旅というのは、帰ってくるまでが旅だと言う。
ぼくはそうは思わない。帰ってきてからが旅だ。行った先で見たものは、行った先にいるうちは、ただの景色でしかない。帰ってきて、いつもの部屋で、いつもの天井を見上げた時に初めて、見てきたものが景色ではなかったことに気づく。
気づいてしまったら、もう旅は終わらない。
ぼくはこの一週間で、そういう旅をした。
旅は道連れ、世は情け、と言う。ぼくの場合、道連れはだいたい死体で、情けをかけられるのはだいたいぼくの方だ。旅の恥はかき捨て、とも言うけれど、ぼくは恥を捨てる場所を、いまだに見つけられずにいる。持って帰ってきた恥の方が、持って行った荷物より重い。
日本海の島から戻ったのは、四月の終わりだった。
島で何があったのかを、ここで書くつもりはない。書けば長くなるし、書いたところで、ぼくの書くものはたぶん本当のことにはならない。天才が何人かいて、人が死んで、ぼくは何も分からないまま、分かったようなことを言った。それで十分だ。それ以上を語る資格が、ぼくにはない。
骨董アパートの階段を上がると、廊下に甚平の背中があった。
「いの字」
みいこさんは、振り返らずにぼくを呼んだ。足音だけで分かるのだという。一度覚えた気配は忘れない人なのだ。
「戻りました」
「見れば分かる」
それから、ようやく振り返った。表情は動かなかった。動かないまま、ぼくの顔を三秒ほど見て、それから自分の部屋の戸を開けた。
「入れ」
「いや、今日は」
「入れ」
二回言われると、ぼくは断れない。一回目で断れない人間が、二回目で断れるはずもない。断る、は、断つ、と同じ字だ。ぼくは断つのが苦手だ。言葉を断つのは、なおさら苦手だ。断つより、濁す方が得意だ。濁した言葉は、断った言葉より長持ちする。
みいこさんの部屋は、骨董品で埋まっていた。茶碗、掛け軸、何に使うのか分からない鉄の道具。その隙間に、ぼくの座る場所が一人分だけ空けてあった。いつ空けたのだろう、と思った。ぼくがいない一週間のあいだに、誰のために空けておいたのだろう。
出てきたのは、雑炊だった。
「食え」
「……いただきます」
塩は、ききすぎていなかった。梅は一粒も入っていなかったけれど、塩梅はちょうどよかった。出かける前に一度だけ、ぼくがしょっぱいと顔に出したのを、この人は覚えていたのだろうか。
それが何を意味するのか、ぼくは考えないことにした。考えると、たぶん、ぼくはこの部屋にいられなくなる。
雑炊を食べ終えるまで、みいこさんは何も訊かなかった。島のことも、一週間のことも、ぼくの顔に何が書いてあったのかも。訊かないことが、この人の優しさの形なのだと、ぼくは勝手に解釈している。勝手に解釈しないと、受け取り方が分からないからだ。
部屋に戻って、裸電球を点けた。
四畳一間の真ん中に寝転がって、天井を見た。木目の染みが、出かける前と同じ場所にあった。同じ場所にあることに、ぼくは少しだけ驚いた。一週間で何もかもが変わったような気がしていたのに、天井の染み一つ、動いていない。
鞄の底からスマートフォンを出した。
島にいるあいだ、ほとんど見なかった。見る必要がなかった。友のほかに、ぼくに連絡をしてくる人間はいない。
ニュースの通知が、いくつか溜まっていた。
京都市内で、また人が死んでいた。
ぼくが島にいるあいだに、二人。それより前に、四人。あわせて六人。刃物で、夜に、繁華街の近くで。被害者の共通点は見つかっていない。防犯カメラにも、決定的なものは映っていない。
京都連続通り魔事件、と記事は呼んでいた。
ぼくは記事を最後まで読んで、それからもう一度、最初から読んだ。読み直したところで、書いてあることは変わらない。変わらないと分かっていて読み直すのは、ぼくの悪い癖だ。
六人。
島で数えた死体の数と、どちらが多いだろうか、と考えかけて、やめた。人の死を数で比べるのは、天才のやることだ。ぼくのような人間がやると、ただの悪趣味になる。
夜の十時を少し過ぎて、スマートフォンが鳴った。
鳴る前から、誰からなのかは分かっていた。その相手の一日は、だいたいその時間に始まる。
『いーちゃん、いーちゃん。おはよう。うにー』
『おはよう、友』
夜の十時におはようと言われて、おはようと返す。挨拶というのは、時計に合わせるものではなく、相手の一日のどこにいるかに合わせるものらしい。ぼくの一日は、
『いーちゃん、元気ない?』
『普通だよ』
『普通って、いーちゃんの場合、元気ないってことだよね』
否定できなかった。否定できないことを否定するのは、ぼくの得意分野のはずなのに、玖渚の前ではうまくいかない。
『ねえ、いーちゃん。京都のニュース見た? 通り魔の』
『見た』
『六人だって。いーちゃんの住んでるとこの近くもあるよ』
『知ってる』
『僕様ちゃん、調べてあげようか』
玖渚は、何でもないことのように言った。
彼女がその気になれば、たぶん本当に調べられる。この町のどこにどんなカメラがあって、何が映っていて、何が映っていないのか。ぼくには想像もつかない方法で、ぼくには一生かかっても辿り着けない答えに、一晩で辿り着く。
彼女はそういう人間だ。ぼくの友達は、そういう人間なのだ。
『いいよ』
ぼくは言った。
『いいって、調べていいってこと?』
『調べなくていいってこと』
『どうして? 分かった方が、いーちゃん、安心するでしょ?』
ぼくは、裸電球を見上げた。
『分かったら、分かったことを、どうにかしなきゃいけなくなる。ぼくはたぶん、どうにもできない。どうにもできないことを分かっているのは、分かっていないより、ずっと疲れるんだ』
電話の向こうで、玖渚は少しのあいだ黙っていた。
それから、くすくすと笑った。
『いーちゃんらしいね』
『褒められてる気がしない』
『褒めてないよ。でも、僕様ちゃんは、そういういーちゃんの隣がいいんだよ』
答えを欲しがらない人間の隣がいいという人間が、いちばん多くの答えを持っている。
世の中というのは、だいたいそういうふうにできている。
『ねえ、いーちゃん。島のこと、あんまり考えちゃだめだよ』
『考えてないよ』
『考えてる。いーちゃんは、考えてない時ほど、考えてないって言うから』
ぼくは、何も言い返せなかった。言い返せないことを、玖渚はたぶん、電話の向こうで喜んでいた。
『おやすみ、いーちゃん』
『君は今から起きるんだろ』
『うん。だから、いーちゃんの分まで起きてるね』
『ぼくの分まで寝てくれた方が、ぼくは助かる』
『寝る子は育つって言うけど、僕様ちゃん、もう育たないもん。だから起きてるの』
育たないから起きている。起きているから、育たない。どちらが先なのかを訊く前に、玖渚は笑った。
電話が切れた。
ぼくは、スマートフォンを鞄の底に戻した。六人の死の答えは、ぼくの知らないまま、この町のどこかに転がっている。転がしておくことを、ぼくは選んだ。
選んだ、というのは正確ではない。
拾う勇気がなかった、と言う方が近い。
連休が明けて、久しぶりに大学へ行った。
午後の一般教養。大教室。窓際のいちばん後ろの列。
背筋を伸ばした彼女が、いた。
最後に来た日と同じ席に、同じ姿勢で、同じように本を開いていた。両隣と前の二列が空いている。教室の地図は、ぼくがいないあいだも、何も描き変えられていなかった。
ただ、一つだけ違うことがあった。
彼女の隣の隣。ぼくが前に一度だけ座った席。
そこにも、誰も座っていなかった。
当たり前だ、と思う。あの列には、もともと彼女しか座らない。彼女の周りは、なんとなく避けられている。ぼくが座っていた席が空いているのは、ぼくが来なかったからではなく、誰もあの列に来ないからだ。
そう考えるのが、いちばん筋が通っている。
筋が通っている考えほど、ぼくは信用しないことにしている。
ぼくは窓際のいちばん後ろの列へ歩いていって、あの日と同じ席に座った。彼女の隣を一つ空けた、その向こうに。
彼女は顔を上げなかった。
ページをめくる手が、一度だけ止まった。止まって、すぐに動いた。
ぼくはそれを、見なかったことにした。
講義のあいだ、ぼくは前を向いていた。
前を向いて、何も聞いていなかった。教授の声は、島で聞いた波の音と同じくらい、意味を持たなかった。
視界の端で、彼女がページをめくっていた。
一定の間隔だった。速すぎず、遅すぎず。本当に読んでいる人間のめくり方だった。島に、同じめくり方をする人間がいた。その人は、もういない。
いない人間のことを考える時、ぼくは、考えている自分を、少し後ろから眺めて、他人事のように扱っている。そうでもしないと、ぼくはたぶん、島から帰ってこられなかった。
彼女のページをめくる音が、一度だけ途切れた。
途切れて、またすぐに続いた。
ぼくの方を見たのかもしれない。見ていないのかもしれない。どちらでもよかった。どちらでもいい、と思える距離に、一つ空けた席はちょうどいい。隣に座っていたら、どちらでもいいとは思えない。二つ空けていたら、どちらかを気にすることすらない。
一つ空けた席というのは、気にしてもいいし、気にしなくてもいい、という許可の距離なのだと思う。
そういう距離があることを、ぼくはこの春、初めて知った。
講義が終わって、立ち上がる人の波を座ったまま見送っていた時、彼女が言った。
「休んでいたあいだ、楽しめたのかしら」
楽しいかどうかを考える暇が、なかった。ぼくはそう答えた。彼女は、立ったまま、少しのあいだ動かなかった。何がそんなに引っかかったのかは、ぼくには分からなかった。
先に教室を出たのは、彼女だった。少し遅れて廊下に出たところで、呼び止められた。
「いっくん!」
振り返ると、知らない女の子がいた。
いや、まったく知らないわけではない。語学のクラスで見たことのある顔だった。朱の混じった短い髪。よく喋る子だ。名前は知らない。知らないけれど、ぼくのことを「いっくん」と呼ぶのは、たぶんこの世でこの子だけだ。いつからそう呼ばれていたのか、ぼくは覚えていない。
いーちゃん。いの字。いーたん。いっくん。ぼくの呼び名は、なぜか全部、い、から始まる。い、から先を、誰も知らないのだから当然といえば当然だ。頭文字しか持っていない人間というのは、頭しかない人間と比べて、どちらが不便なのだろう。たぶん、どちらも同じくらい、頭が足りない。
「ずっとどこ行ってたの! 心配したんだよ! 《春休み明けの教室、ただし机が一つ足りない》みたいな気分だったんだから!」
意味は分からなかった。分からなかったけれど、心配していたというのは、たぶん本当なのだろう。本当のことを、こんなふうに冗談で包んで渡せる人間を、ぼくは少しだけ羨ましく思う。
「ちょっと、旅行に」
「旅行! どこどこ?」
「島」
「島!」
それ以上は訊かれなかった。訊かれなかったことに、ぼくは少しほっとした。島のことを訊かれたら、ぼくは嘘をつくしかない。嘘をつくのは得意だけれど、得意なことを人に見せるのは好きではない。
女の子は、廊下の向こうを指さした。窓際のいちばん後ろに座っていた彼女が、ちょうど階段を降りていくところだった。
「あ、ほりきたさんだ。あの子ね、ずっといっくんの席見てたよ」
「見てた?」
「うん。見てないふりして、見てた」
ほりきた、というのが、彼女の名前らしかった。
覚えておこう、と思った。思ったところで、ぼくの記憶力では、明日には半分くらい怪しい。
その日の帰り、ぼくは遠回りをした。
理由はない。骨董アパートへのいちばん近い道を、なんとなく通りたくなかった。なんとなく、というのは、ぼくの場合、たいてい何かから逃げている時の言い訳だ。何から逃げているのかは、考えないことにした。
古い木造の建物が並ぶ路地に入った。
路地の途中に、色の褪せた看板が出ていた。麻雀、と書いてある。二階の窓が少しだけ開いていて、牌を混ぜる音が降ってきていた。
看板の前を、人が一人歩いていた。
窓際のいちばん後ろの、彼女だった。
彼女は、看板の前で歩く速さを少しだけ落として、二階の窓を見上げていた。鞄を両手で持って、背筋をまっすぐ伸ばしたまま。
ぼくは、路地の角で足を止めた。
麻雀というのは、四人でやる遊びだ。
卓を囲む、と言う。囲むのに、四人は互いに背を向けない。向かい合って、囲んでいる。囲んでいるのに、真ん中には誰も入れない。円陣というより、包囲網だ。包囲されているのが卓なのか、座っている四人の方なのかは、ぼくにはよく分からない。
三人でもできなくはないけれど、それはもう別の遊びになる。四人目がいないと、卓は本来の形にならない。だから雀荘には、一人で来た客のための席がある。誰かが立てば、誰かが座る。そうやって、卓はいつも四人で回っていく。
彼女は、その席を見上げているように見えた。
自分のための席ではない。かつて自分が座っていて、今は誰かが座っている席。もしくは、もう誰も座っていない席。
どちらなのかは、ぼくには分からなかった。
分からないまま見ていると、彼女は看板から目を離して、歩き出した。こちらには来なかった。路地の反対側へ、まっすぐに。振り返らなかった。
振り返らない人間の背中というのは、振り返る人間の背中より、少しだけ寂しそうに見える。
ぼくは、そう思ったことを、すぐに打ち消した。
人の背中に、寂しさを読み取るのは、読み取る側の勝手だ。勝手に読み取って、勝手に分かった気になる。それが人見知りという病気の、いちばん悪い症状だ。
人見知り。人を見て、知る、と書く。見て知るのが病気だというのなら、ぼくは重症だ。見ても、知らない。知らないまま、見ている。見知らぬ人を見知ったつもりになるのが人見知りなら、ぼくのは、見知った人を見知らぬままにしておく病気だ。名前をつけるなら、人見知らず。病名まで、ぼくは中途半端だ。
彼女が見えなくなってから、ぼくは看板の前まで歩いていった。二階を見上げた。牌の音が、降ってきていた。
ぼくには、あの卓の座り方が分からない。
分からない人間が見上げても、窓は窓でしかなかった。
路地の上の空は、まだ少しだけ明るかった。
空いた席を見ていたのは、ぼくの方だったのかもしれない。
戯言だけどね。
◇
断る、というのは、選ぶことの一種だと思われている。
違う。断るのは、選ばないことだ。差し出されたものを受け取らないだけで、代わりに何かを手に取るわけではない。手は空のまま残る。
空の手を、人は自由と呼ぶこともある。
私はそれを、ただの空っぽだと思う。
連休が明けて、あの男は戻ってきた。
前と同じ席に、同じように座った。私の隣を一つ空けた、その向こうに。何も言わず、何も持たず、何もしないで。
戻ってきたことに、私は何の感想も持たなかった。
持たないように、本のページから目を離さなかった。ページをめくる手が止まったのは、たまたまその行が読みにくかったからだ。そういうことにしておいた。
講義のあいだ、彼は相変わらず何もしなかった。ノートも、スマートフォンも出さない。前を向いて、座っている。あの日と違うのは、顔色だけだった。前より少し、白い。どこで何をしてきたのか知らないが、楽しい休みではなかったのだろう。
知らない人間の顔色を、私はいつから読むようになったのだろう。
高校の三年間で身についたことの中で、これだけは捨てられなかった。
講義が終わって、立ち上がる時に、私は口を開いていた。
「休んでいたあいだ、楽しめたのかしら」
訊くつもりはなかった。気がついたら、訊いていた。高校の頃からの悪い癖は、京都に来ても直っていなかった。
彼は、座ったまま顔を上げた。上げて、少しだけ考える顔をした。
「楽しいかどうかを考える暇が、なかった」
私は、立ったまま、動けなくなった。
同じ言葉だった。連休の前、
偶然だろう。
そう決めて、鞄を肩にかけた。決めなければならない時点で、私の中ではもう、偶然ではなくなっていた。
「……そう」
それだけ言って、私は通路に出た。
背中に、彼の視線は感じなかった。感じなかったことに、なぜか少しだけほっとした。ほっとしたことに、少しだけ腹が立った。
京都の町は、浮かれていた。
浮かれる、と、浮く。どちらも、足が地面についていない。地面についていない足で、人は、怖い話のすぐ横を平気で歩く。
連休の観光客が残していった浮かれ方と、別の種類の浮かれ方が混じっていた。駅前の掲示板に、警察の貼り紙が増えていた。夜間の一人歩きに注意。不審な人物を見かけたら通報を。
京都連続通り魔事件。
被害者は六人になっていた。刃物で、夜に、繁華街の近くで。犯人の顔は、まだ誰も見ていない。防犯カメラが町じゅうにある時代に、誰も見ていない。
学食のテレビが、そのニュースを流していた。隣のテーブルの学生たちが、怖いね、と言い合って、それから別の話を始めた。怖いね、の一言で、六人の死が片づいていく。
私は、片づけられなかった。
どちらか片方に寄せてしまえば、片はつく。片づけるというのは、つまりそういうことだ。怖いね、と言った人たちは、六人の死を、自分たちのいない方の片側に寄せたのだ。寄せる場所を持たない人間だけが、片づけられないまま、テーブルの真ん中に置いておく。
テレビの前を、一人の学生が通り過ぎようとして、足を止めた。
あの男だった。
トレイを持ったまま、画面を見上げていた。被害者の数を読み上げるキャスターの声を、最後まで聞いていた。周りの学生が、怖いね、と言って別の話に移っても、彼だけは画面から目を離さなかった。
怖がっている顔ではなかった。
数えている顔だった。
何を数えているのかは、分からなかった。そんな顔をする理由が、何も持たない一回生にあるはずがない。
ニュースが天気予報に変わると、彼はようやく歩き出した。窓際の、誰もいない席に座った。一人で。
六という数字を、頭の中で何度か転がした。転がしているうちに、別の数字が重なってきた。
三百十四。
一年生の秋に、私がノートの端に書いた数字だ。クラスの点数だった。あの学校では、点数がそのまま生活になり、生活がそのまま将来になった。あの数字を戻すのは自分だと、私は決めた。
戻せなかった。
語学の授業のあと、葵井さんに捕まった。
「ほりきたさん! 今度の土曜、十四日、空いてる?」
「なぜ」
「
江本さんが、葵井さんの後ろで小さく手を振った。
「来てくれたら、嬉しいな」
江本さんの声は、葵井さんの声より小さかった。小さいのに、断りにくかった。葵井さんの誘いは、断っても笑って跳ね返ってくる。江本さんの誘いは、断ったら、その場に落ちたまま拾われない気がした。
「いっくんも呼ぶの! 六人になるよ!」
六人。
駅前の掲示板の数字と、同じだった。同じだと気づいたのは、たぶん私だけだった。
「行かないわ」
「えー!」
「誕生日を祝うほど、私は江本さんのことを知らない」
「知るために行くんだよ! 《初めての店で、ただしメニューは全部写真付き》みたいなっ!」
「写真を見ても、味は分からないでしょう。食べてみなければ」
葵井さんは、一瞬だけ黙った。黙って、それから笑った。
「じゃあ、食べに来ればいいんだよ! 今、自分で言ったよ、ほりきたさん!」
言われて、自分の言葉の形に気づいた。気づいて、何も言い返せなかった。
「ほりきたさんて、やっぱり頭いいね。でも、来てほしいな。気が変わったら、いつでも言って!」
江本さんは、何も言わなかった。ただ、少しだけ寂しそうに笑った。
その笑い方を、私はどこかで見たことがあると思った。思い出そうとして、思い出せなかった。思い出せなかったのは、それが鏡の中で見た顔だったからかもしれない。誰かに何かを断られた時、私もたぶん、ああいう顔をしていた。
廊下の端の階段で、貴宮さんに呼び止められた。
葵井さんと江本さんは、もう先に行っていた。貴宮さんだけが、壁にもたれて、私が来るのを待っていた。待っていた、ということは、顔を見れば分かった。
「堀北さん」
貴宮さんは、壁から背を離さなかった。
「巫女子のこと、あんまり断らないでやって」
「行きたくないものは、行きたくないわ」
「分かってる」
貴宮さんは、ポケットに手を入れた。何かを取り出しかけて、やめた。煙草の箱の角が、一瞬だけ見えた。私の前では、吸わないらしかった。
「あいつ、断られても笑って引き下がるでしょ。あれ、平気だからじゃないから。平気なふりが、昔から上手いだけ」
気を平らにするのが、平気だ。平らにするには、どこかを均さなければならない。盛り上がったところを削るのか、へこんだところを埋めるのか。葵井さんがどちらをしてきたのかを、私は知らない。
小学校の頃からの付き合いだと、貴宮さんは言った。その長さの分だけ、貴宮さんは葵井さんの平気なふりを見てきたのだろう。
「気が変わったら、でいい。行ってやって」
それだけ言って、貴宮さんは階段を降りていった。足音が、二段飛ばしだった。
私は、何も返事をしなかった。
返事をしなかったことを、貴宮さんは気にしていないようだった。
学食で、一人でうどんを食べていると、向かいの席に誰かが座った。
宇佐美くんだった。
「ここ、いい?」
「座ってから訊くのね」
「あはは、ごめんごめん」
ごめん、を二回重ねると、一回分より軽くなる。謝罪というのは、たぶん、足し算ではなく割り算でできている。
宇佐美くんは、トレイを置いて、カレーをかき混ぜた。かき混ぜるだけで、なかなか食べなかった。
「巫女子ちゃんの誘い、断ったんだって?」
「ええ」
「そっか。まあ、無理にとは言わないけど」
宇佐美くんは、人当たりのいい笑顔のまま、スプーンを置いた。
「巫女子ちゃんさ、ああ見えて、いっくんのこと結構本気なんだよね。誕生会も、半分はいっくん呼ぶための口実だと思うよ。智恵ちゃんの誕生日なのにさ。智恵ちゃん、それ分かってて、何も言わないんだ」
私は、箸を止めた。
宇佐美くんは、笑顔のままだった。笑顔のまま、誰かの内側を、こともなげに外へ出してみせた。
「……それを、どうして私に言うの」
「え? いや、別に。堀北さんが来たら、いっくんの隣、どうなるのかなって思って」
「隣は、なるものではないわ。座るものよ」
「あはは。堀北さん、国語の先生みたい」
国語の先生なら、たぶん、ここで正解を教える。私には、教える正解がなかった。
宇佐美くんは、また笑った。
人当たりのいい笑顔だった。どこに当たっているのか分からない笑顔だと、初めて会った時に思った。今は、少しだけ分かった。あの笑顔は、当たる場所を、自分で選んでいる。
「楽しみだなあ、十四日」
宇佐美くんは、カレーを食べ始めた。
私は、うどんを最後まで食べられなかった。
断ったあと、部屋に戻るまで、断った理由を考えていた。
江本さんのことを知らないから。そう言った。嘘ではない。けれど、知らない人間の誕生会に行かない理由としては、筋が通りすぎている。筋が通りすぎている理由は、たいてい本当の理由ではない。
本当の理由を探して、見つからなかった。
探し物は、探すのをやめた時に見つかる、と言う。私の場合は逆だった。見つかりそうになった時に、探すのをやめた。
誰かの隣に座るのが、怖いのだ。
座る、の反対は、立つ、ではない。去る、だ。立つだけなら、また座れる。座れば、いつか去らなければならない。去る時に、何かを置いていかなければならない。私はもう、何かを置いていくのに疲れていた。
麻雀の卓のことを思い出すと、いつも、その少しあとのことも一緒に思い出してしまう。
卓の翌日の夕方、校舎の裏で、赤木くんが煙草を出した。
どこで手に入れたのかは知らない。箱から一本抜いて、くわえた。
《あなた、未成年でしょう。煙草は二十歳からよ》
私は言った。言わずにはいられなかった。
《それに、ここは学校。見つかったら、あなた一人じゃ済まない。クラスの点まで引かれるわ。今、いくつだと思ってるの。三百十四よ》
《知ってる》
《知ってるなら、しまいなさい》
私は、その手首を掴んだ。掴んだ手首には、少しも力が入っていなかった。入っていないのに、動かせなかった。
赤木くんは、掴まれたまま、火をつけた。
私は、手を離すしかなかった。
吐いた煙が、校舎の壁に沿って上っていった。
《十四になるな》
煙を見たまま、赤木くんが言った。
いくつ、と私が訊いたのは、クラスの点のことだった。あの人は、それを自分の歳で答えた。答えをずらされたのだと気づくまでに、少し時間がかかった。ずらされた方が本当の答えだったと気づくまでには、もっと時間がかかった。
それから、こう言った。
冗談を言う顔ではなかった。冗談を言う人でもなかった。
その言葉の意味を、私は今も、うまく受け取れずにいる。どこかの卓に座っていた十三歳の男の子が、目を覚ましたら、知らない学校の寮にいた。そんな話を、そのまま信じられるほど、私は素直ではない。
信じられないのに、疑う理由も見つからない。
あの人は、それを私に言った。
言ってから、一週間後に、いなくなった。
煙草の前の日の、週末の卓のことも、思い出した。
学校の中で、私は麻雀の卓に座った。四人で打つ卓だった。私の隣には赤木くんがいて、綾小路くんと坂柳さんが、残りの二つの席に座っていた。負けた者が自分で学校を去る卓だった。
卓の十日ほど前、非常階段で、私は赤木くんに、勝ち方を教えて、と頼んでいた。頼んだのは私の方だ。あの人は、まず座れ、と言った。種目が麻雀になる保証もないまま、牌の並べ方もろくに知らなかった私は、五日間で、役と点数と、捨て牌の数え方を覚えた。
卓の上で、私は何度も間違えた。間違えて、点数を失くして、取り返しのつかないところまで落ちかけた。それでも、席を立たなかった。
最後の局で、私は綾小路くんの捨てた白を槓した。坂柳さんの捨てた九索も、もう一度槓した。二つの槓で、山の底の一枚を、赤木くんの番まで運んだつもりだった。
《最後の一枚は、あなたよ》
私はそう言った。
坂柳さんが、チーをした。それで、ツモが一つずれた。私が運んだ一枚は、私の番に落ちた。赤木くんの和了れない、ただの一枚になった。
運び終えたものを、目の前で外された。
私は、山の底を見ていた。見ているしかなかった。
《フフ、そっちじゃねえよ、堀北》
赤木くんは、口の端だけで笑っていた。
そっち、が何を指していたのか。あの人が、私の運んだ一枚の向こうに何を見ていたのか。私はその局の終わりに知った。知って、それでも、あの笑いをうまく言葉にできずにいる。
外されたのは、私の一枚だった。
外されたあとも、あの人は、私が卓に座っていることだけは、勘定から外さなかった。
部屋の窓から、夜の京都が見えた。
どこかでサイレンが鳴っていた。近づいて、遠ざかって、また近づいた。今夜も誰かが、どこかで死んだのかもしれない。
鞄からノートを出して、机の上に置いた。
いちばん後ろのページに、指をかけた。
かけたまま、しばらく動かなかった。
綾小路くんなら、何と言うだろう。誕生会に行くべきか、行かないべきか。そんなことを訊けば、たぶん、平らな声で、どちらでもいいと言う。どちらでも、お前にとっての損得は変わらない、と。
そうに決まっている。
決まっている答えのために、二年半使わずにきた番号を使うのは、馬鹿げていた。
馬鹿げている、のではない。怖かったのだ。
かけて、どちらでもいいと言われたら、私は本当に、どちらでもいい人間になってしまう。行っても行かなくても、誰にも何も変わらない人間に。
指を離した。
ノートを閉じて、鞄に戻した。
鞄の中で、ノートのいちばん後ろの紙が、まだ開かれずにいる。
葵井さんの誘いは断った。江本さんの誕生日は、今度の土曜、十四日だ。
行かない。
行かないと決めた。
決めたはずなのに、十四日という数字だけが、頭の中から出ていかなかった。