ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第21話 夏期(火気)

夏は、暑い季節だと思われている。

 

本当は、長い季節だ。日が長く、休みが長く、影が長い。長いものは、たいてい、途中で何かを落としていく。落としたものに気づくのは、秋になってからだ。

 

七月の半ば、私は、古いアパートの階段を昇っていた。

 

一段ごとに、板が鳴った。

 

鳴る階段は、昇る人間の数を、数えている。

 

 

 

 

 

骨董アパート、と彼は呼んでいた。

 

古いという意味なのか、骨董品のように値打ちがあるという意味なのか、訊いたことはなかった。訊かなくても、建物を見れば分かった。前者だった。

 

木造の三階建てだった。外壁の板が、ところどころ反り返っていた。窓枠のペンキが剥げて、下の木が見えていた。

 

その一階の、いちばん奥の部屋に、紫木(ゆかりき)さんが住んでいた。

 

「ほりきたさーん! 来てくれたですね! 待ってましたです! 一日千夏の思いでしたです!」

 

扉を開けるなり、紫木さんが飛びついてきた。

 

飛びつかれて、私は、少しだけよろけた。

 

六月に、糸の廊下で向かい合った子だった。あの日、この子の指先から伸びていた糸が、何をしたのかを、私は知っている。知っているのに、この子は、私に飛びついてくる。私も、それを、振りほどかない。

 

「離れて。暑いわ」

 

「暑いのは夏のせいです! 姫ちゃんのせいじゃないです!」

 

「あなたがくっついているせいでもあるわ」

 

紫木さんは、渋々離れた。離れて、部屋の中へ私を引っ張り込んだ。

 

部屋は、六畳一間だった。畳が、日に焼けていた。真ん中に、小さな卓袱台が一つ。その上に、教科書と、問題集と、答案用紙が、山になっていた。

 

答案用紙の右上に、赤い数字が書いてあった。

 

どれも、一桁か、二桁の前半だった。

 

「全教科、赤点です!」

 

紫木さんは、胸を張った。

 

「胸を張ることではないでしょう」

 

「師匠が言ったです。隠しても点数は上がらないから、胸を張っておけって。……あ、でも、師匠も、全教科教えるのは無理だって言ってたです。数学は師匠、英語も師匠、国語は……国語は、師匠が教えると、なんか違う答えになるです」

 

それで、私が呼ばれた。

 

先週、大教室で、彼に頼まれた。国語だけ、見てやってくれないか、と。

 

《君の方が、まともな答えを教えられる。ぼくが教えると、問いの方を疑い始めるから》

 

断る理由は、あった。

 

断らなかった。

 

紫木さんが、自主退学したあと、どこの学校に入り直したのかを、私は知らない。知らないけれど、赤点の答案用紙が、ちゃんと山になっている。山になるくらい、普通の試験を受けている。

 

それだけで、十分だった。

 

 

 

 

 

国語の問題集を、一問ずつ解いた。

 

紫木さんは、問題文を読むのは速かった。速いのに、答えは、たいてい、どこかがずれていた。

 

「《情けは人のためならず》の意味を答えよ」

 

「情けをかけると、その人のためにならないから、かけない方がいい、です!」

 

「違うわ」

 

「えー」

 

「人に情けをかけると、巡り巡って、自分に返ってくる、という意味よ。人のためではなく、自分のため」

 

「じゃあ、情けは、自分のためなら、ず、です!」

 

「最後の《ず》は、要らないわ」

 

紫木さんは、問題集の余白に、大きく丸を描いた。丸の中に、自分のため、と書いた。字は、意外と、きれいだった。

 

この子は、言葉を、少しずつ、ずらして覚える。

 

一姫の、言い間違い。彼は、それを、そう呼んでいた。ずらしたまま、本人は、ずれていることに気づかない。気づかないまま、ずれた言葉で、まっすぐに笑う。

 

「ほりきたさんは、間違えないですね」

 

二時間ほど経った頃、紫木さんが言った。

 

鉛筆を、鼻の下に挟んでいた。

 

「国語は、得意だったから」

 

「国語だけですか」

 

「全部、得意だったわ。高校までは」

 

「今は?」

 

私は、少しだけ、考えた。

 

 

「今は、得意なものが、何もないわ」

 

 

紫木さんは、鉛筆を、鼻の下から落とした。

 

落ちた鉛筆を拾わずに、私を見た。

 

「何もないのに、どうして、こんなに間違えないですか」

 

「答えが決まっている問題だからよ。答えが決まっている問題なら、誰でも、練習すれば間違えなくなる」

 

「答えが決まってない問題は?」

 

「……間違えるわ。いつも」

 

紫木さんは、しばらく、私を見ていた。

 

それから、にっこりと笑った。

 

「じゃあ、ほりきたさんも、姫ちゃんと同じです。赤点仲間です!」

 

赤点仲間。

 

赤い点。答えの決まっていない問題で、私は、ずっと赤い点を取り続けている。

 

六月、赤い人の車の中で、私は、赤木くんの話をした。赤の他人の、赤。真っ赤な嘘の、赤。

 

今度は、赤点の赤だった。

 

「……そうね」

 

私は、言った。

 

「赤点仲間ね」

 

紫木さんは、問題集の裏表紙を、めくった。

 

めくった内側に、鉛筆で、ひらがなを書いた。

 

ほりきたさん。

 

「ほりきたさんの字、どう書くですか」

 

私は、鉛筆を受け取って、その下に、堀北、と書いた。

 

紫木さんは、二つを、しばらく見比べていた。

 

「この字、掘るのと、違うですか」

 

「掘るのと、同じよ。掘って、周りに巡らせるの。外から、渡ってこられないように」

 

「じゃあ、ほりきたさんは、渡らせない方ですね」

 

紫木さんは、にっこりと笑った。

 

渡らせない方。

 

一つ空けて座ることを、この子は、知らない。知らないのに、字だけを見て、そう言った。

 

「下は、書かないですか」

 

私は、鉛筆を、紫木さんに返した。

 

紫木さんは、少しだけ、首を傾げた。傾げてから、すぐに、頷いた。

 

「じゃあ、ほりきたさんで、いいです」

 

紫木さんは、裏表紙を、そっと閉じた。

 

閉じた内側に、私の名字が、ひらがなと漢字で、二度、書いてあった。

 

 

 

 

 

階段が、鳴った。

 

二階から、誰かが降りてきた。

 

扉の向こうを、甚平を着た女性が通り過ぎた。背が高く、髪を短く切っていた。顔に、表情がほとんどなかった。手に、竹刀袋を提げていた。

 

通り過ぎかけて、その人は、足を止めた。

 

開いた扉の内側の、私を見た。

 

「……客か」

 

低い声だった。

 

「国語の先生です! ほりきたさんです!」

 

紫木さんが、答えた。

 

その人は、私を、頭から足まで、一度だけ見た。鈴無(すずなし)さんの見方にも、斜道(しゃどう)博士の見方にも、似ていなかった。道場で、相手の構えを見る時の見方だと思った。思ったのは、竹刀袋のせいかもしれなかった。

 

「浅野(あさの)だ。二階に住んでいる」

 

それだけ言って、その人は、また歩き出した。

 

歩き出しかけて、もう一度だけ、振り返った。

 

「いの字の、知り合いか」

 

いの字。

 

彼のことだと、すぐに分かった。名前を誰にも教えない男を、この人は、頭の一字で呼んでいる。

 

「……大学が、同じです」

 

「そうか」

 

浅野さんは、それきり、階段の方へ消えた。

 

消えたあとで、紫木さんが、私の耳元で囁いた。

 

「みいこさんです。師匠のお隣さん。師匠、たぶん、みいこさんのことが好きです」

 

「たぶん、なの」

 

「たぶんです。師匠は、自分が誰を好きか、自分でも分かってないです。灯台下真っ暗です」

 

私は、何も言わなかった。

 

玖渚(くなぎさ)さんの顔を、思い出していた。彼の腕にしがみついていた手。隣は、この子のもの。

 

その彼が、同じアパートの、隣の部屋の人を、たぶん、好きでいる。

 

隣、という場所は、一人に一つではないのかもしれない。

 

右の隣と、左の隣。席の隣と、部屋の隣。

 

私の隣は、どちらも、空いたままだった。

 

 

 

 

 

国語の途中で、窓の外から、規則正しい音が聞こえてきた。

 

ふっ、ふっ、と、息を吐く音。それから、金属が、重く、こすれる音。

 

窓から覗くと、アパートの裏の、狭い空き地に、老人が一人、立っていた。

 

上半身が、裸だった。

 

日に焼けた体に、驚くほど太い腕がついていた。その腕の先に、ダンベルが、一つずつ握られていた。片方だけで、私の鞄より、ずっと重そうだった。

 

老人は、八月の手前の日差しの中で、ダンベルを、ゆっくりと、上げては下ろしていた。

 

上げるたびに、ふっ、と息を吐いた。

 

それ以外の声は、一つも、出さなかった。

 

「三階の、隼(はやぶさ)さんです!」

 

紫木さんが、私の隣から、窓の外を覗いて言った。

 

「筋肉じいさんです。師匠のことを、いーの、って呼ぶです。でも、姫ちゃん、隼さんが喋ってるの、聞いたことないです」

 

「呼ぶのに、喋らないの」

 

「呼ぶ時だけ、喋るです。いーの、って。それだけ」

 

名前を呼ぶ時だけ、口を開く人。

 

それ以外は、ダンベルと、息の音だけ。

 

この骨董アパートには、そういう人が、住んでいるのだと思った。

 

「それから、このアパートのどこかに、魔女さんが住んでるです」

 

「魔女」

 

「七々見(ななななみ)さん。みいこさんが、拾ってきた人です。姫ちゃん、会ったことないです。師匠も、会ったことないって。でも、師匠の部屋に、時々、古いゲーム機が置いてあるです。魔女さんからの、プレゼントだって」

 

会ったことのない人からの、プレゼント。

 

私は、窓の外の老人を、もう一度見た。

 

老人は、ダンベルを下ろして、空を見上げていた。

 

見上げたまま、少しも、動かなかった。

 

この建物には、名前だけで、顔を見せない人と、顔だけで、名前を呼ばない人が、同じ屋根の下に、住んでいる。

 

私の名前を、この建物の誰かが、呼ぶ日が来るのだろうか。

 

呼ばれたくない、と、四月の私なら、思った。

 

今は、どちらとも、思わなかった。

 

紫木さんが、問題集に、目を戻した。

 

「ほりきたさん、次、ことわざです!」

 

「ええ」

 

私も、窓から、目を戻した。

 

ダンベルの音が、また、規則正しく、聞こえ始めた。

 

 

 

 

 

夕方、紫木さんの部屋を出ると、廊下の先に、二人の子どもが立っていた。

 

一人は、男の子だった。十五、六に見えた。背が高く、柔らかい顔をしていた。口に、火のついていない煙草をくわえていた。

 

もう一人は、女の子だった。十三、四に見えた。黒い髪を、肩のところで切り揃えていた。表情が、ほとんど動かなかった。

 

男の子が、私に気づいて、くわえていた煙草を、指で外した。

 

「こんにちは。姫ちゃんの、先生ですか」

 

丁寧な口調だった。

 

「先生というほどでは」

 

「先生ですよ。姫ちゃんに国語を教えられる人は、このアパートに、他にいませんから」

 

男の子は、にこにこと笑った。

 

「石凪萌太(いしなぎもえた)です。こっちは、妹の、崩子(ほうこ)。いー兄の、上の部屋に住んでます」

 

いー兄。

 

彼のことを、この子は、そう呼んでいた。

 

崩子さん、と呼ばれた女の子は、私に向かって、小さく頭を下げた。下げただけで、何も言わなかった。

 

下げた頭が戻ってきた時、目が、私の手元を見ていた。

 

鞄の持ち手を握った手を。

 

「……あなたは」

 

崩子さんが、初めて口を開いた。

 

静かな声だった。

 

「戯言遣いのお兄ちゃんの、何ですか」

 

「大学の、同じ授業を取っている者よ」

 

「それだけですか」

 

「それだけよ」

 

崩子さんは、しばらく、私を見ていた。

 

萌太くんが、横で、少しだけ困った顔をした。

 

「すみません。崩子は、いー兄の周りの人に、ちょっとだけ厳しいんです。悪気は、ないんですよ」

 

「厳しいのではありません」

 

崩子さんが、言った。

 

「確かめているだけです。お兄ちゃんの隣に座る人は、だいたい、いなくなりますから」

 

いなくなる。

 

葵井(あおいい)さん。江本さん。宇佐美くん。貴宮(あてみや)さん。紫木さんの学校の、萩原(はぎはら)さんと、西条さん。兎吊木(うつりぎ)さんの代わりに壁にいた、神足(こうたり)さん。

 

彼の近くで、人が死ぬ。

 

六月、潤さんも、そう言った。

 

「私は、隣には座っていないわ」

 

崩子さんの目が、少しだけ、細くなった。

 

「隣の、隣に座っているのよ。一つ空けて」

 

崩子さんは、何も言わなかった。

 

何も言わないまま、もう一度だけ、小さく頭を下げた。

 

さっきより、ほんの少しだけ、深い下げ方だった。

 

それから、萌太くんの袖を引いて、三階への階段を上がっていった。

 

萌太くんは、扉が閉まる前に、私に向かって、片目をつぶってみせた。

 

「また来てくださいね、先生」

 

扉が閉まった。

 

廊下に、煙草の匂いだけが、かすかに残った。火のついていない煙草の匂いだった。

 

火をつけない煙草を、くわえている子。

 

萌太、という名前は、燃えた、と同じ音をしていた。いちばん火を遠ざけている子の名前だった。

 

火をつけて、煙を吐いた人を、私は知っている。

 

《十四になるな》

 

 

 

 

 

その夜、部屋で、スマートフォンが鳴った。

 

画面に、櫛田さんの名前が出ていた。

 

櫛田さんからの電話は、いつも、向こうからだった。私からかけたことは、一度もない。かけない理由を、私は、うまく説明できない。説明できないまま、鳴るたびに、出ている。

 

『もしもし、堀北さん? 久しぶりー』

 

いつもの声だった。

 

高校の三年間、教室で、誰にでも向けていた声。誰にでも向けられる声を、櫛田さんは、卒業してからも、私に向け続けている。

 

『久しぶりね』

 

『元気? 京都、暑いでしょ。こっちも暑いよー。もう、溶けそう』

 

櫛田さんは、東京の夏の話をした。大学の友達の話をした。サークルの話をした。話の中に、私の知っている名前は、一つも出てこなかった。

 

出てこない名前の話を、私は、黙って聞いていた。

 

聞きながら、少しだけ、ほっとしていた。

 

『……ねえ、堀北さん』

 

話の切れ目で、櫛田さんが言った。

 

声の高さが、半分だけ、下がった。

 

教室では、誰にも聞かせなかった方の声だった。

 

『声、変わったね』

 

『変わっていないわ』

 

『変わったよ。京都に行ってから。……前は、誰にも頼らない声だった。今は、頼っても、折れない声』

 

頼っても、折れない声。

 

『誰かに、頼ったの?』

 

答えなかった。

 

赤い人の車。坂柳さんの電話。玖渚さんの、席だけ。鈴無さんの、行き先を言いなさい。

 

頼ったのだろうか。

 

頼った、のかもしれなかった。

 

『答えなくていいよ。堀北さんが答えない時は、だいたい、図星だから』

 

櫛田さんは、少しだけ笑った。

 

それから、何でもないことのように、続けた。

 

『そういえばさ、佐倉さん、どうしてるかな』

 

息が、止まった。

 

止まったのは、一瞬だった。

 

一瞬だったのに、電話の向こうで、櫛田さんが、黙った。

 

黙ったまま、何秒か、経った。

 

『……今、止まったね』

 

櫛田さんの声は、もう、半分下がった方のままだった。

 

『佐倉さんの名前で、堀北さん、息、止めた。……何か、知ってるんだ』

 

『何も』

 

『嘘、下手だね』

 

二度目だった。

 

五月にも、櫛田さんに、同じことを言われた。

 

『いいよ、言わなくて。私、人が言いたくないことを聞き出すの、得意だけど、堀北さんからは聞かないって決めてるから』

 

『どうして』

 

『堀北さんは、私の秘密、一回も使わなかったから。……使わない人から、取り立てるのは、なんか、違うでしょ』

 

使わない人から、取り立てない。

 

櫛田さんの中にも、線があった。玖渚さんの線とは、違う場所に。

 

『でも、一個だけ。佐倉さんに何かあって、堀北さんが何かするつもりなら』

 

櫛田さんは、一拍、声を切った。

 

『その時は、私にも、教えてね。……教えてくれなくても、たぶん、気づくけど』

 

『気づかなくていいわ』

 

『気づいちゃうんだよ。堀北さんの声、分かりやすいから』

 

電話が、切れた。

 

切れたあとで、私は、スマートフォンを、しばらく見ていた。

 

佐倉、と聞いて、息が止まった、と言われた。

 

渡り廊下で、黒い服の人にも、同じことを言われた。あの時は、零崎(ぜろざき)、と聞いて。

 

私の息は、いつも、同じ場所で止まる。

 

止まる場所を、人に、見つけられる。

 

 

 

 

 

前期の試験は、七月の終わりの二週間に詰め込まれていた。

 

語学の試験の日、私は、いつもの教室の、いつもの席に座った。

 

語学の教室は、大教室より、ずっと狭かった。机が、二十ほどしかなかった。二十のうち、四つが、空いていた。

 

四月、この教室で、葵井さんが、私の隣に座っていた。その向こうに、江本さんと、宇佐美くんと、貴宮さん。

 

五月の終わりに、席は、名簿の順に詰め直された。詰めた分だけ、いちばん後ろの四つの机が、空いたまま残った。

 

試験の日、監督の先生は、答案用紙を、試験の名簿の数だけ数えて持ってきた。試験の名簿は、四月のままだった。名前の上に線を引くのを、誰かが、忘れていた。忘れていたのか、引けずにいたのか。

 

配り終えて、四枚が、先生の手に余った。

 

先生は、少しだけ手を止めた。

 

止めて、余った四枚を、教卓の端に、重ねて置いた。

 

白いままだった。

 

私は、自分の答案用紙を見た。名前の欄に、堀北鈴音、と書いた。書いてから、四月に、葵井さんに言われたことを思い出した。下の名前は? と訊かれて、必要ないでしょう、と答えた。

 

必要なかったはずの下の名前を、私は、答案用紙の上で、毎回書いている。

 

問題は、易しかった。

 

易しい問題を、易しいまま解いた。解き終えて、時計を見ると、まだ半分の時間が残っていた。

 

残った時間、私は、教卓の端の、白い四枚を見ていた。

 

あの四枚にも、問題は書いてある。答えの決まっている問題が、答えを書く人のいないまま、重なっている。

 

答えの決まっている問題なら、誰でも、練習すれば間違えなくなる。紫木さんに、そう言った。

 

答えを書く人がいなくなった問題は、どうなるのだろう。

 

間違えることも、もう、できない。

 

試験が終わって、先生が答案を集めに来た。私の一枚を取って、白い四枚の上に重ねた。重ねてから、気づいたように、私の一枚だけを抜いて、別の束に移した。

 

白い四枚が、また、教卓の端に残った。

 

教室を出る時、私は、一度だけ、振り返った。

 

先生が、四枚を、自分の鞄にしまうところだった。捨てるのではなく、しまっていた。どこへ持っていくのかは、分からなかった。

 

分からないまま、廊下に出た。

 

廊下の窓の外で、蝉が、鳴いていた。

 

五月に死んだ人たちは、この夏の蝉を、知らない。

 

 

 

 

 

七月の最後の週に、大教室で、彼が言った。

 

「春日井(かすがい)さんが、行き倒れを拾ってきた」

 

「行き倒れ」

 

「女の子。十六くらい。黒いマントを着てて、マントの下に、拘束具みたいなものを巻いてる。アパートの前で倒れてたのを、春日井さんが、動物を拾うみたいに拾ってきた」

 

彼は、少しだけ、溜め息をついた。

 

「倒れてた理由は、お腹が空いてたから。……ご飯を食べるのを、忘れてたんだって。三日」

 

「三日」

 

「三日。忘れて、倒れて、起きて、ご飯を食べて、元気になった。元気になったら、うるさかった」

 

「どこから来たの」

 

「分からない。……アパートの前の道に、大きなバイクが、横倒しになってた。その子のバイクだって。春日井さんが、子どもと一緒に、バイクも拾ってきた」

 

「バイクも」

 

「大きいやつ。刀の名前のついた。……ぼくには、起こせなかった。春日井さんの犬が、三頭がかりで、引きずってきた」

 

刀の名前のついた、大きなバイク。

 

十六くらいの、黒いマントの女の子が、それに乗って、どこかから来て、ご飯を忘れて、倒れた。

 

想像しようとして、うまく、像が結ばなかった。

 

結ばない像を、私は、結ばないまま、置いておいた。

 

彼は、窓の外を見た。

 

「その子が、人を探してるんだ」

 

「誰を」

 

彼は、少しだけ、間を置いた。

 

 

「零崎人識(ぜろざきひとしき)」

 

 

零崎。

 

また、その名字だった。

 

五月、佐倉さんの前に現れた男の名字。六月、赤い車の中で、殺し名の三番目だと教わった名字。七月、施設の渡り廊下で、借り物として名乗られた名字。

 

聞かされるのは、四度目だった。

 

私は、教科書の頁を、一枚めくった。

 

「門の前で、私があなたに訊いた名字ね」

 

「うん」

 

「六月に、潤さんが、車の中で、そこの末っ子と遊んだと言っていたわ。……その人?」

 

「たぶんね」

 

「あなたも、人識と呼ぶの」

 

「……ぼくは、そう呼んだことはないよ」

 

彼は、それ以上は言わなかった。

 

言わなかったけれど、その顔は、知っている人の話をする顔ではなかった。

 

 

 

 

 

その週の金曜日、骨董アパートの階段で、萌太くんに会った。

 

紫木さんの国語の日だった。私が一階の廊下に入ると、萌太くんが、階段の三段目に座っていた。火のついていない煙草を、くわえていた。

 

「先生。こんにちは」

 

萌太くんは、煙草を指に外して、立ち上がりかけた。

 

「座っていて」

 

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 

萌太くんは、座り直した。座り直して、二階の方を、ちらりと見上げた。

 

「いー兄の部屋、今、春日井さんがいるんですよ。聞きました?」

 

「聞いたわ」

 

「春日井さん、廊下で、僕らのことを、じっと見るんです。崩子のことも。動物を見るみたいに。……崩子は、ああいう目が、苦手で」

 

それで、ここに座っているのだろう、と思った。

 

外から帰ってくる崩子さんを、二階の廊下を通る前に、ここで迎えるために。

 

「見張っているの」

 

「見張ってるなんて、大げさですよ。座ってるだけです」

 

座っているだけ。

 

萌太くんは、にこにこと笑った。笑いながら、指の間で、火のついていない煙草を、くるりと一回転させた。

 

「あなた、未成年でしょう。煙草は二十歳からよ」

 

言ってから、同じ台詞を、前にも一度言ったことを思い出した。

 

「……火は、つけないのね」

 

訊いてから、余計なことを訊いたと思った。

 

萌太くんは、気にした様子もなかった。

 

「つけませんよ。崩子が、匂いを嫌がるので。くわえてるのは、癖です。くわえてると、口が塞がるから、余計なことを言わなくて済むんです」

 

口を塞ぐための煙草。

 

火をつけて吸う人と、火をつけずにくわえる人。煙を吐く人と、言葉を吐かないための人。

 

「先生は、煙草、吸わないんですか」

 

「吸わないわ」

 

「吸う人の隣には、座ったことがある顔ですね」

 

萌太くんは、さらりと言った。

 

さらりと言われて、私は、すぐには返せなかった。

 

「どうして、そう思うの」

 

「さっき、僕がこれをくわえてるのを見た時、先生、ちょっとだけ、煙の行く方を探したでしょう。火がついてないのに。……火のついた煙草の隣に座ったことのある人は、煙を避ける方へ、先に目が行くんですよ」

 

煙を、避ける方へ。

 

校舎の裏で、あの人の吐いた煙は、私の方には来なかった。来ないように、吐いていたのかもしれない。そうでなかったのかもしれない。私は、それを、確かめなかった。

 

「……一度だけよ」

 

「一度だけでも、目は覚えますから」

 

萌太くんは、煙草を、またくわえた。

 

くわえて、口を塞いだ。塞いだまま、私に、どうぞ、と手で階段の先を示した。

 

それ以上は、何も言わなかった。言わないために、くわえたのだと思った。

 

私は、萌太くんの横を通って、一階の奥の扉へ向かった。

 

振り返ると、萌太くんは、階段の三段目に、座ったままだった。

 

一階と二階の間の、どちらでもない場所に、座っていた。

 

私は、窓際のいちばん後ろの、隣の隣のことを、なぜか思い出した。

 

 

 

 

 

八月に入った。

 

大学は、夏休みになった。

 

大教室に行く理由が、なくなった。

 

窓際のいちばん後ろの席に、私は、八月の最初の週、一度も座らなかった。座らなかった席の隣の隣が、空いているのかどうかを、確かめる方法もなかった。

 

確かめなくても、たぶん、空いていた。

 

夏休みの大教室には、誰も、座らない。

 

誰も座らない教室で、一つ空けた席だけが、空いている理由を失って、ただの空いた席になっている。

 

それを想像するのは、少しだけ、嫌だった。

 

嫌だったから、骨董アパートへ、国語を教えに行った。

 

紫木さんの国語は、週に二回だった。二回では足りない、と紫木さんが言ったので、三回になった。三回目の日は、国語をしなかった。紫木さんが、問題集の代わりに、菓子パンを二つ、卓袱台に並べた。

 

「今日は、休みの日の、勉強の日です!」

 

「休みなのか、勉強なのか、どちらなの」

 

「両方です! 一石二丁目です!」

 

それから、紫木さんは、少しだけ声を落とした。

 

「みいこさん、欲しいものがあるです」

 

「欲しいもの」

 

「骨董です。古いお茶碗。お店の人に、取っておいてもらってるです。でも、お金が、ちょっと足りないって。……ちょっとじゃないです。たくさんです」

 

紫木さんは、二階の方を、ちらりと見上げた。

 

「師匠、それ、気にしてるです。気にしてるのに、みいこさんには、言わないです。言ったら、みいこさん、怒るから」

 

「怒るの」

 

「怒るです。人に心配されるの、嫌いな人なので。……でも、師匠は、気にしてるです。姫ちゃん、分かるです」

 

人に心配されるのが嫌いな人を、黙って、心配している人。

 

私は、二階の、閉じた扉を、思い出した。

 

隣の部屋に住んでいる人の、欲しいお茶碗。

 

足りないお金の、たくさん。

 

足りないものは、足りないまま、そこにあった。足す方法を、彼は、たぶん、探していた。

 

一石二丁目、と紫木さんは言った。

 

二鳥、と私は直さなかった。

 

直さずに、菓子パンを、一つ、受け取った。

 

菓子パンを食べながら、紫木さんは、窓の外の空を見た。

 

「ほりきたさん。夏休み、どこか行くですか?」

 

「行かないわ」

 

「どうしてですか」

 

「行く理由が、ないから」

 

紫木さんは、少しだけ、首を傾げた。

 

「理由がないと、どこにも行かないですか」

 

「たいていは」

 

「じゃあ、理由ができたら、行くですね」

 

紫木さんは、にっこりと笑った。

 

笑って、菓子パンの最後の一口を、口に入れた。

 

理由ができたら、行く。

 

それは、四月からの私の、たいていの行き方だった。

 

理由は、たいてい、向こうからやってきた。赤い車で。白い車で。書き置きで。

 

次の理由は、まだ、来ていない。

 

来ないまま、八月の最初の週が、過ぎていった。

 

週の終わりに、櫛田さんから、もう一度だけ、電話があった。

 

短い電話だった。東京の花火の話をして、それから、少しだけ黙って、言った。

 

『堀北さん、夏休み、ちゃんと誰かと喋ってる?』

 

『喋っているわ。国語を教えているの。高校生の子に』

 

『へえ。……堀北さんが、先生』

 

『先生ではないわ』

 

『先生だよ、それ。……ちゃんと、喋ってるなら、いいや』

 

電話は、それで切れた。

 

ちゃんと喋っているなら、いい。

 

櫛田さんは、それを、確かめるためだけに、かけてきたのだと思った。

 

《余裕のある人間は、確かめねえんだ》と、あの人は言った。

 

櫛田さんにも、余裕がないのだろうか。

 

それとも、余裕がないのは、確かめられている私の方なのだろうか。どちらでもいい、と思えるくらいには、八月の私は、少しだけ、余裕があった。余裕のある自分を、少しだけ、疑ってもいた。四月の私には、なかったものだった。

 

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