ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第2話 帰還(奇観)

旅というのは、帰ってくるまでが旅だと言う。

 

ぼくはそうは思わない。帰ってきてからが旅だ。行った先で見たものは、行った先にいるうちは、ただの景色でしかない。帰ってきて、いつもの部屋で、いつもの天井を見上げた時に初めて、見てきたものが景色ではなかったことに気づく。

 

気づいてしまったら、もう旅は終わらない。

 

ぼくはこの一週間で、そういう旅をした。

 

旅は道連れ、世は情け、と言う。ぼくの場合、道連れはだいたい死体で、情けをかけられるのはだいたいぼくの方だ。旅の恥はかき捨て、とも言うけれど、ぼくは恥を捨てる場所を、いまだに見つけられずにいる。持って帰ってきた恥の方が、持って行った荷物より重い。

 

 

 

 

 

日本海の島から戻ったのは、四月の終わりだった。

 

島で何があったのかを、ここで書くつもりはない。書けば長くなるし、書いたところで、ぼくの書くものはたぶん本当のことにはならない。天才が何人かいて、人が死んで、ぼくは何も分からないまま、分かったようなことを言った。それで十分だ。それ以上を語る資格が、ぼくにはない。

 

骨董アパートの階段を上がると、廊下に甚平の背中があった。

 

「いの字」

 

みいこさんは、振り返らずにぼくを呼んだ。足音だけで分かるのだという。一度覚えた気配は忘れない人なのだ。

 

「戻りました」

 

「見れば分かる」

 

それから、ようやく振り返った。表情は動かなかった。動かないまま、ぼくの顔を三秒ほど見て、それから自分の部屋の戸を開けた。

 

「入れ」

 

「いや、今日は」

 

「入れ」

 

二回言われると、ぼくは断れない。一回目で断れない人間が、二回目で断れるはずもない。断る、は、断つ、と同じ字だ。ぼくは断つのが苦手だ。言葉を断つのは、なおさら苦手だ。断つより、濁す方が得意だ。濁した言葉は、断った言葉より長持ちする。

 

みいこさんの部屋は、骨董品で埋まっていた。茶碗、掛け軸、何に使うのか分からない鉄の道具。その隙間に、ぼくの座る場所が一人分だけ空けてあった。いつ空けたのだろう、と思った。ぼくがいない一週間のあいだに、誰のために空けておいたのだろう。

 

出てきたのは、雑炊だった。

 

「食え」

 

「……いただきます」

 

塩は、ききすぎていなかった。梅は一粒も入っていなかったけれど、塩梅はちょうどよかった。出かける前に一度だけ、ぼくがしょっぱいと顔に出したのを、この人は覚えていたのだろうか。

 

それが何を意味するのか、ぼくは考えないことにした。考えると、たぶん、ぼくはこの部屋にいられなくなる。

 

雑炊を食べ終えるまで、みいこさんは何も訊かなかった。島のことも、一週間のことも、ぼくの顔に何が書いてあったのかも。訊かないことが、この人の優しさの形なのだと、ぼくは勝手に解釈している。勝手に解釈しないと、受け取り方が分からないからだ。

 

 

 

 

 

部屋に戻って、裸電球を点けた。

 

四畳一間の真ん中に寝転がって、天井を見た。木目の染みが、出かける前と同じ場所にあった。同じ場所にあることに、ぼくは少しだけ驚いた。一週間で何もかもが変わったような気がしていたのに、天井の染み一つ、動いていない。

 

鞄の底からスマートフォンを出した。

 

島にいるあいだ、ほとんど見なかった。見る必要がなかった。友のほかに、ぼくに連絡をしてくる人間はいない。

 

ニュースの通知が、いくつか溜まっていた。

 

京都市内で、また人が死んでいた。

 

ぼくが島にいるあいだに、二人。それより前に、四人。あわせて六人。刃物で、夜に、繁華街の近くで。被害者の共通点は見つかっていない。防犯カメラにも、決定的なものは映っていない。

 

京都連続通り魔事件、と記事は呼んでいた。

 

ぼくは記事を最後まで読んで、それからもう一度、最初から読んだ。読み直したところで、書いてあることは変わらない。変わらないと分かっていて読み直すのは、ぼくの悪い癖だ。

 

六人。

 

島で数えた死体の数と、どちらが多いだろうか、と考えかけて、やめた。人の死を数で比べるのは、天才のやることだ。ぼくのような人間がやると、ただの悪趣味になる。

 

 

 

 

 

夜の十時を少し過ぎて、スマートフォンが鳴った。

 

鳴る前から、誰からなのかは分かっていた。その相手の一日は、だいたいその時間に始まる。

 

『いーちゃん、いーちゃん。おはよう。うにー』

 

『おはよう、友』

 

夜の十時におはようと言われて、おはようと返す。挨拶というのは、時計に合わせるものではなく、相手の一日のどこにいるかに合わせるものらしい。ぼくの一日は、玖渚(くなぎさ)の一日の、だいたい夕暮れあたりに引っかかっている。

 

『いーちゃん、元気ない?』

 

玖渚友(くなぎさとも)は、ぼくの声を一言聞いただけで、そう言った。島から一緒に帰ってきたのだから、ぼくに元気がない理由を、彼女は全部知っている。知っていて、訊く。訊いて、ぼくが答えるのを待つ。

 

『普通だよ』

 

『普通って、いーちゃんの場合、元気ないってことだよね』

 

否定できなかった。否定できないことを否定するのは、ぼくの得意分野のはずなのに、玖渚の前ではうまくいかない。

 

『ねえ、いーちゃん。京都のニュース見た? 通り魔の』

 

『見た』

 

『六人だって。いーちゃんの住んでるとこの近くもあるよ』

 

『知ってる』

 

『僕様ちゃん、調べてあげようか』

 

玖渚は、何でもないことのように言った。

 

彼女がその気になれば、たぶん本当に調べられる。この町のどこにどんなカメラがあって、何が映っていて、何が映っていないのか。ぼくには想像もつかない方法で、ぼくには一生かかっても辿り着けない答えに、一晩で辿り着く。

 

彼女はそういう人間だ。ぼくの友達は、そういう人間なのだ。

 

『いいよ』

 

ぼくは言った。

 

『いいって、調べていいってこと?』

 

『調べなくていいってこと』

 

『どうして? 分かった方が、いーちゃん、安心するでしょ?』

 

ぼくは、裸電球を見上げた。

 

『分かったら、分かったことを、どうにかしなきゃいけなくなる。ぼくはたぶん、どうにもできない。どうにもできないことを分かっているのは、分かっていないより、ずっと疲れるんだ』

 

電話の向こうで、玖渚は少しのあいだ黙っていた。

 

それから、くすくすと笑った。

 

『いーちゃんらしいね』

 

『褒められてる気がしない』

 

『褒めてないよ。でも、僕様ちゃんは、そういういーちゃんの隣がいいんだよ』

 

答えを欲しがらない人間の隣がいいという人間が、いちばん多くの答えを持っている。

 

世の中というのは、だいたいそういうふうにできている。

 

『ねえ、いーちゃん。島のこと、あんまり考えちゃだめだよ』

 

『考えてないよ』

 

『考えてる。いーちゃんは、考えてない時ほど、考えてないって言うから』

 

ぼくは、何も言い返せなかった。言い返せないことを、玖渚はたぶん、電話の向こうで喜んでいた。

 

『おやすみ、いーちゃん』

 

『君は今から起きるんだろ』

 

『うん。だから、いーちゃんの分まで起きてるね』

 

『ぼくの分まで寝てくれた方が、ぼくは助かる』

 

『寝る子は育つって言うけど、僕様ちゃん、もう育たないもん。だから起きてるの』

 

育たないから起きている。起きているから、育たない。どちらが先なのかを訊く前に、玖渚は笑った。

 

電話が切れた。

 

ぼくは、スマートフォンを鞄の底に戻した。六人の死の答えは、ぼくの知らないまま、この町のどこかに転がっている。転がしておくことを、ぼくは選んだ。

 

選んだ、というのは正確ではない。

 

拾う勇気がなかった、と言う方が近い。

 

 

 

 

 

連休が明けて、久しぶりに大学へ行った。

 

午後の一般教養。大教室。窓際のいちばん後ろの列。

 

背筋を伸ばした彼女が、いた。

 

最後に来た日と同じ席に、同じ姿勢で、同じように本を開いていた。両隣と前の二列が空いている。教室の地図は、ぼくがいないあいだも、何も描き変えられていなかった。

 

ただ、一つだけ違うことがあった。

 

彼女の隣の隣。ぼくが前に一度だけ座った席。

 

そこにも、誰も座っていなかった。

 

当たり前だ、と思う。あの列には、もともと彼女しか座らない。彼女の周りは、なんとなく避けられている。ぼくが座っていた席が空いているのは、ぼくが来なかったからではなく、誰もあの列に来ないからだ。

 

そう考えるのが、いちばん筋が通っている。

 

筋が通っている考えほど、ぼくは信用しないことにしている。

 

ぼくは窓際のいちばん後ろの列へ歩いていって、あの日と同じ席に座った。彼女の隣を一つ空けた、その向こうに。

 

彼女は顔を上げなかった。

 

ページをめくる手が、一度だけ止まった。止まって、すぐに動いた。

 

ぼくはそれを、見なかったことにした。

 

講義のあいだ、ぼくは前を向いていた。

 

前を向いて、何も聞いていなかった。教授の声は、島で聞いた波の音と同じくらい、意味を持たなかった。

 

視界の端で、彼女がページをめくっていた。

 

一定の間隔だった。速すぎず、遅すぎず。本当に読んでいる人間のめくり方だった。島に、同じめくり方をする人間がいた。その人は、もういない。

 

いない人間のことを考える時、ぼくは、考えている自分を、少し後ろから眺めて、他人事のように扱っている。そうでもしないと、ぼくはたぶん、島から帰ってこられなかった。

 

彼女のページをめくる音が、一度だけ途切れた。

 

途切れて、またすぐに続いた。

 

ぼくの方を見たのかもしれない。見ていないのかもしれない。どちらでもよかった。どちらでもいい、と思える距離に、一つ空けた席はちょうどいい。隣に座っていたら、どちらでもいいとは思えない。二つ空けていたら、どちらかを気にすることすらない。

 

一つ空けた席というのは、気にしてもいいし、気にしなくてもいい、という許可の距離なのだと思う。

 

そういう距離があることを、ぼくはこの春、初めて知った。

 

 

 

 

 

講義が終わって、立ち上がる人の波を座ったまま見送っていた時、彼女が言った。

 

「休んでいたあいだ、楽しめたのかしら」

 

楽しいかどうかを考える暇が、なかった。ぼくはそう答えた。彼女は、立ったまま、少しのあいだ動かなかった。何がそんなに引っかかったのかは、ぼくには分からなかった。

 

先に教室を出たのは、彼女だった。少し遅れて廊下に出たところで、呼び止められた。

 

「いっくん!」

 

振り返ると、知らない女の子がいた。

 

いや、まったく知らないわけではない。語学のクラスで見たことのある顔だった。朱の混じった短い髪。よく喋る子だ。名前は知らない。知らないけれど、ぼくのことを「いっくん」と呼ぶのは、たぶんこの世でこの子だけだ。いつからそう呼ばれていたのか、ぼくは覚えていない。

 

いーちゃん。いの字。いーたん。いっくん。ぼくの呼び名は、なぜか全部、い、から始まる。い、から先を、誰も知らないのだから当然といえば当然だ。頭文字しか持っていない人間というのは、頭しかない人間と比べて、どちらが不便なのだろう。たぶん、どちらも同じくらい、頭が足りない。

 

「ずっとどこ行ってたの! 心配したんだよ! 《春休み明けの教室、ただし机が一つ足りない》みたいな気分だったんだから!」

 

意味は分からなかった。分からなかったけれど、心配していたというのは、たぶん本当なのだろう。本当のことを、こんなふうに冗談で包んで渡せる人間を、ぼくは少しだけ羨ましく思う。

 

「ちょっと、旅行に」

 

「旅行! どこどこ?」

 

「島」

 

「島!」

 

それ以上は訊かれなかった。訊かれなかったことに、ぼくは少しほっとした。島のことを訊かれたら、ぼくは嘘をつくしかない。嘘をつくのは得意だけれど、得意なことを人に見せるのは好きではない。

 

女の子は、廊下の向こうを指さした。窓際のいちばん後ろに座っていた彼女が、ちょうど階段を降りていくところだった。

 

「あ、ほりきたさんだ。あの子ね、ずっといっくんの席見てたよ」

 

「見てた?」

 

「うん。見てないふりして、見てた」

 

ほりきた、というのが、彼女の名前らしかった。

 

 

 

覚えておこう、と思った。思ったところで、ぼくの記憶力では、明日には半分くらい怪しい。

 

 

 

 

 

その日の帰り、ぼくは遠回りをした。

 

理由はない。骨董アパートへのいちばん近い道を、なんとなく通りたくなかった。なんとなく、というのは、ぼくの場合、たいてい何かから逃げている時の言い訳だ。何から逃げているのかは、考えないことにした。

 

古い木造の建物が並ぶ路地に入った。

 

路地の途中に、色の褪せた看板が出ていた。麻雀、と書いてある。二階の窓が少しだけ開いていて、牌を混ぜる音が降ってきていた。

 

看板の前を、人が一人歩いていた。

 

窓際のいちばん後ろの、彼女だった。

 

彼女は、看板の前で歩く速さを少しだけ落として、二階の窓を見上げていた。鞄を両手で持って、背筋をまっすぐ伸ばしたまま。

 

ぼくは、路地の角で足を止めた。

 

麻雀というのは、四人でやる遊びだ。

 

卓を囲む、と言う。囲むのに、四人は互いに背を向けない。向かい合って、囲んでいる。囲んでいるのに、真ん中には誰も入れない。円陣というより、包囲網だ。包囲されているのが卓なのか、座っている四人の方なのかは、ぼくにはよく分からない。

 

三人でもできなくはないけれど、それはもう別の遊びになる。四人目がいないと、卓は本来の形にならない。だから雀荘には、一人で来た客のための席がある。誰かが立てば、誰かが座る。そうやって、卓はいつも四人で回っていく。

 

彼女は、その席を見上げているように見えた。

 

自分のための席ではない。かつて自分が座っていて、今は誰かが座っている席。もしくは、もう誰も座っていない席。

 

どちらなのかは、ぼくには分からなかった。

 

分からないまま見ていると、彼女は看板から目を離して、歩き出した。こちらには来なかった。路地の反対側へ、まっすぐに。振り返らなかった。

 

振り返らない人間の背中というのは、振り返る人間の背中より、少しだけ寂しそうに見える。

 

ぼくは、そう思ったことを、すぐに打ち消した。

 

人の背中に、寂しさを読み取るのは、読み取る側の勝手だ。勝手に読み取って、勝手に分かった気になる。それが人見知りという病気の、いちばん悪い症状だ。

 

人見知り。人を見て、知る、と書く。見て知るのが病気だというのなら、ぼくは重症だ。見ても、知らない。知らないまま、見ている。見知らぬ人を見知ったつもりになるのが人見知りなら、ぼくのは、見知った人を見知らぬままにしておく病気だ。名前をつけるなら、人見知らず。病名まで、ぼくは中途半端だ。

 

彼女が見えなくなってから、ぼくは看板の前まで歩いていった。二階を見上げた。牌の音が、降ってきていた。

 

ぼくには、あの卓の座り方が分からない。

 

分からない人間が見上げても、窓は窓でしかなかった。

 

 

 

 

 

路地の上の空は、まだ少しだけ明るかった。

 

空いた席を見ていたのは、ぼくの方だったのかもしれない。

 

戯言だけどね。

 

 

 

 

 

◇

 

 

 

 

 

断る、というのは、選ぶことの一種だと思われている。

 

違う。断るのは、選ばないことだ。差し出されたものを受け取らないだけで、代わりに何かを手に取るわけではない。手は空のまま残る。

 

空の手を、人は自由と呼ぶこともある。

 

私はそれを、ただの空っぽだと思う。

 

 

 

 

 

連休が明けて、あの男は戻ってきた。

 

前と同じ席に、同じように座った。私の隣を一つ空けた、その向こうに。何も言わず、何も持たず、何もしないで。

 

戻ってきたことに、私は何の感想も持たなかった。

 

持たないように、本のページから目を離さなかった。ページをめくる手が止まったのは、たまたまその行が読みにくかったからだ。そういうことにしておいた。

 

講義のあいだ、彼は相変わらず何もしなかった。ノートも、スマートフォンも出さない。前を向いて、座っている。あの日と違うのは、顔色だけだった。前より少し、白い。どこで何をしてきたのか知らないが、楽しい休みではなかったのだろう。

 

知らない人間の顔色を、私はいつから読むようになったのだろう。

 

高校の三年間で身についたことの中で、これだけは捨てられなかった。

 

講義が終わって、立ち上がる時に、私は口を開いていた。

 

「休んでいたあいだ、楽しめたのかしら」

 

訊くつもりはなかった。気がついたら、訊いていた。高校の頃からの悪い癖は、京都に来ても直っていなかった。

 

彼は、座ったまま顔を上げた。上げて、少しだけ考える顔をした。

 

「楽しいかどうかを考える暇が、なかった」

 

私は、立ったまま、動けなくなった。

 

同じ言葉だった。連休の前、葵井(あおいい)さんに高校のことを訊かれて、私が返した言葉と。楽しかったのかと訊かれて、楽しいかどうかを考える暇がなかった、と。

 

偶然だろう。

 

そう決めて、鞄を肩にかけた。決めなければならない時点で、私の中ではもう、偶然ではなくなっていた。

 

「……そう」

 

それだけ言って、私は通路に出た。

 

背中に、彼の視線は感じなかった。感じなかったことに、なぜか少しだけほっとした。ほっとしたことに、少しだけ腹が立った。

 

 

 

 

 

京都の町は、浮かれていた。

 

浮かれる、と、浮く。どちらも、足が地面についていない。地面についていない足で、人は、怖い話のすぐ横を平気で歩く。

 

連休の観光客が残していった浮かれ方と、別の種類の浮かれ方が混じっていた。駅前の掲示板に、警察の貼り紙が増えていた。夜間の一人歩きに注意。不審な人物を見かけたら通報を。

 

京都連続通り魔事件。

 

被害者は六人になっていた。刃物で、夜に、繁華街の近くで。犯人の顔は、まだ誰も見ていない。防犯カメラが町じゅうにある時代に、誰も見ていない。

 

学食のテレビが、そのニュースを流していた。隣のテーブルの学生たちが、怖いね、と言い合って、それから別の話を始めた。怖いね、の一言で、六人の死が片づいていく。

 

私は、片づけられなかった。

 

どちらか片方に寄せてしまえば、片はつく。片づけるというのは、つまりそういうことだ。怖いね、と言った人たちは、六人の死を、自分たちのいない方の片側に寄せたのだ。寄せる場所を持たない人間だけが、片づけられないまま、テーブルの真ん中に置いておく。

 

テレビの前を、一人の学生が通り過ぎようとして、足を止めた。

 

あの男だった。

 

トレイを持ったまま、画面を見上げていた。被害者の数を読み上げるキャスターの声を、最後まで聞いていた。周りの学生が、怖いね、と言って別の話に移っても、彼だけは画面から目を離さなかった。

 

怖がっている顔ではなかった。

 

数えている顔だった。

 

何を数えているのかは、分からなかった。そんな顔をする理由が、何も持たない一回生にあるはずがない。

 

ニュースが天気予報に変わると、彼はようやく歩き出した。窓際の、誰もいない席に座った。一人で。

 

六という数字を、頭の中で何度か転がした。転がしているうちに、別の数字が重なってきた。

 

三百十四。

 

一年生の秋に、私がノートの端に書いた数字だ。クラスの点数だった。あの学校では、点数がそのまま生活になり、生活がそのまま将来になった。あの数字を戻すのは自分だと、私は決めた。

 

戻せなかった。

 

 

 

 

 

語学の授業のあと、葵井さんに捕まった。

 

「ほりきたさん! 今度の土曜、十四日、空いてる?」

 

「なぜ」

 

「智恵(ともえ)ちゃんの誕生日なの! 智恵ちゃんの部屋でパーティーするんだけど、ほりきたさんも来て!」

 

江本さんが、葵井さんの後ろで小さく手を振った。

 

「来てくれたら、嬉しいな」

 

江本さんの声は、葵井さんの声より小さかった。小さいのに、断りにくかった。葵井さんの誘いは、断っても笑って跳ね返ってくる。江本さんの誘いは、断ったら、その場に落ちたまま拾われない気がした。

 

「いっくんも呼ぶの! 六人になるよ!」

 

六人。

 

駅前の掲示板の数字と、同じだった。同じだと気づいたのは、たぶん私だけだった。

 

「行かないわ」

 

「えー!」

 

「誕生日を祝うほど、私は江本さんのことを知らない」

 

「知るために行くんだよ! 《初めての店で、ただしメニューは全部写真付き》みたいなっ!」

 

「写真を見ても、味は分からないでしょう。食べてみなければ」

 

葵井さんは、一瞬だけ黙った。黙って、それから笑った。

 

「じゃあ、食べに来ればいいんだよ! 今、自分で言ったよ、ほりきたさん!」

 

言われて、自分の言葉の形に気づいた。気づいて、何も言い返せなかった。

 

「ほりきたさんて、やっぱり頭いいね。でも、来てほしいな。気が変わったら、いつでも言って!」

 

江本さんは、何も言わなかった。ただ、少しだけ寂しそうに笑った。

 

その笑い方を、私はどこかで見たことがあると思った。思い出そうとして、思い出せなかった。思い出せなかったのは、それが鏡の中で見た顔だったからかもしれない。誰かに何かを断られた時、私もたぶん、ああいう顔をしていた。

 

 

 

 

 

廊下の端の階段で、貴宮さんに呼び止められた。

 

葵井さんと江本さんは、もう先に行っていた。貴宮さんだけが、壁にもたれて、私が来るのを待っていた。待っていた、ということは、顔を見れば分かった。

 

「堀北さん」

 

貴宮さんは、壁から背を離さなかった。

 

「巫女子のこと、あんまり断らないでやって」

 

「行きたくないものは、行きたくないわ」

 

「分かってる」

 

貴宮さんは、ポケットに手を入れた。何かを取り出しかけて、やめた。煙草の箱の角が、一瞬だけ見えた。私の前では、吸わないらしかった。

 

「あいつ、断られても笑って引き下がるでしょ。あれ、平気だからじゃないから。平気なふりが、昔から上手いだけ」

 

気を平らにするのが、平気だ。平らにするには、どこかを均さなければならない。盛り上がったところを削るのか、へこんだところを埋めるのか。葵井さんがどちらをしてきたのかを、私は知らない。

 

小学校の頃からの付き合いだと、貴宮さんは言った。その長さの分だけ、貴宮さんは葵井さんの平気なふりを見てきたのだろう。

 

「気が変わったら、でいい。行ってやって」

 

それだけ言って、貴宮さんは階段を降りていった。足音が、二段飛ばしだった。

 

私は、何も返事をしなかった。

 

返事をしなかったことを、貴宮さんは気にしていないようだった。

 

 

 

 

 

学食で、一人でうどんを食べていると、向かいの席に誰かが座った。

 

宇佐美くんだった。

 

「ここ、いい?」

 

「座ってから訊くのね」

 

「あはは、ごめんごめん」

 

ごめん、を二回重ねると、一回分より軽くなる。謝罪というのは、たぶん、足し算ではなく割り算でできている。

 

宇佐美くんは、トレイを置いて、カレーをかき混ぜた。かき混ぜるだけで、なかなか食べなかった。

 

「巫女子ちゃんの誘い、断ったんだって?」

 

「ええ」

 

「そっか。まあ、無理にとは言わないけど」

 

宇佐美くんは、人当たりのいい笑顔のまま、スプーンを置いた。

 

「巫女子ちゃんさ、ああ見えて、いっくんのこと結構本気なんだよね。誕生会も、半分はいっくん呼ぶための口実だと思うよ。智恵ちゃんの誕生日なのにさ。智恵ちゃん、それ分かってて、何も言わないんだ」

 

私は、箸を止めた。

 

宇佐美くんは、笑顔のままだった。笑顔のまま、誰かの内側を、こともなげに外へ出してみせた。

 

「……それを、どうして私に言うの」

 

「え? いや、別に。堀北さんが来たら、いっくんの隣、どうなるのかなって思って」

 

「隣は、なるものではないわ。座るものよ」

 

「あはは。堀北さん、国語の先生みたい」

 

国語の先生なら、たぶん、ここで正解を教える。私には、教える正解がなかった。

 

宇佐美くんは、また笑った。

 

人当たりのいい笑顔だった。どこに当たっているのか分からない笑顔だと、初めて会った時に思った。今は、少しだけ分かった。あの笑顔は、当たる場所を、自分で選んでいる。

 

「楽しみだなあ、十四日」

 

宇佐美くんは、カレーを食べ始めた。

 

私は、うどんを最後まで食べられなかった。

 

 

 

 

 

断ったあと、部屋に戻るまで、断った理由を考えていた。

 

江本さんのことを知らないから。そう言った。嘘ではない。けれど、知らない人間の誕生会に行かない理由としては、筋が通りすぎている。筋が通りすぎている理由は、たいてい本当の理由ではない。

 

本当の理由を探して、見つからなかった。

 

探し物は、探すのをやめた時に見つかる、と言う。私の場合は逆だった。見つかりそうになった時に、探すのをやめた。

 

 

 

誰かの隣に座るのが、怖いのだ。

 

 

 

座る、の反対は、立つ、ではない。去る、だ。立つだけなら、また座れる。座れば、いつか去らなければならない。去る時に、何かを置いていかなければならない。私はもう、何かを置いていくのに疲れていた。

 

 

 

 

 

麻雀の卓のことを思い出すと、いつも、その少しあとのことも一緒に思い出してしまう。

 

卓の翌日の夕方、校舎の裏で、赤木くんが煙草を出した。

 

どこで手に入れたのかは知らない。箱から一本抜いて、くわえた。

 

《あなた、未成年でしょう。煙草は二十歳からよ》

 

私は言った。言わずにはいられなかった。

 

《それに、ここは学校。見つかったら、あなた一人じゃ済まない。クラスの点まで引かれるわ。今、いくつだと思ってるの。三百十四よ》

 

《知ってる》

 

《知ってるなら、しまいなさい》

 

私は、その手首を掴んだ。掴んだ手首には、少しも力が入っていなかった。入っていないのに、動かせなかった。

 

赤木くんは、掴まれたまま、火をつけた。

 

私は、手を離すしかなかった。

 

吐いた煙が、校舎の壁に沿って上っていった。

 

《十四になるな》

 

煙を見たまま、赤木くんが言った。

 

いくつ、と私が訊いたのは、クラスの点のことだった。あの人は、それを自分の歳で答えた。答えをずらされたのだと気づくまでに、少し時間がかかった。ずらされた方が本当の答えだったと気づくまでには、もっと時間がかかった。

 

それから、こう言った。

 

《(・)前(・)の(・)晩(・)ま(・)で(・)、(・)卓(・)に(・)座(・)っ(・)て(・)た(・)。(・)目(・)が(・)覚(・)め(・)た(・)ら(・)、(・)こ(・)こ(・)に(・)い(・)た(・)》

 

冗談を言う顔ではなかった。冗談を言う人でもなかった。

 

その言葉の意味を、私は今も、うまく受け取れずにいる。どこかの卓に座っていた十三歳の男の子が、目を覚ましたら、知らない学校の寮にいた。そんな話を、そのまま信じられるほど、私は素直ではない。

 

信じられないのに、疑う理由も見つからない。

 

あの人は、それを私に言った。

 

言ってから、一週間後に、いなくなった。

 

煙草の前の日の、週末の卓のことも、思い出した。

 

学校の中で、私は麻雀の卓に座った。四人で打つ卓だった。私の隣には赤木くんがいて、綾小路くんと坂柳さんが、残りの二つの席に座っていた。負けた者が自分で学校を去る卓だった。

 

卓の十日ほど前、非常階段で、私は赤木くんに、勝ち方を教えて、と頼んでいた。頼んだのは私の方だ。あの人は、まず座れ、と言った。種目が麻雀になる保証もないまま、牌の並べ方もろくに知らなかった私は、五日間で、役と点数と、捨て牌の数え方を覚えた。

 

卓の上で、私は何度も間違えた。間違えて、点数を失くして、取り返しのつかないところまで落ちかけた。それでも、席を立たなかった。

 

最後の局で、私は綾小路くんの捨てた白を槓した。坂柳さんの捨てた九索も、もう一度槓した。二つの槓で、山の底の一枚を、赤木くんの番まで運んだつもりだった。

 

《最後の一枚は、あなたよ》

 

私はそう言った。

 

坂柳さんが、チーをした。それで、ツモが一つずれた。私が運んだ一枚は、私の番に落ちた。赤木くんの和了れない、ただの一枚になった。

 

運び終えたものを、目の前で外された。

 

私は、山の底を見ていた。見ているしかなかった。

 

《フフ、そっちじゃねえよ、堀北》

 

赤木くんは、口の端だけで笑っていた。

 

そっち、が何を指していたのか。あの人が、私の運んだ一枚の向こうに何を見ていたのか。私はその局の終わりに知った。知って、それでも、あの笑いをうまく言葉にできずにいる。

 

外されたのは、私の一枚だった。

 

外されたあとも、あの人は、私が卓に座っていることだけは、勘定から外さなかった。

 

 

 

 

 

部屋の窓から、夜の京都が見えた。

 

どこかでサイレンが鳴っていた。近づいて、遠ざかって、また近づいた。今夜も誰かが、どこかで死んだのかもしれない。

 

鞄からノートを出して、机の上に置いた。

 

いちばん後ろのページに、指をかけた。

 

かけたまま、しばらく動かなかった。

 

綾小路くんなら、何と言うだろう。誕生会に行くべきか、行かないべきか。そんなことを訊けば、たぶん、平らな声で、どちらでもいいと言う。どちらでも、お前にとっての損得は変わらない、と。

 

そうに決まっている。

 

決まっている答えのために、二年半使わずにきた番号を使うのは、馬鹿げていた。

 

馬鹿げている、のではない。怖かったのだ。

 

かけて、どちらでもいいと言われたら、私は本当に、どちらでもいい人間になってしまう。行っても行かなくても、誰にも何も変わらない人間に。

 

指を離した。

 

ノートを閉じて、鞄に戻した。

 

鞄の中で、ノートのいちばん後ろの紙が、まだ開かれずにいる。

 

葵井さんの誘いは断った。江本さんの誕生日は、今度の土曜、十四日だ。

 

行かない。

 

行かないと決めた。

 

決めたはずなのに、十四日という数字だけが、頭の中から出ていかなかった。

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