夏は、暑い季節だと思われている。
本当は、長い季節だ。日が長く、休みが長く、影が長い。長いものは、たいてい、途中で何かを落としていく。落としたものに気づくのは、秋になってからだ。
七月の半ば、私は、古いアパートの階段を昇っていた。
一段ごとに、板が鳴った。
鳴る階段は、昇る人間の数を、数えている。
骨董アパート、と彼は呼んでいた。
古いという意味なのか、骨董品のように値打ちがあるという意味なのか、訊いたことはなかった。訊かなくても、建物を見れば分かった。前者だった。
木造の三階建てだった。外壁の板が、ところどころ反り返っていた。窓枠のペンキが剥げて、下の木が見えていた。
その一階の、いちばん奥の部屋に、
「ほりきたさーん! 来てくれたですね! 待ってましたです! 一日千夏の思いでしたです!」
扉を開けるなり、紫木さんが飛びついてきた。
飛びつかれて、私は、少しだけよろけた。
六月に、糸の廊下で向かい合った子だった。あの日、この子の指先から伸びていた糸が、何をしたのかを、私は知っている。知っているのに、この子は、私に飛びついてくる。私も、それを、振りほどかない。
「離れて。暑いわ」
「暑いのは夏のせいです! 姫ちゃんのせいじゃないです!」
「あなたがくっついているせいでもあるわ」
紫木さんは、渋々離れた。離れて、部屋の中へ私を引っ張り込んだ。
部屋は、六畳一間だった。畳が、日に焼けていた。真ん中に、小さな卓袱台が一つ。その上に、教科書と、問題集と、答案用紙が、山になっていた。
答案用紙の右上に、赤い数字が書いてあった。
どれも、一桁か、二桁の前半だった。
「全教科、赤点です!」
紫木さんは、胸を張った。
「胸を張ることではないでしょう」
「師匠が言ったです。隠しても点数は上がらないから、胸を張っておけって。……あ、でも、師匠も、全教科教えるのは無理だって言ってたです。数学は師匠、英語も師匠、国語は……国語は、師匠が教えると、なんか違う答えになるです」
それで、私が呼ばれた。
先週、大教室で、彼に頼まれた。国語だけ、見てやってくれないか、と。
《君の方が、まともな答えを教えられる。ぼくが教えると、問いの方を疑い始めるから》
断る理由は、あった。
断らなかった。
紫木さんが、自主退学したあと、どこの学校に入り直したのかを、私は知らない。知らないけれど、赤点の答案用紙が、ちゃんと山になっている。山になるくらい、普通の試験を受けている。
それだけで、十分だった。
国語の問題集を、一問ずつ解いた。
紫木さんは、問題文を読むのは速かった。速いのに、答えは、たいてい、どこかがずれていた。
「《情けは人のためならず》の意味を答えよ」
「情けをかけると、その人のためにならないから、かけない方がいい、です!」
「違うわ」
「えー」
「人に情けをかけると、巡り巡って、自分に返ってくる、という意味よ。人のためではなく、自分のため」
「じゃあ、情けは、自分のためなら、ず、です!」
「最後の《ず》は、要らないわ」
紫木さんは、問題集の余白に、大きく丸を描いた。丸の中に、自分のため、と書いた。字は、意外と、きれいだった。
この子は、言葉を、少しずつ、ずらして覚える。
一姫の、言い間違い。彼は、それを、そう呼んでいた。ずらしたまま、本人は、ずれていることに気づかない。気づかないまま、ずれた言葉で、まっすぐに笑う。
「ほりきたさんは、間違えないですね」
二時間ほど経った頃、紫木さんが言った。
鉛筆を、鼻の下に挟んでいた。
「国語は、得意だったから」
「国語だけですか」
「全部、得意だったわ。高校までは」
「今は?」
私は、少しだけ、考えた。
「今は、得意なものが、何もないわ」
紫木さんは、鉛筆を、鼻の下から落とした。
落ちた鉛筆を拾わずに、私を見た。
「何もないのに、どうして、こんなに間違えないですか」
「答えが決まっている問題だからよ。答えが決まっている問題なら、誰でも、練習すれば間違えなくなる」
「答えが決まってない問題は?」
「……間違えるわ。いつも」
紫木さんは、しばらく、私を見ていた。
それから、にっこりと笑った。
「じゃあ、ほりきたさんも、姫ちゃんと同じです。赤点仲間です!」
赤点仲間。
赤い点。答えの決まっていない問題で、私は、ずっと赤い点を取り続けている。
六月、赤い人の車の中で、私は、赤木くんの話をした。赤の他人の、赤。真っ赤な嘘の、赤。
今度は、赤点の赤だった。
「……そうね」
私は、言った。
「赤点仲間ね」
紫木さんは、問題集の裏表紙を、めくった。
めくった内側に、鉛筆で、ひらがなを書いた。
ほりきたさん。
「ほりきたさんの字、どう書くですか」
私は、鉛筆を受け取って、その下に、堀北、と書いた。
紫木さんは、二つを、しばらく見比べていた。
「この字、掘るのと、違うですか」
「掘るのと、同じよ。掘って、周りに巡らせるの。外から、渡ってこられないように」
「じゃあ、ほりきたさんは、渡らせない方ですね」
紫木さんは、にっこりと笑った。
渡らせない方。
一つ空けて座ることを、この子は、知らない。知らないのに、字だけを見て、そう言った。
「下は、書かないですか」
私は、鉛筆を、紫木さんに返した。
紫木さんは、少しだけ、首を傾げた。傾げてから、すぐに、頷いた。
「じゃあ、ほりきたさんで、いいです」
紫木さんは、裏表紙を、そっと閉じた。
閉じた内側に、私の名字が、ひらがなと漢字で、二度、書いてあった。
階段が、鳴った。
二階から、誰かが降りてきた。
扉の向こうを、甚平を着た女性が通り過ぎた。背が高く、髪を短く切っていた。顔に、表情がほとんどなかった。手に、竹刀袋を提げていた。
通り過ぎかけて、その人は、足を止めた。
開いた扉の内側の、私を見た。
「……客か」
低い声だった。
「国語の先生です! ほりきたさんです!」
紫木さんが、答えた。
その人は、私を、頭から足まで、一度だけ見た。
「
それだけ言って、その人は、また歩き出した。
歩き出しかけて、もう一度だけ、振り返った。
「いの字の、知り合いか」
いの字。
彼のことだと、すぐに分かった。名前を誰にも教えない男を、この人は、頭の一字で呼んでいる。
「……大学が、同じです」
「そうか」
浅野さんは、それきり、階段の方へ消えた。
消えたあとで、紫木さんが、私の耳元で囁いた。
「みいこさんです。師匠のお隣さん。師匠、たぶん、みいこさんのことが好きです」
「たぶん、なの」
「たぶんです。師匠は、自分が誰を好きか、自分でも分かってないです。灯台下真っ暗です」
私は、何も言わなかった。
その彼が、同じアパートの、隣の部屋の人を、たぶん、好きでいる。
隣、という場所は、一人に一つではないのかもしれない。
右の隣と、左の隣。席の隣と、部屋の隣。
私の隣は、どちらも、空いたままだった。
国語の途中で、窓の外から、規則正しい音が聞こえてきた。
ふっ、ふっ、と、息を吐く音。それから、金属が、重く、こすれる音。
窓から覗くと、アパートの裏の、狭い空き地に、老人が一人、立っていた。
上半身が、裸だった。
日に焼けた体に、驚くほど太い腕がついていた。その腕の先に、ダンベルが、一つずつ握られていた。片方だけで、私の鞄より、ずっと重そうだった。
老人は、八月の手前の日差しの中で、ダンベルを、ゆっくりと、上げては下ろしていた。
上げるたびに、ふっ、と息を吐いた。
それ以外の声は、一つも、出さなかった。
「三階の、
紫木さんが、私の隣から、窓の外を覗いて言った。
「筋肉じいさんです。師匠のことを、いーの、って呼ぶです。でも、姫ちゃん、隼さんが喋ってるの、聞いたことないです」
「呼ぶのに、喋らないの」
「呼ぶ時だけ、喋るです。いーの、って。それだけ」
名前を呼ぶ時だけ、口を開く人。
それ以外は、ダンベルと、息の音だけ。
この骨董アパートには、そういう人が、住んでいるのだと思った。
「それから、このアパートのどこかに、魔女さんが住んでるです」
「魔女」
「
会ったことのない人からの、プレゼント。
私は、窓の外の老人を、もう一度見た。
老人は、ダンベルを下ろして、空を見上げていた。
見上げたまま、少しも、動かなかった。
この建物には、名前だけで、顔を見せない人と、顔だけで、名前を呼ばない人が、同じ屋根の下に、住んでいる。
私の名前を、この建物の誰かが、呼ぶ日が来るのだろうか。
呼ばれたくない、と、四月の私なら、思った。
今は、どちらとも、思わなかった。
紫木さんが、問題集に、目を戻した。
「ほりきたさん、次、ことわざです!」
「ええ」
私も、窓から、目を戻した。
ダンベルの音が、また、規則正しく、聞こえ始めた。
夕方、紫木さんの部屋を出ると、廊下の先に、二人の子どもが立っていた。
一人は、男の子だった。十五、六に見えた。背が高く、柔らかい顔をしていた。口に、火のついていない煙草をくわえていた。
もう一人は、女の子だった。十三、四に見えた。黒い髪を、肩のところで切り揃えていた。表情が、ほとんど動かなかった。
男の子が、私に気づいて、くわえていた煙草を、指で外した。
「こんにちは。姫ちゃんの、先生ですか」
丁寧な口調だった。
「先生というほどでは」
「先生ですよ。姫ちゃんに国語を教えられる人は、このアパートに、他にいませんから」
男の子は、にこにこと笑った。
「
いー兄。
彼のことを、この子は、そう呼んでいた。
崩子さん、と呼ばれた女の子は、私に向かって、小さく頭を下げた。下げただけで、何も言わなかった。
下げた頭が戻ってきた時、目が、私の手元を見ていた。
鞄の持ち手を握った手を。
「……あなたは」
崩子さんが、初めて口を開いた。
静かな声だった。
「戯言遣いのお兄ちゃんの、何ですか」
「大学の、同じ授業を取っている者よ」
「それだけですか」
「それだけよ」
崩子さんは、しばらく、私を見ていた。
萌太くんが、横で、少しだけ困った顔をした。
「すみません。崩子は、いー兄の周りの人に、ちょっとだけ厳しいんです。悪気は、ないんですよ」
「厳しいのではありません」
崩子さんが、言った。
「確かめているだけです。お兄ちゃんの隣に座る人は、だいたい、いなくなりますから」
いなくなる。
彼の近くで、人が死ぬ。
六月、潤さんも、そう言った。
「私は、隣には座っていないわ」
崩子さんの目が、少しだけ、細くなった。
「隣の、隣に座っているのよ。一つ空けて」
崩子さんは、何も言わなかった。
何も言わないまま、もう一度だけ、小さく頭を下げた。
さっきより、ほんの少しだけ、深い下げ方だった。
それから、萌太くんの袖を引いて、三階への階段を上がっていった。
萌太くんは、扉が閉まる前に、私に向かって、片目をつぶってみせた。
「また来てくださいね、先生」
扉が閉まった。
廊下に、煙草の匂いだけが、かすかに残った。火のついていない煙草の匂いだった。
火をつけない煙草を、くわえている子。
萌太、という名前は、燃えた、と同じ音をしていた。いちばん火を遠ざけている子の名前だった。
火をつけて、煙を吐いた人を、私は知っている。
《十四になるな》
その夜、部屋で、スマートフォンが鳴った。
画面に、櫛田さんの名前が出ていた。
櫛田さんからの電話は、いつも、向こうからだった。私からかけたことは、一度もない。かけない理由を、私は、うまく説明できない。説明できないまま、鳴るたびに、出ている。
『もしもし、堀北さん? 久しぶりー』
いつもの声だった。
高校の三年間、教室で、誰にでも向けていた声。誰にでも向けられる声を、櫛田さんは、卒業してからも、私に向け続けている。
『久しぶりね』
『元気? 京都、暑いでしょ。こっちも暑いよー。もう、溶けそう』
櫛田さんは、東京の夏の話をした。大学の友達の話をした。サークルの話をした。話の中に、私の知っている名前は、一つも出てこなかった。
出てこない名前の話を、私は、黙って聞いていた。
聞きながら、少しだけ、ほっとしていた。
『……ねえ、堀北さん』
話の切れ目で、櫛田さんが言った。
声の高さが、半分だけ、下がった。
教室では、誰にも聞かせなかった方の声だった。
『声、変わったね』
『変わっていないわ』
『変わったよ。京都に行ってから。……前は、誰にも頼らない声だった。今は、頼っても、折れない声』
頼っても、折れない声。
『誰かに、頼ったの?』
答えなかった。
赤い人の車。坂柳さんの電話。玖渚さんの、席だけ。鈴無さんの、行き先を言いなさい。
頼ったのだろうか。
頼った、のかもしれなかった。
『答えなくていいよ。堀北さんが答えない時は、だいたい、図星だから』
櫛田さんは、少しだけ笑った。
それから、何でもないことのように、続けた。
『そういえばさ、佐倉さん、どうしてるかな』
息が、止まった。
止まったのは、一瞬だった。
一瞬だったのに、電話の向こうで、櫛田さんが、黙った。
黙ったまま、何秒か、経った。
『……今、止まったね』
櫛田さんの声は、もう、半分下がった方のままだった。
『佐倉さんの名前で、堀北さん、息、止めた。……何か、知ってるんだ』
『何も』
『嘘、下手だね』
二度目だった。
五月にも、櫛田さんに、同じことを言われた。
『いいよ、言わなくて。私、人が言いたくないことを聞き出すの、得意だけど、堀北さんからは聞かないって決めてるから』
『どうして』
『堀北さんは、私の秘密、一回も使わなかったから。……使わない人から、取り立てるのは、なんか、違うでしょ』
使わない人から、取り立てない。
櫛田さんの中にも、線があった。玖渚さんの線とは、違う場所に。
『でも、一個だけ。佐倉さんに何かあって、堀北さんが何かするつもりなら』
櫛田さんは、一拍、声を切った。
『その時は、私にも、教えてね。……教えてくれなくても、たぶん、気づくけど』
『気づかなくていいわ』
『気づいちゃうんだよ。堀北さんの声、分かりやすいから』
電話が、切れた。
切れたあとで、私は、スマートフォンを、しばらく見ていた。
佐倉、と聞いて、息が止まった、と言われた。
渡り廊下で、黒い服の人にも、同じことを言われた。あの時は、
私の息は、いつも、同じ場所で止まる。
止まる場所を、人に、見つけられる。
前期の試験は、七月の終わりの二週間に詰め込まれていた。
語学の試験の日、私は、いつもの教室の、いつもの席に座った。
語学の教室は、大教室より、ずっと狭かった。机が、二十ほどしかなかった。二十のうち、四つが、空いていた。
四月、この教室で、葵井さんが、私の隣に座っていた。その向こうに、江本さんと、宇佐美くんと、貴宮さん。
五月の終わりに、席は、名簿の順に詰め直された。詰めた分だけ、いちばん後ろの四つの机が、空いたまま残った。
試験の日、監督の先生は、答案用紙を、試験の名簿の数だけ数えて持ってきた。試験の名簿は、四月のままだった。名前の上に線を引くのを、誰かが、忘れていた。忘れていたのか、引けずにいたのか。
配り終えて、四枚が、先生の手に余った。
先生は、少しだけ手を止めた。
止めて、余った四枚を、教卓の端に、重ねて置いた。
白いままだった。
私は、自分の答案用紙を見た。名前の欄に、堀北鈴音、と書いた。書いてから、四月に、葵井さんに言われたことを思い出した。下の名前は? と訊かれて、必要ないでしょう、と答えた。
必要なかったはずの下の名前を、私は、答案用紙の上で、毎回書いている。
問題は、易しかった。
易しい問題を、易しいまま解いた。解き終えて、時計を見ると、まだ半分の時間が残っていた。
残った時間、私は、教卓の端の、白い四枚を見ていた。
あの四枚にも、問題は書いてある。答えの決まっている問題が、答えを書く人のいないまま、重なっている。
答えの決まっている問題なら、誰でも、練習すれば間違えなくなる。紫木さんに、そう言った。
答えを書く人がいなくなった問題は、どうなるのだろう。
間違えることも、もう、できない。
試験が終わって、先生が答案を集めに来た。私の一枚を取って、白い四枚の上に重ねた。重ねてから、気づいたように、私の一枚だけを抜いて、別の束に移した。
白い四枚が、また、教卓の端に残った。
教室を出る時、私は、一度だけ、振り返った。
先生が、四枚を、自分の鞄にしまうところだった。捨てるのではなく、しまっていた。どこへ持っていくのかは、分からなかった。
分からないまま、廊下に出た。
廊下の窓の外で、蝉が、鳴いていた。
五月に死んだ人たちは、この夏の蝉を、知らない。
七月の最後の週に、大教室で、彼が言った。
「
「行き倒れ」
「女の子。十六くらい。黒いマントを着てて、マントの下に、拘束具みたいなものを巻いてる。アパートの前で倒れてたのを、春日井さんが、動物を拾うみたいに拾ってきた」
彼は、少しだけ、溜め息をついた。
「倒れてた理由は、お腹が空いてたから。……ご飯を食べるのを、忘れてたんだって。三日」
「三日」
「三日。忘れて、倒れて、起きて、ご飯を食べて、元気になった。元気になったら、うるさかった」
「どこから来たの」
「分からない。……アパートの前の道に、大きなバイクが、横倒しになってた。その子のバイクだって。春日井さんが、子どもと一緒に、バイクも拾ってきた」
「バイクも」
「大きいやつ。刀の名前のついた。……ぼくには、起こせなかった。春日井さんの犬が、三頭がかりで、引きずってきた」
刀の名前のついた、大きなバイク。
十六くらいの、黒いマントの女の子が、それに乗って、どこかから来て、ご飯を忘れて、倒れた。
想像しようとして、うまく、像が結ばなかった。
結ばない像を、私は、結ばないまま、置いておいた。
彼は、窓の外を見た。
「その子が、人を探してるんだ」
「誰を」
彼は、少しだけ、間を置いた。
「
零崎。
また、その名字だった。
五月、佐倉さんの前に現れた男の名字。六月、赤い車の中で、殺し名の三番目だと教わった名字。七月、施設の渡り廊下で、借り物として名乗られた名字。
聞かされるのは、四度目だった。
私は、教科書の頁を、一枚めくった。
「門の前で、私があなたに訊いた名字ね」
「うん」
「六月に、潤さんが、車の中で、そこの末っ子と遊んだと言っていたわ。……その人?」
「たぶんね」
「あなたも、人識と呼ぶの」
「……ぼくは、そう呼んだことはないよ」
彼は、それ以上は言わなかった。
言わなかったけれど、その顔は、知っている人の話をする顔ではなかった。
その週の金曜日、骨董アパートの階段で、萌太くんに会った。
紫木さんの国語の日だった。私が一階の廊下に入ると、萌太くんが、階段の三段目に座っていた。火のついていない煙草を、くわえていた。
「先生。こんにちは」
萌太くんは、煙草を指に外して、立ち上がりかけた。
「座っていて」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
萌太くんは、座り直した。座り直して、二階の方を、ちらりと見上げた。
「いー兄の部屋、今、春日井さんがいるんですよ。聞きました?」
「聞いたわ」
「春日井さん、廊下で、僕らのことを、じっと見るんです。崩子のことも。動物を見るみたいに。……崩子は、ああいう目が、苦手で」
それで、ここに座っているのだろう、と思った。
外から帰ってくる崩子さんを、二階の廊下を通る前に、ここで迎えるために。
「見張っているの」
「見張ってるなんて、大げさですよ。座ってるだけです」
座っているだけ。
萌太くんは、にこにこと笑った。笑いながら、指の間で、火のついていない煙草を、くるりと一回転させた。
「あなた、未成年でしょう。煙草は二十歳からよ」
言ってから、同じ台詞を、前にも一度言ったことを思い出した。
「……火は、つけないのね」
訊いてから、余計なことを訊いたと思った。
萌太くんは、気にした様子もなかった。
「つけませんよ。崩子が、匂いを嫌がるので。くわえてるのは、癖です。くわえてると、口が塞がるから、余計なことを言わなくて済むんです」
口を塞ぐための煙草。
火をつけて吸う人と、火をつけずにくわえる人。煙を吐く人と、言葉を吐かないための人。
「先生は、煙草、吸わないんですか」
「吸わないわ」
「吸う人の隣には、座ったことがある顔ですね」
萌太くんは、さらりと言った。
さらりと言われて、私は、すぐには返せなかった。
「どうして、そう思うの」
「さっき、僕がこれをくわえてるのを見た時、先生、ちょっとだけ、煙の行く方を探したでしょう。火がついてないのに。……火のついた煙草の隣に座ったことのある人は、煙を避ける方へ、先に目が行くんですよ」
煙を、避ける方へ。
校舎の裏で、あの人の吐いた煙は、私の方には来なかった。来ないように、吐いていたのかもしれない。そうでなかったのかもしれない。私は、それを、確かめなかった。
「……一度だけよ」
「一度だけでも、目は覚えますから」
萌太くんは、煙草を、またくわえた。
くわえて、口を塞いだ。塞いだまま、私に、どうぞ、と手で階段の先を示した。
それ以上は、何も言わなかった。言わないために、くわえたのだと思った。
私は、萌太くんの横を通って、一階の奥の扉へ向かった。
振り返ると、萌太くんは、階段の三段目に、座ったままだった。
一階と二階の間の、どちらでもない場所に、座っていた。
私は、窓際のいちばん後ろの、隣の隣のことを、なぜか思い出した。
八月に入った。
大学は、夏休みになった。
大教室に行く理由が、なくなった。
窓際のいちばん後ろの席に、私は、八月の最初の週、一度も座らなかった。座らなかった席の隣の隣が、空いているのかどうかを、確かめる方法もなかった。
確かめなくても、たぶん、空いていた。
夏休みの大教室には、誰も、座らない。
誰も座らない教室で、一つ空けた席だけが、空いている理由を失って、ただの空いた席になっている。
それを想像するのは、少しだけ、嫌だった。
嫌だったから、骨董アパートへ、国語を教えに行った。
紫木さんの国語は、週に二回だった。二回では足りない、と紫木さんが言ったので、三回になった。三回目の日は、国語をしなかった。紫木さんが、問題集の代わりに、菓子パンを二つ、卓袱台に並べた。
「今日は、休みの日の、勉強の日です!」
「休みなのか、勉強なのか、どちらなの」
「両方です! 一石二丁目です!」
それから、紫木さんは、少しだけ声を落とした。
「みいこさん、欲しいものがあるです」
「欲しいもの」
「骨董です。古いお茶碗。お店の人に、取っておいてもらってるです。でも、お金が、ちょっと足りないって。……ちょっとじゃないです。たくさんです」
紫木さんは、二階の方を、ちらりと見上げた。
「師匠、それ、気にしてるです。気にしてるのに、みいこさんには、言わないです。言ったら、みいこさん、怒るから」
「怒るの」
「怒るです。人に心配されるの、嫌いな人なので。……でも、師匠は、気にしてるです。姫ちゃん、分かるです」
人に心配されるのが嫌いな人を、黙って、心配している人。
私は、二階の、閉じた扉を、思い出した。
隣の部屋に住んでいる人の、欲しいお茶碗。
足りないお金の、たくさん。
足りないものは、足りないまま、そこにあった。足す方法を、彼は、たぶん、探していた。
一石二丁目、と紫木さんは言った。
二鳥、と私は直さなかった。
直さずに、菓子パンを、一つ、受け取った。
菓子パンを食べながら、紫木さんは、窓の外の空を見た。
「ほりきたさん。夏休み、どこか行くですか?」
「行かないわ」
「どうしてですか」
「行く理由が、ないから」
紫木さんは、少しだけ、首を傾げた。
「理由がないと、どこにも行かないですか」
「たいていは」
「じゃあ、理由ができたら、行くですね」
紫木さんは、にっこりと笑った。
笑って、菓子パンの最後の一口を、口に入れた。
理由ができたら、行く。
それは、四月からの私の、たいていの行き方だった。
理由は、たいてい、向こうからやってきた。赤い車で。白い車で。書き置きで。
次の理由は、まだ、来ていない。
来ないまま、八月の最初の週が、過ぎていった。
週の終わりに、櫛田さんから、もう一度だけ、電話があった。
短い電話だった。東京の花火の話をして、それから、少しだけ黙って、言った。
『堀北さん、夏休み、ちゃんと誰かと喋ってる?』
『喋っているわ。国語を教えているの。高校生の子に』
『へえ。……堀北さんが、先生』
『先生ではないわ』
『先生だよ、それ。……ちゃんと、喋ってるなら、いいや』
電話は、それで切れた。
ちゃんと喋っているなら、いい。
櫛田さんは、それを、確かめるためだけに、かけてきたのだと思った。
《余裕のある人間は、確かめねえんだ》と、あの人は言った。
櫛田さんにも、余裕がないのだろうか。
それとも、余裕がないのは、確かめられている私の方なのだろうか。どちらでもいい、と思えるくらいには、八月の私は、少しだけ、余裕があった。余裕のある自分を、少しだけ、疑ってもいた。四月の私には、なかったものだった。