死なない、ということと、生きている、ということは、同じではない。
止まった時計は、壊れてはいない。針が動かないだけだ。動かない針は、一日に二度だけ、正しい時刻を指す。
正しい時刻を指している時の時計と、動いている時計を、外から見分けることはできない。
見分けられるのは、待っている人間だけだ。
八月十日の朝、私は、骨董アパートの前の石段に、座っていた。座って待つ、と、昨夜、決めたとおりに。
鞄の重さは、昨夜のままだった。
一段ごとに、板が、派手に鳴った。
降りてきたのは、黒いマントの少女だった。
十六くらいに見えた。髪を、二つに結んでいた。膝まである黒いマントを、肩から羽織っていた。マントの合わせ目から、白い布と、革のベルトが覗いていた。ベルトは、体の前で、何本も交差していた。腕を、体に縛りつけておくための形に見えた。
縛りつけるためのベルトが、今は、どこにも、留められていなかった。
少女は、私を見るなり、目を輝かせた。
「あーっ! あなたが、隣の隣の人だねっ!」
声が、大きかった。
朝のアパートの、古い板壁が、全部その声を跳ね返した。
「名探偵の勘が告げてるよっ! 窓際のいちばん後ろで、いーちゃんと一つ空けて座る人っ!」
隣の隣。
「……誰から、聞いたの」
「いーちゃんからっ! 昨日の晩、いーちゃんの部屋で、ご飯を食べながら聞いたのっ! いーちゃん、名前は覚えないのに、座り方は覚えてるんだねっ! ……だから、お名前、教えてっ!」
「……堀北よ」
「下のお名前は、鈴音ちゃんだねっ! 名探偵、調べたもんっ! すずねちゃんっ! 覚えたっ!」
名乗っていない方の名前を、先に、呼ばれた。
訂正する暇も、なかった。
名前は覚えないのに、座り方は覚えている。玖渚さんからも、同じ話を聞いた。
彼は、私のことを、座り方で話している。座り方しか、話すことがないのかもしれなかった。
「私は、
少女は、胸を張った。
「今は、人を探してるのっ! 人識くんっていう人っ!」
私は、何も言わなかった。
「……
零崎。
五度目だった。
「知らないわ」
「ほんとにっ?」
「本当に、知らないわ。そんな人には、会ったことがない」
嘘ではなかった。
零崎人識という人に、私は、会ったことがない。
零崎を名乗る人で、会ったことがあるのは、零崎双識と名乗った男と、七月の渡り廊下で借り物の名前を名乗った人だけだった。双識と名乗った男が、佐倉さんを連れていった。佐倉さんは、零崎愛織になった。
理澄さんは、私の顔を、じっと見ていた。
名探偵の目だ、と思った。思ってから、六月の、赤い人の目を思い出した。顔の表面から、奥へ降りていく目。理澄さんの目は、表面で止まって、表面だけを、何度もなぞっていた。
「……うーん、嘘じゃないけど、全部でもないねっ!」
理澄さんは、私の手元を指さした。
「だってすずねちゃん、零崎って聞いた瞬間に、鞄の持ち手、ぎゅって握ったもんっ! 人識くんって下の名前の時は、握らなかったのにっ! 名探偵は、そういうの見逃さないのっ!」
私は、鞄の持ち手から、指をほどいた。
ほどくのが、一拍、遅かった。
「零崎って名字の誰かを、知ってるんだねっ! 人識くんじゃない、誰かっ!」
「……全部を言う必要は、ないでしょう」
「名探偵には、あるのっ!」
理澄さんは、頬を膨らませた。
膨らませて、すぐに、笑った。
「でも、いいよっ! すずねちゃん、大好きっ!」
大好き、と言われた。
会って、二分だった。
二分で人を大好きになる子は、たぶん、二分で人を嫌いにもなれる。どちらも、同じ速さで言える子なのだと思った。
「理澄ちゃんは、今回は、留守番」
いつの間にか、彼が、階段の上にいた。
「……鍵、かかってなかった?」
「かかってたよっ! でも、名探偵には、鍵なんて関係ないのっ!」
彼は、額に手を当てた。
「理澄ちゃんは、今回は、留守番。……
「えーっ! 名探偵も行きたいっ!」
「車は、もう、いっぱいなんだ。それに、君は、探してる人がいるんだろう」
「いるけどっ!」
理澄さんは、頬を膨らませたまま、二階へ戻っていった。
戻る前に、もう一度だけ振り返って、私に手を振った。
「すずねちゃん、またねっ! 次は、全部聞かせてねっ!」
扉が閉まった。
「あの子は、春日井さんの拾い物なんだ」
彼が、階段を降りてきながら言った。
「ぼくの部屋に、春日井さんと、ぼく。……四畳一間に、二人。あの子は、ご飯の時だけ来る。春日井さんの犬は、外」
骨董アパートには、拾われた人間が多い。
私は、拾われたのだろうか。
拾われていない、と思った。思ってから、六月、赤い車の助手席に乗った自分を、思い出した。
拾われたのではない。乗ったのだ。
赤信号で、降りずに。
木賀峰さんは、黒い低い車ではなく、白いワゴンで来た。研究センターの車だと言った。
「私の車は、二人しか乗れませんので。……あなた方が四人になるであろうことを、この私は」
「予測していた」
今度は、彼が、言葉尻を取った。
木賀峰さんは、少しだけ、眉を寄せた。助手席で、
研究所は、京都の北の、山の奥にあった。
車で、二時間かかった。
古い建物だった。二階建ての、木造の洋館だった。白いペンキが、ところどころ剥げていた。門柱に、文字の消えかけた看板が残っていた。
そう読めた。
「昔、ここで診療所をしていた方がいましてね」
運転席から、木賀峰さんが言った。
「私の、昔の師です。今は、もういらっしゃらない。……建物だけ、大学が借りています」
師。
彼が、紫木さんの師匠であるように。赤木くんが、私に座り方を教えたように。
この人にも、師がいた。
「いらっしゃらない、というのは」
私が訊くと、木賀峰さんは、バックミラーの中で、少しだけ笑った。
「亡くなった、ということになっています。十年前に」
ことになっている。
ことになっている話は、たいてい、本当の話より、通りがいい。
後ろの座席で、春日井さんが、窓の外を見ていた。紫木さんは、彼の肩に頭を乗せて、眠っていた。
眠っている紫木さんの顔は、六月の、糸の廊下の顔とは、別人だった。
車が止まると、円さんが、真っ先に降りた。
降りて、伸びをした。
「ああ、帰ってきた。……やっぱ、ここが一番だな。ぼろいけど」
骨董アパートのことも、ぼろいと言った人だった。
ぼろい場所が、好きなのかもしれなかった。
円さんは、玄関の扉の前で、振り返った。
「おい、お前ら。靴、脱げよ。ここ、診療所だったから、昔は土足だったけど、あたしが管理人になってから、土足禁止にした」
「管理人」
彼が、訊き返した。
「管理人だよ。約の研究センターだかなんだか知らねえけど、ここの鍵を持ってんのは、あたしだ。……先生に、預けられた鍵だ」
円さんは、首から下げた紐を、服の中から引っ張り出した。
紐の先に、古い鍵が一本、ぶら下がっていた。
真鍮の、黒ずんだ鍵だった。
「十年、毎朝、これで、玄関を開けてる。……開けて、先生が来ねえのを確かめて、閉めてる」
「……鍵、替えようと思えば、いつでも替えられんだけどな」
替えない鍵だった。
円さんは、鍵を、玄関の鍵穴に差し込んだ。
回した。
扉が、軋みながら、開いた。
開いた扉の向こうに、廊下が、まっすぐ伸びていた。木の床が、薄暗い中で、少しだけ光っていた。磨かれていた。
十年、毎朝、誰かが、磨いていた床だった。
「ほら、入れ。……来た奴を入れるのも、管理人の仕事だ」
円さんは、扉を押さえたまま、私たちが一人ずつ入るのを、見ていた。
彼が入り、紫木さんが入り、春日井さんが入った。
私が、最後だった。
入る時に、円さんと、目が合った。
古い目が、ほんの少しだけ、笑っていた。
来た奴を、また一人、入れる人の目だった。入れた奴が、待っている奴ではないと分かっていて、それでも、目の端だけは、緩めたままだった。待っている人は、来た人を、待っている人と比べずに迎えることを、たぶん、長いあいだに、覚えたのだと思った。
紫木さんが、真っ先に、靴を脱いだ。
脱いだ靴を、玄関の隅に、きちんと揃えた。
円さんは、それを見て、少しだけ、目を細めた。
「チビ、行儀いいな」
「学校で、教わったです! 靴を揃えない子は、首を揃えられるって!」
円さんの眉が、少しだけ、動いた。
動いて、それから、乾いた声で、笑った。
「……物騒な学校だな」
「物騒でした!」
紫木さんは、元気よく、言った。
言って、廊下の奥へ、駆けていった。
足音が、ほとんど、しなかった。
建物の中は、診療所の形を、そのまま残していた。
待合室だった部屋に、古い長椅子が、二つ並んでいた。受付だった窓口に、色の褪せた診察券の箱が、置いたままになっていた。
診察室だった部屋が、木賀峰さんの研究室になっていた。
円さんは、廊下を、奥へ歩きながら、扉を一つずつ、指さしていった。
「ここ、待合。ここ、受付。ここ、診察室、今は約の部屋。……二階は、昔の入院の部屋。今は、誰も寝てねえ。布団だけは、干してある」
「誰も寝ないのに、干すのですか」
私が訊くと、円さんは、振り返らずに答えた。
「誰か、来るかもしれねえだろ」
廊下のいちばん奥に、扉が一つあった。
他の扉より、少しだけ、古かった。真鍮の取っ手が、黒ずんでいた。円さんの首の鍵と、同じ色だった。
円さんは、その扉の前で、足を止めなかった。
止めずに、通り過ぎた。
「そこは」
彼が、訊いた。
「あたしの部屋。……と、約の部屋。奥の、寝る方の」
「二人で」
「二人で。……仲良くはねえぞ。同じ部屋で寝てるだけだ。先生がいた頃から、あそこは、あたしの部屋だった。約は、あとから、勝手に入ってきた」
円さんは、それきり、その扉を、見なかった。
見ないまま、研究室の方へ、私たちを、促した。
私は、通り過ぎる時に、一度だけ、その扉を見た。
窓のない廊下の、いちばん奥。
十年、二人の女が、仲良くないまま、同じ部屋で寝ている扉。
扉の前の床が、他の床より、少しだけ、すり減っていた。毎晩、二人分の足が、そこで止まって、取っ手を回してきた跡に、見えた。
研究室の机の上に、紙の束と、録音機と、古い血圧計があった。
「研究の内容を、ご説明します」
木賀峰さんは、研究室の真ん中に立って、私たちに向き直った。
「死なない研究、と申し上げました。……正確には、死なない人間が、何を考えているのかを、調べる研究です」
「何を、考えているのか」
彼が、言った。
「はい。くちはは、八百年、死んでいません。死なない体を持った人間が、八百年、何を考えて過ごしてきたのか。死を、どう見ているのか。……それを、死ぬ体を持った人間の考えと、比べるのです」
木賀峰さんは、録音機を、指で叩いた。
「あなた方には、一日に一度、質問に答えていただきます。死について。生きることについて。待つことについて。……答えを、録音して、くちはの答えと並べます」
「それだけですか」
訊いたのは、春日井さんだった。
「それだけなら一週間も要らないでしょう。一日で済む」
「一日では、済みません」
木賀峰さんは、言った。
「人の答えは、日によって、変わります。昨日、死が怖いと言った人が、今日は、怖くないと言う。……変わる答えを、七日分、並べて、初めて、その人の答えになるのです」
七日分。
七日分の答えを並べて、一人の人間の答えにする。
それは、高校の三年間、私たちが毎月受け取った点数と、少しだけ、似ていた。一日の点数ではなく、ひと月分を並べて、その人の値打ちにする。
「くちはさんの答えは、何日分、並んでいるのですか」
私が訊くと、木賀峰さんは、少しだけ、黙った。
黙ってから、言った。
「十年と、少しです。……私が、くちはに出会ってから」
円さんが、研究室の入口で、壁にもたれていた。
もたれたまま、鼻を鳴らした。
「十年分並べたって、八百年のうちの十年だ。……一パーセントちょっとだな。約の研究は、いつ終わるんだか」
「終わらない研究は、ありません」
「終わらねえよ。あたしが、終わらねえんだから」
木賀峰さんは、何も、言い返さなかった。
言い返さないまま、録音機の電源を、入れた。
赤い小さな灯りが、点いた。
七月の施設の、扉の上のカメラの灯りに、少しだけ、似ていた。
見ている灯りと、聞いている灯り。
どちらも、何かを、記録していた。
録音機の灯りを点けたまま、木賀峰さんは、研究室の壁の一角を、手で示した。
古い写真が、一枚、額に入れて、掛けてあった。
診療所の前で撮られた、白黒の写真だった。白衣の男が、一人、写っていた。
顔は、写っていなかった。
正確には、顔のあるはずの場所に、面が、写っていた。狐の面。白い地に、赤い隈取り。
「この診療所の、元の持ち主です」
木賀峰さんは、写真を見ないまま、言った。
「私の、先生です。……写真に写る時も、面を外さない方でした」
「どうして」
彼が、訊いた。
「顔を残すと、物語が、そこで終わってしまうから、だそうです」
木賀峰さんは、少しだけ、笑った。
「私は、高校生の時に、この写真を雑誌で見て、ここへ来ました。……あこがれが、暴走したのです。押しかけて、助手にしていただきました」
あこがれが、暴走した。
穏やかな声で、木賀峰さんは、自分のことを、そう言った。
円さんが、研究室の入口で、写真の方を、見ていた。
見ていたけれど、何も、言わなかった。
言わないまま、首の鍵を、服の上から、握っていた。
木賀峰さんと円さんは、同じ写真を、別々の場所から、見ていた。
一人は、あこがれて押しかけた人として。
一人は、買われて待っている人として。
同じ人を見ているのに、二人のあいだの隙間は、少しも、埋まっていなかった。
最初の聞き取りは、彼だった。
研究室の扉が閉まって、私たちは、待合室の長椅子で、待った。
紫木さんは、リュックから、国語の問題集を出した。
「待ってる時間は、ことわざの時間です!」
紫木さんは、問題集を開いて、私の方へ差し出した。
「ほりきたさん、今日のことわざです。……待てば海路の日和あり!」
「待っていれば、そのうち、海が穏やかになって、船を出せる日が来る、という意味よ」
「待てば、来るですか」
「来る、と昔の人は言ったのね」
余白に、紫木さんは、大きく、待、と一字だけ書いた。
書いてから、受付の窓口の円さんを、ちらりと見た。
円さんは、気づかないふりをしていた。
気づかないふりの上手な人だった。八百年分、上手だった。
紫木さんは、待、の字の横に、小さく、来る、と書き足した。
書き足して、それから、少しだけ迷って、その横に、来ない、とも書いた。
来る、と、来ない。
二つの言葉が、待、の字の両側に、並んでいた。
「どっちも、待つです」
紫木さんは、小さく言った。
答えの決まっていない問題の、答えだった。
春日井さんは、待合室の窓から、外の庭を見ていた。
庭は、荒れていた。草が、膝の高さまで伸びていた。伸びた草の中に、古い木のベンチが一つ、残っていた。
「あの草刈っていないのね。管理人なのに」
春日井さんが、窓の外を見たまま言った。
円さんが、待合室の受付の窓口に、頬杖をついていた。
「刈らねえよ。……先生が、庭は放っとけって言ったんだ。放っとかれた庭が、どこまで伸びるのか見たいって」
「十年放っておいたらああなる」
「十年じゃねえ。十年と、少し。……先生がいなくなってからは、十年。いた頃から、放っとかれてた」
円さんは、頬杖をついたまま、窓の外の草を見ていた。
見ている顔が、少しだけ、柔らかかった。
先生の話をする時だけ、この人の口の悪さから、棘が抜ける。
「円さん」
私が呼ぶと、円さんは、少しだけ、顔をしかめた。
「くすぐってえって」
「先生、というのは、どんな人だったのですか」
円さんは、すぐには、答えなかった。
答えないまま、首から下げた鍵を、服の上から、握った。
「……変な奴だよ」
円さんは、言った。
「人の話を、聞かねえ。聞かねえくせに、全部覚えてる。物語の終わりが見たいとか、わけ分かんねえことばっか言ってた。……あたしを買った理由も、たぶん、八百年分の物語の、終わりが見たかったからだ」
物語の、終わり。
「見られたのですか。終わりを」
「見られるわけねえだろ。あたしは、終わらねえんだから」
円さんは、乾いた声で、笑った。
「だから、先生は、いなくなった。終わらねえ物語に、飽きたんだ。……飽きて、どっかに行った。死んだことになってるけど、あたしは、信じてねえ」
円さんは、鍵を、握りしめた。
「先生は、死なねえよ。……あたしより、死ななそうな奴だった」
紫木さんが、問題集から、顔を上げていた。
上げて、円さんを、じっと見ていた。
「ちっぱーは、その人のこと、待ってるですか」
円さんの目が、紫木さんの方へ、動いた。
動いて、止まった。
「……チビ。お前、ずけずけ訊くな」
「訊いちゃだめでしたか」
「だめじゃねえ。……だめじゃねえけど、そういうのは、普通、訊かねえんだよ」
円さんは、頬杖を、外した。
外して、待合室の天井を、見上げた。
「待ってるよ。……八百年のうち、待ってなかった時間の方が、短い」
紫木さんは、問題集を、膝の上で、閉じた。
閉じて、少しだけ、考える顔をした。
「姫ちゃんも、待ってたことあるです。前の師匠。いなくなっちゃった師匠」
「……ふうん」
「でも、新しい師匠が来たので、もう、待ってないです」
円さんは、紫木さんを見た。
見て、それから、少しだけ、笑った。
「いいな、チビ。……新しいのが来たら、待つの、やめられんのか」
「やめられるです!」
「あたしは、やめられねえ」
円さんは、立ち上がった。
立ち上がって、待合室の窓から、庭の、古いベンチを見た。
「来ねえ奴を待つのは、来る奴を待つより、ずっと、楽なんだよ。……来ねえって分かってりゃ、来なかった時に、がっかりしなくて済む」
それは、嘘だと思った。
円さんの、首の鍵を握る指を見て、そう思った。
十年、毎朝、玄関を開けて、誰も来ないのを確かめて、閉める人。
がっかりしなくて済む人の、指ではなかった。
一時間ほどして、研究室の扉が開いた。
彼が、出てきた。
いつもの顔だった。何も浮かんでいない顔。
待合室の長椅子の、紫木さんの隣に、座った。
紫木さんが、問題集を閉じて、彼の顔を覗き込んだ。
「師匠、何、訊かれたですか」
「死ぬのは、怖いかって」
「何て、答えたですか」
「……内緒」
紫木さんは、頬を膨らませた。
膨らませてから、にっこり笑った。
「じゃあ、姫ちゃんも、内緒にするです。姫ちゃんの番の時」
「そうして」
彼は、紫木さんの頭に、一度だけ、手を置いた。
置いて、すぐに、離した。
私は、一つ空けた長椅子の端から、それを見ていた。
研究室の壁の、面の写真を、思い出した。
顔を残すと、物語が、そこで終わってしまう、と言った人。
木賀峰さんは、集めた答えを、その人に読んでほしいのだと思った。
思ったことを、私は、誰にも言わなかった。
次は、春日井さんの番だった。
春日井さんは、長椅子から立ち上がって、研究室へ入っていった。
入る前に、一度だけ、振り返った。
「私は死が怖くないと答えるわ。でも本当は分からないと答えるのが正しいのよ。選ばないから」
それだけ言って、扉を、閉めた。
扉の向こうで、録音機の、小さな音がした。
赤い灯りが、また、点いたのだと思った。
昼に、円さんが、台所で、握り飯を作った。
大きな皿に、山のように。
「食え。……あたしは、作るのは好きなんだ。食うのは、どっちでもいいけど」
紫木さんが、真っ先に、一つ取った。
かぶりついて、目を丸くした。
「ちっぱー、しょっぱいです!」
「塩、多めにした。山の上は、汗かくからな。……あたしは、かかねえけど」
汗をかかない人が、汗をかく人のために、塩を多めにした握り飯。
私も、一つ、取った。
しょっぱかった。
しょっぱいのに、おいしかった。
「……おいしいです」
「だろ」
円さんは、満足そうに、頷いた。
頷いて、自分は、一つも、取らなかった。
取らないまま、皿の上の握り飯が、一つずつ減っていくのを、見ていた。
減っていくのを見るのが、好きなのだと思った。
減らない人には、減っていくものが、たぶん、少しだけ、羨ましい。
午後は、紫木さんの番だった。
紫木さんは、研究室に入る前に、私の方を振り返った。
「ほりきたさん、姫ちゃん、何て答えたらいいですか」
「思ったとおりに答えればいいわ」
「思ったとおりが、分からない時は?」
「分からない、と答えればいいの」
紫木さんは、少しだけ、考える顔をした。
それから、にっこり笑った。
「分からない、って、答えていいですか!」
「いいわ。……分からないと言える人は、少ないの」
紫木さんは、扉の向こうへ、入っていった。
扉が、閉まった。
三十分ほどで、出てきた。
出てきた紫木さんは、首を傾げていた。
「木賀峰さん、変な顔してたです」
「変な顔」
「姫ちゃん、死ぬのは、師匠が決めることです、って答えたです。そしたら、木賀峰さん、ペンを止めて、しばらく、姫ちゃんの顔、見てたです」
死ぬのは、師匠が決めること。
紫木さんは、それを、少しも、怖そうではない声で、言った。
彼が、長椅子の上で、少しだけ、身じろぎをした。
紫木さんは、それに気づかないまま、彼の隣に、座った。
「分からない、って、答えなかったの」
私が訊くと、紫木さんは、首を振った。
「分かってたので! 師匠が決めることは、姫ちゃん、分かってるです」
彼は、何も言わなかった。
言わないまま、紫木さんの頭の上に、もう一度だけ、手を置いた。
今度は、すぐには、離さなかった。
夕方、白いワゴンで、京都に戻った。
通い、と木賀峰さんは言っていた。毎朝迎えに来て、毎夕送る、と。
後ろの座席で、紫木さんは、彼の肩に頭を乗せて、眠っていた。
春日井さんは、窓に額をつけていた。
私は、窓際で、山の景色が、少しずつ、町の灯りに変わっていくのを見ていた。
助手席の円さんが、振り返らずに、言った。
「おい、そこの」
「……堀北です」
「堀北。明日、お前の番だろ、約の質問」
「そうらしいです」
「あいつの質問、全部、同じだからな。死が怖いか。待つことをどう思うか。……どう答えても、あいつは、紙に書いて、裏返す」
「裏返す」
「読まれたくねえんだよ。自分以外の誰かに、先に」
円さんは、それきり、何も言わなかった。
裏返された答えを、木賀峰さんは、誰に、読ませたいのだろう。
先に読まれたくない、ということは、いつか、誰かに読まれたい、ということだった。
運転席で、木賀峰さんが、ハンドルを握る手を、少しだけ、強めたように見えた。
骨董アパートの前で、彼と、紫木さんと、春日井さんが、降りた。
二階の窓から、黒いマントの少女が、身を乗り出して、手を振っていた。
「おかえりっ! 名探偵、ちゃんと、留守番してたよっ!」
してなかった、と、私は思った。
マントの裾に、乾いた草の種が、いくつも、ついていた。
膝の高さまで伸びた草の中を、歩いた人の裾だった。
骨董アパートの前の道に、膝の高さまで草の伸びた場所は、なかった。
京都の町の中には、たぶん、どこにもなかった。
あるとすれば、今日、私たちがいた山の中の、放っておかれた庭くらいだった。
名探偵は、鍵のかかった部屋から抜け出して、私たちより先に、どこかへ行って、私たちより先に、帰ってきていたのかもしれない。
どこへ行ったのかは、言わなかった。
言わないで、留守番をしていた、と言った。
嘘の上手な子ではなかった。草の種を、払い忘れるくらいには。
名探偵の勘、というものが、私にもあるのなら、それは、たぶん、裾を見る勘だった。
私は、何も言わなかった。
言わずに、白いワゴンの窓を、閉めた。
部屋に戻って、灯りを点けた。
鞄の中の、二日分の着替えは、使わなかった。
使わなかった着替えを、鞄から出さずに、そのままにしておいた。
明日も、使わないかもしれない。使わない着替えを、毎朝、持っていく。
研究室の壁の、面の写真を、もう一度、思い出した。
顔のない、白衣の人。
円さんが、毎朝、玄関を開けて、待っている人。
木賀峰さんが、あこがれて、押しかけた人。
私は、その人の顔を、知らない。
知らない人のことを、二人の口から聞いて、二人分の、違う形で、覚えた。
違う形の二つが、どこかで、一つの顔になるのかどうかは、分からなかった。
分からないまま、灯りを、消した。消した部屋の暗さは、診療所の待合室の薄暗さより、少しだけ、明るかった。町の灯りが、窓から、入ってくるからだった。山の中の診療所には、窓から入ってくる灯りが、一つもない。円さんは、その暗さの中で、今夜も、鍵をかけている。