ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第12話 アカギ(赫き)

人の話を聞くことと、人に話をすることは、同じ道を、反対の向きに歩くことだと思っていた。

 

違った。

 

話をする方が、ずっと遠い。

 

聞く時は、相手が歩いてきた道を、後ろからついていけばいい。話す時は、自分が歩いてきた道を、もう一度、最初から歩き直さなければならない。歩き直しているあいだ、道の上に落としてきたものを、一つずつ拾うことになる。

 

拾いたくないものも、拾うことになる。

 

 

 

 

京都へ戻る道は、来た時より、ずっと明るかった。

 

雨はもう、どこにも残っていなかった。山の緑が、窓の外を、速く流れていった。

 

扉の四つある、赤い車だった。

 

運転席に潤さん。助手席に私。

 

後ろの座席に、彼と、紫木さんが、並んで座っていた。

 

彼の腕の傷は、潤さんが車の中にあった布で縛った。縛られながら、彼は、痛いとも言わなかった。紫木さんは、彼の肩に頭を預けて、目を閉じていた。眠っているのではなかった。閉じた瞼の下で、目が、ときどき動いていた。

 

糸の廊下で潤さんに眠らされた紫木さんは、車が走り出してしばらくして、目を開けた。開けた目は、もう、糸の廊下に立っていた子の目ではなかった。最初に会った日、空き教室に私たちを引っ張り込んだ時の目に、戻っていた。

 

「……師匠?」

 

紫木さんは、そう言った。

 

それから、私を見て、にっこり笑った。

 

「ほりきたさんも、いるです」

 

いつもの声だった。

 

糸の廊下のことには、一言も触れなかった。触れないまま、いつもの声を出せる子なのだと、私は思った。

 

運転席の潤さんは、しばらく何も言わなかった。

 

私も、何も言わなかった。

 

頬の傷が、少しだけ熱かった。糸に触れたところだった。触れたのは一瞬だったのに、熱はなかなか引かなかった。

 

「さて、と」

 

高速道路に乗ったところで、潤さんが言った。

 

「約束、覚えてる?」

 

「……約束」

 

「昨日の夕方、中庭で言ったろ。その座り方、どこで覚えたのかは、あとでゆっくり聞かせてもらうって」

 

覚えていた。

 

覚えていて、訊かれないことを、少しだけ期待していた。

 

「今が、そのあとってわけ。京都まで二時間ある。ゆっくりできる時間なんて、この先そうそう来ないぜ。人生ってのは、いつだって、あとがないんだ」

 

あとがない。後にも、跡にも、取れる言い方だった。この人は、たぶん、どちらの意味でも言っていた。

 

後ろの座席で、彼が、少しだけ身じろぎした。

 

「……ぼく、耳を塞いでた方がいい?」

 

窓の外を見たまま、彼が言った。

 

「塞いどけ」

 

潤さんが、即答した。

 

「……って言っても、塞がねえんだろ、お前は。塞いだふりして、全部聞く。そういう奴だ」

 

「よく分かってますね」

 

「何か月付き合ってると思ってんだ」

 

潤さんは、バックミラー越しに、後ろの座席を見た。

 

それから、助手席の私を、横目で見た。

 

「りんねちゃん。……こいつらに聞かせたくねえなら、次のサービスエリアで、こいつらだけ降ろす。どうする」

 

 

 

私は、窓の外を見た。

 

見ながら、考えた。

 

話すべきか、話さないべきか。誰の前で。

 

 

 

あの人のことを、学校の外の人に話したことは、一度もなかった。話す必要がなかった。あの人を知っている人は、みんな、あの学校の中にいた。あの人を知らない人に話せば、話した分だけ、あの人が、言葉の形になってしまう。言葉の形になったものは、言葉より小さくなる。

 

小さくしたくなかった。

 

けれど、今朝、澄百合で、紫木さんに訊かれた。師匠はいましたか、と。

 

私は、師匠と呼んでいいのかどうか、分からない人なら、いたわ、と答えた。

 

その人のことは、それ以上は話さなかった。

 

それきりにしたことが、喉の奥に、小骨のように、残っていた。

 

「……降ろさなくて、いいです」

 

私は、言った。

 

後ろの座席で、紫木さんが、もう一度、目を開けた。

 

「ほりきたさんの、師匠の話ですか」

 

「……師匠かどうかは、分からないわ」

 

「姫ちゃん、聞きたいです。ほりきたさんの師匠の話は、ためになるです。三人寄れば文殊の知恵袋です」

 

「知恵袋は、要らないわ」

 

「じゃあ、ただの知恵です」

 

潤さんが、肩を揺らして笑った。

 

「いいね、姫ちゃん。……じゃあ、聞かせてもらおうか。最初から。全部」

 

 

 

 

「……高校の、同級生です」

 

話すことにした。

 

「同級生ね。じゃ、同い年だ」

 

「……そのはずでした」

 

潤さんの目が、一瞬だけ、こちらへ来た。

 

来て、すぐに前へ戻った。

 

「はず、か。いいよ、順番に聞く。話ってのは、頭から聞くのがいちばん面白いんだ。最終回から読む漫画は、つまんねえからな」

 

「名前は、訊かないんですか」

 

「訊いていいなら訊くよ」

 

 

 

「赤木くん。赤木しげる」

 

 

 

潤さんは、その名前を、口の中で一度だけ繰り返した。

 

「赤木、ね。……あたしの車で、あたしの色の名前が出るとは思わなかったよ」

 

赤い人の車の中で、赤木くんの話をしている。

 

赤。赤の他人、と言う時の赤だ。真っ赤な嘘、と言う時の赤でもある。どちらの赤も、混じりけのない、という意味だ。あの人は、たぶん、混じりけのない他人で、混じりけのない、嘘のない人だった。

 

「赤木さん」

 

後ろの座席で、紫木さんが、繰り返した。

 

「赤い木。……紅葉ですか」

 

「人の名前よ」

 

「紅葉の人です」

 

彼が、小さく笑った。

 

「赤い木の人、か。……その人は、どういう人?」

 

いつもの声だった。大教室で、一つ空けた席から話しかけてくる時の声。

 

「麻雀の、強い人だった」

 

「それだけ?」

 

「それだけしか、知らないわ。……知らないまま、半年、同じ教室にいた」

 

言ってから、正確に言い直した。

 

「最初は、麻雀をする人だということも、知らなかった。……変な人だった。それだけの人だった」

 

 

 

 

私は、最初から、話した。

 

四月。入学した日。

 

政府が作った、全寮制の学校。三年間、外と連絡が取れない。卒業するか、退学するか。それ以外に、門の外へ出る方法はない。

 

入学した日に、生徒は、全員、学校の端末を一台ずつ渡された。手のひらに乗るくらいの、薄い板。学校の中では、お金も、連絡も、全部、それ一台で済む。

 

「スマートフォンね」

 

「はい。……あの人は、それを、板と呼んでいました」

 

「板」

 

潤さんが、繰り返した。

 

「最初の二か月近く、あの人は、その板の使い方を知りませんでした。電源の入れ方も、お金の残りの見方も、物の買い方も。……誰にも訊かずに、そのまま過ごしていました」

 

「二か月も、どうやって飯食ってたんだよ」

 

「食堂に、無料の定食がありました。山菜定食です。……毎日、それを食べていたそうです」

 

「毎日」

 

「毎日。……五月の終わりに、あの人が、初めて私に頼みごとをしました。この板の使い方を教えてくれ、と。私が、スマートフォンと言うのだけれど、と言ったら、あの人は、初めて聞く名前だという顔をしました」

 

後ろの座席で、紫木さんが、目を丸くした。

 

「スマートフォン、知らない人ですか」

 

「知らなかったわ」

 

「姫ちゃんでも、知ってるです」

 

「あなたより、知らなかったのよ」

 

彼は、黙っていた。

 

黙って、窓の外を見ていた。

 

窓に映った彼の顔が、何かを、一つ、数えたように見えた。

 

「使い方を知らないのに、二か月近く、困った顔を、一度もしていませんでした」

 

私は、言った。

 

「困っていないのではなかった。……要らないものの名前を、覚える気がない。そういう顔でした」

 

潤さんは、何も言わなかった。

 

ハンドルを握る指が、一度だけ、止まった。

 

 

 

 

「板の話より、少し前のことも、話します」

 

私は、言った。

 

「入学して、一週間くらいの頃。小さな試験があって、あの人は、十二点でした。……私は、放課後、あの人に、その点数で何も思わないの、と訊きました」

 

別に、とあの人は言った。

 

この学校がどういう場所か、入学式で聞いていなかったの、と私は言った。

 

聞いてたから、慌ててねえんだ、とあの人は言った。

 

「それから、あの人は、私の顔を、初めて正面から見ました。……あんた、真面目にやってりゃ助かると思ってるだろ、と。私は、当然でしょう、評価される場所なら、評価される振る舞いをすればいい、と答えました」

 

《凡庸だな》

 

あの人は、そう言った。

 

《間違っちゃいねえ。教科書に書いてある通りの答えだ。……だから凡庸だと言ってる》

 

潤さんが、吹き出した。

 

「初対面で、凡庸」

 

「初対面でした」

 

「怒った?」

 

「怒りました。……怒った顔を、あの人は、悪くない、という目で見ていました」

 

《あんたの勘定は、あんた一人のもんじゃねえ。……それに気づいてる顔じゃなかったな、今まで》

 

「十二点の男に、言われたの」

 

紫木さんが、目を丸くした。

 

「十二点の人に、凡庸って言われたです」

 

「言われたわ」

 

「十二点の方が、凡庸じゃないですか」

 

「言い返したわ。十二点の人に言われたくない、と。……そうだな、と頷かれただけだった」

 

彼が、窓に映った顔で、少しだけ笑った。

 

「点数の低い人に、点数の取り方を笑われたんだね。……その人は、点数で生きてない」

 

そうなのだと思った。では、あの人は、何で生きていたのか。

 

あの頃の私には、分かっているようで、分かっていなかった。

 

 

 

 

「五月の、八日の夜のことも、話します」

 

私は、言った。

 

少しだけ、声が硬くなった。

 

これは、自分から人に話したことは、一度もなかった。あの人と私のほかに、あの夜を知っているのは、兄と、ほんの数人だけだった。

 

「夜、街灯の下で、兄と会いました。兄は、その学校の、生徒会長でした。……私は、兄に追いつきたくて、同じ学校に入りました」

 

兄は、私の手首を、掴んだ。

 

掴んで、持ち上げた。

 

足が、地面から、少しだけ浮いた。

 

地面は、コンクリートだった。

 

「抵抗、しなかったの」

 

潤さんが、訊いた。

 

前を見たまま。

 

「しませんでした。……したところで無駄だと、体の方が先に知っていました」

 

私は、膝の上で、手を組んだ。

 

「私は、この人に、こういうふうに扱われるだけの人間なのだと、思いました」

 

車の中が、静かになった。

 

紫木さんが、彼の袖を、そっと掴んでいた。

 

「その時、暗がりから、声がしました」

 

《その細っこいのを地面に叩きつけて、あんたは何を確かめるつもりだ》

 

「白い髪の人が、立っていました。……寝間着でも、制服でもない、ただのシャツ姿で」

 

《差がついてるってのは、証明しなくてもわかるもんだ》

 

《わざわざ地面に叩きつけて確かめようってのは、あんたの方が不安だからだろ》

 

《妹に置いていかれるのが、怖えんだ》

 

「兄の手が、私の手首から、離れました」

 

私は、言った。

 

「兄は、代わりに、あの人の襟を掴んで、持ち上げました。背丈は、一回り違いました。……あの人は、抵抗しませんでした。殴られるとも、逃げるとも、思っていない顔でした」

 

あの時、私は、初めて気づいた。

 

「この人は、この状況を、まだ何も起きていない、と思っている。……掴まれることも、殴られることも、この人の中では、何かが起きたうちに、入っていない。だから、瞬き一つしていない」

 

潤さんの指が、ハンドルの上で、止まっていた。

 

「兄は、しばらくして、手を離しました。……つまらん男だ、と言って、行ってしまいました」

 

「で、そいつは」

 

「なぜ、あんなことを言ったの、と訊きました」

 

《人間ってのは、図星を指されると手が止まる》

 

あなた、兄さんのことを何も知らないでしょう、と私は言った。

 

知らねえよ、とあの人は言った。

 

なら、なぜ、と訊いた。

 

知らなくていい、と言った。

 

それから、あの人は、私が立ち上がるのを待たずに歩き出して、振り返らずに、こう言った。

 

《――余裕のある人間は、確かめねえんだ》

 

車の中が、長く、静かだった。

 

 

 

 

 

「……その日から、私は、あの人を、数え方に入れました」

 

私は、言った。

 

「味方だと思ったわけではありません。……あの人は、私が何を持っていないかを、誰よりも早く見抜く。だから、数えておくことにした」

 

「板の使い方を、あんたにだけ訊いてきたのは」

 

潤さんが、言った。

 

「その夜の、あとか」

 

「あとでした。……四十人の中で、私にだけ、訊いてきました。理由は、たぶん、一つしかありません。あの夜、私の方も、見られていたから」

 

地面に叩きつけられかけて、抵抗もできずにいたところを。

 

「互いの一番みっともないところを、一つずつ、握っている。……それだけの関係でした」

 

彼が、後ろの座席で、小さく息を吐いた。

 

「余裕のある人間は、確かめない」

 

彼は、繰り返した。

 

「……その人は、確かめなかったんだね。お兄さんの手が止まるかどうかも。殴られるかどうかも」

 

「確かめなかったわ」

 

「確かめなくても、分かってる人なんだ。……自分が、どこに立ってるのか」

 

自分がどこに立っているのか、あの人は分かっていた。たしかに、そうなのだと思う。

 

 

 

 

 

「中間試験の前に、勉強会を開きました」

 

私は、続けた。

 

「赤点を一教科でも取れば、退学。そういう学校でした。……あの人は、クラスで一番、危ない人でした。勉強が、まるでできなかった」

 

「麻雀は強いのに」

 

「麻雀のことは、まだ知りませんでした。……勉強ができない人だと、思っていました」

 

勉強会に来るか、と訊いた。

 

あの人は、来るとも来ないとも言わずに、私に、一つ訊き返した。

 

「この試験は、去年もあったのか、と」

 

「……過去問か」

 

彼が、言った。

 

「そうよ。……毎年やっているなら、毎年誰かが作っている。同じ人間が作れば、癖が出る。癖が出るなら、去年の紙が、一番の教科書になる。あの人は、そう言いました」

 

教科書には、この世の全部が書いてある。けれど、試験に出るのは、そのうちのごく一部。全部を頭から読むのは、盆の上で目を瞑っているようなもの。

 

あの人は、そういう言い方をした。

 

「私は、考えていなかった、と言いました。……悔しかったので」

 

「悔しかったんだ」

 

潤さんが、少しだけ笑った。

 

「勉強はできないのに、そういうことばかり回るのね、と言いました。あの人は、こう返しました。まともにやって勝てない人間は、まともじゃないところを探すしかない、と」

 

「いいね」

 

潤さんは、言った。

 

「そいつ、試験を、試験として見てねえ。……卓として見てる」

 

卓。

 

その言葉を、潤さんは、まだ、私から聞いていなかった。

 

聞いていないのに、言い当てた。

 

いや、言い当てたのではなかった。私の話を、そのまま並べて、そう見えた、と言っただけだった。

 

「試験の前の日に、過去問が手に入りました。クラスの全員が、安心した顔をしていました。……あの人だけが、安心しませんでした」

 

あの人は、斜め後ろの席の私を、振り返って、訊いた。

 

赤点の基準を、確かめたか、と。

 

平均点の半分。そう答えた。

 

誰の平均だ、と、あの人は訊いた。

 

「……このクラスの平均か、学年全部の平均か」

 

彼が、また、言った。

 

窓の外から、目を戻していた。

 

「学年全部、だったんだね。……で、他のクラスも、過去問を持ってる」

 

「どうして、分かるの」

 

「その人が、そこまで訊いたなら、その先は、そうなるしかないから」

 

彼は、少しだけ、首を傾げた。

 

「学年全員が答えを持って座ったら、平均が上がる。平均が上がったら、赤点の線も上がる。……答えを持っていても、赤点を取る。持っていなかったら、なおさら」

 

私は、彼を見た。

 

一つ、座席を挟んだ向こうの、窓に映った顔を。

 

「……平均は八十は堅い、と言ったのは、あの人でした。だから赤点の線は四十、普通の試験なら、まず出ない数字、と続けたのは、私の方でした」

 

「……つまり、全員が助かるってことは、全員が線を押し上げるってことだ」

 

彼が、言い直した。

 

あの人の八十と、私の四十を、一つの文にしたような言葉だった。

 

彼は、その場にいなかった。

 

「その人は、試験の前の日に、それを一人で見つけたんだね」

 

「一人で」

 

「助かったって顔の教室で、一人だけ、助かってない顔をしてた」

 

彼は、窓の外を見た。

 

「……ぼくは、そういう人を、知ってる気がする。知らないけど」

 

冗談のような言い方だった。

 

冗談なのに、少しだけ、本当のことに聞こえた。

 

「その頃、あの人は、私にこうも言いました」

 

私は、続けた。

 

「須藤くん、という人と、あの人の両方の勉強を、私が見ていた時。時間の配分を訊いたら、須藤くんに全部回せ、と。……あいつは、教えれば伸びる。俺は伸びない、と」

 

「諦めてたですか」

 

紫木さんが、訊いた。

 

「私も、そう訊いたわ。……違う、伸ばす場所が別にあるだけだ、と言われた」

 

「伸ばす場所」

 

「意味が分からない、と言ったら、分からなくていい、と」

 

潤さんが、ハンドルを指で、一度だけ叩いた。

 

楽しそうな叩き方だった。

 

「分からなくていい、か。……そいつ、最初っから、あんたに分かってもらう気がないんだよな。ないのに、全部、口に出してる」

 

「……はい」

 

「変な奴」

 

潤さんは、言った。

 

「隠し事しないで、全部見せて、それでも、分かる奴がほとんどいない。……そういう奴は、読みにくいんだよ、これが」

 

 

 

 

 

「夏休みに、船の上で、試験がありました」

 

私は、言った。

 

「学年全員を、十二の組に分けて、それぞれの組に、一人ずつ、優待者という人を隠す。……組の誰が優待者なのかを、当てる試験でした」

 

「人狼ゲームみてえだな」

 

潤さんが、言った。

 

「似ているかもしれません。……私は、あの人と、同じ組でした」

 

試験の二日目の朝。

 

他のクラスの男子が、あの人を、名指しした。あんた、優待者だろう、と。

 

「あの人は、少しも、顔色を変えませんでした。……違うとも、そうだとも言わないで、早く押せばいい、と言いました。相手の指は、落ちませんでした」

 

「本当に、優待者だったのか」

 

「分かりません。……今も、分かりません」

 

私は、言った。

 

「その日の昼過ぎ、甲板の隅で、あの人を呼び止めました。大した度胸ね、と言いました。あそこまで冷静でいられるのは、本当にただ疑われただけの人間の反応じゃないと思う、と」

 

買い被りだ、とあの人は言った。

 

買い被りかどうかは、私が決める、と私は言った。

 

「スマートフォンの使い方も知らなかった。十万を、ずっと使わないまま持っていた。……普通の十五歳の生活じゃない、と言いました。あの人は、さあな、とだけ」

 

私は、窓の外を見た。

 

あの日の甲板の、潮風を、思い出していた。

 

《怖いものが何もない人間に、私は初めて会った》

 

「そう、言いました。……それから、あなたには、賭け金の底が見えない、と」

 

《底なんぞ、初めからねえよ》

 

潤さんの指が、ハンドルの上で、一度だけ、鳴った。

 

「底がない」

 

「はい」

 

《――そう。なら、私はその外から見ておく》

 

《頼んじゃいねえ》

 

《知ってる。だから、勝手にやるのよ》

 

「勝手に」

 

紫木さんが、繰り返した。

 

「ほりきたさん、勝手にやったんですか」

 

「やったわ」

 

私は、言った。

 

「最初に勝手にやったのは、あの人を、クラスの網から外したことでした」

 

「クラスの中で、優待者のことを、緩く教え合う網を作っていました。……あの人だけを、その網から、外しました。あの人の組の話は、誰にも回さないことにしました」

 

「外した」

 

潤さんが、言った。

 

「あの人に、気づかれました。……最終日の朝、あんたが俺だけを共有網から外したこともな、と言われました。理由を聞かせろ、と」

 

今は、まだ言わないでおく、と私は言った。

 

「あの人は、覚えておく、と言いました。……覚えておいて、それでどうする気、と訊いたら、どうもしない、ただ忘れないだけだ、と。脅しかしら、と言ったら、違う、勘定だ、と」

 

あなたのその考え方、時々ひどく古いのよ、と私は言った。

 

古いんだろうよ、とあの人は言った。

 

「その朝、同じ話の中で、私は、自分の組の話し合いが、誰も本気で候補を絞ろうとしないで、避けているみたいに見える、とだけ、あの人に話していました。……あの人は、一つだけ、言いました」

 

《避けてる奴を探すな。避けられてる奴を探せ》

 

どういう意味、と訊いた。

 

今日中に分かる、とあの人は言った。

 

「分かったですか」

 

紫木さんが、訊いた。

 

「分かったのは、私ではなかったわ」

 

私は、言った。

 

「最終日に、あの人から、名前が回ってきました。……他の組の、優待者の名前です。どうやって分かったのかは、一言も、ありませんでした」

 

「何人分」

 

潤さんが、訊いた。

 

「六つ。……あの人の組の名前は、その中に、ありませんでした」

 

潤さんの指が、ハンドルの上で、止まった。

 

「私は、それを、同じクラスの六人に、一つずつ、渡しました。理由を言わずに。送って、とだけ」

 

話し合いの部屋の、天井のスピーカーから、放送が、次々に流れた。

 

卯組の優待者が判明しました。申組の。丑組の。午組の。

 

組が、一つずつ、終わっていった。

 

放送は、六つでは、止まらなかった。私の配っていない組の名前も、次々に、呼ばれていった。

 

私の知らないところで、誰かが、残りの名前も、送っていた。

 

部屋の中の、他のクラスの子たちの顔から、血の気が引いていった。

 

あの人は、何も言わずに、座っていた。

 

「話し合いの部屋を出る時、私は、あの人の後ろから、小さな声で言いました」

 

《うまくやったわ、6人には下船までは一切何も話すなと口止めしておいたわ》

 

あの人は、振り返らなかった。

 

「……あんたのクラスに、六つ」

 

潤さんが、ゆっくりと、言った。

 

「残りは、別の誰かのところへ。……で、自分の組だけ、どこにも出さなかった」

 

「はい」

 

「自分が、その組の優待者だったからか」

 

「分かりません。……あの人が優待者だったのかどうか、私は、今も、知りません。訊きませんでした」

 

私は、言った。

 

「配る前には、訊きませんでした。……訊いたのは、全部が終わってからです」

 

「何て」

 

「最後の夜、船の廊下で。昼間、別のクラスの坂柳さんが、わざわざ龍園くんの名前を出して、あの人に水を向けていたのを見ていました。学年はAからDの四つのクラスに分かれていて、龍園くんは、Cクラスの人です。……綺麗に決まりすぎていて、どこか歪んで見えた。だから、言いました」

 

《こんなの、普通のやり方じゃない。昼間、坂柳さんがわざわざ龍園くんの名前を出してあなたに水を向けた。あれを見た時から、Cが絡んでるんじゃないかって、そんな気がしてならない》

 

「そしたら」

 

《――さあな》

 

「それだけでした。……次の朝、甲板で、もう一度訊きました」

 

《理由は、まだ聞かせてもらえないのね》

 

《別に大した理由じゃねえ。保険だ》

 

「保険」

 

潤さんが、繰り返した。

 

「それ以上は、言いませんでした。……私も、それ以上は、訊きませんでした。Cクラスと何かを分けたのは、分かっていました。どうして自分のクラスだけで全部を取らなかったのかは、今も、あの人の口からは聞いていません」

 

「訊いて、答えをもらえないまま、配った名前の分だけ、勝ったのか」

 

「はい」

 

潤さんは、黙った。

 

黙って、それから、喉の奥で、低く笑った。

 

「そいつ、全部食えたのに、食わなかったんだな。……あんたのクラスに半分、どっかの誰かに半分。たぶん、一人勝ちしたら、恨まれて、詮索されるって、分かってたんだろ。だから、皿を分けた。そのうえで、自分の首だけ、わざわざ卓の上に残した」

 

潤さんは、言った。

 

「で、そいつの首が残ってる組で、あんたは、どうしたの」

 

「最終日の夕方、組の、最後の話し合いがありました」

 

私は、言った。

 

「誰かが、そろそろ優待者を決めて、答えを送ろう、と言いかけました。……私は、一つだけ言いました」

 

《――結果を急ぐ必要が、そもそもあるのかしら》

 

「誰の名前も、上がりませんでした。……組は、誰も答えを送らないまま、終わりました」

 

車の中が、静かになった。

 

彼が、窓に映った顔で、私を見ていた。

 

「……守ったんだね」

 

「守ったのではないわ」

 

私は、言った。

 

「あの人が優待者なのかどうか、私は、確かめなかった。確かめないまま、外から見ておくことにした。……それだけよ」

 

確かめなかった。

 

言ってから、自分で、少しだけ驚いた。

 

余裕のある人間は、確かめない。

 

あの人の言葉を、私は、あの夏、もう、自分の手で、使っていた。

 

潤さんが、前を見たまま、少しだけ笑った。

 

「もう、そこから、真似してたんだな」

 

真似ていた。本物ではない、真似事だった、と今は思う。

 

 

 

 

 

「夏休みの終わりに、あの人は、怪我をしました」

 

私は、言った。

 

「食堂を出たところで、鉢合わせました。頬に、痣がありました。頭に、ガーゼを貼っていました」

 

それ、頭も、と私は言った。声が、途中で、一段上ずった。

 

階段から落ちただけだ、とあの人は言った。

 

「信じませんでした。……どこまで、無茶するつもりなの、と言いました。危ないところだったんでしょう、それ、と」

 

あの人は、短く、認めた。

 

ああ、と。

 

「何があったですか」

 

紫木さんが、訊いた。

 

「知らないわ」

 

私は、言った。

 

「何があったのかは、知らない。……あの人は、言わなかった。私も、訊かなかった。もういい、ただ、無事なら、それでいいわ、とだけ言いました」

 

「それだけ?」

 

「その日の夕方、同じクラスの子が、あの人に、紙袋を渡しているのを見ました。……佐倉さん、という子でした。中は、手作りのクッキーでした。形が、不揃いな」

 

私は、少しだけ、言葉を止めた。

 

止めてから、続けた。

 

「随分、仲がいいのね、その怪我はもしかして佐倉さんに関係してるのかしら、と、言ってしまいました」

 

「言ってしまった」

 

潤さんが、繰り返した。

 

「言うつもりは、ありませんでした。……そういうんじゃねえ、とあの人は言いました。別に否定しなくていいわ、私には関係ないことだもの、と言って、その場を離れました」

 

潤さんは、何も言わなかった。

 

言わなかったけれど、横目で、一度だけ、私の手を見た。

 

膝の上で、組んだ手を。

 

私は、その手を、ほどかなかった。

 

 

 

 

 

「麻雀をする人だと知ったのは、夏が終わってからでした」

 

私は、言った。

 

「誰かに聞いたのではありません。……一年生の秋、体育祭の三日前に、私が、あの人に頼みごとをしたからです」

 

非常階段だった。

 

寮の外側にくっついている、鉄の階段。風が通る場所。

 

私は、あの坂柳さんから、勝負を申し込まれていた。読み合いの勝負。私と、赤木くんの勝負。私が負ければ、兄の立場がなくなる。赤木くんには、何も懸からない。

 

「勝負を受けたうえで、負けてほしい、と頼みました」

 

「へえ。頼んだんだ」

 

「頼みました」

 

「で、断られた」

 

「……どうして分かるんですか」

 

「今の話の流れで、引き受けてたら、あんた今ここで麻雀の話してないだろ」

 

それは、そうだった。

 

「なんて言って断った」

 

覚えていた。一字も、こぼさずに。

 

《あんたが勝つんじゃねえ。俺が譲るんだ。譲られて守った兄貴の顔を、この先あんたはどう見るんだ》

 

それから、こう言った。

 

《つまんねぇことすんじゃねぇよ》

 

潤さんは、声を立てて笑った。

 

「いいね。いいね、そいつ。あたし、そいつ好きだわ」

 

「……笑うところでしょうか」

 

「笑うとこだよ。何も懸かってない奴が、懸かってる奴の頼みを、懸かってないからって理由で断ってんだぜ。普通は逆だろ。……いーたん、お前ならどうする。頼まれたら」

 

潤さんが、バックミラー越しに、後ろへ振った。

 

彼は、窓の外から、目を戻した。

 

「ぼくなら、引き受けるふりをして、引き受けない。……負けてほしいって頼んだ人は、たぶん、本当は、負けてほしくないから」

 

「戯言だな」

 

「戯言です」

 

彼は、少しだけ、私の方を見た。

 

「その人は、ぼくより、ずっと正直だね。……引き受けないって、正面から言ったんだから」

 

それから、もう一つ言われました、と私は言った。

 

《勝てねえよ。あんたは負けるのが怖いんじゃねえ。間違えるのが怖いんだ》

 

潤さんは、今度は笑わなかった。

 

「当たってた?」

 

「……当たっていました」

 

「今も当たってるよ」

 

即答だった。

 

「昨日、子荻ちゃんがつまんなそうな顔してたって言ったろ。あの子にあの顔させたの、どうやったの」

 

「……質問には、質問で返しました。答えを、一つも出さずに」

 

「自分で考えた?」

 

「いいえ。電話で、そうしろと言われました。高校の同級生に」

 

「同級生」

 

「坂柳さんです」

 

潤さんの眉が、少しだけ上がった。

 

「坂柳って、さっきの? あんたに勝負吹っかけて、兄貴の立場を賭けさせた子?」

 

「はい」

 

「その子が、三年近く経って、あんたに電話かけてきて、子荻ちゃんの崩し方を教えたわけだ」

 

「……お詫びの、一つ目だと、言っていました」

 

潤さんは、喉の奥で、短く笑った。

 

「詫びの入れ方まで、勝負の形してんじゃん。……その子、あんたにまだ何個か借りがあるって顔で、電話してきたんだろ」

 

答えなかった。答えなくても、たぶん、顔に出ていた。

 

「……でもさ」

 

潤さんは、片方の口の端を上げた。

 

「それ、間違えないためのやり方だよ。答えを出さなきゃ、間違えようがない。……悪いって言ってんじゃないぜ。あの子相手に、あれ以上の手はなかった。ただ、間違えるのが怖い奴に、ちょうど似合う手だってだけ」

 

「姫ちゃんは、間違えるのは、怖くないです」

 

紫木さんが、言った。

 

「間違えたら、師匠が、直してくれるです。……あれ、でも、師匠は、直してくれないです」

 

「直さないよ」

 

彼が、言った。

 

「直したら、君の答えじゃなくなる」

 

紫木さんは、少しだけ、考える顔をした。

 

それから、頷いた。

 

「じゃあ、姫ちゃんも、怖いかもしれないです」

 

私は、話を戻した。

 

「あの人は、それから、勝負を受ける、と言いました」

 

「譲らないで、正面からやる、と。……それは、兄が終わるということでしょう、と言ったら、そうかもな、と笑いました」

 

「笑ったの」

 

「口の端だけで」

 

《勝てるわけがねえと思ってる奴は、負ける。必ず負ける。だから俺は、あんたが勝つ方に賭ける気がねえ》

 

《今のあんたには賭けねえ。当日のあんたがどうなってるかは、今日の俺には分からねえ》

 

「今日の俺には分からない」

 

彼が、小さく繰り返した。

 

「先のことを、分からないって、ちゃんと言うんだね。……分からないことを、分からないままにしておける人は、少ない」

 

「それから、教えて、と頼みました」

 

私は、言った。

 

「読み合いの勝負で、勝つ方法を。……教えたら、俺が負ける、と言われました。構わないでしょう、あなたには何も懸かっていないんだから、と返しました」

 

「いい返しじゃん」

 

潤さんが、言った。

 

「あの人も、そう言いました」

 

《そいつは、いい返しだ》

 

潤さんは、また、笑った。

 

 

 

 

 

「それから、一番きついのを教えておく、と言われました。……それが出るとは限らない。ただ、一番きついのを知っている奴は、それより下のものに困らない、と」

 

その話は、日が落ちるまで、続いた。

 

あの人が喋ってばかりで、私は、一度も筆記具を出さなかった。出さずに、全部、聞いていた。

 

「覚えたらどうなるのか、と、訊きました」

 

《三日で座れるようにはなる》

 

勝たなくていいのか、と訊いた。

 

《勝ちたきゃ勝て》

 

振り返らずに、そう言った。

 

《ただし、勝ちに行く前に、まず座れ》

 

しばらくして、階段を降りていった。降りながら、もう一つだけ言った。

 

《一つだけ約束しろ。降りるな》

 

「おりる、と、私は訊き返しました」

 

《勝てねえと分かった勝負でも投げるな、ってことだ。投げ方は、最後に覚えればいい》

 

車の中が、少しだけ、静かになった。

 

エンジンの音だけが、低く続いていた。

 

「三日で座れる、か」

 

潤さんが、言った。

 

「そいつ、勝てるようになるとは、一言も言ってないわけだ」

 

「言いませんでした」

 

「嘘をつかない奴の教え方だよ、それ。勝てるって言った方が、教わる方は張り切るんだ。張り切らせといて、負けさせる。……そいつは、それをしなかったわけだ」

 

「座る」

 

紫木さんが、小さく繰り返した。

 

「座るのが、一番大事なんですか。……勝つより」

 

「その人は、そう言ったわ」

 

「師匠と、逆です」

 

紫木さんは、彼の方を見上げた。

 

「師匠は、座らないです。昨日から、ずっと、どこかに、立ってるです」

 

彼は、何も言わなかった。

 

言わずに、紫木さんの頭を、縛っていない方の手で、一度だけ、撫でた。

 

 

 

 

 

「体育祭の前の日に、私は、寮の前でもう一度訊きました」

 

私は、言った。

 

「どこで降りることを言っているのか。始まる前なのか、途中なのか」

 

《両方だ》

 

《始まる前に降りる奴が一番多い。座ったのに、座ってねえふりをする》

 

私は、どちらに見えるのか、と訊いた。

 

《今日はまだ、どっちでもねえ》

 

《座ってねえ奴は、どっちにも見えねえってことだ》

 

「座ってないやつは、どっちにも見えない」

 

彼が、繰り返した。

 

それから、少しだけ、自分の膝を見下ろした。

 

「……ぼくのことだね、それ」

 

「あなたのことは、言っていないわ」

 

「分かってる。でも、ぼくのことだ」

 

彼は、少しだけ、笑った。

 

「ぼくは、ずっと、座ってないふりをしてる。座ったら、隣の人が、いなくなるから」

 

 

 

 

 

「勝負の種目は、麻雀ではありませんでした」

 

私は、言った。

 

「体育祭の次の週の土曜、特別棟の会議室で、坂柳さんが、盤と駒を出しました。ガイスター、というゲームでした」

 

「知らねえな」

 

潤さんが、言った。

 

「八枚の駒のうち、四枚が良い駒、四枚が悪い駒。印は、自分の側にしか見えない。相手の駒は、最後まで、どれがどれか分からない。……運の入らない、読むことしかできない勝負でした」

 

「勝ち方は」

 

「相手の良い駒を全部取るか。自分の良い駒を、相手の陣地から出すか。……それから、三つ目」

 

私は、少しだけ、間を置いた。

 

「自分の悪い駒を、四枚とも、相手に取らせる」

 

潤さんの眉が、少しだけ動いた。

 

「取らせて、勝つのか」

 

「はい。……あの人は、ルールを知りませんでした。坂柳さんが説明している間、ずっと盤を見ていて、三つ目だけ、もう一度言ってくれ、と言いました」

 

《取られて勝つのか》

 

それと、四枚とも、か、と訊いて、並べろ、と言った。

 

「始まってから、あの人の駒は、取られてばかりでした。……あなたの駒、さっきから取られてばかりよ、と言ったら」

 

《取られてるんじゃねえ》

 

あの人は、次の駒を、前に置いた。

 

《渡してるんだ》

 

「……どうして、渡すの、と訊きました」

 

《フフ、この勝負はあんたが決めんだ》

 

潤さんの指が、ハンドルの上で、止まった。

 

「あの人の駒が二つ利いている場所に、私が、自分の駒を入れた時がありました。……取らないのね、と言ったら」

 

《とらねぇよ》

 

なぜ、と訊いた。

 

《俺がとったら、俺が勝ったになるだろ》

 

それから、一言だけ。

 

《覚悟決めろよ、堀北》

 

「……取ったら、自分が勝ったことになる」

 

彼が、ゆっくりと、言った。

 

「勝つのが嫌だったわけじゃない。……勝ち方を、君に、決めさせたかったんだ」

 

「そこから、十二手かかりました」

 

私は、言った。

 

「塞いで、塞いだ先をまた塞いで。駒を削られても引いて、引けなくなるまで引きました。途中で一度、手が震えました。止めませんでした」

 

最後の局面で、道が、二本残った。

 

一本は、私の駒が塞いでいる。

 

もう一本は、空いている。

 

空いた方に、あの人の駒が一枚。塞いでいる方の手前にも、一枚。

 

手前の駒を取れば、四枚目かもしれない。取らなければ、空いた方から出られる。

 

どちらでも、終わる。

 

「長く考えました。考えても、分からなかった。……手前の駒を、取りました」

 

指で持ち上げて、印を見た。

 

「悪い駒でした。四枚目でした」

 

車の中が、静かになった。

 

「私の負けね、と言いました」

 

紫木さんが、小さく息を呑んだ。

 

「負けたんですか」

 

「負けたわ。……兄が、終わることになった。私のせいで」

 

「それで」

 

潤さんが、言った。

 

前を見たまま。

 

「あんたは、何て言った」

 

私は、少しだけ、窓の外を見た。

 

あの日の会議室の、窓の外を、思い出していた。野球部の声が、遠くでしていた。

 

「……言っていいかしら、と訊きました」

 

 

 

《降りなかったわ》

 

 

 

「それだけ、言いました」

 

潤さんは、何も言わなかった。

 

言わないまま、長く、息を吐いた。

 

「坂柳さんは、赤木くんが勝ったのだから、五月八日の件は外に出る、と言いました。それから、私が負けたのだから、あの夜のことは自分の手元に残る、と。……あの人は、後の方を、許しませんでした。なんであんたの手元に残るんだ、と」

 

《打ったのは俺だ。座らなかった奴が勝ち分を持って帰る卓は、卓じゃねえ》

 

「その子から、勝ち分を取り上げたのか」

 

「はい。坂柳さんは、差し上げます、ただし使ってください、と言いました。……あの人は、受け取って、もう一度、全部乗せました」

 

《さらに賭け金を上げて続行する。倍プッシュだ》

 

「倍」

 

潤さんが、繰り返した。

 

「受け取った勝ち分を、丸ごと。……それから、もう一つ、乗せました」

 

《俺の退学だ》

 

車の中で、誰も、息をしていないように思えた。

 

「待って、と言いました。あなたは勝ったのよ、勝った人が、なぜもう一度、と」

 

《勝ったからだ》

 

「意味が分からない、と言いました。……勝った分を持って帰ったら、そこで終わりだろ、と言われました。終わっていいでしょう、私が負けて、兄が終わる、それで済む話なのよ、と」

 

私の声が、少しだけ、震えていた。

 

震えたまま、続けた。

 

《あんたの兄貴は》

 

あの人は、そこで、言葉を切った。

 

《まだ終わっちゃいねえ》

 

《乗せたってことは、まだ場に出てるってことだ。決まっちまったもんは乗せられねえ》

 

《勝ちゃ、戻ってくる。負けりゃ、兄貴と一緒に俺も消える》

 

「そんな取引、私は頼んでいない、と言いました」

 

《頼まれてねえよ》

 

《これは俺の勝負だ、あんたは負けた》

 

それから、あの人は、二人を指さした。

 

坂柳さんと、壁際に座っていた、綾小路くんを。

 

「受け取った分と、自分の退学。二つ積んで、取りに行くのは、あんたと、綾小路の退学だ、と」

 

車の中が、長く、静かだった。

 

高速道路の継ぎ目を越えるたびに、車が、小さく、揺れた。

 

「……そいつ」

 

潤さんが、ようやく、言った。

 

声が、低かった。

 

「勝った時に、一番、危ない場所へ行くのか」

 

「はい」

 

「負けた時じゃなくて」

 

「勝った時に、です。……勝った分を、持って帰るところを、私は、一度も見たことがありません」

 

「勝ち逃げを、知らねえんだな」

 

潤さんは、言った。

 

 

 

「勝ったら、勝ったところで、もう一回、全部乗せる。……そうやって、どこまで行くんだよ、そういうやつは」

 

 

 

「分かりません」

 

「だろうな。本人にも、分かってないよ」

 

彼が、後ろの座席で、小さく言った。

 

「……君のお兄さんを、終わらせなかったんだね」

 

「終わったのを、机の上に、戻したの」

 

私は、言った。

 

「私が二度飲み込んだものを、あの人が、机の上に、戻した。……戻して、自分の退学を、隣に置いた」

 

「君に、頼まれてもいないのに」

 

「頼まれてねえよ、と言ったわ」

 

彼は、しばらく、黙っていた。

 

それから、言った。

 

「その人は、君の負けを、負けのままにしなかったんだ。……君が、降りなかったって言ったから」

 

降りなかったわ。

 

あの日、私が言えたのは、それだけだった。

 

それだけで、あの人は、倍の賭け金を、机の上に積んだ。

 

 

 

 

 

「それで、麻雀の卓が立ちました」

 

私は、言った。

 

「綾小路くんが、種目を、麻雀だと言いました。四人で打つ卓。組は二つ。赤木くんと私。綾小路くんと坂柳さん。兄が、立会人として、窓際に座りました」

 

「あんたは、何を乗せたの」

 

「何も。……あの人の退学と、綾小路くんと坂柳さんの退学と、兄の立場。全部が卓の上にあって、私だけ、自分のものを何も乗せずに座っていました」

 

「赤木くんから付ける条件は、と、兄が訊きました」

 

《乗せるもんは乗せた。あとは座るだけだ》

 

潤さんの指が、ハンドルの上で、一度だけ鳴った。

 

楽しそうな鳴らし方ではなかった。何かを、一つ数えたような鳴らし方だった。

 

「何も懸かってない卓には座らない。座るなら、自分を乗せる。……筋が通ってるよ。通りすぎてて、ちょっと気持ち悪いくらい」

 

私は、五日間で、役と点数と、捨てられた牌の数え方を覚えただけだった。

 

「卓で、あの人は、私に、打ち方を一度も教えませんでした。教えれば、手の中身を伝える言葉になる。兄が、それを禁じていました」

 

日曜日の卓で、私は、三度振り込んだ。

 

三度振り込んで、点棒がなくなりかけて、それでも、席を立たなかった。

 

「私に向かって口を開いたのは、最初の方は、二回だけでした」

 

一度目は、私の指が、手牌の端の一枚に掛かって、戻って、また別の一枚に掛かった時。

 

《堀北》

 

それから、一言だけ。

 

《降りるな》

 

私は、ええ、と答えて、五筒を切った。その五筒で、綾小路くんに振り込んだ。

 

二度目は、それから、しばらくして。

 

《手が冷てえな》

 

「打ち方は一個も教えないで、手の温度だけ見てた」

 

潤さんが、言った。

 

「あたしはね、そういうのを優しいとは呼ばないよ。優しい奴は、卓の上でも打ち方を教える。そいつは、卓の上じゃ教えないで、あんたが自分で温まるのを待ってた。……待つってのは、優しいより、ずっと難しいんだ」

 

「降りるな、と言われて、私は、それを、牌の話だと思いました」

 

私は、言った。

 

「逃げる牌を切るな、という意味だと。……だから、逃げずに切って、振り込みました。三度」

 

紫木さんが、小さく言った。

 

「それ、違うんですか」

 

「違ったの。……分かったのは、南場になってからだったわ」

 

 

 

 

 

「南三局でした」

 

私は、言った。

 

「私たちの組は、一万九千点まで、落ちていました。綾小路くんの組は、八万一千点。……綾小路くんが親で、立直を掛けていました。和了れば、跳満。一万八千点」

 

「一万九千から一万八千引かれたら」

 

「千点しか、残りません。……それなのに、あの人も、立直を掛けました」

 

立直を掛けるには、千点棒を一本、場に出す。

 

「あの人は、千点棒を、自分の手で、卓の真ん中に置きました。……置いた瞬間に、私たちの組の点は、一万八千点になりました」

 

「……ちょうど」

 

彼が、言った。

 

「綾小路くんの跳満と、ちょうど同じ」

 

「赤木くん、今の立直で、と、私は言いかけました。……言いかけて、止めました。点の話をしたら、卓の全員が、同じ数を数えることになるから」

 

あの人が、私の方を見た。

 

《ちょうどだな》

 

それだけだった。

 

車の中が、静かになった。

 

「わざと、か」

 

潤さんが、言った。

 

「綾小路の跳満を一発食らったら、零。……そこまで、自分で、点を削ったのか」

 

「綾小路くんが、言いました。今の千点は、要らなかった、と。要らないものを出した、と」

 

《フフ、出したかったからな》

 

潤さんは、黙った。

 

黙って、それから、ゆっくりと、口の端を上げた。

 

「……出したかったから、か」

 

「立直を掛けたら、もう、手は変えられません。綾小路くんの当たり牌を引いたら、切るしかない。逃げ道を、一本も残さずに」

 

私は、膝の上で、手を組んだ。

 

「次は、私の番でした。……私の手の中で、綾小路くんの河にある牌は、一枚だけでした。綾小路くんが、五巡目に捨てた、西」

 

それを切れば、私は、逃げたことになる。

 

降りるな。

 

あの人の声が、頭の中で、鳴った。

 

「指が、西の上で、止まりました」

 

一秒。二秒。

 

「あの人は、私を見ていませんでした。自分の河を見ていました。……私が何を切っても、それを見届けるつもりのない横顔でした」

 

私は、言った。

 

「見届けるつもりがないのではありませんでした。……私が何を切っても、それを、受け取るつもりの横顔でした」

 

「切ったの、西」

 

紫木さんが、訊いた。

 

「切ったわ」

 

《ロン》

 

「あの人でした。……西の、単騎待ちでした」

 

紫木さんが、目を丸くした。

 

「味方から点数とったですか」

 

「その卓は、味方から和了ってもいい決まりでした。同じ組の中で点を移しても、組の点は、変わらない。……私の二千六百点は、右から左へ移っただけで、一点も減らなかった」

 

「で、綾小路の親が、流れた」

 

潤さんが、言った。

 

「綾小路の立直棒も、あんたたちのものになった」

 

「はい。……たった千点でした。たった千点が、その日、私が、初めて卓の上で動かした点でした」

 

あの人は、私の二千六百点を受け取りながら、一言だけ言った。

 

《まだ怖えか》

 

彼が、後ろの座席で、ゆっくりと、息を吐いた。

 

「……逃げ道の出口で、待ってたんだね」

 

「逃げ道を全部捨てた人が、私の逃げ道の出口に、立っていたの」

 

私は、言った。

 

「あとで、もし、綾小路くんが先に跳満を引いていたら、と訊きました」

 

《終わってたな》

 

天気の話をするような声だった。

 

それだけ、と訊いた。

 

《それだけだ》

 

それから、崩した牌を山に戻しながら、口の端だけで笑った。

 

《いい局だった》

 

「いい局」

 

潤さんが、繰り返した。

 

「一枚違えば、あの人は、学校からいなくなっていました。兄も、終わっていた。……その一枚の上に座って、いい局だった、と言いました」

 

車の中が、長く、静かだった。

 

「その時に、分かりました」

 

私は、言った。

 

「降りるな、は、牌の話ではなかった。……逃げる牌を切ってもいい。逃げた先で、あの人が待っていることもある。この卓から、心を降ろすな。逃げながら、勝負を見ていろ。……そういう意味でした」

 

潤さんの指が、ハンドルの上で、止まっていた。

 

 

 

 

 

「あの人は、勝ちを拾いに行く人ではありませんでした」

 

私は、続けた。

 

止まらなかった。

 

「一枚で消える場所まで、自分で歩いていく。歩いていって、そこに座って、牌を待つ。……普通は、そんな場所に、牌は来ない。来ないから、誰も、そこへは行かない」

 

私は、言った。

 

「あの人の座った場所には、来るんです」

 

 

 

 

 

「最後の局のことを、話します」

 

私は、言った。

 

「北一局。……あの人が、親でした」

 

後ろの座席で、彼が、身を乗り出した。

 

紫木さんも、彼の肩から、頭を上げていた。

 

「配る前に、坂柳さんが、山を崩しました」

 

「崩した」

 

「坂柳さんには、卓が少し高かったんです。朝から、肩で牌を取っていました。……山を前へ押し出した時に、端が卓の縁に引っ掛かって、王牌の手前の一山が転がりました。下の段の一枚が、表を向いて止まりました」

 

私は、言った。

 

「八萬でした」

 

「兄が窓際から立ってきて、表のまま戻せ、と言いました。伏せ直しても、四人とも見た。見たものを見なかったことにはできない、と。……誰が引くかは、山の順で決まる。何も起きなければ、その八萬を引くのは、坂柳さんでした」

 

山の中の一枚が何か、卓の全員が知っている。そういう局だった。

 

「六巡目に、あの人は、立直を掛けました。……手を、全部、卓の上に倒して。オープン立直、という掛け方です。何を待っているのか、卓の全員に見えるように」

 

「晒したのか、待ちを」

 

「八萬の、単騎待ちでした」

 

潤さんの顔が、こちらを向いた。

 

「……坂柳ちゃんがこぼした牌か」

 

「はい。山の尻で表を向いて、坂柳さんの番を待っている、あの八萬と、同じ牌でした」

 

車の中が、しんとした。

 

「……おい」

 

潤さんが、短く言った。

 

「六巡目で、手はもう出来てて、待ちを一枚、選べたわけだろ。で、選んだのが、山のどこにあるか全員が知ってる牌。しかも、自分の番じゃ引けない場所にある牌。……生きてる八萬は、自分の手の一枚と、表を向いてる一枚を除いたら、あと二枚しかないじゃん。それを、晒して待つのか」

 

「はい」

 

「……退学なんてなんとも思ってなかったんだろうな」

 

潤さんは、そう言って、少しのあいだ、何も言わなかった。

 

後ろの座席で、彼が、ゆっくりと言った。

 

「その一枚を、自分のところへ来させるつもりだったの」

 

「来させる、ではなかったと思うわ」

 

私は、言った。

 

「来る、と思っていた顔でした。……待っている顔では、ありませんでした」

 

オープン立直は、兄の取り決めには無かった。坂柳さんが、昨夜覚えたものの中にある、と認めた。綾小路くんが、晒した手に振り込んだら役満、という決まりは使わないでいいか、と訊いた。

 

《フフ、そんなに認めなくねぇなら飜もいらねぇよ》

 

「それで、認められました」

 

「見せたら、誰も切らないだろ、その牌」

 

「切らないはずでした。……十巡目に、綾小路くんが、八萬を切りました」

 

潤さんの眉が、少しだけ動いた。

 

「綾小路くんも、立直を掛けていました。立直を掛けたら、引いた牌を、そのまま切るしかありません。……引いたのが、八萬でした」

 

「当たりを、切らされた」

 

「はい。ロンなら、親の満貫。一万二千点でした。和了っていれば、私たちの組は、ずっと楽になっていました」

 

坂柳さんが、今のは和了りです、と言った。声が、掠れていた。

 

あの人は、次の牌を待つ手のまま、それだけ言った。

 

《いらねぇよ》

 

車の中が、静かになった。

 

タイヤが、道の継ぎ目を、一つ越えた。

 

「……見逃したの」

 

彼が、言った。

 

「晒した手の、当たりを。全員の前で」

 

「見逃したわ。牌を、見もしないで」

 

彼は、黙った。

 

黙って、それから、小さく息を吐いた。

 

「それは、戯言の通じない人だね」

 

潤さんが、前を見たまま言った。

 

「楽になる勝ちは、要らなかったんだろ」

 

「どうして、そう思うんですか」

 

私は、訊いた。

 

「思うんじゃないよ。あんたの話を、そのまま並べただけ。何も懸かってない勝負は断る。勝てるって嘘は言わない。ガイスターじゃ、勝ちをあんたに決めさせる。勝ったら、勝ち分を全部乗せ直す。卓の上じゃ打ち方を教えない。千点を、出したいから出す。晒した当たりは見逃す。……全部、同じ向きを向いてるじゃん。楽な方の勝ちを、片っ端から捨ててる」

 

見逃す。

 

見て、逃がす。

 

あの人は、あの八萬を見もしなかった。見ないで、逃がした。見ないで逃がしたのに、坂柳さんも、綾小路くんも、兄も、あの一枚から、しばらく目を離せなかった。

 

私も、そうだった。

 

「見逃したら、もう、ロンはできません」

 

私は、続けた。

 

「あとは、自分で引くしかない。……残りの二枚のうち、一枚は、坂柳さんの番を待っている表の一枚。もう一枚は、どこかに伏せられていて、誰にも、見えませんでした」

 

私は、膝の上の手を、強く組んだ。

 

「だから、私は、槓をしました」

 

綾小路くんが、白を切った。

 

私の手の中に、白が三枚あった。

 

《届くまで、積むしかないわ》

 

私は、そう言って、三枚を倒した。

 

「綾小路くんの白を、鳴いて、槓にしました。大明槓、という鳴き方です。……槓をすると、山の尻が、一枚、王牌に回ります。表を向いた八萬が、一枚、山の最後に近づきました」

 

あの人は、私を見ないまま、卓の縁に置いた指を、一本だけ動かした。

 

《……まだ、足りねえな》

 

「足りない」

 

潤さんが、繰り返した。

 

「坂柳さんが、九索を切りました。私の手の中に、九索が三枚ありました。……綾小路くんが、言いました。その九索を鳴けば、俺にもう一度自摸が来る。ドラも、もう一枚増える。お前の切る一枚が、俺に当たるかもしれない、と」

 

「止められたのか」

 

「知っているわ、と言いました」

 

《あなたは、最後まで正しく打てばいいわ。私は、違う打ち方をする》

 

《足りないって、言ってるのよ》

 

《何が足りないのかは、知らない。知らないけど、足りないなら、足すわ。あの人の隣で》

 

《これは、元をたどれば私の卓よ》

 

《どうせ終わるなら、強く打って終わらせるわ》

 

「三枚を、倒しました。……二度目の槓で、表を向いた八萬が、山の、最後の一枚になりました」

 

「山の最後の一枚を、親が引く順番に」

 

「そのつもりでした。…………だから、言いました」

 

《最後の一枚は、あなたよ》

 

紫木さんが、息を詰めていた。

 

「坂柳さんが、綾小路くんの切った二萬を、鳴きました。チー、という鳴き方です。鳴くと、順番が、一つずれます。……ずれて、表を向いた八萬は、あの人の番には、届かなくなりました」

 

「外されたんですか」

 

「外されたわ」

 

山の底の八萬を、私は見ていた。

 

私の番に回ってきた、あの人がもう和了れない一枚を。

 

肩が、落ちていた。

 

その時、あの人が、言った。

 

《フフ、そっちじゃねえよ、堀北》

 

「……そっちじゃない」

 

潤さんが、繰り返した。

 

「坂柳さんが鳴いて、順番がずれた分、あの人のところに、別の牌が落ちました。五筒でした。……あの人の手には、五筒が、もう三枚ありました。四枚目でした」

 

「四枚揃えて、槓」

 

「はい。……槓をすると、ドラが、もう一枚、めくられます。私の二つの槓で、ドラは、もう二枚めくられていました。二索と、三萬。新しいドラは、三索と、四萬。……あの人の晒した手の中に、四萬が三枚、三索が三枚、ありました」

 

潤さんの指が、ハンドルの上で、止まった。

 

「あの人の槓で、もう一枚、めくられました。四筒でした。新しいドラは、五筒。……あの人が今、四枚揃えた、五筒でした」

 

「槓をしたら、山の端から、一枚、引きます。嶺上、という場所から」

 

私は、言った。

 

声が、少しだけ、震えていた。

 

「あの人は、嶺上から、一枚、引きました。……引いて、少しのあいだ、動きませんでした。それから、表を向けて、置きました」

 

「まぁ、八萬か」

 

潤さんが、言った。

 

「はい。見えていなかった方の、八萬でした」

 

 

 

 

 

車の中が、また、静かになった。

 

私は、言葉を、探さなかった。

 

探さなくても、あの日の卓の上の全部が、目の前に、並んでいた。

 

「……そっち、だったの、と、私は言いました」

 

小さな声だった。自分の声だとは、思えなかった。

 

「四枚の八萬が、それで、全部、卓の上に出ました」

 

私は、指を折った。

 

「あの人の手の中の一枚。綾小路くんが、十巡目に切った一枚。山の尻で、最初から表を向いていた一枚。……それから、嶺上の一枚」

 

一つずつ、折った。

 

「あの人の手からも。綾小路くんの河からも。山の尻からも。嶺上からも。……四枚とも、あの人の周りで、動いていました」

 

彼が、後ろの座席で、息を止めていた。

 

「誰も、そうしようとしていなかったのに。……綾小路くんは、あの人を負かそうとしていた。坂柳さんは、あの人の勝ち筋を、正しく潰した。私は、違う一枚を、運ぼうとしていた。……それなのに、全部が、あの人のところへ、集まっていきました」

 

潤さんは、何も言わなかった。

 

「坂柳さんが潰した一本の先に、五筒が落ちました。私が積んだ二つの槓が、ドラを、あの人の手の中に、めくりました。綾小路くんが切らされた八萬を、あの人が見逃したから、残りの八萬は、自分で引くしかなくなった。……引くしかなくなった最後の一枚が、嶺上にありました」

 

私は、言った。

 

「卓の上の全員が、自分の打ちたいように打ったのに。……全員の手が、あの人の手に、なっていました」

 

「兄が、読み上げました」

 

オープン立直。門前清自摸和。嶺上開花。断么九。三暗刻。新しいドラ、三索が三枚、四萬が三枚、五筒が四枚。

 

「十七翻」

 

私は、少しだけ、息を吸った。

 

「それから、兄は、こう言いました。裏は、見るまでもない、と。……数え役満」

 

「裏ドラを、めくらなかったのか」

 

「めくりませんでした。……めくる必要が、なかったから」

 

裏ドラ。

 

立直を掛けて和了った人だけが、めくることを許される、伏せられたドラ。

 

あの卓で、誰も、それをめくらなかった。

 

「めくっていたら」

 

私は、言った。

 

言うつもりは、なかった。

 

「たぶん、あの卓にいた誰も、後には、戻れなかったと思います。……あの人が、どこまで積み上がるのかを、見てしまったら」

 

あの人は、並んだドラ表示牌を、一度だけ見て、言った。

 

《フフ……余計なもんが、ずいぶんついたな》

 

それから、綾小路くんと坂柳さんの方を見て、もう一言だけ。

 

《青天井なら、あんたら骨も残らなかったな》

 

誰も、笑わなかった。

 

あの人だけが、笑っていた。

 

口の端だけで。

 

 

 

 

 

車の中で、誰も、口を開かなかった。

 

潤さんの指は、ハンドルの上で止まったままだった。さっきまで、時々鳴っていた指が、もう、一度も鳴らなかった。

 

「……十七翻」

 

ずいぶん経ってから、潤さんが言った。

 

「晒した手に、見逃したあとの、四枚目の八萬。それが嶺上から。……で、裏は見るまでもない」

 

潤さんは、笑おうとしたのだと思う。口の端が、少しだけ上がりかけて、途中で止まった。

 

「あたしはね、りんねちゃん。博打の話なら、人並み以上に聞いてきたよ。命の懸かったやつも、国の懸かったやつも。……でも、こんな順番で積んだ話は、聞いたことないな」

 

後ろの座席で、紫木さんが、小さく言った。

 

「……姫ちゃん、麻雀、分からないです」

 

紫木さんは、彼の袖を、両手で掴んでいた。

 

「分からないですけど、全部の糸が、一人のところに、集まっていったのは、分かったです。……姫ちゃんのは、引っ張らないと来ないです。その人のは、誰も引っ張ってないのに、勝手に、集まっていったです」

 

紫木さんは、首を、横に振った。

 

「そういうの、姫ちゃん、見たことないです。……見たくない、です」

 

冗談の言い方ではなかった。ことわざも、出てこなかった。

 

彼は、ずっと黙っていた。

 

黙ったまま、窓に映る自分の顔ではなく、私の座席の背を見ていた。

 

「……ぼくの周りでは、人が死ぬ」

 

ようやく、彼が言った。いつもより、少しだけ低い声だった。

 

「ぼくが何もしなくても、近くの人が、勝手に狂って、勝手に壊れていく。潤さんは無為式って言うけど、ぼくには、そんな立派なものには思えない。ただ、全部が、悪い方へ集まってくる」

 

彼は、そこで、言葉を切った。

 

「その人の周りでは、全部が、その人の方へ集まってくる。……向きが、逆なだけで、同じ形だ。ぼくは、自分と同じ形のものを、人の話で聞くのは、初めてだ」

 

彼は、少しだけ、息を吐いた。

 

「会ってみたい、とは、言えないな。会ったら、ぼくの方が、裏返される気がする」

 

卓のことは、それで終わりではなかった。

 

「卓の翌日の朝、綾小路くんと坂柳さんは、学校を辞めました。……退学届を、自分で出しました」

 

「負けたら自分で去る卓だったんだな」

 

「はい。……綾小路くんは、学校を辞める前に、私に、こう言ったことがありました。あの男の入学の書類は、どこか、辻褄が合わない、と。正規の手続きの外から入っている、と」

 

潤さんの横顔が、少しだけ、動いた。

 

「夏の前のことでした。……その時は、意味が分かりませんでした。分からないまま、仕舞っておきました」

 

「仕舞っておいたのが、開いたのは」

 

「卓の翌日の夕方でした」

 

その日の放課後、昇降口で、佐倉さんが、あの人に声をかけた。

 

私のすぐ隣でのことだった。

 

佐倉さんは、茶色の封筒を、両手で差し出した。夏の写真です。前に、渡すって言ってたので、と。

 

「あの人は、佐倉さんの封筒を受け取りました。……中を、見ませんでした」

 

《そうかい》

 

それだけ言った。

 

佐倉さんは、少しだけ俯いて、こう言った。私が写ってるのは、入れてません。撮ったのは私なので、と。

 

「中を見ないで、受け取ったの」

 

紫木さんが、訊いた。

 

「見ないで、受け取ったわ。……見ないで受け取るのが、あの人の、受け取り方だった」

 

晒した当たり牌を、見ないで、逃がした。

 

差し出された封筒を、見ないで、受け取った。

 

見ない人だった。

 

見ないで、全部、受け取る人だった。

 

「その日の夕方、校舎の裏で、私は、あの人に紙袋を渡しました」

 

黒い革の、キーケースだった。誕生日が、少し前に過ぎていたと聞いていた。遅れたけれど、と言って渡した。

 

あの人は、礼を言わなかった。鞄の中で鳴っていたやつか、とだけ言って、内ポケットに入れた。

 

それから、もう片方のポケットから、煙草を出した。

 

私は、止めた。未成年でしょう、と。見つかったら、クラスの点まで引かれる、と。今、いくつだと思っているの、と。三百十四よ、と。

 

私は、あの人の手首を掴んだ。力の入っていない手首だった。入っていないのに、動かせなかった。あの人は、掴まれたまま、火をつけた。

 

それから、私の訊いた「いくつ」に、少しだけ違う答えを返した。

 

《十四になるな》

 

それから、あの人は、もう一つだけ言った。

 

《前の晩まで、卓に座ってた。目が覚めたら、ここにいた》

 

 

 

 

 

「待て」

 

潤さんが、言った。

 

私の話を、潤さんが途中で止めたのは、それが初めてだった。

 

「十四。……さっき、同い年のはずだった、って言ったな」

 

「はい。……二つ、年下でした」

 

潤さんは、何も言わなかった。言わないまま、ウインカーを出した。

 

車は左の車線に寄って、サービスエリアに入った。駐車場の端に停まって、エンジンが止まった。

 

エンジンの音が消えると、車の中は、思っていたよりずっと静かだった。

 

「続けて」

 

潤さんは、ハンドルから手を離していた。

 

「……その場で、分かりました。分かりたくありませんでしたけれど。入学した日に、板の使い方を知らなかったことも。言葉が古いことも。点が減る話をしている時だけ、楽しそうな顔をしたことも。綾小路くんの、辻褄が合わない、という言葉も」

 

私は、指を折らなかった。折らずに、並べた。

 

「一つずつなら、ただの変わった人でした。並べると、十四という数の形になりました」

 

後ろの座席で、紫木さんが何か言いかけて、彼の顔を見上げて、やめた。

 

「腹が、立ちました」

 

私は、言った。

 

「誰に対してなのかは、分かりませんでした。その歳で、あの卓に平然と座れる人間がいることにか。その人に、半年かけて、ようやく追いついたつもりでいた自分にか。……腹が立って、それから、少しだけ、怖くなりました」

 

「怖い、って言った? そいつに」

 

「言わないと、決めました。……代わりに、年下なら敬語を使いなさい、と言いました」

 

《フフ、堀北さん、とでも呼ぶかい》

 

「やめて、気持ちが悪い、と言いました」

 

あの時、私は、たぶん少しだけ笑ったのだと思う。この車の中で口にすると、それがひどく遠いことに思えた。

 

「……来年の話は、した?」

 

潤さんが、訊いた。静かな声だった。

 

「来年の誕生日は遅れずに渡す、と言いました」

 

「返事は」

 

《先の話は、性に合わねえ》

 

潤さんは、目を閉じた。

 

「あの人は、時々、ひどく子どもでした」

 

私は、言った。

 

「缶を開けずにポケットに入れる。パンをかじりながら、廊下を歩く。要らない千点棒を、出したいからと言って出す。晒した当たり牌を、平気で見逃す。学校の裏で、生徒会長の妹の目の前で、煙草に火をつける」

 

私は、言った。

 

「向こう見ずだと、思っていました。……向こう見ずなのではありませんでした。向こうを見る歳に、まだ、なっていなかった。見ないまま、見えている大人より先に、卓の一番奥まで、歩いていってしまう人でした」

 

翌朝、昇降口で、あの人は下駄箱の前で止まっていた。上履きの上に、白い封筒が一枚置かれていた。あの人は、それを開けた。宛名も、差出人もなかった。読んで、少しのあいだ動かなかった。それから、口の端だけで笑った。

 

何が書いてあったのか、と私は訊いた。

 

《フフ、卓が一つ、空いたんだとさ》

 

それから一週間後、あの人は、学校からいなくなった。来た時と同じように、行き先も告げずに。

 

前の晩まで卓に座っていた、という言葉の意味は、今も分からない。

 

 

 

 

 

話し終えると、車の中には、何の音もなかった。

 

窓の外を、ソフトクリームを持った家族連れが、笑いながら通り過ぎていった。ガラス一枚向こうの声が、ひどく遠かった。

 

「……りんねちゃん」

 

潤さんが、言った。からかう声ではなかった。

 

「あんた、それ、変だと思わなかったの」

 

「変な人だとは、ずっと思っていました」

 

「そうじゃねえよ」

 

潤さんは、初めて、体ごとこちらを向いた。

 

「変な奴、で済む話じゃねえだろ、今のは」

 

潤さんは、言った。

 

「あたしはね、いろんな世界の奴に会ってきたよ。表の連中も、暴力の世界の連中も、金の世界の連中も、権力の世界の連中も。どこの世界の奴でも、生まれた場所と、育った時間ってのは、顔に出る。言葉に出る。隠しても出る」

 

「……はい」

 

「あんたの話のそいつには、それがないんだ。表の人間じゃねえのは、兄貴の手を止めた夜の話で分かった。でも、裏の人間でもない。裏の奴は、裏の世界の言葉で喋るんだ。そいつの言葉は、どこの世界の言葉でもないんだよ」

 

潤さんは、短く、息を吐いた。

 

「あたしの知ってる、どの世界の人間でもないよ、それ」

 

私は、何も言えなかった。

 

そんなふうに、考えたことはなかった。半年、あの人の斜め後ろの席に座っていて、一度も。考えないようにしていたのかもしれない。考えたら、その席に座っていられなくなる気がしていたのかもしれない。

 

「……ぼくは」

 

後ろの座席で、彼が言った。声が、少しだけ掠れていた。

 

「さっきから、ずっと、数えてた。その人の話に出てくる、おかしいところを。板の話で、一つ。十二点で、一つ。お兄さんの手を止めた夜で、一つ。勝った分を全部乗せ直したところで、一つ」

 

彼は、言った。

 

「北一局で、数えるのをやめた。数えきれなくなったから。……人間の話を聞いてる気が、途中から、しなかった。幽霊の話でも、天才の話でもない。ぼくの知ってるどの言葉でも、その人のことは言えない」

 

「姫ちゃん、怖いです」

 

紫木さんが、小さな声で言った。

 

「怖い人じゃないのに、怖いです」

 

彼が、紫木さんの手を、縛っていない方の手で、握った。

 

怖い、と、自分のことを、あの人に向かっては、一度も言わなかった。

 

言わないまま、半年、すぐ近くの席に座っていた。

 

「……一個、抜いたろ」

 

しばらくして、潤さんが言った。

 

また、前を向いていた。

 

私は、潤さんの横顔を見た。

 

「全部、話した顔してるけどさ。……一個だけ、抜いた」

 

「抜いていません」

 

 

 

「佐倉って子」

 

 

 

息が、止まりかけた。

 

止めなかった。

 

止めなかったのに、潤さんは、横目で、私の手を見た。

 

膝の上で組んだ手の、指先に、力が入っていた。

 

「その名前、今日、二回出た」

 

潤さんは、言った。

 

「夏休みのクッキーと、卓の翌日の封筒。……二回とも、あんた、その名前の前で、半拍、止まった。止まって、それから、名前の周りの話だけして、名前の中身には、一回も触らなかった。赤木くんの話は、あれだけ全部したのに」

 

私は、何も言わなかった。

 

「それに、あたし、一昨日の車で、言ったよな」

 

潤さんの声が、少しだけ、低くなった。

 

「見たのは知り合いで、そいつが人に言えねえことをやってたんだろって。……あれ、その子だろ」

 

車の中が、静かになった。

 

後ろの座席で、紫木さんが、彼の袖を、そっと掴んでいた。

 

彼は、窓の外を見ていた。

 

見ているのに、何も見ていない顔だった。

 

私は、答えなかった。

 

答えられなかった。

 

五月の、雀荘の先の路地。フラッシュの光。佐倉さんの手の中の、カメラのストラップ。

 

五月の終わりの、鴨川。針金のような男。家族になろう。愛織。

 

あの人が、夏に怪我をしてまで助けた子が、今、どこにいて、何という名前を名乗っているのか。

 

私は、それを、ほとんど誰にも話していなかった。

 

綾小路くんに話したのも、半分だけだった。

 

「言わなくていいよ」

 

潤さんは、言った。

 

あっさりと。

 

「言いたくないなら、いい。……二日前の車でも、そう言ったろ。あたしは、言いたくない話を、聞き出す趣味はねえ」

 

潤さんは、少しだけ、間を置いた。

 

「でもな、りんねちゃん。あたしは、もう、分かっちまった。あんたが、今日、赤木くんの話を、全部、話したことも。……全部話したのに、その子のとこだけ、穴を開けて、残したことも」

 

穴を、開けて、残した。

 

「穴ってのはさ、何も無いとこじゃねえんだよ。……何かが、そこにあったから、穴の形になってんだ」

 

潤さんは、ハンドルを、指で、一度だけ叩いた。

 

「赤木くんは、その子の封筒の中を、見なかったんだろ。見ないで、受け取った」

 

「……はい」

 

「あんたは、まだ、その子のこと、見に行ってねえんだな」

 

私は、潤さんを見た。

 

潤さんは、前を見ていた。

 

「見ないで受け取るのは、そいつのやり方だ。……あんたのやり方じゃ、ねえかもしれねえぞ」

 

私は、少しだけ、黙っていた。

 

黙ってから、言った。

 

「……一つだけ、話します」

 

潤さんは、前を見たまま、何も言わなかった。

 

 

 

 

 

「前に、彼には名前だけ話しましたが、五月の終わりに、鴨川で、その子を迎えに来た人がいました。背の高い、眼鏡の男の人でした。……零崎双識(ぜろざきそうしき)、と名乗りました」

 

潤さんの指が、ハンドルの上で、止まった。

 

「その子は、今、その人の家族です。……それ以上は、言いません」

 

「……零崎の、長兄か」

 

潤さんの声から、からかう響きが、消えていた。

 

「ご存じなんですか」

 

「先月、そこの末っ子と、ちょっと遊んだ。京都でね」

 

後ろの座席で、彼が、窓の外を見たまま、少しだけ肩を動かした。

 

「零崎ってのはさ、殺し名の三番目。人殺しの一家だよ。血で繋がってんじゃない。殺したことで、家族になる。……長兄の方は、家族のためなら、なんでもやる奴だって聞いてる。家族の邪魔をした奴は、一人も残さない」

 

潤さんは、そこまで言って、口を閉じた。

 

殺したことで、家族になる。その子は、今、その人の家族です。私が言った言葉と、潤さんが言った言葉が、車の中で、一つにつながった。

 

後ろの座席で、彼が、窓に映った自分の顔から、目を逸らした。

 

二人とも、分かったのだと思った。佐倉さんが、何をして、何になったのか。

 

分かったうえで、どちらも、それを口にしなかった。

 

潤さんは、横目で、私を見た。

 

「で、あんたは、その場にいた」

 

「はい」

 

「目の前で、名乗られた」

 

「はい」

 

潤さんは、しばらく、黙っていた。

 

それから、喉の奥で、低く笑った。笑ったのに、少しも、面白がっている声ではなかった。

 

 

 

 

「……あのさ、りんねちゃん。赤木くんが普通じゃねえのは、十分分かったよ。でもな、やっぱりいちばんイカれてんのは、赤木くんじゃねえよ」

 

 

 

 

「りんねちゃん、あんただよ」

 

 

 

 

「零崎の長兄に、目の前で名乗られて、その家族になった子と、同じ教室にいた。それで、次の月に、のこのこ暗殺者養成校の門をくぐって、刃物の前に座って、まだ普通の顔して、あたしの車に乗ってやがる。……一般人で、それやって生きてられる奴を、あたしは、そこのいーたんの他に知らねえ」

 

言い返す言葉は、どこにもなかった。

 

潤さんは、それきり、その話をしなかった。

 

後ろの座席で、彼が、小さく言った。

 

「……ぼくは、それ以上は、訊かないよ」

 

窓の外を見たまま。

 

「五月のことは、ぼくも、少しだけ、近くにいたから。……近くにいた分だけ、訊けない」

 

紫木さんが、彼と私を、交互に見ていた。

 

零崎、という名前が出た時に、紫木さんの肩が、一度だけ跳ねたのを、私は見ていた。何をどこまで分かったのかは、顔からは読めなかった。

 

読めないまま、紫木さんは、私の座席の背に、後ろから、そっと手を置いた。

 

置いただけだった。

 

置いただけなのに、その手の重さが、背もたれ越しに、少しだけ、伝わってきた。

 

「ほりきたさん」

 

紫木さんが、言った。

 

「姫ちゃん、分からないですけど。……穴は、あとで、埋まるです。雨降って地固まる、じゃなくて、穴開いて地固まる、です」

 

意味は、たぶん、合っていなかった。

 

合っていなかったけれど、誰も、直さなかった。

 

 

 

 

 

潤さんは、しばらく、黙って、ハンドルに手を置いていた。

 

ハンドルの上の指は、一度も、叩かなかった。

 

「……で、赤木くんの話に戻るけどさ」

 

ようやく、潤さんが言った。

 

「あたしはね、人類最強って呼ばれてるんだよ。自分で名乗ったわけじゃないけど、まあ、否定もしない。実際、だいたいの奴には負けない」

 

「……はい」

 

「その、だいたいの外側にいる奴ってのも、何人か知ってる。……だから、言っとくけどな」

 

潤さんは、前を見たまま言った。

 

「あんたが今日話したことを、そのまんまやれる奴なら、あたしの周りに何人かいる。勝ち分を全部乗せ直すのも、満貫を見逃すのも。珍しいけど、いねえわけじゃねえ」

 

私は、何も言えなかった。

 

「でも十四になるな、ってのはさ」

 

潤さんの声が、少しだけ低くなった。

 

「自分の歳を、他人事みたいに数えてる言い方だよ。十三の奴は、普通、十四になるのを待ってる。待ってる奴は、もっと嬉しそうに言うか、わざわざ言わない。そいつは、自分が十四になるのを、どっか遠くから眺めてる。……自分がいるはずの場所とは違うとこで、歳だけ数えてる奴の言い方だ」

 

いるはずの場所とは違うところ。

 

その言葉が、胸の奥で、小さく鳴った。

 

「前の晩まで卓に座ってて、目が覚めたらここにいた、ってのも、そう。あんたに言わなくていいことだろ、あれ。言わなくていいことを、嘘で飾らずに、そのまま言ってる。嘘をつく奴は、もっと上手い嘘をつくんだよ」

 

「……では、あの人は」

 

「さあね」

 

潤さんは、あっさりと言った。

 

あっさり言ったのに、今度は、からかう響きがなかった。

 

「あたしの知ってる連中とは、一個だけ、決定的に違うとこがある」

 

潤さんは、ハンドルに置いた手の指を、一本だけ、立てた。

 

「順番だ」

 

「順番」

 

「あたしの知ってる連中は、全員、勝ちが見えてから張る。見えるまでは、いくらでも待つ。見えた瞬間に、全部乗せる。だから強い。……あんたの話のそいつは、逆なんだよ。張ってから、勝ちを見てる」

 

「ガイスターの勝ち分を全部乗せ直したのも、満貫を見逃したのも、勝ちが見えてたからじゃねえ。先に、自分の首を卓に置いてる。置いてから、どっちに転ぶか、眺めてる。兄貴の手を止めた夜もそうだ。殴られるかどうか、確かめる前に、もう前に出てる」

 

「結果は、真似できる。順番は、真似できねえ。……順番だけ真似した奴から、死ぬ」

 

「生き残ったやつしか、その順番では、成立させられないんだよ」

 

「神域の赫(デッドレッド)、ってところですか」

 

彼が、後ろの座席で、いつもの調子で言った。

 

潤さんは、くすりとも笑わなかった。

 

 

 

 

 

潤さんは、立てた指を、ゆっくりと、握り込んだ。

 

「勝ちを先に見るってのはさ、負けた時に、帰る場所がある奴のすることなんだよ。帰る家があるから、勝てるかどうかを、先に確かめる。……先に首を置けるのは、置いた首を、どこにも持って帰らなくていい奴だけだ」

 

いるはずの場所とは違うところで、歳だけ数えている。

 

前の晩まで卓に座っていて、目が覚めたら、ここにいた。

 

「十四で、年寄りの博打打ちの口を利いて、板の使い方を知らなくて、入学の書類の辻褄が合わなくて、前の晩まで卓に座ってて、目が覚めたら、ここにいた」

 

潤さんは、言った。

 

「そいつは、帰る場所を、前の晩の卓に、置いてきたんだ。……置いてきたまま、目が覚めたら、知らない学校にいた。だから、どこで勝っても、持って帰らないんだ。持って帰る先が、この時代の、どこにもないんだよ」

 

潤さんは、少しだけ間を置いた。

 

「並べたら、一個しか形にならないんだよ」

 

潤さんは、言った。

 

 

 

「そいつは、この時代の人間の座り方を、してない」

 

 

 

この時代の、と潤さんは言った。

 

この場所の、ではなかった。

 

その違いの意味を、私は訊けなかった。訊いたら、何かが、私の手に負えない形で、答えになってしまう気がした。

 

「そういう奴がさ」

 

潤さんの声が、また、少しだけ、変わった。

 

「あんたに、一個だけ、持たせたもんがある」

 

私は、潤さんの横顔を見た。

 

 

 

「降りるな、だ」

 

 

 

潤さんは、言った。

 

「帰る場所のねえ奴が、帰る場所のあるあんたに渡した、たった一個の約束。……心を卓から降ろすなってのはさ、帰る場所のない奴にしか言えない言葉なんだよ」

 

潤さんは、ハンドルを、指で、一度だけ叩いた。

 

「帰る場所がある奴は、いつでも、心を卓から降ろして、帰れる。負けそうになったら、心だけ先に家に帰しとけばいい。みんな、そうやって生きてる。あたしだって、そうだ」

 

潤さんは、言った。

 

「そいつは、あんたに、それをするなって言ったんだ。帰る場所があっても、心だけは、卓に置いとけって。……自分は、置いとく以外に、やりようがない奴がだよ」

 

私は、何も言えなかった。

 

言えないまま、膝の上の手を、見ていた。

 

五日間で、役と点数と、捨てられた牌の数え方を覚えた手。三度振り込んだ手。白と九索を倒した手。

 

この手に、あの人は、一つだけ、持たせた。

 

 

 

降りるな。

 

 

 

「それ、重てえぞ」

 

潤さんは、言った。

 

「帰る場所のない奴の約束を、帰る場所のある奴が持ち歩くってのは。……あんた、三年近く、それ持ってたんだろ。京都に来てからも」

 

「……はい」

 

「重かったろ」

 

私は、答えなかった。

 

答えなかったけれど、潤さんは、頷いた。

 

「いーたん」

 

潤さんが、バックミラーを見た。

 

「お前、どう思う」

 

彼は、しばらく、黙っていた。

 

それから、言った。

 

「潤さんと、同じです。……でも、ぼくは、時代じゃなくて、世界の方だと思う」

 

「世界」

 

「この世界の、因果の糸が、一本も、その人に絡まってない。……絡まってないのに、その人の方へ、糸が集まってくる。そういう人は、たぶん、世界の方が、その人に合わせてる」

 

彼は、窓の外を見た。

 

「戯言だけどね」

 

潤さんは、何も言わなかった。

 

言わないまま、ハンドルを、少しだけ強く握った。

 

 

 

 

 

「……一つだけ、分かったことがある」

 

しばらくして、彼が、また口を開いた。

 

「君が、ぼくの隣の隣に座ってて、死ななかった理由」

 

私は、振り返らなかった。

 

振り返らずに、窓に映る、後ろの座席の彼を見ていた。

 

「ぼくの周りでは、人が狂う。巫女子ちゃんも、むいみちゃんも。……狂うっていうのは、たぶん、心が、どこかから降りることなんだと思う。自分が座ってた場所から、心だけが、ふっと降りる。降りた心は、どこにも座れなくて、悪い方へ流れていく。ぼくの方へ」

 

彼は、言った。

 

「君は、降りなかった。……その人に、降りるなって言われて、その意味を、卓の上で、自分で見つけた。心を、卓から降ろすな」

 

彼は、少しだけ、笑った。

 

「心が降りない人は、狂わない。ぼくの方へ、流れてこない。……君の心は、たぶん、もう、ずっと、その人の隣の席に、座ってるんだ。ぼくの因果が、どれだけ悪い方へ集めようとしても、君の席は、もう埋まってる。座ってる人は、引っ張れない」

 

心を、預けてある。

 

その言葉を、彼は、使わなかった。

 

使わなかったけれど、同じことを、言っていた。

 

「それから、もう一つ」

 

彼は、言った。

 

「その人の座った場所には、牌が来る。誰も引っ張ってないのに、集まってくる。……君は、その人のすぐ近くの席に、半年座ってた。卓では、隣に。隣で、来るのを、何度も見てた」

 

彼は、少しだけ、言葉を探した。

 

「来ることを、疑わない人の隣に座ってた人は、来ないかもしれない場所にも、座れるようになる。……君が、澄百合で、糸の中に入っていったみたいに」

 

紫木さんが、少しだけ、首を傾げた。

 

「糸の中?」

 

いつもの顔だった。何の話か分からない、という顔を、上手に作っていた。

 

私は、何も言わなかった。

 

彼も、何も言わなかった。

 

潤さんも、何も言わなかった。

 

作った顔を、誰も、崩さなかった。

 

「戯言だよ、全部」

 

彼は、言った。

 

「でも、ぼくは、それを信じたいと思った。……ぼくの隣の隣で、一人くらい、ずっと、死なない人がいてほしいから」

 

潤さんが、ハンドルを、指で、一度だけ叩いた。

 

「いーたんにしちゃ、上出来の戯言だ」

 

潤さんは、言った。

 

「付け足すとな、りんねちゃん」

 

潤さんの声が、少しだけ、軽くなった。

 

「座り方は、教わったんじゃないね。教わったのは話だけだ。座り方の方は、座ってるところを、隣で見てたんだ。見てたから、真似できた。真似してるうちに、あんたの座り方になった」

 

「……真似、ですか」

 

「真似でいいじゃん。漫画の主人公だってさ、だいたい誰かの真似から始まるんだよ。途中でいなくなる師匠の背中を追っかけてさ。王道ってやつだ。……なあ、姫ちゃん」

 

「はいです!」

 

紫木さんが、元気よく答えた。

 

「師匠の真似から、始めるです! 姫ちゃんも、師匠の真似から始めたです! ……でも、師匠の座り方は、真似しにくいです」

 

「ぼくは、座ってないからね」

 

「だから、真似しにくいです」

 

潤さんは、ようやく、少しだけ笑った。

 

「昨日と今日のあんた、何にもできなかったろ。子荻ちゃんにも、玉藻ちゃんにも、姫ちゃんにも、一人じゃ、何一つ。なのに、一回も降りなかった。……あれ、降りるなって言われた奴の足だよ」

 

「あの人なら、何かできていたと思います」

 

私は、言った。

 

「だろうね。でも、あの場にいたのはあんただ」

 

潤さんは、前を向いたまま言った。

 

「隣にいた奴を、自分より上に置くのは勝手だよ。けどさ、隣の席ってのは、上でも下でもないから隣なんだぜ」

 

潤さんが、エンジンをかけた。車は、サービスエリアを出て、また高速道路に戻った。

 

私は、窓の外を見た。

 

見えている景色が、少しだけ滲んで見えた。滲んでいる理由を、私は、高速道路の速さのせいにした。

 

 

 

 

 

車が、私の部屋の前で止まったのは、日が傾き始めた頃だった。

 

住所を言った覚えは、やはりなかった。

 

「ほら、着いたぜ」

 

「……紫木さんは、どうなるんですか」

 

ドアに手をかけたまま、訊いた。

 

「いーたんのアパートの、空いてる部屋に入れる。大家さんには、もう話つけてある。学校の方は、自主退学ってことで片付けとく。片付けられる人が、もう学校にあんまり残ってないけどね」

 

潤さんは、後ろの座席を、ちらりと見た。

 

いつの間にか眠っていた二人を見て、口の端を上げた。

 

「いーたんは、病院。全治一週間ってとこかな。いい休みになるでしょ」

 

ドアを開けかけた私の背中に、潤さんが言った。

 

「りんねちゃん。七月、空けといて」

 

振り返った。

 

「面白いとこに連れてってあげる。山奥の研究所。天才を作ってるんだってさ。人間の、頭の中身を、いじくって」

 

天才を、作る。

 

天から与えられるから、天才のはずだ。与えられるはずのものを、作る。作られた天才は、天から与えられたことになるのだろうか。

 

「どうして、私を」

 

「請負人が人を誘うのに、理由が要るかよ」

 

潤さんは、笑った。

 

「……ま、強いて言うならさ。さっきの話、あたし、まだ並べ終わってないんだよ。作られた天才ってのと、この時代の座り方をしてない子の隣にいた女の子。並べてみたら、どっちの形も、ちょっとは見える気がするだろ。見えなかったら、それはそれで面白いし」

 

私は、何も答えなかった。

 

答えないまま、車を降りた。

 

これは、降りる、と書いてもいい。

 

降りても、まだ、どこからも降りていない。

 

 

 

 

 

部屋に入って、鞄を置いた。

 

頬の傷に、薄く血が固まっていた。鏡の前で、それを見た。

 

鏡の中の顔は、楽そうには見えなかった。見えなかったけれど、一昨日の朝、この部屋を出た時の顔とも、少しだけ違って見えた。

 

ノートを開いた。

 

いちばん後ろのページの、十一桁。

 

番号を押した。

 

三回目の呼び出し音で、つながった。

 

『堀北か』

 

『今、話せる?』

 

『話せる』

 

いつも通りの声だった。

 

私は、この三日間のことを話した。赤い車と、請負人だという赤い人。澄百合学園。紫木さん。萩原さん。西条さん。理事長室。それから、坂柳さんの電話のこと。

 

坂柳さんの名前を出した時だけ、ほんの少し、間があった。

 

『番号を、坂柳さんに渡したのね』

 

『渡した』

 

『どうして、あなたがかけてこなかったの』

 

『オレがかければ、オレの手になる。坂柳がかければ、坂柳の手になる。坂柳には、お前に借りがあった。借りのある人間の手の方が、お前には使いやすい』

 

借り。

 

兄を、私に断りなく賭けた借り。

 

綾小路くんは、その借りまで、数に入れていた。

 

『……私が、いずれ自分では抜け出せない場所に座る、と言ったそうね』

 

『言った』

 

『どうして、分かったの』

 

『お前は、降りないからだ』

 

綾小路くんは、即答した。

 

『降りない人間は、いずれ、降りられない場所に座る。それだけのことだ』

 

私は、何も言い返せなかった。

 

『それと、もう一つ』

 

私は、話を続けた。潤さんに、七月に、山奥の研究所へ連れていくと言われたこと。天才を作っている、と。人間の頭の中身を、いじくって。

 

綾小路くんは、黙って聞いていた。

 

話し終えると、いつもより長い間があった。

 

『その研究所の名前は、聞いたか』

 

『いいえ。山奥の、としか』

 

『愛知の山の中に、一つある。斜道卿壱郎(しゃどうきょういちろう)という男の施設だ。人間の脳の構造をいじって、天才を作ろうとしている』

 

綾小路くんは、知っていた。

 

当たり前のように、知っていた。

 

『……どうして、あなたがそれを知っているの』

 

また、間があった。

 

『同業だからだ』

 

短い言葉だった。

 

同業。同じ業。業は、仕事の字だ。仏の言葉では、生まれ変わっても背負い続けるものの字でもある。私は、生まれ直す顔をしている、と言われて、りんね、と呼ばれている。その字を、この人の口から聞くとは思わなかった。

 

『オレが育った場所も、似たようなところだった。子どもを集めて、作り直す。……名前は、言わないでおく』

 

名前のない場所。

 

名前を言わないのは、この人にしては、珍しかった。言わない方が得だと判断したのか、言えない理由があるのか。どちらなのかは、電話の声からは、分からなかった。分からないのに、その場所のことを、どこかで知っていた気がした。

 

『……育った、と言ったわね』

 

『ああ』

 

『今は』

 

『今は、作る側にいる。お前に話しても、オレに損はない。だから話している』

 

損はない。

 

綾小路くんらしい言い方だった。話してくれる理由が、優しさでも信頼でもなく、損得だった。それが、かえって本当のことに聞こえた。

 

『そこで、あなたは何を作っているの』

 

『それは、お前に話すと損になる』

 

即答だった。

 

『斜道の施設は、作り方が雑だ。一人の天才を囲い込んで、その頭の中身を盗もうとしている。囲われた方も、盗む方も、壊れる。壊れたものからは、何も作れない』

 

作り方が雑だ、と言った。

 

雑ではない作り方を、この人は知っているのだと思った。

 

知っていて、それを、今、しているのだろう。

 

『行くな』

 

綾小路くんが言った。

 

『その請負人が誰であれ、斜道の施設は、お前が行って得るものはない』

 

『……あなたが、どういう場所から来たのか』

 

私は言った。

 

『それを、私は見たことがない。見たことがないから、分からない。分からないまま、二年半、あなたの番号を持っていた。似たようなところだと、あなたは言った』

 

『それが、行く理由になるのか』

 

『なるわ』

 

自分でも、驚くほど迷わずに答えていた。

 

電話の向こうで、綾小路くんが、ほんの少しだけ息を吐いた気がした。

 

『好きにしろ』

 

それだけ言って、電話は切れた。

 

切ったのは、向こうだった。

 

綾小路くんが、私の答えに、好きにしろと言ったのは、初めてだった。

 

 

 

 

 

一週間が経った月曜日、彼は、大教室に戻ってきた。

 

窓際のいちばん後ろの列。私の隣を一つ空けた、その向こうに、何も言わずに座った。

 

左の腕に、白い包帯が巻いてあった。

 

講義が始まる前に、私は本から目を上げずに言った。

 

「退院、おめでとう」

 

「ありがとう。入院してた理由を考えると、あんまりめでたくないけどね」

 

「紫木さんは」

 

「アパートにいる。同じアパートの、一階の部屋。朝から晩まで、師匠、師匠って、うるさい」

 

うるさい、と言う声が、少しも迷惑そうではなかった。

 

「学校は」

 

「辞めたことになってる。今度は、どこかの普通の高校に入れるんだって、潤さんが。入れても、たぶん、全教科赤点だと思うけど」

 

「どうして分かるの」

 

「数学の宿題を、見せられた」

 

私は、本で顔を隠した。肩が、少しだけ揺れた。

 

隣の隣で、彼が、小さく溜め息をついた。

 

「次は、どこへ連れていかれるの」

 

彼が、前を向いたまま言った。

 

「どうして、次があると思うの」

 

「潤さんに会った人は、だいたい、次にどこかへ連れていかれる。ぼくがそうだったから」

 

「……七月に、山奥の研究所、と言われたわ」

 

「ぼくも、七月は、愛知の山の中まで行くことになってる。友達に、付き添いを頼まれてる」

 

愛知の山の中。

 

私は、本を下ろした。

 

「友達、と言ったわね」

 

「言ったね」

 

「あなたに、友達がいるとは思わなかった」

 

「ぼくも、たまにそう思う」

 

彼は、前を向いたまま、少しだけ考える顔をした。

 

「青い髪の子だよ。ぼくと同い年で、ぼくより何でもできて、ぼくより何もできない。一人じゃ、階段も昇れない。だから、遠出する時は、誰かが付き添わなきゃいけない。その誰かが、たいてい、ぼくなんだ」

 

「友達だから?」

 

「友達だから、なのかな。付き添うから友達なのか、友達だから付き添うのか、ぼくにはもう分からない」

 

それは、友達の話をしている顔ではないように見えた。

 

私は、それ以上は訊かなかった。訊けば、彼はきっと、言葉で煙に巻く。煙に巻かれたくなかった。煙に巻かれずに済む距離で、置いておきたかった。

 

一つ空けた席というのは、たぶん、そういう距離なのだ。

 

「……奇遇ね」

 

「奇遇だね」

 

彼は、それだけ言った。

 

講義が始まった。

 

教授の声が、窓の外の雨に混じって、遠く聞こえた。

 

七月は、もうすぐだった。

 

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