依頼というのは、頼む側が、頼まれる側を選ぶことだと思われている。
違う。依頼は、頼まれた側が、自分にどれだけの値段がついているのかを、初めて知ることだ。
いくらで頼まれたのか。何をすれば、その額になるのか。額を聞いた瞬間に、人は、自分の重さを、他人の秤で量られる。
量られた重さが、思っていたより重いと、人は、少しだけ、怖くなる。
八月の最初の日曜日、骨董アパートの前に、見知らぬ車が止まっていた。
低い車だった。
黒くて、屋根が低くて、前に長かった。六月の赤い車ほどではないけれど、骨董アパートの古い板壁の前では、ひどく場違いに見えた。
車の横に、女性が立っていた。
三十代の後半に見えた。眼鏡をかけて、白いブラウスに、紺のスカートを合わせていた。大学の、教員室にいそうな人だった。
その人の後ろに、少女が一人、立っていた。
高校生くらいに見えた。長い髪を、背中まで伸ばしていた。夏なのに、長袖の服を着ていた。汗を、一滴もかいていなかった。
少女は、骨董アパートを見上げて、鼻を鳴らした。
「ぼろっちいな」
それが、少女の、最初の一言だった。
「くちは」
眼鏡の女性が、振り返らずに言った。
「何だよ。ぼろいもんを、ぼろいって言って、何が悪い」
少女は、長い髪を、乱暴にかき上げた。
見た目と、口の悪さが、少しも、合っていなかった。
私が階段の下に着いた時、ちょうど、彼が、二階から降りてくるところだった。
「あなたが、戯言遣いさんですね」
眼鏡の女性が、彼に言った。
「私は、
彼は、階段の途中で、足を止めた。
「どうして、ぼくのことを」
「調べました」
木賀峰さんは、穏やかに言った。
「あなたの経歴と、この数か月のことを。四月の島のことも。五月の、大学のお友達のことも。六月の、女子校のことも。七月の、研究施設のことも。……あなたの周りでは、人が、よく死にますね」
彼は、何も言わなかった。
「あなたがここに来るであろうことを、この私は、予測していました」
言い回しが、妙だった。
ここに住んでいる人間に向かって、ここに来ることを予測していた、と言う。予測の向きが、どこかで、ねじれていた。
「お願いがあって、参りました。一週間、私の研究を、手伝っていただけませんか」
「研究」
「死なない研究、です」
木賀峰さんは、後ろの少女を、手で示した。
「こちらは、
「協力者じゃねえよ。実験体だろ」
少女が、言った。
木賀峰さんの肩が、ほんの少しだけ、強ばった。
少女は、それを見て、口の端を上げた。
「言い方、気をつけろよ、約。……あたしは、あんたの研究を手伝ってるんじゃねえ。あんたが、あたしの体を、勝手に調べてるだけだ」
それから、少女は、私たちの方を見た。
見た目は、高校生だった。高校生の顔に、高校生の目が、入っていなかった。もっと、ずっと長いあいだ、何かを見続けてきた目だった。
「円朽葉。……ちっぱーって呼べ。
「ちっぱー!」
紫木さんが、一階の扉から、元気よく呼んだ。
少女は、紫木さんを見て、少しだけ、目を丸くした。
それから、にやりと笑った。
「お、いいね、そこのチビ。素直なのは、いいことだ」
少女の目が、最後に、私を見た。
「あんたは」
「……円さん、と呼びます」
少女は、眉を寄せた。
「くすぐってえっつったろ」
私は、何も言わなかった。
少女は、それきり、私への興味を失ったように、骨董アパートの方へ目を戻した。
「まあいいや。好きに呼べ。どうせ、あたしの名前なんか、誰が何て呼ぼうが、八百年分、すり減ってる」
それから、円さんは、紫木さんの方へ、もう一度、目を戻した。
一階の扉から顔を出している、紫木さんの、手元へ。
「チビ。……お前、指に、何か巻いてんな」
紫木さんの指が、扉の縁の上で、ほんの少しだけ、縮こまった。
何も、巻いていなかった。少なくとも、私の目には、何も見えなかった。
「巻いてないです!」
「巻いてなくても、巻いてた指だ。……巻いてた指は、巻いてた形のまま、固まる。八百年見てりゃ、そのくらい分かる」
紫木さんは、扉の縁から、手を、そっと引っ込めた。
引っ込めて、にっこりと笑った。
「ちっぱー、すごいです! 年の功より亀の甲です!」
「逆だ、チビ」
円さんは、少しだけ、笑った。
笑い方が、古かった。古いのに、子どもみたいに、歯を見せて笑った。
「まあ、亀の甲も、長生きの証拠だけどな。……あたしも、甲羅が欲しいぜ。死ねねえなら、せめて、硬い殻くらい。……先生なら、くれたかもしれねえけど」
死ねない。
木賀峰さんが、振り返らずに、言った。
「くちは。……先生のことを、こんな所で」
「先生、ってな。ここにいねえだろ」
円さんの声が、急に、低くなった。
「先生のことを、お前が、勝手に、口に出すな。……あたしを買ったのは、先生だ。お前じゃねえ」
円さんの指が、車の窓の縁を、強く掴んでいた。
白い指の関節が、さらに、白くなっていた。
八百年分すり減った、と言った名前の持ち主が、一人の人の呼び方だけは、すり減らさずに、握っていた。
木賀峰さんの背中が、強ばった。
強ばったまま、何も、言い返さなかった。
二人のあいだに、誰かが、いた。
ここにいない、誰か。円さんを買った人。木賀峰さんが、先生、と呼びかけた人。
その人の話をする時だけ、円さんの口の悪さが、口の悪さではなくなった。
怒っている声だった。
怒っているのに、少しだけ、寂しそうだった。
八百年。
冗談だと思った。思おうとした。
少女の目を見て、思えなくなった。
木賀峰さんの車の横で、円さんは、長袖の袖口を、少しだけ捲った。
捲った手首は、白かった。白くて、細くて、何の傷も、なかった。
八月の日差しが、その手首に当たっていた。
汗を、一滴も、かいていなかった。
「暑くないんですか」
訊かなくても、円さんは、私の目を見て、答えた。
「暑いよ。暑いのは、分かる。……分かるだけだ。汗をかく前の段階で、体が、止まってる」
止まっている。
円さんは、捲った袖を、また下ろした。
「止まってる体ってのはな、便利なようで、不便なんだよ。腹は減るのに、痩せねえ。眠いのに、疲れねえ。……生きてるのに、減らねえ。減らねえもんは、使い道がねえ」
使い道がない。
六月に、紫木さんが、似たことを言った。外に出たら、使っちゃいけないものしか、持っていない、と。
紫木さんは、一階の扉から、円さんを見ていた。
見ていて、何も、言わなかった。
言わずに、自分の指を、少しだけ、握った。
「お礼は、お支払いします」
木賀峰さんは、気を取り直したように、言った。
金額を、言った。
一週間の、日当だった。日当にしては、多すぎる額だった。
彼が、少しだけ、眉を動かした。
二階の窓が、開いていた。窓の内側に、浅野さんが立っていた。甚平の袖が、風に揺れていた。浅野さんは、木賀峰さんの言った金額を、聞いていたようだった。聞いていて、何も言わなかった。
紫木さんが、私の袖を、そっと引いた。
小声で、言った。
「……お茶碗の、お金と、ほとんど同じです」
先週、紫木さんから聞いた話を、思い出した。浅野さんの欲しい、古いお茶碗。お店の人に取っておいてもらっている。足りないのは、ちょっとではなく、たくさん。
そのたくさんと、木賀峰さんの言った額が、ほとんど同じだった。
あなたがここに来るであろうことを、この私は、予測していました。
木賀峰さんは、そう言った。
予測していたのは、たぶん、彼がここにいることではなかった。この額を言えば、彼が断れなくなることを、予測していたのだと思った。
彼は、二階の窓を、一度だけ見上げた。
それから、木賀峰さんに向き直った。
「……考えさせてください」
「もちろん。三日後に、また伺います」
木賀峰さんは、車に戻りかけて、足を止めた。
振り返って、私を見た。
「あなたも、ご一緒にいかがですか。堀北鈴音さん」
名前を、呼ばれた。
名乗った覚えは、なかった。
「あなたのことも、少しだけ、調べました。この方の四月からを調べていたら、どの月にも、あなたのお名前が出てきましたので。五月に、大学のお友達を、三人亡くされた方。六月に、女子校で、人がたくさん死ぬ場所におられた方。七月に、山の中の研究所の地下におられた方。……それなのに、あなたは、少しも死に近づいていない」
木賀峰さんは、眼鏡の位置を、指で直した。
「死なない研究には、死なない人の話が、一番役に立つのです」
私は、答えなかった。
答えずにいると、木賀峰さんは、少しだけ、声の調子を変えた。
「それから、もう一つ。……私は、五月に、京都で、ある事件を、見ています」
「事件」
「連続通り魔の。……夜の路地で、ほんの一瞬だけ。小柄な影が、人の上に、しゃがんでいるのを」
息が、止まりかけた。
止めなかった。
小柄な影。
五月の路地で、私が見たのは、小柄な影ではなかった。カメラを持った、女の子だった。
違う夜の、違う路地の、違う人。
違うのに、木賀峰さんの言葉が、私の中の、同じ場所に、触れた。
「あの影のことを、少しだけ、調べようと思った時期がありました。……やめましたけれど。調べたら、こちらが、調べられる側になりそうでしたので」
木賀峰さんは、私の顔を、じっと見ていた。
見ていて、それから、ほんの少しだけ、目を細めた。
「あなたも、五月に、何かを、見ていらっしゃいますね」
「……見ていません」
「そうですか」
木賀峰さんは、それ以上は、訊かなかった。
訊かないかわりに、こう言った。
「あなたがそう答えるであろうことを、この私は、予測していました」
黒い車が、走り去った。
円さんが、助手席の窓から、身を乗り出して、骨董アパートを、もう一度だけ見上げていた。
ぼろっちいな、と、もう一度、口が動いた気がした。
階段の下に、私と、彼と、紫木さんが残った。
「行くの」
私が、彼に訊いた。
「たぶん、行く。みいこさんの、骨董のために」
「浅野さんは、頼んでいないでしょう」
「頼まれてないから、行くんだよ。頼まれたら、たぶん、断る」
冗談のような言い方だった。
冗談なのに、本当のことに聞こえた。
「ほりきたさんも、行くですか」
紫木さんが、私の袖を引いた。
「師匠が行くなら、姫ちゃんも行くです。師匠を守らば皿までです! ……ほりきたさんも、来てほしいです」
「どうして」
紫木さんは、少しだけ、考える顔をした。
「ほりきたさんがいると、姫ちゃん、間違えないで済む気がするです。国語みたいに」
答えの決まっていない問題で、私は、いつも間違える。
紫木さんの部屋で、そう言ったことがあった。
紫木さんは、それを聞いていたはずだった。聞いていて、それでも、来てほしいと言った。
私は、紫木さんの手を、袖から外した。
外して、その手を、一度だけ握った。
細い指だった。
この指から、糸が伸びていたことを、私は知っている。
「……三日後までに、決めるわ」
三日後、と私は言った。木賀峰さんの言った期限を、そのまま、借りて。
紫木さんは、にっこりと笑った。
答えは、もう、決まっていた。
決まっていたけれど、決めるのは三日後だと、自分に言い聞かせた。
《三日で人が変わるところを、俺は何度か見ている》
赤木くんは、そう言った。
三日経っても、私は、たぶん、変わらない。
変わらないまま、行くことを、選ぶ。
翌日の昼、彼と、鴨川沿いを歩いた。
誘ったのは、彼の方だった。紫木さんの国語の前に、少しだけ、と言って。
河川敷に、等間隔に、人が座っていた。八月の昼の日差しの中でも、等間隔は、崩れていなかった。
「行く理由は、浅野さんの骨董だけ?」
私が訊くと、彼は、少しだけ、考える顔をした。
「もう一つ、ある」
「何」
「あの円って子。……八百年って、言ってたでしょ」
「言っていたわ」
「冗談だと思った?」
「思おうとしたわ。思えなかった」
彼は、川を見ていた。
「ぼくも。……死なない人がいるなら、一度、ちゃんと見ておきたいんだ。ぼくの周りでは、人が、すぐ死ぬから」
彼の周りでは、人が、すぐ死ぬ。
死なない人の隣に、一週間、いる。
それで、何かが変わると、この人は思っているのだろうか。
「死なない人の隣にいたら、あなたの周りで、人が死ななくなるの」
「ならないと思う。……でも、死なない人の隣にいる時だけは、ぼくのせいで死ぬ人は、出ない」
彼は、少しだけ、笑った。
「一週間だけ、休めるかもしれない。……ぼくのせいで人が死ぬことから」
休める。
この人は、四月から、休んでいなかったのだと思った。
島から帰ってきて、五月に三人が死んで、六月に学校が一つ潰れて、七月に一人が別の人の身代わりに死んだ。
その全部を、自分のせいだと、数えてきたのだろう。
数えるのを、一週間だけ、休みたい。
「……私が行くのは、あなたの休みを、見ているためではないわ」
「知ってる」
「紫木さんが、来てほしいと言ったからよ」
「知ってる」
彼は、また、川を見た。
「理由が、人から来るのは、いいことだと思う。……自分で作った理由は、途中で、自分で壊せるから。人からもらった理由は、壊すのに、その人の許しが要る」
人からもらった理由。
私は、彼の一つ空けた隣を、歩いた。
歩きながら、一つだけ、訊いた。
「円さんの言っていた、先生、というのは」
「……先生、って木賀峰さんが言いかけた人?」
「ええ」
「知らない。でも、円さんを買った人で、木賀峰さんの先生で、今は、どこにもいない人なんだと思う」
彼は、少しだけ、黙った。
「どこにもいない人の話をする時の、円さんの声。……誰かを、待ってる人の声だった」
待っている人の声。
私も、そう聞こえた。
聞こえたことを、口には出さなかった。
口に出したら、私が、待っている人の声を、聞き分けられる人間だと、知られてしまう。
翌日の夕方、骨董アパートの二階の廊下で、浅野さんに呼び止められた。
紫木さんの国語の帰りだった。
浅野さんは、自分の部屋の扉の前に、立っていた。甚平の袖を、腕の上まで捲っていた。
「堀北、と言ったな」
「はい」
「一昨日の、あの助教授の話」
浅野さんは、廊下の窓の外を見ていた。
「いの字は、行くのか」
「……たぶん、と言っていました」
「そうか」
浅野さんは、それだけ言った。
言って、しばらく、黙っていた。
「金額を、聞いた」
「聞いていらっしゃいましたね」
「聞こえた。……聞こえた額が、私の欲しいものの額と、同じだった」
浅野さんは、窓から、目を戻した。
道場で、相手の構えを見る時の目で、私を見た。
「あいつは、それを、気にしているか」
答えるべきか、迷った。
迷ってから、答えた。
「気にしていない、と言っていました」
浅野さんの眉が、ほんの少しだけ、動いた。
「嘘だな」
「嘘です」
私は、言った。
「頼まれていないから行く、と言っていました。頼まれたら、たぶん断る、と」
浅野さんは、長いあいだ、私を見ていた。
それから、短く、息を吐いた。
「……あの馬鹿」
責める声では、なかった。
「頼んでいないものを、勝手に、背負うな。……背負われた方は、断ることも、できん」
浅野さんは、扉の取っ手に、手をかけた。
「堀北。……お前も、行くのか」
「まだ、決めていません」
「いや、決めているな」
浅野さんは、言った。
「顔に、書いてある。……行くなら、一つだけ、頼む」
「何を」
「姫を、見ていてやってくれ。あれは、護衛をすると言っている。言っている時の顔が、少しだけ、嬉しそうだった。……嬉しそうに護衛をする子は、たいてい、無茶をする」
浅野さんは、扉を、開けた。
開けて、中に入る前に、もう一言だけ、言った。
「私は、頼んだぞ」
扉が、閉まった。
頼まれた。
浅野さんに、頼まれた。
頼まれていないから行く、と彼は言った。
私は、頼まれた。
頼まれた方が、断れなくなることを、浅野さんは、たぶん、知っていた。知っていて、頼んだ。
頼んでいないものを勝手に背負うな、と浅野さんは言った。
頼んだものは、背負ってもいい、ということだった。
廊下の窓の外で、夕日が、山の端にかかっていた。
浅野さんの部屋の扉の内側から、何かを、静かに置く音がした。
竹刀を、壁に立てかける音だと思った。
頼んだ人は、頼んだあとで、自分の手の中の竹刀を、置いた。
置いた手で、もう、何も持たずに、待つのだと思った。
鴨川を歩いた日の夜、部屋で、スマートフォンで、調べた。
国立高都大学。人類生物学科。木賀峰約。
名前は、すぐに出てきた。助教授の欄に、短い経歴があった。専門の欄に、生命の持続性、とだけ書いてあった。
死なない研究、とは、どこにも、書いていなかった。
書いていないことを、木賀峰さんは、骨董アパートの前で、平気な顔で口にした。
研究センター、という施設の住所が、経歴の下に、一行だけあった。京都の北の、山の中だった。
地図で、その場所を、探した。
細い道が一本、山の奥へ伸びていた。その先に、建物が一つ、小さく描かれていた。
建物の名前は、地図には、出ていなかった。
代わりに、地図の写真の方に、古い看板が、ぼんやりと写っていた。文字の消えかけた、木の看板。
読めなかった。
読めない看板を、私は、しばらく、指で拡大していた。
拡大しても、文字は、滲むだけだった。
滲んだ文字の、最初の一字だけが、かろうじて、西、と読めた。
それ以上は、読めなかった。
読めないまま、画面を消した。
消してから、もう一つだけ、検索窓に、打ち込みかけた。
京都 連続通り魔 五月。
打ち込んで、検索しなかった。
検索すれば、私は、五月の路地を、もう一度、画面の中で、見ることになる。
見ないことを、選んだ。
選んで、スマートフォンを、伏せた。
木賀峰さんは、五月に、小柄な影を見た、と言った。調べようとして、やめた、と。調べたら、こちらが調べられる側になりそうだった、と。
私も、やめた。
同じ理由で、やめたのかどうかは、分からなかった。
浅野さんと話した日の、もう少し遅い夕方、黒い車が、また、骨董アパートの前に止まった。
約束より、一日、早かった。
木賀峰さんは、車から降りなかった。窓を下ろして、階段の下の私たちを見た。
「お返事を。……一日早く伺いました。お返事が、もう決まっているであろうことを、この私は、予測しておりましたので。始めるのは、明日の朝から。毎朝お迎えに上がりますので、通いで結構です」
予測が当たっていることを、予測している人だった。
予測が当たり続けている人は、外れた時に、どんな顔をするのだろう。
私は、少しだけ、それを見てみたいと思った。
思ったことを、すぐに、恥じた。人の予測が外れるところを、見たいと思うのは、たぶん、いいことではなかった。
それでも、思ってしまったことは、取り消せなかった。
木賀峰さんの眼鏡の奥の目は、少しも、揺れていなかった。
揺れていない目は、外れることを、まだ一度も、予測していない目に見えた。
彼が、言った。
「行きます」
紫木さんが、その隣で、手を挙げた。
「姫ちゃんも、行きます! 護衛です!」
二階の窓から、
「私も行く。暇だから」
木賀峰さんは、三人を、順に見た。
見て、最後に、私を見た。
私は、階段の下に、立っていた。
「……行きます」
木賀峰さんは、少しだけ、目を細めた。
「あなたがそう答えるであろうことを、この私は」
「予測していた、のでしょう」
私は、言った。
言葉尻を、先に取った。
木賀峰さんは、一瞬、黙った。
黙ってから、眼鏡の位置を、直した。
直す指が、ほんの少しだけ、止まった。
「……ええ。予測、していました」
助手席から、円さんの、笑い声がした。
乾いた、楽しそうな笑い声だった。
「ははっ。約の口癖、先に取られてやんの。……いいね、あんた」
円さんは、窓から身を乗り出して、私を見た。
「あたしの家、ぼろいけど、昼間いるなら、骨董アパートよりは、ましだぜ。……一週間、よろしくな」
それから、円さんは、彼の方へ、目を移した。
「お前が、約の言ってた戯言遣いか」
「……そう呼ばれてます」
「ふうん」
円さんは、彼の顔を、じっと見た。
見て、少しだけ、眉を寄せた。
「誰にでも似てる顔だな。……あいつが、一番、嫌いそうな顔だ」
「あいつ」
「こっちの話だ」
円さんは、首を引っ込めた。
引っ込める前に、もう一言だけ、言った。
「八百年待ってると、来る奴と来ねえ奴の顔の区別がつくようになる。……お前は、来ねえ方の顔だ。来ねえのに、勝手に、人のとこに来ちまう顔」
彼は、何も言わなかった。
言わないまま、少しだけ、困った顔をした。
黒い車が、走り去った。
紫木さんが、私の袖を、引いた。
「ほりきたさん、お泊まりの準備、するですか?」
「通いだと、言っていたわ」
「通いでも、準備はするです! 備えあれば憂いなし、なしなら備えです!」
それは、少しだけ、合っていなかった。
合っていなかったけれど、私は、直さなかった。
なしなら、備える。
憂いがないなら、備えておく。
その方が、たぶん、紫木さんらしかった。
紫木さんは、それから、自分の部屋に駆け込んで、すぐに、また出てきた。
両手に、小さなリュックを抱えていた。
「見てください! お泊まりセットです!」
リュックの口から、歯ブラシと、菓子パンが二つと、国語の問題集が、覗いていた。
「問題集も、持っていくの」
「研究所で、待ってる時間、あるかもしれないです。待ってる時間は、ことわざの時間です!」
紫木さんは、リュックを、ぎゅっと抱きしめた。
抱きしめて、二階の、彼の部屋の扉を、見上げた。
扉の向こうから、知らない声が、聞こえていた。
高くて、よく通る、女の子の声だった。
「えーっ、私は留守番なのっ!? 名探偵も行きたいっ!」
春日井さんが拾ってきた、という子の声だった。
黒いマントの、刀の名前のバイクの子。
まだ、顔を見たことがなかった。
声だけで、ずいぶん、元気な子だと分かった。
「理澄さんです」
紫木さんが、言った。
「名探偵さんです。師匠の部屋に、ご飯を食べに来るです。……三日食べないで倒れたのに、今は、一日三回、師匠の部屋で食べてるです」
「それは、良かったわね」
「良かったです。……でも、時々、人を探してるって、言うです。誰を探してるのかは、姫ちゃんには、教えてくれないです」
紫木さんは、リュックに顎を乗せたまま、少しだけ、首を傾げた。
「名探偵さんが、探してる人のこと、教えてくれないの、ちょっと、変です」
誰を探しているのかは、私は、もう聞いていた。七月に、彼の口から。
聞いていたことを、紫木さんには、言わなかった。名探偵さんが言わないことを、私が先に言うのは、違う気がした。
二階の扉の向こうで、女の子の声が、もう一度、大好きっ、と叫んだ。
誰に向けて叫んだのかは、分からなかった。
扉が、少しだけ開いて、春日井さんが、顔を出した。
廊下の私たちを見て、平らな声で言った。
「あの子明日も留守番させるわ。名探偵は放っておくと付いてくるから鍵をかけておく」
「閉じ込めるんですか」
私が訊くと、春日井さんは、少しだけ、首を傾げた。
「閉じ込めるのではなく留守番を選ばせるの。選ばない私が選ばせるのは珍しいことよ」
春日井さんは、それだけ言って、扉を閉めた。
閉まった扉の向こうで、女の子の声が、ずるいっ、と叫んだ。
ずるい、と叫ぶ声が、少しも、ずるそうではなかった。
鍵のかかった部屋で、名探偵は、たぶん、明日、留守番をする。
留守番をするはずの子が、本当に、留守番をしているかどうかは、鍵をかけた人にも、たぶん、分からない。
その夜、部屋で、鞄に、着替えを二日分、入れた。
通いだと言われていた。それでも、二日分、入れた。
入れてから、ノートを、鞄の底に入れた。いちばん後ろに、十一桁の紙が、挟まっているノート。
七月の山の中では、圏外だった。今度の研究所も、山の中だった。
かけないと、分かっていた。分かっていて、入れた。
かけない番号を、持っていく。
持っていくことで、かけない、ということを、毎回、自分で選び直す。
それが、たぶん、私の、備えだった。
紫木さんなら、なしなら備える、と言う。
かける気がないから、持っていく。
鞄の口を閉じて、私は、灯りを消した。
浅野さんの声が、暗い部屋で、少しだけ、残っていた。
私は、頼んだぞ。
頼まれたものを、私は、鞄には、入れなかった。
鞄に入れなくても、持っていける。持っていけるものの方が、たいてい、重い。重いものを持っている時の方が、人は、まっすぐ歩ける。少なくとも、私は、そうだった。四月から、ずっと。背筋を伸ばしたまま、明日の朝、迎えを待つ。待つ、と思ってから、言い直した。座って、待つ。