嘘をつくのは、難しくない。
難しいのは、嘘だと分かっている人の前で、嘘をつき通すことだ。もっと難しいのは、嘘だと分かっていて、黙っていることだ。
黙っている人は、嘘の共犯になる。
食堂に、人が集められた。
長いテーブルの、昨日と同じ席に、施設の人間が座っていた。
上座に、
博士の前に、紙の束が置かれていた。揃えかけた書類だった。
私たちは、扉の近くに立っていた。
彼だけが、テーブルの端に立っていた。
「犯人が分かりました」
彼の声が、食堂の天井に、少しだけ、響いた。
さっき、彼は、三階の屋根の上で、真っ白な顔をしていた。手のひらに、白い塗料をつけて。
今、その手は、テーブルの端に、軽く置かれていた。
塗料は、洗い落としてあった。
地下に戻った時には、まだ、ついていた。玖渚さんは、膝を抱えたまま、それを見ていた。見て、何も言わなかった。
見られたあとで、この人は、洗った。
隠すためではなく、隣の人に、もう見せなくて済むように、だったのだと思う。
見られたものを、見られたまま、洗い落とす。それが、この人の、隣への座り方なのかもしれなかった。
一つ空けた私には、洗う前の手も、洗ったあとの手も、両方、見えていた。
洗い落とした手で、これから、穴だらけのものを並べるのだ、と思った。
犯人が分かりました、と、彼は言った。
いつもの声だった。大教室で、教授に当てられた時の声と、変わらなかった。
「
食堂が、静かになった。
博士が、紙の束から、目を上げた。
「根拠は」
「順番に話します」
彼は、話し始めた。
神足さんは、昨夜、兎吊木さんの部屋に入った。扉の仕組みは、施設の人間なら、開け方を知っている者がいる。神足さんは、その一人だった。
兎吊木さんを殺し、壁に磔にした。腕を広げて打ちつけたのは、死後硬直で固まった腕を、梁に掛けるためだった。掛けるのに使った縄は、神足さん自身の長い髪を、編んで作ったものだった。
顔を潰したのは、恨みだった。手を切り取ったのは、手に、神足さんの爪の跡が残っていたからだった。
殺したあと、神足さんは、屋上へ上がった。屋上から、棟と棟をつなぐ屋根を伝って、フェンスの外へ降りた。
だから、今朝、神足さんは、どこにもいなかった。
彼は、それを、一つずつ並べていった。
並べ方が、丁寧だった。丁寧すぎた。
私は、聞きながら、指を折っていた。
髪で、人を吊るせるほどの縄が編めるだろうか。死後硬直は、そんなに都合よく、腕を固めるだろうか。屋根を伝ってフェンスを越えるなら、鉄条網に、何か残っていないだろうか。
一つ、二つ、三つ。
折った指が、すぐに足りなくなった。
穴だらけだった。
石丸さんの言葉を、思い出した。とびきり、穴だらけの推理を。
穴だらけの推理を、彼は、穴を一つも隠さずに、並べていた。並べている彼の顔は、少しも、自信がなさそうではなかった。自信がないふりも、していなかった。ただ、並べていた。
食堂の人たちが、彼の話を聞いていた。
三好さんは、途中から、口元に手を当てていた。笑いをこらえているのか、何かを考えているのか、分からなかった。
死後硬直、という言葉が彼の口から出た時、三好さんの指が、口元の上で、ほんの少しだけ、動いた。
今朝、扉の前で、三好さんは言った。固まる前に広げたのか、固まってから広げたまま吊ったのか。どちらかで、何時に死んだかが変わる、と。
彼の推理は、その、どちらでもなかった。
どちらでもない、都合のいい固まり方を、彼は、並べていた。
三好さんは、それを、口元に手を当てたまま、聞いていた。
聞いていて、何も言わなかった。
言えば、穴が一つ、埋まる。三好さんは、たぶん、それを知っていた。知っていて、教え子の穴を、埋めなかったように見えた。
検品をする人が、検品の結果を、黙って、自分の中にしまっていた。
根尾さんは、腕を組んで、天井を見ていた。
大垣くんは、宇瀬さんの手を握っていた。
宇瀬さんは、推理のあいだ、一度も、彼の上着の内ポケットの方を、見なかった。
見ないようにしているのが、分かった。
拳銃のことは、誰も、口にしなかった。宇瀬さんも、彼も、玖渚さんも。私も。
知っている者たちが黙っている一つのことが、食堂のテーブルの上に、見えないまま、置かれていた。
宇瀬さんの手を握っている大垣くんは、それを知らなかった。
知らないまま、宇瀬さんの手を、握っていた。
握られた手が、少しだけ、震えていた。
震えているのを、大垣くんは、推理のせいだと思っているようだった。
思わせておくことを、宇瀬さんは、選んでいるようだった。
春日井さんは、無表情のまま、彼を見ていた。
玖渚さんは、鈴無さんの背中に隠れて、彼を見ていた。
まばたきを、一度もしていなかった。
博士は、黙って聞いていた。
聞きながら、指で、紙の束の端を、何度も揃え直していた。
「……以上です」
彼が、言い終えた。
博士は、しばらく、何も言わなかった。
それから、紙の束を、テーブルの端へ押しやった。
「愚かな推理だ」
「そうですね」
彼は、あっさりと認めた。
「でも、神足さんがいないことは、事実です。神足さんがいない理由を、他に説明できる人がいるなら、ぼくは、喜んで引っ込めます」
誰も、口を開かなかった。
博士の目が、テーブルの人間を、一人ずつ見ていった。
宇瀬さんで、止まった。宇瀬さんは、目を伏せた。大垣くんで、止まった。大垣くんは、睨み返した。根尾さんで、止まった。根尾さんは、天井を見たままだった。
最後に、玖渚さんで、止まった。
玖渚さんは、鈴無さんの背中から、にこにこと手を振った。
博士は、長い息を吐いた。
「……玖渚の、お嬢様を拘束した件は、こちらの早とちりだった、ということにしておこう」
しておこう、と博士は言った。
した、のではなかった。しておく、のだった。
「警察には、今夜、神足が兎吊木を殺して逃げた、と届ける。お嬢様方は、明朝、お引き取りいただく」
博士は、立ち上がった。
立ち上がって、食堂を出ていった。
出ていく時、一度だけ、彼を見た。
見る価値もない、という目ではなかった。地下の部屋で見た目とは、違う目だった。
値札を、付け直した目だった。
食堂を出たところで、廊下の窓際に、斜道博士が一人で立っていた。
窓の外は、もう、暗くなりかけていた。フェンスの影が、地面に長く伸びていた。
博士は、窓の外を見ていた。白衣の背中が、昨日より、少しだけ小さく見えた。
私が通り過ぎようとすると、博士が、窓を見たまま言った。
「凡庸な娘」
足を止めた。
「お前は、あの推理を、どう聞いた」
「穴だらけだと」
「そうだ。穴だらけだ」
博士は、窓ガラスに、指先を当てた。
「私は、四十年、天才というものを追いかけてきた。天から与えられるものなら、天の仕組みを解き明かせば、人の手で作れるはずだと。……作れなかった。作れないまま、玖渚の家の金で、人を材料にした」
宇瀬さんの言葉を、思い出した。博士は、昔は、ああではなかった。
「あの凡人は、今日、穴だらけの推理一つで、私の書類を、全部紙屑にした。天才でも何でもない男が。……天才を作ろうとした四十年が、凡人の戯言一つに、負けた」
博士は、そこで、初めて振り返った。
見開かれた目が、私を見た。
値札を確かめる目では、なかった。
「お前は、なぜ、黙っていた」
私は、答えなかった。
「お前は、気づいていたはずだ。あの推理が、穴だらけだということに。指を折っていた。食堂で、一人だけ、指を折っていた。……それなのに、一度も、口を開かなかった」
見られていた。
凡庸な人間の前では、何も隠さない。宇瀬さんは、そう言った。何も隠さない人間は、たぶん、相手のことも、隠さずに見ている。
「口を開いたら、あなたの書類が、紙屑にならずに済んだかもしれないわ」
「そうだ」
「だから、黙っていたのよ」
博士は、しばらく、私を見ていた。
それから、喉の奥で、低く笑った。
笑い方を、長いあいだ、忘れていた人の笑い方だった。
「凡庸だな」
博士は、また、窓の外を向いた。
「凡庸な人間は、天を待たない。待たずに、自分で座る場所を決める。……私は、それを、四十年、見落としていたのかもしれん」
博士は、それから、窓ガラスに当てた指を、少しだけ、滑らせた。
「天才を作る、と私は言った。……作れなかった。私のやり方は、雑だったのだろう」
雑。
六月の夜、電話の向こうで、同じ字を聞いた。斜道の施設は、作り方が雑だ、と。
「雑ではないやり方を、知っているのですか」
訊いてから、余計なことを訊いたと思った。
博士は、窓の外を見たまま、少しだけ、息を漏らした。
「噂だけはな。……この国のどこかに、私より、ずっと静かに作っている者たちがいる。一人の天才を囲い込むのではない。子どもを、最初から、育て直す。何も教えず、全部を教える。名前も、看板も、出さずにな」
博士の声は、羨むようでも、蔑むようでもなかった。
遠くの山の天気を言うような声だった。
「私の金主は、玖渚の家だった。あそこと同じ高さに、もっと静かな金がある、と聞く。……上の方の世界では、天才は、作るものではなく、揃えるものなのだそうだ」
揃える。
私は、何も言わなかった。
言わずに、窓ガラスに映った自分の顔を、見ていた。
顔の後ろに、電話の向こうの、平らな声が、重なった気がした。
《オレが育った場所も、似たようなところだった》
《今は、作る側にいる》
「凡庸な娘」
博士が、言った。
「そういう場所を、知っている顔をしているな」
「知りません」
「そうか」
博士は、それ以上は、訊かなかった。
訊かないのは、期待していないからだった。宇瀬さんの言うとおりだった。期待していない人間には、何も隠さない。何も、訊きもしない。
訊かれなかったことに、私は、少しだけ、救われた。
それきり、博士は、何も言わなかった。
私は、博士の背中を、一度だけ見て、歩き出した。
天才を作れなかった人が、凡庸だな、と私に言ったのは、これで二度目だった。二度目の字は、一度目と、少しだけ違う重さをしていた。
一度目は、値札だった。二度目は、たぶん、診断だった。
移ったことに、博士本人が気づいているのかどうかは、分からなかった。分からなくてもいい、と私は思った。
博士の部屋の前の廊下を戻る途中で、宇瀬さんとすれ違った。
宇瀬さんは、紙の束を、もう抱えていなかった。
両手が、空いていた。
空いた両手を、どうしていいのか分からないように、スーツの前で、軽く組んでいた。
「……書類は」
私が訊くと、宇瀬さんは、少しだけ、目を伏せた。
「博士が、要らないと。……神足さんが犯人だという書類を、別に、作り直すことになりました」
作り直す。
穴だらけの推理を、書類にする。穴だらけのまま、紙の上で、本当のことになる。
「宇瀬さんが、作るのですか」
「はい。……私の仕事ですから」
宇瀬さんは、少しだけ、笑った。
笑い方が、昨日の夕食の時より、少しだけ、軽かった。
毎日持っていた重さを、今日、取られた人の笑い方だった。
宇瀬さんは、会釈をして、私の横を通り過ぎた。
通り過ぎてから、振り返らずに、言った。
「堀北さん。……拳銃のことは、ありがとうございました」
「私は、何もしていません」
「書類を、一枚、拾ってくださいました」
宇瀬さんは、それだけ言って、廊下の角を曲がった。
一枚。
拾ったのは、一枚だけだった。
日の落ちた頃、部屋に戻る廊下で、鈴無さんの声が聞こえた。
奥の部屋の、扉が少しだけ開いていた。
「あんた、屋根を渡ったんですって?」
「……体力測定です」
彼の声だった。
「体力測定で、三階の屋根を這う大学生がどこにいるのよ。説教、二つって言ったわね。一つ目は、勝手に出ていったこと。二つ目は、屋根」
「はい」
「屋根の方はね、説教しないことにしたわ」
「……どうしてですか」
「あんたが、渡れるって確かめたから、あの穴だらけの推理が、穴だらけのまま立ったんでしょ。……立たせるために渡った屋根を、叱るわけにいかないじゃない」
少しの間があった。
「その代わり、二度とやらないこと。……あおちゃんの隣に戻る時、手のひらに屋根の塗料をつけたまま戻るのは、やめなさい。あの子は、そういうのを、全部見てるんだわよ」
「……はい」
扉の隙間から、玖渚さんの声が、小さく聞こえた。
「見てたよー。白いの、ついてた」
鈴無さんが、溜め息をついた。
私は、扉の前を、足音を立てずに、通り過ぎた。
通り過ぎながら、自分の手のひらを、見た。
何も、ついていなかった。
屋根を渡らなかった手だった。
渡らなかったことを、私は、後悔していなかった。
渡れることは、もう、分かっていた。分かったことを、確かめ直さない。確かめ直さないことを、私は、信じると呼ぶことにした。
信じたことは、手のひらには、何も、残らない。
残らない方の手で、明日も、この人の隣に、一つ空けて座る。
残らないものを、私は、手を握って、部屋まで持って帰った。
夕食は、彼とも玖渚さんとも、一緒にならなかった。
食堂に降りると、長いテーブルに、春日井さんが一人で座っていた。足元に、犬が三頭、伏せていた。
博士の席は、今夜も、空いていた。椅子は、テーブルの下に、きちんと押し込まれていた。
宇瀬さんは、まだ、書類を作っているのだと思った。
私は、春日井さんから、一つ空けた席に座った。
春日井さんは、今夜は、魚を食べていた。骨を、一本ずつ、皿の端に並べながら。
「今夜は、食べるんですね」
「骨の並び方は昨日見たから。今日は食べるだけ」
春日井さんは、骨を一本、皿の端に置いた。
「神足くんが犯人で逃げたことになったわね」
「……なりました」
「なったことになったことは本当になる。書類になるから」
春日井さんは、私を見なかった。
「あなたは知っているわね。犬たちも知っている。私も知っている。知っている人間が知らないふりをしている夜はご飯がおいしい」
私は、箸を止めた。
春日井さんは、平らな声のまま、骨をもう一本、並べた。
「私は言わない。選ばないから言うことも選ばない」
それだけ言って、春日井さんは、魚を食べ終えた。
食べ終えて、骨を、皿の端に、全部、並べ終えた。
並んだ骨は、一本ずつ、少しずつ、違う形をしていた。
違う形をしているのに、全部、同じ魚の骨だった。
足元で、犬の一頭が、小さく、鼻を鳴らした。
春日井さんは、その頭を、一度だけ撫でた。
撫で方が、今朝と同じに、驚くほど、優しかった。
その夜も、私は、部屋から出た。
出ない方がいい、とは、もう誰も言わなかった。
部屋を出る前に、一度だけ、ドアの内側で立ち止まった。
昨夜は、足音を追って出た。今夜は、追う足音がなかった。追うものがないのに出ていくのは、ただの、出ていきたい人だった。
出ていきたいのかどうかを、自分に訊いた。
答えは、出なかった。
出なかったけれど、一つだけ、分かっていることがあった。この施設のどこかに、まだ、出ていっていない人がいる。今朝、顔のない死体として名前を貼られて、明日には、警察の書類の中で、人を殺して逃げた男の名前を貼られる人。
貼られた名前の下に、本当は誰がいるのか。
それを、誰にも言わないと、私は、食堂で黙っているあいだに、決め直した。決めたのなら、決めたものの行き先くらいは、見ておきたかった。言わないことを選んだ人間は、言わなかったものが、どこへ行くのかを、見届ける義理がある。
私は、ドアを開けた。
廊下の天井の隅で、カメラの赤い光が、一つ点いていた。
この光の向こうで、玖渚さんが見ているかもしれなかった。見ていても、構わなかった。あの子は、言いたくない顔は調べない。調べないと言った子の前で、隠れる理由はなかった。
渡り廊下を抜けて、裏口の方へ向かった。
途中で、非常口の緑の灯りの下を、通った。
今朝、春日井さんの犬たちが、ずっと見ていた方角だった。
非常口の扉の前の床に、細い跡が、ついていた。何か重いものを、引きずったような跡ではなかった。何か、軽いものが、何度も、行き来したような跡だった。
一人分の足跡が、何度も、同じところを踏んだ跡。
犬は、血の匂いの方ではなく、こちらを見ていた。
見ていたものを、私は、今、見ていた。
見たことを、誰にも、言わないことにした。
言わないことが、また一つ、増えた。
増えた分だけ、私は、この施設で、黙っている人間の側に、深く座っていった。
黙っている人間の側に座るのは、高校の三年間で、慣れていた。
あの頃は、自分のために黙っていた。
今夜は、扉の向こうの誰かが、扉の外へ出られるように、黙っていた。
非常口の脇の、裏口の扉を押して、建物の裏に出た。
夜の空気が、昼間より、少しだけ冷たかった。
フェンスの前に、外灯が一本だけ立っていた。外灯の光が、フェンスの網目を、地面に落としていた。網目の影が、私の足元まで伸びていた。
外灯の下に、人が立っていた。
背の高い男だった。
頭を、きれいに剃り上げていた。外灯の光が、剃った頭に、白く映っていた。夜なのに、黒い眼鏡をかけていた。サングラスだった。施設の作業着のような服を着ていた。
男は、フェンスの、ある一か所の前に立っていた。
フェンスの網が、そこだけ、四角く切り取られていた。人が一人、屈めば通れるくらいの大きさだった。
私の足音に、男が振り返った。
サングラスの奥の目は、見えなかった。
見えなかったけれど、知らない人ではない気がした。
外灯の光が、剃り上げた頭の上で、白く光っていた。
剃り残しの、短い毛が、少しだけ、見えた。
白かった。
黒い髪を剃った跡ではなかった。白い髪を、剃った跡だった。
前髪で顔を隠していた人の髪は、長くて、白くはなかった。夕食の席で、私は、それを見ていた。
この人の剃り跡は、白かった。
それだけで、足りた。
「……こんばんは」
私が言った。
男は、少しのあいだ、黙っていた。
それから、口を開いた。
「こんばんは、堀北さん」
穏やかな声だった。
穏やかすぎて、どこにも引っかかるところがなかった。つるつるした石を、手のひらで転がしているような声だった。
昨夜、扉の向こうで聞いた声だった。
「今日の推理、聞いていたかい」
「聞いていたわ」
「どう思った」
「穴だらけだった」
「だろうね」
兎吊木さんは、笑った。
「あいつは、穴だらけにしたんだよ。わざとね。穴だらけの推理は、誰も信じない。誰も信じないけど、誰も、他の推理を出せない。出せないから、穴だらけのまま、話が決まる。……決まった話の中では、神足雛善は、人を殺して逃げた男になる」
「逃げた男が、今、ここにいる」
「そう。逃げた男が、今から、逃げるところだ」
兎吊木さんは、サングラスの位置を、指で直した。
「いつ、気づいた」
「今朝」
「今朝の、いつ」
「壁の人を見た時。……見ても、あなただとは思えなかった。声しか知らない人の死体を、私は、見分けられない。見分けられないのに、全員が、あなただと言った。言えるだけの材料を、誰も持っていないのに」
「それだけで?」
「それから、神足さんがいなかった」
「それから?」
「それから、今、あなたが、昨夜と同じ声で、こんばんは、と言った」
兎吊木さんは、黙った。
黙ってから、静かに、手を叩いた。二度だけ。
「神足雛善は、髪で顔を隠していた。顔を見た人間が、この施設にはほとんどいない。声も、ほとんど誰も聞いたことがない。……だから、顔のない死体になっても、誰も、神足だとは思わなかった。神足は、人前では、名乗るくらいしか口を開かない男だ。……その一言と、扉越しの僕の声。両方を聞いた外の人間は、友の他には、たぶん、きみだけだよ」
神足雛善、と、夕食の席で、神足さんは名乗った。
それきり、一言も喋らなかった。
「きみは、それに気づいて、今朝から、ずっと黙っていた」
「黙っていたわ」
「どうして」
私は、フェンスの切り口を見た。
四角く切り取られた網の向こうに、暗い森があった。
「言ったら、誰かが、何かを決めなければならなくなるから」
「誰かって」
「彼と、玖渚さん」
兎吊木さんは、また、黙った。
「あの二人は、知っていたわ。たぶん、私より先に。知っていて、黙って、穴だらけの推理を並べた。……私が口を開けば、二人が並べたものが、崩れる。崩れたら、あなたは、ここから出られない」
兎吊木さんは、そこで、少しだけ、首を傾げた。
「昨夜の問いは、戯言遣いに、伝えたかい」
「伝えていません」
「訊かれていないから?」
「訊かれていないから」
兎吊木さんは、サングラスの奥で、少しだけ笑ったようだった。
「きみは、本当に、伝えないんだね。……あの問いはね、伝えられなかった方が、長持ちするんだ。答えの出ないまま、きみの中に、ずっと残る」
「残っても、構いません」
「そう。構わない人のところにしか、ああいう問いは、置けないんだ」
兎吊木さんは、サングラスを、指で少しだけ押し上げた。
「僕を、出したかったのかい」
「分からないわ」
正直に、言った。
「あなたが人を殺したことは、分かっている。殺した人を、自分の身代わりにしたことも。それを、私は、許してはいない。許してはいないけれど、黙っていた」
「許していないのに、黙っていた」
「黙っていることを、選んだのよ。誰かに選ばされたのではなく」
兎吊木さんは、長いあいだ、私を見ていた。
サングラスの奥の目は、見えなかった。
「きみは、死体を見て、すぐに顔を逸らさなかったね」
「見ていたの」
「
兎吊木さんは、少しだけ笑った。
「見たうえで、黙っていた。……普通の人間はね、見たら、喋るんだ。喋らずにいられない。喋らずにいられる人間は、だいたい、見ていない。見て、喋らない人間を、僕は、玖渚友の他に、初めて見た」
私は、何も言わなかった。
この人は、人を殺した。
その人に、褒められていた。
褒められたことを、私は、嬉しいとは思わなかった。思わなかったけれど、嫌だとも、思わなかった。
兎吊木さんは、フェンスの切り口に、身を屈めた。
屈めて、半分だけ、網の向こうへ出た。
それから、振り返った。
「戯言遣いに、伝えてくれるかな」
「何を」
「いや、いいや。伝えなくていい」
昨夜と、同じことを言った。
それから、少しだけ、付け足した。
「僕が出ていく時、きみだけが、僕の顔を、ちゃんと見たね」
見ていた。
剃った頭も、黒い眼鏡も、作業着も。全部、隠すためのものだった。隠すためのものの奥にある顔を、私は、見ようとしていた。
見えたのかどうかは、分からない。
分からないけれど、見ようとするのをやめなかった。
「さようなら、堀北さん。……壊れない人に、会えてよかった」
兎吊木さんは、網の向こうへ消えた。
壊れない人間は二種類いる、とこの人は言った。前の方は、一人しか知らない、とも。
私は、前の方ではない。
預けた、とは、まだ、誰にも言っていなかった。
暗い森の中に、足音が、しばらく聞こえていた。
聞こえなくなってから、私は、外灯の下を離れた。
建物の陰に、彼が立っていた。
いつから、そこにいたのかは、分からなかった。
「……見ていたの」
「見てた。見てただけ」
彼は、フェンスの切り口を見ていた。
「ありがとう」
「何に対して」
「黙っていてくれたことに。……ぼくと友は、知ってて黙った。君は、知って、自分で黙った。同じ黙るでも、たぶん、重さが違う」
「重さは、同じよ」
私は、言った。
彼は、私を見た。
それから、少しだけ、笑った。
「戯言だね」
「あなたの口癖でしょう」
「そうだった」
それから、彼は、上着の内ポケットの上に、手を置いた。
「これ、どうしよう」
「持っていればいいわ」
「京都まで?」
「京都まで。……使い方を知らない人が持っているのが、いちばん安全なのでしょう」
彼は、少しだけ笑った。
「自分で言ったことを、返されると、困るね」
「困るように、返したのよ」
フェンスの切り口の向こうで、森が、夜の風に、鳴っていた。
逃げた男の足音は、もう、どこにも聞こえなかった。
聞こえなくなった森を、二人で、一つ空けて、しばらく見ていた。
部屋へ戻る廊下で、彼は、一度だけ、立ち止まった。
兎吊木さんの部屋だった扉の前だった。
扉には、黄色と黒の縞のテープが、斜めに貼られていた。エレベーターの扉と、同じテープだった。
使用禁止。
「……閉じ込められてた人が出ていった部屋に、立入禁止のテープが貼られる」
彼は、小さく言った。
「出ていった人は、もう、入らないのにね」
「入らないように、ではなくて、出ていったことを、忘れないように、なのかもしれないわ」
彼は、少しだけ、私を見た。
それから、テープを、指で、一度だけ、なぞった。
なぞって、何も言わずに、歩き出した。