扉は、閉めるためにあると思われている。
違う。扉は、開けるかどうかを、選ばせるためにある。
閉まっている扉の前に立つと、人は、開けるか、開けないかの、どちらかを選ばされる。選ばずに通り過ぎることは、できない。一度、扉の前で止まってしまえば。
止まらずに通り過ぎる人は、扉があったことにも、気づかない。
夕食のあと、四人で、白い廊下を部屋へ戻った。
廊下は長く、白かった。窓は、ほとんどなかった。蛍光灯の光が、床に、同じ間隔で落ちていた。
部屋に入る前に、廊下で、彼と二人になった。
「玖渚さん、本当に、まだ帰らないつもりなのね」
私は、言った。
「うん。友の言うことを、兎吊木さんが聞かなかったのは、初めてだって。……友は、初めてのことには、しつこいんだ」
彼は、壁にもたれた。
「出たくないのか、出られないのか。友は、それを確かめに来たんだと思う。確かめて、断られて、それでも、まだ帰るとは言ってない。……ぼくは、呼ばれなかった。呼ばれないことには、慣れてる」
彼は、廊下の天井の隅を、ちらりと見た。
小さなカメラが、そこにあった。赤い光が、一つ点いていた。
「この廊下も、見られてる」
「知っているわ。玄関から、ずっと。三好さんが、監視の画面で見ていた、と言っていたわ」
「やっぱりね。……画面の前に座ってる人は、一人じゃないと思う。博士と、秘書さんと、たぶん、もう何人か」
「見られていて、困ることはあるの」
「ないよ。困ることは、何もしないから」
彼は、少しだけ笑った。
「でも、見られてると分かってる場所で、何もしないでいるのは、何かするより、疲れる。……君は、平気そうだね」
「高校の三年間、ずっと、そうだったから」
彼は、少しだけ、私を見た。
「見られてる学校?」
「ええ。教室にも、廊下にも、カメラがあった。……見られていることを、忘れた頃に、点数で返ってくるの」
「点数」
「何をしたか。何をしなかったか。全部、数えられて、点になった」
彼は、天井のカメラを、もう一度見た。
「それは、ここより、ずっと、きつい場所だね」
「慣れれば、きつくはないわ」
言ってから、慣れれば、という言葉が、少しだけ、嫌な響きをしていることに気づいた。
慣れた場所から、私は、逃げてきた。
慣れたものが、きつくないのではなかった。きつさに、気づかなくなっていただけだった。
気づかなくなっていたことに、京都に来て、初めて、気づいた。
廊下の先に、閉ざされた扉があった。
扉の上に、小さなカメラがついていた。赤い光が、一つだけ点いていた。
「君は、今は誰の隣にもいないね」
不意に、彼が言った。
私は、黙った。
「誰の隣にもいないのに、誰かの隣にいた座り方をしてる。……ここに来てから、ずっと、そう思ってた」
「先月も、似たようなことを言われたわ」
「潤さんに?」
「ええ」
「潤さんに言われたなら、ぼくが言うことは、もう何もないな」
彼は、壁から背を離した。
「おやすみ。……あ、それと」
「何」
「夜は、部屋から出ない方がいい。こういう場所の夜は、だいたい、何かが起きる。起きた時に、廊下にいた人間が、だいたい、いちばん面倒なことになる」
「経験?」
「経験。戯言だけどね」
戯言、と彼は言った。
昼間、三好さんが、彼をそう呼んだ。戯言遣い、と。
自分で言う戯言と、人に呼ばれる戯言遣い。言葉は同じなのに、自分で言う時の方が、少しだけ、軽かった。軽くしておくために、自分で先に言うのかもしれなかった。
先に自分で言っておけば、人に言われても、痛くない。そういう言い方を、私は、高校の三年間、ずっと、自分で自分にしてきた。してきたから、聞けば、分かった。分かったことを、彼には言わなかった。言えば、私の方の癖まで、見つかってしまう。
扉が閉まる音が、長い廊下に、少しだけ響いた。
私は、廊下に一人で立っていた。
夜は、部屋から出ない方がいい。
正しい答えだった。綾小路くんなら、同じことを、もっと短く言う。
部屋に入って、鍵を閉めた。
窓の外は、真っ暗だった。山の中の夜は、京都の夜より、ずっと暗かった。フェンスの向こうに、何も見えなかった。見えないことが、フェンスより高い塀に思えた。
寝台に腰を下ろして、ノートを開いた。
いちばん後ろの紙を、見た。十一桁。かけられない番号。
かけられない番号を、それでも見ているのは、なぜだろう。
答えは、分かっていた。
分かっていたけれど、ノートを閉じた。
十時を過ぎた頃、壁の向こうで、扉を叩く音がした。
私の部屋ではなかった。隣の、彼の部屋だった。
「起きてる今夜暇」
平らな声だった。読点のない声。
「……暇じゃないです」
扉の内側から、彼の声がした。開けてはいないようだった。
「そう残念でも起きてるなら暇でしょう起きてる人間は暇か忙しいかのどちらかで忙しい人間は扉越しに返事をしない」
「返事をするくらいの暇は、あります。それ以上の暇は、ないです」
暇でも、忙しくもなかった。数えているだけだった。
「暇の量を区切れる人間は珍しい面白いわね」
少しの間があった。
それから、春日井さんの声が、少しだけ、近くなった。扉に、顔を寄せたのかもしれなかった。
「隣の部屋の子も起きてるわね」
私は、寝台の上で、息を止めた。
「足音が聞こえないのに起きてる気配がする眠っている人間は呼吸が深い起きている人間は呼吸を数える」
数えていた。
確かに、私は、自分の呼吸を、数えていた。
「……おやすみなさい、春日井さん」
扉の内側から、彼が言った。
春日井さんは、何も言わずに、扉の前を離れた。
足音は、ほとんど聞こえなかった。犬のような歩き方だと思った。
足音が遠ざかってから、壁の向こうで、彼が、小さく、溜め息をついた。
溜め息が、壁を抜けて、聞こえた。
壁が、薄いのか。それとも、私が、壁に耳を寄せていたのか。
寄せていたのだと、遅れて気づいた。
気づいて、寝台の上で、壁から、少しだけ離れた。
離れた分だけ、壁の向こうが、遠くなった。
呼吸を数える、と春日井さんは言った。
数えていたのは、本当だった。
けれど、数えていたのは、呼吸だけではなかった。壁の向こうの溜め息を、扉の前を離れていく足音を、廊下の蛍光灯の、じじ、という音を。
全部を、数えていた。
数えられるものが、この施設には、多すぎた。
多すぎるものを、一つずつ数えていると、そのうちに、自分が、何を待っているのか、分からなくなる。
分からなくなる前に、数えるのを、やめなければならなかった。
やめ方を、私は、まだ、知らなかった。
眠れなかった。
眠れないまま、廊下の向こうで、何かが鳴るのを聞いた。
足音だった。
一人分の、軽い足音。この施設の誰の歩き方とも、違う気がした。違う、と分かるほど、私はまだ、この施設の誰の歩き方も知らないのに。
足音は、私の部屋の前で、一度だけ止まった。
止まって、また、歩き出した。
遠ざかっていく足音を、私は、ドアの内側で聞いていた。
部屋から出ない方がいい。
私は、ドアノブに手をかけた。
冷たかった。
先月の、赤い車の取っ手と、同じ冷たさだった。
同じ冷たさなのに、先月より、手を離すのが、少しだけ、難しかった。冷たいものに触れているあいだは、自分の手が、まだ温かいことを、知っていられる。
部屋から出ない方がいい、と言われたことを覚えたうえで、私は、ドアを開けた。
正しい答えを聞いて、違う方へ座る。
五月から、私は、それを繰り返している。
廊下は、蛍光灯の半分が消えていた。
点いている灯りと、消えている灯りが、一本おきに並んでいた。明るい場所と暗い場所が、交互に続いていた。
足音は、もう聞こえなかった。
廊下の突き当たりに、渡り廊下への扉があった。扉は、少しだけ開いていた。
開いている扉は、誰かが通ったことを知らせる。閉め忘れたのか、わざと開けておいたのか。どちらにしても、通った人間は、まだその先にいる。
渡り廊下に出た。
窓のない、細い通路だった。両側の壁が、近かった。床に、非常口の緑の灯りだけが、ぼんやりと落ちていた。
その緑の中に、人が立っていた。
女の人だった。
細身で、背は私と同じくらいだった。黒い服を着ていた。動きやすそうな服だった。髪を後ろで一つにまとめていた。顔立ちは、暗くてよく見えなかった。見えなかったけれど、こちらを向いて、笑っているのは分かった。
「あら」
柔らかい声だった。
「こんな夜更けに、お散歩ですの?」
ですの、と言った。
この施設の誰とも違う喋り方だった。夕食の席にいた六人の中に、この人はいなかった。
「……あなたは、誰」
「それは、こちらの台詞ですわ。わたくしは、この施設に招かれていない者。あなたも、そういうお顔をしていらっしゃる」
招かれていない者。
私は、招かれていないわけではなかった。付き添いの付き添いとして、名前で開いた門をくぐってきた。くぐってきたけれど、博士は、私を凡庸だと言った。凡庸な者は、施設のものに触れるな、と。
招かれた者とは、たぶん、言えない。
「この施設に、泥棒に入ったの」
「まあ、人聞きの悪い。お友達に会いに来ただけですわ」
「お友達」
「ええ。閉じ込められている、可哀想なお友達。……あなたは、お友達を閉じ込めておく場所が、お好き?」
答えなかった。
その人は、私が答えないのを、楽しむように見ていた。
「お名前を、伺っても?」
「人に名前を訊く時は、先に名乗るものでしょう」
「十全なお答えですわ」
その人は、胸に手を当てて、軽く頭を下げた。
「わたくしは、
息が、止まった。
零崎。
その名字を、私は知っている。五月の終わり、佐倉さんの前に現れた、針金のような男が名乗った名字。その男が、佐倉さんに、新しい名前を付けた。先月、赤い車の中で、殺し名の三番目だと教わった名字。
愛織。
愛識。
一字だけ、違った。織るの字と、識るの字。布を織る糸と、物事を知る心。耳で聞けば、まるで違う音だった。字にした時だけ、一字違いになる。
「……その名前は、本当の名前なの」
自分の声が、少しだけ震えていた。
「あら」
その人の声の調子が、ほんの少しだけ変わった。柔らかいままなのに、柔らかさの奥で、何かが、こちらを測り直した。
「今、息が止まりましたわね。それから、声が震えた。わたくしの名前の、頭の二文字を聞いた時に。……下の名前ではなく、零崎の方で」
自分の喉に、手をやりかけて、やめた。
やめたことまで、たぶん、見られていた。
「零崎を、ご存じなのね」
「知り合いが、その名字を名乗っているわ」
その人は、しばらく、黙っていた。
黙ったまま、私を、頭のてっぺんから爪先まで、一度だけ眺めた。
それから、長い息を吐いた。
「……零崎の名前で息止めるくせに、夜中に一人でこんなとこ歩いてんのかよ」
呆れた声だった。
さっきまでの、ですの、ではなかった。もっと低くて、もっと荒っぽい声。乱暴なのに、どこか、面白がっている声。
聞き覚えのある崩れ方だった。
どこで聞いたのかを思い出す前に、その人は、胸に手を当て直した。
「──失礼。言葉が乱れましたわ。夜更かしは、お肌にも言葉にも、よろしくありませんわね」
その人は、何事もなかったように、首を傾げ直した。
「それで、そのお知り合いというのは、どなた?」
「答える必要はないわ」
「十全ですわ。わたくしも、答えたくないことは答えない主義ですの」
その人は、渡り廊下の奥を、指さした。
「わたくしは、あちらに用がございますの。あなたは、お部屋へお戻りになった方がよろしいわ。この施設の夜は、退屈な方には向いておりませんもの」
「退屈ではないわ」
「存じております。だから、申し上げているのですわ」
その人は、私の横を、すり抜けた。
すり抜ける時、ほんのかすかに、何かの匂いがした。
煙草ではなかった。車の、革の座席の匂いに似ていた。
似ている、と思った時には、その人は、もう、緑の灯りの外に出ていた。
足音は、しなかった。
さっき聞いた足音は、この人のものではなかったのだろうか。それとも、この人は、聞かせたい時だけ、足音を立てるのだろうか。
渡り廊下の向こうの棟で、声がした。
低い声が、二つ。
私は、渡り廊下の出口の、柱の陰に立ったまま、耳を澄ませた。
一つは、さっきの柔らかい声だった。ですの、の声。
もう一つは、夕食の席で、施設の歴史を一人で喋り続けていた声だった。芝居がかった、よく通る声。
「……お約束の品は、あちらに」
夕食の時の、誰にでも聞かせる喋り方では、なかった。短くて、平らで、必要なことだけを渡す声だった。
「十全ですわ。お代は、いつもの口座に」
「毎度。……それにしても、あなたが直々においでとは。わたくしの雇い主も、驚きましょうな」
「驚かせるために来たのではありませんわ。お友達を、迎えに来ただけ」
「お友達。……博士の、あの特別研究員のことで」
「さあ。お友達は、お友達ですわ」
二つの声は、それきり、遠ざかっていった。
遠ざかっていく途中で、根尾さんの声が、一度だけ、また、芝居がかった調子に戻った。
誰かに聞かれてもいいように、戻したのだと思った。
私は、柱の陰で、しばらく、動かなかった。
昼間、休憩室で、根尾さんの目は、一度も笑っていなかった。笑っている口の上で、目だけが、私たちを一人ずつ確かめていた。
確かめていたのは、博士のためではなかったのかもしれない。
この施設の中に、この施設のために働いていない人が、一人いるのかもしれない。
一人なのか、二人なのか。
数えるのを、やめた。
やめた、と思ってから、少しだけ、可笑しくなった。
数えるのをやめる、と決めるのも、数えたうちに入る。一人なのか、二人なのか、と考えた時点で、私は、もう、一つ目を数えていた。
高校の三年間で、私の頭は、数えるようにできてしまった。
できてしまったものは、やめると決めても、止まらない。止まらないなら、せめて、顔に出さない。
数えれば、数えたことが、顔に出る。顔に出れば、明日の朝、食堂で、あの目に、確かめられる。
部屋へ戻る途中で、廊下を一本、間違えた。
間違えたと気づいたのは、突き当たりに、あの扉が見えた時だった。
閉ざされた扉。上に、小さなカメラ。赤い光が一つ。
引き返そうとした時、扉の向こうから、声がした。
「そこにいるのは、誰かな」
男の声だった。
穏やかな声だった。穏やかすぎて、どこにも引っかかるところがなかった。つるつるした石を、手のひらで転がしているような声だった。
「足音で分かるよ。
扉には、覗き窓も何もなかった。
見えていないはずだった。
「……堀北と申します」
「堀北さん。……玖渚友の連れの、四人目」
「どうして」
「この施設では、扉の内側にいる人間ほど、よく聞こえるんだよ。外にいる人間は、扉の内側に誰かがいることを、すぐに忘れるからね。忘れた人間は、扉の前で、何でも喋る」
その人は、扉の向こうで、少しだけ笑った。
「
壊れ物。
扱いに気をつける物、という意味の言葉だった。この人は、自分を、そう呼んだ。
「玖渚さんが、あなたを外に出したがっているわ」
「知ってる。昼間、断ったよ」
「どうして」
「きみは、どうして京都にいるのかな」
質問に、質問で返された。
先月、私が
「……逃げてきたから」
答えた。
答えてから、自分で驚いた。扉の向こうの、顔も知らない人に、私は、本当のことを言っていた。
「逃げてきた。いいね」
兎吊木さんの声が、少しだけ明るくなった。
「僕は、逃げなかった。ここにいるのは、逃げなかった結果だ。外に出ようと誘われて、断ったのも、逃げないためだ。……分かるかな。逃げないことと、出ていかないことは、時々、同じ顔をするんだよ」
分からなかった。
分からなかったけれど、どこかで聞いたことのある言葉の形だった。
《始まる前に降りる奴が一番多い。座ったのに、座ってねえふりをする》
「僕はね、壊すのが専門なんだ」
扉の向こうで、兎吊木さんが言った。
「玖渚友の仲間だった頃、僕の担当は破壊だった。仕組みを見ると、どこを押せば壊れるのかが分かる。人間も、同じだよ。少し話せば、どこを押せば壊れるのか、だいたい分かる」
「私は」
「きみは、分からない」
即答だった。
「さっきから、三か所くらい押してみた。逃げてきた、と言わせた。逃げなかった人間の話を聞かせた。……普通は、どこかで、ひびが入る音がするんだ。きみからは、何も聞こえない」
「押されていたのね」
「押していたよ。破壊の専門家から見て、きみは、まったく壊れない。壊しがいがない」
兎吊木さんは、少しだけ、間を置いた。
「壊しがいがないのは、褒め言葉だよ。この施設では、特に」
私は、扉の前に立ったまま、何も言わなかった。
褒められたのだと、遅れて分かった。分かってから、どう受け取ればいいのか、分からなかった。
「壊れない人間は、二種類いる」
兎吊木さんは、続けた。
「最初から、どこにもつなぎ目がない人間。それから、つなぎ目を、全部、誰かに預けてある人間。前の方は、めったにいない。僕は、一人しか知らない」
「……誰ですか」
「
青、と思った。
先月、赤い車の中で、彼が、あの人に付けた名前を思い出した。
青の隣に、赤が並んだ。並べたのは、たぶん、偶然だった。偶然のはずなのに、二つの名前は、最初から対になるように作られていたみたいに、きれいに並んでいた。
「後の方は」
「後の方は、預けた相手が壊れると、一緒に壊れる。だから、本当は、いちばん脆い」
扉の向こうの声が、少しだけ、近くなった気がした。扉に、背中を預けたのかもしれなかった。
「でも、きみは、どちらとも違う気がするな。つなぎ目はある。あるのに、押しても、どこにも響かない。預けた相手が、もう、壊れようのない場所にいるみたいだ」
壊れようのない場所。
私は、扉の前で、少しだけ息を詰めた。
詰めた息の音が、たぶん、扉の向こうに聞こえた。
「……今、初めて、少しだけ鳴ったね」
兎吊木さんは、楽しそうに言った。
「押さないよ。そこは、押さない。壊れようのない場所にいる相手のことを、僕は、壊しようがない。壊しようのないものに手を出すのは、破壊の専門家の恥だから」
この人には、恥があるらしかった。人の壊し方を知っている人の恥が、どんな形をしているのか、私には想像がつかなかった。想像がつかないまま、その恥が、私の一番奥の場所を、押さずに通り過ぎていった。
通り過ぎてもらったことを、礼を言うべきなのかどうか、分からなかった。
言わなかった。言えば、その場所がどこにあるのかを、自分で教えることになる。
「一つだけ、訊いていいかな」
「何」
「きみは、玖渚友のことが、好きかい」
「今日、初めて会ったわ」
「初めて会った相手を、好きか嫌いか決められない人間は、正直だね」
兎吊木さんは、また、少しだけ笑った。
「戯言遣いに伝えてくれるかな。……いや、いいや。伝えなくていい。あいつには、明日、自分で伝わる」
それから、兎吊木さんは、少しだけ、声の調子を変えた。
「本当はね、昼間、あいつにも、一つ訊きたかったんだ。呼ばなかったから、訊けなかったけど」
「何を」
「戯言遣いは、玖渚友のことが、本当は嫌いなんじゃないのかな、って」
扉の向こうの声は、穏やかなままだった。
穏やかなまま、言葉だけが、刃物のように、まっすぐだった。
「嫌いな相手の隣に、あいつは、ずっといる。嫌いだから、隣にいるのかもしれない。好きな相手の隣には、人は、そんなに長く、いられないものだから」
私は、答えなかった。
答えられる問いではなかった。私に向けられた問いでも、なかった。
「きみなら、どう思う」
「……私は、彼の隣にはいません。一つ、空けています」
「……そうか」
兎吊木さんの声は、まだ楽しそうだった。
「一つ空けて座る人間には、隣の二人のことが、よく見えるはずだ。……見えたことを、あいつに伝える気は、あるかい」
「ありません」
「どうして」
「訊かれていないから」
扉の向こうで、兎吊木さんは、しばらく、黙っていた。
それから、くつくつと、笑った。
「訊かれていないことは、伝えない。……壊しがいのない子だと思ったけど、壊しようのない子だったんだね」
「……明日、彼に、何が伝わるの」
私は、最後に、それだけ訊いた。
返事はなかった。
扉の向こうは、静かになった。
赤い光だけが、私を見下ろしていた。
私は、部屋へ戻った。
戻る途中で、彼の部屋の前を通った。
扉の下の隙間から、細く、灯りが漏れていた。
起きているのだと思った。
春日井さんに、暇じゃない、と言った人が、起きていた。
扉を、叩かなかった。
叩けば、兎吊木さんの問いを、持ったまま、彼の顔を見ることになる。見たら、問いの方が、顔に出る。
灯りの漏れる隙間の前を、足音を立てずに、通り過ぎた。
通り過ぎる時、扉の向こうで、紙をめくる音がした。
本を、読んでいるのかもしれなかった。
眠れない夜に、本を読む人だった。
知ったことを、どこにも、書かなかった。
部屋の扉を閉めてから、さっきの人の言葉を、思い出した。
《この施設の夜は、退屈な方には向いておりませんもの》
横になる前に、扉越しの問いを、もう一度、思い出した。
戯言遣いは、玖渚友のことが、本当は嫌いなんじゃないのか。
私は、それを、彼に、伝えないことにした。
訊かれていないから、と兎吊木さんには答えた。それは、半分だけ本当だった。
残りの半分は、たぶん、私が、その問いの答えを、知りたくなかったからだ。
隣に座っている二人の間に、何があるのか。一つ空けた場所からは、よく見える、と兎吊木さんは言った。
見えることと、見たいことは、違う。
見えたものを、見なかったことにはできない。だから、見ない方を選ぶ時もある。選んだことは、誰にも言わない。
問いだけを、持っていることにした。答えは、持たずに。
寝台に横になった。
天井を見ていた。
天井の、蛍光灯の消えた跡が、暗い中で、少しだけ白く見えた。
零崎愛識。
借り物だと、その人は言わなかった。言わなかったけれど、名乗る時の、あの間。胸に手を当てて、軽く頭を下げるまでの、ほんの一呼吸。あの一呼吸のあいだに、名前を、どこかの棚から取ってきたような気がした。
取ってきた名前が、愛識だった。
愛織と、一字違いの。
五月の、木曜日の夜を思い出した。
雀荘のある路地の、その先の暗がりで、私は、佐倉さんを見た。誰かの首に、何かが巻きついていた。佐倉さんは、それを、写真に撮った。巻きついていたのが、佐倉さんのカメラのストラップだったと分かったのは、そのあとだった。
フラッシュが光って、目が合った。
向こうも、分かったはずだ。佐倉さんは、小さな声で、私の名前を呼んだ。……堀北さん、と。それだけだった。私は、何も言わなかった。
それから二週間と少しして、鴨川で、針金のような男が、佐倉さんを迎えに来た。家族になろう、と男は言った。零崎を名乗るなら、名前も新しくしよう、と。
愛織。
男が、そう名付けた。
名付けられた時、佐倉さんは、声を出さずに笑った。高校の頃、カメラを構えた時にだけ見せた笑い方だった。それから、私と目が合った。私は、一歩だけ前に出て、謝ろうとして、声が出なかった。佐倉さんは、小さく頭を下げた。声が出ないまま、二人が去っていくのを見ていた。
追いかけなかった。
高校一年の、無人島の初日もそうだった。荷物を持ったまま、輪から外れて立っている佐倉さんの方へ、私は、一歩だけ踏み出して、止まった。やめた一歩の先を、あとで、別の人が歩いた。
私は、いつも、一歩手前で止まる。
止まったまま、名前だけを、覚えている。
佐倉愛里。零崎愛織。
名前が変わっても、覚えている方の名前は、変わらない。
天井の白い跡が、少しずつ、滲んで見えた。
滲んでいる理由を、私は、眠気のせいにした。
眠れないと思っていたのに、いつの間にか、眠っていた。
眠る前に、最後に、聞こえた気がしたものがあった。
遠くの、どこかの棟で、扉が一枚、静かに開いて、閉じる音。
鍵の回る音ではなかった。もっと細い、金属同士がこすれ合う音のあとで、扉は、開いた。
誰が、どの扉を開けたのか。
確かめに行こうとは、もう、思わなかった。
今夜、私は、扉を二つ、開けずに通り過ぎた。彼の部屋の扉と、兎吊木さんの扉と。
一つは、開けたら、問いが顔に出る扉だった。
もう一つは、内側の人が、開けられることを、昼のうちに断った扉だった。
どちらも、開けなかった。開けなかった扉の向こうは、静かなままだった。
開けなかった扉の前で、私は、眠った。
扉の前で止まってしまった人は、開けるか、開けないかを、選ばされる。
選ばなかったことも、たぶん、選んだうちに入る。入るのなら、私は、今夜、二度、選んだ。