ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

14 / 17
第14話 博士(白紙)

紹介される、というのは、名前を知られることだと思われている。

 

違う。紹介は、相手にどう呼ばれるかを、先に決められることだ。

 

誰々さんの連れ。誰々のお嬢様の、付き添い。紹介された瞬間に、呼び方が一つ、貼りつく。貼りついた呼び方は、自分で名乗るより、ずっと剥がれにくい。

 

この施設で、私に最初に貼られた呼び方は、凡庸、だった。

 

 

 

 

 

部屋は、四つ用意されていた。

 

鈴無(すずなし)さんと玖渚(くなぎさ)さんが、いちばん奥の一つ。彼が、その手前。私が、さらにその手前。いちばん階段に近い一つは、空いていた。

 

空き部屋の扉の前を通る時、宇瀬(うぜ)さんが、少しだけ、足を速めた。

 

速めたことに、宇瀬さんは、たぶん、気づいていなかった。

 

部屋は、狭かった。寝台が一つ、机が一つ、窓が一つ。窓は、内側からは開かなかった。外に、フェンスが見えた。フェンスの上の鉄条網が、昼の光の中で、細く光っていた。

 

鞄から、スマートフォンを出した。

 

画面の右上に、圏外、と出ていた。山道の途中で消えた電波の印は、ここでも、戻っていなかった。

 

施設の中には、電話があるはずだった。研究所なのだから。外と連絡を取る線が、どこかに通っているはずだった。

 

通っている線は、たぶん、私たちの部屋までは、来ていない。

 

来ていない線のことを考えて、それから、考えるのをやめた。

 

高校の三年間、私は、外と連絡の取れない場所にいた。あの時は、外に連絡したい相手が、いなかった。

 

今は、いる。

 

いるのに、連絡できない。

 

いない時の圏外と、いる時の圏外は、同じ二文字なのに、重さが違った。

 

スマートフォンを、鞄に戻した。

 

戻す時、ノートの角が、指に触れた。いちばん後ろに、十一桁の紙が挟まっているノート。

 

触れたまま、少しだけ、指を止めた。

 

止めて、それから、鞄の口を、閉じた。

 

鞄を置いて、廊下に戻ると、宇瀬さんが待っていた。

 

「施設の中を、ご案内いたします。……玖渚のお嬢様は、特別研究員との面会を、ご希望とのことですので、そちらは、のちほど」

 

「僕様ちゃんは、一人で行くよー」

 

奥の部屋の扉から、玖渚さんが、顔を出した。

 

鈴無さんが、その後ろで、腕を組んでいた。

 

「一人で、って、あんた、階段も昇れないでしょ」

 

「扉の前までは、音々ちゃんがおぶって。扉の中は、一人」

 

玖渚さんは、にこにこと笑った。

 

笑っているのに、目の奥の青だけが、少しも笑っていなかった。

 

「さっちゃんとは、一人で話したいの。……いーちゃんも、すずちゃんも、だめ」

 

彼は、何も言わなかった。

 

言わないまま、少しだけ、壁にもたれた。

 

呼ばれないことに慣れている、と、彼は、あとで言った。慣れている人のもたれ方だった。

 

 

 

 

 

宇瀬さんの案内は、正確だった。

 

廊下の角ごとに立ち止まって、この先は何の棟か、誰の研究室か、どの扉に鍵がかかっているかを、一つずつ説明した。説明しながら、一度も、紙を見なかった。

 

「全部、覚えているんですか」

 

鈴無さんが訊くと、宇瀬さんは、首を振った。

 

「覚えているのではありません。毎日、通っているだけです」

 

毎日、通っているだけ。

 

覚えるのと、通うのは、違う。覚えたものは、忘れることがある。毎日通っている道は、忘れようがない。

 

研究棟の廊下の途中で、扉が一つ、内側から乱暴に開いた。

 

少年が、出てきた。

 

十六くらいに見えた。童顔なのに、目つきが悪かった。眼鏡の奥の目が、こちらを、睨むように見ていた。白衣の袖を、肘まで捲っていた。

 

「美幸さん。博士が呼んでる。……なんだ、こいつら」

 

「玖渚のお嬢様のご一行です、志人くん。昨日、お話ししたでしょう」

 

「聞いてねえ」

 

「お話ししました」

 

「……聞いてたかもしれねえ」

 

少年は、私たちを、一人ずつ見た。

 

鈴無さんを見上げて、少しだけ顔をしかめた。彼を見て、鼻を鳴らした。私を見て、首を傾げた。

 

「女が二人と、男が一人。……お嬢様は」

 

「お部屋に」

 

「ふん。お嬢様の付き添いが、三人もいんのかよ。どんだけ大事にされてんだ」

 

「付き添いの付き添いもいるんだよ」

 

彼が、言った。

 

少年は、彼を見た。

 

「付き添いの付き添いって何だよ。付き添いが付き添いに付き添ってんのかよ。誰が誰の面倒見てんだよ。……って、知るか」

 

言い切ってから、少年は、自分で言ったことに、自分で少しだけ顔を赤くした。

 

宇瀬さんが、ほんの少しだけ、口元を緩めた。

 

「志人くん。博士のところへ」

 

「分かってるよ」

 

少年は、背を向けかけて、止まった。

 

止まって、宇瀬さんの方を、振り返った。

 

「美幸さん。……昼、食ってないだろ」

 

「あとで」

 

「あとでって、昨日も言ってた」

 

少年は、白衣のポケットから、何かを取り出した。小さな包み紙に入った、握り飯だった。それを、宇瀬さんの手に、押しつけた。

 

押しつける時、少年の指が、宇瀬さんの指に、一瞬だけ、触れた。

 

触れて、すぐに離れた。

 

離れたあとで、少年は、もう一度、私たちを睨んだ。睨むことで、さっきの一瞬を、なかったことにしようとしているようだった。

 

「大垣志人(おおがきしと)。博士の助手。……覚えなくていい」

 

それだけ言って、少年は、廊下を走っていった。

 

宇瀬さんは、手の中の握り飯を、しばらく見ていた。

 

包み紙には、マジックで、小さく、美、と一文字だけ書いてあった。

 

美幸さん、の美。

 

名前の頭の一字だけを、包み紙に書いて、渡す。書いた人は、たぶん、自分の分の包み紙には、何も書いていない。

 

宛名が一字で足りるのは、たぶん、渡す相手が、一人しかいないからだ。

 

宇瀬さんは、それから、何事もなかったように、スーツのポケットにしまった。

 

「失礼いたしました。……次は、休憩室です」

 

歩き出した宇瀬さんの後ろで、鈴無さんが、私の方へ、少しだけ身を屈めた。

 

「……あの二人、デキてるわね」

 

小声だった。

 

「どうして、分かるんですか」

 

「握り飯の渡し方。あれは、好きな子にしかしない渡し方よ」

 

鈴無さんは、満足そうに頷いた。

 

宇瀬さんの背中が、ほんの少しだけ、強ばった。

 

聞こえていたのかもしれなかった。強ばった背中のまま、宇瀬さんは、次の角を、少しだけ早足で曲がった。

 

 

 

 

 

休憩室には、男が一人いた。

 

太っていた。太っているのに、身なりが妙に上品だった。髪は短く、さっぱりと整えられていた。貴族の肖像画から抜け出してきたような顔をしていた。

 

その人は、ソファに深く座って、ケーキを食べていた。

 

テーブルの上に、皿が三枚、重なっていた。

 

「おお、これは、これは」

 

その人は、フォークを置いて、両手を広げた。

 

「麗しきお客人の皆様。斜道(しゃどう)卿壱郎数理論理学術置換ALS研究機関へ、ようこそお越しくださいました。わたくし、当機関の研究局員を務めております、根尾古新(ねおふるあら)と申します。以後、お見知りおきを」

 

長かった。

 

施設の名前を、一度も噛まずに、全部言った。

 

「数理……何ですか」

 

鈴無さんが訊き返すと、根尾さんは、嬉しそうに、もう一度、全部言った。

 

二度目も、噛まなかった。

 

「長いでしょう。わたくしも、長いと思っております。長い名前というのは、たいてい、中身の短さを隠すためにあるのですよ。……おっと、今のは、博士には内緒で」

 

根尾さんは、指を一本、唇に当てた。

 

当てた指の先に、生クリームが、少しついていた。

 

「甘いものが、お好きなんですね」

 

私が言うと、根尾さんは、大げさに目を見開いた。

 

「お嬢さん、よくぞ訊いてくださった。甘いものはね、嘘をつかないのです。甘いと書いてあるものは、ちゃんと甘い。この施設で、書いてあるとおりのものは、ケーキくらいしかありませんからな」

 

書いてあるとおりのものは、ケーキくらいしかない。

 

その言い方が、冗談なのか、本気なのか、分からなかった。

 

分からないように、言っているのだと思った。

 

根尾さんの目は、喋っているあいだ、一度も、笑っていなかった。笑っている口の上で、目だけが、私たちの一人一人を、順番に、確かめていた。

 

宇瀬さんを確かめて、鈴無さんを確かめて、彼を確かめて、私を確かめた。

 

確かめ終えると、根尾さんは、また、フォークを取った。

 

四皿目のケーキを、食べ始めた。

 

 

 

 

 

休憩室を出たところで、彼が、一つ空けた後ろから、小さく言った。

 

「根尾さん、全然、笑ってなかったね」

 

「目が、ね」

 

「うん。目が。……口だけで、喋ってた」

 

彼は、休憩室の扉を、振り返らなかった。

 

「口だけで喋る人は、たいてい、目で、別の仕事をしてる。……ぼくらを、数えてたよ。一人ずつ」

 

「あなたも、気づいたの」

 

「気づかないふりをするのは、得意だから。……気づかないふりが得意な人間は、気づいてる人間に、すぐ気づく」

 

宇瀬さんが、廊下の先で、振り返った。

 

私たちが遅れているのを、待っていた。

 

待つ時に、宇瀬さんは、腕時計を、一度だけ、見た。

 

見て、それから、ポケットの上から、さっきの握り飯の包みに、そっと触れた。

 

触れたことを、宇瀬さんは、たぶん、知らない。

 

私は、少しだけ、歩く速さを上げた。

 

 

 

 

 

研究棟の奥に、廊下の空気が、少しだけ冷たい部屋があった。

 

扉に、解剖、と書いた札が下がっていた。

 

宇瀬さんが、扉を叩いた。

 

「三好先生。お客様です」

 

「入ってええよ」

 

関西の言葉だった。

 

扉を開けると、白い部屋の真ん中に、金属の台があった。台の上には、何もなかった。何もない台の横で、女性が一人、手袋を外していた。

 

三十を少し過ぎたくらいの人だった。髪を後ろで束ねていた。白衣の袖口に、小さな染みが一つあった。

 

その人は、手袋を外しながら、私たちを見回した。

 

鈴無さんを見て、私を見て、最後に、彼を見た。

 

彼を見た目が、少しだけ、細くなった。

 

「……久しぶりやね。生きとったん」

 

彼は、困った顔で、笑った。

 

「お久しぶりです、先生」

 

「先生、言わんでええて。もう、先生ちゃうし」

 

その人は、外した手袋を、台の上に置いた。

 

「三好心視(みよしこころみ)。ここの準機関長。……この子の、昔の先生」

 

この子、と三好さんは、彼を顎で示した。

 

「外国の、研究所みたいな所でな。この子、中学生の頃から、そこにおったんよ。わたしは、そこで、ちょっとだけ教えとった。……ちょっとだけ、な」

 

三好さんは、彼を見た。

 

 

 

「相変わらずやね。戯言遣い」

 

 

 

戯言遣い。

 

その呼び方を、私は、初めて聞いた。

 

彼のことを、そう呼ぶ人がいるのだと、初めて知った。

 

「その呼び方、まだ使うんですか」

 

「使うよ。あんたは、ずっと、それやもん」

 

三好さんは、それから、私の方を見た。

 

「あんたは」

 

「堀北と申します。……大学が、同じです」

 

「大学。……この子が、大学」

 

三好さんは、少しだけ、笑った。笑い方が、疲れていた。

 

「あそこを中退して、日本に帰って、大学に入り直したんやね。……あそこの子らは、みんな、どこかで中退していくんよ。わたしが、何人も、中退させた」

 

「させた、というのは」

 

私が訊くと、三好さんは、肩をすくめた。

 

「才能のある子を、早めに見つけて、早めに、違う場所へ送るんよ。青いうちに刈る、言うてな。……わたし、あそこでは、青田狩りって呼ばれとった」

 

青田狩り。

 

実る前の稲を、刈り取ること。

 

「刈られた子は、どこへ行くんですか」

 

「いろいろや。別の研究所。別の国。……子どもを、一から作り直すような所へ行った子もおる」

 

子どもを、一から作り直す。

 

その言葉が、部屋の冷たい空気の中で、少しだけ、長く残った。

 

三好さんは、台の上の手袋を、指で、少しだけ、揃えた。

 

「わたしも、昔、そういう計画に、名前を貸したことがあるんよ。……文字どおりの、名前をな」

 

「名前を」

 

「わたしの名前から、一字、取られたんよ。作られる子の名前に。……どんな子になったんかは、知らん。知らんでええ、言われた」

 

知らん、と言う前に、三好さんの指が、手袋の端で一度だけ止まった。止まった指は、本当に知らない人の指には、見えなかった。見えなかったけれど、私は、訊き返さなかった。訊き返しても、同じ言葉が、同じ速さで、同じ顔のまま返ってくるだけだと思った。

 

三好さんは、それきり、その話をしなかった。

 

しなかったけれど、部屋を出る前に、もう一言だけ、言った。

 

扉のところで、背中を向けたまま。

 

 

 

「この国にも、似たようなことしとる所が、あるらしいわ。外国の所より、もっと静かにな。看板も、名前も、出さんと」

 

 

 

「どこに、あるんですか」

 

「知らん。……知らん方がええ所や。知った子は、たいてい、そこに呼ばれる」

 

三好さんは、振り返らなかった。

 

私は、廊下に出た。

 

廊下の空気は、さっきの部屋より、少しだけ温かかった。

 

温かいのに、背中だけが、冷たかった。

 

似たようなことをしている所。看板も、名前も、出さずに。

 

 

 

六月の夜、電話の向こうで、綾小路くんは言った。

 

《オレが育った場所も、似たようなところだった。子どもを集めて、作り直す。……名前は、言わないでおく》

 

似たような、と、作り直す。言葉が、二つずつ、重なった。

 

重なった言葉を、私は、口には出さなかった。

 

出したら、三好さんの言う、知った子、になる気がした。

 

 

 

廊下を歩き出してすぐ、後ろから、三好さんの声がした。

 

「そこの、凡庸な子」

 

凡庸、の方で呼ばれた。赤い車の中で言われた方は、ここでは、まだ誰にも見えていないらしかった。

 

振り返った。

 

三好さんが、解剖室の扉から、半分だけ顔を出していた。

 

「博士に、凡庸、言われたやろ。玄関で。……監視の画面で、見とった」

 

「言われました」

 

「気にせんでええよ。博士は、自分より頭のええ人間と、自分より頭の悪い人間に、同じ顔をするんよ。どっちも、見たくないから」

 

三好さんは、少しだけ、私を見た。

 

検品をするような目だった。

 

「あんた、さっき、解剖台を見ても、顔、変えへんかったね」

 

「何も、載っていませんでしたから」

 

「載ってへんでも、普通の子は、顔、変えるんよ。……載ってたものを、想像するから」

 

三好さんは、少しだけ、目を細めた。

 

「あんたは、想像せえへんのやね。見えるものだけ、見とる」

 

「想像すると、見えるものが、見えなくなるので」

 

言ってから、余計なことを言ったと思った。

 

三好さんは、少しだけ、黙った。

 

それから、小さく笑った。

 

「……あの子が、隣に置くわけや」

 

「隣ではありません。一つ、空けています」

 

「ほな、なおさらや」

 

三好さんは、扉を、閉めた。

 

閉める前に、もう一言だけ、言った。

 

「一つ空けとる子は、刈られへんのよ。……青田狩りは、隣に並んどる稲から、刈るから」

 

 

 

 

 

施設の裏手に、芝生の広場があった。

 

広場の端に、女性が一人、立っていた。

 

その足元に、黒い大きな犬が、三頭、座っていた。

 

三頭とも、ぴくりとも動かなかった。動かないのに、三頭とも、私たちが広場に出た瞬間から、こちらを見ていた。

 

女性は、美人だった。

 

美人なのに、何かがずれていた。表情が、ほとんど動かなかった。動かない顔のまま、女性は、私たちの方へ歩いてきた。

 

犬たちは、ついてこなかった。座ったまま、見ていた。

 

「お客さんあなたたちが玖渚の連れね私は春日井春日(かすがいかすが)動物が専門よろしく」

 

息継ぎが、なかった。

 

読点が、どこにもない喋り方だった。それなのに、一つ一つの音が、驚くほど、はっきりしていた。どの音も、少しも、滲まなかった。

 

「その犬は」

 

鈴無さんが訊いた。

 

「私の犬三頭とも黒い大きい噛まない噛めと言わなければ」

 

「言うことは、あるんですか」

 

私が訊くと、春日井さんは、少しだけ、首を傾げた。

 

「まだないこれからもないかもしれないあるかもしれない私は選ばないから」

 

選ばない。

 

その言葉が、平らな声の中で、一つだけ、少しだけ重く聞こえた。

 

春日井さんは、彼の方を見た。

 

見て、それから、ほんの少しだけ、目を細めた。

 

細めたのが、この人の顔の中で、初めて動いたものだった。

 

「あなた面白い顔ね誰にでも似てる顔今夜暇」

 

「……暇じゃないです」

 

「そう残念」

 

春日井さんは、少しも残念そうではない顔で、言った。

 

言って、犬たちの方へ、戻っていった。

 

戻る途中で、一度だけ、振り返った。

 

振り返った目が、今度は、私を見ていた。

 

「あなたは逃げない顔ね私は逃げる人間よ逃げる人間は逃げない人間がよく分かる」

 

それだけ言って、春日井さんは、犬たちの間に、座った。

 

四つの影が、芝生の上で、並んで動かなくなった。

 

人間一人と、犬三頭。並んで座っている四つの影の、どれが人間なのか、遠くからでは、少しだけ、分かりにくかった。春日井さんは、たぶん、それを、少しも気にしていなかった。

 

彼が、小さく、溜め息をついた。

 

「……ああいう人に好かれると、ろくなことがない」

 

「好かれたの」

 

「たぶん。……君は、逃げない顔だって」

 

「あなたは、何の顔なの」

 

「さあ。誰にでも似てる顔だって」

 

彼は、少しだけ笑った。

 

誰にでも似ている顔は、たぶん、誰の顔でもない。

 

誰の顔でもない顔は、誰にでも、好きなように読まれる。

 

 

 

 

 

夕方、玖渚さんは、鈴無さんの背中に負われて、兎吊木(うつりぎ)さんの部屋の前まで行った。

 

廊下の突き当たりの、閉ざされた扉だった。扉の上に、小さなカメラがついていた。赤い光が、一つ、点いていた。

 

扉の前で、鈴無さんは、玖渚さんを下ろした。

 

玖渚さんは、一人で、扉の前に立った。

 

一人で立っている玖渚さんを、私は、初めて見た。

 

小さかった。

 

廊下の白さの中で、青い髪だけが、浮いて見えた。

 

扉が、内側から開いた。

 

開いた隙間に、玖渚さんは、一人で入っていった。

 

扉が、閉まった。

 

廊下に、鈴無さんと、彼と、私が残った。

 

鈴無さんは、腕を組んで、扉の脇の壁にもたれた。

 

彼は、廊下の反対側の壁にもたれた。

 

私は、その間に、立っていた。

 

誰も、喋らなかった。

 

扉の向こうの声は、少しも、聞こえなかった。

 

十分ほど経った頃、鈴無さんが、壁にもたれたまま、低い声で言った。

 

「チームって、聞いた?」

 

「九人いた、と。彼から」

 

「そ。あおちゃんを真ん中にして、九人。……みんな、とんでもない頭の持ち主で、みんな、あおちゃんのことを、神様みたいに思ってた」

 

鈴無さんは、扉の上の、赤い光を見上げた。

 

「それで、みんな、そこの男のことが、嫌いなのよ」

 

鈴無さんは、顎で、反対側の壁の彼を示した。

 

彼は、聞こえているはずだった。聞こえているのに、何も言わなかった。

 

「どうして」

 

「あおちゃんの隣に、いるからよ。……九人がかりで、あおちゃんの隣を守ってたつもりだったのに、そこの男がいない間だけ、自分たちが隣にいられた。そこの男が帰ってきたら、隣は、そいつのものに戻った」

 

鈴無さんは、腕を組み直した。

 

「九人の誰も、それを、あおちゃんに言わなかった。言ったら、あおちゃんが、困った顔をするから。……困った顔をさせないために、九人とも、そこの男を嫌うことにしたんだわよ。嫌う相手がいれば、あおちゃんを恨まずに済むから」

 

嫌う相手がいれば、恨まずに済む。

 

「それは、あなたの推測ですか」

 

「推測よ。アタシは、天才じゃないもの」

 

鈴無さんは、少しだけ、笑った。

 

「でもね、天才じゃない人間の推測の方が、天才の事情には、たいてい、当たるのよ。天才は、自分の事情を、難しく考えすぎるから」

 

凡庸、と貼られた日に聞くには、少しだけ、都合のいい理屈だった。

 

反対側の壁で、彼が、小さく、咳払いをした。

 

鈴無さんは、それを、無視した。

 

私は、閉ざされた扉を、見ていた。

 

扉の向こうで、九人のうちの一人と、九人の真ん中にいた子が、話している。

 

隣を、取られた人と、隣を、返された子が。

 

三十分ほど経った頃、扉が、また開いた。

 

玖渚さんが、出てきた。

 

出てきて、鈴無さんの方へ、両手を伸ばした。

 

鈴無さんが、黙って、背中を向けてしゃがんだ。

 

玖渚さんは、その背中に、おぶさった。

 

おぶさってから、肩越しに、私たちを見た。

 

「断られちゃった」

 

いつもの声だった。

 

いつもの声なのに、語尾が、少しだけ、短かった。

 

「出ようって言ったの。そしたら、さっちゃん、出ないって。……僕様ちゃんの言うこと、さっちゃんが聞かなかったの、初めて」

 

彼は、壁から背を離した。

 

離したけれど、玖渚さんの方へは、行かなかった。

 

行かないまま、言った。

 

「……帰る?」

 

「帰らない」

 

玖渚さんは、即答した。

 

答えた声は、速かった。けれど、答える直前に、鈴無さんの背中の上で、玖渚さんの指が、鈴無さんの肩を、少しだけ、強く掴んだ。

 

掴んだのを、鈴無さんは、たぶん、感じていた。

 

感じていて、何も言わなかった。言わないまま、背中の重さを、ほんの少しだけ、揺すり上げた。

 

ずり落ちかけた子を、元の位置に戻すような揺すり方だった。

 

「まだ、帰らない。さっちゃんが、どうして出ないのか、分かるまで」

 

鈴無さんが、玖渚さんを背負ったまま、階段の方へ歩き出した。

 

彼は、その後ろを、一つ空けて、ついていった。

 

私は、もう一度だけ、閉ざされた扉を振り返った。

 

赤い光が、一つ、点いていた。

 

見ているのか、見られているのか。

 

この施設では、扉の内側にいる人間の方が、外側にいる人間より、ずっと多くを見ているのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

夕食は、食堂で出された。

 

長いテーブルに、施設の人間と、私たちが、向かい合って座った。

 

斜道博士は、来なかった。

 

博士の席だけが、テーブルの端で、空いていた。

 

宇瀬さんが、その隣に座っていた。宇瀬さんの隣に、大垣くん。大垣くんの向かいに、根尾さん。根尾さんは、食事の前に、デザートの皿を、自分の前に引き寄せていた。

 

三好さんは、彼の向かいに座った。座って、彼の皿の上の野菜を、黙って、自分の皿に移した。昔から、そうしていたような手つきだった。彼は、何も言わなかった。

 

春日井さんは、テーブルの端の、誰からも少しだけ離れた席に座っていた。

 

その向かいに、髪の長い男が、座っていた。

 

前髪が、顔の半分以上を隠していた。表情が見えなかった。手入れをしている様子はなかった。ただ伸ばしているだけの髪だった。

 

「神足雛善(こうたりひなよし)」

 

それだけ名乗って、その人は、それきり、一言も喋らなかった。

 

六人。

 

博士を入れれば、七人。

 

閉じ込められている人を入れれば、八人。

 

私は、皿の上を見ずに、テーブルを見ていた。

 

宇瀬さんが、大垣くんの皿に、自分の皿から、魚を一切れ、移した。大垣くんは、それを見なかったふりをして、食べた。

 

根尾さんは、喋り続けていた。施設の歴史の話だった。昔は北海道にあった、という話だった。誰も聞いていなかった。聞いていないことを、根尾さんは、少しも気にしているようには見えなかった。聞かせるために喋っているのではなく、何かを聞かせないために喋っているように聞こえた。

 

三好さんは、彼の皿から移した野菜を、黙って食べていた。

 

春日井さんは、何も食べていなかった。

 

食べずに、皿の上の魚を、箸の先で、少しずつ、裏返していた。

 

裏返して、また、表にした。

 

「食べないんですか」

 

私が訊くと、春日井さんは、箸を止めずに答えた。

 

「魚の骨の並び方を見ていた同じ種類の魚でも骨の並び方は一匹ずつ違う違うのに同じ魚だと呼ばれるあなたたちと同じね」

 

「私たち、とは」

 

「人間全部」

 

春日井さんは、それだけ言って、魚を、また裏返した。

 

裏返された魚は、表の時と、少しも違わない顔をしていた。

 

違わないのに、骨の並び方は、一匹ずつ違う。

 

春日井さんは、結局、最後まで、一口も食べなかった。

 

食べないまま、骨の並び方だけを、全部、見終えたようだった。

 

神足さんは、前髪の奥から、テーブルの全体を、見ていた。

 

見ている、と思った。

 

目は見えなかった。見えないのに、向いていることだけは、分かった。

 

私が見返すと、前髪は、皿の方へ戻った。

 

高校の三年間で、私は、隠し事のある人間に囲まれて過ごした。見分けるのが上手くなったとは思わない。見分けられないまま、隣に座ることだけが上手くなった。

 

ここは、あの学校に似ていた。

 

閉じた場所。外から来た人間を、値札で見る目。誰もが、何かを賭けている。

 

違うのは、ここには、教室の後ろの席に座る人がいないことだけだった。

 

食事が終わる頃、宇瀬さんが、テーブルの端から、私の方へ、小さく頭を下げた。

 

「お口に、合いましたか」

 

「ええ。……美味しかったです」

 

美味しかったかどうかは、本当は、よく覚えていなかった。六人の顔を見るのに忙しくて、皿の上を見ていなかった。

 

「よかった」

 

宇瀬さんは、ほっとしたように笑った。

 

笑ってから、すぐに、斜道博士の空いた席を見た。

 

空いた席を見る目に、私は、見覚えがあった。

 

来るかどうかを、数えている目だった。

 

その宇瀬さんの手の甲に、テーブルの下で、大垣くんの手が、一瞬だけ、触れた。

 

触れて、すぐに離れた。

 

宇瀬さんは、空いた席から、目を戻した。

 

戻した目が、少しだけ、柔らかくなっていた。

 

空いた席を数えている人の隣に、数えさせないように手を伸ばす人がいる。

 

その手が、届いているのかどうかは、分からなかった。

 

分からないけれど、伸ばしていることだけは、見えた。

 

食堂を出る時、私は、一度だけ、博士の空いた席を振り返った。

 

椅子は、きちんと、テーブルの下に押し込まれていた。座る人が来ないと分かっていて、それでも、毎晩、誰かが押し込んでいる椅子だった。

 

来ない人のために、場所だけを、毎晩、整えておく。

 

大学の大教室で、私が、四月から、毎週していることと、少しだけ似ていた。

 

似ていると思ったことを、私は、誰にも言わなかった。言えば、空けている理由を、訊かれる。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。