待つ、という字は、行く人の横に、寺と書く。
寺は、昔は、役所のことだったという。役所の前で、順番が来るのを、行く人が、じっと立って待っている。
待っている人は、行きたい人だ。行きたいのに、行けないから、待つ。
行きたくない人は、待たない。ただ、そこに、いるだけだ。
八月十二日の朝、骨董アパートの前で、白いワゴンを待った。
待っているあいだ、アパートの裏の空き地で、隼さんが、ダンベルを上げていた。
ふっ、ふっ、と、息の音だけがした。
上げては、下ろす。上げては、下ろす。
数えているのかどうかは、分からなかった。数えていないようにも、数えているようにも、見えた。
二階の窓が、開いた。
黒いマントの少女が、顔を出した。
「すずねちゃん、おはようっ!」
声は、いつもの高さに戻っていた。
戻っていたけれど、マントの合わせ目から覗くベルトが、今朝は、一本だけ、留められていた。
一昨日の朝は、一本も、留められていなかった。
「理澄さん。……ベルトを」
「あ、これっ?」
理澄さんは、自分の胸元を見下ろした。
「お兄ちゃんが来た次の日は、一本だけ、留めることにしてるのっ。……お兄ちゃんの分」
お兄ちゃんの分。
兄は、両腕を、きつく縛っていた。殺すのを、一日一時間にするために。
妹は、一本だけ、留めていた。兄の分として。
兄と妹の、片方が縛られている分だけ、もう片方も、少しだけ、縛る。
「すずねちゃん、今日も、行ってらっしゃいっ! 名探偵は、今日は、ほんとに、留守番っ!」
理澄さんは、窓から、大きく手を振った。
空き地で、隼さんが、ダンベルを下ろした。
下ろして、二階の窓を見上げた。
見上げて、何も言わなかった。
言わないまま、また、ダンベルを、上げた。
ふっ、と息を吐く音が、さっきより、少しだけ、強かった。
白いワゴンが、角を曲がってきた。
三日目の朝、研究所へ向かう車の中で、
いつもなら、乗った瞬間から、彼の肩に頭を乗せて、眠ってしまう子だった。
今朝は、彼の肩に頭も乗せずに、窓の外を見ていた。
膝の上で、両手の指を、組んだり、ほどいたりしていた。
「紫木さん」
後ろの座席の、窓際から、私は、紫木さんの方を見ずに呼んだ。
「……はい」
「指を、どうかしたの」
紫木さんの指が、止まった。
止まって、少しのあいだ、何も言わなかった。
「昨日の夜、震えたです」
小さな声だった。
「姫ちゃん、あのお兄さんの前で、指が震えたです。糸を出そうとして、出せなかったです。……出しても、届かないって、指の方が先に分かっちゃったです」
「怖かったのね」
「怖かったです」
紫木さんは、正直に言った。
「姫ちゃん、怖いの、あんまり知らなかったです。澄百合では、姫ちゃんより強い子、ほとんどいなかったので。いても、子荻ちゃんが、全部決めてくれたので。決めてもらえる時は、怖くないです」
決めてもらえる時は、怖くない。
昨日、廊下で彼が言っていたことと、同じだった。決めてもらって、その通りに動く。動いた先で何が起きても、決めた人のせいにできる。
「昨日は、師匠、何も決めてくれなかったです。見てないな、って言っただけで。……だから、姫ちゃん、自分で決めなきゃいけなかったです。決めようとしたら、震えたです」
紫木さんは、組んだ指を、ぎゅっと握った。
「ほりきたさんは、震えなかったです」
「……」
「あのお兄さんに、震えねえのな、って言われてたです。姫ちゃん、すぐそばで聞いてたです。どうして、震えないですか?」
どうして、と訊かれても、答えはなかった。
震えなかったのではない。震える場所を、もう、どこかに置いてきたのかもしれなかった。卓の上に。あの日曜日の、三度振り込んだ席に。
「震えなかったのは、強いからではないわ」
私は、言った。
「あの男の前で、私には、出すものが何もなかった。出すものがない人間は、届くかどうかを、考えなくていいの。……あなたは、出せるものを持っているから、震えたのよ」
紫木さんは、しばらく、黙っていた。
それから、小さく笑った。
「持ってるから、震えるですか」
「たぶん」
「じゃあ、姫ちゃん、持ってないふりをすれば、震えないですか」
「ふりは、指にはできないわ」
紫木さんは、自分の指を見た。
細い指だった。六月に、廊下じゅうに糸を張った指だった。
「……ほんとですね。指は、嘘が下手です」
窓の外を、緑の山が流れていた。
運転席の
後ろの座席の端で、
その春日井さんが、窓を見たまま、言った。
「震えるのは動物の仕事」
紫木さんが、春日井さんを見た。
「逃げるか戦うか決める前に体が先に震える。震えるのは生き残るための仕組み。震えない動物はだいたい食べられる」
春日井さんの声は、天気を言うのと、同じ高さだった。
「ほりきたさん、食べられちゃうですか?」
紫木さんが、目を丸くした。
「食べられていない」
春日井さんが、答えた。
「昨日食べられなかった。食べる側が食べる理由がないと言った。震えない動物が食べられずに残ったのを私は初めて見た」
春日井さんは、それきり、何も言わなかった。
初めて見た、と言った。
動物の専門家が、初めて見た、と。
私は、前を向いた。
運転席で、木賀峰さんの指が、ハンドルの上で、一度だけ動いた。何かを書きつけたくなった指の動きに、見えた。
彼は、後ろの座席の、紫木さんの隣で、何も言わなかった。
何も言わないまま、紫木さんの握った指の上に、自分の手を、一度だけ置いた。
置いて、すぐに、離した。
紫木さんの指は、それで、ほどけた。
決めてあげたのではなかった。何も決めないまま、手を置いただけだった。
それで足りる日も、あるのかもしれなかった。
診療所に着くと、円さんが、首の鍵で、玄関を開けた。
今朝も、私たちが降りてから、開けた。
玄関として、開けた。
午前は、春日井さんの三度目の番だった。
春日井さんが研究室に入っているあいだ、私は、待合室の長椅子にいた。紫木さんは、私の、一つ空けた隣に座っていた。
一つ、空けて。
昨日までは、紫木さんは、彼の隣に座っていた。肩に頭を乗せて。
今日は、私の一つ空けた隣にいた。
彼は、待合室の窓際に、立っていた。
紫木さんは、膝の上で、指を組んだり、ほどいたりしていた。車の中と、同じ動きだった。
「紫木さん」
「……はい」
「今日は、隣に座らないのね」
紫木さんは、少しだけ、黙った。
「師匠の隣に座ると、師匠が、姫ちゃんのこと、守ろうとするです」
紫木さんは、窓際の彼の背中を、ちらりと見た。
「護衛は、守られちゃ、だめなんです。……だから、今日は、一つ空けて、座るです。ほりきたさんみたいに」
ほりきたさんみたいに。
真似を、されていた。
「一つ空けると、守られないの」
「守られないです。……でも、見えるです。師匠の背中、全部」
紫木さんは、指を組んだ。
組んだまま、彼の背中を、見ていた。
見ているあいだ、指は、動かなかった。
一つ空けた場所から、隣の人の背中を、全部見る。
私が、四月から、していたことだった。
それを、この子は、護衛のために、している。
私は、何のために、していたのだろう。
答えは、たぶん、紫木さんの方が、先に持っていた。
研究室の扉が開いて、春日井さんが出てきた。
出てきて、待合室を見回して、それから、私の前で、立ち止まった。
「死なない人の隣に座り続けるかと訊かれた」
春日井さんは、平らな声で言った。
「あなたも訊かれるわきっと。私は座り続けないと答えた。逃げるから。死なない人の隣にいると逃げる理由がなくなる。それは困る」
逃げる理由が、なくなる。
「逃げる理由が、必要なのですか」
「必要よ。逃げる人間は逃げる理由がないと立ち止まってしまう。立ち止まった逃げる人間はただの止まった人間よ」
春日井さんは、それだけ言って、待合室の窓辺へ行った。
窓の外の、膝の高さの草を、見ていた。
見ているうちに、少しだけ、首を傾げた。
「あの草の中に誰かいるわ。昨日も今日も」
紫木さんの指が、膝の上で、ぴくりと動いた。
彼が、窓際で、少しだけ、背筋を伸ばした。
「誰か、というのは」
私が訊くと、春日井さんは、首を傾げたまま、答えた。
「分からない。犬がいれば分かるけど犬は置いてきた。匂いの分からない私にはただの草の揺れ」
春日井さんは、窓から離れた。
離れて、長椅子に、座った。
座ってから、もう一言だけ、言った。
「名探偵は付いてくるものよ。鍵をかけても付いてくる」
彼が、窓の外の草を、じっと見ていた。
見ているうちに、何も浮かんでいない顔の奥で、何かが一つ、並べ替えられたように見えた。
並べ替えられたものを、彼は、口にしなかった。
口にしないことも、内緒の一つなのだと思った。
昼過ぎ、私の二度目の番が来た。
研究室の窓の外に、山の緑が見えた。昨日と同じ部屋だった。
木賀峰さんは、昨日と同じ椅子に、座っていた。
机の上の紙の束が、昨日より、少しだけ厚くなっていた。
「今日は、一つだけ、伺います」
木賀峰さんは、鉛筆を取らなかった。
「もし、あなたの隣に、死なない人が座っていたら。……あなたは、その人の隣に、座り続けますか」
私は、すぐには答えなかった。
死なない人。
円さんのことを訊いているのだと思った。
思ってから、違うかもしれない、と思った。
木賀峰さんは、円さんの話をする時、いつも、円さんを、くちは、と呼んだ。今は、死なない人、と言った。
「……座り続けないと思います」
「なぜ」
「隣には、座らないからです。一つ、空けます」
木賀峰さんは、少しだけ、目を細めた。
「では、一つ空けた場所に、死なない人が座っていたら」
「それなら」
私は、少しだけ、考えた。
「たぶん、座り続けます。……隣ではないので、その人が死なないことは、私の邪魔になりません」
木賀峰さんは、黙った。
黙って、それから、鉛筆を取った。
取って、紙に、短く、何かを書いた。
書いた紙を、裏返した。
「ありがとうございました」
木賀峰さんは、言った。
「一つ空けて座る人は、隣に座る人より、長く座っていられるのかもしれませんね。……私は、十年、くちはの隣に、座ってしまいました」
隣に、座ってしまった。
この人の声に、初めて、後悔に似た形が、混じっている気がした。
部屋を出る時、壁の写真を、見た。
狐の面の、白衣の人。
この人も、誰かの隣に、座っていたのだろうか。
それとも、いつも、一つ空けて、物語の終わりを、見ていたのだろうか。
研究室を出ると、紫木さんが、廊下の窓際で、指を見ていた。
自分の、両手の指を。
開いて、閉じて、また開いて。
「紫木さん」
「あ、ほりきたさん。……終わったですか」
「終わったわ」
紫木さんは、指を開いたまま、私の方を見た。
「姫ちゃんの指、昨日の夜から、ちょっと、変です」
「変」
「糸を持ってないのに、持ってる形に、なっちゃうです。……ちっぱーに言われた通りです。巻いてた指は、巻いてた形のまま、固まる」
紫木さんは、指を、ゆっくり、握った。
握った指を、胸の前で、もう一方の手で、包んだ。
包んで、少しだけ、笑った。
「固まったのは、外の世界で、ゆっくり、ほどくです。国語みたいに。一個ずつ。……急がば回れ、じゃなくて、急がば巻き戻せ、です」
一個ずつ、ほどく。
私は、何も言わなかった。
言わずに、紫木さんの包んだ手の上に、自分の手を、一度だけ、置いた。
置いて、すぐに、離した。
紫木さんは、目を丸くした。
それから、にっこりと笑った。
「ほりきたさんの手、重いです」
「そう」
「重いけど、いやじゃないです」
それから、紫木さんは、少しだけ、声を落とした。
「ほりきたさん。……師匠、昨日、あのお兄さんに、見てないなって、言ったです」
「言ったわね」
「嘘でした」
「嘘だったわ」
「師匠の嘘は、姫ちゃん、分かるです。……分かるけど、何も言わなかったです。護衛は、師匠の嘘を、守るのも、仕事なので」
紫木さんは、包んだ指を、ほどいた。
ほどいて、窓の外の、草の揺れる場所を、見た。
「でも、嘘で守ったものは、本当のことが来た時に、いちばん先に、壊れるです。……前の師匠が、そう言ってたです」
前の師匠。
紫木さんが、前の師匠の言葉を口にするのを、初めて聞いた。
「前の師匠は、どんな人だったの」
紫木さんは、少しだけ、首を傾げた。
傾げたまま、にっこり笑った。
「内緒です! 師匠の真似です!」
師匠の真似。
一昨日、彼は、木賀峰さんに何と答えたのかを訊かれて、内緒、と言った。
紫木さんは、それを、そのまま、借りていた。
借りた言葉で、前の師匠のことを、しまった。
しまわれたものが何なのかを、私は、それ以上、訊かなかった。
訊かないことも、たぶん、この子の真似の、真似だった。
三時過ぎに、円さんが、また握り飯を作った。
今日は、木賀峰さんも、台所に来た。
木賀峰さんは、皿の上の握り飯を、一つ取った。
取って、一口かじって、眉を寄せた。
「くちは。……塩が、多すぎます」
「山の上は汗かくっつったろ」
「私は、汗をかきません。研究室にいますから」
「じゃあ食うな」
「食べます」
木賀峰さんは、もう一口、かじった。
かじりながら、円さんの方を、見なかった。
円さんも、木賀峰さんの方を、見なかった。
見ないまま、二人は、台所の、流しの前と、食器棚の前に、立っていた。
一つ分、離れて。
十年、仲良くないまま、同じ部屋で寝ている二人の、距離だった。
仲良くない二人が、一つの皿の握り飯を、同じように、しょっぱい、と思いながら食べている。
紫木さんが、私の袖を、そっと引いた。
「……ちっぱーと木賀峰さん、ほんとは、仲良しですか」
小声だった。
「分からないわ」
「姫ちゃん、仲良しだと思うです。……仲良くない人は、同じ握り飯、食べないです」
紫木さんは、握り飯を、もう一つ取った。
取って、円さんの方へ、差し出した。
「ちっぱーも、食べてください!」
円さんは、紫木さんを見た。
見て、それから、差し出された握り飯を見た。
自分で作った、塩の多すぎる握り飯を。
「……あたしは、食っても食わなくても、同じなんだよ」
「同じなら、食べてください。同じなら、食べた方が、おいしいです」
円さんは、黙った。
黙って、それから、握り飯を、受け取った。
一口、かじった。
かじって、顔をしかめた。
「……しょっぱ」
台所に、木賀峰さんの、小さな笑い声がした。
初めて聞く、笑い声だった。
予測していなかったことに笑う人の、笑い声に聞こえた。
円さんは、もう一口、かじった。
「……しょっぱいもんは、しょっぱいな。八百年たっても」
三日目の夕方、私は、庭で、円さんと二人になった。
庭は、荒れていた。草が、膝の高さまで伸びていた。伸びた草の中に、古い木のベンチが一つ、残っていた。
円さんは、そのベンチに、片膝を立てて座っていた。
夏なのに、長袖だった。汗を、一滴もかいていなかった。
私は、ベンチの、一つ空けた場所に座った。
円さんは、それを見て、鼻を鳴らした。
「一つ空けんのな、お前。チビと同じだ」
「紫木さんも、ですか」
「お前が約の部屋に入ってるあいだに、ここで、一人分空けて座ってた。……お前の真似だろ」
真似。
紫木さんが、私の座り方を、真似していた。
待合室だけでは、なかった。
「真似されんのは、嫌か」
「……分かりません」
「だろうな。真似された奴は、たいてい、分かんねえんだ。自分の座り方が、外からどう見えてるのか」
円さんは、立てた膝の上に、顎を乗せた。
「死なねえ、と、死ねねえ、は違うんだよ」
不意に、円さんが言った。
「約は、あたしのことを、死なねえ人間って言う。違う。死ねねえんだ。……死なねえのは、選んでる奴。死ねねえのは、選べねえ奴。あたしは、選べねえ方」
円さんは、首の鍵を、服の上から握った。
「お前は、どっちだ」
「私は、死にます。いつか」
「そういう意味じゃねえ」
円さんは、私を、横目で見た。
古い目だった。
「お前、立たねえ顔してんだよ。……一つ空けて座って、空けたまんま、動かねえ。立たねえってのは、選んでることか。選べねえことか」
立たない。
それは、私が胸の中で、降りない、と呼んできたものだった。
その言葉を、この人には、一度も言っていなかった。言っていないのに、この人は、私の座り方から、それを見た。
「……選んでいる、つもりです」
「つもり、な」
円さんは、少しだけ、笑った。
「八百年見てきて、選んでるつもりの奴は、たいてい、どっかで、選べなくなってる。……選んでる、と思ってる間は、まだ、平気だけどな」
円さんは、膝から顎を上げた。
「お前に、それを教えた奴がいるだろ」
私はいつだって見抜かれる。
「顔の後ろに、いる。……先生と、同じだ。先生の後ろにも、何かがいた。あたしには、見えねえ何かが」
先生。
円さんの口から出るたびに、一人のことを指す言葉。
「その人の後ろには、何がいたのですか」
「知らねえよ。見えねえっつったろ」
円さんは、立ち上がった。
立ち上がって、草の中に、一歩、踏み出した。
踏み出して、振り返った。
「でもな、堀北。……後ろに何かがいる奴は、たいてい、前に進むのが速い。後ろから、押されてるからな」
円さんは、草の中を、建物の方へ歩いていった。
歩きながら、一度だけ、立ち止まって、言った。
「先生も、速かった。速すぎて、あたしを、置いてった」
置いていかれた人は、置いていった人より、遅いのだろうか。それとも、置いていかれた場所に、ずっと、座っているだけなのだろうか。
それきり、振り返らなかった。
私は、ベンチに、一人で座っていた。
一つ空けた場所が、そのまま、空いていた。
紫木さんが、私が研究室にいたあいだに、ここに一人分空けて座っていた、と円さんは言った。
私の真似を、して。
真似された座り方が、外から、どう見えているのか。
私には、まだ、分からなかった。
草を踏む音がして、彼が、建物の方から歩いてきた。
ベンチの前で、少しだけ、迷うように立ち止まった。
それから、私の、一つ空けた場所に、座った。
円さんが座っていた場所だった。
「ちっぱーと、話してた?」
「円さんと、話していたわ」
「くすぐってえって、言われなかった?」
「言われたわ。初日に」
彼は、少しだけ、笑った。
笑ってから、草の中の、どこでもないところを見た。
「さっき、廊下で、ちっぱーに言われた。……お前は、来ねえ方の顔だって。来ねえのに、勝手に人のとこに来ちまう顔」
「依頼の日にも、言われていたわね」
「うん。二回目。……二回目の時は、続きがあった」
彼は、少しだけ、黙った。
「来ねえ顔の奴が来ると、待ってる方は、困るんだって。来ると思ってなかった奴が来ると、待ってた奴が来なかったことが、はっきりしちまうから」
待っていた人が来なかったことが、はっきりする。
円さんは、八百年、待っていた。
その玄関に、十年ぶりに、来た人たちがいた。
来た人たちは、待たれていた人ではなかった。
「だから、ぼくらは、早く帰った方がいいのかもしれない」
彼は、言った。
「一週間も、ここにいたら、円さんは、毎朝、玄関として扉を開けることに、慣れちゃう。……慣れたあとで、ぼくらがいなくなったら、また、習慣で開ける朝に戻る」
戻る方が、辛い。
一度、玄関として開けた扉を、また、習慣で開ける朝。
「……それでも、一週間、来るのでしょう」
「来るよ。約束したから。……みいこさんの骨董の分だけ」
彼は、立ち上がった。
立ち上がって、草の中に、一歩、踏み出した。
円さんと、同じ踏み出し方だった。
「堀北さん。……来ねえ顔と、来る顔。君は、どっちだと思う」
「どちらでもないわ」
「どうして」
「来ているのではなく、座っているだけだから」
彼は、少しだけ、目を見開いた。
それから、声を立てずに、笑った。
「ずるいね、その答え」
「よく言われるわ」
彼は、建物の方へ、歩いていった。
一度も、振り返らなかった。
振り返らない背中を、私は、ベンチの、一つ空けた場所から、見ていた。
紫木さんが見ていたのと、たぶん、同じ角度で。
夕方の帰りのワゴンで、紫木さんは、やっと、彼の肩に頭を乗せて、眠った。
護衛の時間が、終わったのだと思った。
骨董アパートの前で、彼と紫木さんと春日井さんが降りた。
二階の窓から、黒いマントの少女が、身を乗り出していた。
今日は、手を振らなかった。
振らずに、私たちを、見下ろしていた。
マントの裾に、草の種は、ついていなかった。
今日は、本当に、留守番をしていたのかもしれなかった。
それとも、払い落とすことを、覚えたのかもしれなかった。
「すずねちゃん」
窓から、少女が、私を呼んだ。
声が、今朝より、少しだけ、低かった。
「明日も、行くんだよねっ」
「行くわ」
「そっかっ」
少女は、それだけ言って、窓を閉めた。
閉める前に、ほんの少しだけ、何かを言いかけた。
言いかけて、やめた。
名探偵が、言いかけてやめたことを、私は、白いワゴンの窓を閉めながら、少しだけ、気にしていた。
眠っていたはずの紫木さんの指が、彼の肩の上で、一度だけ、糸を持つ形に曲がって、ほどけた。
ほどけた指は、もう、何も持っていなかった。
ワゴンが走り出してから、助手席の円さんが、振り返らずに言った。
「今の、マントのガキ。……
運転席で、木賀峰さんの肩が、ほんの少しだけ、強ばった。
「知っているのですか」
私が訊くと、円さんは、鼻を鳴らした。
「八百年いりゃ、殺し名くらい、見りゃ分かる。……匂宮だ。血の匂いがしねえ方が、今は表に出てる」
木賀峰さんは、何も言わなかった。
言わないまま、ハンドルを、両手で、握り直した。
握り直す手つきが、昨日の夕方より、少しだけ、硬かった。
《あなたがここに来るであろうことを、この私は、予測していました。》
この人は、何を、予測していたのだろう。
どこまで、予測していたのだろう。
円さんは、それきり、窓の外を見ていた。
首の鍵を、服の上から、握ったまま。
握る指の関節が、白かった。
匂宮が、近くにいる。
それを、円さんは、少しも、怖がっていない声で、言った。
怖がっていない声の奥で、指だけが、鍵を握っていた。
鍵の持ち主に、渡されたままの鍵を。
私の部屋の前で、ワゴンが止まった。
降りる時、円さんが、窓越しに、言った。
「堀北。……明日も、来んだろ」
「来ます」
「近いうちにな、たぶん、いつもと違う朝が来る」
「どうして、分かるのですか」
「分かんねえよ。……八百年いると、違う朝の前の晩の、空気の匂いだけは、分かるようになる」
円さんは、窓を、閉めかけた。
閉めかけて、止まった。
「違う朝が来ても、玄関は、あたしが開ける。……それだけは、決まってる」
窓が、閉まった。
ワゴンが、走り去った。
違う朝。
私は、部屋の鍵を、開けた。
開けながら、円さんの首の鍵の、黒ずんだ真鍮の色を、思い出していた。
鍵というのは、開けるための道具ではなく、誰が開けてよいのかを決めるための道具だと、七月に、私は思った。
円さんの鍵は、円さんだけが、開けてよいと決めていた。十年、それを、首から下げて。
違う朝が来ても、それだけは、変わらないのだと、円さんは言った。
変わらないものを一つだけ持っている人は、ほかの全部が変わっても、たぶん、立っていられる。
私にも、一つだけ、変わらないものがあった。降りない、という約束が。
それを、首から下げてはいなかった。下げなくても、外せないものだった。外せないものは、重さを、数えずに済む。数えずに済むものを、私は、この夏、いくつ持ったのだろう。
数えようとして、やめた。
数えないために、持っているのだから。数えないで持っているものの重さは、たぶん、持っている本人にしか、分からない。円さんの鍵の重さが、円さんにしか分からないように。紫木さんの指の重さが、紫木さんにしか分からないように。
部屋に戻って、灯りを点けずに、窓辺に座った。
三日分の山の空気が、まだ、服に残っていた。
紫木さんの、包んだ手の温度を、思い出した。
《ほりきたさんの手、重いです。》
《重いけど、いやじゃないです。》
重い、と言われたのは、初めてだった。
高校の三年間、私の手は、何も持っていなかった。持っていない手で、点数を数えていた。数えた点数は、紙の上にあった。手の中には、なかった。
京都に来て、私の手は、ときどき、誰かの上に置かれるようになった。
六月の澄百合の廊下で、ハンカチを縛った。七月の地下で、水を渡した。今日、紫木さんの手の上に、一度だけ。
置かれた手が、重いのだとしたら。
その重さは、どこから来たのだろう。
私は、自分の手のひらを、暗い中で、見た。
何も、持っていなかった。
持っていないのに、重い。
答えは、出なかった。
出ないまま、窓の外の、京都の灯りを見ていた。
山の中の、灯りのない診療所で、円さんは、今夜も、玄関を閉めて、鍵をかけている。
明日の朝、私たちが着いてから、玄関として、開けるために。