ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第18話 疾走(失踪)

鍵というのは、扉を開けるための道具だと思われている。

 

違う。鍵は、誰が扉を開けてよいのかを、決めるための道具だ。

 

扉そのものは、誰が押しても、開く時は開く。鍵がかかっているのは、扉ではなく、開けてよい人と、開けてはいけない人の、あいだの線の方だ。

 

その線を、平気な顔で跨ぐ人がいる。

 

跨がれた線は、跨いだ人の足跡の分だけ、少しだけ、太くなる。

 

 

 

 

 

「推理、というのは」

 

彼が、床に座ったまま、訊いた。

 

石丸さんは、扉の縁に、片手をかけて立っていた。

 

「穴だらけの推理には、材料が要りますの。穴の数だけ、材料が。……材料は、この施設の、あちらこちらに落ちておりますわ。拾いに参りましょう」

 

「どうして、ぼくに」

 

「あなたが、いちばん、穴を開けるのがお上手そうですから」

 

石丸さんは、楽しそうに言った。

 

彼は、少しのあいだ、石丸さんを見上げていた。

 

それから、寝台の上の玖渚(くなぎさ)さんを、見た。

 

玖渚さんは、膝を抱えたまま、壁を見ていた。壁を見たまま、ほんの少しだけ、首を傾げた。

 

傾げただけだった。

 

それだけで、彼は、立ち上がった。

 

「友。……鈴無(すずなし)さん。少しだけ、出てきます」

 

鈴無さんが、寝台の上で、腕を組み直した。

 

「あんたね」

 

「分かってます。説教は、戻ってから」

 

「戻ってくるのが前提なのね」

 

「戻ってこなかったら、説教のしようがないので」

 

鈴無さんは、長い息を吐いた。

 

吐いてから、私の方を見た。

 

私は、椅子から、立ち上がっていた。

 

立ち上がったことに、立ち上がってから、気づいた。

 

「……ほんとにあんたたちは」

 

鈴無さんの声が、低かった。

 

「出てくるまで、アタシの目の届くところにいなさいって、言ったわよね」

 

「言われました」

 

「言われて、それ?」

 

 

 

「言われた、と覚えているだけです」

 

 

 

鈴無さんは、黙った。

 

黙ったまま、私を、上から下まで、一度だけ見た。

 

七月一日の朝、白い車の運転席から、私を見た時と、同じ見方だった。

 

「さっき、言ったわよね。あの子が爺さんの襟を掴んだ時も、アタシが割って入った時も、あんたは座って、全部見てたって」

 

鈴無さんは、腕をほどいた。

 

「その子が、今、立ってるの。……立つ理由が、あるってことでしょ」

 

私は、答えなかった。

 

立つ理由を、言葉にできなかった。

 

言葉にできないまま、ただ、立っていた。

 

「行きなさい」

 

鈴無さんは、言った。

 

「その代わり、あんたが、その子の目の届くところにいなさい。……アタシの目の代わりだわよ」

 

その子、と鈴無さんは、彼を顎で示した。

 

彼は、困った顔をした。

 

困った顔のまま、扉の方へ歩き出した。

 

私は、その一つ空けた後ろを、ついていった。

 

「あら」

 

石丸さんが、扉の外で、私を見た。

 

「お二人で。……結構ですわ。材料拾いは、手が多いほど、捗りますもの」

 

石丸さんは、それから、扉の内側の鈴無さんに、軽く会釈した。

 

「保護者の方。お二人は、必ず、お返しいたしますわ。……お返しする時は、少しだけ、汚れているかもしれませんけれど」

 

鈴無さんは、何も答えなかった。

 

答えずに、石丸さんの顔を、じっと見ていた。

 

見られた石丸さんは、少しも、目を逸らさなかった。逸らさない人と、逸らさない人が、扉を挟んで、少しのあいだ、向かい合っていた。

 

扉が、外から、閉められた。

 

鍵が、もう一度、細い金属の音を立てて、かかった。

 

内側に、鈴無さんと、玖渚さんが残った。

 

閉めたのは、石丸さんだった。

 

開けた人が、閉めた。

 

開けてよい人と、閉めてよい人が、同じ人だった。

 

廊下に出てから、彼が、扉を振り返った。

 

鉄の扉の向こうに、二人が、残っていた。

 

「……友を、置いてきた」

 

彼は、小さく言った。

 

「置いてきたのではないわ。鈴無さんがいる」

 

「分かってる。分かってるけど」

 

彼は、扉から、目を離さなかった。

 

「ぼくが友から離れる時は、いつも、誰かが、代わりに隣にいてくれる。……代わりがいるから、離れられる。代わりがいなかったら、ぼくは、たぶん、一歩も動けない」

 

代わりがいるから、離れられる。

 

私は、何も言わなかった。

 

私の隣には、代わりも、元の人も、いなかった。誰もいないから、どこへでも、動けた。

 

動けることと、離れられることは、違う。

 

離れる、というのは、隣に誰かがいた人にしか、できないことだった。

 

石丸さんが、廊下の先で、振り返った。

 

「戯言遣いさん。……振り返るのは、出る時だけにしておきなさいな。入る時に振り返る人は、たいてい、出られなくなりますわ」

 

彼は、扉から、目を離した。

 

離して、歩き出した。

 

私は、一つ空けて、その後ろを、歩いた。

 

振り返らなかった。

 

 

 

 

 

地下の廊下は、来た時より、暗く見えた。

 

一本おきの蛍光灯の、点いている方の下だけを、石丸さんは、歩いた。消えている方の下に入る時だけ、少しだけ、足を速めた。

 

「暗いところが、お嫌いなんですか」

 

私が訊くと、石丸さんは、振り返らずに答えた。

 

「暗いところには、カメラがありませんの。……カメラのないところを速く通るのは、カメラのあるところで、ゆっくり見せるためですわ」

 

「見せる」

 

「ええ。わたくしたちが、どこを歩いたのか。どこで止まったのか。……あとで、ご覧になる方のために」

 

あとで、見る人。

 

この施設のどこかで、画面の前に座っている人。

 

石丸さんは、見られていることを、知っていて、見せているように見えた。

 

見せる歩き方と、見せない歩き方を、一本の廊下の中で、使い分けていた。

 

階段の手前で、石丸さんは、足を止めた。

 

止めて、彼の方を振り返った。

 

「戯言遣いさん。……階段は、お好き?」

 

「好きでも、嫌いでもないです」

 

「では、今日から、少しだけ、お嫌いになりますわ」

 

石丸さんは、階段を、駆け上がり始めた。

 

速かった。

 

彼が、慌てて、その後を追った。

 

私も、追った。

 

一階。二階。三階。

 

息が、上がった。

 

上がった息の中で、足だけが、勝手に動いていた。

 

高校の体育の授業で、階段を走らされたことはなかった。走らされたのは、校庭だった。点数のために、走った。走った分だけ、クラスの点になった。

 

今は、何の点にもならなかった。

 

点にならない階段を、私は、駆け上がっていた。

 

駆け上がる理由を、誰にも、訊かれなかった。訊かれなかったから、答えを用意しなくて、よかった。

 

答えを用意しなくていい走り方は、思っていたより、少しだけ、楽だった。

 

石丸さんは、少しも息を乱さずに、三階の踊り場で、待っていた。

 

「研究棟は、三階まで。屋上へは、この先の、非常階段から」

 

「屋上に、何が」

 

彼が、肩で息をしながら、訊いた。

 

「材料ですわ」

 

 

 

 

 

屋上は、風が強かった。

 

山の上の、昼の風だった。

 

白い棟と棟のあいだを、細い屋根が、繋いでいた。渡り廊下の、上の部分だった。屋根は、人が一人、屈めば渡れるくらいの幅をしていた。

 

その屋根の向こうに、フェンスが見えた。

 

鉄条網を巻いたフェンス。

 

フェンスの外は、森だった。

 

「さあ、戯言遣いさん」

 

石丸さんが、屋根の端を、指さした。

 

「渡ってごらんなさいな」

 

彼は、屋根を見た。

 

細かった。両側は、三階分の高さだった。

 

「……渡れと」

 

「渡れるかどうかを、確かめるのですわ。渡れるなら、誰かが、昨夜、渡ったかもしれない。渡れないなら、誰も、渡っていない」

 

「渡れなかったら」

 

「落ちますわね」

 

石丸さんは、にっこりと笑った。

 

彼は、長いあいだ、屋根を見ていた。

 

それから、屈んで、屋根の上に、片足を乗せた。

 

私は、屋上の端で、彼を見ていた。

 

止めなかった。

 

止める言葉を、私は、持っていなかった。持っていたとしても、たぶん、言わなかった。

 

止めるのは、隣にいる人の仕事だった。私は、一つ空けた場所に、立っていた。

 

彼は、屋根の上を、這うように、進んだ。

 

一歩。二歩。

 

風が、吹いた。

 

彼の体が、少しだけ、傾いた。

 

傾いて、止まった。

 

止まったまま、彼は、動かなかった。

 

私は、屋上の手すりを、握っていた。

 

握っていることに、握ってから、気づいた。

 

六月の、赤い車の取っ手。七月の、ドアノブ。冷たいものを、私は、いつも、握っている。

 

彼は、また、進んだ。

 

屋根の真ん中まで行って、そこで、止まった。

 

振り返った。

 

顔が、真っ白だった。

 

「……渡れます」

 

彼は、言った。

 

「渡れるけど、昨夜、誰かがここを渡ったなら、その人は、ぼくより、ずっと、度胸があります」

 

「度胸のある方は、たくさんいらっしゃいますわ」

 

石丸さんは、言った。

 

「戻っていらっしゃいな。……渡れる、と分かれば、十分ですの。渡ったかどうかは、どうでもよろしいのですわ」

 

渡ったかどうかは、どうでもいい。

 

渡れる、ということだけが、要る。

 

穴が一つ、穴のまま、増えた。

 

彼が、這って、戻ってきた。

 

屋上の床に手をついて、しばらく、立てなかった。

 

私は、手を、差し出さなかった。

 

差し出さずに、一つ空けた場所に、しゃがんだ。

 

「……見てた?」

 

彼が、床を見たまま、言った。

 

「見ていたわ」

 

「落ちそうだった」

 

「落ちなかったわ」

 

「知ってる」

 

彼は、少しだけ、笑った。

 

笑ってから、自分の手のひらを見た。

 

手のひらに、屋根の、白い塗料が、ついていた。

 

 

 

 

 

石丸さんが、それから、私の方を見た。

 

「あなたは、お渡りになりますの?」

 

私は、屋根を見た。

 

細い屋根だった。両側は、三階分の高さだった。風が、まだ、吹いていた。

 

「渡りません」

 

「怖いから?」

 

「渡れることは、もう、分かりましたから」

 

石丸さんは、少しだけ、目を丸くした。

 

「分かったことを、確かめ直す必要は、ありません。……確かめ直すのは、彼が、確かめたことを、信じていないことになります」

 

石丸さんは、しばらく、私を見ていた。

 

それから、声を立てて、笑った。

 

「十全ですわ。……戯言遣いさん、あなた、お隣の方に、信じていただいておりますわよ」

 

「隣じゃないです」

 

彼が、床に座ったまま、言った。

 

「一つ、空いてます」

 

「まあ。一つ空いた方に信じていただくのは、隣の方に信じていただくより、ずっと、難しいことですのに」

 

石丸さんは、それきり、何も言わなかった。

 

言わないまま、屋上の手すりにもたれて、フェンスの向こうの森を、しばらく見ていた。

 

見ている横顔が、少しだけ、退屈そうだった。

 

退屈そうなのに、どこか、楽しそうだった。

 

「……体力測定だ、これ」

 

彼は、小さく言った。

 

石丸さんが、それを聞いて、声を立てて笑った。

 

上品な笑い声だった。上品なのに、端の方が、少しだけ、崩れていた。

 

崩れたところだけが、少しだけ、耳に残った。

 

 

 

 

 

研究棟の二階の、廊下の角で、根尾(ねお)さんに会った。

 

会った、というより、待っていた。

 

根尾さんは、廊下の真ん中に立って、両手を、お腹の前で組んでいた。

 

「おお、これは、これは」

 

芝居がかった声だった。夕食の時の声だった。

 

「地下にお休みのはずのお客人が、なぜ、このようなところに。……わたくし、見なかったことにいたしましょうか」

 

「お願いいたしますわ」

 

石丸さんが、言った。

 

根尾さんは、石丸さんを見た。

 

見る目が、一瞬だけ、変わった。

 

芝居の目ではなかった。昨夜、渡り廊下の向こうで聞いた、短くて平らな声の、目だった。

 

「……カードを」

 

根尾さんは、白衣のポケットから、白いカードを一枚、出した。

 

石丸さんに、渡した。

 

「研究棟の、三つ目の扉まで。四つ目から先は、博士の指紋が要ります」

 

「十分ですわ」

 

「お代は」

 

「いつもの口座に」

 

二人のやりとりは、それだけだった。

 

それだけで、根尾さんは、また、芝居の顔に戻った。

 

「では、わたくしは、何も見ておりません。何も渡しておりません。ケーキを食べに参ります。……お嬢さん」

 

根尾さんが、私を見た。

 

「昨夜、渡り廊下で、何かお聞きになりましたかな」

 

息が、止まりかけた。

 

止めなかった。

 

「いいえ」

 

「それは、よろしい」

 

根尾さんは、にっこりと笑った。

 

目は、少しも、笑っていなかった。

 

「お聞きにならなかったことは、お聞きにならなかったままに。……甘いものは、嘘をつきませんが、甘いもの以外は、たいてい、嘘をつきますのでね」

 

根尾さんは、私たちの横を、すり抜けていった。

 

すり抜ける時、ほんのかすかに、生クリームの匂いがした。

 

廊下の角を曲がって、見えなくなった。

 

「……知っていたのね」

 

私は、言った。

 

石丸さんは、カードを、指の間で、くるりと回した。

 

「何を、でございますの」

 

「昨夜、私が、聞いていたことを」

 

「さあ。……根尾さんは、知っていることを、知っていると言わない方ですから。知らないことを、知っていると言う方でもありますけれど」

 

石丸さんは、カードを、どこかへしまった。

 

どこへしまったのか、見えなかった。

 

彼が、一つ空けた場所から、私を見ていた。

 

「昨夜、何を聞いたの」

 

「……あとで話すわ」

 

「うん」

 

彼は、それ以上、訊かなかった。

 

訊かないまま、石丸さんの後を、歩き出した。

 

今は、の今が、終わったのだと思った。根尾さんの方から、訊いてきたのだから。

 

三つ目の扉へ向かう途中、石丸さんが、少し先を歩いているあいだに、私は、一つ空けた後ろから、彼に言った。

 

小声で。

 

「昨夜、渡り廊下の向こうで、二人の声を聞いたの。根尾さんと、石丸さんの」

 

彼は、振り返らなかった。

 

「お約束の品は、あちらに、と根尾さんが言っていたわ。お代は、いつもの口座に、と石丸さんが」

 

「……根尾さんは、この施設のために働いてない」

 

「たぶん」

 

「石丸さんとは、前からの付き合い」

 

「たぶん」

 

彼は、少しのあいだ、黙って歩いた。

 

「教えてくれて、ありがとう」

 

「教えたのではないわ。あとで話す、と言ったから、話しただけ」

 

「それを、教えたって言うんだよ」

 

彼は、少しだけ、笑った。

 

笑ってから、前を歩く石丸さんの、後ろで一つにまとめた髪の背中を、見た。

 

歩き方に、少しも、迷いがなかった。昨夜、一晩歩いただけのはずなのに、角を曲がる前から、曲がる先を知っている歩き方だった。

 

「……詳しいね、石丸さん」

 

彼が、小さく言った。

 

私は、答えなかった。答えられるほどのことを、何も知らなかった。

 

それきり、二人とも、その話をしなかった。

 

 

 

 

 

三つ目の扉の先は、研究員たちの個室が並ぶ廊下だった。

 

一つの扉の前で、石丸さんは、足を止めた。

 

扉に、名札が下がっていた。

 

神足(こうたり)、と書いてあった。

 

石丸さんは、カードで、扉を開けた。

 

中は、片付いていた。

 

片付きすぎていた。寝台の上の毛布が、きちんと畳まれていた。机の上に、何もなかった。本棚の本が、背の高さの順に、並んでいた。

 

人が住んでいた部屋には、見えなかった。人が出ていった部屋にも、見えなかった。

 

最初から、誰も住んでいなかったように、見えた。

 

「……髪の長い人の部屋にしては、ブラシが一本もないね」

 

彼が、言った。

 

洗面台の前に、立っていた。

 

洗面台の上には、何もなかった。

 

「長い髪の人は、ブラシを使わなくても、髪は伸びますわ」

 

石丸さんが、言った。

 

「伸ばしているだけの髪だと、伺っておりますもの。手入れをしない人の髪は、手入れの道具を、残しませんの」

 

彼は、洗面台を、長いあいだ、見ていた。

 

見ている顔に、何も、浮かんでいなかった。

 

浮かんでいない顔の奥で、また、何かが、一つずつ、並べ替えられているように見えた。

 

石丸さんが、本棚の前で、背の高さの順に並んだ本の背を、指で、一冊ずつ、なぞっていた。

 

なぞって、一冊も、抜かなかった。

 

「この部屋にお住まいだった方は」

 

石丸さんは、本の背を見たまま、言った。

 

「ここを、住む場所だとは、思っていらっしゃらなかったのでしょうね。……仮に置いた箱、くらいに。いつでも出ていけるように、何も、散らかさなかった」

 

いつでも出ていけるように。

 

私の部屋も、そうだ。四月から、段ボール箱の一つを、開けずに置いている。開けなければ、いつでも、そのまま、持って出られる。

 

「出ていく準備をしている人の部屋は、片付いているものですか」

 

私が訊くと、石丸さんは、少しだけ、こちらを見た。

 

「出ていく準備をしている人の部屋は、片付いておりますわ。……出ていった人の部屋は、片付けた人の部屋になりますけれど」

 

片付けた人。

 

この部屋を、誰かが、片付けたのだろうか。

 

石丸さんは、それ以上は、言わなかった。

 

言わないまま、本の背から、指を離した。

 

私は、部屋の入り口に、立っていた。

 

入らなかった。

 

入らずに、部屋全体を、見ていた。

 

何もない部屋を、何もないまま、覚えておこうと思った。

 

あとで、誰かが、この部屋について、何かを言う。その時に、何もなかったことを、覚えている人間が、一人いればいい。

 

「材料は、拾えましたか」

 

石丸さんが、彼に訊いた。

 

「……拾えました」

 

「何を」

 

「何もないこと、を」

 

石丸さんは、少しだけ、目を細めた。

 

細めて、それから、満足そうに頷いた。

 

「十全ですわ」

 

 

 

 

 

研究棟の、一階の廊下で、宇瀬(うぜ)さんに会った。

 

今度は、待っていたのではなかった。

 

角を曲がったところで、ぶつかりかけた。

 

宇瀬さんは、腕に、紙の束を抱えていた。揃えかけの書類だった。

 

宇瀬さんの目が、私を見て、彼を見て、最後に、石丸さんを見た。

 

ひびの入った眼鏡は、もう、かけていなかった。別の眼鏡だった。二番目の引き出しの、替えの眼鏡だと思った。

 

「……どうして」

 

宇瀬さんの声が、震えていた。

 

「どうして、あなた方が、ここに」

 

「お散歩ですわ」

 

石丸さんが、言った。

 

「地下は、空気がよろしくありませんもの。……あら、秘書さん。眼鏡、お替えになりましたのね。前のより、少しだけ、野暮ったいですわ」

 

宇瀬さんの頬が、さっと、赤くなった。

 

赤くなって、それから、宇瀬さんは、紙の束を、床に落とした。

 

落とした手が、スーツの内側に入った。

 

出てきた時、手の中に、黒いものが、握られていた。

 

拳銃だった。

 

宇瀬さんは、それを、石丸さんに向けていた。

 

両手で。

 

震えていた。

 

「……戻ってください。地下に」

 

石丸さんは、少しも、動かなかった。

 

動かないまま、拳銃の先を、楽しそうに見ていた。

 

「まあ。秘書さんが、そのような物騒なものを」

 

「戻ってください」

 

「お撃ちになりますの? お撃ちになったら、書類が、もう一枚、増えますわね。……秘書さんが、お客人を撃った、という書類が」

 

宇瀬さんの手が、もっと、震えた。

 

私は、一歩も、動かなかった。

 

六月の、刃物の前と、同じだった。動けば、動いたことが、伝わる。伝わったら、震えている指の方が、先に動く。

 

彼も、動かなかった。

 

動かないまま、宇瀬さんの方を、見ていた。

 

見ていて、それから、言った。

 

「宇瀬さん。……その眼鏡、似合ってますよ」

 

宇瀬さんの目が、彼の方へ、動いた。

 

「前のより、ずっと。……誰かが、ちゃんと取っておいてくれた眼鏡は、たいてい、似合います」

 

宇瀬さんの指が、ほんの少しだけ、緩んだ。

 

緩んだ一瞬に、石丸さんの手が、動いた。

 

見えなかった。

 

見えなかったけれど、次の瞬間には、拳銃は、宇瀬さんの手の中にはなかった。

 

石丸さんの手の中にも、なかった。

 

彼の手の中に、あった。

 

石丸さんが、彼の手に、押しつけていた。

 

「お持ちなさいな、戯言遣いさん」

 

石丸さんは、言った。

 

「わたくしは、こういう野暮なものは、持たない主義ですの。……秘書さんにお返しするのも、野暮ですし」

 

彼は、手の中の拳銃を、見下ろした。

 

重そうに、持っていた。

 

持ち方が、少しも、慣れていなかった。

 

宇瀬さんは、空になった両手を、見ていた。

 

見ていて、それから、床に膝をついた。

 

膝をついて、落とした書類を、一枚ずつ、拾い始めた。

 

拾う手が、まだ、震えていた。

 

私は、宇瀬さんの前に、しゃがんだ。

 

一つ空けずに。

 

床の書類を、一枚、拾った。

 

拾って、宇瀬さんの手の中の束の上に、載せた。

 

宇瀬さんは、私を見た。

 

替えの眼鏡の奥の目が、濡れていた。

 

「……申し訳、ありません」

 

地下の扉の前で、聞いたのと、同じ言葉だった。

 

「書類を、揃えてください」

 

私は、言った。

 

「揃えるのが、あなたの仕事でしょう。……揃えた書類が、どんな話になるのかは、まだ、決まっていません」

 

宇瀬さんは、長いあいだ、私を見ていた。

 

それから、小さく、頷いた。

 

書類を、胸に抱えて、立ち上がった。

 

立ち上がって、廊下の奥へ、走っていった。

 

博士の部屋の方へ。

 

拳銃のことは、何も、言わなかった。

 

たぶん、言わないことを選んだ。言えば、大垣くんが聞く。聞けば、あの子は、博士の部屋に怒鳴り込む。

 

私は、廊下の奥へ消えた宇瀬さんの背中を、見送った。

 

見送る私の一つ空けた隣で、彼は、拳銃を、まだ手に持ったままだった。

 

持つ手の中に、宇瀬さんが、たぶん毎日持っていた重さが、今は、あった。

 

 

 

 

 

地下へ戻る階段で、彼は、拳銃を、上着の内ポケットに入れた。

 

入れる手つきが、ぎこちなかった。

 

「……持ってるの、嫌だな」

 

彼が、小さく言った。

 

「捨てればいいわ」

 

「捨てたら、誰かが拾う。拾った人が、ぼくより、使い方を知ってたら、困る」

 

彼は、内ポケットの上から、拳銃の形を、手で押さえた。

 

「持ってる人が、いちばん使い方を知らないのが、たぶん、いちばん安全なんだ」

 

「重いの」

 

「重い。……思ってたより、ずっと」

 

彼は、手を、離さなかった。

 

「本で読んだより、重い。映画で見たより、重い。……持ってみないと分からない重さって、あるんだね」

 

持ってみないと、分からない重さ。

 

ノートのいちばん後ろの、十一桁の紙。あれも、持ってみるまで、こんなに重いとは思わなかった。

 

「宇瀬さんは、あれを、毎日、持っていたのね」

 

「たぶん。……博士の隣で。誰にも見せないで」

 

彼は、階段を、一段、降りた。

 

「毎日持ってた重さを、今日、取られた。……取られて、宇瀬さんは、少しだけ、軽くなったと思う」

 

「軽くなって、困らないの」

 

「困ると思う。重さに慣れた人は、軽くなると、どこに立てばいいか、分からなくなる」

 

彼は、それきり、黙った。

 

黙ったまま、内ポケットの重さを、一段ずつ、地下へ運んでいった。

 

石丸さんが、階段の下で、振り返った。

 

「戯言遣いさん。……材料は、揃いまして?」

 

「揃いました。屋根が渡れること。部屋に何もないこと。……それから、秘書さんが、拳銃を持ってたこと」

 

「最後のは、推理には、お使いになりませんわね」

 

「使いません」

 

「十全ですわ」

 

石丸さんは、地下の扉の前で、細い金属の棒を、二本、取り出した。

 

どこから取り出したのか、また、見えなかった。

 

鍵穴に、差し込んだ。

 

かち、と、小さく鳴った。

 

扉が、開いた。

 

中で、鈴無さんが、寝台に腰かけて、腕を組んでいた。

 

玖渚さんは、膝を抱えて、壁を見ていた。

 

鈴無さんが、私を見た。

 

「……戻ってきたわね」

 

「戻ってきました」

 

「目の届くところに、いた?」

 

鈴無さんは、私を見たまま、彼を顎で示した。

 

「いました。……屋根の上の時も」

 

鈴無さんは、ほんの少しだけ、眉を上げた。

 

「屋根?」

 

「体力測定です」

 

彼が、言った。

 

鈴無さんは、彼を見た。

 

見て、それから、長い息を吐いた。

 

「……説教、二つに増えたわよ、あんた」

 

彼は、首をすくめた。

 

寝台の上で、玖渚さんが、膝から顎を上げた。

 

上げて、彼を見た。

 

見て、それから、彼の上着の、内ポケットのあたりを、見た。

 

まばたきを、一度もしなかった。

 

「いーちゃん。……重たいもの、持ってる」

 

彼は、内ポケットの上に、手を置いた。

 

「拾った」

 

「拾ったの」

 

「押しつけられた」

 

玖渚さんは、しばらく、彼の手を見ていた。

 

それから、また、膝に顎を乗せた。

 

「いーちゃん、それ、使い方、知らないでしょ」

 

「知らない」

 

「知らない方が、いいよ。……知ってる人は、使っちゃうから」

 

彼と同じことを、玖渚さんは言った。

 

隣同士に座っている二人は、同じことを、別々の場所で、考えていたように見えた。

 

言葉を使わなくても、首の傾きで話が済む距離。

 

拳銃の話も、たぶん、それで済んだ。

 

石丸さんが、扉の外で、楽しそうに笑っていた。

 

「では、一時間後に、食堂で。博士には、わたくしから、そう申し上げておきますわ。……とびきり穴だらけのを、お待ちしておりますわよ」

 

笑いながら、扉を、また、閉めた。

 

鍵が、かかった。

 

開けた人が、閉めた。

 

閉めた人が、あと一時間で、もう一度、開ける、と言った。

 

その時、彼は、穴だらけの推理を、食堂で並べる。

 

材料は、揃っていた。

 

何もない部屋と、渡れる屋根と、使われない拳銃。

 

私は、椅子に、座った。

 

座って、ポケットの中で、手を握った。

 

握った手の中には、何もなかった。

 

何もないことを、私も、拾ってきた。

 

拾ったものを、食堂で言うつもりは、なかった。

 

穴は、穴のままにしておく。

 

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