最後、と、最期は、同じ音をしている。
最後は、順番の終わりだ。列のいちばん後ろ。次がない場所。
最期は、命の終わりだ。こちらには、順番がない。誰の次でもなく、誰の前でもなく、ただ、そこで終わる。
最後に話した人が、最期に話した人になることがある。
なった、と分かるのは、いつも、次の朝だ。
パンクした車を坂の途中に残して、彼と、紫木さんと、木賀峰さんと、私は、歩いて研究所へ戻った。
戻る道で、
並んだ、というより、私の歩く速さに、自分の速さを合わせてきた。合わせ方が、ぎこちなかった。人と並んで歩くことに、慣れていない人の合わせ方だった。
「堀北さん。一昨日の質問の、続きを、少しだけ」
「質問は、終わったと」
「研究の質問は、終わりました。これは、私の質問です」
木賀峰さんは、前を向いたまま言った。
「あなたは、あの時、死なないことと、死ぬ場所に座ることは逆だ、と言いました。私は、それを、紙に書きました。書いて、裏返しました」
「見ました」
「裏返したのは、読まれたくなかったからではありません。読んでほしい人が、別にいるからです。……その人より先に、私が読み返したくなかった」
読んでほしい人。
木賀峰さんの声が、ほんの少しだけ、揺れた。
研究室で、質問をする時の揺れ方とは、違う揺れ方だった。
「その人に、あの紙を読ませたら、何と言うと思いますか」
「私には、分かりません。その人の顔を、知らないもの。……写真の、面しか」
「そうですね」
木賀峰さんは、少しだけ笑った。
「私にも、分からないのです。十年、先生の研究を続けてきて、先生が何と言うのか、一度も予測できたことがない。……予測できない相手のために、予測の研究をしてきたのかもしれません」
坂の上に、研究所の明かりが見えていた。
紫木さんは、私たちの少し前を、跳ねるように歩いていた。坂の上の灯りに向かって、ただいまです、と、まだ誰にも聞こえない距離で言った。
木賀峰さんは、そこで、歩く速さを、少しだけ落とした。
「あなたがここに来るであろうことを、この私は、予測していました。……あれは、半分だけ、本当です」
「半分」
「あなたが来ることは、予測していました。あなたが、私の質問に、ああ答えることは、予測していませんでした」
予測していなかった答えを、この人は、紙に書いて、裏返した。
裏返したまま、読んでほしい人に、渡すつもりでいる。
「……その紙を、あの写真の人に、読ませたいのね」
木賀峰さんは、すぐには、答えなかった。
答えずに、眼鏡の位置を直した。
直す指が、少しだけ、震えていた。
「読ませたい、ではありません。……読まれる日を、予測したいのです」
研究所の門が、目の前にあった。
文字の消えかけた看板が、夕暮れの中で、もう、ほとんど読めなくなっていた。
読めなくなった看板の名前を、この人は、十年、毎朝くぐってきたのだ。
木賀峰さんは、門をくぐる前に、一度だけ、看板を見上げた。
見上げて、何も言わずに、くぐった。
夕食は、研究所の台所で、
鍋に、野菜と肉を、切った順に放り込んだだけの料理だった。味付けは、塩だけだった。
「動物の餌と同じ作り方。人間も動物。問題ない」
春日井さんは、無表情のまま言った。
問題は、なかった。
塩だけの鍋を、私は、残さずに食べた。
高校の寮の食堂には、無料の定食があった。点数を使い果たした生徒が、最後に頼る、味のない定食だった。私は、一度も頼まなかった。頼まずに済むように、点数を数えていた。
今夜の鍋は、あの定食に、少しだけ似ていた。
似ていたのに、少しも、惨めではなかった。誰も、数えていないからかもしれなかった。数えられていない食事は、ただの食事だった。ただの食事を、ただ食べるのは、京都に来て、たぶん、初めてだった。
おいしくはなかったけれど、食べられた。食べられるものを、食べられる量だけ作る。それ以上でも、それ以下でもない料理だった。
食堂の長いテーブルに、六人が座った。
木賀峰さん。
円さんは、ほとんど食べなかった。スプーンを持って、鍋の中身を、少しずつかき混ぜていた。
「食べないの」
私が訊くと、円さんは、鼻を鳴らした。
「食わなくても、死なねえよ」
「死なないから食べない、というのは、生きている人の理屈ではないわ」
「知ってるよ。あたしの理屈じゃねえ。先生の理屈だ」
先生、と円さんは言った。
この家の、元の持ち主。十年前に、亡くなったことになっている人。
円さんは、スプーンを置いて、窓の外を見た。
窓の外は、もう、真っ暗だった。
「今夜は、星がよく見えるぜ。山の夜は、京都の夜より暗いからな」
暗いから、星が見える。
暗くなければ見えないものがある。それは、慰めの言葉のようで、慰めではなかった。
「今夜は、泊まってくんだな」
円さんが、窓の外を見たまま言った。
「タイヤが、パンクしたので」
「この家に、外の奴が泊まんのは、久しぶりだ。……十年ぶり、か」
十年。
この家の元の持ち主が、亡くなったことになってから、十年。
「その前は、誰が泊まっていたの」
「先生の、客だよ。先生は、よく客を連れてきた。連れてきて、夜通し、喋らせんだ。喋らせて、自分は、ほとんど喋らねえ。聞いてるだけ。……聞いて、全部、覚えてる奴だった」
円さんは、置いたスプーンを、もう一度取って、鍋の中で一回りさせた。
「お前も、先生に会ったら、きっと、夜通し喋らされるぜ」
「会うことは、ないでしょう」
「だろうな。会うことは、ねえかもな」
円さんは、そう言いながら、私を見た。
八百年分の目が、少しだけ、細くなった。
「でも、もし会ったら。……先生に、伝えてくれるか」
「何を」
円さんは、少しだけ、考える顔をした。
考えて、それから、首を振った。
「いや。やめとく。伝言を頼むのは、待つのをやめた奴のすることだ」
待つのをやめた人。
円さんは、まだ、やめていないように見えた。
やめていない人の伝言は、たぶん、どこにも届けなくていい。待っている人の言葉は、待っている場所に、置いたままにしておくのがいい。
私は、それ以上、訊かなかった。
円さんは、また、窓の外を見た。
星が、一つ、流れた気がした。気がしただけかもしれなかった。
夕食のあと、私は、庭に出た。
昨日も、今日の昼も、円さんと座った、古い木のベンチがあった。ベンチの上に、星の光が、薄く落ちていた。
ベンチに、誰かが座っていた。
黒いマントだった。
髪を、二つに結んでいた。
「あ、すずねちゃんだっ!」
理澄さんだった。
夜のうちに来ていると、今朝から分かっていた子が、膝の高さの草の中で、足をぶらぶらさせていた。
「……どうして、ここに」
「名探偵だからっ!」
理澄さんは、胸を張った。
「お兄ちゃんが、おとといの晩、表に出たでしょっ? 名探偵には、ぜーんぶ分かってるのっ! お兄ちゃんが起きてるってことは、お仕事なのっ! お兄ちゃんのお仕事の場所は、名探偵が推理すれば、すぐ分かるのっ!」
「ここが、そうだと」
「ここが、そうだよっ!」
理澄さんは、足をぶらぶらさせるのを、止めた。
「だから、来たの。お兄ちゃんが起きて、お仕事する前に、止めようと思って」
止める。
殺し屋の兄の、仕事を。
「止められるの」
「分かんないっ!」
理澄さんは、元気よく言った。
元気よく言って、少しだけ、俯いた。
「でもね、名探偵は、事件が起きる前に止めるのが、一番かっこいいんだよっ。起きたあとで謎を解くのは、二番目っ。……お兄ちゃんは、事件を起こす係だから、名探偵の私が、止める係なのっ」
「あなたの中の、お兄さんなのね」
「そうだよっ! 一つの体の、兄妹っ!」
一つの体の、兄妹。
おとといの夜の、外灯の下の顔を、思い出した。理澄さんの顔から、笑いを全部抜いた顔。
「お兄さんも、誰かを探しているの」
訊いてから、訊くべきではなかったと思った。
理澄さんは、首を傾げた。
「ううん。人識くんを探してるのは、私の方っ。お兄ちゃんは、人識くんのこと、お友達だと思ってるのっ。……お友達で、敵で、ライバルっ」
人識くん、と下の名前だけで呼んだ。
鞄の持ち手を持つ私の指は、動かなかった。
動かなかったことに、理澄さんは、気づいたようだった。
「すずねちゃん、今日は、握らないんだねっ」
「何を」
「鞄っ! 零崎って言わなかったから、握らなかったんだっ! 名探偵、分かっちゃったっ!」
理澄さんは、にっこりと笑った。
それから、ベンチから飛び降りた。
「すずねちゃん、私がこのベンチにいること、内緒にしててねっ! いーちゃんにも、姫ちゃんにもっ! 名探偵は、隠れてる方が、事件を止めやすいのっ!」
「誰にも、言わない方がいいの」
「うんっ! すずねちゃん、大好きっ!」
理澄さんは、草の中を、建物の裏手の方へ走っていった。
黒いマントが、星の光の中で、一度だけ翻って、見えなくなった。
草の中に、足をぶらぶらさせていた跡だけが、まだ、倒れたまま残っていた。
内緒にしていてね、と言われた。
私は、言わなかった。
戻る途中で、廊下の窓から、台所が見えた。
台所に、彼と、紫木さんがいた。
紫木さんが、流しの前で、鍋を洗っていた。彼は、その隣で、洗い終えた皿を拭いていた。
二人とも、喋っていなかった。
喋っていないのに、紫木さんが鍋を置くと、彼が、次の皿を受け取った。彼が皿を置くと、紫木さんが、次の鍋を洗い始めた。
隣同士だった。
言葉を使わなくても、手の動きで話が済む距離。
似ているのに、違った。
玖渚さんは、彼に、しがみついていた。紫木さんは、しがみついていなかった。並んで、同じ方を向いて、同じ速さで、手を動かしていた。
紫木さんが、ふいに、顔を上げた。
窓の外の私に、気づいた。
気づいて、泡のついた手を、大きく振った。
私は、小さく、手を上げた。
紫木さんは、満足そうに笑って、また、鍋に戻った。
階段の踊り場で、彼とすれ違った。
彼は、手に、湯呑みを一つ持っていた。台所で淹れてきた、白湯だった。
「紫木さんは」
「先に上がったよ。君と同じ部屋で寝るって、張り切ってた」
「あなたは、寝ないの」
「寝るよ。寝る前に、少しだけ、外を見てから」
彼は、踊り場の小さな窓から、外の暗がりを見た。
庭のベンチの方角だった。
私は、何も言わなかった。
理澄さんは、内緒にしてね、と言った。いーちゃんにも、と言った。言われたとおりに、私は、口を閉じていた。
閉じた口の内側で、言葉が一つ、喉の手前まで来ていた。
庭に、誰かいるわ。
それを言えば、彼は、庭へ降りていく。降りていけば、名探偵は、隠れていられなくなる。隠れていられなくなった名探偵は、たぶん、事件を止めにくくなる。
止める係の邪魔を、私は、したくなかった。
「……星が、見えるわ」
代わりに、それだけ言った。
彼は、窓の外から、目を戻した。
私の顔を、少しだけ見た。
見て、何かを受け取ったのかどうかは、分からなかった。分からなかったけれど、彼は、それ以上、窓の外を見なかった。
「見えるね。山の夜は、暗いから」
円さんと、同じことを言った。
暗いから、見える。
私が言わなかったことが、彼に見えたのかどうか。暗いところに置いたものは、見える人にだけ、見える。
「姫ちゃんが、今夜は護衛の時間だって言ってた」
彼が、湯呑みを持ち直しながら言った。
「誰の」
「ぼくの。……断ったんだけどね。護衛は要らないって。そうしたら、要らないと言われる方が、護衛のしがいがあるです、って」
彼は、少しだけ笑った。
笑ったけれど、その笑い方は、いつもより、少しだけ短かった。
「止めなかったの」
「止める理由が、見つからなかった。……見つからなかったっていうか、止めたら、あの子の、自分で決めたことを取り上げることになる気がした」
自分で決めたこと。
昨日の朝、車の中で、紫木さんは言った。昨日は、師匠、何も決めてくれなかった。だから、自分で決めなきゃいけなかった。
決めることを覚えたばかりの子の、最初の決めごとを、取り上げる。
取り上げられないのは、たぶん、私も、同じだった。
「おやすみ、堀北さん」
「おやすみなさい」
彼は、湯呑みを持ったまま、二階の廊下の奥へ歩いていった。
私は、踊り場に、少しだけ残った。
小さな窓の向こうの暗がりに、黒いマントは、もう見えなかった。
見えなかったのは、いなくなったからなのか。私の目が、もう、そこを見ないように決めたからなのか。
寝る部屋は、二階に、三つ用意された。
木賀峰さんと円さんは、一階の、奥の部屋で寝ると言った。春日井さんは、一人で一部屋。彼が、一部屋。
私と紫木さんが、同じ部屋になった。
古い洋室だった。ベッドが二つ、壁際に並んでいた。窓に、厚いカーテンがかかっていた。
紫木さんは、ベッドに飛び込むなり、枕を抱えて、ごろごろと転がった。
「ほりきたさんと同じ部屋です! 修学旅行です!」
「修学旅行には、行ったことがないの?」
紫木さんの転がるのが、止まった。
「……行ったこと、ないです。澄百合の修学旅行は、なんか、違う旅行でしたから」
違う旅行。
何が違ったのかは、訊かなかった。
六月に、私は、あの学校の中を見た。首吊高校、と呼ばれる学校の、生徒たちの目を見た。あの学校の修学旅行が、どこへ行って、何をするものだったのか。想像はできた。想像して、やめた。
「ほりきたさんは、行ったことあるですか」
「……あるわ。北海道に」
「えー、いいなあ!」
「よくはないわ。私の学校も、違う学校だったから」
政府が作った、全寮制の学校。三年間、外に出られない場所。
旅行は、あった。あったけれど、どれも、旅行の形をした試験だった。船の上で、無人島で、私たちは、点数を奪い合った。北海道の雪の中でさえ、私は、誰が誰と組むのかを数えていた。
「じゃあ、今日が、二人とも初めての、試験じゃない修学旅行です!」
紫木さんは、また、ごろごろと転がった。
転がりながら、笑っていた。
私は、自分のベッドに腰を下ろした。
灯りを消す前に、紫木さんが、急に静かになった。
枕を抱えたまま、天井を見ていた。
「ほりきたさん」
「何」
「姫ちゃん、澄百合から出られて、よかったです」
小さな声だった。
さっきまでの声とは、違った。
「ほりきたさんが、《出たいの》って訊いてくれたから。……あの時、誰も、姫ちゃんに、そういうこと訊かなかったです。出ろとか、出るなとか、そういうのばっかりで。出たいかどうかは、誰も訊かなかったです」
六月の、糸の廊下。
私は、紫木さんに向かって、一歩、踏み出した。踏み出して、出たいの、と訊いた。
訊いた隙に、赤い人が、背後へ回った。
私は、隙を作るために訊いたのではなかった。訊きたかったから、訊いた。けれど、結果として、私の問いは、隙になった。
紫木さんは、それを、知っているのだろうか。
知っていて、よかった、と言っているのだろうか。
「……あの時、あなたは、出たい、と答えたわ」
「答えたです。最初のは、出たいって言うのが正解だと思ったからです。二回目のは、……ほんとでした。でも、出たあとのことは、考えたこと、なかったです」
紫木さんは、天井を見たまま、続けた。
「今なら、答えられるです。出たかったです。出て、赤点取って、師匠に怒られて、ほりきたさんに国語を教わって、今日みたいに、お泊まりしたかったです」
したかった、と、紫木さんは言った。
過去の形だった。
したい、ではなかった。
私は、その言い方に、少しだけ、引っかかった。引っかかったけれど、何も言わなかった。言葉を、少しずつずらして覚える子だ。今のも、きっと、ずれただけだと思った。
思った。
「ほりきたさんみたいな人を、なんていうか、知ってるです」
「何」
「七転び、八座り!」
紫木さんは、天井に向かって、指を八本立てた。
「七回転んで、八回目に、座るんです。起きるんじゃなくて、座るんです。ほりきたさんは、転んでも、起き上がらないで、そこに座っちゃう人です」
「起き上がらないのは、褒め言葉ではないでしょう」
「褒め言葉です! 起き上がる人は、また走って転ぶです。座る人は、もう転ばないです。……姫ちゃん、転んでばっかりだったから、座る人、好きです」
七転び八起き。
七回転んでも、八回起き上がる。不屈の言葉だった。
紫木さんは、それを、八回目に座る、とずらした。
ずらした方が、私には、合っていた。
「……ありがとう」
言ってから、自分で驚いた。
紫木さんは、枕から顔を上げて、目を丸くした。
「ほりきたさんが、ありがとうって言ったです!」
「言ったわ」
「明日、雪が降るです!」
「八月よ」
「じゃあ、明日は、八月の雪です!」
紫木さんは、笑った。
笑って、枕に顔を埋めた。
「おやすみなさいです、ほりきたさん」
「おやすみなさい」
灯りを、消した。
暗くなった部屋の中で、紫木さんの寝息が、すぐに聞こえ始めた。
私は、なかなか眠れなかった。
眠れないまま、タイヤに刺さっていた釘のことを、考えていた。
新しすぎる釘。
口に出さなかった。口に出したら、誰かが、何かを決めなければならなくなる気がした。
けれど、口に出さなかったことで、誰かが、何かを決めずに済んだのだろうか。
それとも、決めるべき人が、決めないまま、夜になっただけなのだろうか。
夜中に、目が覚めた。
何の音で目が覚めたのかは、分からなかった。
部屋は、真っ暗だった。カーテンの隙間から、星の光が、細く差し込んでいた。
隣のベッドを見た。
空だった。
紫木さんが、いなかった。
布団が、きれいに畳まれていた。枕が、布団の上に、まっすぐに置かれていた。いつ畳んだのか、音は聞こえなかった。
畳まれた布団の上に、紙が一枚、置いてあった。
暗くて、字は読めなかった。
カーテンを、少しだけ開けた。星の光で、紙を照らした。
〈師匠の護衛の時間です。堀北さんは、お部屋にいてください。 姫〉
字は、きれいだった。
国語の問題集の余白に、自分のため、と書いた時の字だった。
お部屋にいてください。
私は、紙を持ったまま、しばらく動かなかった。
出ない方がいい。ここにいなさい。部屋にいてください。
正しい答えを、私は、何度も聞いてきた。聞くたびに、違う方へ座ってきた。
今度も、違う方へ座るべきだろうか。
廊下に出て、紫木さんを探して、何が起きているのかを、この目で見るべきだろうか。
見て、何ができるのだろう。
六月の糸の廊下で、私は、紫木さんの糸の前に立った。立って、問いかけた。問いかけることしか、できなかった。問いかけが隙になったのは、赤い人が、そこにいたからだ。
今夜、赤い人は、いない。
私が廊下に出て、紫木さんの前に立ったら、紫木さんは、私を守るために、手を一本、余計に使うことになる。
護衛の時間です、と紫木さんは書いた。
護衛というのは、守るものの数が少ないほど、うまくいく。
私は、紙を、畳まれた布団の上に戻した。
戻して、部屋の扉の前まで歩いた。
扉を、開けなかった。
開けずに、扉の内側の床に、座った。
背中を、扉に預けた。
ここにいてください、と言われた場所に、私は、座ることにした。言われたからではない。ここに座ることを、自分で選んだ。
扉の外で何かが起きたら、扉越しに、聞こえる。聞こえたら、そこで、もう一度選ぶ。
それまでは、ここで、待つ。
円さんの言葉を、思い出した。待ってる、と、はっきり言える人だった。来ないと分かっていて、待っている、と。私は、座っている、としか言えない。それでも、今夜だけは、待っている、と言ってもいい気がした。
私は、待っていた。
紫木さんが、戻ってくるのを。
音が、した。
遠い音だった。一階の、奥の方からだった。
何かが、壁にぶつかる音。何かが、割れる音。それから、短い、笑い声のようなもの。
笑い声は、紫木さんのものではなかった。
もっと低くて、もっと乾いていた。喉の奥で、何かを引き裂くような笑い方だった。
私は、扉の取っ手に手をかけた。
冷たかった。
赤い車の取っ手と、同じ冷たさだった。
かけて、動かなかった。
動かないまま、音を、聞いていた。
音は、長くは続かなかった。
続かなかったことが、何を意味するのかを、私は考えないようにした。
考えないようにして、考えていた。
それから、静かになった。
静かになってから、長い時間が経った。
廊下を、足音が一つ、通り過ぎた。
紫木さんの足音ではなかった。紫木さんの足音は、もっと軽くて、もっと跳ねる。
この足音は、重くはなかった。重くはないのに、一歩ごとに、床板が、深く沈んだ。
足音は、私の部屋の前で、止まらなかった。
止まらずに、通り過ぎて、階段を降りていった。
玄関の扉が、開いて、閉まった。
それきり、何も聞こえなくなった。
私は、扉に背を預けたまま、座っていた。
紫木さんは、戻ってこなかった。
カーテンの隙間の星が、一つずつ、薄くなっていった。
窓の外が、白み始める少し前に、私は、立ち上がった。
立ち上がって、畳まれた布団の上の紙を、取った。
〈師匠の護衛の時間です。堀北さんは、お部屋にいてください。 姫〉
もう一度読んで、二つに折った。
鞄からノートを出して、いちばん後ろのページを開いた。十一桁の数字が書いてある紙が、そこに挟まっていた。
その隣に、折った紙を挟んだ。
名前のない番号と、姫、とだけ書いた紙。
どちらも、私に、何かを頼んではいなかった。一枚は、いつかかけるかもしれない番号を、置いていっただけ。もう一枚は、ここにいてください、と書いていっただけ。
頼まれていないのに、私は、どちらも、捨てられずにいる。
ノートを閉じた。
閉じたノートの、いちばん後ろが、少しだけ、厚くなった。
窓の外が、白み始めた頃、私は、扉を開けた。
廊下は、静かだった。
隣の部屋の扉が、開いていた。彼の部屋だった。
中に、彼はいなかった。
春日井さんの部屋の扉も、開いていた。中は、空だった。荷物も、なかった。
階段を、降りた。
一段ごとに、板が鳴った。
鳴る階段は、昇る人間の数を、数えている。降りる人間の数も、たぶん、数えている。
一階の廊下に、彼が立っていた。
奥の部屋の、扉の前だった。
彼は、扉の中を見ていた。
私の足音に、振り返らなかった。
「……見ない方がいい」
彼が、言った。
いつもの声ではなかった。
声の中に、何も入っていなかった。中身を全部どこかに置いてきて、外側だけが喋っているような声だった。
「見ます」
私は、言った。
彼は、止めなかった。
止める力が、もう、残っていないように見えた。
私は、彼の隣に立った。
隣に、立った。
一つ空けずに、隣に立つのには、まだ、慣れていなかった。
扉の中を、見た。
奥の部屋には、三人がいた。
木賀峰さんと、円さんと、黒いマントの少女。
理澄さんだった。
昨夜、庭のベンチで、足をぶらぶらさせていた子だった。お兄ちゃんのお仕事を止める、と言った子だった。
内緒にしていてね、と言われた。
私は、誰にも言わなかった。
言っていたら、何かが、変わったのだろうか。
変わらなかったかもしれない。変わったかもしれない。どちらなのかを、私は、もう、確かめることができない。
三人とも、動いていなかった。
動いていないことの意味を、私は、もう、知っていた。五月に知った。六月に、もう一度知った。七月にも、壁の前で知った。
円さんは、窓際の椅子に座ったまま、目を閉じていた。
死ねない、と言った人だった。選べない方だ、と言った人だった。
選べないまま、八百年を待った人が、目を閉じていた。
選べたのだろうか、と思った。
最期に。
最後、ではなく。
それとも、誰かに、選ばされたのだろうか。
部屋の真ん中に、糸が、切れて散らばっていた。
細い、細い糸だった。光の加減で、見えたり、見えなくなったりした。
床の上に、蜘蛛の巣を引き裂いたような形で、散らばっていた。
その糸の、端の方に。
紫木さんが、倒れていた。
枕を抱えて転がっていた子だった。七転び八座り、と言った子だった。明日は八月の雪です、と笑った子だった。
うつ伏せだった。
顔は、見えなかった。
見えなかったけれど、紫木さんだと、分かった。
指が、見えたからだ。
床の上に投げ出された手の、細い指。七月に、国語の問題集の余白に、自分のため、と書いた指。糸が伸びていた指。私が、一度だけ手を置いた指。
その指が、もう、何も握っていなかった。
私は、部屋の中へ、一歩、入った。
彼が、私の腕を掴んだ。
掴む力は、弱かった。
弱かったけれど、私は、そこで止まった。
止まって、紫木さんを見ていた。
目を、逸らさなかった。
逸らさないでいることだけが、今の私に、できることだった。
《姫ちゃん、澄百合から出られて、よかったです》
昨夜の声が、耳の奥で鳴った。
したかった、と、紫木さんは言った。
過去の形で。
ずれたのではなかった。
あの子は、たぶん、分かっていた。今夜、師匠の護衛をすることが、何を意味するのかを。分かっていて、私に、部屋にいてください、と書いた。
私は、部屋にいた。
紫木さんが、そう頼んだから。
頼まれたとおりに、座っていた。
座っていたことが、正しかったのかどうか。
答えは、もう、どこにもなかった。答えをくれる人に電話をしても、この問いの答えだけは、誰も持っていない。
私は、紫木さんの前で、膝をついた。
膝をついて、そのまま、床に座った。
七回転んで、八回目に、座る。
あの子が、そう言った。
私は、座った。
隣で、彼が、壁に背中を預けて、ずるずると、床に沈んでいった。
二人とも、床に座っていた。
一つ空けずに、隣に。
窓の外で、鳥が鳴き始めていた。
八月の朝だった。
雪は、降っていなかった。
降っていない雪の代わりに、窓の外の光が、床の上の細い糸を、白く照らしていた。