ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第17話 監禁(換金)

閉じ込められる、ということには、二つの種類がある。

 

鍵をかけられることと、鍵の場所を忘れることだ。

 

前者は、扉の外の誰かが決める。後者は、扉の内側の自分が決める。高校の三年間、私が閉じ込められていたのは、たぶん、後者の方だった。

 

地下の部屋には、前者の鍵がかかっていた。

 

かかっていたけれど、私は、少しだけ、ほっとしていた。

 

鍵の場所が、扉の外にあると分かっているだけ、迷わずに済む。

 

 

 

 

 

扉の向こうで、宇瀬(うぜ)さんの声がした。

 

「五時間です」

 

鉄の扉越しの声は、少しだけ、くぐもっていた。

 

「博士が、警察を呼ぶまでに、五時間かかります。……書類を、揃えますので」

 

「書類」

 

彼が、扉に向かって、訊き返した。

 

宇瀬さんは、答えなかった。

 

答えないまま、足音が、遠ざかっていった。

 

規則正しい足音だった。毎日、同じ廊下を通っている人の足音だった。今日だけは、少しだけ、速かった。速い足音は、遠ざかるのも、早かった。

 

書類を揃える。

 

警察を呼ぶのに、書類は要らない。要るのは、呼ぶ前に、話を一つにまとめておく時間だ。誰が、いつ、どこで、何をしたのか。まとめた話を、紙にして、最初に警察へ渡す。最初に渡された紙は、後から来た紙より、ずっと重い。

 

五時間で、私たちが犯人になる紙が、出来上がる。

 

「でっち上げ、ね」

 

鈴無(すずなし)さんが、寝台の端に腰を下ろした。

 

寝台が、鈴無さんの重さで、大きく軋んだ。

 

「アタシ、ああいうのが一番嫌いなのよ。人を材料にする奴と、話を材料にする奴。あの爺さん、両方だわよ」

 

玖渚(くなぎさ)さんは、もう一つの寝台に、膝を抱えて座っていた。

 

膝に顎を乗せて、壁を見ていた。

 

青い目が、壁の一点から、動かなかった。

 

彼は、扉の横の壁に、背中を預けて立っていた。

 

私は、机の椅子に座った。

 

座ってから、気づいた。この部屋で、座っているのは、私と鈴無さんと玖渚さんだった。立っているのは、彼だけだった。

 

「座らないの」

 

「座ると、立てなくなる気がする」

 

「立っていても、何もできないでしょう」

 

「何もできないから、立ってるんだよ。座ったら、何もできないことを、認めることになる」

 

私は、椅子の背にもたれなかった。

 

もたれないまま、彼を見た。

 

高校の時、あの人に言われたことを、思い出していた。

 

《始まる前に降りる奴が一番多い。座ったのに、座ってねえふりをする》

 

彼は、座らないことで、降りないふりをしているように見えた。

 

私は、それを、口には出さなかった。

 

 

 

 

 

一時間が経った。

 

誰も、喋らなかった。

 

蛍光灯が、小さく鳴っていた。じじ、という音が、一定の間隔で続いた。スマートフォンは、部屋の枕元に置いてきた。時計がないので、その音を数えていた。数えるのを途中でやめて、また最初から数えた。

 

「すずちゃん」

 

不意に、玖渚さんが言った。

 

壁を見たままだった。

 

「さっちゃんと、話したでしょ。夜に」

 

私は、玖渚さんを見た。

 

「……どうして」

 

「さっちゃんの部屋の前のカメラ、僕様ちゃん、見えるの。見えるようにしたの、昔」

 

カメラ。赤い光が一つだけ点いていた、あのカメラ。

 

「声は、聞こえないけど。すずちゃんが、扉の前に立って、ずっと動かなかったのは、見えた」

 

「見ていたのね」

 

「見てた。……さっちゃん、何て言ってた?」

 

答えるべきか、迷った。

 

迷ってから、答えた。この子は、言いたくない顔は調べない、と言った。私は、言いたくない顔をしていなかった。

 

「壊すのが専門だと。私は壊れない、と」

 

玖渚さんの肩が、ほんの少しだけ、揺れた。

 

笑ったのだと、遅れて分かった。

 

「さっちゃんが、褒めたんだ」

 

「褒められたの」

 

「さっちゃんが人を褒めるの、すごく珍しいんだよ。僕様ちゃんの《仲間》の中でも、さっちゃんに褒められたこと、ある人いないもん。……いーちゃんも、ないよ」

 

壁際で、彼が、小さく咳払いをした。

 

玖渚さんは、それを無視した。

 

 

 

「すずちゃん、チームに入れてあげてもいいよ」

 

 

 

「チーム」

 

「僕様ちゃんの、昔の《仲間》。今は、もうないけど。……あ、すずちゃん、パソコン、使えないでしょ」

 

「人並みには」

 

「人並みは、使えないって言うの。僕様ちゃんの基準では」

 

玖渚さんは、膝から顎を上げた。

 

上げて、私の方を向いた。

 

「じゃあ、席だけ。席だけ、あげる」

 

「いーちゃんから聞いたよ。すずちゃんが隣に座ってた人。デッドレッド、って、いーちゃんが付けたんでしょ」

 

玖渚さんは、私を見たまま、指で空中に何か書いた。

 

「僕様ちゃんは、デッドブルー。……青と赤で、お揃いだね。お揃いの人の隣に座ってた子だから、席、あげるの」

 

あの人が、自分に付いた名前を聞いたら、何と言うだろうと思った。たぶん、何も言わない。

 

席だけ。

 

何もしない人間に、席だけをくれる。それは、名誉なのか、哀れみなのか。

 

「何もできない人間に、席をくれるの」

 

「何もできないのに、座ってる人だから、あげるの。何かできる人は、席がなくても、勝手にどこかに座るもん」

 

玖渚さんは、また、膝を抱えた。

 

「僕様ちゃん、一人じゃ、階段も昇れないの。何でもできるのに、何にもできない。……すずちゃんは、何にもできないのに、どこにでも座れる。ずるいなー」

 

ずるい、と、この子は、昨日も言った。

 

昨日のずるいは、線の向こう側の話だった。今日のずるいは、線のこちら側の話だった。

 

私は、どう返せばいいのか、分からなかった。

 

分からないまま、こう言った。

 

「あなたは、いつから、彼の隣にいるの」

 

訊いてから、余計なことを訊いたと思った。

 

玖渚さんは、気にした様子もなく、指を折った。

 

「僕様ちゃんが十三で、いーちゃんが十四の時。……中学二年生の、いーちゃん。半年だけ、一緒にいたの」

 

「半年」

 

「半年。それから、いーちゃんは、外国に行っちゃった。僕様ちゃんの家と、喧嘩して。一人で、僕様ちゃんの家全部と、喧嘩したの。勝てるわけないのに」

 

勝てるわけがない。

 

あの日、非常階段で、私は、あの人に言った。勝てるわけがない、と。

 

「勝てなかったの」

 

「勝てなかったよ。負けて、外国の研究所に行かされたの。五年も。……五年経って、帰ってきて、また僕様ちゃんの隣に来てくれたの」

 

玖渚さんは、膝を抱え直した。

 

「来てくれた、のかな。来させちゃった、のかな。僕様ちゃんにも、よく分かんないの。いーちゃんが隣にいないと、僕様ちゃん、ご飯も食べられないし、階段も昇れないし。……いーちゃんが隣にいるのは、いーちゃんのためなのか、僕様ちゃんのためなのか」

 

《付き添うから友達なのか、友達だから付き添うのか、ぼくにはもう分からない》

 

六月の大教室で、彼は、そう言った。

 

同じことを、この子も、分からないでいた。

 

隣同士に座っている二人が、同じことを、それぞれ分からないでいる。

 

隣、というのは、もしかすると、分からないことを、二人で分け持つ場所なのかもしれなかった。

 

「私も、あなたがずるいと思うわ」

 

「どうして?」

 

「何でもできるのに、何もできないふりをして、隣に座っている人がいるから」

 

壁際の彼を、私は、見なかった。

 

玖渚さんは、しばらく、私を見ていた。

 

まばたきを、一度もしなかった。

 

それから、にっこりと笑った。

 

「うにー。すずちゃん、意地悪」

 

「意地悪ではないわ。正確なだけ」

 

「正確なのを、意地悪って言うの。僕様ちゃんの基準では」

 

言われる側に回ると、意地悪というのは、相手の一番柔らかいところを、正確に指さすことなのだと分かった。

 

 

 

 

 

二時間が過ぎた頃、扉の鍵が回った。

 

入ってきたのは、斜道(しゃどう)博士だった。

 

後ろに、根尾(ねお)さんがいた。根尾さんは、扉の外に立ったまま、中には入ってこなかった。喋らなかった。喋らない根尾さんは、門番のように見えた。

 

博士は、部屋の真ん中まで歩いてきた。

 

立ったまま、玖渚さんを見下ろした。

 

「お嬢様。書類は、まもなく揃います」

 

「そう」

 

玖渚さんは、膝を抱えたまま、博士を見上げなかった。

 

「揃う前に、一つ、お伺いしておきたい」

 

「なーに」

 

「お嬢様は、いつまで、その男の隣におられるおつもりですかな」

 

博士の目が、彼を見た。

 

一瞬だけ見て、すぐに、玖渚さんに戻った。見る価値もない、という戻り方だった。

 

「天才というものは、天から与えられる。与えられた者は、与えられた分だけ、使わねばならない。使わない天才は、天への冒涜だ。……お嬢様は、玖渚の家を捨て、仲間を捨て、その凡人の隣で、何をしておられる。お嬢様の頭の中にあるものを、腐らせておられるだけではないか」

 

玖渚さんは、答えなかった。

 

「お嬢様のような頭は、私の手にあれば、いくらでも使い道があった。玖渚の家が、それを許さなかった。許さなかったせいで、お嬢様は、こんな男の腕にしがみついて、一人で階段も昇れない人形に」

 

彼が、壁から背を離した。

 

離した、と思った次の瞬間には、彼は、博士の白衣の襟を掴んでいた。

 

速かった。

 

大教室で、いつも一つ空けた席に座っている男の動きとは、思えなかった。

 

「取り消してください」

 

低い声だった。

 

彼の声で、こんなに低い声を、私は聞いたことがなかった。

 

「友のことを、人形と言ったのを。今すぐ」

 

博士は、襟を掴まれたまま、笑った。

 

「ほう。凡人にも、怒る機能はついているのか」

 

彼の手に、力が入った。

 

博士の踵が、少しだけ浮いた。

 

扉の外で、根尾さんが、一歩、中へ入ってきた。

 

その時だった。

 

「はい、そこまで」

 

鈴無さんが、立ち上がっていた。

 

寝台が、大きく軋んだ。

 

鈴無さんは、彼と博士の間に、すっと手を差し入れた。差し入れただけだった。力を入れたようには見えなかった。見えなかったのに、彼の手が、博士の襟から離れた。

 

「あんたね」

 

鈴無さんは、彼を見下ろした。

 

「怒るのは、いいの。怒るべき時に怒らない男より、ずっとましだわよ。でもね、今ここでその爺さんを殴ったら、あんたは、爺さんの書類に、一行、書き足してあげることになるの。《玖渚の娘の連れの男が、博士に暴行》。……その一行で、あおちゃんが、どれだけ不利になるか、分かってる?」

 

彼は、答えなかった。

 

答えずに、拳を、ゆっくりと開いた。

 

「分かってるなら、いいわ。分かってて殴りかかったなら、なおさら、説教が要るけどね。それは、ここを出てから、たっぷりしてあげる」

 

鈴無さんは、博士の方を向いた。

 

「それから、あんた」

 

博士の目が、鈴無さんを見上げた。見上げるしかなかった。

 

「アタシは、聞く耳のない相手には、説教しない主義なの。だから、あんたには、何も言わない。……何も言わないのが、一番きつい説教だってことくらいは、分かるわよね、天才なんだから」

 

博士は、しばらく、鈴無さんを見上げていた。

 

それから、白衣の襟を、直した。

 

直しながら、部屋を出ていった。

 

扉が閉まった。鍵が回った。

 

部屋の中に、蛍光灯の音だけが戻ってきた。

 

玖渚さんは、最初から最後まで、膝を抱えたまま、壁を見ていた。

 

壁を見たまま、小さく、うにー、と言った。

 

それが、ありがとう、の意味なのかどうかは、分からなかった。

 

 

 

 

 

彼は、また、壁に背を預けていた。

 

さっきより、少しだけ、背中が丸かった。

 

鈴無さんは、寝台に座り直して、腕を組んでいた。

 

それから、私の方を見た。

 

「あんたは」

 

「……私、ですか」

 

「あんたは、さっき、立たなかったわね」

 

私は、椅子に座ったままだった。

 

彼が博士の襟を掴んだ時も。根尾さんが入ってきた時も。鈴無さんが立ち上がった時も。私は、椅子から、腰を浮かさなかった。

 

「立てなかったんです」

 

「嘘おっしゃい。あんたの膝、一度も震えてなかったわよ。アタシ、そういうのは見てるの」

 

鈴無さんは、少しだけ、目を細めた。

 

「立ったところで、何もできないって、分かってたんでしょ。分かってて、座ってた。座って、全部見てた。……あの子みたいに、カッとなって手を出すんでもなく、アタシみたいに、割って入るんでもなく」

 

「何も、していません」

 

「そうね。何もしてない」

 

鈴無さんは、腕をほどいた。

 

「あんた、説教しがいのない子ね。言う前に、もう座ってる」

 

褒められたのか、呆れられたのか、分からなかった。

 

分からなかったけれど、鈴無さんの声は、さっき彼に向けた声とも、博士に向けた声とも違った。

 

「座ってるのはね、楽じゃないのよ。立って何かする方が、ずっと楽。何かしてる間は、自分が何もできないってことを、忘れられるから」

 

鈴無さんは、壁際の彼を、顎で示した。

 

「あの子は、それを忘れたくて立ってるの。あんたは、忘れないために座ってる。……どっちがいいとは言わないわ。ただ、アタシは、座ってる方に説教する気にはならない」

 

彼が、壁際で、何か言いかけた。

 

言いかけて、やめた。

 

やめた口元が、少しだけ笑っていた。

 

「それから、あんたもよ」

 

鈴無さんの目が、壁際の彼に移った。

 

「さっき、ここを出てから説教してあげるって言ったけど、気が変わったわ。今するわよ。まだ、時間はあるんだから」

 

彼は、壁に背中を預けたまま、首をすくめた。

 

「お手柔らかに」

 

「お手柔らかにされたいなら、最初から、手を出さないことね」

 

鈴無さんは、寝台の上で、脚を組み直した。

 

「あんたさ、さっき爺さんに、凡人って言われたでしょ。言われて、怒った。……怒ったのは、あおちゃんのことを人形って言われたからよね。自分が凡人って言われたことには、少しも怒らなかった」

 

「凡人なのは、本当のことですから」

 

「それよ」

 

鈴無さんの声が、低くなった。

 

「あんたは、いつもそう。自分のことを、欠陥品だの、凡人だの、何の役にも立たないだのって、先に言っておく。先に言っておけば、人に言われても、痛くないから。……そうやって自分を下げておいて、あんたに、何の得があるの」

 

彼は、答えなかった。

 

「得なんか、ないのよ。下げた分だけ、あおちゃんが、あんたを持ち上げなきゃいけなくなるだけ。あんたが自分を下げるたびに、あおちゃんの腕が、一本ずつ、あんたを支えるのに取られていくの。……一人じゃ階段も昇れない子の腕を、あんたは、自分を下げることで、使わせてるのよ」

 

玖渚さんは、膝を抱えたまま、壁を見ていた。

 

見ているのに、聞いていた。

 

肩が、ほんの少しだけ、強ばっていた。

 

彼は、長いあいだ、黙っていた。

 

それから、小さく言った。

 

「……気に食わない、ですか」

 

「気に食わないわよ。すごく」

 

鈴無さんは、腕を組んだ。

 

「でもね、アタシが気に食わないのは、あんたが凡人だってことじゃないの。凡人のくせに、凡人であることから、逃げてることよ。凡人なら、凡人らしく、自分の足で立ちなさい。凡人の足は、凡人一人分くらいなら、ちゃんと支えられるようにできてるんだから」

 

凡人の足は、凡人一人分を支えられる。

 

私は、その言葉を、胸の中で繰り返した。

 

斜道博士に、凡庸だと言われた。言われて、腹は立たなかった。腹が立たなかったのは、自分でも、そう思っていたからだ。

 

思っていて、それで、どうしていたのだろう。

 

凡庸な自分を、凡庸なまま、座らせていたのだろうか。それとも、凡庸であることを、言い訳にしていたのだろうか。

 

「……分かりました」

 

彼が、言った。

 

「分かってないでしょ」

 

「分かってません」

 

「よろしい。分かってないって言える分だけ、まだましだわよ」

 

鈴無さんは、それで、説教を終えた。

 

終えたあとで、寝台に、仰向けに倒れた。寝台が、悲鳴のような音を立てた。

 

「あー、すっきりした。説教のあとは、お腹が空くわね。……あんたたち、ここを出たら、何か奢りなさいよ。アタシ、説教一回につき、晩飯一回なの」

 

晩飯一回。

 

六月、赤い人も、仕事の報酬を、そう数えていた。

 

この人たちは、人の重さを、食事の回数で量る。量られた方は、たぶん、少しだけ、軽くなる。

 

 

 

 

 

二時間半が過ぎた頃、扉の下の方で、小さな音がした。

 

鉄の扉の、床に近いところに、細長い蓋がついていた。食事を差し入れるための口だった。入った時には、気づかなかった。気づかなかったものが、外から開けられた。

 

蓋の向こうから、水のペットボトルが四本、一本ずつ、押し込まれてきた。

 

押し込んだ手は、男の子の手だった。指の節が細かった。袖口に、昨夜の夕食の席で見た、白衣の端が見えた。

 

「……大垣くん」

 

私は、蓋の前にしゃがんだ。

 

手が、止まった。

 

止まって、引っ込みかけた。

 

「水、ありがとう」

 

「礼なんか言うな」

 

蓋の向こうから、低い声がした。低くしようとして、低くなりきれていない声だった。

 

「博士に言われたんじゃない。美幸さんにも言ってねえ。俺が勝手に持ってきた。五時間、水もなしじゃ、警察が来た時に、お前らが倒れてたら面倒だろ」

 

面倒だから、と大垣くんは言った。

 

面倒だから水を持ってくる人は、面倒なことを、自分から一つ増やしている。

 

「宇瀬さんは、大丈夫なの」

 

蓋の向こうが、静かになった。

 

静かになって、しばらくしてから、声がした。

 

「……なんで、お前が、宇瀬さんのことを訊く」

 

「今朝、床に座り込んでいたから。眼鏡に、ひびが入っていたわ」

 

「見てたのか」

 

「見ていたわ」

 

大垣くんは、また黙った。

 

黙ったまま、蓋の縁を、指で叩いた。一度、二度。

 

「宇瀬さんは、泣いてない」

 

「そう」

 

「泣いてないんだよ。美幸さんは、泣かない。泣く前に、博士の予定表を見る。次に何をしなきゃいけないかを、先に考える。……考えてる間は、泣かなくて済むから」

 

考えている間は、泣かなくて済む。

 

立って何かしている間は、自分が何もできないことを忘れられる、と鈴無さんはさっき言った。宇瀬さんは、立つ代わりに、予定表を見ている。

 

「あなたは、それを、隣で見ているのね」

 

「隣じゃねえよ」

 

即答だった。

 

「俺は、助手だ。博士の助手。宇瀬さんは、秘書。席が違う。隣なんかじゃない」

 

この子の呼び方は、宇瀬さん、と、美幸さん、のあいだで、ときどき揺れた。

 

隣ではない、と言う声が、少しだけ大きかった。

 

大きい声で否定されるものは、たいてい、否定されたい形をしている。

 

「……美幸さんが言った五時間は、美幸さんが決めた数字じゃない」

 

不意に、大垣くんが言った。

 

「博士が決めた。書類は、たぶん、もっと早く揃う。揃っても、五時間、待たせる。待たせて、お前らが、何か喋るのを待ってる。……壁に、耳はないけどな。扉には、ある」

 

扉の、外側に。

 

私は、扉の上の方を見た。中からは、何も見えなかった。見えないところに、何かがあるのかもしれなかった。

 

「どうして、それを教えるの」

 

「教えてねえよ。独り言だ」

 

独り言。

 

昨日から数えて、二人目だった。独り言だと言いながら届く声で言う人と、独り言だと言って教える人。

 

蓋が、閉まった。

 

足音が、遠ざかっていった。急いでいる足音だった。急いで、誰かのところへ戻っていく足音だった。

 

私は、ペットボトルを四本、抱えて立ち上がった。

 

一本を鈴無さんに、一本を玖渚さんに渡した。三本目を、壁際の彼に差し出した。

 

彼は、受け取って、少しだけ笑った。

 

「君が、渡すんだね」

 

「渡されたものを、渡しているだけよ」

 

昨日、サービスエリアで、彼が玖渚さんにしていたことだった。

 

渡す人と、渡される人と、渡されたものをそのまま渡す人。三つのうちのどれになるのかは、手の中に何が来るかで決まる。私の手の中には、今日、四本の水が来た。

 

自分の分の蓋を開けて、一口飲んだ。

 

ぬるかった。冷蔵庫から出したものではなく、どこかの棚から、急いで取ってきた水だった。

 

急いで取ってきた水の温度を、私は、少しだけ長く、口の中に置いていた。

 

「すずちゃん」

 

寝台の上から、玖渚さんが言った。

 

「しーくん、何て言ってた?」

 

しーくん。大垣くんのことらしかった。この子は、人の名前を、好きなところで切る。

 

「五時間は、博士が決めた数字だ、と。扉には耳がある、と」

 

玖渚さんは、壁を見たまま、うにー、と言った。

 

それから、小さく、付け足した。

 

「しーくんとみーちゃん、付き合ってるの。隠してるつもりなの、二人とも」

 

みーちゃん。宇瀬美幸さん。

 

隣ではない、と言った声の大きさを、私は、思い出した。

 

「隠しているのに、どうしてあなたが知っているの」

 

「調べてないよ? 見れば分かるもん」

 

調べなくても、見れば分かる。

 

見れば分かることを、本人たちだけが、隠せていると思っている。

 

私は、自分の手の中のペットボトルを見た。ぬるい水が、半分だけ残っていた。

 

見れば分かることを、本人だけが知らない人間は、たぶん、ここにも一人いる。

 

誰のことなのかは、考えないことにした。

 

扉の上の、見えない耳のことを考えた。ここで喋ったことは、全部、博士のところへ行く。この子は、それを知っていて、大垣くんのことを口にしたように見えた。

 

 

 

 

 

三時間が過ぎかけた頃、私は、椅子を立った。

 

立って、壁際の彼の横まで歩いた。一つ空けずに、すぐ横に立った。扉の外の耳に届かない声で話すには、その距離しかなかった。

 

一つ空けない場所に立つのは、澄百合以来だった。あの時は、廊下が狭かった。今は、声を小さくしなければならなかった。理由がある時だけ、私は、一つ空けずに済む。

 

理由がなくなったら、また、一つ空ける。

 

そう決めてから、私は、彼に、昨夜のことを話した。

 

 

 

渡り廊下で会った、黒い服の女の人のこと。零崎愛識(ぜろざきいとしき)、と名乗ったこと。

 

兎吊木(うつりぎ)さんと、扉越しに話したこと。

 

それから、今朝、廊下に、神足(こうたり)さんがいなかったこと。

 

 

 

彼は、黙って聞いていた。

 

聞き終えて、しばらく、何も言わなかった。

 

それから、玖渚さんの方を、ちらりと見た。

 

玖渚さんは、壁を見ていた。

 

壁を見たまま、ほんの少しだけ、首を傾げた。

 

傾げただけだった。

 

それだけで、彼は、何かを受け取ったように見えた。受け取ったものが何なのか、私には分からなかった。

 

この二人の間には、言葉より先に渡るものがある。

 

隣、というのは、たぶん、そういう場所だ。言葉を使わなくても、首の傾きで話が済む距離。

 

私の隣には、今、誰も座っていない。

 

「あなたは、今朝、伝わった、と言ったわね」

 

「言ったね」

 

「何が伝わったの」

 

彼は、私を見た。

 

いつもの顔だった。何も持っていない顔。何も持っていないふりをしている顔。

 

「君は、何が伝わったと思う?」

 

質問に、質問で返された。

 

昨夜、兎吊木さんにもされた。先月、私が萩原(はぎはら)さんにした。

 

質問に質問で返す人間は、答えを持っていないのではない。答えを、相手に持たせたいのだ。

 

私は、壁の人のことを考えた。

 

顔のない顔。手のない腕。

 

それから、昨夜の、つるつるした石のような声のことを。

 

「……まだ、言わないわ」

 

「どうして」

 

「言ったら、あなたが、何かを決めなければならなくなる気がするから」

 

彼は、少しだけ目を見開いた。

 

それから、ゆっくりと、笑った。

 

「君は、本当に、何もしないね」

 

「何もできないのよ」

 

「違うよ。何もしないんだ。……それは、時々、何かするより、ずっと難しい」

 

彼は、壁から背を離した。

 

離して、初めて、床に腰を下ろした。

 

座った。

 

床だった。四つあった席の、どれでもなかった。用意された数は、最後まで、一つ余った。

 

 

 

 

 

四時間が過ぎた頃、扉の向こうで、音がした。

 

鍵の回る音ではなかった。

 

もっと細い、金属同士がこすれ合う音だった。鍵穴の中で、何かが、探るように動いている音。

 

かち、と、小さく鳴った。

 

扉が、内側に向かって、少しだけ開いた。

 

隙間から、黒い服の袖が見えた。

 

「ごきげんよう、皆さま」

 

柔らかい声だった。

 

昨夜、渡り廊下の緑の灯りの中で聞いた声だった。

 

「お待たせいたしましたわ。……あら、昨夜お会いした方も、いらっしゃいますのね」

 

その人は、扉を大きく開けて、中に入ってきた。

 

手に、細い金属の棒を二本持っていた。持っていたと思ったら、次の瞬間には、もう、どこにもなかった。どこへしまったのか、見えなかった。

 

どこからか取り出して、どこかへしまう。

 

先月、澄百合の門の脇で、赤い人が、どこからか取り出した鍵で通用口を開けた。

 

その時、私は、どこから取り出したのかを、訊かなかった。

 

今も、訊かなかった。

 

「皆さま、お揃いで。十全ですわ。……改めまして」

 

その人は、胸に手を当てた。

 

「わたくしは、石丸小唄(いしまるこうた)と申します。昨夜は、別の名前を名乗りましたけれど、あれは、借り物でしたの。ごめんあそばせ」

 

石丸小唄。

 

借り物の名前を、返した。

 

零崎愛識は、借り物だった。

 

私は、自分の胸の中で、何かが、ほどけるのを感じた。ほどけたものが何なのか、すぐには分からなかった。分かったのは、少し遅れてからだった。

 

愛識が借り物なら、愛織とは、関係がない。

 

関係がないことに、私は、安心していた。

 

安心してしまったことが、少しだけ、悔しかった。

 

「わたくし、大泥棒ですの」

 

石丸さんは、楽しそうに言った。

 

「この施設に、お友達を盗みに来たのですけれど、お友達が、どうやら先に、お出かけになってしまったみたいで。……戯言遣いさん。あなたに、お手伝いいただきたいことがございますの」

 

彼は、床に座ったまま、石丸さんを見上げた。

 

「何を」

 

「推理ですわ」

 

石丸さんは、にっこりと笑った。

 

「とびきり、穴だらけの推理を」

 

穴だらけ、という言葉が、なぜか、少しだけ、頼もしく聞こえた。

 

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