朝は、夜のあいだに起きたことを、運んでくる。
夜のうちは、音しか届かない。扉が一枚開いて閉じる音。金属のこすれる音。音だけなら、何が起きたのかを、まだ、知らずにいられる。
朝の光は、知らずにいることを、許さない。
開けなかった扉の向こうにあったものを、朝は、扉ごと、廊下に並べて見せる。
目が覚めたのは、悲鳴が聞こえたからだった。
窓の外は、もう明るかった。時計は、六時を少し過ぎていた。
枕元のスマートフォンは、圏外のままだった。
圏外の表示を、私は、寝る前と同じように確かめていた。確かめて、何も変わっていないことに、なぜか少しだけ安心した。安心したことに、少しだけ腹が立った。
悲鳴は、一度きりだった。一度きりで、そのあと、何かが倒れる音と、走る足音が、いくつも続いた。
廊下に出た。
「あんたは、ここにいなさい」
「何があったんですか」
「分からないから、ここにいなさいって言ってるの」
鈴無さんは、そう言って、廊下を走っていった。
走っていく背中を、私は見ていた。
ここにいなさい。
これも、正しい答えだった。
私は、鈴無さんの後を追った。
廊下の先に、人が集まっていた。
あの扉の前だった。
扉は、開いていた。開いた扉の前で、
根尾さんの目は、扉の中を見ていなかった。
扉の前に集まった人間を、一人ずつ、見ていた。昨日の休憩室と、同じ見方だった。宇瀬さんを確かめて、大垣くんを確かめて、三好さんを確かめて、
それから、私を確かめた。
確かめた目が、ほんの一瞬だけ、止まった。
昨夜、渡り廊下の向こうで、この人の、短くて平らな声を聞いた。お約束の品は、あちらに、と。
聞いていたことを、この人は、知っているのだろうか。
知らないはずだった。私は、柱の陰にいた。柱の陰の私を見たのは、ですの、の声の人だけだった。その人が、言っていなければ。
それでも、根尾さんの目は、私の上で、一瞬だけ、止まった。
止まって、すぐに、彼の方へ移った。
移る前に、根尾さんの口の端が、ほんの少しだけ、上がった気がした。
気がしただけかもしれなかった。
この施設では、気がしただけのことが、多すぎた。
三好さんが、扉の内側を覗き込んで、口元を押さえていた。
春日井さんは、少し離れた場所で、無表情のまま、扉の中を見ていた。
足元に、黒い犬が三頭、伏せていた。
三頭とも、扉の方を見ていなかった。廊下の、反対側の端を見ていた。非常口の、緑の灯りの方を。
犬は、血の匂いの方ではなく、別の方を見ていた。
春日井さんは、犬たちの見ている方を、一度だけ、ちらりと見た。
見て、それから、何も言わずに、また扉の中に目を戻した。
犬が見ているものを、この人は、たぶん、分かっていた。分かっていて、言わなかった。
選ばない人だった。言うことも、言わないことも。
彼と、
玖渚さんは、彼の背中に隠れていた。隠れたまま、彼の肩越しに、扉の中を見ていた。青い目が、まばたきを一度もしていなかった。
私は、扉の前まで歩いた。
鈴無さんが、私の腕を掴んだ。
「見るんじゃないわよ」
「見ます」
鈴無さんの手を、私は、振りほどかなかった。
振りほどかずに、そのまま、扉の中を見た。
部屋の奥の壁に、人が、いた。
壁に、打ちつけられていた。両腕を、横に広げた形で。磔、という字が、頭の中に浮かんだ。
顔が、なかった。
正確には、顔の形をしたものはあった。あったけれど、それが誰の顔なのかを示すものが、全部、潰されていた。
両腕の先に、手がなかった。
手首から先が、なかった。
床に、血の跡が、まっすぐに続いていた。
目を、逸らしたかった。
逸らさなかった。
先月、刃物の前で、私は動かなかった。理事長室の扉の前で、潤さんが一歩入って止まった時も、私は、目を閉じなかった。
見たものを、全部一人で持っている必要はない。
一人で持つつもりはなかった。
ただ、見ないまま、持たずに済ませるつもりも、なかった。
「
三好さんが、かすれた声で言った。
「
誰も、否定しなかった。
否定する材料を、誰も持っていなかった。顔も手もない人間を、誰だと示す材料を。
私は、壁の人を見ていた。
背丈を見た。肩の幅を見た。壁に広げられた腕の長さを見た。
昨夜、扉の向こうにいた人の姿を、私は知らない。声しか、知らない。
声しか知らない人の死体を、私は、どうやって見分ければいいのだろう。
壊しがいがない、と昨夜、扉越しに言った人だった。壊れない人間は二種類いる、と教えてくれた人が、壁の上で、いちばん壊された形になっていた。
少しだけ鳴った、と言われた場所が、今になって、もう一度鳴った。
見分けられないまま、私は、もう一つだけ、気づいていた。
廊下に集まった施設の人間の中に、博士を別にすれば、一人だけ、いない人がいた。
前髪の長い人。昨日の夕食の席で、名乗ったきり、何も喋らなかった人。
気づいたのは、私だけではなかったのかもしれない。
三好さんが、扉の前から離れて、私の隣に来た。口元を押さえていた手は、もう下ろしていた。
「腕が、固まっとる」
三好さんが、扉の中を見たまま、小さく言った。
私に言ったのではなかった。自分の口の中で、確かめるような声だった。
「固まって、いるんですか」
訊くと、三好さんは、私を見ないまま、答えた。
「死んでから、何時間か経つと、人の体は、固まるんよ。顎から、首、肩、腕、の順に。……あの腕は、もう、肩まで固まっとる。広げた形のまま」
三好さんは、自分の腕を、少しだけ持ち上げて、下ろした。
「固まる前に、広げて打ちつけたんか。固まってから、広げたまま吊ったんか。……どっちかで、何時に死んだかが、変わる」
解剖の専門家の、声だった。
昨日、空の解剖台の横で手袋を外していた人が、今朝は、手袋なしで、扉の中の形を、読んでいた。
「どちらだと、思いますか」
「分からん。触らせてもらえたら、分かるけどな」
三好さんは、
「触らせてもらえへんやろ。……触らせたら、話が、一つに決まってまうからな」
話が、一つに決まってしまう。
決まらない方が、都合のいい人がいるのだろうか。
三好さんは、それきり、口を閉じた。
閉じたまま、扉の中の、広げられた腕を、見ていた。
見ている目は、検品をする目だった。
検品をして、どこかに、何かの印を、つけている目だった。
足りるかどうかは、分からなかった。
分からないまま、私は、一つ空けた場所から、彼の横顔を見ていた。
彼が、玖渚さんを背中に隠したまま、私の方へ、少しだけ顔を向けた。
「……昨日の夜、部屋から出た?」
小声だった。
「出たわ」
「どこまで」
「渡り廊下と、あの扉の前まで」
彼は、扉の中を見た。
それから、私を見た。
「扉の前で、何か、聞いた?」
私は、少しだけ、迷った。
迷ってから、一つだけ、答えた。
「あなたには、明日、自分で伝わる、と言っていたわ」
彼の目が、ほんの少しだけ、見開かれた。
見開かれて、それから、扉の中の、顔のない形に、戻った。
広げられた腕を。手のない手首を。
彼は、長いあいだ、それを見ていた。
見ている顔に、何も浮かんでいなかった。
何も浮かんでいない顔の奥で、何かが、一つずつ、並べ替えられていくように見えた。坂柳さんが、電話の向こうで黙っていた時と、同じ黙り方だった。
「……伝わった」
彼は、小さく言った。
私にではなく、扉の中に向かって。
何が伝わったのかを、私は、訊かなかった。
訊かなくても、たぶん、私にも、半分くらいは、伝わっていた。
もう半分は、伝わらないままにしておいた。
伝わらないままにしておけば、私は、何も知らない人間として、このあと、地下の部屋に降りられる。
「何の騒ぎだ」
廊下の奥から、斜道博士が歩いてきた。
白衣を、きちんと着ていた。寝起きの顔ではなかった。目だけが、昨日よりも、さらに大きく見開かれていた。
博士は、扉の中を見た。
見て、顔色ひとつ、変えなかった。
変えないまま、振り返った。
振り返った目が、まっすぐに、玖渚さんを見た。
「……玖渚の、お嬢様」
「なーに、博士」
玖渚さんは、彼の背中から、顔を半分だけ出した。
「この部屋の鍵の仕組みを作ったのは、どなたでしたかな」
廊下が、静かになった。
「この施設の、扉という扉の仕組みの、元を作ったのは。……お嬢様の、昔のお仲間でしたな。お嬢様ご自身でしたかな」
「僕様ちゃんだよー。昔ね。今は、知らない」
「昨日、お嬢様は、この男に会われた。会われて、外に出ようと誘われ、断られた」
博士の声は、静かだった。
静かな声のまま、一つずつ、言葉を並べていった。並べた言葉が、玖渚さんの周りに、柵のように立っていった。
「誘いを断られた、その夜に、仕組みを知り尽くした扉の向こうで、断った男が死んでいる。……警察を呼ぶ前に、お嬢様方には、しばらく、別のお部屋でお待ちいただく」
「別の、部屋」
彼が、言った。
「地下に、一つ、空いている部屋がある」
博士は、彼を見なかった。
「玖渚の、お嬢様。その連れの男。保護者の女。……それから」
博士の目が、最後に、私を見た。
昨日と同じ、値札を確かめる目だった。
「その、凡庸な娘も」
鈴無さんが、一歩、前に出た。
「ちょっと、あんた。この子たちが何をしたって言うのよ。証拠もなしに」
「証拠は、これから揃える。揃うまでの間、お待ちいただくだけだ。……それとも、今すぐ警察を呼んで、玖渚の家の名前を、新聞に載せましょうか」
声は静かなままなのに、廊下の空気が、その一言で、少しだけ、冷えた。
名前を、新聞に載せる。
玖渚さんは、家と縁が切れている、と鈴無さんは言った。縁が切れても、名前は切れない、とも。名前で門が開く、とも。
名前で開いた門は、名前で、閉じることもできる。
開けた名前を、今度は、閉じるために使う。
それが、この人のやり方だった。
高校の三年間で、私は、似たやり方を、何度も見た。点数で開いた扉は、点数で閉じる。開けてくれたものが、そのまま、鍵になる。
鍵を握っている人は、たいてい、声を荒げない。荒げなくても、扉は、閉まるからだ。
鈴無さんが、黙った。
怯んだようには、見えなかった。鈴無さんが黙る直前に、玖渚さんの肩が、ほんの少しだけ、強ばっていた。
「すずちゃん」
彼の背中から、玖渚さんが、私を呼んだ。
青い目が、私を見ていた。まばたきを、やはり、一度もしていなかった。
「すずちゃんは、僕様ちゃんがやったと思う?」
廊下の全員が、私を見た気がした。
見られていることを、私は、背中で数えた。宇瀬さん、大垣くん、根尾さん、三好さん、春日井さん、博士。鈴無さん。それから、彼。
「思わないわ」
「どうして?」
「あなたは、一人では、ここまで歩いてこられないから」
昨夜、扉の向こうで、兎吊木さんが言っていた。あの子は、一人じゃ、ここまで歩いてこない。
「誰かに背負ってもらえば、来られるよ?」
「背負った人が、黙っていればね」
私は、彼を見なかった。
見なくても、私が何を言ったのかは、たぶん、廊下の全員に伝わった。この子が背中を預ける人間は、ここに二人しかいない。彼と、鈴無さん。どちらかが背負ったのなら、隠す理由がない。二人とも、この子の側の人間だから。
「それに、あなたは、昨日、会ってきたと言ったわ。誘って、断られた、と。それでも、まだ帰るとは言っていない」
「言ってないよ」
「帰るつもりのない人は、相手を殺さないわ。殺したら、帰るしかなくなる」
玖渚さんは、少しだけ、目を丸くした。
丸くして、それから、ゆっくりと、笑った。
「うにー。すずちゃん、意外と、理屈っぽいね」
「意外と、は余計よ」
「褒めてるんだよ? 僕様ちゃん、理屈っぽい人、好き。理屈っぽい人は、嘘をつく時も、理屈がいるから。理屈を探してるあいだに、顔に出るの」
博士が、鼻を鳴らした。
「凡庸な理屈だ」
「凡庸でも、理屈です」
言ってから、自分の声が、少しも震えていなかったことに、気づいた。
壁に広げられた形の前で。顔のない顔と、手のない腕の前で。
震えなかったのは、怖くないからではなかった。
怖いものの前で、怖がるより先に、言わなければならないことがあった。玖渚さんの肩が、強ばっていた。強ばった肩の前で、凡庸な理屈を一つ、置いておくこと。それが、今朝、私にできる、ただ一つのことだった。
一つしかないことは、迷わずに済む。
迷わずに済むから、声が、震えなかった。
私は、博士の目を見て言った。
博士は、私の言葉には答えなかった。答えずに、宇瀬さんに目で何かを命じた。命じられた宇瀬さんが、小さく頷いた。
私の理屈は、何も変えなかった。
変えなかったけれど、玖渚さんの肩の強ばりが、ほんの少しだけ、緩んでいた。
それで、足りた。
一日分、と、先月の中庭で彼が言った言葉を、私は、なぜか思い出した。
「行こう」
彼が、言った。
玖渚さんの手を、取っていた。
「どうせ、ここで何を言っても、門は閉まってる」
廊下を歩き出してから、春日井さんの横を、通り過ぎた。
春日井さんは、犬たちと一緒に、まだ、扉の前に立っていた。
私たちが地下へ連れていかれるのを、見ていた。止めもしなかった。博士の側にも、つかなかった。
通り過ぎる時、春日井さんが、私にだけ聞こえる声で、言った。
「逃げないのね」
「逃げる場所が、ありません」
「あるわよ非常口はあっち犬たちがさっきからずっと見ている」
私は、足を止めなかった。
止めずに、春日井さんの言った方を、見なかった。
見たら、たぶん、犬たちが何を見ていたのかが、分かってしまう。
分かったら、地下へ降りる前に、言わなければならないことが、一つ、増える。
「あなたは、逃げないのですか」
「私は選ばないから逃げる時は勝手に逃げているわ今はまだ逃げていない」
春日井さんは、それだけ言った。
言って、犬の一頭の頭を、一度だけ、撫でた。
撫で方が、驚くほど、優しかった。
犬にだけ、優しくできる人なのだと思った。
人間には、選ばないことでしか、優しくできない人なのだと。
私は、もう一度だけ、扉の中を振り返った。
壁の人は、腕を広げたまま、動かなかった。
広げた腕の先に、手がない。
手がないから、指の跡が取れない。顔がないから、顔で見分けられない。見分けられないから、この部屋にいるはずの人だと、全員が思う。
思う、ということと、そうである、ということの間に、どれくらいの距離があるのだろう。
昨夜の、つるつるした石のような声が、耳の奥で鳴った。
《あいつには、明日、自分で伝わる》
私は、何も言わなかった。
言うことが、まだ、何もなかった。
廊下の角で、宇瀬さんが待っていた。
眼鏡を、かけ直していた。かけ直したレンズの片方に、細いひびが入っていた。床に落とした時に、入ったのだろう。
「こちらです」
促される前に、大垣くんが、宇瀬さんの前に、一歩、出た。
「美幸さん。……俺が、連れてく」
「志人くん」
「いいから。美幸さんは、博士のとこにいろよ。書類、揃えるんだろ」
大垣くんは、宇瀬さんの手から、鍵の束を、取った。
取る時、宇瀬さんの指が、ほんの少しだけ、鍵の束を握り直した。握り直して、それから、離した。
離された鍵の束を、大垣くんは、白衣のポケットに押し込んだ。
「……眼鏡、ひび入ってる」
大垣くんは、宇瀬さんの顔を見ないまま、言った。
「替えの眼鏡、俺の机の、二番目の引き出し。……前に、美幸さんが置いてったやつ」
宇瀬さんは、何も言わなかった。
言わないまま、ひびの入った眼鏡を、指で、少しだけ押し上げた。
大垣くんは、私たちの方を向いた。
睨む目に、戻っていた。
「来いよ。……階段だ。エレベーターは、あの変態がばらしちまったからな」
あの変態。
壁に広げられた形に向かって、大垣くんは、そう言った。
言ってから、ほんの少しだけ、唇を噛んだ。
死んだと思っている人のことを、生きていた時と同じ呼び方で呼んでしまった顔に、見えた。
「志人くん」
宇瀬さんが、静かに言った。
「鍵を」
大垣くんは、宇瀬さんを見た。
「私が、ご案内します。……博士の書類は、あなたの方が、早く揃えられます。博士の字を、読めるのは、あなたと私だけですから」
大垣くんは、少しのあいだ、黙っていた。
それから、白衣のポケットから、鍵の束を出した。
出して、宇瀬さんの手のひらに、そっと載せた。
昨日、握り飯を押しつけた時と、同じ載せ方だった。
「……替えの眼鏡。二番目の引き出し」
「聞きました」
大垣くんは、背を向けた。
背を向けて、博士の部屋の方へ、走っていった。
宇瀬さんは、鍵の束を握ったまま、その背中が角を曲がるまで、見ていた。
見終えてから、私たちの方を、向いた。
「参りましょう」
宇瀬さんは、それだけ言って、私たちを階段の方へ促した。
階段が近づくと、鈴無さんが、黙って玖渚さんを背中に負い直した。
階段へ向かう途中で、鈴無さんが、私の隣に並んだ。
玖渚さんを、背中に負ったまま。
「あんた、昨日の夜、部屋から出てたでしょ。扉の音、隣まで聞こえてたわよ」
「……はい」
「アタシ、部屋にいなさいって、言ったわよね」
「言われていません。……言ったのは、彼です」
鈴無さんは、一瞬、黙った。
黙ってから、鼻を鳴らした。
「屁理屈ね」
「よく言われます」
「誰に」
「最近は、いろいろな人に」
鈴無さんは、少しだけ、口の端を上げた。
上げて、それから、すぐに、真顔に戻った。
「地下に降りたら、出てくるまで、何があっても、アタシの目の届くところにいなさい。……これは、アタシが、言ったわよ」
「はい」
「はぁ。はい、って言った子が、言うことを聞いたためしは、あんまりないんだわよ」
鈴無さんの背中で、玖渚さんが、うにー、と言った。
賛成なのか、からかっているのか、分からなかった。
分からなかったけれど、鈴無さんの歩く速さは、私の歩く速さに、ぴったり合っていた。
合わせてくれているのだと、階段の手前で、気づいた。
気づいてから、一つ、決めた。
昨夜、渡り廊下の向こうで聞いた、二つの声のことは、今は、誰にも言わない。
根尾さんの、短くて平らな声。柔らかい、ですの、の声。お約束の品。お友達。
言えば、根尾さんがこの施設のために働いていないのかもしれない、ということが、地下の部屋の誰かに伝わる。伝われば、誰かが、それを使う。使われたものは、たいてい、使った人の思ったとおりには、転がらない。
言わずにおけば、少なくとも、私の手で、転がすことはない。
それが正しいのかどうかは、分からなかった。
分からないまま、言わないことを、選んだ。
正しい答えを聞いて、違う方へ座る。
今朝は、まだ、正しい答えすら、聞いていなかった。聞く相手が、圏外の向こうにいた。
階段は、狭かった。一人ずつしか降りられなかった。鈴無さんが、玖渚さんを背負って、いちばん先に降りた。彼が、その後に続いた。宇瀬さんが、その後ろについた。
私が最後だった。
階段を降りる前に、一度だけ、上を見た。
廊下の天井の隅に、小さなカメラがあった。あの扉の上のものと、同じ形だった。赤い光が、一つ点いていた。
この施設では、廊下という廊下が、見られている。昨夜、渡り廊下で会った人も、兎吊木さんの扉の前で立ち止まった私も、たぶん、どこかの画面に映っていた。
映っていたものを、誰が見ているのか。
見ている人がいるなら、昨夜、あの扉の前を誰が通ったのかも、知っているはずだった。知っているはずの人が、何も言わずに、私たちを地下へ降ろしている。
言わないのか。言えないのか。
どちらにしても、カメラは、見たものを、見たまま黙っている。
黙っているものを、私は、少しだけ睨んだ。睨んでも、赤い光は、瞬きもしなかった。
最後に降りる私の、一段下を、宇瀬さんが歩いていた。
階段の途中で、宇瀬さんが、振り返らずに言った。
「博士は」
小さな声だった。
「昔は、ああではありませんでした」
私は、足を止めなかった。
「ああ、とは」
「人を、材料で見る方ではなかった、という意味です。……少なくとも、私が博士の秘書になった頃は」
宇瀬さんの肩が、少しだけ揺れた。
「天才を作る、と言い始めたのは、玖渚の家から、お金をいただくようになってからです。お金をいただくと、成果が要ります。成果が出ないと、人が材料に見えてくる。……私は、それを、ずっと隣で見ていました」
隣で、見ていた。
この人も、誰かの隣に座っている人だった。
「志人くんは」
宇瀬さんは、階段を一段降りてから、言葉を足した。
「博士が、ああなる前を、知りません。……あの子が来た時には、博士は、もう、人を材料で見る方でした。だから、あの子は、博士のことを、最初から、少しも信じていません。信じていないから、私の方を、見ているんです」
宇瀬さんの声が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。
「私は、昔の博士を、知っています。知っているから、まだ、隣にいます。……あの子は、私が隣にいるから、ここにいます」
隣にいる理由が、二人とも、違う。
違う理由で、同じ場所に、座っている。
「それは、苦しくはないのですか」
訊いてから、余計なことを訊いたと思った。
宇瀬さんは、振り返らなかった。
「苦しいのかどうかは、考えないことにしています。……考える前に、明日の予定表を、見ますから」
「どうして、それを私に」
「あなたが、凡庸だと言われたからです」
宇瀬さんは、階段の最後の段で、足を止めた。
振り返った。
ひびの入った眼鏡の奥の目が、私を見た。
「博士は、凡庸な人間に、何も期待しません。期待しない人間の前では、何も隠しません。……だから、あなたは、たぶん、この施設で一番、博士の本当の顔を見ることになります」
宇瀬さんは、それだけ言って、地下の廊下の先へ歩いていった。
期待されない人間は、何も隠されない。
高校の三年間、私は、期待されることばかりを求めていた。期待されて、その期待に応えて、また期待される。その繰り返しが、自分の値打ちだと思っていた。
期待されないことにも、使い道がある。
それを、私は、この地下の階段で、初めて知った。
宇瀬さんの背中を追って、最後の段を、降りた。
地下の廊下は、上の廊下より、天井が低かった。
蛍光灯が、一本おきに、点いていた。点いている灯りと、消えている灯りが、交互に、廊下の奥へ続いていた。
廊下のいちばん奥に、鉄の扉があった。
扉の横に、宇瀬さんが立っていた。鍵の束を、握っていた。
握った手の、指の関節が、白くなっていた。
宇瀬さんは、扉を開けた。
開けて、私たちを、一人ずつ、中へ通した。
鈴無さんと玖渚さん。彼。私。
最後に私が通る時、宇瀬さんは、ほんの少しだけ、目を伏せた。
「……申し訳ありません」
小さな声だった。
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。私たちにか。博士にか。それとも、壁に広げられた形にか。
分からないまま、私は、扉の内側に入った。
扉が、閉まった。
鍵の回る音が、した。
外から、鍵をかけられた扉は、少なくとも、鍵がどこにあるのかを、はっきりさせてくれる。
鍵は、宇瀬さんの手の中にあった。
指の関節を、白くして、握られていた。
鉄の扉の内側は、コンクリートの箱だった。
窓は、なかった。天井に、蛍光灯が一本だけ、点いていた。
鈴無さんが、玖渚さんを、古い寝台の一つに下ろした。
彼は、扉の横の壁に、背中を預けた。
私は、部屋の真ん中に、立っていた。
立ったまま、扉を見ていた。内側には、取っ手が、なかった。
取っ手のない扉を、内側から見たのは、初めてだった。
外側からしか開かない扉の内側で、私は、まだ、座っていなかった。
座る場所を、探していた。
寝台は二つ。椅子は二つ。机が一つ。
座る場所は、四つあった。私たちは、四人だった。
施設の人間は、今朝、一人足りなかった。この部屋の椅子は、一つも足りなくなかった。
数が、合っていた。合っていることが、少しだけ、気味が悪かった。最初から、四人を入れるために用意された部屋のように見えた。
用意した人は、たぶん、昨日の夕方には、もう、今朝のことを考えていた。
考えていた人の顔は、この部屋からは見えなかった。見えないまま、四つのうちの一つに、座ることになる。どれに座るのかだけは、自分で選べる。選べるものが、一つだけ残っていた。