ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第24話 震え(奮え)

聞かれる、というのは、答えることだと思われている。

 

違う。聞かれるのは、自分がまだ答えを持っていないことを、知らされることだ。

 

問いを向けられて、初めて、人は、自分の中を探しに行く。探しに行って、何もないことに、気づく。

 

何もない場所に、それでも、何かを置いて帰ってくる。置いてきたものを、人は、あとから、答えと呼ぶ。

 

 

 

 

 

二日目の朝、白いワゴンが診療所に着くと、円(まどか)さんは、もう、玄関の前に立っていた。

 

首の鍵を、手に持っていた。

 

私たちが降りるのを見て、円さんは、鍵穴に、鍵を差し込んだ。

 

回した。

 

扉が、軋みながら、開いた。

 

「……昨日、開けたんじゃないんですか」

 

彼が訊くと、円さんは、鍵を抜きながら、答えた。

 

「毎朝、開けて、閉める。……あんたらが来るから、今朝は、あんたらが着いてから、開けた」

 

「どうして」

 

「誰か来た時に開けるのが、玄関だろ。誰も来ねえのに開けるのは、ただの、習慣だ」

 

円さんは、鍵を、服の中にしまった。

 

「十年、習慣で開けてた。……今朝は、ちゃんと、玄関として開けた」

 

円さんは、それだけ言って、廊下の奥へ歩いていった。

 

歩いていく背中が、昨日より、ほんの少しだけ、まっすぐだった。

 

来た人のために、扉を開ける。

 

十年、来ない人のために開けていた扉を、今朝は、来た人のために、開けた。

 

それだけのことで、背中の形が、少し変わる人がいる。

 

私は、円さんが開けた玄関を、くぐった。

 

くぐる時、扉の木の、取っ手のあたりだけが、ほかより、少しだけ、白く擦れているのに、気づいた。

 

十年分の、手の跡だった。

 

研究の手伝いは、思っていたより、退屈だった。

 

木賀峰(きがみね)さんが、質問をする。私たちが、答える。答えを、木賀峰さんが、紙に書きつける。

 

質問は、一人ずつ、別の部屋で行われた。

 

私の番は、二日目、八月十一日の午後だった。

 

窓の大きな部屋だった。窓の外に、山の緑が見えた。部屋の真ん中に、机が一つ。椅子が二つ。木賀峰さんが、片方に座っていた。

 

「堀北さん。あなたは、死について、どう考えていますか」

 

最初の質問が、それだった。

 

「どう、とは」

 

「怖いですか。避けたいですか。それとも、どうでもいいですか」

 

私は、少しだけ、考えた。

 

「……どうでもよくは、ありません」

 

「では、怖い?」

 

「怖いです。避けられるなら、避けたいです」

 

「普通の答えですね」

 

「……でも、避けるために、降りるのは、嫌です」

 

木賀峰さんの鉛筆が、止まった。

 

「避けたいのに、降りない」

 

言ってから、余計なことを言ったと思った。

 

木賀峰さんは、鉛筆を置いた。

 

「降りる、とは」

 

「……何でもありません」

 

「いいえ。とても、興味深い言葉です」

 

木賀峰さんは、眼鏡の奥の目を、細めた。

 

「あなたは、死を、何かの勝負の途中だと考えているのですね。死ぬことは、負けではない。降りることが、負け。……そういうことを、誰かに教わりましたか」

 

答えなかった。

 

答えずに、窓の外を見た。

 

山の緑が、風に揺れていた。

 

「あなたは今、誰かを思い出しましたね」

 

木賀峰さんが、言った。

 

私は、窓から、目を戻した。

 

「どうして、そう思うんですか」

 

「思うのではありません。あなたが、今、そういう顔をしたからです」

 

木賀峰さんは、鉛筆を、もう一度取った。

 

「死を怖がる人は、死の話をすると、目を逸らします。死を怖がらない人は、死の話をすると、目を輝かせます。あなたは、そのどちらでもなかった。降りる、と言った時だけ、誰かを思い出す顔をした。……その言葉を、あなたに渡した人を」

 

私は、何も言わなかった。

 

私が見たのは、小さなことばかりだった。晒した当たり牌を見逃す横顔。手首を掴まれたまま、煙草に火をつける指。

 

死ではなかった。

 

死ではなかったけれど、死と同じくらい、取り返しのつかないものの前で、卓の上のあの人は、口の端だけで笑っていた。

 

「あなたがここに来るであろうことを、この私は、予測していました」

 

初めて会った日と、同じ言い回しだった。

 

 

 

 

 

それから、木賀峰さんは、もう一枚、紙をめくった。

 

「質問を、変えます。……待つことについて、どう思われますか」

 

待つこと。

 

「待つのは、得意ではありません」

 

「では、苦手ですか」

 

「……苦手でも、ありません。待っていると、言われたくないだけです」

 

木賀峰さんの鉛筆が、また、止まった。

 

「待っているのに、待っていると、言われたくない」

 

「座っているだけです」

 

言ってから、また、余計なことを言ったと思った。

 

木賀峰さんは、紙から、顔を上げた。

 

「座っている」

 

「待つと言うと、待っている相手が、来るか来ないかで、自分の値打ちが決まる気がするので。……座っている、なら、相手が来なくても、私は、座ったままです」

 

木賀峰さんは、長いあいだ、私を見ていた。

 

それから、紙に、何かを書いた。

 

書いた字が、さっきより、少しだけ、多かった。

 

「くちはは、待っている、と言います。八百年」

 

木賀峰さんは、紙を見たまま、言った。

 

「言えるのです。……待っている、と、はっきり。来ない人を、来ないと分かっていて、待っている、と」

 

「それは、強いことだと思います」

 

「強い、のでしょうか」

 

木賀峰さんの声が、ほんの少しだけ、揺れた。

 

会ってから、初めて揺れた声だった。

 

「私は、くちはの隣で、先生がいた頃から、ずっと、待っています。……くちはが、待つのをやめる日を。やめたら、くちはは、死ねるかもしれない。死ねたら、私の研究は、終わる」

 

木賀峰さんは、鉛筆を、置いた。

 

「終わらせたいのか、終わらせたくないのか。……それを、予測できたことは、一度もありません」

 

予測できない。

 

この人が、自分のことを、予測できないと言った。

 

私は、何も言わなかった。

 

言える言葉を、持っていなかった。

 

木賀峰さんは、眼鏡の位置を直して、鉛筆を、また取った。

 

取った時には、もう、いつもの声に戻っていた。

 

「その人は、死の近くでも、平気な顔をしていた方ですか」

 

私は、答えなかった。

 

答えなかったのに、木賀峰さんは、頷いた。

 

「死なない研究には、そういう人を知っている人の話が、一番役に立つのです。死の近くで平気な人は、死なない人に、一番近いところにいますから」

 

「近くは、ありません」

 

私は、言った。

 

「あの人は、死なない人ではありませんでした。死ぬかもしれない場所に、平気で座る人でした。死なないことと、死ぬ場所に座ることは、逆です」

 

「……あの人、ですか。お名前は、おっしゃらないのですね」

 

木賀峰さんは、しばらく、私を見ていた。

 

それから、紙に、何かを書きつけた。

 

書きつけた紙を、裏返して、机の上に置いた。

 

「ありがとうございました。今日の質問は、ここまでです」

 

 

 

 

 

研究室の扉を出たところで、春日井(かすがい)さんと、すれ違った。

 

次は、春日井さんの番だった。

 

廊下の窓の外を、何かが、横切った気がした。

 

黒いものだった。

 

膝の高さの草の中を、低く、素早く、動いていった。

 

春日井さんの犬かと思った。犬は、骨董アパートに置いてきたはずだった。

 

もう一度見ると、もう、何もいなかった。

 

草だけが、少しだけ、揺れていた。

 

揺れている場所は、庭の、古いベンチの、すぐ裏だった。

 

私は、何も言わなかった。

 

昨日の夕方、黒いマントの裾についていた草の種を、思い出しただけだった。

 

春日井さんは、私の顔を、見た。

 

見て、それから、平らな声で言った。

 

「あなたは中で何か置いてきた顔をしているわね。答えを置いてくると人は少し軽くなる。でも軽くなった分だけ戻ってからどこに立つか分からなくなる」

 

「……分からなくなりません」

 

「そう」

 

春日井さんは、それ以上は、言わなかった。

 

言わずに、研究室へ、入っていった。

 

入る前に、扉の取っ手に手をかけたまま、一度だけ、振り返った。

 

「私は何も置いてこないわ。選ばないから置く場所も選ばない」

 

扉が、閉まった。

 

置く場所を、選ばない人。

 

私は、今、木賀峰さんの紙の上に、何かを置いてきた。座っている、という答えを。

 

置いてきたのに、少しも、軽くならなかった。

 

置いてきたものは、紙の上にもあって、私の中にも、まだ、あった。

 

答えというのは、置いてきても、なくならないものらしかった。

 

廊下の先の窓際に、彼が座っていた。

 

床に、直に座っていた。膝を抱えて、窓の外の山を見ていた。

 

私の番の前が、彼の番だった。

 

「何を訊かれたの」

 

私は、彼の、一つ空けた場所に立った。

 

「死について、どう考えてるか」

 

「同じね」

 

「同じ質問を、全員にしてるんだろうね。答えの違いを、集めてるんだ」

 

「あなたは、何と答えたの」

 

彼は、少しだけ、考える顔をした。

 

「死ぬのは、怖くない。死なれるのが、怖い。……そう答えた」

 

死なれるのが、怖い。

 

五月に、三人が死んだ。六月に、たくさんの人が死んだ。七月に、一人が、別の人の身代わりに死んだ。

 

この人の周りで、人が死ぬ。

 

この人は、それを、ずっと、怖がっていたのかもしれなかった。

 

「木賀峰さんは、何て」

 

「面白い、って。死なれるのが怖い人は、死なない人に、一番憧れるんだって。……憧れてるつもりは、ないんだけどね」

 

彼は、窓の外を見たまま、続けた。

 

「昨日の、姫ちゃんの答え。……死ぬのは、師匠が決めることです、って」

 

「聞いたわ。紫木さんから」

 

「ぼくは、何も決めてないのにね。決めてないのに、あの子は、ぼくに決めさせようとする。……昔の師匠にも、そうしてたんだと思う。決めてもらって、その通りに動く。動いた先で、何が起きても、師匠のせいにできる」

 

「それは、あなたの推測でしょう」

 

「推測だよ。戯言だ」

 

彼は、少しだけ笑った。

 

「六月の車の中で、姫ちゃんに訊かれてたね。師匠はいましたか、って。……あの人のこと、今なら、師匠って呼べる?」

 

あの時も、彼は、後ろの座席で、黙っていた。

 

紫木(ゆかりき)さんにも、澄百合で、師匠はいましたか、と訊かれた。あの時は、師匠と呼んでいいのか分からない人なら、としか答えられなかった。

 

「……師匠だったのかもしれないわ」

 

彼が、少しだけ、こちらを向いた。

 

彼は、それ以上、訊かなかった。あの人がどんな人だったのかは、この夏までに、もう、何度も話していた。

 

だから、私の方から、言った。

 

「何も決めてくれない人だった」

 

私は、窓の外の山を見た。

 

「座れ、降りるな、と言って、あとは、何も。どこに座るのかも、どう座るのかも。……決めてもらえなかったから、全部、自分で決めるしかなかった」

 

彼は、しばらく、黙っていた。

 

それから、小さく言った。

 

「いい師匠だね」

 

「そうかしら」

 

「ぼくなら、そういう師匠がよかった。……決めてもらうと、決めてくれた人がいなくなった時に、どこにも座れなくなるから」

 

決めてくれた人が、いなくなった時。

 

紫木さんの、昔の師匠は、もういない。

 

いないから、紫木さんは、彼を、師匠と呼ぶ。

 

彼は、たぶん、それを知っている。知っていて、師匠と呼ばれるままにしているように見えた。

 

「あなたは、紫木さんに、何か決めてあげたことがあるの」

 

彼は、答えなかった。

 

答えないまま、窓の外を見ていた。

 

山の緑が、風に揺れていた。

 

 

 

 

 

春日井さんの番のあいだ、庭の古いベンチで、紫木さんと円さんが、並んで座っていた。

 

並んで、と言っていいのかどうか、迷った。二人のあいだに、一人分の隙間が、空いていた。

 

紫木さんは、問題集を、膝の上に開いていた。

 

円さんは、その問題集を、横から覗き込んでいた。

 

「ちっぱー、これ、読めますか」

 

紫木さんが、問題集の一行を、指さした。

 

「……覆水盆に返らず。こぼれた水は、お盆には戻らねえって意味だ。終わったことは、元に戻らねえ」

 

「ちっぱー、すごいです!」

 

「八百年生きてりゃ、ことわざくらい、覚える。……ことわざってのは、だいたい、あたしより若い」

 

円さんは、少しだけ、得意そうに鼻を鳴らした。

 

紫木さんは、問題集の余白に、覆水、と書いた。

 

書いてから、首を傾げた。

 

「でも、こぼれた水、拭いたら、また使えるです」

 

「拭いた水は、お盆の水じゃねえ。雑巾の水だ」

 

「雑巾の水も、水です」

 

円さんは、口を開けて、何か言いかけた。

 

言いかけて、やめた。

 

やめて、それから、腹を抱えて、笑い出した。

 

「ははっ、そりゃそうだ。……雑巾の水も、水だな。チビ、お前、昔の誰かより、ずっと、ましなこと言う」

 

昔の誰か。

 

円さんの口からその言葉が出る時は、たぶん、いつも、一人のことを指しているのだろう、と思った。

 

紫木さんは、褒められたことだけを受け取って、嬉しそうに、問題集の余白に、雑巾、と書き足した。

 

覆水と、雑巾。

 

こぼれたものは、戻らない。戻らないけれど、拭けば、別の水になる。

 

私は、待合室の窓から、それを、見ていた。

 

二人のあいだの、一人分の隙間に、夏の日差しが、まっすぐ、落ちていた。

 

夕方、帰りのワゴンに乗る前に、円さんが、玄関の前で、私を呼び止めた。

 

「おい、堀北」

 

「はい」

 

「約に、何て答えた」

 

「……座っている、と」

 

円さんは、少しだけ、目を細めた。

 

「待ってる、じゃなくて」

 

「待っている、と言うと、来ない時に、がっかりするので」

 

円さんは、黙った。

 

黙って、首の鍵を、服の上から、握った。

 

「……あたしが、昨日、言ったことじゃねえか。来ねえ奴を待つ方が、楽だって。がっかりしなくて済むって」

 

「円さんは、待っている、と言います。がっかりする方を、選んでいる」

 

円さんの指が、鍵の上で、止まった。

 

止まって、それから、乾いた声で、笑った。

 

「……生意気な口だな、お前」

 

円さんは、玄関の扉を、閉めた。

 

閉めて、鍵を、かけた。

 

かける音が、昨日より、少しだけ、ゆっくりだった。

 

「明日も、来るんだろ」

 

「来ます」

 

「じゃあ、明日の朝も、玄関として、開けてやる」

 

円さんは、それだけ言って、ワゴンの助手席に、乗った。

 

乗ってから、窓の外の、診療所を、一度だけ、振り返った。

 

私たちを送ったあと、ワゴンは、また山へ戻る。戻る家なのに、円さんは、毎夕、こうして振り返るのだろう。

 

誰も残っていない家の鍵を、首から下げている人の、振り返り方だった。

 

 

 

 

 

二日目の夜、京都に戻ると、骨董アパートの前に、誰かが立っていた。

 

外灯の下だった。

 

男だった。たぶん、男だった。髪が長く、背は高くなかった。黒いマントを羽織っていた。マントの下で、両腕が、革のベルトで、体に縛りつけられていた。昨日の朝、理澄さんが着ていたのと、よく似た格好だった。

 

理澄さんのベルトは、留められていなかった。この人のベルトは、きつく、留められていた。

 

縛られた両腕は、体の前で、交差していた。

 

交差した腕の、両の手のひらが、少しだけ、開いていた。

 

開いた手のひらが、外灯の光の中で、ひどく、白かった。

 

何も持っていない手だった。刃物も、糸も、何も。

 

何も持っていない手が、この場のいちばん危ないものだと、なぜか、分かった。

 

紫木さんの指が、開きかけていた。糸を持っている指が。

 

糸を持っている指が、何も持っていない手の前で、震えていた。

 

持っているものが、持っていないものに、負ける。

 

それが、どういう強さなのかを、私は、知らなかった。

 

知らないまま、その白い手のひらから、目を離さなかった。

 

似ていたのは、服だけではなかった。

 

顔が、似ていた。

 

理澄さんの顔から、笑いを全部抜いて、代わりに、刃物を一本入れたような顔だった。

 

車から降りた彼が、足を止めた。

 

紫木さんが、彼の前に、すっと出た。

 

さっきまで、車の中で眠っていた子とは、別人の動きだった。指先が、少しだけ、開いていた。

 

春日井さんは、無表情のまま、男を見ていた。

 

私は、紫木さんの、一歩後ろに立っていた。

 

「よう」

 

男が、言った。

 

乾いた声だった。喉の奥で、何かを引き裂くような声。

 

「妹を、探してる」

 

「妹」

 

彼が、訊き返した。

 

「黒いマントの、うるさいの。名探偵だとか言って、人の話を聞かねえやつ。……ここらで、拾われたって聞いた」

 

理澄さんのことだった。

 

彼は、少しだけ、黙った。

 

黙ってから、言った。

 

「見てないな」

 

嘘だった。

 

二階の、彼の部屋の窓は、暗かった。暗い窓の内側に、理澄さんがいるはずだった。鍵をかけて、留守番をさせたはずの部屋だった。

 

男は、彼を見ていた。

 

それから、紫木さんを見た。紫木さんの、開きかけた指先を見て、口の端を、大きく吊り上げた。

 

「ぎゃは。……曲絃糸か。澄百合の」

 

紫木さんの指が、ぴくりと動いた。

 

「やめとけ。今夜は、仕事じゃねえ。仕事じゃねえ時に殺すと、あとで、帳尻が合わなくなる」

 

男の目が、最後に、私を見た。

 

刃物の目だった。

 

六月、西条さんの刃物の前で、私は動かなかった。あの時の西条さんの目は、幼くて、ぼんやりしていて、どこにも焦点が合っていなかった。

 

この人の目は、刃物を持っていなかった。

 

目そのものが、刃物だった。

 

私は、動かなかった。

 

「……あんた」

 

男が、言った。

 

「殺し屋の前で、震えねえのな」

 

「震えたら、何か変わるの」

 

言ってから、言うべきではなかったと思った。

 

男は、一瞬だけ、目を見開いた。

 

それから、腹を抱えて、笑った。

 

「ぎゃはははは。変わんねえよ。何にも変わんねえ。……いいな、あんた。殺す理由がねえ顔だ。殺す理由がねえ奴は、殺しても、つまんねえ」

 

男は、笑いながら、背を向けた。

 

背を向けて、外灯の外へ出ていった。

 

出ていく前に、一度だけ、振り返った。

 

「妹を見かけたら、言っといてくれ。兄貴が探してたってな。……匂宮出夢(におうのみやいずむ)が、って」

 

足音が、夜の中へ消えた。

 

紫木さんの指が、ゆっくりと、閉じた。

 

閉じた指が、少しだけ、震えていた。

 

「……師匠」

 

紫木さんが、小さく言った。

 

「あのお兄さん、強いです。姫ちゃんより、ずっと」

 

「知ってる」

 

彼は、二階の、暗い窓を見ていた。

 

「明日も、行くの」

 

私が訊いた。

 

「行く。行くって言ったから」

 

彼は、それだけ言って、階段を昇っていった。

 

一段ごとに、板が鳴った。

 

鳴る階段は、昇る人間の数を、数えている。

 

その夜、骨董アパートの階段は、いつもより、一人分多く鳴ったような気がした。

 

鳴り終わる前に、道の向こうから、エンジンの音が近づいてきた。

 

低い、獣のような音だった。

 

赤い車が、骨董アパートの前に、滑り込んできた。

 

屋根のない、真っ赤な車。

 

運転席から、赤い人が、身を乗り出した。

 

「よう。……今、匂宮の兄貴が、ここに来てたろ」

 

潤さんだった。

 

階段の途中で、彼が、足を止めた。紫木さんが、階段の下で、目を丸くした。

 

「どうして、分かるんですか」

 

彼が訊くと、潤さんは、鼻を鳴らした。

 

「空気が、まだ、ぴりぴりしてんだよ。……あいつが通ったあとは、いつもこうなんだよなー、これが。呼ばれてないけど、来ちゃったぜ」

 

呼ばなくても来る、と、六月に、この人は言った。

 

潤さんは、エンジンを切らずに、ハンドルに腕を乗せた。

 

「いーたん。あいつ、何て言ってた」

 

「妹を探してる、って。黒いマントの、名探偵だとか言ってる」

 

「ああ、理澄だよ、それ」

 

潤さんは、二階の暗い窓を、ちらりと見上げた。

 

見上げて、何も言わずに、目を戻した。

 

あの窓について、何かを知っているのだと思った。

 

「匂宮ってのはな」

 

潤さんは、言った。

 

「殺し屋の家だよ。殺し名の、第一位。頼まれりゃ、誰でも殺す。殺しは仕事で、仕事は、正しく、奇術みたいにやる。……匂宮雑技団、って自分たちで名乗ってんだぜ」

 

雑技団。

 

殺しを、芸のように。

 

「本家と、分家があってさ。分家だけで、五十いくつ。……で、本家の連中は、たいてい、兄弟か姉妹の二人一組で、仕事すんだよ。生まれる前から、そういうふうに、作られてる」

 

作られている。

 

七月の山の中で、三好さんは、子どもを一から作り直す、と言った。

 

「あの兄妹は、一つの体に、二人で入ってる。……ってことに、なってる」

 

「なってる、って」

 

彼が訊くと、潤さんは、肩をすくめた。

 

「奇術だって言ったろ。種を明かす手品師は、いねえよ。……で、片方が、調べる係。もう片方が、殺す係。……理澄が調べて、出夢が殺す。理澄は、人を殺す力が、からっきし。出夢は、殺す以外の力が、からっきし。よくできてんだろ」

 

潤さんは、少しだけ、笑った。

 

笑い方が、苦かった。

 

「出夢はな、殺すのは、一日一時間って決めてんだよ。両腕を縛ってるのも、そのため。……縛っとかないと、一時間じゃ済まないんだぜ、あいつ」

 

両腕を、体に縛りつけていた、革のベルト。

 

きつく、留められていた。

 

理澄さんのベルトは、留められていなかった。

 

二つで一つ。片方が縛られていて、片方が縛られていない。

 

「出夢が、ここに来たってことは」

 

彼が、言った。

 

「仕事が、近くにあるってこと?」

 

潤さんは、答えなかった。

 

答えないまま、紫木さんの方を見た。

 

「姫ちゃん。……この先の、木賀峰の仕事。あたし、別の仕事が入っちゃってさ、行けないんだよ。だから、頼むぜ。いーたんの護衛」

 

紫木さんの背筋が、すっと、伸びた。

 

「任せてください! 姫ちゃん、護衛、得意です!」

 

「知ってるって」

 

潤さんは、それから、私を見た。

 

三白眼が、外灯の下で、少しだけ、細くなった。

 

「りんねちゃんも、行くんだろ」

 

「行きます」

 

「そっか」

 

潤さんは、それだけ言った。

 

降りろ、とも、来るな、とも、言わなかった。

 

言わないまま、潤さんは、一度だけ、二階の暗い窓を見上げた。

 

見上げて、片方の口の端を、少しだけ、上げた。

 

暗い窓のカーテンが、ほんの少しだけ、揺れた気がした。

 

気がしただけかもしれなかった。

 

潤さんの赤い車が、夜の道を、走り去っていった。

 

赤い車の音が消えてから、彼が、階段の途中で、小さく言った。

 

「……潤さん、何か知ってたね。あの窓のこと」

 

「ええ」

 

「知ってて、言わなかった。ぼくらにも、たぶん、出夢くんにも」

 

彼は、暗い窓を、見上げた。

 

「言わないで、守ってる人が、ここには、多すぎる」

 

多すぎる。

 

潤さんは、知っていることの全部は、言わなかった。彼は、出夢さんに、見てないな、と嘘をついた。紫木さんは、指を開きかけて、閉じた。

 

私は、木賀峰さんに、五月に何も見ていない、と言った。

 

言わないことで、守っているものが、それぞれに、あった。

 

「多すぎると、困るの」

 

「困る。……誰が何を守ってるのか、分からなくなる。分からなくなると、守ってるつもりで、別の何かを、壊す」

 

彼は、それきり、黙った。

 

黙ったまま、階段を、昇りきった。

 

二階の廊下で、彼が、自分の部屋の扉の前に立った。

 

鍵を出す前に、扉の取っ手を、そっと回した。

 

回った。

 

鍵は、かかっていなかった。

 

彼は、少しのあいだ、取っ手を握ったまま、動かなかった。

 

それから、ゆっくりと、扉を開けた。

 

部屋の中は、暗かった。

 

誰も、いなかった。

 

留守番をしているはずの子が、いなかった。窓が、半分、開いていた。

 

夜風が、カーテンを、少しだけ、揺らしていた。

 

「……理澄ちゃん」

 

彼が呼んでも、返事はなかった。

 

彼は、窓の外を見た。外灯の下には、もう、誰も立っていなかった。

 

「……散歩、かな」

 

散歩、と彼は言った。言っただけだった。

 

彼は、扉の内側に入って、畳の上に、座った。開いた窓を、閉めなかった。

 

私は、廊下に立ったまま、扉を、閉めなかった。

 

閉めずに、廊下に背を向けた。

 

階段を降りる時、板が、一段ずつ鳴った。

 

鳴る階段は、降りる人間の数も、数えている。

 

降りきったところで、一階の、紫木さんの部屋の扉が、少しだけ、開いているのに気づいた。

 

隙間から、紫木さんが、こちらを見ていた。

 

「ほりきたさん。……理澄さん、お部屋に、いたですか」

 

「いなかったわ。散歩じゃないか、って」

 

「……そうですか」

 

紫木さんは、それだけ言って、扉を閉めかけた。

 

閉めかけて、止まった。

 

「姫ちゃん、明日、ちゃんと護衛するです。潤さんに、頼まれたので」

 

閉まった扉の向こうで、指を、一本ずつ、鳴らすような、小さな音がした。

 

糸を持つ指を、明日のために、ほぐしている音だと思った。

 

ほぐされた指が、明日、何を持つのかは、分からなかった。分からないまま、私は、骨董アパートを出た。

 

自分の部屋へ帰る道を、私は、一人で歩いた。

 

骨董アパートから、私の部屋までは、歩いて二十分ほどだった。外灯の少ない道だった。少ない外灯の、一本ごとに、自分の影が、前に伸びて、後ろに縮んだ。

 

さっきの男の目を、思い出していた。

 

殺す理由がねえ顔だ、と言われた。

 

殺す理由がない顔。それは、褒め言葉ではなかった。かといって、貶されたのでもなかった。あの男にとって、私は、ただ、刃物を向ける先に入っていない、というだけのことだった。

 

入っていない。

 

五月、佐倉さんは、路地で私を見た。フラッシュのあとの暗がりで、目が合った。佐倉さんは、私を、撮らなかった。カメラを向けなかった。

 

あれも、たぶん、同じことだった。私は、佐倉さんの向ける先に、入っていなかった。

 

入っていないことに、あの時、私は、ほっとした。

 

今夜も、少しだけ、ほっとしていた。

 

ほっとしている自分の影が、外灯の下で、また前に伸びた。伸びた影は、どこまで行っても、誰の足元にも届かなかった。

 

届かない場所にいることを、安全と呼ぶのか、遠いと呼ぶのか。

 

部屋の鍵を開けながら、私は、それを決めなかった。決めないまま、鍵を閉めた。閉めた鍵の音が、狭い部屋に、一度だけ響いた。

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