ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第13話 侵入(深入)

遠くへ行くのは、距離の話ではない。

 

戻る時の距離を、自分で増やすことだ。一歩進むたびに、帰り道が一歩長くなる。長くなった帰り道を、人は覚悟と呼んだり、無謀と呼んだりする。

 

どちらと呼ぶかは、帰ってこられたかどうかで決まる。

 

帰ってこなかった人の一歩には、誰も名前をつけてくれない。

 

 

 

 

 

六月の最後の水曜日、大教室の講義が終わったあとで、彼が、一つ空けた向こうの席から言った。

 

「七月の頭、愛知に行くことになったよ」

 

「この前、聞いたわ。友達の付き添いでしょう」

 

「うん。日にちが決まった。一日の朝に出る」

 

彼は、鞄に教科書をしまいながら、言葉を続けた。しまう手つきが、包帯で戻ってきた日より、少しだけ滑らかだった。腕の包帯は、もう取れていた。

 

「友のところに、昔の仲間から連絡が来たんだ。……昔、友の周りに、変な人たちが集まってた時期があってね。その中の一人」

 

「変な人たち」

 

「天才、って言い換えてもいい。九人いた。友を真ん中にして、何かをやって、何の痕跡も残さないで、ばらばらになった。……ぼくは、その頃、日本にいなかったから、話でしか知らない」

 

彼は、鞄の口を閉じた。

 

「連絡してきたのは、探すのが専門だった人。今は、刑務所の中にいる」

 

「刑務所」

 

「懲役百五十八年だって。……どこかの、大きな国の集まりのデータベースに、勝手に入ったらしい。入って、もう少しで奥まで行けるところで、友が昔作った防衛線に引っかかった」

 

冗談を言っている顔では、なかった。

 

懲役、百五十八年。人の一生を、二つ並べても、まだ足りない年数だった。数字が大きすぎると、重さの方が、かえって分からなくなる。

 

「刑務所の中から、どうやって連絡をしてくるの」

 

「さあ。探すのが専門の人は、たぶん、連絡の道も探せるんだと思う」

 

彼は、少しだけ笑った。

 

「友が、その人に、調べ物を頼んだらしい。返ってきた答えは、昔の仲間の、別の一人が、山の中の研究所に閉じ込められてる、だった。……友は、その一人を、外に出したいらしい」

 

閉じ込められている。

 

六月の澄百合で、紫木(ゆかりき)さんは、首吊高校、と言った。入った子は、首に縄をつけられるみたいに出られなくなる、と。

 

あれから、まだ半月と少ししか経っていなかった。

 

「研究所の名前は」

 

「斜道卿壱郎(しゃどうきょういちろう)、という博士の研究所。人間の頭の中を、いじる所だって」

 

私は、教科書を閉じる手を、少しだけ止めた。

 

半月ほど前の夜、私は、電話で、同じ名前を聞いた。

 

《愛知の山の中に、一つある。斜道卿壱郎という男の施設だ》

 

綾小路くんは、知っていた。当たり前のように。同業だからだ、と言った。

 

《行くな》

 

《それが、行く理由になるのか》

 

なるわ、と答えた私に、好きにしろ、と言った。

 

「……前にも言ったけれど、潤さんにも、七月を空けておけと言われているの」

 

「うん。潤さんも、行くつもりらしい。……らしい、だけど。潤さんは、行くって言った時ほど、来ないから」

 

彼は、立ち上がった。

 

立ち上がって、一つ空けた席の私を、見下ろした。

 

「来る?」

 

訊き方が、軽かった。

 

六月に、赤い人が、降りたかったら降りな、と言った時と、似た軽さだった。どちらでもいい、という軽さではなかった。どちらを選んでも、責めない、という軽さだった。

 

「行き先の分かっている人に、訊かれたのは、初めてね」

 

「そうなの」

 

「六月は、行き先も訊かずに、車に乗ったわ」

 

「ぼくは、気がついたら、首に冷たいものが当たってた」

 

私は、少しだけ、口の端を動かしかけて、やめた。

 

「……考えておくわ」

 

「うん。考えといて」

 

彼は、それだけ言って、大教室を出ていった。

 

考えておく、と答えた。

 

答えた時には、もう、考えるまでもないことを、私は知っていた。知っていて、考える、と言った。考える時間をもらえば、そのあいだは、まだ、決めていないことにできる。

 

決めていないことにしておけば、電話で綾小路くんに言った、なるわ、を、まだ本当にしなくて済む。

 

それが、ずるいことなのかどうかは、分からなかった。

 

分からないまま、窓の外を見た。

 

六月の終わりの空は、梅雨の灰色と、夏の青の、ちょうど間の色をしていた。どちらにも決まっていない色だった。

 

 

 

 

 

七月の最初の金曜日、朝の八時に、部屋のチャイムが鳴った。

 

ドアを開けると、彼が立っていた。

 

大教室の窓際で、一つ空けて座る男。先月、腕に包帯を巻いて戻ってきた男。包帯はもう取れていた。取れた跡を、長袖で隠していた。

 

「おはよう」

 

「……おはよう。どうして、あなたがここにいるの」

 

「伝言を預かってる。潤さんから」

 

彼は、紙切れを一枚、差し出した。

 

ノートを破ったような紙だった。赤いペンで、一行だけ書いてあった。

 

〈急な仕事。今回はパス。代わりにいーたんたちの車に乗ってけ。 潤〉

 

字が、大きかった。紙の端からはみ出しそうなくらいに、大きかった。書いた人間の声が、そのまま字の形になっていた。

 

「七月を空けておけと言ったのは、潤さんよ」

 

「言ってたね」

 

「言った本人が、来ないの」

 

「来ない人なんだよ、来るって言った時ほど。来ないって言った時に、来る」

 

それは、人として、どうなのだろう。

 

思ったけれど、言わなかった。言えば、彼はきっと、それを肯定も否定もしない言葉で返す。

 

「どこへ行くのか、あなたは知っているのね」

 

「愛知の、山の中。この前、話したとおり。友達の付き添い」

 

「友達の付き添いの、付き添いになれということ?」

 

「そうなるね。付き添いが二重になると、何から付き添ってるのか、よく分からなくなる」

 

彼は、少しだけ笑った。

 

「断ってもいいよ。潤さんには、ぼくから言っておく。言っても、たぶん、潤さんは聞いてないけど」

 

断る理由は、いくつもあった。

 

知らない人の車に乗ってはいけない。知らない人の仕事に、首を突っ込んではいけない。先月、それで頬に傷を作った。傷は、もう、ほとんど見えない。見えないけれど、触ると、まだ分かる。

 

私は、頬に触れなかった。

 

「着替えを取ってくるわ。一日分でいいのかしら」

 

「三日分あると、安心かな。ぼくの経験上、一日で帰れた試しがない」

 

「それは、あなたの経験でしょう」

 

「君も、先月、一日では帰れなかった」

 

言い返せなかった。

 

鞄に、着替えを三日分と、ノートを入れた。ノートのいちばん後ろには、あの紙が挟まっている。番号は、もう指が覚えている。覚えているのに、紙は、捨てられずにいる。

 

 

 

 

 

アパートの前に、白い車が止まっていた。

 

大きな車だった。窓に、薄く色がついていた。運転席に、背の高い女性が座っていた。助手席は、空いていた。

 

後ろの座席に、小さな女の子がいた。

 

青かった。

 

髪が、青かった。目も、青かった。長く伸ばした髪の青は、ところどころ、少しだけ色が抜けていた。体は小さかった。中学生くらいにしか見えなかった。大きなクッションを抱えて、窓に頭を預けていた。

 

彼が、後ろのドアを開けた。

 

女の子が、顔を上げた。

 

「あ、いーちゃん。遅いー」

 

「遅くないよ。約束の時間ちょうどだ」

 

「ちょうどは遅いの。僕様ちゃんの時計では」

 

僕様ちゃん。

 

一人称に、様と、ちゃんが、両方ついていた。偉いのか、幼いのか。どちらかに決めないまま、両方を名乗っている。

 

女の子の目が、私の方へ動いた。

 

まばたきを、一度もしなかった。

 

見ている、というより、読み込んでいる目だった。先月の赤い人は、顔の表面から、奥へ降りていくように読んだ。この子の目は、最初から、奥の方を見ていた。

 

「うにー」

 

意味の分からない声だった。

 

それから、にっこりと笑った。

 

「いーちゃんの、隣の隣の人だね」

 

息が、止まった。

 

隣の隣。

 

葵井(あおいい)さんが、最初に口にした距離だった。大教室の、窓際のいちばん後ろの列。私と、一つ空けた席と、彼。

 

「……どうして、それを」

 

「調べたもん」

 

あっさりと言った。

 

「いーちゃんの周りにいる人は、全部調べるの。僕様ちゃんの趣味。堀北鈴音ちゃん。二月十五日生まれ。鹿鳴館大学一回生。窓際のいちばん後ろ。隣を空けて座る人」

 

最後の一つは、どこにも書いていないはずだった。

 

座席表など、大学にはない。

 

「最後のは、どうやって」

 

「いーちゃんが言ってたの。隣を空けて座る子がいるって。いーちゃん、人の名前は覚えないのに、座り方は覚えてるんだよ。変なのー」

 

私は、彼を見た。

 

彼は、困った顔で、目を逸らした。

 

「僕様ちゃんは、玖渚友(くなぎさとも)。いーちゃんの、友達」

 

その子は、隣に座った彼の腕に、ぎゅっとしがみついた。

 

しがみついたまま、私を見上げた。

 

笑っていた。笑っているのに、目の奥の青だけが、少しも笑っていなかった。

 

「よろしくね、すずちゃん」

 

すずちゃん。

 

鈴音の、上の一字だけ。りんね、と呼ばれ、すずちゃん、と呼ばれる。人は、私の名前を、好きなところで切る。切られた方の音は、どこへ行くのだろう。

 

運転席の女性が、振り向いた。

 

とても背の高い人だった。座っていても、天井に頭がつきそうだった。黒いスーツを着ていて、髪をきちんとまとめていた。目つきが鋭く、全身から、何かを叱りつける直前の空気が出ていた。

 

その人が、私を上から下まで、一度だけ見た。

 

見て、満足そうに頷いた。

 

「あんた、美少女だわよ」

 

「……は?」

 

「人間ってのはね、美少女と、アタシと、それ以外に分かれるの。あんたは美少女の方。よかったわね」

 

よかった、のだろうか。

 

三つに分けて、自分一人で一つの枠を使っている。分類というより、宣言だった。

 

「鈴無音々(すずなしねおん)。この子たちの保護者よ。保護者って柄じゃないんだけど、頼まれたら断れない性分でね。……ほら、乗りなさい。助手席。後ろは、あおちゃんが場所を取るから」

 

すず、と呼ばれた少しあとに、鈴の無い人が名乗った。鈴も、音も、私の名前から一字ずつ持っていって、鈴の方は、無いと言う。

 

あおちゃん、と鈴無さんは、玖渚さんを呼んだ。

 

青い子だから、あおちゃん。名前ではなく、色で呼ぶ。色で呼ばれても、玖渚さんは、気にした様子がなかった。

 

私は、助手席に座った。

 

後ろの座席で、彼と玖渚さんが並んでいた。

 

隣同士だった。

 

 

 

 

 

京都を出て、高速道路に乗った。

 

鈴無さんの運転は、丁寧だった。丁寧なのに、速かった。速いのに、少しも揺れなかった。前の車との距離を、定規で測っているような運転だった。

 

「あんた、あの赤いのの知り合いなんだって?」

 

前を向いたまま、鈴無さんが言った。

 

「知り合い、と言えるほどでは」

 

「先月、一緒に女子校に潜り込んだって聞いたわよ。それを知り合いと呼ばないなら、何と呼ぶの」

 

「……被害者、でしょうか」

 

鈴無さんは、声を立てて笑った。

 

「いいわね、それ。アタシも、あの赤いのには何度か被害に遭ってるの。被害者同士、仲良くしましょ」

 

後ろの座席で、玖渚さんが、うにー、と言った。

 

賛成なのか、反対なのか、分からなかった。

 

窓の外を、緑の山が流れていった。

 

「行き先のことは、聞いてる?」

 

「研究所、とだけ」

 

「斜道卿壱郎研究施設。人間の頭の中を、いじくって、天才を作ろうとしてる所よ。あおちゃんの家が、お金を出してる」

 

「玖渚さんの家が」

 

「家とは、もう縁が切れてるんだけどね、この子。縁が切れてても、名前は切れないの。名前で門が開く。だから、この子が行くと、向こうは門を開けるしかない。開けたくなくてもね」

 

名前で門が開く。

 

先月の門は、名前では開かなかった。赤い人が、どこからか取り出した鍵で開けた。

 

「何をしに行くんですか」

 

後ろから、彼が答えた。

 

「友の、昔の仲間が、そこにいる。兎吊木垓輔(うつりぎがいすけ)っていう人。友は、その人を、そこから出したいんだって」

 

「閉じ込められているの」

 

「本人がどう思ってるかは、知らない。ぼくは、会ったことがない。会ったことがないのに、たぶん、嫌われてる」

 

「どうして」

 

「友の昔の仲間は、みんな、ぼくのことが嫌いなんだ。ぼくが友の隣にいるのが、気に入らないらしい」

 

隣、と彼は言った。

 

バックミラーに、後ろの座席が映っていた。玖渚さんが、彼の肩に頭を乗せて、目を閉じていた。

 

隣、という場所は、この子のものなのだと思った。

 

思ってから、もう一つ思った。この子の隣に、彼は、自分で座ったのだろうか。それとも、座らされたのだろうか。

 

「さっちゃんはね」

 

目を閉じたまま、玖渚さんが言った。

 

「いーちゃんのこと、嫌いなんじゃないよ。羨ましいだけ。嫌いと羨ましいは、裏表だから、さっちゃんにも区別がついてないの」

 

さっちゃん。兎吊木さんの、ことらしい。

 

「すずちゃんは、誰かを羨ましいって思ったこと、ある?」

 

不意に、訊かれた。

 

バックミラーの中で、青い目が、開いていた。

 

「……あるわ」

 

「誰?」

 

答えなかった。

 

教室の後ろの席で、頬杖をついていた人の名前を、この子に渡すつもりはなかった。鴨川で聞いた名前も、渡すつもりはなかった。この子なら、名前一つから、全部を調べてしまう。

 

「言いたくないなら、いいよ。僕様ちゃん、言いたくない顔は、調べないことにしてるの」

 

「調べないことに、しているの」

 

「うん。調べたら、言いたくない人が、言わなくても済んじゃうでしょ。それって、ずるいもん」

 

ずるい、と玖渚さんは言った。

 

人の生まれた日も、座る席も調べ上げる子が、言いたくない顔だけは調べない。どこに線を引いているのか、私には分からなかった。分からなかったけれど、その線がある、ということだけは、少しだけ、ありがたかった。

 

 

 

 

 

途中で一度、サービスエリアに寄った。

 

鈴無さんが、車を停めて、エンジンを切った。

 

「あおちゃん、トイレ」

 

「やだー。外、出たくない」

 

「出たくないじゃないの。出るのよ。この先、山の中で困っても、アタシは知らないからね」

 

玖渚さんは、クッションに顔を埋めて、うにー、と言った。言ったまま、動かなかった。

 

彼が、先に車を降りた。降りて、後ろのドアの外に、背中を向けてしゃがんだ。玖渚さんは、クッションを置いて、当たり前のように、その背中におぶさった。

 

おぶさる方も、おぶう方も、少しも迷わなかった。何百回も繰り返した動きの、何百一回目に見えた。

 

「一人じゃ、外を歩けないのよ、あの子」

 

自動販売機の前で、鈴無さんが言った。

 

缶のお茶を二本買って、一本を私に渡した。渡されたものを、私は受け取った。受け取ってから、受け取ったことに気づいた。

 

「歩けない、というのは」

 

「足は動くの。動くけど、一人じゃ動かないの。階段も、外の道も、誰かの背中がないと、駄目。昔からそう。病気ってほどじゃないし、甘えってほど軽くもない。……あいつが背中を貸してる限り、あの子は、どこへでも行ける」

 

鈴無さんは、建物の入口へ消えていく二人の背中を見ていた。

 

見る目が、叱る直前の目ではなかった。叱るのを、もう少し後に取っておく目だった。

 

「あんた、家族は」

 

不意に、訊かれた。

 

「……兄が、一人」

 

「連絡してる?」

 

「……電話は、していません」

 

即答してから、即答した自分に驚いた。

 

兄さんの番号は、スマートフォンに入っている。入っているのに、京都に来てから、一度もかけていない。四月に、かけようとして、かけなかった。かけなかった日を、私は、まだ覚えている。

 

「そ」

 

鈴無さんは、それだけ言った。

 

説教をされると思った。されなかった。

 

「家族ってのはね、連絡しなくても家族なの。連絡しないから家族じゃなくなる、なんて理屈は、どこにもないわ。……ただし、連絡しないまま死ぬと、家族の方は、一生それを数えるわよ。あんたが数えるんじゃない。向こうが数えるの」

 

数える。

 

隣の隣の席が空いた日を、私は数えていた。数える側の気持ちなら、少しだけ、知っている。

 

「説教ですか」

 

「違うわよ。これは独り言」

 

鈴無さんは、缶を開けて、一口飲んだ。

 

「独り言にしちゃ、声が大きかったわね。まあ、いいわ」

 

独り言だと言いながら、相手に届く声で言う。言ってから、それを自分で笑う。この人の独り言は、たぶん、聞かせるためにある。

 

私は、缶のお茶を開けなかった。

 

開けないまま、手の中で、少しずつ温度が移っていくのを感じていた。冷たい缶が、私の手の温度に、少しずつ近づいていった。

 

缶を開けずに持っている人を、私は一人、知っている。

 

一度だけ、見たことがある。

 

その人のことを、ここで思い出す理由はなかった。なかったのに、思い出した。思い出したまま、缶を鞄にしまった。

 

彼が、玖渚さんを背負って、建物から戻ってきた。

 

玖渚さんは、彼の背中で、私に手を振った。

 

「すずちゃーん、お茶、僕様ちゃんの分はー?」

 

「あなたの分は、鈴無さんに言って」

 

「音々ちゃん、ケチだもん」

 

「ケチじゃないわよ。順番よ」

 

鈴無さんが、もう一本、お茶を買った。

 

買ったお茶を、彼の背中の玖渚さんではなく、彼に渡した。彼は、それを、自分では飲まずに、背中の方へ差し出した。

 

渡す人と、渡される人と、渡されたものをそのまま渡す人。

 

私は、助手席に戻った。

 

鞄の中で、開けていない缶が、まだ少しだけ冷たかった。

 

 

 

 

 

高速を降りて、山道に入った。

 

道は、細くなっていった。両側から、木の枝が覆いかぶさってきた。舗装はされているのに、ところどころひび割れて、雑草が顔を出していた。人の通らない道だった。

 

途中で、スマートフォンを見た。

 

画面の右上の、電波の印が、一本ずつ減っていった。

 

最後の一本が消えて、小さな文字が出た。

 

圏外。

 

囲いの外、と書く。

 

山の中で、私は、ようやく囲いの外に出たらしい。外に出て初めて、囲いの中にいたことが分かる。高校の三年間と、同じだった。

 

綾小路くんの番号には、かけられない。

 

かけるつもりは、なかった。先月、好きにしろ、と言われた。好きにした結果が、ここだ。ここで何を見ても、何を決めても、電話で答えを訊く筋合いはない。

 

筋合いはない、と思うのは、半分だけ本当だった。

 

訊けない場所に来て、初めて、自分がどれだけ訊くつもりでいたのかに気づいた。

 

この一か月半、私は、何かあるたびに、あの番号にかけてきた。正しい答えを、何度ももらった。もらった答えを、一度も、そのままは使わなかった。それでも、もらえることに、私は寄りかかっていた。

 

圏外の二文字は、その寄りかかりを、黙って取り上げていった。

 

一時間ほど登ったところで、森が途切れた。

 

開けた場所に、建物があった。

 

白い建物だった。四角くて、窓が少なかった。いくつかの棟が、渡り廊下でつながっていた。周りを、高いフェンスが囲んでいた。フェンスの上に、鉄条網が巻かれていた。

 

研究所というより、何かを閉じ込めておくための場所に見えた。

 

閉じ込めておく、と思ってから、別の場所を思い出した。

 

政府が作った全寮制の学校。外との連絡が禁じられ、三年間、誰も出ていけない場所。あの学校では、フェンスより先に、規則が人を囲っていた。

 

出ていかないように作られた場所は、フェンスを必要としない。

 

ここには、フェンスがある。

 

フェンスが要るということは、出ていこうとする人間がいる、ということだ。

 

門の横に、インターホンと、小さなカメラがあった。

 

鈴無さんが窓を下ろして、ボタンを押した。

 

「玖渚友とその連れ。四人。話は通ってるはずよ」

 

少しの間があって、門が、音を立てて開き始めた。

 

名前で、門が開いた。

 

先月の門とは、開き方が違った。違うのに、開いたあとの道が、同じくらい暗く見えた。

 

 

 

 

 

玄関の前で、白衣の老人が待っていた。

 

背が曲がっていた。髪は薄く、目だけが、異様に大きく見開かれていた。六十を過ぎているように見えた。見えたのに、立ち方には、年寄りの弱さが少しもなかった。人に命令することに慣れきった立ち方だった。

 

「玖渚の、お嬢様」

 

老人は、玖渚さんに向かって、頭を下げた。

 

下げた頭の角度が、正確すぎた。敬意の分だけ下げたのではなく、下げなければならない分だけ下げた角度だった。

 

「お久しぶりー、博士。元気だった?」

 

玖渚さんは、彼の腕にしがみついたまま、にこにこと手を振った。

 

「おかげさまで。……お嬢様が、玖渚の家と縁を切られたと伺いましたが」

 

「切ったよー。でも、名前は切れないんだって。不便だよねー」

 

老人の目が、一瞬だけ、細くなった。

 

細くなった目が、玖渚さんから離れて、彼を見て、鈴無さんを見て、最後に、私を見た。

 

「その娘は」

 

「付き添いの、付き添い」

 

彼が答えた。

 

老人は、私を、上から下まで見た。

 

鈴無さんの見方とは違った。値札を確かめるような見方だった。この人間に、どれだけの値打ちがあるのか。使えるのか、使えないのか。

 

見られているあいだ、私は、少しも動かなかった。

 

動けなかった、のではない。動かなかった。先月、刃物の前でもした座り方だった。立っていても、座ることはできる。

 

「……凡庸だな」

 

老人は、それだけ言った。

 

凡庸。凡人の凡に、中庸の庸。並のものを、並のまま、並べた字だ。

 

同じ四文字を、私は、前にも一度、言われたことがある。高校一年の春だった。言った人は、続けて、間違っちゃいねえ、と言った。この老人は、続けなかった。

 

一度目は、腹が立った。二度目の今は、腹は立たなかった。

 

腹が立たなかった理由は、もう一つあった。

 

先月、赤い車の中で、逆のことを言われている。いちばんイカれてんのは、あんただ、と。

 

凡庸と、イカれている。どちらが本当なのかは、分からない。この老人の値札には、零崎の名前を聞いて生きている人間、という欄は、たぶん無い。

 

分からないまま、両方を、持っていることにした。

 

一度目のあと、私は、自分で、凡庸だったと認めた。認めて、それでも、あの人の隣の席に座り続けた。

 

認めたうえで、今も、座っている。

 

「凡庸な者は、施設のものに触れないように。触れれば、警察を呼ぶ」

 

「呼んで困るのは、どっちだろうねー」

 

玖渚さんが、歌うように言った。

 

老人は、それには答えずに、玄関の中へ戻っていった。

 

戻る前に、一度だけ、玖渚さんを見た。

 

その目には、憎しみに似たものが浮かんで見えた。似たもの、と思ったのは、それが憎しみだけには見えなかったからだ。憎しみの底に、何か、もっと古いものが沈んでいた。羨ましい、と、さっき玖渚さんが言った言葉を、私は思い出した。

 

「斜道卿壱郎」

 

隣で、彼が小さく言った。

 

「この施設で、いちばん偉い人。友とは、昔から反りが合わない」

 

「反りが合わない、で済む顔ではなかったわ」

 

「済まない顔を、済ませる言い方なんだよ。反りが合わない、っていうのは」

 

鈴無さんが、腕を組んで、老人の消えた玄関を見ていた。

 

「嫌な目だわよ。人を材料で見る目。アタシ、ああいうのを見ると、説教したくてたまらなくなるの」

 

「説教、するんですか」

 

「しないわよ。説教ってのはね、聞く耳のある相手にしかしないの。聞く耳のない相手にする説教は、ただの独り言。アタシは、独り言は言わない主義なの」

 

それは、嘘だと思った。

 

この人は、たぶん、独り言でも説教をする。

 

 

 

 

 

玖渚さんは、彼の背中から、鈴無さんの背中へ移された。移されながら、うにー、と言った。

 

玄関を入ると、広い吹き抜けになっていた。

 

白い壁と、白い床と、白い天井。窓が少ないのに、明るかった。明るさが、どこから来ているのか分からない明るさだった。

 

吹き抜けの奥に、エレベーターの扉があった。

 

扉の前に、黄色と黒の縞のテープが、斜めに貼られていた。

 

使用禁止、と書いた紙が、テープの真ん中に、ぶら下がっていた。

 

「エレベーター、壊れているんですか」

 

私が訊くと、玄関の脇の小部屋から、小柄な女性が出てきた。

 

眼鏡をかけていた。紺のスーツを、少しも崩さずに着ていた。

 

「壊れているのではありません。分解されたのです」

 

女性は、静かに言った。

 

「中にいる研究員の一人が、エレベーターを嫌っておりまして。……先月、道具も使わずに、扉から箱まで、全部ばらしてしまいました。組み直す予算が、まだ下りておりません」

 

道具も使わずに。

 

「それは、閉じ込められている人の仕業ですか」

 

続けて訊くと、女性は、ほんの少しだけ、眉を動かした。

 

「閉じ込められている、という言い方は、当施設では使いません。……特別研究員、とお呼びください」

 

言い方を、直された。

 

直されたのは、言葉だけだった。中身の方は、直されなかった。

 

「申し遅れました。博士の秘書をしております、宇瀬美幸(うぜみさち)と申します。お部屋へご案内いたします。……階段で」

 

宇瀬さんは、玖渚さんを見た。

 

鈴無さんの背中に負われた、玖渚さんを。

 

「階段で、よろしいでしょうか」

 

「うにー。音々ちゃんが昇るから、いいよー」

 

玖渚さんは、鈴無さんの肩の上で、楽しそうに手を振った。

 

鈴無さんが、溜め息をついた。

 

宇瀬さんは、少しも表情を変えずに、階段の方へ歩き出した。

 

歩き出す前に、一度だけ、分解されたエレベーターの扉を、振り返った。

 

振り返った目に、一瞬だけ、何かが浮かんだ。怒りとも、呆れとも、違うものだった。

 

自分の手では直せないものを、毎日、その前を通るたびに見ている人の目に、見えた。

 

階段は、白かった。

 

一段ごとに、足音が、吹き抜けに響いた。

 

骨董アパートの階段のように、板が鳴るのではなかった。音が、どこにも吸われずに、白い壁から壁へ、跳ね返っていた。

 

跳ね返った音は、昇る人間の数を、数えているようには、聞こえなかった。

 

数えずに、ただ、記録しているように聞こえた。

 

階段の途中で、彼が、一つ空けた後ろから、小さく言った。

 

「先月ばらしたって。……閉じ込められてる人は、エレベーターも、閉じ込める箱だと思ってるのかもしれないね」

 

「乗らなければ、閉じ込められないわ」

 

「乗らないで、階段で昇る人は、たぶん、いちばん出口に近い人だ」

 

彼は、それきり、黙った。

 

私は、白い階段を、一段ずつ、昇った。

 

昇りきった先の廊下も、白かった。白い廊下の先に、私たちの泊まる部屋が、四つ、並んでいた。四つの扉のあいだの間隔は、どれも、同じだった。

 

同じ間隔で並んだ扉の、どれが誰の部屋になるのかは、まだ、決まっていなかった。

 

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【完結】アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜(作者:GC)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

盲目の代打ち・市川との、生死を賭けた一局。それを制した直後、十三歳の赤木しげるは、勝利の余韻でも高揚でもなく、ただつまらなそうな顔で夜の中へ歩き去った。▼【挿絵表示】▼次に目を開けたとき、そこは見知らぬ寮の一室だった。▼畳もなければ、煙草の匂いもない。清潔すぎる部屋に残されていたのは、名前だけが刷られた一枚の学生証。誰が用意したのかは、わからない。わかる必要…


総合評価:1309/評価:7.38/完結:75話/更新日時:2026年10月03日(土) 00:05 小説情報

ようこそ超能力者のいる教室へ -2年生編-(作者:オールF)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

母の善意から最初志望していた高校ではなく、高度育成高等学校に入学した斉木楠雄。自身の希望する進学先、就職先への進学、就職が確約されていると謳われていた高校は実力至上主義の学校だった。しかも、超能力者故に教師や先輩の無意識のテレパシーで、数々のネタバレを喰らいながらも平穏に学園生活を送ることを目指していたが───────!?▼1年生編▶︎https://syo…


総合評価:11781/評価:9.11/連載:74話/更新日時:2026年10月10日(土) 20:00 小説情報

仏の口にも刃(作者:こたつでみかんを食べる)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

 Fateのカルナさんみたいな子がいる、よう実が見たかった。▼ ...なかった。ので書いた


総合評価:2428/評価:8.08/連載:12話/更新日時:2026年08月27日(木) 18:00 小説情報

呪物語(作者:マクガフィン)(原作:呪術廻戦)

▼ 漫画家志望の千石撫子は、勉強せず登校せず高卒の資格を取るために呪術高専へ入学した───▼ 


総合評価:7780/評価:9.12/連載:12話/更新日時:2026年07月08日(水) 18:01 小説情報

魔法先生ギルガメッシュ(作者:長LAVA)(原作:魔法先生ネギま!)

 一度目の死後、彼はギルガメッシュとして古代ウルクに生を受けた。▼ 王となり、エルキドゥと出会い、その死を見届け、不死を求めて世界を巡る。▼ やがて自ら不死を捨て、ウルクの王として126年の生涯を終えた。 ▼ そして、二度目の死。▼ 次に目を覚ました時、ギルガメッシュは再び若き肉体を得ていた。▼ そこは、魔法使いたちが存在する現代――『魔法先生ネギま!』の世…


総合評価:7901/評価:7.39/連載:24話/更新日時:2026年09月20日(日) 23:43 小説情報


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