ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第23話 不死(節)

死なない、ということと、生きている、ということは、同じではない。

 

止まった時計は、壊れてはいない。針が動かないだけだ。動かない針は、一日に二度だけ、正しい時刻を指す。

 

正しい時刻を指している時の時計と、動いている時計を、外から見分けることはできない。

 

見分けられるのは、待っている人間だけだ。

 

 

 

 

 

八月十日の朝、私は、骨董アパートの前の石段に、座っていた。座って待つ、と、昨夜、決めたとおりに。

 

鞄の重さは、昨夜のままだった。

 

木賀峰(きがみね)さんの車が来る前に、二階から、誰かが、階段を駆け降りてきた。

 

一段ごとに、板が、派手に鳴った。

 

降りてきたのは、黒いマントの少女だった。

 

十六くらいに見えた。髪を、二つに結んでいた。膝まである黒いマントを、肩から羽織っていた。マントの合わせ目から、白い布と、革のベルトが覗いていた。ベルトは、体の前で、何本も交差していた。腕を、体に縛りつけておくための形に見えた。

 

縛りつけるためのベルトが、今は、どこにも、留められていなかった。

 

少女は、私を見るなり、目を輝かせた。

 

「あーっ! あなたが、隣の隣の人だねっ!」

 

声が、大きかった。

 

朝のアパートの、古い板壁が、全部その声を跳ね返した。

 

「名探偵の勘が告げてるよっ! 窓際のいちばん後ろで、いーちゃんと一つ空けて座る人っ!」

 

隣の隣。

 

葵井(あおいい)さんが最初に口にして、潤さんも、玖渚(くなぎさ)さんも口にした距離だった。

 

「……誰から、聞いたの」

 

「いーちゃんからっ! 昨日の晩、いーちゃんの部屋で、ご飯を食べながら聞いたのっ! いーちゃん、名前は覚えないのに、座り方は覚えてるんだねっ! ……だから、お名前、教えてっ!」

 

「……堀北よ」

 

「下のお名前は、鈴音ちゃんだねっ! 名探偵、調べたもんっ! すずねちゃんっ! 覚えたっ!」

 

名乗っていない方の名前を、先に、呼ばれた。

 

訂正する暇も、なかった。

 

名前は覚えないのに、座り方は覚えている。玖渚さんからも、同じ話を聞いた。

 

彼は、私のことを、座り方で話している。座り方しか、話すことがないのかもしれなかった。

 

「私は、匂宮理澄(におうのみやりずむ)っ! 名探偵だよっ!」

 

少女は、胸を張った。

 

「今は、人を探してるのっ! 人識くんっていう人っ!」

 

私は、何も言わなかった。

 

「……零崎人識(ぜろざきひとしき)っ! すずねちゃん、知ってるっ?」

 

零崎。

 

五度目だった。

 

「知らないわ」

 

「ほんとにっ?」

 

「本当に、知らないわ。そんな人には、会ったことがない」

 

嘘ではなかった。

 

零崎人識という人に、私は、会ったことがない。

 

零崎を名乗る人で、会ったことがあるのは、零崎双識と名乗った男と、七月の渡り廊下で借り物の名前を名乗った人だけだった。双識と名乗った男が、佐倉さんを連れていった。佐倉さんは、零崎愛織になった。

 

理澄さんは、私の顔を、じっと見ていた。

 

名探偵の目だ、と思った。思ってから、六月の、赤い人の目を思い出した。顔の表面から、奥へ降りていく目。理澄さんの目は、表面で止まって、表面だけを、何度もなぞっていた。

 

「……うーん、嘘じゃないけど、全部でもないねっ!」

 

理澄さんは、私の手元を指さした。

 

「だってすずねちゃん、零崎って聞いた瞬間に、鞄の持ち手、ぎゅって握ったもんっ! 人識くんって下の名前の時は、握らなかったのにっ! 名探偵は、そういうの見逃さないのっ!」

 

私は、鞄の持ち手から、指をほどいた。

 

ほどくのが、一拍、遅かった。

 

「零崎って名字の誰かを、知ってるんだねっ! 人識くんじゃない、誰かっ!」

 

「……全部を言う必要は、ないでしょう」

 

「名探偵には、あるのっ!」

 

理澄さんは、頬を膨らませた。

 

膨らませて、すぐに、笑った。

 

「でも、いいよっ! すずねちゃん、大好きっ!」

 

大好き、と言われた。

 

会って、二分だった。

 

二分で人を大好きになる子は、たぶん、二分で人を嫌いにもなれる。どちらも、同じ速さで言える子なのだと思った。

 

「理澄ちゃんは、今回は、留守番」

 

いつの間にか、彼が、階段の上にいた。

 

「……鍵、かかってなかった?」

 

「かかってたよっ! でも、名探偵には、鍵なんて関係ないのっ!」

 

彼は、額に手を当てた。

 

「理澄ちゃんは、今回は、留守番。……春日井(かすがい)さんに、そう言われたでしょ」

 

「えーっ! 名探偵も行きたいっ!」

 

「車は、もう、いっぱいなんだ。それに、君は、探してる人がいるんだろう」

 

「いるけどっ!」

 

理澄さんは、頬を膨らませたまま、二階へ戻っていった。

 

戻る前に、もう一度だけ振り返って、私に手を振った。

 

「すずねちゃん、またねっ! 次は、全部聞かせてねっ!」

 

扉が閉まった。

 

「あの子は、春日井さんの拾い物なんだ」

 

彼が、階段を降りてきながら言った。

 

「ぼくの部屋に、春日井さんと、ぼく。……四畳一間に、二人。あの子は、ご飯の時だけ来る。春日井さんの犬は、外」

 

骨董アパートには、拾われた人間が多い。

 

紫木(ゆかりき)さんも、春日井さんも、理澄さんも。

 

私は、拾われたのだろうか。

 

拾われていない、と思った。思ってから、六月、赤い車の助手席に乗った自分を、思い出した。

 

拾われたのではない。乗ったのだ。

 

赤信号で、降りずに。

 

 

 

 

 

木賀峰さんは、黒い低い車ではなく、白いワゴンで来た。研究センターの車だと言った。

 

「私の車は、二人しか乗れませんので。……あなた方が四人になるであろうことを、この私は」

 

「予測していた」

 

今度は、彼が、言葉尻を取った。

 

木賀峰さんは、少しだけ、眉を寄せた。助手席で、円(まどか)さんが、また笑った。

 

研究所は、京都の北の、山の奥にあった。

 

車で、二時間かかった。

 

古い建物だった。二階建ての、木造の洋館だった。白いペンキが、ところどころ剥げていた。門柱に、文字の消えかけた看板が残っていた。

 

西東(さいとう)診療所。

 

そう読めた。

 

「昔、ここで診療所をしていた方がいましてね」

 

運転席から、木賀峰さんが言った。

 

「私の、昔の師です。今は、もういらっしゃらない。……建物だけ、大学が借りています」

 

師。

 

彼が、紫木さんの師匠であるように。赤木くんが、私に座り方を教えたように。

 

この人にも、師がいた。

 

「いらっしゃらない、というのは」

 

私が訊くと、木賀峰さんは、バックミラーの中で、少しだけ笑った。

 

「亡くなった、ということになっています。十年前に」

 

ことになっている。

 

神足(こうたり)さんが、殺して逃げたことになったように。

 

ことになっている話は、たいてい、本当の話より、通りがいい。

 

後ろの座席で、春日井さんが、窓の外を見ていた。紫木さんは、彼の肩に頭を乗せて、眠っていた。

 

眠っている紫木さんの顔は、六月の、糸の廊下の顔とは、別人だった。

 

 

 

 

 

車が止まると、円さんが、真っ先に降りた。

 

降りて、伸びをした。

 

「ああ、帰ってきた。……やっぱ、ここが一番だな。ぼろいけど」

 

骨董アパートのことも、ぼろいと言った人だった。

 

ぼろい場所が、好きなのかもしれなかった。

 

円さんは、玄関の扉の前で、振り返った。

 

「おい、お前ら。靴、脱げよ。ここ、診療所だったから、昔は土足だったけど、あたしが管理人になってから、土足禁止にした」

 

「管理人」

 

彼が、訊き返した。

 

「管理人だよ。約の研究センターだかなんだか知らねえけど、ここの鍵を持ってんのは、あたしだ。……先生に、預けられた鍵だ」

 

円さんは、首から下げた紐を、服の中から引っ張り出した。

 

紐の先に、古い鍵が一本、ぶら下がっていた。

 

真鍮の、黒ずんだ鍵だった。

 

「十年、毎朝、これで、玄関を開けてる。……開けて、先生が来ねえのを確かめて、閉めてる」

 

「……鍵、替えようと思えば、いつでも替えられんだけどな」

 

替えない鍵だった。

 

円さんは、鍵を、玄関の鍵穴に差し込んだ。

 

回した。

 

扉が、軋みながら、開いた。

 

開いた扉の向こうに、廊下が、まっすぐ伸びていた。木の床が、薄暗い中で、少しだけ光っていた。磨かれていた。

 

十年、毎朝、誰かが、磨いていた床だった。

 

「ほら、入れ。……来た奴を入れるのも、管理人の仕事だ」

 

円さんは、扉を押さえたまま、私たちが一人ずつ入るのを、見ていた。

 

彼が入り、紫木さんが入り、春日井さんが入った。

 

私が、最後だった。

 

入る時に、円さんと、目が合った。

 

古い目が、ほんの少しだけ、笑っていた。

 

来た奴を、また一人、入れる人の目だった。入れた奴が、待っている奴ではないと分かっていて、それでも、目の端だけは、緩めたままだった。待っている人は、来た人を、待っている人と比べずに迎えることを、たぶん、長いあいだに、覚えたのだと思った。

 

紫木さんが、真っ先に、靴を脱いだ。

 

脱いだ靴を、玄関の隅に、きちんと揃えた。

 

円さんは、それを見て、少しだけ、目を細めた。

 

「チビ、行儀いいな」

 

「学校で、教わったです! 靴を揃えない子は、首を揃えられるって!」

 

円さんの眉が、少しだけ、動いた。

 

動いて、それから、乾いた声で、笑った。

 

「……物騒な学校だな」

 

「物騒でした!」

 

紫木さんは、元気よく、言った。

 

言って、廊下の奥へ、駆けていった。

 

足音が、ほとんど、しなかった。

 

 

 

 

 

建物の中は、診療所の形を、そのまま残していた。

 

待合室だった部屋に、古い長椅子が、二つ並んでいた。受付だった窓口に、色の褪せた診察券の箱が、置いたままになっていた。

 

診察室だった部屋が、木賀峰さんの研究室になっていた。

 

円さんは、廊下を、奥へ歩きながら、扉を一つずつ、指さしていった。

 

「ここ、待合。ここ、受付。ここ、診察室、今は約の部屋。……二階は、昔の入院の部屋。今は、誰も寝てねえ。布団だけは、干してある」

 

「誰も寝ないのに、干すのですか」

 

私が訊くと、円さんは、振り返らずに答えた。

 

「誰か、来るかもしれねえだろ」

 

廊下のいちばん奥に、扉が一つあった。

 

他の扉より、少しだけ、古かった。真鍮の取っ手が、黒ずんでいた。円さんの首の鍵と、同じ色だった。

 

円さんは、その扉の前で、足を止めなかった。

 

止めずに、通り過ぎた。

 

「そこは」

 

彼が、訊いた。

 

「あたしの部屋。……と、約の部屋。奥の、寝る方の」

 

「二人で」

 

「二人で。……仲良くはねえぞ。同じ部屋で寝てるだけだ。先生がいた頃から、あそこは、あたしの部屋だった。約は、あとから、勝手に入ってきた」

 

円さんは、それきり、その扉を、見なかった。

 

見ないまま、研究室の方へ、私たちを、促した。

 

私は、通り過ぎる時に、一度だけ、その扉を見た。

 

窓のない廊下の、いちばん奥。

 

十年、二人の女が、仲良くないまま、同じ部屋で寝ている扉。

 

扉の前の床が、他の床より、少しだけ、すり減っていた。毎晩、二人分の足が、そこで止まって、取っ手を回してきた跡に、見えた。

 

 

 

 

 

研究室の机の上に、紙の束と、録音機と、古い血圧計があった。

 

「研究の内容を、ご説明します」

 

木賀峰さんは、研究室の真ん中に立って、私たちに向き直った。

 

「死なない研究、と申し上げました。……正確には、死なない人間が、何を考えているのかを、調べる研究です」

 

「何を、考えているのか」

 

彼が、言った。

 

「はい。くちはは、八百年、死んでいません。死なない体を持った人間が、八百年、何を考えて過ごしてきたのか。死を、どう見ているのか。……それを、死ぬ体を持った人間の考えと、比べるのです」

 

木賀峰さんは、録音機を、指で叩いた。

 

「あなた方には、一日に一度、質問に答えていただきます。死について。生きることについて。待つことについて。……答えを、録音して、くちはの答えと並べます」

 

「それだけですか」

 

鈴無(すずなし)さんがいたら、たぶん、そう訊いた。

 

訊いたのは、春日井さんだった。

 

「それだけなら一週間も要らないでしょう。一日で済む」

 

「一日では、済みません」

 

木賀峰さんは、言った。

 

「人の答えは、日によって、変わります。昨日、死が怖いと言った人が、今日は、怖くないと言う。……変わる答えを、七日分、並べて、初めて、その人の答えになるのです」

 

七日分。

 

七日分の答えを並べて、一人の人間の答えにする。

 

それは、高校の三年間、私たちが毎月受け取った点数と、少しだけ、似ていた。一日の点数ではなく、ひと月分を並べて、その人の値打ちにする。

 

「くちはさんの答えは、何日分、並んでいるのですか」

 

私が訊くと、木賀峰さんは、少しだけ、黙った。

 

黙ってから、言った。

 

「十年と、少しです。……私が、くちはに出会ってから」

 

円さんが、研究室の入口で、壁にもたれていた。

 

もたれたまま、鼻を鳴らした。

 

「十年分並べたって、八百年のうちの十年だ。……一パーセントちょっとだな。約の研究は、いつ終わるんだか」

 

「終わらない研究は、ありません」

 

「終わらねえよ。あたしが、終わらねえんだから」

 

木賀峰さんは、何も、言い返さなかった。

 

言い返さないまま、録音機の電源を、入れた。

 

赤い小さな灯りが、点いた。

 

七月の施設の、扉の上のカメラの灯りに、少しだけ、似ていた。

 

見ている灯りと、聞いている灯り。

 

どちらも、何かを、記録していた。

 

 

 

 

 

録音機の灯りを点けたまま、木賀峰さんは、研究室の壁の一角を、手で示した。

 

古い写真が、一枚、額に入れて、掛けてあった。

 

診療所の前で撮られた、白黒の写真だった。白衣の男が、一人、写っていた。

 

顔は、写っていなかった。

 

正確には、顔のあるはずの場所に、面が、写っていた。狐の面。白い地に、赤い隈取り。

 

「この診療所の、元の持ち主です」

 

木賀峰さんは、写真を見ないまま、言った。

 

「私の、先生です。……写真に写る時も、面を外さない方でした」

 

「どうして」

 

彼が、訊いた。

 

「顔を残すと、物語が、そこで終わってしまうから、だそうです」

 

木賀峰さんは、少しだけ、笑った。

 

「私は、高校生の時に、この写真を雑誌で見て、ここへ来ました。……あこがれが、暴走したのです。押しかけて、助手にしていただきました」

 

あこがれが、暴走した。

 

穏やかな声で、木賀峰さんは、自分のことを、そう言った。

 

円さんが、研究室の入口で、写真の方を、見ていた。

 

見ていたけれど、何も、言わなかった。

 

言わないまま、首の鍵を、服の上から、握っていた。

 

木賀峰さんと円さんは、同じ写真を、別々の場所から、見ていた。

 

一人は、あこがれて押しかけた人として。

 

一人は、買われて待っている人として。

 

同じ人を見ているのに、二人のあいだの隙間は、少しも、埋まっていなかった。

 

 

 

 

 

最初の聞き取りは、彼だった。

 

研究室の扉が閉まって、私たちは、待合室の長椅子で、待った。

 

紫木さんは、リュックから、国語の問題集を出した。

 

「待ってる時間は、ことわざの時間です!」

 

紫木さんは、問題集を開いて、私の方へ差し出した。

 

「ほりきたさん、今日のことわざです。……待てば海路の日和あり!」

 

「待っていれば、そのうち、海が穏やかになって、船を出せる日が来る、という意味よ」

 

「待てば、来るですか」

 

「来る、と昔の人は言ったのね」

 

余白に、紫木さんは、大きく、待、と一字だけ書いた。

 

書いてから、受付の窓口の円さんを、ちらりと見た。

 

円さんは、気づかないふりをしていた。

 

気づかないふりの上手な人だった。八百年分、上手だった。

 

紫木さんは、待、の字の横に、小さく、来る、と書き足した。

 

書き足して、それから、少しだけ迷って、その横に、来ない、とも書いた。

 

来る、と、来ない。

 

二つの言葉が、待、の字の両側に、並んでいた。

 

「どっちも、待つです」

 

紫木さんは、小さく言った。

 

答えの決まっていない問題の、答えだった。

 

春日井さんは、待合室の窓から、外の庭を見ていた。

 

庭は、荒れていた。草が、膝の高さまで伸びていた。伸びた草の中に、古い木のベンチが一つ、残っていた。

 

「あの草刈っていないのね。管理人なのに」

 

春日井さんが、窓の外を見たまま言った。

 

円さんが、待合室の受付の窓口に、頬杖をついていた。

 

「刈らねえよ。……先生が、庭は放っとけって言ったんだ。放っとかれた庭が、どこまで伸びるのか見たいって」

 

「十年放っておいたらああなる」

 

「十年じゃねえ。十年と、少し。……先生がいなくなってからは、十年。いた頃から、放っとかれてた」

 

円さんは、頬杖をついたまま、窓の外の草を見ていた。

 

見ている顔が、少しだけ、柔らかかった。

 

先生の話をする時だけ、この人の口の悪さから、棘が抜ける。

 

「円さん」

 

私が呼ぶと、円さんは、少しだけ、顔をしかめた。

 

「くすぐってえって」

 

「先生、というのは、どんな人だったのですか」

 

円さんは、すぐには、答えなかった。

 

答えないまま、首から下げた鍵を、服の上から、握った。

 

「……変な奴だよ」

 

円さんは、言った。

 

「人の話を、聞かねえ。聞かねえくせに、全部覚えてる。物語の終わりが見たいとか、わけ分かんねえことばっか言ってた。……あたしを買った理由も、たぶん、八百年分の物語の、終わりが見たかったからだ」

 

物語の、終わり。

 

「見られたのですか。終わりを」

 

「見られるわけねえだろ。あたしは、終わらねえんだから」

 

円さんは、乾いた声で、笑った。

 

「だから、先生は、いなくなった。終わらねえ物語に、飽きたんだ。……飽きて、どっかに行った。死んだことになってるけど、あたしは、信じてねえ」

 

円さんは、鍵を、握りしめた。

 

「先生は、死なねえよ。……あたしより、死ななそうな奴だった」

 

紫木さんが、問題集から、顔を上げていた。

 

上げて、円さんを、じっと見ていた。

 

「ちっぱーは、その人のこと、待ってるですか」

 

円さんの目が、紫木さんの方へ、動いた。

 

動いて、止まった。

 

「……チビ。お前、ずけずけ訊くな」

 

「訊いちゃだめでしたか」

 

「だめじゃねえ。……だめじゃねえけど、そういうのは、普通、訊かねえんだよ」

 

円さんは、頬杖を、外した。

 

外して、待合室の天井を、見上げた。

 

「待ってるよ。……八百年のうち、待ってなかった時間の方が、短い」

 

紫木さんは、問題集を、膝の上で、閉じた。

 

閉じて、少しだけ、考える顔をした。

 

「姫ちゃんも、待ってたことあるです。前の師匠。いなくなっちゃった師匠」

 

「……ふうん」

 

「でも、新しい師匠が来たので、もう、待ってないです」

 

円さんは、紫木さんを見た。

 

見て、それから、少しだけ、笑った。

 

「いいな、チビ。……新しいのが来たら、待つの、やめられんのか」

 

「やめられるです!」

 

「あたしは、やめられねえ」

 

円さんは、立ち上がった。

 

立ち上がって、待合室の窓から、庭の、古いベンチを見た。

 

「来ねえ奴を待つのは、来る奴を待つより、ずっと、楽なんだよ。……来ねえって分かってりゃ、来なかった時に、がっかりしなくて済む」

 

それは、嘘だと思った。

 

円さんの、首の鍵を握る指を見て、そう思った。

 

十年、毎朝、玄関を開けて、誰も来ないのを確かめて、閉める人。

 

がっかりしなくて済む人の、指ではなかった。

 

 

 

 

 

一時間ほどして、研究室の扉が開いた。

 

彼が、出てきた。

 

いつもの顔だった。何も浮かんでいない顔。

 

待合室の長椅子の、紫木さんの隣に、座った。

 

紫木さんが、問題集を閉じて、彼の顔を覗き込んだ。

 

「師匠、何、訊かれたですか」

 

「死ぬのは、怖いかって」

 

「何て、答えたですか」

 

「……内緒」

 

紫木さんは、頬を膨らませた。

 

膨らませてから、にっこり笑った。

 

「じゃあ、姫ちゃんも、内緒にするです。姫ちゃんの番の時」

 

「そうして」

 

彼は、紫木さんの頭に、一度だけ、手を置いた。

 

置いて、すぐに、離した。

 

私は、一つ空けた長椅子の端から、それを見ていた。

 

研究室の壁の、面の写真を、思い出した。

 

顔を残すと、物語が、そこで終わってしまう、と言った人。

 

木賀峰さんは、集めた答えを、その人に読んでほしいのだと思った。

 

思ったことを、私は、誰にも言わなかった。

 

次は、春日井さんの番だった。

 

春日井さんは、長椅子から立ち上がって、研究室へ入っていった。

 

入る前に、一度だけ、振り返った。

 

「私は死が怖くないと答えるわ。でも本当は分からないと答えるのが正しいのよ。選ばないから」

 

それだけ言って、扉を、閉めた。

 

扉の向こうで、録音機の、小さな音がした。

 

赤い灯りが、また、点いたのだと思った。

 

 

 

 

 

昼に、円さんが、台所で、握り飯を作った。

 

大きな皿に、山のように。

 

「食え。……あたしは、作るのは好きなんだ。食うのは、どっちでもいいけど」

 

紫木さんが、真っ先に、一つ取った。

 

かぶりついて、目を丸くした。

 

「ちっぱー、しょっぱいです!」

 

「塩、多めにした。山の上は、汗かくからな。……あたしは、かかねえけど」

 

汗をかかない人が、汗をかく人のために、塩を多めにした握り飯。

 

私も、一つ、取った。

 

しょっぱかった。

 

しょっぱいのに、おいしかった。

 

「……おいしいです」

 

「だろ」

 

円さんは、満足そうに、頷いた。

 

頷いて、自分は、一つも、取らなかった。

 

取らないまま、皿の上の握り飯が、一つずつ減っていくのを、見ていた。

 

減っていくのを見るのが、好きなのだと思った。

 

減らない人には、減っていくものが、たぶん、少しだけ、羨ましい。

 

午後は、紫木さんの番だった。

 

紫木さんは、研究室に入る前に、私の方を振り返った。

 

「ほりきたさん、姫ちゃん、何て答えたらいいですか」

 

「思ったとおりに答えればいいわ」

 

「思ったとおりが、分からない時は?」

 

「分からない、と答えればいいの」

 

紫木さんは、少しだけ、考える顔をした。

 

それから、にっこり笑った。

 

「分からない、って、答えていいですか!」

 

「いいわ。……分からないと言える人は、少ないの」

 

紫木さんは、扉の向こうへ、入っていった。

 

扉が、閉まった。

 

三十分ほどで、出てきた。

 

出てきた紫木さんは、首を傾げていた。

 

「木賀峰さん、変な顔してたです」

 

「変な顔」

 

「姫ちゃん、死ぬのは、師匠が決めることです、って答えたです。そしたら、木賀峰さん、ペンを止めて、しばらく、姫ちゃんの顔、見てたです」

 

死ぬのは、師匠が決めること。

 

紫木さんは、それを、少しも、怖そうではない声で、言った。

 

彼が、長椅子の上で、少しだけ、身じろぎをした。

 

紫木さんは、それに気づかないまま、彼の隣に、座った。

 

「分からない、って、答えなかったの」

 

私が訊くと、紫木さんは、首を振った。

 

「分かってたので! 師匠が決めることは、姫ちゃん、分かってるです」

 

彼は、何も言わなかった。

 

言わないまま、紫木さんの頭の上に、もう一度だけ、手を置いた。

 

今度は、すぐには、離さなかった。

 

 

 

 

 

夕方、白いワゴンで、京都に戻った。

 

通い、と木賀峰さんは言っていた。毎朝迎えに来て、毎夕送る、と。

 

後ろの座席で、紫木さんは、彼の肩に頭を乗せて、眠っていた。

 

春日井さんは、窓に額をつけていた。

 

私は、窓際で、山の景色が、少しずつ、町の灯りに変わっていくのを見ていた。

 

助手席の円さんが、振り返らずに、言った。

 

「おい、そこの」

 

「……堀北です」

 

「堀北。明日、お前の番だろ、約の質問」

 

「そうらしいです」

 

「あいつの質問、全部、同じだからな。死が怖いか。待つことをどう思うか。……どう答えても、あいつは、紙に書いて、裏返す」

 

「裏返す」

 

「読まれたくねえんだよ。自分以外の誰かに、先に」

 

円さんは、それきり、何も言わなかった。

 

裏返された答えを、木賀峰さんは、誰に、読ませたいのだろう。

 

先に読まれたくない、ということは、いつか、誰かに読まれたい、ということだった。

 

運転席で、木賀峰さんが、ハンドルを握る手を、少しだけ、強めたように見えた。

 

骨董アパートの前で、彼と、紫木さんと、春日井さんが、降りた。

 

二階の窓から、黒いマントの少女が、身を乗り出して、手を振っていた。

 

「おかえりっ! 名探偵、ちゃんと、留守番してたよっ!」

 

してなかった、と、私は思った。

 

マントの裾に、乾いた草の種が、いくつも、ついていた。

 

膝の高さまで伸びた草の中を、歩いた人の裾だった。

 

骨董アパートの前の道に、膝の高さまで草の伸びた場所は、なかった。

 

京都の町の中には、たぶん、どこにもなかった。

 

あるとすれば、今日、私たちがいた山の中の、放っておかれた庭くらいだった。

 

名探偵は、鍵のかかった部屋から抜け出して、私たちより先に、どこかへ行って、私たちより先に、帰ってきていたのかもしれない。

 

どこへ行ったのかは、言わなかった。

 

言わないで、留守番をしていた、と言った。

 

嘘の上手な子ではなかった。草の種を、払い忘れるくらいには。

 

名探偵の勘、というものが、私にもあるのなら、それは、たぶん、裾を見る勘だった。

 

私は、何も言わなかった。

 

言わずに、白いワゴンの窓を、閉めた。

 

部屋に戻って、灯りを点けた。

 

鞄の中の、二日分の着替えは、使わなかった。

 

使わなかった着替えを、鞄から出さずに、そのままにしておいた。

 

明日も、使わないかもしれない。使わない着替えを、毎朝、持っていく。

 

研究室の壁の、面の写真を、もう一度、思い出した。

 

顔のない、白衣の人。

 

円さんが、毎朝、玄関を開けて、待っている人。

 

木賀峰さんが、あこがれて、押しかけた人。

 

私は、その人の顔を、知らない。

 

知らない人のことを、二人の口から聞いて、二人分の、違う形で、覚えた。

 

違う形の二つが、どこかで、一つの顔になるのかどうかは、分からなかった。

 

分からないまま、灯りを、消した。消した部屋の暗さは、診療所の待合室の薄暗さより、少しだけ、明るかった。町の灯りが、窓から、入ってくるからだった。山の中の診療所には、窓から入ってくる灯りが、一つもない。円さんは、その暗さの中で、今夜も、鍵をかけている。

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