ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第25話 八百年(八百念)

待つ、という字は、行く人の横に、寺と書く。

 

寺は、昔は、役所のことだったという。役所の前で、順番が来るのを、行く人が、じっと立って待っている。

 

待っている人は、行きたい人だ。行きたいのに、行けないから、待つ。

 

行きたくない人は、待たない。ただ、そこに、いるだけだ。

 

 

 

 

 

八月十二日の朝、骨董アパートの前で、白いワゴンを待った。

 

待っているあいだ、アパートの裏の空き地で、隼さんが、ダンベルを上げていた。

 

ふっ、ふっ、と、息の音だけがした。

 

上げては、下ろす。上げては、下ろす。

 

数えているのかどうかは、分からなかった。数えていないようにも、数えているようにも、見えた。

 

二階の窓が、開いた。

 

黒いマントの少女が、顔を出した。

 

「すずねちゃん、おはようっ!」

 

声は、いつもの高さに戻っていた。

 

戻っていたけれど、マントの合わせ目から覗くベルトが、今朝は、一本だけ、留められていた。

 

一昨日の朝は、一本も、留められていなかった。

 

「理澄さん。……ベルトを」

 

「あ、これっ?」

 

理澄さんは、自分の胸元を見下ろした。

 

「お兄ちゃんが来た次の日は、一本だけ、留めることにしてるのっ。……お兄ちゃんの分」

 

お兄ちゃんの分。

 

兄は、両腕を、きつく縛っていた。殺すのを、一日一時間にするために。

 

妹は、一本だけ、留めていた。兄の分として。

 

兄と妹の、片方が縛られている分だけ、もう片方も、少しだけ、縛る。

 

「すずねちゃん、今日も、行ってらっしゃいっ! 名探偵は、今日は、ほんとに、留守番っ!」

 

理澄さんは、窓から、大きく手を振った。

 

空き地で、隼さんが、ダンベルを下ろした。

 

下ろして、二階の窓を見上げた。

 

見上げて、何も言わなかった。

 

言わないまま、また、ダンベルを、上げた。

 

ふっ、と息を吐く音が、さっきより、少しだけ、強かった。

 

白いワゴンが、角を曲がってきた。

 

 

 

 

 

三日目の朝、研究所へ向かう車の中で、紫木(ゆかりき)さんは、ずっと黙っていた。

 

いつもなら、乗った瞬間から、彼の肩に頭を乗せて、眠ってしまう子だった。

 

今朝は、彼の肩に頭も乗せずに、窓の外を見ていた。

 

膝の上で、両手の指を、組んだり、ほどいたりしていた。

 

「紫木さん」

 

後ろの座席の、窓際から、私は、紫木さんの方を見ずに呼んだ。

 

「……はい」

 

「指を、どうかしたの」

 

紫木さんの指が、止まった。

 

止まって、少しのあいだ、何も言わなかった。

 

「昨日の夜、震えたです」

 

小さな声だった。

 

「姫ちゃん、あのお兄さんの前で、指が震えたです。糸を出そうとして、出せなかったです。……出しても、届かないって、指の方が先に分かっちゃったです」

 

「怖かったのね」

 

「怖かったです」

 

紫木さんは、正直に言った。

 

「姫ちゃん、怖いの、あんまり知らなかったです。澄百合では、姫ちゃんより強い子、ほとんどいなかったので。いても、子荻ちゃんが、全部決めてくれたので。決めてもらえる時は、怖くないです」

 

決めてもらえる時は、怖くない。

 

昨日、廊下で彼が言っていたことと、同じだった。決めてもらって、その通りに動く。動いた先で何が起きても、決めた人のせいにできる。

 

「昨日は、師匠、何も決めてくれなかったです。見てないな、って言っただけで。……だから、姫ちゃん、自分で決めなきゃいけなかったです。決めようとしたら、震えたです」

 

紫木さんは、組んだ指を、ぎゅっと握った。

 

「ほりきたさんは、震えなかったです」

 

「……」

 

「あのお兄さんに、震えねえのな、って言われてたです。姫ちゃん、すぐそばで聞いてたです。どうして、震えないですか?」

 

どうして、と訊かれても、答えはなかった。

 

震えなかったのではない。震える場所を、もう、どこかに置いてきたのかもしれなかった。卓の上に。あの日曜日の、三度振り込んだ席に。

 

「震えなかったのは、強いからではないわ」

 

私は、言った。

 

「あの男の前で、私には、出すものが何もなかった。出すものがない人間は、届くかどうかを、考えなくていいの。……あなたは、出せるものを持っているから、震えたのよ」

 

紫木さんは、しばらく、黙っていた。

 

それから、小さく笑った。

 

「持ってるから、震えるですか」

 

「たぶん」

 

「じゃあ、姫ちゃん、持ってないふりをすれば、震えないですか」

 

「ふりは、指にはできないわ」

 

紫木さんは、自分の指を見た。

 

細い指だった。六月に、廊下じゅうに糸を張った指だった。

 

「……ほんとですね。指は、嘘が下手です」

 

窓の外を、緑の山が流れていた。

 

運転席の木賀峰(きがみね)さんは、何も言わなかった。言わないまま、バックミラーで、紫木さんを一度だけ見た。助手席の円(まどか)さんは、窓の外を見たまま、少しだけ、耳をこちらへ傾けていた。

 

後ろの座席の端で、春日井(かすがい)さんが、窓に額をつけていた。

 

その春日井さんが、窓を見たまま、言った。

 

「震えるのは動物の仕事」

 

紫木さんが、春日井さんを見た。

 

「逃げるか戦うか決める前に体が先に震える。震えるのは生き残るための仕組み。震えない動物はだいたい食べられる」

 

春日井さんの声は、天気を言うのと、同じ高さだった。

 

「ほりきたさん、食べられちゃうですか?」

 

紫木さんが、目を丸くした。

 

「食べられていない」

 

春日井さんが、答えた。

 

「昨日食べられなかった。食べる側が食べる理由がないと言った。震えない動物が食べられずに残ったのを私は初めて見た」

 

春日井さんは、それきり、何も言わなかった。

 

初めて見た、と言った。

 

動物の専門家が、初めて見た、と。

 

私は、前を向いた。

 

運転席で、木賀峰さんの指が、ハンドルの上で、一度だけ動いた。何かを書きつけたくなった指の動きに、見えた。

 

彼は、後ろの座席の、紫木さんの隣で、何も言わなかった。

 

何も言わないまま、紫木さんの握った指の上に、自分の手を、一度だけ置いた。

 

置いて、すぐに、離した。

 

紫木さんの指は、それで、ほどけた。

 

決めてあげたのではなかった。何も決めないまま、手を置いただけだった。

 

それで足りる日も、あるのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

診療所に着くと、円さんが、首の鍵で、玄関を開けた。

 

今朝も、私たちが降りてから、開けた。

 

玄関として、開けた。

 

午前は、春日井さんの三度目の番だった。

 

春日井さんが研究室に入っているあいだ、私は、待合室の長椅子にいた。紫木さんは、私の、一つ空けた隣に座っていた。

 

一つ、空けて。

 

昨日までは、紫木さんは、彼の隣に座っていた。肩に頭を乗せて。

 

今日は、私の一つ空けた隣にいた。

 

彼は、待合室の窓際に、立っていた。

 

紫木さんは、膝の上で、指を組んだり、ほどいたりしていた。車の中と、同じ動きだった。

 

「紫木さん」

 

「……はい」

 

「今日は、隣に座らないのね」

 

紫木さんは、少しだけ、黙った。

 

「師匠の隣に座ると、師匠が、姫ちゃんのこと、守ろうとするです」

 

紫木さんは、窓際の彼の背中を、ちらりと見た。

 

「護衛は、守られちゃ、だめなんです。……だから、今日は、一つ空けて、座るです。ほりきたさんみたいに」

 

ほりきたさんみたいに。

 

真似を、されていた。

 

「一つ空けると、守られないの」

 

「守られないです。……でも、見えるです。師匠の背中、全部」

 

紫木さんは、指を組んだ。

 

組んだまま、彼の背中を、見ていた。

 

見ているあいだ、指は、動かなかった。

 

一つ空けた場所から、隣の人の背中を、全部見る。

 

私が、四月から、していたことだった。

 

それを、この子は、護衛のために、している。

 

私は、何のために、していたのだろう。

 

答えは、たぶん、紫木さんの方が、先に持っていた。

 

研究室の扉が開いて、春日井さんが出てきた。

 

出てきて、待合室を見回して、それから、私の前で、立ち止まった。

 

「死なない人の隣に座り続けるかと訊かれた」

 

春日井さんは、平らな声で言った。

 

「あなたも訊かれるわきっと。私は座り続けないと答えた。逃げるから。死なない人の隣にいると逃げる理由がなくなる。それは困る」

 

逃げる理由が、なくなる。

 

「逃げる理由が、必要なのですか」

 

「必要よ。逃げる人間は逃げる理由がないと立ち止まってしまう。立ち止まった逃げる人間はただの止まった人間よ」

 

春日井さんは、それだけ言って、待合室の窓辺へ行った。

 

窓の外の、膝の高さの草を、見ていた。

 

見ているうちに、少しだけ、首を傾げた。

 

「あの草の中に誰かいるわ。昨日も今日も」

 

紫木さんの指が、膝の上で、ぴくりと動いた。

 

彼が、窓際で、少しだけ、背筋を伸ばした。

 

「誰か、というのは」

 

私が訊くと、春日井さんは、首を傾げたまま、答えた。

 

「分からない。犬がいれば分かるけど犬は置いてきた。匂いの分からない私にはただの草の揺れ」

 

春日井さんは、窓から離れた。

 

離れて、長椅子に、座った。

 

座ってから、もう一言だけ、言った。

 

「名探偵は付いてくるものよ。鍵をかけても付いてくる」

 

彼が、窓の外の草を、じっと見ていた。

 

見ているうちに、何も浮かんでいない顔の奥で、何かが一つ、並べ替えられたように見えた。

 

並べ替えられたものを、彼は、口にしなかった。

 

口にしないことも、内緒の一つなのだと思った。

 

 

 

 

 

昼過ぎ、私の二度目の番が来た。

 

研究室の窓の外に、山の緑が見えた。昨日と同じ部屋だった。

 

木賀峰さんは、昨日と同じ椅子に、座っていた。

 

机の上の紙の束が、昨日より、少しだけ厚くなっていた。

 

「今日は、一つだけ、伺います」

 

木賀峰さんは、鉛筆を取らなかった。

 

「もし、あなたの隣に、死なない人が座っていたら。……あなたは、その人の隣に、座り続けますか」

 

私は、すぐには答えなかった。

 

死なない人。

 

円さんのことを訊いているのだと思った。

 

思ってから、違うかもしれない、と思った。

 

木賀峰さんは、円さんの話をする時、いつも、円さんを、くちは、と呼んだ。今は、死なない人、と言った。

 

「……座り続けないと思います」

 

「なぜ」

 

「隣には、座らないからです。一つ、空けます」

 

木賀峰さんは、少しだけ、目を細めた。

 

「では、一つ空けた場所に、死なない人が座っていたら」

 

「それなら」

 

私は、少しだけ、考えた。

 

「たぶん、座り続けます。……隣ではないので、その人が死なないことは、私の邪魔になりません」

 

木賀峰さんは、黙った。

 

黙って、それから、鉛筆を取った。

 

取って、紙に、短く、何かを書いた。

 

書いた紙を、裏返した。

 

「ありがとうございました」

 

木賀峰さんは、言った。

 

「一つ空けて座る人は、隣に座る人より、長く座っていられるのかもしれませんね。……私は、十年、くちはの隣に、座ってしまいました」

 

隣に、座ってしまった。

 

この人の声に、初めて、後悔に似た形が、混じっている気がした。

 

部屋を出る時、壁の写真を、見た。

 

狐の面の、白衣の人。

 

この人も、誰かの隣に、座っていたのだろうか。

 

それとも、いつも、一つ空けて、物語の終わりを、見ていたのだろうか。

 

 

 

 

 

研究室を出ると、紫木さんが、廊下の窓際で、指を見ていた。

 

自分の、両手の指を。

 

開いて、閉じて、また開いて。

 

「紫木さん」

 

「あ、ほりきたさん。……終わったですか」

 

「終わったわ」

 

紫木さんは、指を開いたまま、私の方を見た。

 

「姫ちゃんの指、昨日の夜から、ちょっと、変です」

 

「変」

 

「糸を持ってないのに、持ってる形に、なっちゃうです。……ちっぱーに言われた通りです。巻いてた指は、巻いてた形のまま、固まる」

 

紫木さんは、指を、ゆっくり、握った。

 

握った指を、胸の前で、もう一方の手で、包んだ。

 

包んで、少しだけ、笑った。

 

「固まったのは、外の世界で、ゆっくり、ほどくです。国語みたいに。一個ずつ。……急がば回れ、じゃなくて、急がば巻き戻せ、です」

 

一個ずつ、ほどく。

 

私は、何も言わなかった。

 

言わずに、紫木さんの包んだ手の上に、自分の手を、一度だけ、置いた。

 

置いて、すぐに、離した。

 

紫木さんは、目を丸くした。

 

それから、にっこりと笑った。

 

「ほりきたさんの手、重いです」

 

「そう」

 

「重いけど、いやじゃないです」

 

それから、紫木さんは、少しだけ、声を落とした。

 

「ほりきたさん。……師匠、昨日、あのお兄さんに、見てないなって、言ったです」

 

「言ったわね」

 

「嘘でした」

 

「嘘だったわ」

 

「師匠の嘘は、姫ちゃん、分かるです。……分かるけど、何も言わなかったです。護衛は、師匠の嘘を、守るのも、仕事なので」

 

紫木さんは、包んだ指を、ほどいた。

 

ほどいて、窓の外の、草の揺れる場所を、見た。

 

「でも、嘘で守ったものは、本当のことが来た時に、いちばん先に、壊れるです。……前の師匠が、そう言ってたです」

 

前の師匠。

 

紫木さんが、前の師匠の言葉を口にするのを、初めて聞いた。

 

「前の師匠は、どんな人だったの」

 

紫木さんは、少しだけ、首を傾げた。

 

傾げたまま、にっこり笑った。

 

「内緒です! 師匠の真似です!」

 

師匠の真似。

 

一昨日、彼は、木賀峰さんに何と答えたのかを訊かれて、内緒、と言った。

 

紫木さんは、それを、そのまま、借りていた。

 

借りた言葉で、前の師匠のことを、しまった。

 

しまわれたものが何なのかを、私は、それ以上、訊かなかった。

 

訊かないことも、たぶん、この子の真似の、真似だった。

 

 

 

 

 

三時過ぎに、円さんが、また握り飯を作った。

 

今日は、木賀峰さんも、台所に来た。

 

木賀峰さんは、皿の上の握り飯を、一つ取った。

 

取って、一口かじって、眉を寄せた。

 

「くちは。……塩が、多すぎます」

 

「山の上は汗かくっつったろ」

 

「私は、汗をかきません。研究室にいますから」

 

「じゃあ食うな」

 

「食べます」

 

木賀峰さんは、もう一口、かじった。

 

かじりながら、円さんの方を、見なかった。

 

円さんも、木賀峰さんの方を、見なかった。

 

見ないまま、二人は、台所の、流しの前と、食器棚の前に、立っていた。

 

一つ分、離れて。

 

十年、仲良くないまま、同じ部屋で寝ている二人の、距離だった。

 

仲良くない二人が、一つの皿の握り飯を、同じように、しょっぱい、と思いながら食べている。

 

紫木さんが、私の袖を、そっと引いた。

 

「……ちっぱーと木賀峰さん、ほんとは、仲良しですか」

 

小声だった。

 

「分からないわ」

 

「姫ちゃん、仲良しだと思うです。……仲良くない人は、同じ握り飯、食べないです」

 

紫木さんは、握り飯を、もう一つ取った。

 

取って、円さんの方へ、差し出した。

 

「ちっぱーも、食べてください!」

 

円さんは、紫木さんを見た。

 

見て、それから、差し出された握り飯を見た。

 

自分で作った、塩の多すぎる握り飯を。

 

「……あたしは、食っても食わなくても、同じなんだよ」

 

「同じなら、食べてください。同じなら、食べた方が、おいしいです」

 

円さんは、黙った。

 

黙って、それから、握り飯を、受け取った。

 

一口、かじった。

 

かじって、顔をしかめた。

 

「……しょっぱ」

 

台所に、木賀峰さんの、小さな笑い声がした。

 

初めて聞く、笑い声だった。

 

予測していなかったことに笑う人の、笑い声に聞こえた。

 

円さんは、もう一口、かじった。

 

「……しょっぱいもんは、しょっぱいな。八百年たっても」

 

 

 

 

 

三日目の夕方、私は、庭で、円さんと二人になった。

 

庭は、荒れていた。草が、膝の高さまで伸びていた。伸びた草の中に、古い木のベンチが一つ、残っていた。

 

円さんは、そのベンチに、片膝を立てて座っていた。

 

夏なのに、長袖だった。汗を、一滴もかいていなかった。

 

私は、ベンチの、一つ空けた場所に座った。

 

円さんは、それを見て、鼻を鳴らした。

 

「一つ空けんのな、お前。チビと同じだ」

 

「紫木さんも、ですか」

 

「お前が約の部屋に入ってるあいだに、ここで、一人分空けて座ってた。……お前の真似だろ」

 

真似。

 

紫木さんが、私の座り方を、真似していた。

 

待合室だけでは、なかった。

 

「真似されんのは、嫌か」

 

「……分かりません」

 

「だろうな。真似された奴は、たいてい、分かんねえんだ。自分の座り方が、外からどう見えてるのか」

 

円さんは、立てた膝の上に、顎を乗せた。

 

「死なねえ、と、死ねねえ、は違うんだよ」

 

不意に、円さんが言った。

 

「約は、あたしのことを、死なねえ人間って言う。違う。死ねねえんだ。……死なねえのは、選んでる奴。死ねねえのは、選べねえ奴。あたしは、選べねえ方」

 

円さんは、首の鍵を、服の上から握った。

 

「お前は、どっちだ」

 

「私は、死にます。いつか」

 

「そういう意味じゃねえ」

 

円さんは、私を、横目で見た。

 

古い目だった。

 

「お前、立たねえ顔してんだよ。……一つ空けて座って、空けたまんま、動かねえ。立たねえってのは、選んでることか。選べねえことか」

 

立たない。

 

それは、私が胸の中で、降りない、と呼んできたものだった。

 

その言葉を、この人には、一度も言っていなかった。言っていないのに、この人は、私の座り方から、それを見た。

 

「……選んでいる、つもりです」

 

「つもり、な」

 

円さんは、少しだけ、笑った。

 

「八百年見てきて、選んでるつもりの奴は、たいてい、どっかで、選べなくなってる。……選んでる、と思ってる間は、まだ、平気だけどな」

 

円さんは、膝から顎を上げた。

 

「お前に、それを教えた奴がいるだろ」

 

私はいつだって見抜かれる。

 

「顔の後ろに、いる。……先生と、同じだ。先生の後ろにも、何かがいた。あたしには、見えねえ何かが」

 

先生。

 

円さんの口から出るたびに、一人のことを指す言葉。

 

「その人の後ろには、何がいたのですか」

 

「知らねえよ。見えねえっつったろ」

 

円さんは、立ち上がった。

 

立ち上がって、草の中に、一歩、踏み出した。

 

踏み出して、振り返った。

 

「でもな、堀北。……後ろに何かがいる奴は、たいてい、前に進むのが速い。後ろから、押されてるからな」

 

円さんは、草の中を、建物の方へ歩いていった。

 

歩きながら、一度だけ、立ち止まって、言った。

 

「先生も、速かった。速すぎて、あたしを、置いてった」

 

置いていかれた人は、置いていった人より、遅いのだろうか。それとも、置いていかれた場所に、ずっと、座っているだけなのだろうか。

 

それきり、振り返らなかった。

 

私は、ベンチに、一人で座っていた。

 

一つ空けた場所が、そのまま、空いていた。

 

紫木さんが、私が研究室にいたあいだに、ここに一人分空けて座っていた、と円さんは言った。

 

私の真似を、して。

 

真似された座り方が、外から、どう見えているのか。

 

私には、まだ、分からなかった。

 

草を踏む音がして、彼が、建物の方から歩いてきた。

 

ベンチの前で、少しだけ、迷うように立ち止まった。

 

それから、私の、一つ空けた場所に、座った。

 

円さんが座っていた場所だった。

 

「ちっぱーと、話してた?」

 

「円さんと、話していたわ」

 

「くすぐってえって、言われなかった?」

 

「言われたわ。初日に」

 

彼は、少しだけ、笑った。

 

笑ってから、草の中の、どこでもないところを見た。

 

「さっき、廊下で、ちっぱーに言われた。……お前は、来ねえ方の顔だって。来ねえのに、勝手に人のとこに来ちまう顔」

 

「依頼の日にも、言われていたわね」

 

「うん。二回目。……二回目の時は、続きがあった」

 

彼は、少しだけ、黙った。

 

「来ねえ顔の奴が来ると、待ってる方は、困るんだって。来ると思ってなかった奴が来ると、待ってた奴が来なかったことが、はっきりしちまうから」

 

待っていた人が来なかったことが、はっきりする。

 

円さんは、八百年、待っていた。

 

その玄関に、十年ぶりに、来た人たちがいた。

 

来た人たちは、待たれていた人ではなかった。

 

「だから、ぼくらは、早く帰った方がいいのかもしれない」

 

彼は、言った。

 

「一週間も、ここにいたら、円さんは、毎朝、玄関として扉を開けることに、慣れちゃう。……慣れたあとで、ぼくらがいなくなったら、また、習慣で開ける朝に戻る」

 

戻る方が、辛い。

 

一度、玄関として開けた扉を、また、習慣で開ける朝。

 

「……それでも、一週間、来るのでしょう」

 

「来るよ。約束したから。……みいこさんの骨董の分だけ」

 

彼は、立ち上がった。

 

立ち上がって、草の中に、一歩、踏み出した。

 

円さんと、同じ踏み出し方だった。

 

「堀北さん。……来ねえ顔と、来る顔。君は、どっちだと思う」

 

「どちらでもないわ」

 

「どうして」

 

「来ているのではなく、座っているだけだから」

 

彼は、少しだけ、目を見開いた。

 

それから、声を立てずに、笑った。

 

「ずるいね、その答え」

 

「よく言われるわ」

 

彼は、建物の方へ、歩いていった。

 

一度も、振り返らなかった。

 

振り返らない背中を、私は、ベンチの、一つ空けた場所から、見ていた。

 

紫木さんが見ていたのと、たぶん、同じ角度で。

 

 

 

 

 

夕方の帰りのワゴンで、紫木さんは、やっと、彼の肩に頭を乗せて、眠った。

 

護衛の時間が、終わったのだと思った。

 

骨董アパートの前で、彼と紫木さんと春日井さんが降りた。

 

二階の窓から、黒いマントの少女が、身を乗り出していた。

 

今日は、手を振らなかった。

 

振らずに、私たちを、見下ろしていた。

 

マントの裾に、草の種は、ついていなかった。

 

今日は、本当に、留守番をしていたのかもしれなかった。

 

それとも、払い落とすことを、覚えたのかもしれなかった。

 

「すずねちゃん」

 

窓から、少女が、私を呼んだ。

 

声が、今朝より、少しだけ、低かった。

 

「明日も、行くんだよねっ」

 

「行くわ」

 

「そっかっ」

 

少女は、それだけ言って、窓を閉めた。

 

閉める前に、ほんの少しだけ、何かを言いかけた。

 

言いかけて、やめた。

 

名探偵が、言いかけてやめたことを、私は、白いワゴンの窓を閉めながら、少しだけ、気にしていた。

 

眠っていたはずの紫木さんの指が、彼の肩の上で、一度だけ、糸を持つ形に曲がって、ほどけた。

 

ほどけた指は、もう、何も持っていなかった。

 

ワゴンが走り出してから、助手席の円さんが、振り返らずに言った。

 

「今の、マントのガキ。……匂宮(におうのみや)だろ」

 

運転席で、木賀峰さんの肩が、ほんの少しだけ、強ばった。

 

「知っているのですか」

 

私が訊くと、円さんは、鼻を鳴らした。

 

「八百年いりゃ、殺し名くらい、見りゃ分かる。……匂宮だ。血の匂いがしねえ方が、今は表に出てる」

 

木賀峰さんは、何も言わなかった。

 

言わないまま、ハンドルを、両手で、握り直した。

 

握り直す手つきが、昨日の夕方より、少しだけ、硬かった。

 

《あなたがここに来るであろうことを、この私は、予測していました。》

 

この人は、何を、予測していたのだろう。

 

どこまで、予測していたのだろう。

 

円さんは、それきり、窓の外を見ていた。

 

首の鍵を、服の上から、握ったまま。

 

握る指の関節が、白かった。

 

匂宮が、近くにいる。

 

それを、円さんは、少しも、怖がっていない声で、言った。

 

怖がっていない声の奥で、指だけが、鍵を握っていた。

 

鍵の持ち主に、渡されたままの鍵を。

 

私の部屋の前で、ワゴンが止まった。

 

降りる時、円さんが、窓越しに、言った。

 

「堀北。……明日も、来んだろ」

 

「来ます」

 

「近いうちにな、たぶん、いつもと違う朝が来る」

 

「どうして、分かるのですか」

 

「分かんねえよ。……八百年いると、違う朝の前の晩の、空気の匂いだけは、分かるようになる」

 

円さんは、窓を、閉めかけた。

 

閉めかけて、止まった。

 

「違う朝が来ても、玄関は、あたしが開ける。……それだけは、決まってる」

 

窓が、閉まった。

 

ワゴンが、走り去った。

 

違う朝。

 

私は、部屋の鍵を、開けた。

 

開けながら、円さんの首の鍵の、黒ずんだ真鍮の色を、思い出していた。

 

鍵というのは、開けるための道具ではなく、誰が開けてよいのかを決めるための道具だと、七月に、私は思った。

 

円さんの鍵は、円さんだけが、開けてよいと決めていた。十年、それを、首から下げて。

 

違う朝が来ても、それだけは、変わらないのだと、円さんは言った。

 

変わらないものを一つだけ持っている人は、ほかの全部が変わっても、たぶん、立っていられる。

 

私にも、一つだけ、変わらないものがあった。降りない、という約束が。

 

それを、首から下げてはいなかった。下げなくても、外せないものだった。外せないものは、重さを、数えずに済む。数えずに済むものを、私は、この夏、いくつ持ったのだろう。

 

数えようとして、やめた。

 

数えないために、持っているのだから。数えないで持っているものの重さは、たぶん、持っている本人にしか、分からない。円さんの鍵の重さが、円さんにしか分からないように。紫木さんの指の重さが、紫木さんにしか分からないように。

 

部屋に戻って、灯りを点けずに、窓辺に座った。

 

三日分の山の空気が、まだ、服に残っていた。

 

紫木さんの、包んだ手の温度を、思い出した。

 

《ほりきたさんの手、重いです。》

 

《重いけど、いやじゃないです。》

 

重い、と言われたのは、初めてだった。

 

高校の三年間、私の手は、何も持っていなかった。持っていない手で、点数を数えていた。数えた点数は、紙の上にあった。手の中には、なかった。

 

京都に来て、私の手は、ときどき、誰かの上に置かれるようになった。

 

六月の澄百合の廊下で、ハンカチを縛った。七月の地下で、水を渡した。今日、紫木さんの手の上に、一度だけ。

 

置かれた手が、重いのだとしたら。

 

その重さは、どこから来たのだろう。

 

私は、自分の手のひらを、暗い中で、見た。

 

何も、持っていなかった。

 

持っていないのに、重い。

 

答えは、出なかった。

 

出ないまま、窓の外の、京都の灯りを見ていた。

 

山の中の、灯りのない診療所で、円さんは、今夜も、玄関を閉めて、鍵をかけている。

 

明日の朝、私たちが着いてから、玄関として、開けるために。

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