遠くへ行くのは、距離の話ではない。
戻る時の距離を、自分で増やすことだ。一歩進むたびに、帰り道が一歩長くなる。長くなった帰り道を、人は覚悟と呼んだり、無謀と呼んだりする。
どちらと呼ぶかは、帰ってこられたかどうかで決まる。
帰ってこなかった人の一歩には、誰も名前をつけてくれない。
六月の最後の水曜日、大教室の講義が終わったあとで、彼が、一つ空けた向こうの席から言った。
「七月の頭、愛知に行くことになったよ」
「この前、聞いたわ。友達の付き添いでしょう」
「うん。日にちが決まった。一日の朝に出る」
彼は、鞄に教科書をしまいながら、言葉を続けた。しまう手つきが、包帯で戻ってきた日より、少しだけ滑らかだった。腕の包帯は、もう取れていた。
「友のところに、昔の仲間から連絡が来たんだ。……昔、友の周りに、変な人たちが集まってた時期があってね。その中の一人」
「変な人たち」
「天才、って言い換えてもいい。九人いた。友を真ん中にして、何かをやって、何の痕跡も残さないで、ばらばらになった。……ぼくは、その頃、日本にいなかったから、話でしか知らない」
彼は、鞄の口を閉じた。
「連絡してきたのは、探すのが専門だった人。今は、刑務所の中にいる」
「刑務所」
「懲役百五十八年だって。……どこかの、大きな国の集まりのデータベースに、勝手に入ったらしい。入って、もう少しで奥まで行けるところで、友が昔作った防衛線に引っかかった」
冗談を言っている顔では、なかった。
懲役、百五十八年。人の一生を、二つ並べても、まだ足りない年数だった。数字が大きすぎると、重さの方が、かえって分からなくなる。
「刑務所の中から、どうやって連絡をしてくるの」
「さあ。探すのが専門の人は、たぶん、連絡の道も探せるんだと思う」
彼は、少しだけ笑った。
「友が、その人に、調べ物を頼んだらしい。返ってきた答えは、昔の仲間の、別の一人が、山の中の研究所に閉じ込められてる、だった。……友は、その一人を、外に出したいらしい」
閉じ込められている。
六月の澄百合で、
あれから、まだ半月と少ししか経っていなかった。
「研究所の名前は」
「
私は、教科書を閉じる手を、少しだけ止めた。
半月ほど前の夜、私は、電話で、同じ名前を聞いた。
《愛知の山の中に、一つある。斜道卿壱郎という男の施設だ》
綾小路くんは、知っていた。当たり前のように。同業だからだ、と言った。
《行くな》
《それが、行く理由になるのか》
なるわ、と答えた私に、好きにしろ、と言った。
「……前にも言ったけれど、潤さんにも、七月を空けておけと言われているの」
「うん。潤さんも、行くつもりらしい。……らしい、だけど。潤さんは、行くって言った時ほど、来ないから」
彼は、立ち上がった。
立ち上がって、一つ空けた席の私を、見下ろした。
「来る?」
訊き方が、軽かった。
六月に、赤い人が、降りたかったら降りな、と言った時と、似た軽さだった。どちらでもいい、という軽さではなかった。どちらを選んでも、責めない、という軽さだった。
「行き先の分かっている人に、訊かれたのは、初めてね」
「そうなの」
「六月は、行き先も訊かずに、車に乗ったわ」
「ぼくは、気がついたら、首に冷たいものが当たってた」
私は、少しだけ、口の端を動かしかけて、やめた。
「……考えておくわ」
「うん。考えといて」
彼は、それだけ言って、大教室を出ていった。
考えておく、と答えた。
答えた時には、もう、考えるまでもないことを、私は知っていた。知っていて、考える、と言った。考える時間をもらえば、そのあいだは、まだ、決めていないことにできる。
決めていないことにしておけば、電話で綾小路くんに言った、なるわ、を、まだ本当にしなくて済む。
それが、ずるいことなのかどうかは、分からなかった。
分からないまま、窓の外を見た。
六月の終わりの空は、梅雨の灰色と、夏の青の、ちょうど間の色をしていた。どちらにも決まっていない色だった。
七月の最初の金曜日、朝の八時に、部屋のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、彼が立っていた。
大教室の窓際で、一つ空けて座る男。先月、腕に包帯を巻いて戻ってきた男。包帯はもう取れていた。取れた跡を、長袖で隠していた。
「おはよう」
「……おはよう。どうして、あなたがここにいるの」
「伝言を預かってる。潤さんから」
彼は、紙切れを一枚、差し出した。
ノートを破ったような紙だった。赤いペンで、一行だけ書いてあった。
〈急な仕事。今回はパス。代わりにいーたんたちの車に乗ってけ。 潤〉
字が、大きかった。紙の端からはみ出しそうなくらいに、大きかった。書いた人間の声が、そのまま字の形になっていた。
「七月を空けておけと言ったのは、潤さんよ」
「言ってたね」
「言った本人が、来ないの」
「来ない人なんだよ、来るって言った時ほど。来ないって言った時に、来る」
それは、人として、どうなのだろう。
思ったけれど、言わなかった。言えば、彼はきっと、それを肯定も否定もしない言葉で返す。
「どこへ行くのか、あなたは知っているのね」
「愛知の、山の中。この前、話したとおり。友達の付き添い」
「友達の付き添いの、付き添いになれということ?」
「そうなるね。付き添いが二重になると、何から付き添ってるのか、よく分からなくなる」
彼は、少しだけ笑った。
「断ってもいいよ。潤さんには、ぼくから言っておく。言っても、たぶん、潤さんは聞いてないけど」
断る理由は、いくつもあった。
知らない人の車に乗ってはいけない。知らない人の仕事に、首を突っ込んではいけない。先月、それで頬に傷を作った。傷は、もう、ほとんど見えない。見えないけれど、触ると、まだ分かる。
私は、頬に触れなかった。
「着替えを取ってくるわ。一日分でいいのかしら」
「三日分あると、安心かな。ぼくの経験上、一日で帰れた試しがない」
「それは、あなたの経験でしょう」
「君も、先月、一日では帰れなかった」
言い返せなかった。
鞄に、着替えを三日分と、ノートを入れた。ノートのいちばん後ろには、あの紙が挟まっている。番号は、もう指が覚えている。覚えているのに、紙は、捨てられずにいる。
アパートの前に、白い車が止まっていた。
大きな車だった。窓に、薄く色がついていた。運転席に、背の高い女性が座っていた。助手席は、空いていた。
後ろの座席に、小さな女の子がいた。
青かった。
髪が、青かった。目も、青かった。長く伸ばした髪の青は、ところどころ、少しだけ色が抜けていた。体は小さかった。中学生くらいにしか見えなかった。大きなクッションを抱えて、窓に頭を預けていた。
彼が、後ろのドアを開けた。
女の子が、顔を上げた。
「あ、いーちゃん。遅いー」
「遅くないよ。約束の時間ちょうどだ」
「ちょうどは遅いの。僕様ちゃんの時計では」
僕様ちゃん。
一人称に、様と、ちゃんが、両方ついていた。偉いのか、幼いのか。どちらかに決めないまま、両方を名乗っている。
女の子の目が、私の方へ動いた。
まばたきを、一度もしなかった。
見ている、というより、読み込んでいる目だった。先月の赤い人は、顔の表面から、奥へ降りていくように読んだ。この子の目は、最初から、奥の方を見ていた。
「うにー」
意味の分からない声だった。
それから、にっこりと笑った。
「いーちゃんの、隣の隣の人だね」
息が、止まった。
隣の隣。
「……どうして、それを」
「調べたもん」
あっさりと言った。
「いーちゃんの周りにいる人は、全部調べるの。僕様ちゃんの趣味。堀北鈴音ちゃん。二月十五日生まれ。鹿鳴館大学一回生。窓際のいちばん後ろ。隣を空けて座る人」
最後の一つは、どこにも書いていないはずだった。
座席表など、大学にはない。
「最後のは、どうやって」
「いーちゃんが言ってたの。隣を空けて座る子がいるって。いーちゃん、人の名前は覚えないのに、座り方は覚えてるんだよ。変なのー」
私は、彼を見た。
彼は、困った顔で、目を逸らした。
「僕様ちゃんは、
その子は、隣に座った彼の腕に、ぎゅっとしがみついた。
しがみついたまま、私を見上げた。
笑っていた。笑っているのに、目の奥の青だけが、少しも笑っていなかった。
「よろしくね、すずちゃん」
すずちゃん。
鈴音の、上の一字だけ。りんね、と呼ばれ、すずちゃん、と呼ばれる。人は、私の名前を、好きなところで切る。切られた方の音は、どこへ行くのだろう。
運転席の女性が、振り向いた。
とても背の高い人だった。座っていても、天井に頭がつきそうだった。黒いスーツを着ていて、髪をきちんとまとめていた。目つきが鋭く、全身から、何かを叱りつける直前の空気が出ていた。
その人が、私を上から下まで、一度だけ見た。
見て、満足そうに頷いた。
「あんた、美少女だわよ」
「……は?」
「人間ってのはね、美少女と、アタシと、それ以外に分かれるの。あんたは美少女の方。よかったわね」
よかった、のだろうか。
三つに分けて、自分一人で一つの枠を使っている。分類というより、宣言だった。
「
すず、と呼ばれた少しあとに、鈴の無い人が名乗った。鈴も、音も、私の名前から一字ずつ持っていって、鈴の方は、無いと言う。
あおちゃん、と鈴無さんは、玖渚さんを呼んだ。
青い子だから、あおちゃん。名前ではなく、色で呼ぶ。色で呼ばれても、玖渚さんは、気にした様子がなかった。
私は、助手席に座った。
後ろの座席で、彼と玖渚さんが並んでいた。
隣同士だった。
京都を出て、高速道路に乗った。
鈴無さんの運転は、丁寧だった。丁寧なのに、速かった。速いのに、少しも揺れなかった。前の車との距離を、定規で測っているような運転だった。
「あんた、あの赤いのの知り合いなんだって?」
前を向いたまま、鈴無さんが言った。
「知り合い、と言えるほどでは」
「先月、一緒に女子校に潜り込んだって聞いたわよ。それを知り合いと呼ばないなら、何と呼ぶの」
「……被害者、でしょうか」
鈴無さんは、声を立てて笑った。
「いいわね、それ。アタシも、あの赤いのには何度か被害に遭ってるの。被害者同士、仲良くしましょ」
後ろの座席で、玖渚さんが、うにー、と言った。
賛成なのか、反対なのか、分からなかった。
窓の外を、緑の山が流れていった。
「行き先のことは、聞いてる?」
「研究所、とだけ」
「斜道卿壱郎研究施設。人間の頭の中を、いじくって、天才を作ろうとしてる所よ。あおちゃんの家が、お金を出してる」
「玖渚さんの家が」
「家とは、もう縁が切れてるんだけどね、この子。縁が切れてても、名前は切れないの。名前で門が開く。だから、この子が行くと、向こうは門を開けるしかない。開けたくなくてもね」
名前で門が開く。
先月の門は、名前では開かなかった。赤い人が、どこからか取り出した鍵で開けた。
「何をしに行くんですか」
後ろから、彼が答えた。
「友の、昔の仲間が、そこにいる。
「閉じ込められているの」
「本人がどう思ってるかは、知らない。ぼくは、会ったことがない。会ったことがないのに、たぶん、嫌われてる」
「どうして」
「友の昔の仲間は、みんな、ぼくのことが嫌いなんだ。ぼくが友の隣にいるのが、気に入らないらしい」
隣、と彼は言った。
バックミラーに、後ろの座席が映っていた。玖渚さんが、彼の肩に頭を乗せて、目を閉じていた。
隣、という場所は、この子のものなのだと思った。
思ってから、もう一つ思った。この子の隣に、彼は、自分で座ったのだろうか。それとも、座らされたのだろうか。
「さっちゃんはね」
目を閉じたまま、玖渚さんが言った。
「いーちゃんのこと、嫌いなんじゃないよ。羨ましいだけ。嫌いと羨ましいは、裏表だから、さっちゃんにも区別がついてないの」
さっちゃん。兎吊木さんの、ことらしい。
「すずちゃんは、誰かを羨ましいって思ったこと、ある?」
不意に、訊かれた。
バックミラーの中で、青い目が、開いていた。
「……あるわ」
「誰?」
答えなかった。
教室の後ろの席で、頬杖をついていた人の名前を、この子に渡すつもりはなかった。鴨川で聞いた名前も、渡すつもりはなかった。この子なら、名前一つから、全部を調べてしまう。
「言いたくないなら、いいよ。僕様ちゃん、言いたくない顔は、調べないことにしてるの」
「調べないことに、しているの」
「うん。調べたら、言いたくない人が、言わなくても済んじゃうでしょ。それって、ずるいもん」
ずるい、と玖渚さんは言った。
人の生まれた日も、座る席も調べ上げる子が、言いたくない顔だけは調べない。どこに線を引いているのか、私には分からなかった。分からなかったけれど、その線がある、ということだけは、少しだけ、ありがたかった。
途中で一度、サービスエリアに寄った。
鈴無さんが、車を停めて、エンジンを切った。
「あおちゃん、トイレ」
「やだー。外、出たくない」
「出たくないじゃないの。出るのよ。この先、山の中で困っても、アタシは知らないからね」
玖渚さんは、クッションに顔を埋めて、うにー、と言った。言ったまま、動かなかった。
彼が、先に車を降りた。降りて、後ろのドアの外に、背中を向けてしゃがんだ。玖渚さんは、クッションを置いて、当たり前のように、その背中におぶさった。
おぶさる方も、おぶう方も、少しも迷わなかった。何百回も繰り返した動きの、何百一回目に見えた。
「一人じゃ、外を歩けないのよ、あの子」
自動販売機の前で、鈴無さんが言った。
缶のお茶を二本買って、一本を私に渡した。渡されたものを、私は受け取った。受け取ってから、受け取ったことに気づいた。
「歩けない、というのは」
「足は動くの。動くけど、一人じゃ動かないの。階段も、外の道も、誰かの背中がないと、駄目。昔からそう。病気ってほどじゃないし、甘えってほど軽くもない。……あいつが背中を貸してる限り、あの子は、どこへでも行ける」
鈴無さんは、建物の入口へ消えていく二人の背中を見ていた。
見る目が、叱る直前の目ではなかった。叱るのを、もう少し後に取っておく目だった。
「あんた、家族は」
不意に、訊かれた。
「……兄が、一人」
「連絡してる?」
「……電話は、していません」
即答してから、即答した自分に驚いた。
兄さんの番号は、スマートフォンに入っている。入っているのに、京都に来てから、一度もかけていない。四月に、かけようとして、かけなかった。かけなかった日を、私は、まだ覚えている。
「そ」
鈴無さんは、それだけ言った。
説教をされると思った。されなかった。
「家族ってのはね、連絡しなくても家族なの。連絡しないから家族じゃなくなる、なんて理屈は、どこにもないわ。……ただし、連絡しないまま死ぬと、家族の方は、一生それを数えるわよ。あんたが数えるんじゃない。向こうが数えるの」
数える。
隣の隣の席が空いた日を、私は数えていた。数える側の気持ちなら、少しだけ、知っている。
「説教ですか」
「違うわよ。これは独り言」
鈴無さんは、缶を開けて、一口飲んだ。
「独り言にしちゃ、声が大きかったわね。まあ、いいわ」
独り言だと言いながら、相手に届く声で言う。言ってから、それを自分で笑う。この人の独り言は、たぶん、聞かせるためにある。
私は、缶のお茶を開けなかった。
開けないまま、手の中で、少しずつ温度が移っていくのを感じていた。冷たい缶が、私の手の温度に、少しずつ近づいていった。
缶を開けずに持っている人を、私は一人、知っている。
一度だけ、見たことがある。
その人のことを、ここで思い出す理由はなかった。なかったのに、思い出した。思い出したまま、缶を鞄にしまった。
彼が、玖渚さんを背負って、建物から戻ってきた。
玖渚さんは、彼の背中で、私に手を振った。
「すずちゃーん、お茶、僕様ちゃんの分はー?」
「あなたの分は、鈴無さんに言って」
「音々ちゃん、ケチだもん」
「ケチじゃないわよ。順番よ」
鈴無さんが、もう一本、お茶を買った。
買ったお茶を、彼の背中の玖渚さんではなく、彼に渡した。彼は、それを、自分では飲まずに、背中の方へ差し出した。
渡す人と、渡される人と、渡されたものをそのまま渡す人。
私は、助手席に戻った。
鞄の中で、開けていない缶が、まだ少しだけ冷たかった。
高速を降りて、山道に入った。
道は、細くなっていった。両側から、木の枝が覆いかぶさってきた。舗装はされているのに、ところどころひび割れて、雑草が顔を出していた。人の通らない道だった。
途中で、スマートフォンを見た。
画面の右上の、電波の印が、一本ずつ減っていった。
最後の一本が消えて、小さな文字が出た。
圏外。
囲いの外、と書く。
山の中で、私は、ようやく囲いの外に出たらしい。外に出て初めて、囲いの中にいたことが分かる。高校の三年間と、同じだった。
綾小路くんの番号には、かけられない。
かけるつもりは、なかった。先月、好きにしろ、と言われた。好きにした結果が、ここだ。ここで何を見ても、何を決めても、電話で答えを訊く筋合いはない。
筋合いはない、と思うのは、半分だけ本当だった。
訊けない場所に来て、初めて、自分がどれだけ訊くつもりでいたのかに気づいた。
この一か月半、私は、何かあるたびに、あの番号にかけてきた。正しい答えを、何度ももらった。もらった答えを、一度も、そのままは使わなかった。それでも、もらえることに、私は寄りかかっていた。
圏外の二文字は、その寄りかかりを、黙って取り上げていった。
一時間ほど登ったところで、森が途切れた。
開けた場所に、建物があった。
白い建物だった。四角くて、窓が少なかった。いくつかの棟が、渡り廊下でつながっていた。周りを、高いフェンスが囲んでいた。フェンスの上に、鉄条網が巻かれていた。
研究所というより、何かを閉じ込めておくための場所に見えた。
閉じ込めておく、と思ってから、別の場所を思い出した。
政府が作った全寮制の学校。外との連絡が禁じられ、三年間、誰も出ていけない場所。あの学校では、フェンスより先に、規則が人を囲っていた。
出ていかないように作られた場所は、フェンスを必要としない。
ここには、フェンスがある。
フェンスが要るということは、出ていこうとする人間がいる、ということだ。
門の横に、インターホンと、小さなカメラがあった。
鈴無さんが窓を下ろして、ボタンを押した。
「玖渚友とその連れ。四人。話は通ってるはずよ」
少しの間があって、門が、音を立てて開き始めた。
名前で、門が開いた。
先月の門とは、開き方が違った。違うのに、開いたあとの道が、同じくらい暗く見えた。
玄関の前で、白衣の老人が待っていた。
背が曲がっていた。髪は薄く、目だけが、異様に大きく見開かれていた。六十を過ぎているように見えた。見えたのに、立ち方には、年寄りの弱さが少しもなかった。人に命令することに慣れきった立ち方だった。
「玖渚の、お嬢様」
老人は、玖渚さんに向かって、頭を下げた。
下げた頭の角度が、正確すぎた。敬意の分だけ下げたのではなく、下げなければならない分だけ下げた角度だった。
「お久しぶりー、博士。元気だった?」
玖渚さんは、彼の腕にしがみついたまま、にこにこと手を振った。
「おかげさまで。……お嬢様が、玖渚の家と縁を切られたと伺いましたが」
「切ったよー。でも、名前は切れないんだって。不便だよねー」
老人の目が、一瞬だけ、細くなった。
細くなった目が、玖渚さんから離れて、彼を見て、鈴無さんを見て、最後に、私を見た。
「その娘は」
「付き添いの、付き添い」
彼が答えた。
老人は、私を、上から下まで見た。
鈴無さんの見方とは違った。値札を確かめるような見方だった。この人間に、どれだけの値打ちがあるのか。使えるのか、使えないのか。
見られているあいだ、私は、少しも動かなかった。
動けなかった、のではない。動かなかった。先月、刃物の前でもした座り方だった。立っていても、座ることはできる。
「……凡庸だな」
老人は、それだけ言った。
凡庸。凡人の凡に、中庸の庸。並のものを、並のまま、並べた字だ。
同じ四文字を、私は、前にも一度、言われたことがある。高校一年の春だった。言った人は、続けて、間違っちゃいねえ、と言った。この老人は、続けなかった。
一度目は、腹が立った。二度目の今は、腹は立たなかった。
腹が立たなかった理由は、もう一つあった。
先月、赤い車の中で、逆のことを言われている。いちばんイカれてんのは、あんただ、と。
凡庸と、イカれている。どちらが本当なのかは、分からない。この老人の値札には、零崎の名前を聞いて生きている人間、という欄は、たぶん無い。
分からないまま、両方を、持っていることにした。
一度目のあと、私は、自分で、凡庸だったと認めた。認めて、それでも、あの人の隣の席に座り続けた。
認めたうえで、今も、座っている。
「凡庸な者は、施設のものに触れないように。触れれば、警察を呼ぶ」
「呼んで困るのは、どっちだろうねー」
玖渚さんが、歌うように言った。
老人は、それには答えずに、玄関の中へ戻っていった。
戻る前に、一度だけ、玖渚さんを見た。
その目には、憎しみに似たものが浮かんで見えた。似たもの、と思ったのは、それが憎しみだけには見えなかったからだ。憎しみの底に、何か、もっと古いものが沈んでいた。羨ましい、と、さっき玖渚さんが言った言葉を、私は思い出した。
「斜道卿壱郎」
隣で、彼が小さく言った。
「この施設で、いちばん偉い人。友とは、昔から反りが合わない」
「反りが合わない、で済む顔ではなかったわ」
「済まない顔を、済ませる言い方なんだよ。反りが合わない、っていうのは」
鈴無さんが、腕を組んで、老人の消えた玄関を見ていた。
「嫌な目だわよ。人を材料で見る目。アタシ、ああいうのを見ると、説教したくてたまらなくなるの」
「説教、するんですか」
「しないわよ。説教ってのはね、聞く耳のある相手にしかしないの。聞く耳のない相手にする説教は、ただの独り言。アタシは、独り言は言わない主義なの」
それは、嘘だと思った。
この人は、たぶん、独り言でも説教をする。
玖渚さんは、彼の背中から、鈴無さんの背中へ移された。移されながら、うにー、と言った。
玄関を入ると、広い吹き抜けになっていた。
白い壁と、白い床と、白い天井。窓が少ないのに、明るかった。明るさが、どこから来ているのか分からない明るさだった。
吹き抜けの奥に、エレベーターの扉があった。
扉の前に、黄色と黒の縞のテープが、斜めに貼られていた。
使用禁止、と書いた紙が、テープの真ん中に、ぶら下がっていた。
「エレベーター、壊れているんですか」
私が訊くと、玄関の脇の小部屋から、小柄な女性が出てきた。
眼鏡をかけていた。紺のスーツを、少しも崩さずに着ていた。
「壊れているのではありません。分解されたのです」
女性は、静かに言った。
「中にいる研究員の一人が、エレベーターを嫌っておりまして。……先月、道具も使わずに、扉から箱まで、全部ばらしてしまいました。組み直す予算が、まだ下りておりません」
道具も使わずに。
「それは、閉じ込められている人の仕業ですか」
続けて訊くと、女性は、ほんの少しだけ、眉を動かした。
「閉じ込められている、という言い方は、当施設では使いません。……特別研究員、とお呼びください」
言い方を、直された。
直されたのは、言葉だけだった。中身の方は、直されなかった。
「申し遅れました。博士の秘書をしております、
宇瀬さんは、玖渚さんを見た。
鈴無さんの背中に負われた、玖渚さんを。
「階段で、よろしいでしょうか」
「うにー。音々ちゃんが昇るから、いいよー」
玖渚さんは、鈴無さんの肩の上で、楽しそうに手を振った。
鈴無さんが、溜め息をついた。
宇瀬さんは、少しも表情を変えずに、階段の方へ歩き出した。
歩き出す前に、一度だけ、分解されたエレベーターの扉を、振り返った。
振り返った目に、一瞬だけ、何かが浮かんだ。怒りとも、呆れとも、違うものだった。
自分の手では直せないものを、毎日、その前を通るたびに見ている人の目に、見えた。
階段は、白かった。
一段ごとに、足音が、吹き抜けに響いた。
骨董アパートの階段のように、板が鳴るのではなかった。音が、どこにも吸われずに、白い壁から壁へ、跳ね返っていた。
跳ね返った音は、昇る人間の数を、数えているようには、聞こえなかった。
数えずに、ただ、記録しているように聞こえた。
階段の途中で、彼が、一つ空けた後ろから、小さく言った。
「先月ばらしたって。……閉じ込められてる人は、エレベーターも、閉じ込める箱だと思ってるのかもしれないね」
「乗らなければ、閉じ込められないわ」
「乗らないで、階段で昇る人は、たぶん、いちばん出口に近い人だ」
彼は、それきり、黙った。
私は、白い階段を、一段ずつ、昇った。
昇りきった先の廊下も、白かった。白い廊下の先に、私たちの泊まる部屋が、四つ、並んでいた。四つの扉のあいだの間隔は、どれも、同じだった。
同じ間隔で並んだ扉の、どれが誰の部屋になるのかは、まだ、決まっていなかった。