ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第20話 十全(充全)

十全、という言葉は、欠けたところが一つもないことを言う。

 

十のうちの十。全部そろって、何も足りない。

 

けれど、十全だと言い切る人は、たいてい、十のうちの一つを、自分の中に隠している。隠した一つを、誰にも数えさせないために、全部そろっている、と先に言う。

 

言われた方は、数えられない。

 

数えられないものを、数えないまま、受け取るしかない。

 

 

 

 

 

翌朝、施設の門の前に、白い車が止まっていた。

 

車に乗る前に、玄関の吹き抜けで、三好さんに会った。

 

三好さんは、白衣ではなかった。薄手のコートを着て、小さな鞄を一つ、提げていた。

 

「先生も、どこかへ」

 

彼が訊くと、三好さんは、肩をすくめた。

 

「ここ、長くはもたへんよ。……玖渚(くなぎさ)の家の娘を地下に入れた施設に、玖渚の家が、いつまでも金を出すと思う?」

 

三好さんは、吹き抜けの天井を、見上げた。

 

「わたし、あっちに戻るわ。外国の、あそこ。……戻ってこい言われとったんよ、前から。断っとったけど、ここがなくなるんやったら、断る理由もなくなる」

 

「あそこ、ですか」

 

彼の声が、少しだけ、低くなった。

 

三好さんは、彼を見た。

 

検品をする目ではなかった。昔の教え子を、見送る目だった。

 

「あんたは、戻らんでええよ。……戻らんで、大学行って、一つ空けて座っとる子の隣の隣に、おったらええ」

 

三好さんは、私を、顎で示した。

 

「その子、刈られへんから。……一つ空けとる子の隣の隣は、たぶん、いちばん、刈られにくい場所や」

 

三好さんは、それだけ言って、吹き抜けを出ていった。

 

出ていく前に、一度だけ、振り返った。

 

「戯言遣い。……あそこで、わたしの名前の一字をもらった子が、今、どうしとるか、知っとる?」

 

「……知りません」

 

「わたしも、知らん。知らんでええ、言われたまんまや」

 

三好さんは、少しだけ、笑った。

 

笑い方が、疲れていた。

 

「知らんでええ、言われたことを、知らんまま持っとるのは、案外、重いもんやね」

 

扉が、閉まった。

 

私は、吹き抜けの、分解されたエレベーターの前に、立っていた。

 

知らなくていい、と言われたことを、知らないまま持っている。

 

私の、ノートのいちばん後ろにも、そういうものが、一枚、挟まっていた。

 

鈴無(すずなし)さんが、運転席で、エンジンをかけていた。玖渚さんは、もう、後ろの座席で、クッションを抱えていた。

 

彼が、玖渚さんの隣に乗り込んだ。

 

玄関の方から、足音が近づいてきた。

 

春日井(かすがい)さんだった。

 

白衣ではなく、私服を着ていた。私服といっても、色のない服だった。白でも黒でもなく、灰色とも言い切れない、洗いざらしたような色。昨日までの白衣と、並べても、たぶん区別がつかない。

 

春日井さんは、私の前で止まった。

 

止まって、私を見た。見る目に、何も浮かんでいなかった。一昨日の夕食の席でも、昨日の朝の扉の前でも、この人の目には、何も浮かんでいなかった。

 

「あなたあの男の連れ」

 

「……ええ」

 

「あの男はどこに住んでいるの」

 

唐突だった。

 

唐突なのに、声の高さが少しも変わらなかった。天気を訊くのと、同じ高さだった。

 

「どうして、それを訊くの」

 

「この施設はたぶん閉まる。閉まったら私は行く所がない。行く所がない動物は行く所のある動物の後をついていく」

 

動物、と春日井さんは言った。

 

自分のことを、そう言った。

 

「本人に、訊いてください」

 

「訊いたら教えないでしょう」

 

「教えないと分かっていて、私に訊くの」

 

「あなたは教えないと分かっていることをわざわざ言わない人に見えた。言わない人は知らないか知っていて言わないか。どちらか分かれば私はそれで足りる」

 

足りる、と春日井さんは言った。

 

この人は、私の答えの中身ではなく、答え方を見ていた。答え方から、知っているかどうかだけを、拾っていた。

 

私は、何も言わなかった。

 

何も言わないことも、たぶん、答え方の一つだった。

 

春日井さんは、私の顔を、もう少しだけ見ていた。

 

それから、小さく頷いた。

 

「知っているのね。でも言わない」

 

「……」

 

「いいの。言わない人の方がついていく先としては信用できる」

 

春日井さんは、それだけ言って、後ろの座席の窓を、指で一度だけ叩いた。

 

窓の向こうで、彼が、困った顔をした。

 

困った顔をした彼に、春日井さんは、ガラス越しに言った。

 

「布団は一組でいいわ。そのほうが暖かい」

 

七月だった。

 

言うだけ言って、春日井さんは、玄関の方へ戻っていった。戻っていく足取りに、迷いがなかった。迷いのない足取りの人は、たいてい、もう行き先を決めている。

 

「……あなた、何か約束したの」

 

窓越しに、私は訊いた。

 

「してない。する前に、されてる」

 

彼は、窓に額をつけて、溜め息をついた。

 

「四畳一間なんだけどな」

 

誰に言ったのでもない声だった。

 

玖渚さんが、彼の腕にしがみついたまま、うにー、と言った。いつもより、少しだけ、低いうにーだった。

 

ついていく動物と、ついていかれる人。

 

この男の後ろには、いつも、誰かがついてくる。五月、この男の周りにいた同じクラスの三人は、死んだ。

 

私は、ついていっていない。

 

一つ空けて、座っているだけだ。

 

ついていくことと、隣の隣に座ることは、たぶん、違う。違うと思いたかった。思いたい、ということは、まだ、違うと言い切れないということだった。

 

 

 

 

 

ドアを開ける前に、玄関の二階の窓に、人影が見えた。

 

根尾(ねお)さんだった。

 

窓の内側で、ケーキの皿を片手に持って、こちらを見下ろしていた。

 

目が、合った。

 

根尾さんは、皿を持っていない方の手で、指を一本、唇に当てた。

 

一昨日、休憩室で、生クリームのついた指を、同じように当てた。今のは、内緒で、という意味だった。

 

何を内緒にするのかは、言わなかった。

 

言わなかったけれど、私には、分かった気がした。

 

一昨日の夜、渡り廊下で、私が何を聞いたのか。昨夜、私が何を見ていたのか。

 

根尾さんは、それを、内緒にする。

 

私も、根尾さんの、短くて平らな声を、内緒にする。

 

交わしたのは、約束ではなかった。約束にするには、二人とも、嘘が多すぎた。

 

ただ、同じものを、同じように、黙っておく。

 

それだけの、取引だった。

 

根尾さんは、窓の内側で、ケーキを、一口食べた。

 

食べて、満足そうに、頷いた。

 

甘いものは、嘘をつかない。

 

窓から、根尾さんの姿が、消えた。

 

私は、助手席のドアに手をかけた。

 

門の脇の守衛室の陰に、大垣くんが立っていた。

 

白衣ではなかった。黒いシャツを着ていた。眼鏡の奥の目は、相変わらず、睨むような目つきだった。

 

その隣に、宇瀬(うぜ)さんがいた。

 

替えの眼鏡をかけていた。紺のスーツは、昨日と同じだった。

 

後ろの座席で、彼が、窓越しに、宇瀬さんの顔を見た。

 

「……やっぱり、似合ってますね。その眼鏡」

 

宇瀬さんの頬が、少しだけ、赤くなった。

 

小唄さんは、野暮ったい、と言った眼鏡だった。同じ眼鏡を、二人は、違う言葉で見ていた。

 

大垣くんは、私たちの車の方を、睨んでいた。

 

睨んだまま、何も言わなかった。

 

宇瀬さんが、大垣くんの袖を、指先で、少しだけ引いた。

 

引かれて、大垣くんは、舌打ちをした。

 

舌打ちをしてから、車の窓の、彼の方へ、歩いてきた。

 

窓を、拳で、軽く叩いた。

 

彼が、窓を下ろした。

 

「……変態の、昔の仲間の、連れの」

 

大垣くんは、言いかけて、止まった。

 

「長えな。……おい、お前」

 

「何」

 

「推理、穴だらけだったぞ」

 

「知ってる」

 

「知ってて、あれかよ」

 

「知ってて、あれ」

 

大垣くんは、彼を、長いあいだ、睨んでいた。

 

それから、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「……美幸さんが、礼を言っとけって。何の礼かは、言わなかった。言わなかったから、俺も知らねえ。知らねえけど、言っとく」

 

大垣くんは、窓から、手を離した。

 

「礼だ」

 

それだけ言って、宇瀬さんのところへ、戻っていった。

 

宇瀬さんは、車に向かって、深く頭を下げた。

 

下げた頭が、上がった時、宇瀬さんは、大垣くんの手を、取っていた。

 

取られた大垣くんは、振りほどかなかった。

 

睨む目のまま、少しだけ、耳を赤くしていた。

 

隠しているつもりの二人が、門の前で、少しも隠さずに、並んで立っていた。

 

施設は、たぶん、長くはもたない。

 

もたなくなったあとで、この二人は、どこへ行くのだろう。

 

分からなかった。

 

分からないけれど、二人とも、同じ方へ行く気がした。

 

手を、取ったまま。

 

その時、後ろから、声がした。

 

「ごきげんよう」

 

振り返った。

 

石丸さんが、門の脇に立っていた。

 

昨日と同じ、黒い服だった。朝の光の中で見ると、思っていたよりも、背が高く見えた。顔立ちは、やはり、よく分からなかった。分からないように、そこに立っている気がした。

 

「お見送りに参りましたの。お友達は、無事にお出かけになったようですし、わたくしの仕事も、これでおしまい」

 

「……石丸さん」

 

私が呼ぶと、石丸さんは、ほんの少しだけ、眉を寄せた。

 

「小唄、でよろしくてよ。名字で呼ばれるのは、あまり好きではありませんの」

 

私は、ドアの取っ手を握ったまま、動きを止めた。

 

名字で呼ばれるのが、好きではない。

 

《あたしを苗字で呼ぶのは、敵だけだ》

 

先月、赤い車の中で、そう言った人がいた。

 

どこからか取り出して、どこかへしまう鍵。革の座席の匂い。渡り廊下で一度だけ崩れた、呆れた声。来ると言った時ほど来なくて、来ないと言った時に来る人。

 

私は、石丸さんの顔を見た。

 

見ても、分からなかった。分からないように作られた顔だった。

 

私は、それ以上は、見ないことにした。

 

先月、潤さんは、私に、その子の顔を見てほしいと言った。見ることを、私は、まだ下手なままだ。下手なまま、見ないことを選ぶこともできる。

 

「……小唄さん」

 

「はい」

 

 

 

「急な仕事は、終わりましたか」

 

 

 

小唄さんは、少しだけ、黙った。

 

黙ってから、片方の口の端を、大きく吊り上げた。

 

六月、赤い車の運転席で、何度も見た上げ方だった。

 

 

 

「十全に」

 

 

 

それだけ言って、小唄さんは、門の内側へ戻っていった。

 

私は、助手席に乗った。

 

鈴無さんが、車を出した。

 

バックミラーの中で、門が小さくなっていった。門の脇に、もう、誰も立っていなかった。

 

山道に入った頃、鈴無さんが、前を向いたまま言った。

 

「あんた、昨日の夜、外に出てたでしょ」

 

「……はい」

 

「一昨日の夜も」

 

「はい」

 

「アタシ、部屋にいなさいって、言ったわよね」

 

「……今度は、言われたことにします」

 

「あら。屁理屈、言わないのね」

 

「言える屁理屈が、ありませんでした」

 

鈴無さんは、ハンドルを、両手で握り直した。

 

「説教しようと思ってたの。昨日から、ずっと。どういう説教にしようか、ずっと考えてたの」

 

「……すみません」

 

「謝らなくていいわよ。結局、思いつかなかったんだから」

 

鈴無さんは、少しだけ、笑った。

 

「あんたが外に出て、何をしたのか。アタシは知らない。あの子も、言わないし。でも、あんたが出ていったあとで、何かが、悪くならずに済んだ気はするの。……そういう子に、部屋にいなさいって説教するのは、アタシの主義に反するんだわよ」

 

「主義、ですか」

 

「説教ってのはね、相手が間違ってる時にするものなの。あんたは、間違ってない。言うことを聞かないだけ。……言うことを聞かないのと、間違ってるのは、違うのよ」

 

言うことを聞かないのと、間違っているのは、違う。

 

正しい答えを聞いて、違う方へ座る。それを、私は、ずっと、自分のわがままだと思っていた。

 

わがままと、間違いは、違う。

 

この人は、そう言った。

 

「でもね、一つだけ」

 

鈴無さんの声が、少しだけ、低くなった。

 

「出ていく時は、誰かに、行き先を言いなさい。アタシでなくてもいい。あの子でも、あおちゃんでも。……誰にも言わないで出ていく子は、いつか、誰にも見つけてもらえない場所に行っちゃうから」

 

私は、答えなかった。

 

答えなかったけれど、その言葉は、ノートのいちばん後ろの紙と同じ場所に、仕舞った。

 

「すずちゃん」

 

後ろから、玖渚さんが言った。

 

「さっきの泥棒さんと、何話してたの」

 

「仕事の話よ」

 

「ふーん」

 

玖渚さんは、それ以上は訊かなかった。言いたくない顔は、調べない。この子は、それを守った。

 

後ろの座席から、彼が、窓の外を見たまま、小さく言った。

 

「……あの泥棒さん、誰だったと思う」

 

昨日、研究棟の廊下で、彼は、小唄さんのことを、詳しいね、とだけ言った。あの時の私には、答えられることが、何もなかった。

 

「急な仕事は、終わったそうよ」

 

私は、言った。

 

彼は、少しだけ、目を見開いた。

 

見開いて、それから、窓に額をつけて、肩を揺らした。

 

笑っていた。

 

声を立てずに。

 

「……十全に?」

 

「十全に」

 

彼は、しばらく、肩を揺らしていた。

 

揺らしながら、上着の内ポケットの上に、手を置いた。

 

置かれた手の下に、宇瀬さんが毎日持っていた重さがあった。

 

小唄さんは、それを、野暮なもの、と言った。持たない主義だ、と。

 

持たない主義の人が、持たせた。

 

使い方を知らない人に。

 

それが、小唄さんの、十全の、隠した一つなのかもしれなかった。

 

山を下りる途中の、小さなドライブインで、鈴無さんが、車を止めた。

 

「お昼にするわよ。……地下で言ったこと、覚えてるわね」

 

説教一回につき、晩飯一回。

 

「晩飯じゃなくて、昼飯だけど。まけといてあげるわ」

 

奢ったのは、彼だった。

 

私が財布を出しかけると、鈴無さんが、手で止めた。

 

「あんたは、いいの。あんたには、説教してないんだから」

 

説教をされていない人間は、奢らなくていい。

 

奢らなくていい、と言われたことが、なぜか、少しだけ、物足りなかった。

 

うどんが、四つ、運ばれてきた。

 

彼は、自分の分に手をつける前に、玖渚さんの丼から、一本ずつ、麺を小皿に取り分けていた。取り分けて、少し冷ましてから、玖渚さんの前に置いた。

 

玖渚さんは、それを、当たり前のように食べた。

 

いーちゃんが隣にいないと、ご飯も食べられない。地下の部屋で、この子は、そう言った。

 

言ったとおりの食べ方を、私は、向かいの席から、黙って見ていた。

 

鈴無さんは、それを見ないふりをして、自分のうどんを、大きな音を立てて啜った。

 

車に戻ると、玖渚さんは、彼の肩に、頭を乗せた。

 

しばらく、車の中は静かだった。

 

山道を下りきった頃、玖渚さんが、また口を開いた。

 

「ねえ、すずちゃん」

 

「何」

 

「隣の隣って、遠い? 近い?」

 

バックミラーに、青い目が映っていた。

 

彼の肩に、頭を乗せていた。乗せたまま、私を見ていた。

 

隣の、隣。

 

一つ空けた席。手を伸ばしても、届かない。声を出せば、届く。

 

「ちょうどいいのよ」

 

私は、言った。

 

玖渚さんは、しばらく、私を見ていた。

 

それから、にっこりと笑った。

 

「うにー。じゃあ、そのままでいてね」

 

それから、玖渚さんは、少しだけ、声を落とした。

 

「さっちゃん、元気かな」

 

誰に訊いたのでもなかった。

 

「元気だよ」

 

彼が、答えた。

 

玖渚さんは、彼を見上げた。

 

「どうして分かるの」

 

「出ていく人は、出ていけた時が、いちばん元気だから」

 

玖渚さんは、彼の顔を、下から見ていた。

 

それから、また、彼の肩に、頭を乗せた。

 

「いーちゃん、さっちゃんのこと、嫌い?」

 

彼は、少しだけ、黙った。

 

「……向こうが、ぼくを嫌いなんだよ」

 

「そうじゃなくて。いーちゃんは?」

 

彼は、答えなかった。

 

答えないまま、窓の外を見ていた。

 

兎吊木(うつりぎ)さんの問いを、私は、思い出していた。戯言遣いは、玖渚友のことが、本当は嫌いなんじゃないのか。

 

玖渚さんの問いは、それとは、違う問いだった。

 

違う問いなのに、答えないところだけが、同じだった。

 

私は、助手席で、前を向いていた。

 

二つの問いを、どちらも、持ったまま。

 

そのままでいて、と言われた。

 

隣は、この子のもの。隣の隣は、空いたまま。

 

空いたまま、そこに座っていていい、と言われた気がした。

 

 

 

 

 

京都に戻ったのは、夕方だった。

 

骨董アパートの前で、彼が、先に降りた。

 

降りる前に、後ろの座席から、玖渚さんの髪に、一度だけ、手を置いた。

 

置いて、すぐに離した。

 

玖渚さんは、うにー、と言った。

 

鈴無さんが、運転席から、彼に言った。

 

「説教、まだ一つ残ってるわよ」

 

「……覚えてます」

 

「覚えてるなら、いいわ。忘れた頃に、しに来るから」

 

彼は、少しだけ笑って、車のドアを閉めた。

 

閉めてから、助手席の窓の、私の方を見た。

 

何も、言わなかった。

 

言わずに、一度だけ、頷いた。

 

私も、頷き返した。

 

彼は、背を向けて、骨董アパートの階段を、昇っていった。

 

一段ごとに、板が鳴った。

 

車の中まで、聞こえた。

 

鳴る階段は、昇る人間の数を、数えている。

 

今夜、あの階段は、一人分、多く鳴る。

 

山の中の白い階段は、数えずに、記録していた。

 

こちらの階段は、記録せずに、数えている。

 

私は、数えている方の階段の方が、少しだけ、好きだった。

 

好きだと思ったことに、少しだけ、驚いた。

 

車が、走り出した。

 

鈴無さんは、私の部屋の前まで、送ってくれた。

 

骨董アパートから私の部屋までの道で、玖渚さんは、後ろの座席で、眠っていた。

 

クッションを抱えて、窓に頭を預けて。

 

隣の席が、空いていた。

 

彼が座っていた席だった。

 

空いた席の隣で、玖渚さんは、少しも、寂しそうではない顔で、眠っていた。

 

隣が空いても、隣の人が、どこにいるのかを知っている子の、眠り方だった。

 

私は、助手席から、バックミラー越しに、それを見ていた。

 

隣が空いていても、知っていれば、眠れる。

 

私の隣は、空いていて、どこにいるのかも、知らなかった。

 

知らないまま、眠れるようになったのは、いつからだったろう。

 

降りる時、鈴無さんが、言った。

 

「堀北。……あんた、山の中で、一度も泣かなかったわね」

 

「泣く理由が、ありませんでした」

 

「理由がなくても泣く子は、いくらでもいるのよ。……理由があっても泣かない子は、少ないけど」

 

鈴無さんは、それだけ言って、ハンドルを握り直した。

 

「行き先、言いなさいよ。次からは」

 

「……はい」

 

はい、と答えた時、私は、少しだけ、嘘をついた気がした。

 

次からは、と鈴無さんは言った。

 

次がいつ来るのかを、私は、知らなかった。来た時に、行き先を言えるかどうかも。言える相手が、その時、近くにいるかどうかも。

 

それでも、はい、と答えた。

 

答えたことは、答えた分だけ、少しずつ、本当になる。

 

鈴無さんは、たぶん、それを知っていて、はい、と言わせた。

 

白い車が、走り去った。

 

 

 

 

 

部屋に入って、鞄を置いた。

 

スマートフォンの右上に、電波の印が、全部戻っていた。

 

圏外の二文字は、どこにもなかった。

 

ノートを開いた。

 

いちばん後ろの、十一桁。

 

番号を押した。

 

二回目の呼び出し音で、つながった。

 

『堀北か』

 

『今、話せる?』

 

『話せる』

 

いつも通りの声だった。

 

私は、この三日間のことを話した。

 

斜道卿壱郎(しゃどうきょういちろう)の研究施設。玖渚さんと、鈴無さん。玖渚さんの家が出しているお金。兎吊木さん。磔の死体。地下の部屋。穴だらけの推理。フェンスの切り口。

 

話しながら、気づいた。

 

私は、一度も、どうすればよかったのか、と訊いていなかった。

 

綾小路くんは、黙って聞いていた。

 

話し終えると、少しだけ、間があった。

 

『それで』

 

『それで、終わりよ』

 

『答えは、要らないのか』

 

『ええ。今日は、報告だけ。……博士に、凡庸だと言われたわ。二度』

 

『……そうか』

 

それだけだった。先月、赤い車の中では、逆のことを言われた。どちらが本当なのか、綾小路くんは、訊かなかった。訊かれなかったから、両方、持って帰ってきた。

 

また、間があった。

 

いつもより、少しだけ長い間だった。

 

『斜道の施設は、長くはもたない』

 

綾小路くんが、言った。

 

『玖渚の家が金を出している施設で、玖渚の娘を拘束した。その上、研究対象に逃げられた。……あの男の研究は、ここで終わる』

 

『そう』

 

『興味がないのか』

 

『あるわ。でも、もう、私の話ではないもの』

 

綾小路くんは、黙った。

 

それから、もう一つだけ、言った。

 

『黙っていたのは、お前の判断か』

 

兎吊木さんのことだった。

 

私は、それを、話した。話したけれど、どうして黙っていたのかは、話していなかった。

 

『ええ』

 

『そうか』

 

それだけだった。

 

正しいとも、間違っているとも、言わなかった。

 

『切るわ』

 

『ああ』

 

電話を切った。

 

 

 

 

 

伏せる前に、通話履歴を、一度だけ、見た。

 

いちばん上に、十一桁。その下に、七月一日から三日までの、空白。圏外だった三日間には、誰からも、何も、届いていなかった。

 

その下に、六月の、十一桁。

 

その下に、坂柳さん。六月の、一度だけの通話。

 

その下に、櫛田さん。

 

私の電話は、かける人と、かけてくる人で、できていた。

 

かける人は、一人だけだった。かけてくる人は、二人いた。

 

この三日間、かけてくる人は、誰も、かけてこなかった。圏外だったことを、知らなかったから。

 

知らないまま、かけてこなかった人たちのことを、私は、少しだけ、ありがたいと思った。

 

かけてこなかった分だけ、私は、あの山の中で、答えのない三日間を、過ごせた。

 

スマートフォンを、机の上に伏せた。

 

伏せたまま、しばらく、見ていた。

 

報告だけ、と言ったのは、初めてだった。

 

答えを欲しがらずに、あの番号にかけたのは、初めてだった。

 

五月に四度、六月に一度。この番号にかけたのは、これで六度目だった。

 

六度目にして、初めて、何も訊かなかった。

 

訊かなかったのに、綾小路くんは、一つだけ、訊いてきた。黙っていたのは、お前の判断か、と。

 

綾小路くんが、私に何かを訊くのは、珍しかった。訊く前に、たいてい、もう分かっている人だった。分かっていることを、確かめるために訊いたのか。それとも、本当に分からなかったのか。

 

本当に分からなかったのなら、と思った。

 

思ってから、その先を考えるのをやめた。綾小路くんが、何かを分からないでいる顔を、私は、見たことがない。見たことのない顔を、電話の向こうに想像するのは、やめた。

 

圏外の山の中で、私は、寄りかかりを取り上げられた。取り上げられたまま、三日を過ごして、戻ってきた。戻ってきて、電波が戻っても、寄りかかりは、元の場所には戻らなかった。

 

戻らなかった場所に、何が座ったのかは、まだ分からなかった。

 

窓の外で、蝉が鳴き始めていた。

 

京都の夏が、来ていた。

 

蝉の声を、私は、しばらく、数えずに聞いていた。数えなくても、蝉は、鳴き続けた。数えられていないことを、蝉は、少しも気にしていなかった。

 

 

 

 

 

七月の半ば、大教室で、彼が、一つ空けた向こうの席から言った。

 

「施設、閉まったって」

 

「……そう」

 

「玖渚の家が、お金を止めた。止めた理由は、書類には書いてないけど、たぶん、友を地下に入れたからだって、鈴無さんが言ってた。……博士の研究は、打ち切り。研究員は、ばらばら」

 

ばらばら。

 

綾小路くんは、あの電話で、言った。あの男の研究は、ここで終わる、と。

 

答えをもらわずにかけた電話の、答えだけが、あとから届いた。

 

「三好先生は、外国の、元の所へ戻った。……根尾さんは、気がついたら、いなくなってたって。誰も、どこへ行ったか知らない」

 

知らないことを、知らないと言う人と、知らないふりをする人。根尾さんは、たぶん、後の方の人たちの所へ、戻っていった。

 

「宇瀬さんと、大垣くんは」

 

訊いてから、自分で、少しだけ驚いた。

 

彼も、少しだけ、こちらを見た。

 

「二人で、どこかへ行ったって。……一緒に」

 

「そう」

 

それだけ言った。

 

それだけで、足りた。

 

「それから」

 

彼は、少しだけ、声を落とした。

 

「春日井さんが、ぼくの部屋に来た」

 

「……来たの」

 

「行く所がないって。動物は、行く所のある動物の後を、ついていくんだって。……四畳一間に、二人。狭いよ」

 

彼は、窓の外を見た。

 

「春日井さんは、狭いのを気にしない人なんだ。気にしないから、狭さが、全部ぼくの方に寄ってくる」

 

それから、こちらを見ないまま、付け足した。

 

「……夜中に、寒いって言って、布団に入ってくる」

 

私は、何も言わなかった。

 

言わずに、門の前で、春日井さんが、後ろの座席の窓を、指で一度だけ叩いたのを、思い出していた。

 

あの時、もう、決めていたのかもしれない。

 

選ばない人が、ついていく先だけは、選んでいた。

 

選ばない、と言いながら選ぶ人と、選ぶ、と言いながら選ばない人。

 

春日井さんは、前の方だった。

 

私は、どちらなのだろう。

 

降りない、と決めて、京都へ逃げてきた。逃げてきたことは、認めている。認めているのに、降りたとは、思っていない。

 

選んだのか、選ばなかったのか。

 

答えは、春日井さんなら、たぶん、平らな声で、読点を一つも打たずに、言える。

 

「……それから、もう一つ」

 

彼は、上着の内ポケットの上に、手を置いた。

 

七月の半ばの、暑い日だった。上着を着ているのは、教室で、彼一人だった。

 

暑いのに、脱がなかった。

 

脱げば、内ポケットの形が、誰かに見える。見えたら、誰かが、訊く。訊かれたら、この人は、たぶん、嘘をつく。

 

嘘をつかないために、上着を着ているのかもしれなかった。

 

「これ、まだ、持ってる」

 

「捨てなかったのね」

 

「捨てられなかった。……捨てたら、誰かが拾うから」

 

彼は、少しだけ笑った。

 

「持ってる人が、いちばん使い方を知らないのが、いちばん安全。……君が、そう返したんだよ」

 

返したのは、私だった。

 

返された言葉を、この人は、上着の内側に、拳銃と一緒に、しまっていた。

 

 

 

 

 

講義が始まる前に、私は、もう一つだけ、訊いた。

 

「三好先生の、名前の一字をもらった子のこと。……あなたのいたところは何をしていたの」

 

彼は、少しだけ、黙った。

 

「……さあ。あそこにいた頃の話は、あんまり、しないことにしてるんだ」

 

彼は、窓の外を見た。

 

「先生は、知らなくていいって言われたって言ってた。……ぼくも、知らなくていいって、言われてる気がする。誰にも言われてないのに」

 

知らなくていい、と言われていないのに、言われている気がする。

 

斜道博士は、窓の前で、言った。この国のどこかに、私より静かに作っている者たちがいる、と。名前も、看板も、出さずに。

 

三好さんは、言った。知った子は、たいてい、そこに呼ばれる、と。

 

私は、二人の言葉を、並べなかった。

 

並べたら、一つの形になってしまう。

 

形になったものには、名前がつく。名前のついたものは、電話の向こうの、平らな声の、育った場所の名前と、同じになってしまうかもしれなかった。

 

並べないまま、ノートを開いて、講義の日付だけを書いた。七月の、半ば。

 

窓の外で、蝉が、鳴いていた。

 

上着の内側に重さを隠した人の、一つ空けた隣で、山の中の三日間は、どこにも、書かなかった。書かなくても、忘れないことは、分かっていた。

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