前にもいたんです」
紫木さんは、前を向いたまま言った。
「姫ちゃんに、いろんなことを教えてくれた先生。でも、いなくなっちゃいました。ある日、急に」
「……いなくなった」
「はい。いなくなっちゃったんです。だから、新しい師匠を、ずっと待ってたんです」
紫木さんは、彼の袖を、もう一度握り直した。
袖を握られた彼は、何も言わなかった。言わないまま、握られた袖を、振りほどかなかった。
「ほりきたさんにも、師匠、いましたか?」
紫木さんが、振り返った。
大きな目が、まっすぐに私を見ていた。
私は、答えなかった。
答えなかったのに、頭の中に、一つの背中が浮かんだ。夕方の非常階段を、降りていく背中。降りながら、降りるな、と言った背中。
教えて、と頼んだのは、私の方だった。あの人が返してきたのは、勝ち方ではなかった。まず座れ、と、降りるな。それを教えるつもりで言ったのかどうかも、私には分からない。
それでも、あの人がいなくなってから、私は、あの人の言葉を、何度も、何度も、使っている。
使っているのに、あの人を師匠と呼んだことは、一度もない。
「……分からないわ」
「分からないんですか!」
「ええ。師匠と呼んでいいのかどうか、分からない人なら、いたわ」
紫木さんは、目を丸くした。
丸くして、それから、嬉しそうに笑った。
「その人も、いなくなっちゃったんですか?」
「ええ。ある日、急に」
「姫ちゃんと、おんなじですね! 同じ穴の、えーと、ムササビです!」
ムジナ、と言いたかったのだろう。同じ穴のムジナは、褒め言葉ではない。
おんなじ。
同じ、と言われて、私は、すぐには否定できなかった。
理事長室は、校舎のいちばん奥の、いちばん高い階にあった。
扉は、重そうな木の扉だった。古い造りの校舎に似合わない、銀色の小さな板が、扉の脇の壁に埋め込まれていた。
「生体認証だね」
潤さんが、板を覗き込んで言った。
「理事長の指とか、目とか、そういうのじゃないと開かない。ま、関係ないけど」
潤さんは、扉の取っ手に手をかけた。
何をしたのかは、見えなかった。見えなかったけれど、扉は、開いた。開いた拍子に、銀色の板が、小さく火花を散らした。
「古い学校だからねー、これが」
昨日と同じことを、潤さんは言った。
言いながら、部屋の中に一歩入って、止まった。
潤さんが止まるのを、私は、初めて見た。
「……ありゃ」
潤さんの背中越しに、部屋の中が見えた。
広い部屋だった。窓から朝の光が差し込んで、床の絨毯の上に、四角い明るさを作っていた。
明るさの真ん中に、人が、いた。
いた、と言っていいのかどうか、分からなかった。
人の形を、していなかった。
人の形をしていたものが、いくつかに分けられて、置かれていた。丁寧に、と言いたくなるほど、きちんと並べて。
数えようとして、やめた。
やめたのに、数は、勝手に目に入ってきた。
十二。
十二に、分けられていた。
私は、扉の枠を掴んでいた。掴んだことに、後から気づいた。
人が死んでいるのを見るのは、二度目だった。一度目は、五月の路地だった。フラッシュの光の中に、倒れた男がいた。あの時、男は、男の形をしていた。
形をしていない死体を見るのは、初めてだった。
初めてなのに、目を逸らさなかった。逸らせなかったのではなかった。逸らさないと、私は、昨日決めたばかりだった。
隣で、彼が、小さく呟いた。
「……十二か」
その声は、目の前の部屋に向けられていなかった。もっと遠くの、私の知らない何かを、思い出しているような声だった。
何を思い出しているのかを、私は訊かなかった。
「
潤さんが、部屋の中を見回しながら言った。
「直談判の相手が、話ができない形になってた、と」
潤さんの声は、からかってはいなかった。いつもの軽さが、一枚だけ剥がれていた。
「窓は、内側から鍵。扉は、生体認証。理事長本人の体がないと開かない。で、理事長本人は、ここ」
「密室、というやつですね」
私が言うと、潤さんは、片方の口の端を上げた。
「推理小説みたいでしょ。あたし、推理小説、嫌いなんだよねー」
その時だった。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
今度は、はっきりと聞こえた。一人ではなかった。何人もの足音が、迷いなく、こちらへ向かってきていた。
「……あー、なるほど」
潤さんが、扉の方を振り返った。
「扉を開けたのは、あたしたち。中には、理事長がこれ。で、そこに、生徒たちが駆けつける」
嵌められた、と私は思った。
思っただけで、口には出さなかった。出す前に、潤さんが言った。
「嵌められたねー、これは」
潤さんは、少しも困っていない顔で、そう言った。
足音が、扉の外で止まった。
止まったまま、誰も入ってこなかった。
入ってこない足音というのは、入ってくる足音より、ずっと怖い。何かを待っている足音だからだ。
待っているのは、たぶん、誰かの合図だった。
合図を出す人間を、私は一人だけ知っていた。
「……萩原さんは」
私は、扉の外に向かって言った。
返事は、なかった。
足音の主たちは、扉の外に立ったまま、動かなかった。動かないまま、誰も、合図を口にしなかった。
いつまで経っても、合図は来なかった。
来ない合図を待っている足音が、扉の外で、少しずつ、乱れ始めた。
紫木さんが、彼の袖を離したのは、その時だった。
「師匠」
紫木さんは、明るい声で言った。
「姫ちゃん、ちょっと、見てきますね」
止める間もなかった。
小さな体が、扉の外へ、すっと抜けていった。足音は、しなかった。
扉の外で、誰かが、短く息を呑む音がした。
それから、何も聞こえなくなった。
何も聞こえない時間が、どれくらい続いたのか、分からなかった。分からなかったけれど、その間、彼は、少しも動かなかった。袖を離された腕を、離されたままの形で、宙に浮かせていた。
潤さんが、扉の方へ一歩踏み出しかけて、止まった。
止まって、私を見た。
なぜ私を見たのかは、分からなかった。分からなかったけれど、その目は、一昨日の夜、車の中で、降りたかったら降りな、と言った時の目に似ていた。
私は、扉の枠から手を離した。
離して、廊下へ出た。
潤さんよりも、先に。
出ないこともできた。
出た。
廊下に、黒いセーラー服の生徒たちが、倒れていた。
倒れているのか、眠っているのか、分からなかった。分からなかったのは、私が、分かりたくなかったからかもしれない。
廊下の窓から差し込む光の中に、細いものが、何本も光っていた。
糸だった。
天井から床へ、壁から壁へ、髪の毛より細い糸が、何本も、何本も、張り渡されていた。光の当たる角度によって、見えたり、見えなかったりした。見えない時の方が、多かった。
一歩、進んだ。
頬に、何かが触れた。触れたところが、少しだけ熱くなった。指でなぞると、指先に、赤いものが付いた。
下がらなかった。
下がれば、下がった分だけ、糸が増える気がした。増えた糸の向こうに、紫木さんが遠ざかっていく気がした。
糸の先に、紫木さんが立っていた。
両手の指に、何本もの糸を絡めて、楽しそうに立っていた。
「あ、ほりきたさん」
紫木さんは、私を見て、にっこりと笑った。
昨日、空き教室で菓子パンを並べた時と、少しも変わらない笑い方だった。
「危ないですよ? そこ、糸だらけなので。……見ないでくださいって、言った方がよかったですか?」
私は、答えなかった。
答える代わりに、紫木さんの足元を見た。
足元に、二人、倒れていた。
一人は、ずたずたに裂けた黒いセーラー服を着ていた。右手のそばに、長くて厚い刃物が、転がっていた。
もう一人は、ほかの誰よりも整然と、黒いセーラー服を着ていた。
昨日、中庭で、私に、今日のところは私の負けにしておきます、と言った人だった。
《またね》と言った人と、《また後ほど》と言った人が、二人並んで、もう、どちらも、何も言わなかった。
「子荻ちゃんがね、姫ちゃんのこと、気づいちゃったんです」
紫木さんは、明るい声のまま言った。
「理事長室のことも、ほかのことも。気づかれちゃったら、師匠と一緒に出られなくなるでしょう? だから、先に、終わらせちゃいました」
ほかのこと、と紫木さんは言った。
ほかのことが何なのかを、私は訊かなかった。
訊かなくても、廊下に倒れている生徒たちの数が、たぶん、答えになっていた。
私は、もう一歩、進んだ。
糸が、袖に触れた。袖が、音もなく裂けた。
「紫木さん」
「はい」
「今朝、私は、あなたに訊いたわね。あなたは、それを望んでいるの、と」
紫木さんの指が、糸を絡めたまま、止まった。
「もう一度、訊くわ。あなたは、出たいの」
紫木さんは、私を見ていた。
明るい目だった。明るいのに、その奥で、何かが静かに数を数えているような目だった。昨日、空き教室で見たのと、同じ目だった。
数えるのを、やめたように見えた。
「……出たいです」
紫木さんは、言った。
今朝と、ほとんど同じ言葉だった。今朝より、少しだけ、小さな声だった。
「出たいです。師匠と一緒に。ほりきたさんとも、一緒に。外に出て、菓子パン、また三人で食べたいです」
「……そう」
それしか、言えなかった。
それしか言えない私の前で、紫木さんは、首を傾げた。
「ほりきたさん、どうして、下がらないんですか? 怖くないんですか?」
「怖いわ」
私は言った。
「怖いけれど、下がったら、あなたが見えなくなる。昨日、私は、あなたの顔を見ると決めたの」
紫木さんは、目を丸くした。
丸くした目の、その後ろに、赤い人が立っていた。
いつ、そこへ回ったのか、分からなかった。糸の張り巡らされた廊下を、どうやって紫木さんの後ろまで行ったのかも、分からなかった。分かったのは、紫木さんが私を見ているあいだ、紫木さんの背中を見ている人は、誰もいなかった、ということだけだった。
扉の内側から、彼の声がした。
いつもの、普通すぎる声だった。
「姫ちゃん。理事長室の扉は、閉めれば勝手に鍵がかかる。開ける時にだけ、理事長の体が要る。だから、理事長が生きているうちに、理事長に開けてもらって一緒に入れば、出る時には、何も要らない」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「密室っていうのは、入れてもらった人が、出てきただけのことかもしれない。……考えれば、の話だけど」
紫木さんは、首を傾げたまま、少しだけ、嬉しそうな顔をした。
「さすが、師匠です」
それが、紫木さんの答えだった。
紫木さんが、後ろの気配に、振り返ろうとした。
振り返る前に、小さな、乾いた音がした。
紫木さんの体が、糸を絡めたまま、ゆっくりと崩れた。
崩れる体を、潤さんが、片腕で受け止めた。
受け止めて、もう片方の手に持っていた黒いものを、ポケットに戻した。
「……ごめんね、姫ちゃん」
潤さんは、腕の中の紫木さんに、そう言った。
からかう声では、なかった。
潤さんは、紫木さんを抱えたまま、廊下を見渡した。
倒れた生徒たちの上を、目が一人ずつ、なぞっていった。なぞる速さが、少しも変わらなかった。変わらないのは、この人が、こういう廊下を何度も見てきたからのように見えた。
「りんねちゃん。いーたん、見ててやって。あいつ、たぶん、どっか切ってる」
それから、潤さんは、空いている方の手でスマートフォンを取り出した。片手で番号を押して、耳に当てた。
「あたし。……うん、終わった。終わったっていうか、終わってた。理事長は駄目。子荻ちゃんも、玉藻ちゃんも。……そう。姫ちゃんは、こっちで連れて出る」
相手が誰なのかは、分からなかった。分からなかったけれど、潤さんは、一度も、頼み事をする声を出さなかった。決まったことを、決まった順に渡しているだけの声だった。
「書類? 自主退学で通しといて。理事長の判子なら、どっかの引き出しにあるでしょ。……押す人間が死んでても、判子は死なないんだよ」
通話を切って、潤さんは、私を見た。
「聞いてた?」
「……聞こえていました」
「ひどいと思った?」
私は、少しだけ考えて、首を振った。
あの学校でも、退学届には、本人の名前と判子が要った。綾小路くんの退学届に押された判子を、私は見ていない。見ていないのに、紙は受理されて、綾小路くんの席は空いた。紙は、押した人間がその後どうなったかを、何も覚えていない。
「紙は、そういうものだと思います」
「だよね」
潤さんは、片方の口の端を上げた。上げたのに、目は、少しも笑っていなかった。
「姫ちゃんは、今日から、自分で辞めた子になる。自分で辞めた子は、誰にも追いかけられない。……追いかける奴も、もう、あんまり残ってないけどね」
潤さんは、腕の中の小さな頭を、一度だけ撫でた。
撫で方が、ひどく不器用だった。扉を一枚、蝶番ごと外せる人の手が、撫でることだけは、少しも上手くなかった。
自主退学。自ら主となって退く、と書く。紫木さんは、自ら主になったわけではなかった。主になったのは、判子だった。
それでも、紙の上では、紫木さんは、今日から自分で出ていった子になる。
自分で出ていったことにしてもらえる子と、自分で出ていったのに、誰にも何も言わなかった人たち。私の知っている自主退学は、いつも、後の方だった。
どれくらいの時間が経ったのか、分からなかった。
気がつくと、私は、廊下の壁にもたれて座っていた。座ったつもりはなかった。足が、勝手に座っていた。
彼が、一つ空けて、隣に座っていた。
彼の腕から、血が流れていた。いつ、どこで切ったのか、本人にも分からないようだった。糸に触れたのだろう、と思った。思っただけで、口には出さなかった。
口に出す代わりに、スカートのポケットからハンカチを出した。
出してから、迷った。一つ空けた席の向こうに、手を伸ばすことになる。
伸ばした。
彼の腕を取って、傷の少し上を、ハンカチできつく縛った。縛り方は、高校の保健の授業で一度習っただけだった。一度習っただけのことを、手は、意外なほど覚えていた。
「……痛い」
「痛いなら、まだ大丈夫ということよ」
「その理屈は、たぶん、どこかが間違ってる」
「どこが」
「痛くなくなった時に大丈夫じゃない、というのは合ってる。でも、痛い時に大丈夫、というのは、言えてない」
「裏は、必ずしも真ではない、ということね」
「そう。逆も、対偶も、たぶん」
私は、縛り目をもう一度引いた。
彼が、小さく呻いた。呻いたのに、腕を引っ込めなかった。
ハンカチは、白かった。白かったところに、赤い色が、少しずつ滲んでいった。滲んでいく速さが、少しずつ遅くなっていった。遅くなったことを確かめてから、私は、手を離した。
離して、一つ空けた場所に、戻った。
戻ったつもりだった。戻った場所は、さっきより、少しだけ近かった。
近いことに、彼は気づいたかもしれない。気づいていても、何も言わない男だった。言われなくて、よかった。言われたら、私は、たぶん、もう一つ離れた。
「血は、止まるわ」
「知ってる。止まらなかったことは、今まで一度もない」
一度もない、という言い方が、少しだけ引っかかった。
一度もないほど、この男は、何度も血を流してきたのだろうか。四月に一週間いなくなって、帰ってきた男。五月には、葵井さんの死を、私よりずっと近くで見ていた男。
訊かなかった。訊いたら、また一つ、私の持ち物が増える。
廊下の向こうで、潤さんが、紫木さんを抱えたまま、倒れた生徒たちのあいだを歩いていた。一人ずつ、首筋に指を当てていた。当てて、何人かのところで、少しだけ長く止まった。止まったところの生徒は、たぶん、まだ息をしていた。
まだ息をしている子が、何人かいる。
それが分かっただけで、私は、床に座ったまま、少しだけ肩の力が抜けた。抜けたことが、少しだけ、後ろめたかった。何人かが助かったことに安心するのは、残りの何人かを、数え終えたということだ。
数え終えたくなかった。
数え終えないまま、私は、潤さんの指が次の首筋に当たるのを、見ていた。
「……あなたは、知っていたの」
私は、前を向いたまま訊いた。
「紫木さんが、こういうことをする子だと」
「知らなかったよ」
彼は、即答した。
「知らなかった。でも、知らなかったことに、あまり驚いてない自分がいる。それが、たぶん、ぼくのいちばん駄目なところだ」
私は、何も言わなかった。
言えることが、なかった。
私は、この二日間を、何度も頭の中で巻き戻していた。空き教室で、菓子パンを三つ並べた紫木さん。出たら何をすればいいか分からない、と言った紫木さん。まだ、なら、姫ちゃんもまだでいいです、と笑った紫木さん。
明るい顔の後ろに、何があるのか。
私は、見ると決めた。
見た。
見て、何も変えられなかった。
佐倉さんの時、私は見なかった。見なかったから、何も変えられなかったのだと思っていた。
見ても、変えられなかった。
それでも、見なかった時とは、何かが違う気がした。違うものが何なのかは、まだ分からなかった。分からないまま、私は、廊下の床に落ちた光の中で、細い糸が一本、ゆっくりと揺れているのを、見ていた。
見ないこともできた。
見ていた。
校舎を出たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
潤さんは、紫木さんを背中に負ぶっていた。紫木さんは、潤さんの肩に頬をつけて、眠っているように見えた。眠っているのか、気を失っているのかは、分からなかった。分からなくても、小さな寝息のような音が、時々聞こえた。
彼は、自分で歩けると言った。
言った三歩目で、膝が折れかけた。
私は、黙って、彼の腕を自分の肩に回した。血で、セーラー服の袖が、少しだけ汚れた。汚れたことを、私は気にしなかった。気にしなかったことに、少しだけ驚いた。
「……ごめん」
「謝るなら、歩いて。謝る息があるなら、その分、足に回して」
「歩いてるよ」
「もっと、まっすぐ」
彼は、少しだけ笑った気がした。笑ったのかどうかは、肩越しでは見えなかった。
中庭を抜けて、門へ向かった。
来た時は、夜だった。夜の門は、雨に濡れて、黒く光っていた。昼の門は、乾いていて、少しだけ白っぽかった。同じ門なのに、違う門に見えた。
門の外に、赤い車が停まっていた。
一昨日の夜、私を乗せてきた車とは違った。扉が四つある、大きな車だった。色だけが、同じだった。この人は、赤い車を、いったい何台持っているのだろう。
潤さんが、紫木さんを、そっと後ろの座席に寝かせた。寝かせる前に、紫木さんの指に絡んだままの細い糸を、一本ずつ外した。外した糸を、丸めて、自分のポケットに入れた。捨てなかった。捨てない理由を、潤さんは言わなかった。私も、訊かなかった。この子が目を覚ました時、指に糸が一本も残っていなければ、この子は、自分が何を持っていたのかを、少しだけ忘れられるかもしれない。忘れられなくても、指だけは、軽くなる。
潤さんは、紫木さんを寝かせてから、門を振り返った。振り返って、高い塀を、端から端まで、一度だけ眺めた。
「出る時はね、振り返っちゃ駄目なんだよ、ほんとは」
潤さんは、そう言いながら、振り返っていた。
私も、振り返った。
塀は、内側から見るより、外から見る方が高かった。
あの学校の塀も、こうだった。三年間、内側にいて、気にならなかった。卒業して、外から見て、初めて高さを知った。
あの学校から、何人かが、卒業する前に出ていった。綾小路くんと坂柳さんは同じ朝に。赤木くんは、その一週間後に。佐倉さんは、二年生の途中で。
誰かが出ていく時、私は、いつも、塀の内側にいた。
今日は、外にいる。
肩に、誰かの腕を回して、誰かと一緒に、門を出てきた。
出てきた子は、たぶん、たくさんの人を殺した。終わらせちゃいました、と、明るい声で言った。言った子は、今、赤い車の後ろの座席で、寝息のような音を立てている。
それが、いいことなのか、悪いことなのか、私には分からなかった。
分からないまま、私は、彼を後ろの座席へ押し込んだ。紫木さんの頭が、彼の膝の上に乗った。彼は、それをどけなかった。
私は、助手席に座った。
車が、走り出した。
塀が、後ろへ遠ざかっていった。
私は、もう、振り返らなかった。
振り返らない代わりに、膝の上で、手を組んだ。組んだ指に、ハンカチの白さが、まだ少しだけ残っている気がした。
情けをかけたのが誰のためだったのかは、まだ、どちらの意味でも、分からなかった。
十二で終わったものは、たいてい、もう一度始まる。紫木さんの、塀の外での一日目は、今日から始まる。