ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

19 / 27
第19話 解放(介抱)

嘘をつくのは、難しくない。

 

難しいのは、嘘だと分かっている人の前で、嘘をつき通すことだ。もっと難しいのは、嘘だと分かっていて、黙っていることだ。

 

黙っている人は、嘘の共犯になる。

 

 

 

 

 

食堂に、人が集められた。

 

長いテーブルの、昨日と同じ席に、施設の人間が座っていた。宇瀬(うぜ)さん、大垣くん、根尾(ねお)さん、三好さん、春日井(かすがい)さん。神足(こうたり)さんの席だけが、空いていた。

 

上座に、斜道(しゃどう)博士が座っていた。

 

博士の前に、紙の束が置かれていた。揃えかけた書類だった。

 

私たちは、扉の近くに立っていた。鈴無(すずなし)さんと、玖渚(くなぎさ)さんと、私。石丸さんの姿は、どこにもなかった。一時間後に、もう一度、地下の扉を開けたあと、石丸さんは、廊下の角を曲がって、それきりだった。

 

彼だけが、テーブルの端に立っていた。

 

「犯人が分かりました」

 

彼の声が、食堂の天井に、少しだけ、響いた。

 

さっき、彼は、三階の屋根の上で、真っ白な顔をしていた。手のひらに、白い塗料をつけて。

 

今、その手は、テーブルの端に、軽く置かれていた。

 

塗料は、洗い落としてあった。

 

地下に戻った時には、まだ、ついていた。玖渚さんは、膝を抱えたまま、それを見ていた。見て、何も言わなかった。

 

見られたあとで、この人は、洗った。

 

隠すためではなく、隣の人に、もう見せなくて済むように、だったのだと思う。

 

見られたものを、見られたまま、洗い落とす。それが、この人の、隣への座り方なのかもしれなかった。

 

一つ空けた私には、洗う前の手も、洗ったあとの手も、両方、見えていた。

 

洗い落とした手で、これから、穴だらけのものを並べるのだ、と思った。

 

犯人が分かりました、と、彼は言った。

 

いつもの声だった。大教室で、教授に当てられた時の声と、変わらなかった。

 

「兎吊木垓輔(うつりぎがいすけ)さんを殺したのは、神足雛善(こうたりひなよし)さんです。神足さんは、殺したあと、この施設から逃げました」

 

食堂が、静かになった。

 

博士が、紙の束から、目を上げた。

 

「根拠は」

 

「順番に話します」

 

彼は、話し始めた。

 

神足さんは、昨夜、兎吊木さんの部屋に入った。扉の仕組みは、施設の人間なら、開け方を知っている者がいる。神足さんは、その一人だった。

 

兎吊木さんを殺し、壁に磔にした。腕を広げて打ちつけたのは、死後硬直で固まった腕を、梁に掛けるためだった。掛けるのに使った縄は、神足さん自身の長い髪を、編んで作ったものだった。

 

顔を潰したのは、恨みだった。手を切り取ったのは、手に、神足さんの爪の跡が残っていたからだった。

 

殺したあと、神足さんは、屋上へ上がった。屋上から、棟と棟をつなぐ屋根を伝って、フェンスの外へ降りた。

 

だから、今朝、神足さんは、どこにもいなかった。

 

彼は、それを、一つずつ並べていった。

 

並べ方が、丁寧だった。丁寧すぎた。

 

私は、聞きながら、指を折っていた。

 

髪で、人を吊るせるほどの縄が編めるだろうか。死後硬直は、そんなに都合よく、腕を固めるだろうか。屋根を伝ってフェンスを越えるなら、鉄条網に、何か残っていないだろうか。

 

一つ、二つ、三つ。

 

折った指が、すぐに足りなくなった。

 

穴だらけだった。

 

石丸さんの言葉を、思い出した。とびきり、穴だらけの推理を。

 

穴だらけの推理を、彼は、穴を一つも隠さずに、並べていた。並べている彼の顔は、少しも、自信がなさそうではなかった。自信がないふりも、していなかった。ただ、並べていた。

 

食堂の人たちが、彼の話を聞いていた。

 

三好さんは、途中から、口元に手を当てていた。笑いをこらえているのか、何かを考えているのか、分からなかった。

 

死後硬直、という言葉が彼の口から出た時、三好さんの指が、口元の上で、ほんの少しだけ、動いた。

 

今朝、扉の前で、三好さんは言った。固まる前に広げたのか、固まってから広げたまま吊ったのか。どちらかで、何時に死んだかが変わる、と。

 

彼の推理は、その、どちらでもなかった。

 

どちらでもない、都合のいい固まり方を、彼は、並べていた。

 

三好さんは、それを、口元に手を当てたまま、聞いていた。

 

聞いていて、何も言わなかった。

 

言えば、穴が一つ、埋まる。三好さんは、たぶん、それを知っていた。知っていて、教え子の穴を、埋めなかったように見えた。

 

検品をする人が、検品の結果を、黙って、自分の中にしまっていた。

 

根尾さんは、腕を組んで、天井を見ていた。

 

大垣くんは、宇瀬さんの手を握っていた。

 

宇瀬さんは、推理のあいだ、一度も、彼の上着の内ポケットの方を、見なかった。

 

見ないようにしているのが、分かった。

 

拳銃のことは、誰も、口にしなかった。宇瀬さんも、彼も、玖渚さんも。私も。

 

知っている者たちが黙っている一つのことが、食堂のテーブルの上に、見えないまま、置かれていた。

 

宇瀬さんの手を握っている大垣くんは、それを知らなかった。

 

知らないまま、宇瀬さんの手を、握っていた。

 

握られた手が、少しだけ、震えていた。

 

震えているのを、大垣くんは、推理のせいだと思っているようだった。

 

思わせておくことを、宇瀬さんは、選んでいるようだった。

 

春日井さんは、無表情のまま、彼を見ていた。

 

玖渚さんは、鈴無さんの背中に隠れて、彼を見ていた。

 

まばたきを、一度もしていなかった。

 

博士は、黙って聞いていた。

 

聞きながら、指で、紙の束の端を、何度も揃え直していた。

 

「……以上です」

 

彼が、言い終えた。

 

博士は、しばらく、何も言わなかった。

 

それから、紙の束を、テーブルの端へ押しやった。

 

「愚かな推理だ」

 

「そうですね」

 

彼は、あっさりと認めた。

 

「でも、神足さんがいないことは、事実です。神足さんがいない理由を、他に説明できる人がいるなら、ぼくは、喜んで引っ込めます」

 

誰も、口を開かなかった。

 

博士の目が、テーブルの人間を、一人ずつ見ていった。

 

宇瀬さんで、止まった。宇瀬さんは、目を伏せた。大垣くんで、止まった。大垣くんは、睨み返した。根尾さんで、止まった。根尾さんは、天井を見たままだった。

 

最後に、玖渚さんで、止まった。

 

玖渚さんは、鈴無さんの背中から、にこにこと手を振った。

 

博士は、長い息を吐いた。

 

「……玖渚の、お嬢様を拘束した件は、こちらの早とちりだった、ということにしておこう」

 

しておこう、と博士は言った。

 

した、のではなかった。しておく、のだった。

 

「警察には、今夜、神足が兎吊木を殺して逃げた、と届ける。お嬢様方は、明朝、お引き取りいただく」

 

博士は、立ち上がった。

 

立ち上がって、食堂を出ていった。

 

出ていく時、一度だけ、彼を見た。

 

見る価値もない、という目ではなかった。地下の部屋で見た目とは、違う目だった。

 

値札を、付け直した目だった。

 

 

 

 

 

食堂を出たところで、廊下の窓際に、斜道博士が一人で立っていた。

 

窓の外は、もう、暗くなりかけていた。フェンスの影が、地面に長く伸びていた。

 

博士は、窓の外を見ていた。白衣の背中が、昨日より、少しだけ小さく見えた。

 

私が通り過ぎようとすると、博士が、窓を見たまま言った。

 

「凡庸な娘」

 

足を止めた。

 

「お前は、あの推理を、どう聞いた」

 

「穴だらけだと」

 

「そうだ。穴だらけだ」

 

博士は、窓ガラスに、指先を当てた。

 

「私は、四十年、天才というものを追いかけてきた。天から与えられるものなら、天の仕組みを解き明かせば、人の手で作れるはずだと。……作れなかった。作れないまま、玖渚の家の金で、人を材料にした」

 

宇瀬さんの言葉を、思い出した。博士は、昔は、ああではなかった。

 

「あの凡人は、今日、穴だらけの推理一つで、私の書類を、全部紙屑にした。天才でも何でもない男が。……天才を作ろうとした四十年が、凡人の戯言一つに、負けた」

 

博士は、そこで、初めて振り返った。

 

見開かれた目が、私を見た。

 

値札を確かめる目では、なかった。

 

「お前は、なぜ、黙っていた」

 

私は、答えなかった。

 

「お前は、気づいていたはずだ。あの推理が、穴だらけだということに。指を折っていた。食堂で、一人だけ、指を折っていた。……それなのに、一度も、口を開かなかった」

 

見られていた。

 

凡庸な人間の前では、何も隠さない。宇瀬さんは、そう言った。何も隠さない人間は、たぶん、相手のことも、隠さずに見ている。

 

「口を開いたら、あなたの書類が、紙屑にならずに済んだかもしれないわ」

 

「そうだ」

 

「だから、黙っていたのよ」

 

博士は、しばらく、私を見ていた。

 

それから、喉の奥で、低く笑った。

 

笑い方を、長いあいだ、忘れていた人の笑い方だった。

 

「凡庸だな」

 

博士は、また、窓の外を向いた。

 

「凡庸な人間は、天を待たない。待たずに、自分で座る場所を決める。……私は、それを、四十年、見落としていたのかもしれん」

 

博士は、それから、窓ガラスに当てた指を、少しだけ、滑らせた。

 

「天才を作る、と私は言った。……作れなかった。私のやり方は、雑だったのだろう」

 

雑。

 

六月の夜、電話の向こうで、同じ字を聞いた。斜道の施設は、作り方が雑だ、と。

 

「雑ではないやり方を、知っているのですか」

 

訊いてから、余計なことを訊いたと思った。

 

博士は、窓の外を見たまま、少しだけ、息を漏らした。

 

「噂だけはな。……この国のどこかに、私より、ずっと静かに作っている者たちがいる。一人の天才を囲い込むのではない。子どもを、最初から、育て直す。何も教えず、全部を教える。名前も、看板も、出さずにな」

 

博士の声は、羨むようでも、蔑むようでもなかった。

 

遠くの山の天気を言うような声だった。

 

「私の金主は、玖渚の家だった。あそこと同じ高さに、もっと静かな金がある、と聞く。……上の方の世界では、天才は、作るものではなく、揃えるものなのだそうだ」

 

揃える。

 

私は、何も言わなかった。

 

言わずに、窓ガラスに映った自分の顔を、見ていた。

 

顔の後ろに、電話の向こうの、平らな声が、重なった気がした。

 

《オレが育った場所も、似たようなところだった》

 

《今は、作る側にいる》

 

「凡庸な娘」

 

博士が、言った。

 

「そういう場所を、知っている顔をしているな」

 

「知りません」

 

「そうか」

 

博士は、それ以上は、訊かなかった。

 

訊かないのは、期待していないからだった。宇瀬さんの言うとおりだった。期待していない人間には、何も隠さない。何も、訊きもしない。

 

訊かれなかったことに、私は、少しだけ、救われた。

 

それきり、博士は、何も言わなかった。

 

私は、博士の背中を、一度だけ見て、歩き出した。

 

天才を作れなかった人が、凡庸だな、と私に言ったのは、これで二度目だった。二度目の字は、一度目と、少しだけ違う重さをしていた。

 

一度目は、値札だった。二度目は、たぶん、診断だった。

 

移ったことに、博士本人が気づいているのかどうかは、分からなかった。分からなくてもいい、と私は思った。

 

博士の部屋の前の廊下を戻る途中で、宇瀬さんとすれ違った。

 

宇瀬さんは、紙の束を、もう抱えていなかった。

 

両手が、空いていた。

 

空いた両手を、どうしていいのか分からないように、スーツの前で、軽く組んでいた。

 

「……書類は」

 

私が訊くと、宇瀬さんは、少しだけ、目を伏せた。

 

「博士が、要らないと。……神足さんが犯人だという書類を、別に、作り直すことになりました」

 

作り直す。

 

穴だらけの推理を、書類にする。穴だらけのまま、紙の上で、本当のことになる。

 

「宇瀬さんが、作るのですか」

 

「はい。……私の仕事ですから」

 

宇瀬さんは、少しだけ、笑った。

 

笑い方が、昨日の夕食の時より、少しだけ、軽かった。

 

毎日持っていた重さを、今日、取られた人の笑い方だった。

 

宇瀬さんは、会釈をして、私の横を通り過ぎた。

 

通り過ぎてから、振り返らずに、言った。

 

「堀北さん。……拳銃のことは、ありがとうございました」

 

「私は、何もしていません」

 

「書類を、一枚、拾ってくださいました」

 

宇瀬さんは、それだけ言って、廊下の角を曲がった。

 

一枚。

 

拾ったのは、一枚だけだった。

 

 

 

 

 

日の落ちた頃、部屋に戻る廊下で、鈴無さんの声が聞こえた。

 

奥の部屋の、扉が少しだけ開いていた。

 

「あんた、屋根を渡ったんですって?」

 

「……体力測定です」

 

彼の声だった。

 

「体力測定で、三階の屋根を這う大学生がどこにいるのよ。説教、二つって言ったわね。一つ目は、勝手に出ていったこと。二つ目は、屋根」

 

「はい」

 

「屋根の方はね、説教しないことにしたわ」

 

「……どうしてですか」

 

「あんたが、渡れるって確かめたから、あの穴だらけの推理が、穴だらけのまま立ったんでしょ。……立たせるために渡った屋根を、叱るわけにいかないじゃない」

 

少しの間があった。

 

「その代わり、二度とやらないこと。……あおちゃんの隣に戻る時、手のひらに屋根の塗料をつけたまま戻るのは、やめなさい。あの子は、そういうのを、全部見てるんだわよ」

 

「……はい」

 

扉の隙間から、玖渚さんの声が、小さく聞こえた。

 

「見てたよー。白いの、ついてた」

 

鈴無さんが、溜め息をついた。

 

私は、扉の前を、足音を立てずに、通り過ぎた。

 

通り過ぎながら、自分の手のひらを、見た。

 

何も、ついていなかった。

 

屋根を渡らなかった手だった。

 

渡らなかったことを、私は、後悔していなかった。

 

渡れることは、もう、分かっていた。分かったことを、確かめ直さない。確かめ直さないことを、私は、信じると呼ぶことにした。

 

信じたことは、手のひらには、何も、残らない。

 

残らない方の手で、明日も、この人の隣に、一つ空けて座る。

 

残らないものを、私は、手を握って、部屋まで持って帰った。

 

夕食は、彼とも玖渚さんとも、一緒にならなかった。

 

食堂に降りると、長いテーブルに、春日井さんが一人で座っていた。足元に、犬が三頭、伏せていた。

 

博士の席は、今夜も、空いていた。椅子は、テーブルの下に、きちんと押し込まれていた。

 

宇瀬さんは、まだ、書類を作っているのだと思った。

 

私は、春日井さんから、一つ空けた席に座った。

 

春日井さんは、今夜は、魚を食べていた。骨を、一本ずつ、皿の端に並べながら。

 

「今夜は、食べるんですね」

 

「骨の並び方は昨日見たから。今日は食べるだけ」

 

春日井さんは、骨を一本、皿の端に置いた。

 

「神足くんが犯人で逃げたことになったわね」

 

「……なりました」

 

「なったことになったことは本当になる。書類になるから」

 

春日井さんは、私を見なかった。

 

「あなたは知っているわね。犬たちも知っている。私も知っている。知っている人間が知らないふりをしている夜はご飯がおいしい」

 

私は、箸を止めた。

 

春日井さんは、平らな声のまま、骨をもう一本、並べた。

 

「私は言わない。選ばないから言うことも選ばない」

 

それだけ言って、春日井さんは、魚を食べ終えた。

 

食べ終えて、骨を、皿の端に、全部、並べ終えた。

 

並んだ骨は、一本ずつ、少しずつ、違う形をしていた。

 

違う形をしているのに、全部、同じ魚の骨だった。

 

足元で、犬の一頭が、小さく、鼻を鳴らした。

 

春日井さんは、その頭を、一度だけ撫でた。

 

撫で方が、今朝と同じに、驚くほど、優しかった。

 

 

 

 

 

その夜も、私は、部屋から出た。

 

出ない方がいい、とは、もう誰も言わなかった。

 

部屋を出る前に、一度だけ、ドアの内側で立ち止まった。

 

昨夜は、足音を追って出た。今夜は、追う足音がなかった。追うものがないのに出ていくのは、ただの、出ていきたい人だった。

 

出ていきたいのかどうかを、自分に訊いた。

 

答えは、出なかった。

 

出なかったけれど、一つだけ、分かっていることがあった。この施設のどこかに、まだ、出ていっていない人がいる。今朝、顔のない死体として名前を貼られて、明日には、警察の書類の中で、人を殺して逃げた男の名前を貼られる人。

 

貼られた名前の下に、本当は誰がいるのか。

 

それを、誰にも言わないと、私は、食堂で黙っているあいだに、決め直した。決めたのなら、決めたものの行き先くらいは、見ておきたかった。言わないことを選んだ人間は、言わなかったものが、どこへ行くのかを、見届ける義理がある。

 

私は、ドアを開けた。

 

廊下の天井の隅で、カメラの赤い光が、一つ点いていた。

 

この光の向こうで、玖渚さんが見ているかもしれなかった。見ていても、構わなかった。あの子は、言いたくない顔は調べない。調べないと言った子の前で、隠れる理由はなかった。

 

渡り廊下を抜けて、裏口の方へ向かった。

 

途中で、非常口の緑の灯りの下を、通った。

 

今朝、春日井さんの犬たちが、ずっと見ていた方角だった。

 

非常口の扉の前の床に、細い跡が、ついていた。何か重いものを、引きずったような跡ではなかった。何か、軽いものが、何度も、行き来したような跡だった。

 

一人分の足跡が、何度も、同じところを踏んだ跡。

 

犬は、血の匂いの方ではなく、こちらを見ていた。

 

見ていたものを、私は、今、見ていた。

 

見たことを、誰にも、言わないことにした。

 

言わないことが、また一つ、増えた。

 

増えた分だけ、私は、この施設で、黙っている人間の側に、深く座っていった。

 

黙っている人間の側に座るのは、高校の三年間で、慣れていた。

 

あの頃は、自分のために黙っていた。

 

今夜は、扉の向こうの誰かが、扉の外へ出られるように、黙っていた。

 

非常口の脇の、裏口の扉を押して、建物の裏に出た。

 

夜の空気が、昼間より、少しだけ冷たかった。

 

フェンスの前に、外灯が一本だけ立っていた。外灯の光が、フェンスの網目を、地面に落としていた。網目の影が、私の足元まで伸びていた。

 

外灯の下に、人が立っていた。

 

背の高い男だった。

 

頭を、きれいに剃り上げていた。外灯の光が、剃った頭に、白く映っていた。夜なのに、黒い眼鏡をかけていた。サングラスだった。施設の作業着のような服を着ていた。

 

男は、フェンスの、ある一か所の前に立っていた。

 

フェンスの網が、そこだけ、四角く切り取られていた。人が一人、屈めば通れるくらいの大きさだった。

 

私の足音に、男が振り返った。

 

サングラスの奥の目は、見えなかった。

 

見えなかったけれど、知らない人ではない気がした。

 

外灯の光が、剃り上げた頭の上で、白く光っていた。

 

剃り残しの、短い毛が、少しだけ、見えた。

 

白かった。

 

黒い髪を剃った跡ではなかった。白い髪を、剃った跡だった。

 

前髪で顔を隠していた人の髪は、長くて、白くはなかった。夕食の席で、私は、それを見ていた。

 

この人の剃り跡は、白かった。

 

それだけで、足りた。

 

「……こんばんは」

 

私が言った。

 

男は、少しのあいだ、黙っていた。

 

それから、口を開いた。

 

「こんばんは、堀北さん」

 

穏やかな声だった。

 

穏やかすぎて、どこにも引っかかるところがなかった。つるつるした石を、手のひらで転がしているような声だった。

 

昨夜、扉の向こうで聞いた声だった。

 

「今日の推理、聞いていたかい」

 

「聞いていたわ」

 

「どう思った」

 

「穴だらけだった」

 

「だろうね」

 

兎吊木さんは、笑った。

 

「あいつは、穴だらけにしたんだよ。わざとね。穴だらけの推理は、誰も信じない。誰も信じないけど、誰も、他の推理を出せない。出せないから、穴だらけのまま、話が決まる。……決まった話の中では、神足雛善は、人を殺して逃げた男になる」

 

「逃げた男が、今、ここにいる」

 

「そう。逃げた男が、今から、逃げるところだ」

 

兎吊木さんは、サングラスの位置を、指で直した。

 

「いつ、気づいた」

 

「今朝」

 

「今朝の、いつ」

 

「壁の人を見た時。……見ても、あなただとは思えなかった。声しか知らない人の死体を、私は、見分けられない。見分けられないのに、全員が、あなただと言った。言えるだけの材料を、誰も持っていないのに」

 

「それだけで?」

 

「それから、神足さんがいなかった」

 

「それから?」

 

「それから、今、あなたが、昨夜と同じ声で、こんばんは、と言った」

 

兎吊木さんは、黙った。

 

黙ってから、静かに、手を叩いた。二度だけ。

 

「神足雛善は、髪で顔を隠していた。顔を見た人間が、この施設にはほとんどいない。声も、ほとんど誰も聞いたことがない。……だから、顔のない死体になっても、誰も、神足だとは思わなかった。神足は、人前では、名乗るくらいしか口を開かない男だ。……その一言と、扉越しの僕の声。両方を聞いた外の人間は、友の他には、たぶん、きみだけだよ」

 

神足雛善、と、夕食の席で、神足さんは名乗った。

 

それきり、一言も喋らなかった。

 

「きみは、それに気づいて、今朝から、ずっと黙っていた」

 

「黙っていたわ」

 

「どうして」

 

私は、フェンスの切り口を見た。

 

四角く切り取られた網の向こうに、暗い森があった。

 

「言ったら、誰かが、何かを決めなければならなくなるから」

 

「誰かって」

 

「彼と、玖渚さん」

 

兎吊木さんは、また、黙った。

 

「あの二人は、知っていたわ。たぶん、私より先に。知っていて、黙って、穴だらけの推理を並べた。……私が口を開けば、二人が並べたものが、崩れる。崩れたら、あなたは、ここから出られない」

 

兎吊木さんは、そこで、少しだけ、首を傾げた。

 

「昨夜の問いは、戯言遣いに、伝えたかい」

 

「伝えていません」

 

「訊かれていないから?」

 

「訊かれていないから」

 

兎吊木さんは、サングラスの奥で、少しだけ笑ったようだった。

 

「きみは、本当に、伝えないんだね。……あの問いはね、伝えられなかった方が、長持ちするんだ。答えの出ないまま、きみの中に、ずっと残る」

 

「残っても、構いません」

 

「そう。構わない人のところにしか、ああいう問いは、置けないんだ」

 

兎吊木さんは、サングラスを、指で少しだけ押し上げた。

 

「僕を、出したかったのかい」

 

「分からないわ」

 

正直に、言った。

 

「あなたが人を殺したことは、分かっている。殺した人を、自分の身代わりにしたことも。それを、私は、許してはいない。許してはいないけれど、黙っていた」

 

「許していないのに、黙っていた」

 

「黙っていることを、選んだのよ。誰かに選ばされたのではなく」

 

兎吊木さんは、長いあいだ、私を見ていた。

 

サングラスの奥の目は、見えなかった。

 

「きみは、死体を見て、すぐに顔を逸らさなかったね」

 

「見ていたの」

 

「玖渚友(くなぎさとも)のカメラを、僕も、見られるんだよ。昔の仲間だから」

 

兎吊木さんは、少しだけ笑った。

 

「見たうえで、黙っていた。……普通の人間はね、見たら、喋るんだ。喋らずにいられない。喋らずにいられる人間は、だいたい、見ていない。見て、喋らない人間を、僕は、玖渚友の他に、初めて見た」

 

私は、何も言わなかった。

 

この人は、人を殺した。

 

その人に、褒められていた。

 

褒められたことを、私は、嬉しいとは思わなかった。思わなかったけれど、嫌だとも、思わなかった。

 

兎吊木さんは、フェンスの切り口に、身を屈めた。

 

屈めて、半分だけ、網の向こうへ出た。

 

それから、振り返った。

 

「戯言遣いに、伝えてくれるかな」

 

「何を」

 

「いや、いいや。伝えなくていい」

 

昨夜と、同じことを言った。

 

それから、少しだけ、付け足した。

 

「僕が出ていく時、きみだけが、僕の顔を、ちゃんと見たね」

 

見ていた。

 

剃った頭も、黒い眼鏡も、作業着も。全部、隠すためのものだった。隠すためのものの奥にある顔を、私は、見ようとしていた。

 

見えたのかどうかは、分からない。

 

分からないけれど、見ようとするのをやめなかった。

 

「さようなら、堀北さん。……壊れない人に、会えてよかった」

 

兎吊木さんは、網の向こうへ消えた。

 

壊れない人間は二種類いる、とこの人は言った。前の方は、一人しか知らない、とも。

 

私は、前の方ではない。

 

預けた、とは、まだ、誰にも言っていなかった。

 

暗い森の中に、足音が、しばらく聞こえていた。

 

聞こえなくなってから、私は、外灯の下を離れた。

 

建物の陰に、彼が立っていた。

 

いつから、そこにいたのかは、分からなかった。

 

「……見ていたの」

 

「見てた。見てただけ」

 

彼は、フェンスの切り口を見ていた。

 

「ありがとう」

 

「何に対して」

 

「黙っていてくれたことに。……ぼくと友は、知ってて黙った。君は、知って、自分で黙った。同じ黙るでも、たぶん、重さが違う」

 

「重さは、同じよ」

 

私は、言った。

 

彼は、私を見た。

 

それから、少しだけ、笑った。

 

「戯言だね」

 

「あなたの口癖でしょう」

 

「そうだった」

 

それから、彼は、上着の内ポケットの上に、手を置いた。

 

「これ、どうしよう」

 

「持っていればいいわ」

 

「京都まで?」

 

「京都まで。……使い方を知らない人が持っているのが、いちばん安全なのでしょう」

 

彼は、少しだけ笑った。

 

「自分で言ったことを、返されると、困るね」

 

「困るように、返したのよ」

 

フェンスの切り口の向こうで、森が、夜の風に、鳴っていた。

 

逃げた男の足音は、もう、どこにも聞こえなかった。

 

聞こえなくなった森を、二人で、一つ空けて、しばらく見ていた。

 

部屋へ戻る廊下で、彼は、一度だけ、立ち止まった。

 

兎吊木さんの部屋だった扉の前だった。

 

扉には、黄色と黒の縞のテープが、斜めに貼られていた。エレベーターの扉と、同じテープだった。

 

使用禁止。

 

「……閉じ込められてた人が出ていった部屋に、立入禁止のテープが貼られる」

 

彼は、小さく言った。

 

「出ていった人は、もう、入らないのにね」

 

「入らないように、ではなくて、出ていったことを、忘れないように、なのかもしれないわ」

 

彼は、少しだけ、私を見た。

 

それから、テープを、指で、一度だけ、なぞった。

 

なぞって、何も言わずに、歩き出した。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。