閉じ込められる、ということには、二つの種類がある。
鍵をかけられることと、鍵の場所を忘れることだ。
前者は、扉の外の誰かが決める。後者は、扉の内側の自分が決める。高校の三年間、私が閉じ込められていたのは、たぶん、後者の方だった。
地下の部屋には、前者の鍵がかかっていた。
かかっていたけれど、私は、少しだけ、ほっとしていた。
鍵の場所が、扉の外にあると分かっているだけ、迷わずに済む。
扉の向こうで、
「五時間です」
鉄の扉越しの声は、少しだけ、くぐもっていた。
「博士が、警察を呼ぶまでに、五時間かかります。……書類を、揃えますので」
「書類」
彼が、扉に向かって、訊き返した。
宇瀬さんは、答えなかった。
答えないまま、足音が、遠ざかっていった。
規則正しい足音だった。毎日、同じ廊下を通っている人の足音だった。今日だけは、少しだけ、速かった。速い足音は、遠ざかるのも、早かった。
書類を揃える。
警察を呼ぶのに、書類は要らない。要るのは、呼ぶ前に、話を一つにまとめておく時間だ。誰が、いつ、どこで、何をしたのか。まとめた話を、紙にして、最初に警察へ渡す。最初に渡された紙は、後から来た紙より、ずっと重い。
五時間で、私たちが犯人になる紙が、出来上がる。
「でっち上げ、ね」
寝台が、鈴無さんの重さで、大きく軋んだ。
「アタシ、ああいうのが一番嫌いなのよ。人を材料にする奴と、話を材料にする奴。あの爺さん、両方だわよ」
膝に顎を乗せて、壁を見ていた。
青い目が、壁の一点から、動かなかった。
彼は、扉の横の壁に、背中を預けて立っていた。
私は、机の椅子に座った。
座ってから、気づいた。この部屋で、座っているのは、私と鈴無さんと玖渚さんだった。立っているのは、彼だけだった。
「座らないの」
「座ると、立てなくなる気がする」
「立っていても、何もできないでしょう」
「何もできないから、立ってるんだよ。座ったら、何もできないことを、認めることになる」
私は、椅子の背にもたれなかった。
もたれないまま、彼を見た。
高校の時、あの人に言われたことを、思い出していた。
《始まる前に降りる奴が一番多い。座ったのに、座ってねえふりをする》
彼は、座らないことで、降りないふりをしているように見えた。
私は、それを、口には出さなかった。
一時間が経った。
誰も、喋らなかった。
蛍光灯が、小さく鳴っていた。じじ、という音が、一定の間隔で続いた。スマートフォンは、部屋の枕元に置いてきた。時計がないので、その音を数えていた。数えるのを途中でやめて、また最初から数えた。
「すずちゃん」
不意に、玖渚さんが言った。
壁を見たままだった。
「さっちゃんと、話したでしょ。夜に」
私は、玖渚さんを見た。
「……どうして」
「さっちゃんの部屋の前のカメラ、僕様ちゃん、見えるの。見えるようにしたの、昔」
カメラ。赤い光が一つだけ点いていた、あのカメラ。
「声は、聞こえないけど。すずちゃんが、扉の前に立って、ずっと動かなかったのは、見えた」
「見ていたのね」
「見てた。……さっちゃん、何て言ってた?」
答えるべきか、迷った。
迷ってから、答えた。この子は、言いたくない顔は調べない、と言った。私は、言いたくない顔をしていなかった。
「壊すのが専門だと。私は壊れない、と」
玖渚さんの肩が、ほんの少しだけ、揺れた。
笑ったのだと、遅れて分かった。
「さっちゃんが、褒めたんだ」
「褒められたの」
「さっちゃんが人を褒めるの、すごく珍しいんだよ。僕様ちゃんの《仲間》の中でも、さっちゃんに褒められたこと、ある人いないもん。……いーちゃんも、ないよ」
壁際で、彼が、小さく咳払いをした。
玖渚さんは、それを無視した。
「すずちゃん、チームに入れてあげてもいいよ」
「チーム」
「僕様ちゃんの、昔の《仲間》。今は、もうないけど。……あ、すずちゃん、パソコン、使えないでしょ」
「人並みには」
「人並みは、使えないって言うの。僕様ちゃんの基準では」
玖渚さんは、膝から顎を上げた。
上げて、私の方を向いた。
「じゃあ、席だけ。席だけ、あげる」
「いーちゃんから聞いたよ。すずちゃんが隣に座ってた人。デッドレッド、って、いーちゃんが付けたんでしょ」
玖渚さんは、私を見たまま、指で空中に何か書いた。
「僕様ちゃんは、デッドブルー。……青と赤で、お揃いだね。お揃いの人の隣に座ってた子だから、席、あげるの」
あの人が、自分に付いた名前を聞いたら、何と言うだろうと思った。たぶん、何も言わない。
席だけ。
何もしない人間に、席だけをくれる。それは、名誉なのか、哀れみなのか。
「何もできない人間に、席をくれるの」
「何もできないのに、座ってる人だから、あげるの。何かできる人は、席がなくても、勝手にどこかに座るもん」
玖渚さんは、また、膝を抱えた。
「僕様ちゃん、一人じゃ、階段も昇れないの。何でもできるのに、何にもできない。……すずちゃんは、何にもできないのに、どこにでも座れる。ずるいなー」
ずるい、と、この子は、昨日も言った。
昨日のずるいは、線の向こう側の話だった。今日のずるいは、線のこちら側の話だった。
私は、どう返せばいいのか、分からなかった。
分からないまま、こう言った。
「あなたは、いつから、彼の隣にいるの」
訊いてから、余計なことを訊いたと思った。
玖渚さんは、気にした様子もなく、指を折った。
「僕様ちゃんが十三で、いーちゃんが十四の時。……中学二年生の、いーちゃん。半年だけ、一緒にいたの」
「半年」
「半年。それから、いーちゃんは、外国に行っちゃった。僕様ちゃんの家と、喧嘩して。一人で、僕様ちゃんの家全部と、喧嘩したの。勝てるわけないのに」
勝てるわけがない。
あの日、非常階段で、私は、あの人に言った。勝てるわけがない、と。
「勝てなかったの」
「勝てなかったよ。負けて、外国の研究所に行かされたの。五年も。……五年経って、帰ってきて、また僕様ちゃんの隣に来てくれたの」
玖渚さんは、膝を抱え直した。
「来てくれた、のかな。来させちゃった、のかな。僕様ちゃんにも、よく分かんないの。いーちゃんが隣にいないと、僕様ちゃん、ご飯も食べられないし、階段も昇れないし。……いーちゃんが隣にいるのは、いーちゃんのためなのか、僕様ちゃんのためなのか」
《付き添うから友達なのか、友達だから付き添うのか、ぼくにはもう分からない》
六月の大教室で、彼は、そう言った。
同じことを、この子も、分からないでいた。
隣同士に座っている二人が、同じことを、それぞれ分からないでいる。
隣、というのは、もしかすると、分からないことを、二人で分け持つ場所なのかもしれなかった。
「私も、あなたがずるいと思うわ」
「どうして?」
「何でもできるのに、何もできないふりをして、隣に座っている人がいるから」
壁際の彼を、私は、見なかった。
玖渚さんは、しばらく、私を見ていた。
まばたきを、一度もしなかった。
それから、にっこりと笑った。
「うにー。すずちゃん、意地悪」
「意地悪ではないわ。正確なだけ」
「正確なのを、意地悪って言うの。僕様ちゃんの基準では」
言われる側に回ると、意地悪というのは、相手の一番柔らかいところを、正確に指さすことなのだと分かった。
二時間が過ぎた頃、扉の鍵が回った。
入ってきたのは、
後ろに、
博士は、部屋の真ん中まで歩いてきた。
立ったまま、玖渚さんを見下ろした。
「お嬢様。書類は、まもなく揃います」
「そう」
玖渚さんは、膝を抱えたまま、博士を見上げなかった。
「揃う前に、一つ、お伺いしておきたい」
「なーに」
「お嬢様は、いつまで、その男の隣におられるおつもりですかな」
博士の目が、彼を見た。
一瞬だけ見て、すぐに、玖渚さんに戻った。見る価値もない、という戻り方だった。
「天才というものは、天から与えられる。与えられた者は、与えられた分だけ、使わねばならない。使わない天才は、天への冒涜だ。……お嬢様は、玖渚の家を捨て、仲間を捨て、その凡人の隣で、何をしておられる。お嬢様の頭の中にあるものを、腐らせておられるだけではないか」
玖渚さんは、答えなかった。
「お嬢様のような頭は、私の手にあれば、いくらでも使い道があった。玖渚の家が、それを許さなかった。許さなかったせいで、お嬢様は、こんな男の腕にしがみついて、一人で階段も昇れない人形に」
彼が、壁から背を離した。
離した、と思った次の瞬間には、彼は、博士の白衣の襟を掴んでいた。
速かった。
大教室で、いつも一つ空けた席に座っている男の動きとは、思えなかった。
「取り消してください」
低い声だった。
彼の声で、こんなに低い声を、私は聞いたことがなかった。
「友のことを、人形と言ったのを。今すぐ」
博士は、襟を掴まれたまま、笑った。
「ほう。凡人にも、怒る機能はついているのか」
彼の手に、力が入った。
博士の踵が、少しだけ浮いた。
扉の外で、根尾さんが、一歩、中へ入ってきた。
その時だった。
「はい、そこまで」
鈴無さんが、立ち上がっていた。
寝台が、大きく軋んだ。
鈴無さんは、彼と博士の間に、すっと手を差し入れた。差し入れただけだった。力を入れたようには見えなかった。見えなかったのに、彼の手が、博士の襟から離れた。
「あんたね」
鈴無さんは、彼を見下ろした。
「怒るのは、いいの。怒るべき時に怒らない男より、ずっとましだわよ。でもね、今ここでその爺さんを殴ったら、あんたは、爺さんの書類に、一行、書き足してあげることになるの。《玖渚の娘の連れの男が、博士に暴行》。……その一行で、あおちゃんが、どれだけ不利になるか、分かってる?」
彼は、答えなかった。
答えずに、拳を、ゆっくりと開いた。
「分かってるなら、いいわ。分かってて殴りかかったなら、なおさら、説教が要るけどね。それは、ここを出てから、たっぷりしてあげる」
鈴無さんは、博士の方を向いた。
「それから、あんた」
博士の目が、鈴無さんを見上げた。見上げるしかなかった。
「アタシは、聞く耳のない相手には、説教しない主義なの。だから、あんたには、何も言わない。……何も言わないのが、一番きつい説教だってことくらいは、分かるわよね、天才なんだから」
博士は、しばらく、鈴無さんを見上げていた。
それから、白衣の襟を、直した。
直しながら、部屋を出ていった。
扉が閉まった。鍵が回った。
部屋の中に、蛍光灯の音だけが戻ってきた。
玖渚さんは、最初から最後まで、膝を抱えたまま、壁を見ていた。
壁を見たまま、小さく、うにー、と言った。
それが、ありがとう、の意味なのかどうかは、分からなかった。
彼は、また、壁に背を預けていた。
さっきより、少しだけ、背中が丸かった。
鈴無さんは、寝台に座り直して、腕を組んでいた。
それから、私の方を見た。
「あんたは」
「……私、ですか」
「あんたは、さっき、立たなかったわね」
私は、椅子に座ったままだった。
彼が博士の襟を掴んだ時も。根尾さんが入ってきた時も。鈴無さんが立ち上がった時も。私は、椅子から、腰を浮かさなかった。
「立てなかったんです」
「嘘おっしゃい。あんたの膝、一度も震えてなかったわよ。アタシ、そういうのは見てるの」
鈴無さんは、少しだけ、目を細めた。
「立ったところで、何もできないって、分かってたんでしょ。分かってて、座ってた。座って、全部見てた。……あの子みたいに、カッとなって手を出すんでもなく、アタシみたいに、割って入るんでもなく」
「何も、していません」
「そうね。何もしてない」
鈴無さんは、腕をほどいた。
「あんた、説教しがいのない子ね。言う前に、もう座ってる」
褒められたのか、呆れられたのか、分からなかった。
分からなかったけれど、鈴無さんの声は、さっき彼に向けた声とも、博士に向けた声とも違った。
「座ってるのはね、楽じゃないのよ。立って何かする方が、ずっと楽。何かしてる間は、自分が何もできないってことを、忘れられるから」
鈴無さんは、壁際の彼を、顎で示した。
「あの子は、それを忘れたくて立ってるの。あんたは、忘れないために座ってる。……どっちがいいとは言わないわ。ただ、アタシは、座ってる方に説教する気にはならない」
彼が、壁際で、何か言いかけた。
言いかけて、やめた。
やめた口元が、少しだけ笑っていた。
「それから、あんたもよ」
鈴無さんの目が、壁際の彼に移った。
「さっき、ここを出てから説教してあげるって言ったけど、気が変わったわ。今するわよ。まだ、時間はあるんだから」
彼は、壁に背中を預けたまま、首をすくめた。
「お手柔らかに」
「お手柔らかにされたいなら、最初から、手を出さないことね」
鈴無さんは、寝台の上で、脚を組み直した。
「あんたさ、さっき爺さんに、凡人って言われたでしょ。言われて、怒った。……怒ったのは、あおちゃんのことを人形って言われたからよね。自分が凡人って言われたことには、少しも怒らなかった」
「凡人なのは、本当のことですから」
「それよ」
鈴無さんの声が、低くなった。
「あんたは、いつもそう。自分のことを、欠陥品だの、凡人だの、何の役にも立たないだのって、先に言っておく。先に言っておけば、人に言われても、痛くないから。……そうやって自分を下げておいて、あんたに、何の得があるの」
彼は、答えなかった。
「得なんか、ないのよ。下げた分だけ、あおちゃんが、あんたを持ち上げなきゃいけなくなるだけ。あんたが自分を下げるたびに、あおちゃんの腕が、一本ずつ、あんたを支えるのに取られていくの。……一人じゃ階段も昇れない子の腕を、あんたは、自分を下げることで、使わせてるのよ」
玖渚さんは、膝を抱えたまま、壁を見ていた。
見ているのに、聞いていた。
肩が、ほんの少しだけ、強ばっていた。
彼は、長いあいだ、黙っていた。
それから、小さく言った。
「……気に食わない、ですか」
「気に食わないわよ。すごく」
鈴無さんは、腕を組んだ。
「でもね、アタシが気に食わないのは、あんたが凡人だってことじゃないの。凡人のくせに、凡人であることから、逃げてることよ。凡人なら、凡人らしく、自分の足で立ちなさい。凡人の足は、凡人一人分くらいなら、ちゃんと支えられるようにできてるんだから」
凡人の足は、凡人一人分を支えられる。
私は、その言葉を、胸の中で繰り返した。
斜道博士に、凡庸だと言われた。言われて、腹は立たなかった。腹が立たなかったのは、自分でも、そう思っていたからだ。
思っていて、それで、どうしていたのだろう。
凡庸な自分を、凡庸なまま、座らせていたのだろうか。それとも、凡庸であることを、言い訳にしていたのだろうか。
「……分かりました」
彼が、言った。
「分かってないでしょ」
「分かってません」
「よろしい。分かってないって言える分だけ、まだましだわよ」
鈴無さんは、それで、説教を終えた。
終えたあとで、寝台に、仰向けに倒れた。寝台が、悲鳴のような音を立てた。
「あー、すっきりした。説教のあとは、お腹が空くわね。……あんたたち、ここを出たら、何か奢りなさいよ。アタシ、説教一回につき、晩飯一回なの」
晩飯一回。
六月、赤い人も、仕事の報酬を、そう数えていた。
この人たちは、人の重さを、食事の回数で量る。量られた方は、たぶん、少しだけ、軽くなる。
二時間半が過ぎた頃、扉の下の方で、小さな音がした。
鉄の扉の、床に近いところに、細長い蓋がついていた。食事を差し入れるための口だった。入った時には、気づかなかった。気づかなかったものが、外から開けられた。
蓋の向こうから、水のペットボトルが四本、一本ずつ、押し込まれてきた。
押し込んだ手は、男の子の手だった。指の節が細かった。袖口に、昨夜の夕食の席で見た、白衣の端が見えた。
「……大垣くん」
私は、蓋の前にしゃがんだ。
手が、止まった。
止まって、引っ込みかけた。
「水、ありがとう」
「礼なんか言うな」
蓋の向こうから、低い声がした。低くしようとして、低くなりきれていない声だった。
「博士に言われたんじゃない。美幸さんにも言ってねえ。俺が勝手に持ってきた。五時間、水もなしじゃ、警察が来た時に、お前らが倒れてたら面倒だろ」
面倒だから、と大垣くんは言った。
面倒だから水を持ってくる人は、面倒なことを、自分から一つ増やしている。
「宇瀬さんは、大丈夫なの」
蓋の向こうが、静かになった。
静かになって、しばらくしてから、声がした。
「……なんで、お前が、宇瀬さんのことを訊く」
「今朝、床に座り込んでいたから。眼鏡に、ひびが入っていたわ」
「見てたのか」
「見ていたわ」
大垣くんは、また黙った。
黙ったまま、蓋の縁を、指で叩いた。一度、二度。
「宇瀬さんは、泣いてない」
「そう」
「泣いてないんだよ。美幸さんは、泣かない。泣く前に、博士の予定表を見る。次に何をしなきゃいけないかを、先に考える。……考えてる間は、泣かなくて済むから」
考えている間は、泣かなくて済む。
立って何かしている間は、自分が何もできないことを忘れられる、と鈴無さんはさっき言った。宇瀬さんは、立つ代わりに、予定表を見ている。
「あなたは、それを、隣で見ているのね」
「隣じゃねえよ」
即答だった。
「俺は、助手だ。博士の助手。宇瀬さんは、秘書。席が違う。隣なんかじゃない」
この子の呼び方は、宇瀬さん、と、美幸さん、のあいだで、ときどき揺れた。
隣ではない、と言う声が、少しだけ大きかった。
大きい声で否定されるものは、たいてい、否定されたい形をしている。
「……美幸さんが言った五時間は、美幸さんが決めた数字じゃない」
不意に、大垣くんが言った。
「博士が決めた。書類は、たぶん、もっと早く揃う。揃っても、五時間、待たせる。待たせて、お前らが、何か喋るのを待ってる。……壁に、耳はないけどな。扉には、ある」
扉の、外側に。
私は、扉の上の方を見た。中からは、何も見えなかった。見えないところに、何かがあるのかもしれなかった。
「どうして、それを教えるの」
「教えてねえよ。独り言だ」
独り言。
昨日から数えて、二人目だった。独り言だと言いながら届く声で言う人と、独り言だと言って教える人。
蓋が、閉まった。
足音が、遠ざかっていった。急いでいる足音だった。急いで、誰かのところへ戻っていく足音だった。
私は、ペットボトルを四本、抱えて立ち上がった。
一本を鈴無さんに、一本を玖渚さんに渡した。三本目を、壁際の彼に差し出した。
彼は、受け取って、少しだけ笑った。
「君が、渡すんだね」
「渡されたものを、渡しているだけよ」
昨日、サービスエリアで、彼が玖渚さんにしていたことだった。
渡す人と、渡される人と、渡されたものをそのまま渡す人。三つのうちのどれになるのかは、手の中に何が来るかで決まる。私の手の中には、今日、四本の水が来た。
自分の分の蓋を開けて、一口飲んだ。
ぬるかった。冷蔵庫から出したものではなく、どこかの棚から、急いで取ってきた水だった。
急いで取ってきた水の温度を、私は、少しだけ長く、口の中に置いていた。
「すずちゃん」
寝台の上から、玖渚さんが言った。
「しーくん、何て言ってた?」
しーくん。大垣くんのことらしかった。この子は、人の名前を、好きなところで切る。
「五時間は、博士が決めた数字だ、と。扉には耳がある、と」
玖渚さんは、壁を見たまま、うにー、と言った。
それから、小さく、付け足した。
「しーくんとみーちゃん、付き合ってるの。隠してるつもりなの、二人とも」
みーちゃん。宇瀬美幸さん。
隣ではない、と言った声の大きさを、私は、思い出した。
「隠しているのに、どうしてあなたが知っているの」
「調べてないよ? 見れば分かるもん」
調べなくても、見れば分かる。
見れば分かることを、本人たちだけが、隠せていると思っている。
私は、自分の手の中のペットボトルを見た。ぬるい水が、半分だけ残っていた。
見れば分かることを、本人だけが知らない人間は、たぶん、ここにも一人いる。
誰のことなのかは、考えないことにした。
扉の上の、見えない耳のことを考えた。ここで喋ったことは、全部、博士のところへ行く。この子は、それを知っていて、大垣くんのことを口にしたように見えた。
三時間が過ぎかけた頃、私は、椅子を立った。
立って、壁際の彼の横まで歩いた。一つ空けずに、すぐ横に立った。扉の外の耳に届かない声で話すには、その距離しかなかった。
一つ空けない場所に立つのは、澄百合以来だった。あの時は、廊下が狭かった。今は、声を小さくしなければならなかった。理由がある時だけ、私は、一つ空けずに済む。
理由がなくなったら、また、一つ空ける。
そう決めてから、私は、彼に、昨夜のことを話した。
渡り廊下で会った、黒い服の女の人のこと。
それから、今朝、廊下に、
彼は、黙って聞いていた。
聞き終えて、しばらく、何も言わなかった。
それから、玖渚さんの方を、ちらりと見た。
玖渚さんは、壁を見ていた。
壁を見たまま、ほんの少しだけ、首を傾げた。
傾げただけだった。
それだけで、彼は、何かを受け取ったように見えた。受け取ったものが何なのか、私には分からなかった。
この二人の間には、言葉より先に渡るものがある。
隣、というのは、たぶん、そういう場所だ。言葉を使わなくても、首の傾きで話が済む距離。
私の隣には、今、誰も座っていない。
「あなたは、今朝、伝わった、と言ったわね」
「言ったね」
「何が伝わったの」
彼は、私を見た。
いつもの顔だった。何も持っていない顔。何も持っていないふりをしている顔。
「君は、何が伝わったと思う?」
質問に、質問で返された。
昨夜、兎吊木さんにもされた。先月、私が
質問に質問で返す人間は、答えを持っていないのではない。答えを、相手に持たせたいのだ。
私は、壁の人のことを考えた。
顔のない顔。手のない腕。
それから、昨夜の、つるつるした石のような声のことを。
「……まだ、言わないわ」
「どうして」
「言ったら、あなたが、何かを決めなければならなくなる気がするから」
彼は、少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくりと、笑った。
「君は、本当に、何もしないね」
「何もできないのよ」
「違うよ。何もしないんだ。……それは、時々、何かするより、ずっと難しい」
彼は、壁から背を離した。
離して、初めて、床に腰を下ろした。
座った。
床だった。四つあった席の、どれでもなかった。用意された数は、最後まで、一つ余った。
四時間が過ぎた頃、扉の向こうで、音がした。
鍵の回る音ではなかった。
もっと細い、金属同士がこすれ合う音だった。鍵穴の中で、何かが、探るように動いている音。
かち、と、小さく鳴った。
扉が、内側に向かって、少しだけ開いた。
隙間から、黒い服の袖が見えた。
「ごきげんよう、皆さま」
柔らかい声だった。
昨夜、渡り廊下の緑の灯りの中で聞いた声だった。
「お待たせいたしましたわ。……あら、昨夜お会いした方も、いらっしゃいますのね」
その人は、扉を大きく開けて、中に入ってきた。
手に、細い金属の棒を二本持っていた。持っていたと思ったら、次の瞬間には、もう、どこにもなかった。どこへしまったのか、見えなかった。
どこからか取り出して、どこかへしまう。
先月、澄百合の門の脇で、赤い人が、どこからか取り出した鍵で通用口を開けた。
その時、私は、どこから取り出したのかを、訊かなかった。
今も、訊かなかった。
「皆さま、お揃いで。十全ですわ。……改めまして」
その人は、胸に手を当てた。
「わたくしは、
石丸小唄。
借り物の名前を、返した。
零崎愛識は、借り物だった。
私は、自分の胸の中で、何かが、ほどけるのを感じた。ほどけたものが何なのか、すぐには分からなかった。分かったのは、少し遅れてからだった。
愛識が借り物なら、愛織とは、関係がない。
関係がないことに、私は、安心していた。
安心してしまったことが、少しだけ、悔しかった。
「わたくし、大泥棒ですの」
石丸さんは、楽しそうに言った。
「この施設に、お友達を盗みに来たのですけれど、お友達が、どうやら先に、お出かけになってしまったみたいで。……戯言遣いさん。あなたに、お手伝いいただきたいことがございますの」
彼は、床に座ったまま、石丸さんを見上げた。
「何を」
「推理ですわ」
石丸さんは、にっこりと笑った。
「とびきり、穴だらけの推理を」
穴だらけ、という言葉が、なぜか、少しだけ、頼もしく聞こえた。