釘というのは、二つのものを、離れないように留めるためにある。
板と板。柱と梁。打たれた釘は、留めたものが離れるまで、そこから動かない。
けれど、道に落ちている釘は、何も留めていない。
何も留めていない釘を踏んだものだけが、そこに、留められる。
ワゴンの中で、
バックミラーを、一度も見なかった。
見ないまま、ハンドルを、両手で握っていた。
助手席は、空いていた。
「ちっぱーは」
「留守番を、すると」
「留守番」
「管理人の仕事だそうです。……私が出る時、玄関の前に、立っていました」
留守番。
昨日の朝、名探偵も、同じ言葉を使った。今日は、ほんとに留守番、と。
留守番を、する人と、しない人。
する、と言った人が、本当にするのかどうかは、たぶん、言った人にも、分からない。
彼は、窓の外を見ていた。
紫木さんは、彼の肩に、今朝も、頭を乗せていなかった。一つ空けて、座っていた。
護衛の座り方だった。
山道に入ると、木賀峰さんが、ようやく、自分から口を開いた。
「堀北さん」
「はい」
「昨日のお答え。……一つ空けた場所に、死なない人が座っていたら、座り続ける、と」
「言いました」
「あれを、今朝、もう一度、読みました」
木賀峰さんは、ハンドルを、少しだけ、切った。
「読んで、一つだけ、予測しました。……あなたは、たぶん、どんなことが起きても、この一週間、最後まで、ここに来る」
「来ます」
「そうでしょうね」
木賀峰さんは、それきり、何も言わなかった。
予測が当たることを、少しも、喜んでいない声だった。
八月十三日の朝、円さんは、玄関の前に立っていなかった。
白いワゴンが研究所に着いた時、玄関の扉は、もう、開いていた。
開いた扉の内側の、上がり框に、円さんが座っていた。
首の鍵を、手の中で、転がしていた。
「……今朝は、先に開けたのですか」
私が訊くと、円さんは、鍵を転がす手を、止めなかった。
「開いてた」
「開いていた」
「朝、起きて、玄関に来たら、もう、開いてた。……鍵は、あたしの首にあった。一晩中」
円さんは、鍵を、握った。
「約に訊いたら、知らねえって。……知らねえ顔して、知ってる顔だった」
運転席から降りた木賀峰さんが、玄関の前で、足を止めていた。
止めて、円さんを見ていた。
見ていて、何も言わなかった。
「おい、約。……誰か、来てたろ」
「来ていません」
「来てねえのに、扉は開かねえ」
「風、でしょう」
円さんは、笑った。
乾いた、短い笑いだった。
「八百年、この扉を、風が開けたことは、一回もねえよ」
木賀峰さんは、眼鏡の位置を直した。
直して、それから、何も言わずに、研究室の方へ歩いていった。
歩いていく背中が、昨日より、少しだけ、速かった。
円さんは、上がり框に座ったまま、その背中を見ていた。
それから、私の方を見た。
「堀北。……違う朝の匂いが、昨日より、濃い」
それだけ言って、円さんは、立ち上がった。
立ち上がって、玄関の扉を、一度、閉めた。
閉めて、鍵をかけた。
それから、もう一度、鍵を開けた。
開けて、扉を、開いた。
「……ほら。入れ。今のが、今朝の、玄関の開け方だ」
誰かに開けられていた扉を、自分で閉めて、自分で開け直す。
それが、この人の、今朝の、決まりだった。
研究室の前の廊下で、紫木さんが、扉と窓を、一つずつ、見て回っていた。
指で、扉の縁に触れた。窓の鍵を、確かめた。廊下の、角の向こうを、覗いた。
「何をしているの」
私が訊くと、紫木さんは、振り返らずに答えた。
「護衛の、下見です」
「下見」
「どこから入れて、どこから出られるか。……澄百合で、最初に教わることです。入口と出口を、先に数える」
紫木さんは、廊下の突き当たりの、奥の部屋の扉の前で、足を止めた。
円さんと木賀峰さんが寝ている部屋の、扉だった。
真鍮の取っ手が、黒ずんでいた。
紫木さんは、その取っ手に、触れなかった。
触れずに、扉の前の床の、すり減ったところを、見ていた。
「ここ、二人分の足の跡です。毎晩、同じところで、止まってる」
「……分かるの」
「分かるです。すり減り方が、二種類あるです。片方は、まっすぐ止まる足。片方は、少しだけ、迷ってから止まる足」
迷ってから止まる足。
どちらが、どちらの足なのかを、私は、訊かなかった。
紫木さんは、扉から離れて、廊下の窓を、もう一度、確かめた。
確かめながら、言った。
「入口は、七つです。玄関、裏口、窓が五つ。……出口は、六つです」
「どうして、一つ、少ないの」
「玄関は、入口だけど、出口じゃないです。ちっぱーが、毎晩、鍵をかけるので」
紫木さんは、にっこり笑った。
「姫ちゃん、ちっぱーの玄関からは、出ないです。出る時は、裏口から出るです。……玄関は、ちっぱーのものなので」
それから、紫木さんは、私の方へ、振り返った。
「ほりきたさんも、出る時は、裏口からにしてください」
円さんは、さっき、玄関から入れ、と言った。
紫木さんは、裏口から出ろ、と言った。
入る時は玄関から。出る時は裏口から。
二人とも、同じことを、別々の方向から、私に、頼んでいた。
四日目の聞き取りは、彼からだった。
研究室の扉が閉まってから、待合室の窓の外で、何かが光った。
門の外の、坂の上の方だった。
木の陰に、何かが、横倒しになっていた。
銀色の、大きなもの。
バイクだった。
刀の名前のついた、大きなバイク。
骨董アパートの前の道に、横倒しになっていたという、あのバイク。
私は、窓から、目を離さなかった。
離さないまま、待合室の長椅子の、紫木さんを見た。
紫木さんも、窓の外を見ていた。
指が、膝の上で、止まっていた。
「……姫ちゃんも、見えたです」
紫木さんの声は、小さかった。
小さいのに、少しも、震えていなかった。
震えていない声で、紫木さんは、窓の外の銀色を、指で数えるように、見ていた。
入口が七つ。出口が六つ。
さっき、紫木さんは、そう数えた。
坂の上の銀色は、たぶん、八つ目の入口だった。
数えていなかった入口が、一つ、増えた。
増えた入口を、紫木さんは、今、数え直しているように見えた。
紫木さんは、小さく言った。
「名探偵さん、来てるです」
「留守番だと、言っていたわ」
「名探偵さんは、留守番、下手です。……
紫木さんは、指を、ゆっくり、握った。
「護衛の仕事、増えたです」
握った指の関節が、白かった。
白い関節を、紫木さんは、もう一方の手で、包んだ。
昨日、私が手を置いた時と、同じ包み方だった。
自分で、自分の手を、包んでいた。
重いけど、いやじゃない、と昨日、言った子が。
今日は、自分の手で、自分の重さを、確かめていた。
春日井さんが、窓辺で、首を傾げていた。
「あのバイク夕方の帰りにはなかった。今朝はあった。夜のうちに来たのね」
夜のうちに。
開いていた玄関。首にあった鍵。
私は、何も言わなかった。
言わずに、窓の外の、銀色を見ていた。
あの子は、たぶん、自分の中のお兄ちゃんを、止めに来ている。
止めに来て、今、どこにいるのだろう。
研究室の扉が開いて、彼が、出てきた。
出てきた彼は、待合室の窓の方を見て、足を止めた。
止めて、坂の上の銀色を、見た。
見て、それから、私を見た。
「……見えた?」
「見えたわ」
「姫ちゃんも?」
「見えたです!」
紫木さんが、長椅子の上で、手を挙げた。
彼は、少しのあいだ、窓の外を見ていた。
それから、長椅子の、紫木さんと私の間の、一つ空いた場所に、座った。
空いていた場所に、座った。
「木賀峰さんに、今日、何を訊かれたと思う」
彼が、言った。
「死なない人の隣に、座り続けるか」
「……どうして、分かるの」
「昨日、私も訊かれたわ」
彼は、少しだけ、笑った。
「ぼくは、座り続けるって、答えた。……死なない人の隣なら、ぼくのせいで、誰も死なないから」
「木賀峰さんは」
「何も言わなかった。紙に書いて、裏返した。……それから、一つだけ、訊かれた」
彼は、窓の外の、銀色を見た。
「隣に座っている死なない人が、死にたがっていたら、どうしますか、って」
待合室が、静かになった。
紫木さんの指が、膝の上で、止まった。
「……何と、答えたの」
「答えられなかった」
彼は、言った。
「答えられないって、答えた。……木賀峰さんは、それを聞いて、初めて、紙に、何も書かなかった」
何も書かなかった。
予測の人が、予測できない答えを、紙に書かなかった。
私は、坂の上の銀色を、見ていた。
隣に座っている死なない人が、死にたがっていたら。
木賀峰さんは、その問いを、十年、自分に向けてきたのだと思った。
その問いには、私も、まだ、答えを持っていなかった。
昼は、誰も、台所に立たなかった。
円さんは、庭から戻ってきて、奥の部屋に入ったきり、しばらく、出てこなかった。
木賀峰さんは、研究室で、紙の束を、一枚ずつ、めくっていた。
めくって、また、最初からめくった。
紫木さんが、リュックから、菓子パンを出した。
三つ。
一つを彼に、一つを私に、一つを自分に。
六月の、澄百合の空き教室と、同じ並べ方だった。
「三人で、三つです」
紫木さんは、言った。
言ってから、少しだけ、首を傾げた。
「ちっぱーと、木賀峰さんの分、ないです。……春日井さんの分も」
「足りないわね」
「足りないです。姫ちゃん、三つしか、持ってこなかったです」
紫木さんは、自分の分の菓子パンを、見下ろした。
見下ろして、それから、半分に、ちぎった。
ちぎった半分を、立ち上がって、研究室の方へ持っていった。
扉を叩いて、少しだけ開けて、中に差し入れた。
戻ってきて、残りの半分を、また、半分にちぎった。
奥の部屋の扉の前まで行って、扉の前の床に、そっと、置いた。
すり減ったところの、少し手前に。
戻ってきた紫木さんの手には、四分の一の菓子パンが、残っていた。
「春日井さんの分は」
私が訊くと、紫木さんは、困った顔をした。
「もう、ないです」
春日井さんが、窓辺から、平らな声で言った。
「私はいらないわ。選ばないから」
「でも」
「それに私は今夜ここにいないかもしれない。いないかもしれない人の分を残しておくのは無駄よ」
紫木さんは、手の中の四分の一を、見下ろした。
見下ろして、それを、口に入れた。
もぐもぐと、噛んで、飲み込んだ。
「じゃあ、姫ちゃんが、食べました!」
彼が、自分の菓子パンを、半分にちぎった。
ちぎって、紫木さんの手に、載せた。
紫木さんは、目を丸くした。
「師匠」
「護衛は、食べないと、もたない」
紫木さんは、半分の菓子パンを、両手で持った。
持ったまま、少しのあいだ、動かなかった。
それから、にっこり笑って、かじった。
私は、自分の菓子パンを、半分にちぎった。
ちぎって、春日井さんの前に、置いた。
春日井さんは、それを見た。
見て、何も言わずに、取った。
取って、一口だけ、食べた。
「選ばないけど置かれたものは食べるわ」
研究室の扉の向こうで、紙をめくる音が、止んでいた。
奥の部屋の扉の前の、菓子パンは、まだ、床の上にあった。
昼過ぎ、円さんが、庭のベンチで、私を呼んだ。
「おい、堀北。来い」
私は、ベンチの、一つ空けた場所に座った。
円さんは、片膝を立てて、草の向こうの、坂の上の方を見ていた。
銀色のバイクの、横倒しになっている方を。
「あれ、
「……たぶん」
「昨日、ワゴンの窓から、二階にいたガキ。……妹の方だ。血の匂いがしねえ方」
円さんは、立てた膝の上に、顎を乗せた。
「妹が出てるってことは、兄貴も、いつ出てきてもおかしくねえってことだ」
円さんの声は、少しも、怖がっていなかった。
「怖くないのですか」
「怖えよ」
円さんは、即答した。
「怖えに決まってんだろ。……でもな、八百年、怖えのを、何回やったと思う。怖えのに、死ねねえんだ。怖えのが、終わらねえんだよ」
怖いのが、終わらない。
「だから、今回は、少しだけ、楽しみにしてる」
円さんは、言った。
「殺す方が、上手な奴だったら、いいなって」
私は、円さんを見た。
円さんは、坂の上の銀色を見たまま、少しだけ、笑っていた。
笑っているのに、首の鍵を握る指が、白かった。
「……円さん」
「くすぐってえっつってんだろ」
「待っている人は、どうするのですか」
円さんの指が、鍵の上で、止まった。
「先生が、戻ってきた時に。……円さんが、いなかったら」
円さんは、長いあいだ、黙っていた。
黙って、坂の上を、見ていた。
それから、鍵を、服の中に、しまった。
「戻ってこねえよ」
円さんは、言った。
「戻ってこねえ奴を、八百年分の最後の十年、待った。……待ったことは、待ったまま、ここに残る。あたしがいなくなっても、玄関は、ここに残る」
円さんは、立ち上がった。
「残った玄関を、誰が開けるかは、あたしの知ったこっちゃねえ」
それから、円さんは、ベンチの背に、片手をついた。
古い木の背もたれだった。何度も、誰かが、手をついてきた跡が、白く擦れていた。
「このベンチもな、先生が置いた」
円さんは、言った。
「庭は放っとけって言ったくせに、ベンチだけは、置いてった。……放っといた庭が、どこまで伸びるのか、座って見るためだってさ」
円さんは、擦れた背もたれを、指でなぞった。
「座って、見てた。毎日。……あたしは、その隣に、座らなかった。一つ、空けて、座ってた」
一つ、空けて。
円さんの指が、ベンチの、私の座っている場所と、円さんの座っていた場所の、あいだを、なぞった。
一人分の、空いた場所を。
「お前が、昨日、ここに一つ空けて座った時。……ちょっと、腹が立った」
「どうしてですか」
「あたしの座り方だったから」
円さんは、少しだけ、笑った。
「八百年かけて覚えた座り方を、十八かそこらのガキが、平気な顔でやってやがる。……誰に教わったんだか」
円さんは、それ以上は、訊かなかった。
訊かないまま、草の中に、踏み出した。
円さんは、草の中を、建物の方へ、歩いていった。
歩きながら、振り返らずに、言った。
「堀北。……お前、明日の朝も、玄関から入れよ。裏口からじゃなくて」
明日の朝。
違う朝。
私は、ベンチに座ったまま、円さんの背中を見ていた。
草が、円さんの膝のあたりで、揺れていた。
揺れていた草が、円さんが通り過ぎてからも、少しのあいだ、揺れ続けていた。
建物に戻ると、奥の部屋の扉の前の床から、菓子パンが、なくなっていた。
紫木さんが、昼に、すり減ったところの少し手前に置いた、四分の一。
円さんが、取ったのだと思った。
扉の前で、迷ってから止まる方の足が。
取って、食べたのかどうかは、分からなかった。
分からないけれど、床の上には、もう、何もなかった。
研究室の扉の前を通る時、扉が、少しだけ、開いていた。
木賀峰さんが、机に向かって、座っていた。
机の上の、紙の束の横に、紫木さんが差し入れた半分の菓子パンが、置いてあった。
手を、つけていなかった。
つけないまま、木賀峰さんは、紙を、めくっていた。
めくる手が、ある一枚で、止まった。
止まって、その一枚を、裏返した。
裏返して、束の、いちばん上に、置いた。
私は、扉の前で、足を止めていた。
木賀峰さんが、顔を上げずに、言った。
「堀北さん」
「……はい」
「明日の朝も、来るであろうことを、この私は、予測しています」
木賀峰さんは、裏返した一枚の上に、手を置いた。
「予測しているのに。……明日の朝が、来るかどうかを、予測できません」
声は、平らだった。
平らなのに、どこかが、少しだけ、ずれていた。
「それは、どういう意味ですか」
木賀峰さんは、答えなかった。
答えないまま、手の下の紙を、見ていた。
私は、扉の前を、離れた。
離れる時に、もう一度だけ、机の上を見た。
手をつけていない、半分の菓子パン。
予測できない明日の前の、予測していた昼ご飯だった。
待合室に戻って、長椅子の端に座った。
鞄から、スマートフォンを出した。
圏外ではなかった。
山の中なのに、電波の印が、一本だけ、立っていた。七月の研究施設とは、違った。ここは、京都の、北の端だった。
一本だけの電波で、十一桁の番号に、かけることはできた。
かけなかった。
かけたら、たぶん、綾小路くんは、言う。坂の上のバイクのこと。開いていた玄関のこと。春日井さんの匂いのこと。全部を聞いて、正しい答えを、一つだけ。
帰れ、と。
正しい答えだった。
正しい答えを、聞く前から、知っていた。
知っているものを、わざわざ聞くのは、聞いた答えの方へ、座りたいからだ。
私は、ここに、座っていたかった。
円さんに、玄関から入れ、と言われた。紫木さんに、裏口から出ろ、と言われた。浅野さんに、姫を見ていてくれ、と頼まれた。
三つの頼みが、ここにあった。
あの番号の向こうには、一つの正しい答えしか、なかった。
画面を、消した。
消してから、一本だけの電波の印を、もう一度、思い出した。
一本だけ、ここと外が、繋がっている。
繋がっていることを、知っているだけで、足りた。
夕方、最後の聞き取りが、終わった。
春日井さんが、研究室から出てきて、待合室の真ん中で、立ち止まった。
「明日の朝私はたぶんここにいないわ」
平らな声だった。
「どこへ、行くのですか」
私が訊くと、春日井さんは、首を傾げた。
「分からない。逃げる人間は逃げる先を決めてから逃げるのではなく逃げてから逃げた先を知るのよ」
彼が、待合室の窓際で、春日井さんを見ていた。
「春日井さん。……何か、知ってるんですか」
「知らないわ。選ばないから知ることも選ばない」
春日井さんは、そう言って、玄関の方へ歩いていった。
歩いていく途中で、立ち止まらずに、言った。
「でも逃げる人間の鼻は逃げる理由の匂いだけは分かるの。今夜はその匂いがするわ」
出る前に、玄関の上がり框で、春日井さんは、立ち止まった。
立ち止まって、私の方を、振り返った。
「あなたは逃げないわね」
「逃げません」
「逃げない人間は逃げる人間の分まで見ることになるわ。見たものは見た人間の目に残る。それでも見るのね」
五月に、
見たものを、全部一人で持っている必要はない、と。
「見ます」
春日井さんは、少しだけ、首を傾げた。
傾げたまま、私の顔を、長いあいだ、見ていた。
「動物はねいちばん強い個体ではなくいちばん最後まで見ている個体が群れを生き残らせるの。見ていた個体が次の群れに何があったかを伝えるから」
春日井さんは、それだけ言って、玄関を出ていった。
いちばん最後まで、見ている個体。
それが、私の役目だと、言われたのだろうか。
言われたのだとしても、春日井さんは、それを、選んで言ったのではなかった。
選ばない人が、選ばずに、私に、何かを置いていった。
玄関の外で、春日井さんは、白いワゴンの方へ、歩いていった。
ワゴンの横で、木賀峰さんが、鍵を手に、待っていた。
「帰りましょう」
木賀峰さんは、言った。
いつもの声だった。
いつもの声なのに、鍵を持つ手が、少しだけ、震えていた。
円さんが、玄関の前に立って、私たちがワゴンに乗るのを、見ていた。
今日は、助手席に、乗らなかった。
乗らずに、玄関の前に、立っていた。
「くちは」
木賀峰さんが、呼んだ。
「今日は、乗らねえ」
円さんは、言った。
「留守番だ。……管理人が、留守番すんのは、当たり前だろ」
円さんは、それから、ワゴンの窓の、紫木さんの方を見た。
「おい。……床のパン、食った」
紫木さんが、窓に、顔をくっつけた。
「おいしかったですか」
「四分の一じゃ、腹の足しにもなんねえよ。……次は、一個持ってこい」
木賀峰さんは、少しのあいだ、円さんを見ていた。
それから、運転席に、乗った。
走り出す前に、彼が、ワゴンの後ろの座席で、私に、小さく言った。
「春日井さんの、匂いの話。……信じる?」
「信じるわ」
「どうして」
「春日井さんは、選ばない人だから。選ばない人は、嘘を選ぶことも、しない」
彼は、少しだけ、黙った。
「ぼくは、嘘を選ぶ人だ。……一昨日、出夢くんに、見てないって言った」
「知っているわ」
「その嘘が、今日、坂の上に、バイクを倒してる」
彼は、窓の外の、坂の上の方を見た。
銀色は、木の陰で、夕日を、少しだけ、跳ね返していた。
「嘘で守ったものは、本当のことが来た時に、いちばん先に壊れる。……姫ちゃんの、前の師匠の言葉だって」
紫木さんが、隣で、彼の顔を見上げた。
「師匠、聞いてたですか」
「廊下で、聞こえた」
紫木さんは、少しだけ、頬を膨らませた。
膨らませて、それから、彼の袖を、指先で、そっと掴んだ。
「壊れたら、姫ちゃんが、拾うです。護衛なので」
彼は、何も言わなかった。
言わないまま、袖を掴む指を、振りほどかなかった。ワゴンが、走り出した。
門を出る時、私は、振り返った。
円さんが、玄関の前に、まだ立っていた。
首の鍵を、手の中で、転がしていた。
坂を下り始めたところで、タイヤが、パンクした。
車が、大きく傾いた。
木賀峰さんが、ブレーキを踏んだ。
降りて見ると、後ろの右のタイヤが、ぺしゃんこになっていた。
「釘、ですね」
木賀峰さんが、しゃがみ込んで言った。
「予備のタイヤは、積んでいません。……今日は、ここに泊まっていただくしかないようです」
木賀峰さんは、立ち上がって、眼鏡の位置を直した。
直しながら、言った。
「こうなるであろうことを、この私は」
そこで、言葉が止まった。
止まって、木賀峰さんは、少しだけ、困った顔をした。
「……いいえ。これは、予測していませんでした」
予測、という言葉を、この人は、一週間足らずで、何度使っただろう。数えてはいなかった。数えていなかったけれど、いつも、予測の言葉から話し始める人だった。
予測から話し始める人が、それを言い終えられなかった時の顔を、私は、見ていた。
困った顔だった。怖がっている顔では、なかった。予測が外れたことよりも、外れた予測を、どこに書きつければいいのか分からない、という顔に見えた。
予測していなかった、と、この人が言うのを、初めて聞いた。
依頼を受けた週に、骨董アパートの前で、私は、この人の予測が外れるところを、見てみたいと思った。思ってから、恥じた。
今、それを、見ていた。
見たいと思っていたものは、思っていたより、少しも、面白くなかった。
予測が外れた人の顔は、ただ、ひどく、心細そうだった。
見たいと思ったことを、私は、もう一度、恥じた。
恥じても、見たものは、目に残った。
残ったものを、私は、どこにも書かなかった。書かなくても、たぶん、明日になっても、来週になっても、この心細そうな顔は、私の目の中に、残っている。
予測の人が、予測を外した夕方。
紫木さんが、私の袖を引いた。
「ほりきたさん、お泊まりです! 修学旅行みたいです! 旅は道連れ、夜は情けです!」
「夜は、情けではないわ」
言ってから、少しだけ、後悔した。旅は道連れ、世は情け。紫木さんのずらし方の方が、今夜には、合っている気がした。夜に、情けがあってほしかった。山の中の、この古い建物の、今夜に。情けをかける人がいるなら、誰でもいいから、と思った。思っただけで、誰にも、言わなかった。言えば、情けを、乞うことになる。乞うたら、たぶん、ここに座っていられなくなる。
「じゃあ、夜は何ですか」
私は、答えられなかった。
坂の上で、研究所の建物が、山の影に沈みかけていた。
山の夜が、降りてこようとしていた。
春日井さんが、無表情のまま、空を見上げていた。
彼は、ぺしゃんこのタイヤを、じっと見ていた。
見ている顔が、少しだけ、強ばっていた。
「……釘、か」
小さく、彼が言った。
誰に言ったのでもない声だった。
私は、彼の視線の先を見た。
タイヤに刺さった釘は、新しかった。錆が、一つもついていなかった。
坂の途中に、偶然落ちていた釘にしては、新しすぎた。
私は、それを、口には出さなかった。
口に出したら、誰かが、何かを決めなければならなくなる気がした。
釘を踏んだ私たちが、今夜、この山に、留められた。
坂の下から見上げると、研究所の玄関に、灯りが一つ、点いていた。
円さんが、点けたのだと思った。
留守番の、管理人が。
帰ってくる者がいないはずの玄関に、灯りを点けて、待っている。
パンクした車を坂に残して、私たちが歩いて戻ってくることを、円さんは、たぶん、知らなかった。
知らないのに、点けていた。
十年、毎晩、点けていたのかもしれなかった。
来ない人のための灯りが、今夜は、戻ってくる人たちを、照らすことになった。
紫木さんが、坂の上の灯りを、見上げていた。
「ちっぱー、待っててくれてるです」
「私たちを、ではないわ」
「でも、私たちが、帰るです。……帰ってくる人がいたら、待ってた灯りは、待ってた灯りになるです」
待っていた灯りが、待っていた灯りになる。
私は、何も、言い返さなかった。
言い返す言葉を、持っていなかった。