鍵というのは、扉を開けるための道具だと思われている。
違う。鍵は、誰が扉を開けてよいのかを、決めるための道具だ。
扉そのものは、誰が押しても、開く時は開く。鍵がかかっているのは、扉ではなく、開けてよい人と、開けてはいけない人の、あいだの線の方だ。
その線を、平気な顔で跨ぐ人がいる。
跨がれた線は、跨いだ人の足跡の分だけ、少しだけ、太くなる。
「推理、というのは」
彼が、床に座ったまま、訊いた。
石丸さんは、扉の縁に、片手をかけて立っていた。
「穴だらけの推理には、材料が要りますの。穴の数だけ、材料が。……材料は、この施設の、あちらこちらに落ちておりますわ。拾いに参りましょう」
「どうして、ぼくに」
「あなたが、いちばん、穴を開けるのがお上手そうですから」
石丸さんは、楽しそうに言った。
彼は、少しのあいだ、石丸さんを見上げていた。
それから、寝台の上の
玖渚さんは、膝を抱えたまま、壁を見ていた。壁を見たまま、ほんの少しだけ、首を傾げた。
傾げただけだった。
それだけで、彼は、立ち上がった。
「友。……
鈴無さんが、寝台の上で、腕を組み直した。
「あんたね」
「分かってます。説教は、戻ってから」
「戻ってくるのが前提なのね」
「戻ってこなかったら、説教のしようがないので」
鈴無さんは、長い息を吐いた。
吐いてから、私の方を見た。
私は、椅子から、立ち上がっていた。
立ち上がったことに、立ち上がってから、気づいた。
「……ほんとにあんたたちは」
鈴無さんの声が、低かった。
「出てくるまで、アタシの目の届くところにいなさいって、言ったわよね」
「言われました」
「言われて、それ?」
「言われた、と覚えているだけです」
鈴無さんは、黙った。
黙ったまま、私を、上から下まで、一度だけ見た。
七月一日の朝、白い車の運転席から、私を見た時と、同じ見方だった。
「さっき、言ったわよね。あの子が爺さんの襟を掴んだ時も、アタシが割って入った時も、あんたは座って、全部見てたって」
鈴無さんは、腕をほどいた。
「その子が、今、立ってるの。……立つ理由が、あるってことでしょ」
私は、答えなかった。
立つ理由を、言葉にできなかった。
言葉にできないまま、ただ、立っていた。
「行きなさい」
鈴無さんは、言った。
「その代わり、あんたが、その子の目の届くところにいなさい。……アタシの目の代わりだわよ」
その子、と鈴無さんは、彼を顎で示した。
彼は、困った顔をした。
困った顔のまま、扉の方へ歩き出した。
私は、その一つ空けた後ろを、ついていった。
「あら」
石丸さんが、扉の外で、私を見た。
「お二人で。……結構ですわ。材料拾いは、手が多いほど、捗りますもの」
石丸さんは、それから、扉の内側の鈴無さんに、軽く会釈した。
「保護者の方。お二人は、必ず、お返しいたしますわ。……お返しする時は、少しだけ、汚れているかもしれませんけれど」
鈴無さんは、何も答えなかった。
答えずに、石丸さんの顔を、じっと見ていた。
見られた石丸さんは、少しも、目を逸らさなかった。逸らさない人と、逸らさない人が、扉を挟んで、少しのあいだ、向かい合っていた。
扉が、外から、閉められた。
鍵が、もう一度、細い金属の音を立てて、かかった。
内側に、鈴無さんと、玖渚さんが残った。
閉めたのは、石丸さんだった。
開けた人が、閉めた。
開けてよい人と、閉めてよい人が、同じ人だった。
廊下に出てから、彼が、扉を振り返った。
鉄の扉の向こうに、二人が、残っていた。
「……友を、置いてきた」
彼は、小さく言った。
「置いてきたのではないわ。鈴無さんがいる」
「分かってる。分かってるけど」
彼は、扉から、目を離さなかった。
「ぼくが友から離れる時は、いつも、誰かが、代わりに隣にいてくれる。……代わりがいるから、離れられる。代わりがいなかったら、ぼくは、たぶん、一歩も動けない」
代わりがいるから、離れられる。
私は、何も言わなかった。
私の隣には、代わりも、元の人も、いなかった。誰もいないから、どこへでも、動けた。
動けることと、離れられることは、違う。
離れる、というのは、隣に誰かがいた人にしか、できないことだった。
石丸さんが、廊下の先で、振り返った。
「戯言遣いさん。……振り返るのは、出る時だけにしておきなさいな。入る時に振り返る人は、たいてい、出られなくなりますわ」
彼は、扉から、目を離した。
離して、歩き出した。
私は、一つ空けて、その後ろを、歩いた。
振り返らなかった。
地下の廊下は、来た時より、暗く見えた。
一本おきの蛍光灯の、点いている方の下だけを、石丸さんは、歩いた。消えている方の下に入る時だけ、少しだけ、足を速めた。
「暗いところが、お嫌いなんですか」
私が訊くと、石丸さんは、振り返らずに答えた。
「暗いところには、カメラがありませんの。……カメラのないところを速く通るのは、カメラのあるところで、ゆっくり見せるためですわ」
「見せる」
「ええ。わたくしたちが、どこを歩いたのか。どこで止まったのか。……あとで、ご覧になる方のために」
あとで、見る人。
この施設のどこかで、画面の前に座っている人。
石丸さんは、見られていることを、知っていて、見せているように見えた。
見せる歩き方と、見せない歩き方を、一本の廊下の中で、使い分けていた。
階段の手前で、石丸さんは、足を止めた。
止めて、彼の方を振り返った。
「戯言遣いさん。……階段は、お好き?」
「好きでも、嫌いでもないです」
「では、今日から、少しだけ、お嫌いになりますわ」
石丸さんは、階段を、駆け上がり始めた。
速かった。
彼が、慌てて、その後を追った。
私も、追った。
一階。二階。三階。
息が、上がった。
上がった息の中で、足だけが、勝手に動いていた。
高校の体育の授業で、階段を走らされたことはなかった。走らされたのは、校庭だった。点数のために、走った。走った分だけ、クラスの点になった。
今は、何の点にもならなかった。
点にならない階段を、私は、駆け上がっていた。
駆け上がる理由を、誰にも、訊かれなかった。訊かれなかったから、答えを用意しなくて、よかった。
答えを用意しなくていい走り方は、思っていたより、少しだけ、楽だった。
石丸さんは、少しも息を乱さずに、三階の踊り場で、待っていた。
「研究棟は、三階まで。屋上へは、この先の、非常階段から」
「屋上に、何が」
彼が、肩で息をしながら、訊いた。
「材料ですわ」
屋上は、風が強かった。
山の上の、昼の風だった。
白い棟と棟のあいだを、細い屋根が、繋いでいた。渡り廊下の、上の部分だった。屋根は、人が一人、屈めば渡れるくらいの幅をしていた。
その屋根の向こうに、フェンスが見えた。
鉄条網を巻いたフェンス。
フェンスの外は、森だった。
「さあ、戯言遣いさん」
石丸さんが、屋根の端を、指さした。
「渡ってごらんなさいな」
彼は、屋根を見た。
細かった。両側は、三階分の高さだった。
「……渡れと」
「渡れるかどうかを、確かめるのですわ。渡れるなら、誰かが、昨夜、渡ったかもしれない。渡れないなら、誰も、渡っていない」
「渡れなかったら」
「落ちますわね」
石丸さんは、にっこりと笑った。
彼は、長いあいだ、屋根を見ていた。
それから、屈んで、屋根の上に、片足を乗せた。
私は、屋上の端で、彼を見ていた。
止めなかった。
止める言葉を、私は、持っていなかった。持っていたとしても、たぶん、言わなかった。
止めるのは、隣にいる人の仕事だった。私は、一つ空けた場所に、立っていた。
彼は、屋根の上を、這うように、進んだ。
一歩。二歩。
風が、吹いた。
彼の体が、少しだけ、傾いた。
傾いて、止まった。
止まったまま、彼は、動かなかった。
私は、屋上の手すりを、握っていた。
握っていることに、握ってから、気づいた。
六月の、赤い車の取っ手。七月の、ドアノブ。冷たいものを、私は、いつも、握っている。
彼は、また、進んだ。
屋根の真ん中まで行って、そこで、止まった。
振り返った。
顔が、真っ白だった。
「……渡れます」
彼は、言った。
「渡れるけど、昨夜、誰かがここを渡ったなら、その人は、ぼくより、ずっと、度胸があります」
「度胸のある方は、たくさんいらっしゃいますわ」
石丸さんは、言った。
「戻っていらっしゃいな。……渡れる、と分かれば、十分ですの。渡ったかどうかは、どうでもよろしいのですわ」
渡ったかどうかは、どうでもいい。
渡れる、ということだけが、要る。
穴が一つ、穴のまま、増えた。
彼が、這って、戻ってきた。
屋上の床に手をついて、しばらく、立てなかった。
私は、手を、差し出さなかった。
差し出さずに、一つ空けた場所に、しゃがんだ。
「……見てた?」
彼が、床を見たまま、言った。
「見ていたわ」
「落ちそうだった」
「落ちなかったわ」
「知ってる」
彼は、少しだけ、笑った。
笑ってから、自分の手のひらを見た。
手のひらに、屋根の、白い塗料が、ついていた。
石丸さんが、それから、私の方を見た。
「あなたは、お渡りになりますの?」
私は、屋根を見た。
細い屋根だった。両側は、三階分の高さだった。風が、まだ、吹いていた。
「渡りません」
「怖いから?」
「渡れることは、もう、分かりましたから」
石丸さんは、少しだけ、目を丸くした。
「分かったことを、確かめ直す必要は、ありません。……確かめ直すのは、彼が、確かめたことを、信じていないことになります」
石丸さんは、しばらく、私を見ていた。
それから、声を立てて、笑った。
「十全ですわ。……戯言遣いさん、あなた、お隣の方に、信じていただいておりますわよ」
「隣じゃないです」
彼が、床に座ったまま、言った。
「一つ、空いてます」
「まあ。一つ空いた方に信じていただくのは、隣の方に信じていただくより、ずっと、難しいことですのに」
石丸さんは、それきり、何も言わなかった。
言わないまま、屋上の手すりにもたれて、フェンスの向こうの森を、しばらく見ていた。
見ている横顔が、少しだけ、退屈そうだった。
退屈そうなのに、どこか、楽しそうだった。
「……体力測定だ、これ」
彼は、小さく言った。
石丸さんが、それを聞いて、声を立てて笑った。
上品な笑い声だった。上品なのに、端の方が、少しだけ、崩れていた。
崩れたところだけが、少しだけ、耳に残った。
研究棟の二階の、廊下の角で、
会った、というより、待っていた。
根尾さんは、廊下の真ん中に立って、両手を、お腹の前で組んでいた。
「おお、これは、これは」
芝居がかった声だった。夕食の時の声だった。
「地下にお休みのはずのお客人が、なぜ、このようなところに。……わたくし、見なかったことにいたしましょうか」
「お願いいたしますわ」
石丸さんが、言った。
根尾さんは、石丸さんを見た。
見る目が、一瞬だけ、変わった。
芝居の目ではなかった。昨夜、渡り廊下の向こうで聞いた、短くて平らな声の、目だった。
「……カードを」
根尾さんは、白衣のポケットから、白いカードを一枚、出した。
石丸さんに、渡した。
「研究棟の、三つ目の扉まで。四つ目から先は、博士の指紋が要ります」
「十分ですわ」
「お代は」
「いつもの口座に」
二人のやりとりは、それだけだった。
それだけで、根尾さんは、また、芝居の顔に戻った。
「では、わたくしは、何も見ておりません。何も渡しておりません。ケーキを食べに参ります。……お嬢さん」
根尾さんが、私を見た。
「昨夜、渡り廊下で、何かお聞きになりましたかな」
息が、止まりかけた。
止めなかった。
「いいえ」
「それは、よろしい」
根尾さんは、にっこりと笑った。
目は、少しも、笑っていなかった。
「お聞きにならなかったことは、お聞きにならなかったままに。……甘いものは、嘘をつきませんが、甘いもの以外は、たいてい、嘘をつきますのでね」
根尾さんは、私たちの横を、すり抜けていった。
すり抜ける時、ほんのかすかに、生クリームの匂いがした。
廊下の角を曲がって、見えなくなった。
「……知っていたのね」
私は、言った。
石丸さんは、カードを、指の間で、くるりと回した。
「何を、でございますの」
「昨夜、私が、聞いていたことを」
「さあ。……根尾さんは、知っていることを、知っていると言わない方ですから。知らないことを、知っていると言う方でもありますけれど」
石丸さんは、カードを、どこかへしまった。
どこへしまったのか、見えなかった。
彼が、一つ空けた場所から、私を見ていた。
「昨夜、何を聞いたの」
「……あとで話すわ」
「うん」
彼は、それ以上、訊かなかった。
訊かないまま、石丸さんの後を、歩き出した。
今は、の今が、終わったのだと思った。根尾さんの方から、訊いてきたのだから。
三つ目の扉へ向かう途中、石丸さんが、少し先を歩いているあいだに、私は、一つ空けた後ろから、彼に言った。
小声で。
「昨夜、渡り廊下の向こうで、二人の声を聞いたの。根尾さんと、石丸さんの」
彼は、振り返らなかった。
「お約束の品は、あちらに、と根尾さんが言っていたわ。お代は、いつもの口座に、と石丸さんが」
「……根尾さんは、この施設のために働いてない」
「たぶん」
「石丸さんとは、前からの付き合い」
「たぶん」
彼は、少しのあいだ、黙って歩いた。
「教えてくれて、ありがとう」
「教えたのではないわ。あとで話す、と言ったから、話しただけ」
「それを、教えたって言うんだよ」
彼は、少しだけ、笑った。
笑ってから、前を歩く石丸さんの、後ろで一つにまとめた髪の背中を、見た。
歩き方に、少しも、迷いがなかった。昨夜、一晩歩いただけのはずなのに、角を曲がる前から、曲がる先を知っている歩き方だった。
「……詳しいね、石丸さん」
彼が、小さく言った。
私は、答えなかった。答えられるほどのことを、何も知らなかった。
それきり、二人とも、その話をしなかった。
三つ目の扉の先は、研究員たちの個室が並ぶ廊下だった。
一つの扉の前で、石丸さんは、足を止めた。
扉に、名札が下がっていた。
石丸さんは、カードで、扉を開けた。
中は、片付いていた。
片付きすぎていた。寝台の上の毛布が、きちんと畳まれていた。机の上に、何もなかった。本棚の本が、背の高さの順に、並んでいた。
人が住んでいた部屋には、見えなかった。人が出ていった部屋にも、見えなかった。
最初から、誰も住んでいなかったように、見えた。
「……髪の長い人の部屋にしては、ブラシが一本もないね」
彼が、言った。
洗面台の前に、立っていた。
洗面台の上には、何もなかった。
「長い髪の人は、ブラシを使わなくても、髪は伸びますわ」
石丸さんが、言った。
「伸ばしているだけの髪だと、伺っておりますもの。手入れをしない人の髪は、手入れの道具を、残しませんの」
彼は、洗面台を、長いあいだ、見ていた。
見ている顔に、何も、浮かんでいなかった。
浮かんでいない顔の奥で、また、何かが、一つずつ、並べ替えられているように見えた。
石丸さんが、本棚の前で、背の高さの順に並んだ本の背を、指で、一冊ずつ、なぞっていた。
なぞって、一冊も、抜かなかった。
「この部屋にお住まいだった方は」
石丸さんは、本の背を見たまま、言った。
「ここを、住む場所だとは、思っていらっしゃらなかったのでしょうね。……仮に置いた箱、くらいに。いつでも出ていけるように、何も、散らかさなかった」
いつでも出ていけるように。
私の部屋も、そうだ。四月から、段ボール箱の一つを、開けずに置いている。開けなければ、いつでも、そのまま、持って出られる。
「出ていく準備をしている人の部屋は、片付いているものですか」
私が訊くと、石丸さんは、少しだけ、こちらを見た。
「出ていく準備をしている人の部屋は、片付いておりますわ。……出ていった人の部屋は、片付けた人の部屋になりますけれど」
片付けた人。
この部屋を、誰かが、片付けたのだろうか。
石丸さんは、それ以上は、言わなかった。
言わないまま、本の背から、指を離した。
私は、部屋の入り口に、立っていた。
入らなかった。
入らずに、部屋全体を、見ていた。
何もない部屋を、何もないまま、覚えておこうと思った。
あとで、誰かが、この部屋について、何かを言う。その時に、何もなかったことを、覚えている人間が、一人いればいい。
「材料は、拾えましたか」
石丸さんが、彼に訊いた。
「……拾えました」
「何を」
「何もないこと、を」
石丸さんは、少しだけ、目を細めた。
細めて、それから、満足そうに頷いた。
「十全ですわ」
研究棟の、一階の廊下で、
今度は、待っていたのではなかった。
角を曲がったところで、ぶつかりかけた。
宇瀬さんは、腕に、紙の束を抱えていた。揃えかけの書類だった。
宇瀬さんの目が、私を見て、彼を見て、最後に、石丸さんを見た。
ひびの入った眼鏡は、もう、かけていなかった。別の眼鏡だった。二番目の引き出しの、替えの眼鏡だと思った。
「……どうして」
宇瀬さんの声が、震えていた。
「どうして、あなた方が、ここに」
「お散歩ですわ」
石丸さんが、言った。
「地下は、空気がよろしくありませんもの。……あら、秘書さん。眼鏡、お替えになりましたのね。前のより、少しだけ、野暮ったいですわ」
宇瀬さんの頬が、さっと、赤くなった。
赤くなって、それから、宇瀬さんは、紙の束を、床に落とした。
落とした手が、スーツの内側に入った。
出てきた時、手の中に、黒いものが、握られていた。
拳銃だった。
宇瀬さんは、それを、石丸さんに向けていた。
両手で。
震えていた。
「……戻ってください。地下に」
石丸さんは、少しも、動かなかった。
動かないまま、拳銃の先を、楽しそうに見ていた。
「まあ。秘書さんが、そのような物騒なものを」
「戻ってください」
「お撃ちになりますの? お撃ちになったら、書類が、もう一枚、増えますわね。……秘書さんが、お客人を撃った、という書類が」
宇瀬さんの手が、もっと、震えた。
私は、一歩も、動かなかった。
六月の、刃物の前と、同じだった。動けば、動いたことが、伝わる。伝わったら、震えている指の方が、先に動く。
彼も、動かなかった。
動かないまま、宇瀬さんの方を、見ていた。
見ていて、それから、言った。
「宇瀬さん。……その眼鏡、似合ってますよ」
宇瀬さんの目が、彼の方へ、動いた。
「前のより、ずっと。……誰かが、ちゃんと取っておいてくれた眼鏡は、たいてい、似合います」
宇瀬さんの指が、ほんの少しだけ、緩んだ。
緩んだ一瞬に、石丸さんの手が、動いた。
見えなかった。
見えなかったけれど、次の瞬間には、拳銃は、宇瀬さんの手の中にはなかった。
石丸さんの手の中にも、なかった。
彼の手の中に、あった。
石丸さんが、彼の手に、押しつけていた。
「お持ちなさいな、戯言遣いさん」
石丸さんは、言った。
「わたくしは、こういう野暮なものは、持たない主義ですの。……秘書さんにお返しするのも、野暮ですし」
彼は、手の中の拳銃を、見下ろした。
重そうに、持っていた。
持ち方が、少しも、慣れていなかった。
宇瀬さんは、空になった両手を、見ていた。
見ていて、それから、床に膝をついた。
膝をついて、落とした書類を、一枚ずつ、拾い始めた。
拾う手が、まだ、震えていた。
私は、宇瀬さんの前に、しゃがんだ。
一つ空けずに。
床の書類を、一枚、拾った。
拾って、宇瀬さんの手の中の束の上に、載せた。
宇瀬さんは、私を見た。
替えの眼鏡の奥の目が、濡れていた。
「……申し訳、ありません」
地下の扉の前で、聞いたのと、同じ言葉だった。
「書類を、揃えてください」
私は、言った。
「揃えるのが、あなたの仕事でしょう。……揃えた書類が、どんな話になるのかは、まだ、決まっていません」
宇瀬さんは、長いあいだ、私を見ていた。
それから、小さく、頷いた。
書類を、胸に抱えて、立ち上がった。
立ち上がって、廊下の奥へ、走っていった。
博士の部屋の方へ。
拳銃のことは、何も、言わなかった。
たぶん、言わないことを選んだ。言えば、大垣くんが聞く。聞けば、あの子は、博士の部屋に怒鳴り込む。
私は、廊下の奥へ消えた宇瀬さんの背中を、見送った。
見送る私の一つ空けた隣で、彼は、拳銃を、まだ手に持ったままだった。
持つ手の中に、宇瀬さんが、たぶん毎日持っていた重さが、今は、あった。
地下へ戻る階段で、彼は、拳銃を、上着の内ポケットに入れた。
入れる手つきが、ぎこちなかった。
「……持ってるの、嫌だな」
彼が、小さく言った。
「捨てればいいわ」
「捨てたら、誰かが拾う。拾った人が、ぼくより、使い方を知ってたら、困る」
彼は、内ポケットの上から、拳銃の形を、手で押さえた。
「持ってる人が、いちばん使い方を知らないのが、たぶん、いちばん安全なんだ」
「重いの」
「重い。……思ってたより、ずっと」
彼は、手を、離さなかった。
「本で読んだより、重い。映画で見たより、重い。……持ってみないと分からない重さって、あるんだね」
持ってみないと、分からない重さ。
ノートのいちばん後ろの、十一桁の紙。あれも、持ってみるまで、こんなに重いとは思わなかった。
「宇瀬さんは、あれを、毎日、持っていたのね」
「たぶん。……博士の隣で。誰にも見せないで」
彼は、階段を、一段、降りた。
「毎日持ってた重さを、今日、取られた。……取られて、宇瀬さんは、少しだけ、軽くなったと思う」
「軽くなって、困らないの」
「困ると思う。重さに慣れた人は、軽くなると、どこに立てばいいか、分からなくなる」
彼は、それきり、黙った。
黙ったまま、内ポケットの重さを、一段ずつ、地下へ運んでいった。
石丸さんが、階段の下で、振り返った。
「戯言遣いさん。……材料は、揃いまして?」
「揃いました。屋根が渡れること。部屋に何もないこと。……それから、秘書さんが、拳銃を持ってたこと」
「最後のは、推理には、お使いになりませんわね」
「使いません」
「十全ですわ」
石丸さんは、地下の扉の前で、細い金属の棒を、二本、取り出した。
どこから取り出したのか、また、見えなかった。
鍵穴に、差し込んだ。
かち、と、小さく鳴った。
扉が、開いた。
中で、鈴無さんが、寝台に腰かけて、腕を組んでいた。
玖渚さんは、膝を抱えて、壁を見ていた。
鈴無さんが、私を見た。
「……戻ってきたわね」
「戻ってきました」
「目の届くところに、いた?」
鈴無さんは、私を見たまま、彼を顎で示した。
「いました。……屋根の上の時も」
鈴無さんは、ほんの少しだけ、眉を上げた。
「屋根?」
「体力測定です」
彼が、言った。
鈴無さんは、彼を見た。
見て、それから、長い息を吐いた。
「……説教、二つに増えたわよ、あんた」
彼は、首をすくめた。
寝台の上で、玖渚さんが、膝から顎を上げた。
上げて、彼を見た。
見て、それから、彼の上着の、内ポケットのあたりを、見た。
まばたきを、一度もしなかった。
「いーちゃん。……重たいもの、持ってる」
彼は、内ポケットの上に、手を置いた。
「拾った」
「拾ったの」
「押しつけられた」
玖渚さんは、しばらく、彼の手を見ていた。
それから、また、膝に顎を乗せた。
「いーちゃん、それ、使い方、知らないでしょ」
「知らない」
「知らない方が、いいよ。……知ってる人は、使っちゃうから」
彼と同じことを、玖渚さんは言った。
隣同士に座っている二人は、同じことを、別々の場所で、考えていたように見えた。
言葉を使わなくても、首の傾きで話が済む距離。
拳銃の話も、たぶん、それで済んだ。
石丸さんが、扉の外で、楽しそうに笑っていた。
「では、一時間後に、食堂で。博士には、わたくしから、そう申し上げておきますわ。……とびきり穴だらけのを、お待ちしておりますわよ」
笑いながら、扉を、また、閉めた。
鍵が、かかった。
開けた人が、閉めた。
閉めた人が、あと一時間で、もう一度、開ける、と言った。
その時、彼は、穴だらけの推理を、食堂で並べる。
材料は、揃っていた。
何もない部屋と、渡れる屋根と、使われない拳銃。
私は、椅子に、座った。
座って、ポケットの中で、手を握った。
握った手の中には、何もなかった。
何もないことを、私も、拾ってきた。
拾ったものを、食堂で言うつもりは、なかった。
穴は、穴のままにしておく。