聞かれる、というのは、答えることだと思われている。
違う。聞かれるのは、自分がまだ答えを持っていないことを、知らされることだ。
問いを向けられて、初めて、人は、自分の中を探しに行く。探しに行って、何もないことに、気づく。
何もない場所に、それでも、何かを置いて帰ってくる。置いてきたものを、人は、あとから、答えと呼ぶ。
二日目の朝、白いワゴンが診療所に着くと、
首の鍵を、手に持っていた。
私たちが降りるのを見て、円さんは、鍵穴に、鍵を差し込んだ。
回した。
扉が、軋みながら、開いた。
「……昨日、開けたんじゃないんですか」
彼が訊くと、円さんは、鍵を抜きながら、答えた。
「毎朝、開けて、閉める。……あんたらが来るから、今朝は、あんたらが着いてから、開けた」
「どうして」
「誰か来た時に開けるのが、玄関だろ。誰も来ねえのに開けるのは、ただの、習慣だ」
円さんは、鍵を、服の中にしまった。
「十年、習慣で開けてた。……今朝は、ちゃんと、玄関として開けた」
円さんは、それだけ言って、廊下の奥へ歩いていった。
歩いていく背中が、昨日より、ほんの少しだけ、まっすぐだった。
来た人のために、扉を開ける。
十年、来ない人のために開けていた扉を、今朝は、来た人のために、開けた。
それだけのことで、背中の形が、少し変わる人がいる。
私は、円さんが開けた玄関を、くぐった。
くぐる時、扉の木の、取っ手のあたりだけが、ほかより、少しだけ、白く擦れているのに、気づいた。
十年分の、手の跡だった。
研究の手伝いは、思っていたより、退屈だった。
質問は、一人ずつ、別の部屋で行われた。
私の番は、二日目、八月十一日の午後だった。
窓の大きな部屋だった。窓の外に、山の緑が見えた。部屋の真ん中に、机が一つ。椅子が二つ。木賀峰さんが、片方に座っていた。
「堀北さん。あなたは、死について、どう考えていますか」
最初の質問が、それだった。
「どう、とは」
「怖いですか。避けたいですか。それとも、どうでもいいですか」
私は、少しだけ、考えた。
「……どうでもよくは、ありません」
「では、怖い?」
「怖いです。避けられるなら、避けたいです」
「普通の答えですね」
「……でも、避けるために、降りるのは、嫌です」
木賀峰さんの鉛筆が、止まった。
「避けたいのに、降りない」
言ってから、余計なことを言ったと思った。
木賀峰さんは、鉛筆を置いた。
「降りる、とは」
「……何でもありません」
「いいえ。とても、興味深い言葉です」
木賀峰さんは、眼鏡の奥の目を、細めた。
「あなたは、死を、何かの勝負の途中だと考えているのですね。死ぬことは、負けではない。降りることが、負け。……そういうことを、誰かに教わりましたか」
答えなかった。
答えずに、窓の外を見た。
山の緑が、風に揺れていた。
「あなたは今、誰かを思い出しましたね」
木賀峰さんが、言った。
私は、窓から、目を戻した。
「どうして、そう思うんですか」
「思うのではありません。あなたが、今、そういう顔をしたからです」
木賀峰さんは、鉛筆を、もう一度取った。
「死を怖がる人は、死の話をすると、目を逸らします。死を怖がらない人は、死の話をすると、目を輝かせます。あなたは、そのどちらでもなかった。降りる、と言った時だけ、誰かを思い出す顔をした。……その言葉を、あなたに渡した人を」
私は、何も言わなかった。
私が見たのは、小さなことばかりだった。晒した当たり牌を見逃す横顔。手首を掴まれたまま、煙草に火をつける指。
死ではなかった。
死ではなかったけれど、死と同じくらい、取り返しのつかないものの前で、卓の上のあの人は、口の端だけで笑っていた。
「あなたがここに来るであろうことを、この私は、予測していました」
初めて会った日と、同じ言い回しだった。
それから、木賀峰さんは、もう一枚、紙をめくった。
「質問を、変えます。……待つことについて、どう思われますか」
待つこと。
「待つのは、得意ではありません」
「では、苦手ですか」
「……苦手でも、ありません。待っていると、言われたくないだけです」
木賀峰さんの鉛筆が、また、止まった。
「待っているのに、待っていると、言われたくない」
「座っているだけです」
言ってから、また、余計なことを言ったと思った。
木賀峰さんは、紙から、顔を上げた。
「座っている」
「待つと言うと、待っている相手が、来るか来ないかで、自分の値打ちが決まる気がするので。……座っている、なら、相手が来なくても、私は、座ったままです」
木賀峰さんは、長いあいだ、私を見ていた。
それから、紙に、何かを書いた。
書いた字が、さっきより、少しだけ、多かった。
「くちはは、待っている、と言います。八百年」
木賀峰さんは、紙を見たまま、言った。
「言えるのです。……待っている、と、はっきり。来ない人を、来ないと分かっていて、待っている、と」
「それは、強いことだと思います」
「強い、のでしょうか」
木賀峰さんの声が、ほんの少しだけ、揺れた。
会ってから、初めて揺れた声だった。
「私は、くちはの隣で、先生がいた頃から、ずっと、待っています。……くちはが、待つのをやめる日を。やめたら、くちはは、死ねるかもしれない。死ねたら、私の研究は、終わる」
木賀峰さんは、鉛筆を、置いた。
「終わらせたいのか、終わらせたくないのか。……それを、予測できたことは、一度もありません」
予測できない。
この人が、自分のことを、予測できないと言った。
私は、何も言わなかった。
言える言葉を、持っていなかった。
木賀峰さんは、眼鏡の位置を直して、鉛筆を、また取った。
取った時には、もう、いつもの声に戻っていた。
「その人は、死の近くでも、平気な顔をしていた方ですか」
私は、答えなかった。
答えなかったのに、木賀峰さんは、頷いた。
「死なない研究には、そういう人を知っている人の話が、一番役に立つのです。死の近くで平気な人は、死なない人に、一番近いところにいますから」
「近くは、ありません」
私は、言った。
「あの人は、死なない人ではありませんでした。死ぬかもしれない場所に、平気で座る人でした。死なないことと、死ぬ場所に座ることは、逆です」
「……あの人、ですか。お名前は、おっしゃらないのですね」
木賀峰さんは、しばらく、私を見ていた。
それから、紙に、何かを書きつけた。
書きつけた紙を、裏返して、机の上に置いた。
「ありがとうございました。今日の質問は、ここまでです」
研究室の扉を出たところで、
次は、春日井さんの番だった。
廊下の窓の外を、何かが、横切った気がした。
黒いものだった。
膝の高さの草の中を、低く、素早く、動いていった。
春日井さんの犬かと思った。犬は、骨董アパートに置いてきたはずだった。
もう一度見ると、もう、何もいなかった。
草だけが、少しだけ、揺れていた。
揺れている場所は、庭の、古いベンチの、すぐ裏だった。
私は、何も言わなかった。
昨日の夕方、黒いマントの裾についていた草の種を、思い出しただけだった。
春日井さんは、私の顔を、見た。
見て、それから、平らな声で言った。
「あなたは中で何か置いてきた顔をしているわね。答えを置いてくると人は少し軽くなる。でも軽くなった分だけ戻ってからどこに立つか分からなくなる」
「……分からなくなりません」
「そう」
春日井さんは、それ以上は、言わなかった。
言わずに、研究室へ、入っていった。
入る前に、扉の取っ手に手をかけたまま、一度だけ、振り返った。
「私は何も置いてこないわ。選ばないから置く場所も選ばない」
扉が、閉まった。
置く場所を、選ばない人。
私は、今、木賀峰さんの紙の上に、何かを置いてきた。座っている、という答えを。
置いてきたのに、少しも、軽くならなかった。
置いてきたものは、紙の上にもあって、私の中にも、まだ、あった。
答えというのは、置いてきても、なくならないものらしかった。
廊下の先の窓際に、彼が座っていた。
床に、直に座っていた。膝を抱えて、窓の外の山を見ていた。
私の番の前が、彼の番だった。
「何を訊かれたの」
私は、彼の、一つ空けた場所に立った。
「死について、どう考えてるか」
「同じね」
「同じ質問を、全員にしてるんだろうね。答えの違いを、集めてるんだ」
「あなたは、何と答えたの」
彼は、少しだけ、考える顔をした。
「死ぬのは、怖くない。死なれるのが、怖い。……そう答えた」
死なれるのが、怖い。
五月に、三人が死んだ。六月に、たくさんの人が死んだ。七月に、一人が、別の人の身代わりに死んだ。
この人の周りで、人が死ぬ。
この人は、それを、ずっと、怖がっていたのかもしれなかった。
「木賀峰さんは、何て」
「面白い、って。死なれるのが怖い人は、死なない人に、一番憧れるんだって。……憧れてるつもりは、ないんだけどね」
彼は、窓の外を見たまま、続けた。
「昨日の、姫ちゃんの答え。……死ぬのは、師匠が決めることです、って」
「聞いたわ。紫木さんから」
「ぼくは、何も決めてないのにね。決めてないのに、あの子は、ぼくに決めさせようとする。……昔の師匠にも、そうしてたんだと思う。決めてもらって、その通りに動く。動いた先で、何が起きても、師匠のせいにできる」
「それは、あなたの推測でしょう」
「推測だよ。戯言だ」
彼は、少しだけ笑った。
「六月の車の中で、姫ちゃんに訊かれてたね。師匠はいましたか、って。……あの人のこと、今なら、師匠って呼べる?」
あの時も、彼は、後ろの座席で、黙っていた。
「……師匠だったのかもしれないわ」
彼が、少しだけ、こちらを向いた。
彼は、それ以上、訊かなかった。あの人がどんな人だったのかは、この夏までに、もう、何度も話していた。
だから、私の方から、言った。
「何も決めてくれない人だった」
私は、窓の外の山を見た。
「座れ、降りるな、と言って、あとは、何も。どこに座るのかも、どう座るのかも。……決めてもらえなかったから、全部、自分で決めるしかなかった」
彼は、しばらく、黙っていた。
それから、小さく言った。
「いい師匠だね」
「そうかしら」
「ぼくなら、そういう師匠がよかった。……決めてもらうと、決めてくれた人がいなくなった時に、どこにも座れなくなるから」
決めてくれた人が、いなくなった時。
紫木さんの、昔の師匠は、もういない。
いないから、紫木さんは、彼を、師匠と呼ぶ。
彼は、たぶん、それを知っている。知っていて、師匠と呼ばれるままにしているように見えた。
「あなたは、紫木さんに、何か決めてあげたことがあるの」
彼は、答えなかった。
答えないまま、窓の外を見ていた。
山の緑が、風に揺れていた。
春日井さんの番のあいだ、庭の古いベンチで、紫木さんと円さんが、並んで座っていた。
並んで、と言っていいのかどうか、迷った。二人のあいだに、一人分の隙間が、空いていた。
紫木さんは、問題集を、膝の上に開いていた。
円さんは、その問題集を、横から覗き込んでいた。
「ちっぱー、これ、読めますか」
紫木さんが、問題集の一行を、指さした。
「……覆水盆に返らず。こぼれた水は、お盆には戻らねえって意味だ。終わったことは、元に戻らねえ」
「ちっぱー、すごいです!」
「八百年生きてりゃ、ことわざくらい、覚える。……ことわざってのは、だいたい、あたしより若い」
円さんは、少しだけ、得意そうに鼻を鳴らした。
紫木さんは、問題集の余白に、覆水、と書いた。
書いてから、首を傾げた。
「でも、こぼれた水、拭いたら、また使えるです」
「拭いた水は、お盆の水じゃねえ。雑巾の水だ」
「雑巾の水も、水です」
円さんは、口を開けて、何か言いかけた。
言いかけて、やめた。
やめて、それから、腹を抱えて、笑い出した。
「ははっ、そりゃそうだ。……雑巾の水も、水だな。チビ、お前、昔の誰かより、ずっと、ましなこと言う」
昔の誰か。
円さんの口からその言葉が出る時は、たぶん、いつも、一人のことを指しているのだろう、と思った。
紫木さんは、褒められたことだけを受け取って、嬉しそうに、問題集の余白に、雑巾、と書き足した。
覆水と、雑巾。
こぼれたものは、戻らない。戻らないけれど、拭けば、別の水になる。
私は、待合室の窓から、それを、見ていた。
二人のあいだの、一人分の隙間に、夏の日差しが、まっすぐ、落ちていた。
夕方、帰りのワゴンに乗る前に、円さんが、玄関の前で、私を呼び止めた。
「おい、堀北」
「はい」
「約に、何て答えた」
「……座っている、と」
円さんは、少しだけ、目を細めた。
「待ってる、じゃなくて」
「待っている、と言うと、来ない時に、がっかりするので」
円さんは、黙った。
黙って、首の鍵を、服の上から、握った。
「……あたしが、昨日、言ったことじゃねえか。来ねえ奴を待つ方が、楽だって。がっかりしなくて済むって」
「円さんは、待っている、と言います。がっかりする方を、選んでいる」
円さんの指が、鍵の上で、止まった。
止まって、それから、乾いた声で、笑った。
「……生意気な口だな、お前」
円さんは、玄関の扉を、閉めた。
閉めて、鍵を、かけた。
かける音が、昨日より、少しだけ、ゆっくりだった。
「明日も、来るんだろ」
「来ます」
「じゃあ、明日の朝も、玄関として、開けてやる」
円さんは、それだけ言って、ワゴンの助手席に、乗った。
乗ってから、窓の外の、診療所を、一度だけ、振り返った。
私たちを送ったあと、ワゴンは、また山へ戻る。戻る家なのに、円さんは、毎夕、こうして振り返るのだろう。
誰も残っていない家の鍵を、首から下げている人の、振り返り方だった。
二日目の夜、京都に戻ると、骨董アパートの前に、誰かが立っていた。
外灯の下だった。
男だった。たぶん、男だった。髪が長く、背は高くなかった。黒いマントを羽織っていた。マントの下で、両腕が、革のベルトで、体に縛りつけられていた。昨日の朝、理澄さんが着ていたのと、よく似た格好だった。
理澄さんのベルトは、留められていなかった。この人のベルトは、きつく、留められていた。
縛られた両腕は、体の前で、交差していた。
交差した腕の、両の手のひらが、少しだけ、開いていた。
開いた手のひらが、外灯の光の中で、ひどく、白かった。
何も持っていない手だった。刃物も、糸も、何も。
何も持っていない手が、この場のいちばん危ないものだと、なぜか、分かった。
紫木さんの指が、開きかけていた。糸を持っている指が。
糸を持っている指が、何も持っていない手の前で、震えていた。
持っているものが、持っていないものに、負ける。
それが、どういう強さなのかを、私は、知らなかった。
知らないまま、その白い手のひらから、目を離さなかった。
似ていたのは、服だけではなかった。
顔が、似ていた。
理澄さんの顔から、笑いを全部抜いて、代わりに、刃物を一本入れたような顔だった。
車から降りた彼が、足を止めた。
紫木さんが、彼の前に、すっと出た。
さっきまで、車の中で眠っていた子とは、別人の動きだった。指先が、少しだけ、開いていた。
春日井さんは、無表情のまま、男を見ていた。
私は、紫木さんの、一歩後ろに立っていた。
「よう」
男が、言った。
乾いた声だった。喉の奥で、何かを引き裂くような声。
「妹を、探してる」
「妹」
彼が、訊き返した。
「黒いマントの、うるさいの。名探偵だとか言って、人の話を聞かねえやつ。……ここらで、拾われたって聞いた」
理澄さんのことだった。
彼は、少しだけ、黙った。
黙ってから、言った。
「見てないな」
嘘だった。
二階の、彼の部屋の窓は、暗かった。暗い窓の内側に、理澄さんがいるはずだった。鍵をかけて、留守番をさせたはずの部屋だった。
男は、彼を見ていた。
それから、紫木さんを見た。紫木さんの、開きかけた指先を見て、口の端を、大きく吊り上げた。
「ぎゃは。……曲絃糸か。澄百合の」
紫木さんの指が、ぴくりと動いた。
「やめとけ。今夜は、仕事じゃねえ。仕事じゃねえ時に殺すと、あとで、帳尻が合わなくなる」
男の目が、最後に、私を見た。
刃物の目だった。
六月、西条さんの刃物の前で、私は動かなかった。あの時の西条さんの目は、幼くて、ぼんやりしていて、どこにも焦点が合っていなかった。
この人の目は、刃物を持っていなかった。
目そのものが、刃物だった。
私は、動かなかった。
「……あんた」
男が、言った。
「殺し屋の前で、震えねえのな」
「震えたら、何か変わるの」
言ってから、言うべきではなかったと思った。
男は、一瞬だけ、目を見開いた。
それから、腹を抱えて、笑った。
「ぎゃはははは。変わんねえよ。何にも変わんねえ。……いいな、あんた。殺す理由がねえ顔だ。殺す理由がねえ奴は、殺しても、つまんねえ」
男は、笑いながら、背を向けた。
背を向けて、外灯の外へ出ていった。
出ていく前に、一度だけ、振り返った。
「妹を見かけたら、言っといてくれ。兄貴が探してたってな。……
足音が、夜の中へ消えた。
紫木さんの指が、ゆっくりと、閉じた。
閉じた指が、少しだけ、震えていた。
「……師匠」
紫木さんが、小さく言った。
「あのお兄さん、強いです。姫ちゃんより、ずっと」
「知ってる」
彼は、二階の、暗い窓を見ていた。
「明日も、行くの」
私が訊いた。
「行く。行くって言ったから」
彼は、それだけ言って、階段を昇っていった。
一段ごとに、板が鳴った。
鳴る階段は、昇る人間の数を、数えている。
その夜、骨董アパートの階段は、いつもより、一人分多く鳴ったような気がした。
鳴り終わる前に、道の向こうから、エンジンの音が近づいてきた。
低い、獣のような音だった。
赤い車が、骨董アパートの前に、滑り込んできた。
屋根のない、真っ赤な車。
運転席から、赤い人が、身を乗り出した。
「よう。……今、匂宮の兄貴が、ここに来てたろ」
潤さんだった。
階段の途中で、彼が、足を止めた。紫木さんが、階段の下で、目を丸くした。
「どうして、分かるんですか」
彼が訊くと、潤さんは、鼻を鳴らした。
「空気が、まだ、ぴりぴりしてんだよ。……あいつが通ったあとは、いつもこうなんだよなー、これが。呼ばれてないけど、来ちゃったぜ」
呼ばなくても来る、と、六月に、この人は言った。
潤さんは、エンジンを切らずに、ハンドルに腕を乗せた。
「いーたん。あいつ、何て言ってた」
「妹を探してる、って。黒いマントの、名探偵だとか言ってる」
「ああ、理澄だよ、それ」
潤さんは、二階の暗い窓を、ちらりと見上げた。
見上げて、何も言わずに、目を戻した。
あの窓について、何かを知っているのだと思った。
「匂宮ってのはな」
潤さんは、言った。
「殺し屋の家だよ。殺し名の、第一位。頼まれりゃ、誰でも殺す。殺しは仕事で、仕事は、正しく、奇術みたいにやる。……匂宮雑技団、って自分たちで名乗ってんだぜ」
雑技団。
殺しを、芸のように。
「本家と、分家があってさ。分家だけで、五十いくつ。……で、本家の連中は、たいてい、兄弟か姉妹の二人一組で、仕事すんだよ。生まれる前から、そういうふうに、作られてる」
作られている。
七月の山の中で、三好さんは、子どもを一から作り直す、と言った。
「あの兄妹は、一つの体に、二人で入ってる。……ってことに、なってる」
「なってる、って」
彼が訊くと、潤さんは、肩をすくめた。
「奇術だって言ったろ。種を明かす手品師は、いねえよ。……で、片方が、調べる係。もう片方が、殺す係。……理澄が調べて、出夢が殺す。理澄は、人を殺す力が、からっきし。出夢は、殺す以外の力が、からっきし。よくできてんだろ」
潤さんは、少しだけ、笑った。
笑い方が、苦かった。
「出夢はな、殺すのは、一日一時間って決めてんだよ。両腕を縛ってるのも、そのため。……縛っとかないと、一時間じゃ済まないんだぜ、あいつ」
両腕を、体に縛りつけていた、革のベルト。
きつく、留められていた。
理澄さんのベルトは、留められていなかった。
二つで一つ。片方が縛られていて、片方が縛られていない。
「出夢が、ここに来たってことは」
彼が、言った。
「仕事が、近くにあるってこと?」
潤さんは、答えなかった。
答えないまま、紫木さんの方を見た。
「姫ちゃん。……この先の、木賀峰の仕事。あたし、別の仕事が入っちゃってさ、行けないんだよ。だから、頼むぜ。いーたんの護衛」
紫木さんの背筋が、すっと、伸びた。
「任せてください! 姫ちゃん、護衛、得意です!」
「知ってるって」
潤さんは、それから、私を見た。
三白眼が、外灯の下で、少しだけ、細くなった。
「りんねちゃんも、行くんだろ」
「行きます」
「そっか」
潤さんは、それだけ言った。
降りろ、とも、来るな、とも、言わなかった。
言わないまま、潤さんは、一度だけ、二階の暗い窓を見上げた。
見上げて、片方の口の端を、少しだけ、上げた。
暗い窓のカーテンが、ほんの少しだけ、揺れた気がした。
気がしただけかもしれなかった。
潤さんの赤い車が、夜の道を、走り去っていった。
赤い車の音が消えてから、彼が、階段の途中で、小さく言った。
「……潤さん、何か知ってたね。あの窓のこと」
「ええ」
「知ってて、言わなかった。ぼくらにも、たぶん、出夢くんにも」
彼は、暗い窓を、見上げた。
「言わないで、守ってる人が、ここには、多すぎる」
多すぎる。
潤さんは、知っていることの全部は、言わなかった。彼は、出夢さんに、見てないな、と嘘をついた。紫木さんは、指を開きかけて、閉じた。
私は、木賀峰さんに、五月に何も見ていない、と言った。
言わないことで、守っているものが、それぞれに、あった。
「多すぎると、困るの」
「困る。……誰が何を守ってるのか、分からなくなる。分からなくなると、守ってるつもりで、別の何かを、壊す」
彼は、それきり、黙った。
黙ったまま、階段を、昇りきった。
二階の廊下で、彼が、自分の部屋の扉の前に立った。
鍵を出す前に、扉の取っ手を、そっと回した。
回った。
鍵は、かかっていなかった。
彼は、少しのあいだ、取っ手を握ったまま、動かなかった。
それから、ゆっくりと、扉を開けた。
部屋の中は、暗かった。
誰も、いなかった。
留守番をしているはずの子が、いなかった。窓が、半分、開いていた。
夜風が、カーテンを、少しだけ、揺らしていた。
「……理澄ちゃん」
彼が呼んでも、返事はなかった。
彼は、窓の外を見た。外灯の下には、もう、誰も立っていなかった。
「……散歩、かな」
散歩、と彼は言った。言っただけだった。
彼は、扉の内側に入って、畳の上に、座った。開いた窓を、閉めなかった。
私は、廊下に立ったまま、扉を、閉めなかった。
閉めずに、廊下に背を向けた。
階段を降りる時、板が、一段ずつ鳴った。
鳴る階段は、降りる人間の数も、数えている。
降りきったところで、一階の、紫木さんの部屋の扉が、少しだけ、開いているのに気づいた。
隙間から、紫木さんが、こちらを見ていた。
「ほりきたさん。……理澄さん、お部屋に、いたですか」
「いなかったわ。散歩じゃないか、って」
「……そうですか」
紫木さんは、それだけ言って、扉を閉めかけた。
閉めかけて、止まった。
「姫ちゃん、明日、ちゃんと護衛するです。潤さんに、頼まれたので」
閉まった扉の向こうで、指を、一本ずつ、鳴らすような、小さな音がした。
糸を持つ指を、明日のために、ほぐしている音だと思った。
ほぐされた指が、明日、何を持つのかは、分からなかった。分からないまま、私は、骨董アパートを出た。
自分の部屋へ帰る道を、私は、一人で歩いた。
骨董アパートから、私の部屋までは、歩いて二十分ほどだった。外灯の少ない道だった。少ない外灯の、一本ごとに、自分の影が、前に伸びて、後ろに縮んだ。
さっきの男の目を、思い出していた。
殺す理由がねえ顔だ、と言われた。
殺す理由がない顔。それは、褒め言葉ではなかった。かといって、貶されたのでもなかった。あの男にとって、私は、ただ、刃物を向ける先に入っていない、というだけのことだった。
入っていない。
五月、佐倉さんは、路地で私を見た。フラッシュのあとの暗がりで、目が合った。佐倉さんは、私を、撮らなかった。カメラを向けなかった。
あれも、たぶん、同じことだった。私は、佐倉さんの向ける先に、入っていなかった。
入っていないことに、あの時、私は、ほっとした。
今夜も、少しだけ、ほっとしていた。
ほっとしている自分の影が、外灯の下で、また前に伸びた。伸びた影は、どこまで行っても、誰の足元にも届かなかった。
届かない場所にいることを、安全と呼ぶのか、遠いと呼ぶのか。
部屋の鍵を開けながら、私は、それを決めなかった。決めないまま、鍵を閉めた。閉めた鍵の音が、狭い部屋に、一度だけ響いた。