ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第27話 最期(最後)

最後、と、最期は、同じ音をしている。

 

最後は、順番の終わりだ。列のいちばん後ろ。次がない場所。

 

最期は、命の終わりだ。こちらには、順番がない。誰の次でもなく、誰の前でもなく、ただ、そこで終わる。

 

最後に話した人が、最期に話した人になることがある。

 

なった、と分かるのは、いつも、次の朝だ。

 

 

 

 

 

パンクした車を坂の途中に残して、彼と、紫木さんと、木賀峰さんと、私は、歩いて研究所へ戻った。

 

戻る道で、木賀峰(きがみね)さんが、私の隣に並んだ。

 

並んだ、というより、私の歩く速さに、自分の速さを合わせてきた。合わせ方が、ぎこちなかった。人と並んで歩くことに、慣れていない人の合わせ方だった。

 

「堀北さん。一昨日の質問の、続きを、少しだけ」

 

「質問は、終わったと」

 

「研究の質問は、終わりました。これは、私の質問です」

 

木賀峰さんは、前を向いたまま言った。

 

「あなたは、あの時、死なないことと、死ぬ場所に座ることは逆だ、と言いました。私は、それを、紙に書きました。書いて、裏返しました」

 

「見ました」

 

「裏返したのは、読まれたくなかったからではありません。読んでほしい人が、別にいるからです。……その人より先に、私が読み返したくなかった」

 

読んでほしい人。

 

木賀峰さんの声が、ほんの少しだけ、揺れた。

 

研究室で、質問をする時の揺れ方とは、違う揺れ方だった。

 

「その人に、あの紙を読ませたら、何と言うと思いますか」

 

「私には、分かりません。その人の顔を、知らないもの。……写真の、面しか」

 

「そうですね」

 

木賀峰さんは、少しだけ笑った。

 

「私にも、分からないのです。十年、先生の研究を続けてきて、先生が何と言うのか、一度も予測できたことがない。……予測できない相手のために、予測の研究をしてきたのかもしれません」

 

坂の上に、研究所の明かりが見えていた。

 

紫木さんは、私たちの少し前を、跳ねるように歩いていた。坂の上の灯りに向かって、ただいまです、と、まだ誰にも聞こえない距離で言った。

 

木賀峰さんは、そこで、歩く速さを、少しだけ落とした。

 

「あなたがここに来るであろうことを、この私は、予測していました。……あれは、半分だけ、本当です」

 

「半分」

 

「あなたが来ることは、予測していました。あなたが、私の質問に、ああ答えることは、予測していませんでした」

 

予測していなかった答えを、この人は、紙に書いて、裏返した。

 

裏返したまま、読んでほしい人に、渡すつもりでいる。

 

「……その紙を、あの写真の人に、読ませたいのね」

 

木賀峰さんは、すぐには、答えなかった。

 

答えずに、眼鏡の位置を直した。

 

直す指が、少しだけ、震えていた。

 

「読ませたい、ではありません。……読まれる日を、予測したいのです」

 

研究所の門が、目の前にあった。

 

文字の消えかけた看板が、夕暮れの中で、もう、ほとんど読めなくなっていた。

 

読めなくなった看板の名前を、この人は、十年、毎朝くぐってきたのだ。

 

木賀峰さんは、門をくぐる前に、一度だけ、看板を見上げた。

 

見上げて、何も言わずに、くぐった。

 

 

 

 

 

夕食は、研究所の台所で、春日井(かすがい)さんが作った。

 

鍋に、野菜と肉を、切った順に放り込んだだけの料理だった。味付けは、塩だけだった。

 

「動物の餌と同じ作り方。人間も動物。問題ない」

 

春日井さんは、無表情のまま言った。

 

問題は、なかった。

 

塩だけの鍋を、私は、残さずに食べた。

 

高校の寮の食堂には、無料の定食があった。点数を使い果たした生徒が、最後に頼る、味のない定食だった。私は、一度も頼まなかった。頼まずに済むように、点数を数えていた。

 

今夜の鍋は、あの定食に、少しだけ似ていた。

 

似ていたのに、少しも、惨めではなかった。誰も、数えていないからかもしれなかった。数えられていない食事は、ただの食事だった。ただの食事を、ただ食べるのは、京都に来て、たぶん、初めてだった。

 

おいしくはなかったけれど、食べられた。食べられるものを、食べられる量だけ作る。それ以上でも、それ以下でもない料理だった。

 

食堂の長いテーブルに、六人が座った。

 

木賀峰さん。円(まどか)さん。春日井さん。彼。紫木(ゆかりき)さん。私。

 

円さんは、ほとんど食べなかった。スプーンを持って、鍋の中身を、少しずつかき混ぜていた。

 

「食べないの」

 

私が訊くと、円さんは、鼻を鳴らした。

 

「食わなくても、死なねえよ」

 

「死なないから食べない、というのは、生きている人の理屈ではないわ」

 

「知ってるよ。あたしの理屈じゃねえ。先生の理屈だ」

 

先生、と円さんは言った。

 

この家の、元の持ち主。十年前に、亡くなったことになっている人。

 

円さんは、スプーンを置いて、窓の外を見た。

 

窓の外は、もう、真っ暗だった。

 

「今夜は、星がよく見えるぜ。山の夜は、京都の夜より暗いからな」

 

暗いから、星が見える。

 

暗くなければ見えないものがある。それは、慰めの言葉のようで、慰めではなかった。

 

「今夜は、泊まってくんだな」

 

円さんが、窓の外を見たまま言った。

 

「タイヤが、パンクしたので」

 

「この家に、外の奴が泊まんのは、久しぶりだ。……十年ぶり、か」

 

十年。

 

この家の元の持ち主が、亡くなったことになってから、十年。

 

「その前は、誰が泊まっていたの」

 

「先生の、客だよ。先生は、よく客を連れてきた。連れてきて、夜通し、喋らせんだ。喋らせて、自分は、ほとんど喋らねえ。聞いてるだけ。……聞いて、全部、覚えてる奴だった」

 

円さんは、置いたスプーンを、もう一度取って、鍋の中で一回りさせた。

 

「お前も、先生に会ったら、きっと、夜通し喋らされるぜ」

 

「会うことは、ないでしょう」

 

「だろうな。会うことは、ねえかもな」

 

円さんは、そう言いながら、私を見た。

 

八百年分の目が、少しだけ、細くなった。

 

「でも、もし会ったら。……先生に、伝えてくれるか」

 

「何を」

 

円さんは、少しだけ、考える顔をした。

 

考えて、それから、首を振った。

 

「いや。やめとく。伝言を頼むのは、待つのをやめた奴のすることだ」

 

待つのをやめた人。

 

円さんは、まだ、やめていないように見えた。

 

やめていない人の伝言は、たぶん、どこにも届けなくていい。待っている人の言葉は、待っている場所に、置いたままにしておくのがいい。

 

私は、それ以上、訊かなかった。

 

円さんは、また、窓の外を見た。

 

星が、一つ、流れた気がした。気がしただけかもしれなかった。

 

 

 

 

 

夕食のあと、私は、庭に出た。

 

昨日も、今日の昼も、円さんと座った、古い木のベンチがあった。ベンチの上に、星の光が、薄く落ちていた。

 

ベンチに、誰かが座っていた。

 

黒いマントだった。

 

髪を、二つに結んでいた。

 

「あ、すずねちゃんだっ!」

 

理澄さんだった。

 

夜のうちに来ていると、今朝から分かっていた子が、膝の高さの草の中で、足をぶらぶらさせていた。

 

「……どうして、ここに」

 

「名探偵だからっ!」

 

理澄さんは、胸を張った。

 

「お兄ちゃんが、おとといの晩、表に出たでしょっ? 名探偵には、ぜーんぶ分かってるのっ! お兄ちゃんが起きてるってことは、お仕事なのっ! お兄ちゃんのお仕事の場所は、名探偵が推理すれば、すぐ分かるのっ!」

 

「ここが、そうだと」

 

「ここが、そうだよっ!」

 

理澄さんは、足をぶらぶらさせるのを、止めた。

 

「だから、来たの。お兄ちゃんが起きて、お仕事する前に、止めようと思って」

 

止める。

 

殺し屋の兄の、仕事を。

 

「止められるの」

 

「分かんないっ!」

 

理澄さんは、元気よく言った。

 

元気よく言って、少しだけ、俯いた。

 

「でもね、名探偵は、事件が起きる前に止めるのが、一番かっこいいんだよっ。起きたあとで謎を解くのは、二番目っ。……お兄ちゃんは、事件を起こす係だから、名探偵の私が、止める係なのっ」

 

「あなたの中の、お兄さんなのね」

 

「そうだよっ! 一つの体の、兄妹っ!」

 

一つの体の、兄妹。

 

おとといの夜の、外灯の下の顔を、思い出した。理澄さんの顔から、笑いを全部抜いた顔。

 

「お兄さんも、誰かを探しているの」

 

訊いてから、訊くべきではなかったと思った。

 

理澄さんは、首を傾げた。

 

「ううん。人識くんを探してるのは、私の方っ。お兄ちゃんは、人識くんのこと、お友達だと思ってるのっ。……お友達で、敵で、ライバルっ」

 

零崎(ぜろざき)、と理澄さんは言わなかった。

 

人識くん、と下の名前だけで呼んだ。

 

鞄の持ち手を持つ私の指は、動かなかった。

 

動かなかったことに、理澄さんは、気づいたようだった。

 

「すずねちゃん、今日は、握らないんだねっ」

 

「何を」

 

「鞄っ! 零崎って言わなかったから、握らなかったんだっ! 名探偵、分かっちゃったっ!」

 

理澄さんは、にっこりと笑った。

 

それから、ベンチから飛び降りた。

 

「すずねちゃん、私がこのベンチにいること、内緒にしててねっ! いーちゃんにも、姫ちゃんにもっ! 名探偵は、隠れてる方が、事件を止めやすいのっ!」

 

「誰にも、言わない方がいいの」

 

「うんっ! すずねちゃん、大好きっ!」

 

理澄さんは、草の中を、建物の裏手の方へ走っていった。

 

黒いマントが、星の光の中で、一度だけ翻って、見えなくなった。

 

草の中に、足をぶらぶらさせていた跡だけが、まだ、倒れたまま残っていた。

 

内緒にしていてね、と言われた。

 

私は、言わなかった。

 

戻る途中で、廊下の窓から、台所が見えた。

 

台所に、彼と、紫木さんがいた。

 

紫木さんが、流しの前で、鍋を洗っていた。彼は、その隣で、洗い終えた皿を拭いていた。

 

二人とも、喋っていなかった。

 

喋っていないのに、紫木さんが鍋を置くと、彼が、次の皿を受け取った。彼が皿を置くと、紫木さんが、次の鍋を洗い始めた。

 

隣同士だった。

 

言葉を使わなくても、手の動きで話が済む距離。

 

玖渚(くなぎさ)さんと彼の間にあったものと、少しだけ、似ていた。

 

似ているのに、違った。

 

玖渚さんは、彼に、しがみついていた。紫木さんは、しがみついていなかった。並んで、同じ方を向いて、同じ速さで、手を動かしていた。

 

紫木さんが、ふいに、顔を上げた。

 

窓の外の私に、気づいた。

 

気づいて、泡のついた手を、大きく振った。

 

私は、小さく、手を上げた。

 

紫木さんは、満足そうに笑って、また、鍋に戻った。

 

階段の踊り場で、彼とすれ違った。

 

彼は、手に、湯呑みを一つ持っていた。台所で淹れてきた、白湯だった。

 

「紫木さんは」

 

「先に上がったよ。君と同じ部屋で寝るって、張り切ってた」

 

「あなたは、寝ないの」

 

「寝るよ。寝る前に、少しだけ、外を見てから」

 

彼は、踊り場の小さな窓から、外の暗がりを見た。

 

庭のベンチの方角だった。

 

私は、何も言わなかった。

 

理澄さんは、内緒にしてね、と言った。いーちゃんにも、と言った。言われたとおりに、私は、口を閉じていた。

 

閉じた口の内側で、言葉が一つ、喉の手前まで来ていた。

 

庭に、誰かいるわ。

 

それを言えば、彼は、庭へ降りていく。降りていけば、名探偵は、隠れていられなくなる。隠れていられなくなった名探偵は、たぶん、事件を止めにくくなる。

 

止める係の邪魔を、私は、したくなかった。

 

「……星が、見えるわ」

 

代わりに、それだけ言った。

 

彼は、窓の外から、目を戻した。

 

私の顔を、少しだけ見た。

 

見て、何かを受け取ったのかどうかは、分からなかった。分からなかったけれど、彼は、それ以上、窓の外を見なかった。

 

「見えるね。山の夜は、暗いから」

 

円さんと、同じことを言った。

 

暗いから、見える。

 

私が言わなかったことが、彼に見えたのかどうか。暗いところに置いたものは、見える人にだけ、見える。

 

「姫ちゃんが、今夜は護衛の時間だって言ってた」

 

彼が、湯呑みを持ち直しながら言った。

 

「誰の」

 

「ぼくの。……断ったんだけどね。護衛は要らないって。そうしたら、要らないと言われる方が、護衛のしがいがあるです、って」

 

彼は、少しだけ笑った。

 

笑ったけれど、その笑い方は、いつもより、少しだけ短かった。

 

「止めなかったの」

 

「止める理由が、見つからなかった。……見つからなかったっていうか、止めたら、あの子の、自分で決めたことを取り上げることになる気がした」

 

自分で決めたこと。

 

昨日の朝、車の中で、紫木さんは言った。昨日は、師匠、何も決めてくれなかった。だから、自分で決めなきゃいけなかった。

 

決めることを覚えたばかりの子の、最初の決めごとを、取り上げる。

 

取り上げられないのは、たぶん、私も、同じだった。

 

「おやすみ、堀北さん」

 

「おやすみなさい」

 

彼は、湯呑みを持ったまま、二階の廊下の奥へ歩いていった。

 

私は、踊り場に、少しだけ残った。

 

小さな窓の向こうの暗がりに、黒いマントは、もう見えなかった。

 

見えなかったのは、いなくなったからなのか。私の目が、もう、そこを見ないように決めたからなのか。

 

 

 

 

 

寝る部屋は、二階に、三つ用意された。

 

木賀峰さんと円さんは、一階の、奥の部屋で寝ると言った。春日井さんは、一人で一部屋。彼が、一部屋。

 

私と紫木さんが、同じ部屋になった。

 

古い洋室だった。ベッドが二つ、壁際に並んでいた。窓に、厚いカーテンがかかっていた。

 

紫木さんは、ベッドに飛び込むなり、枕を抱えて、ごろごろと転がった。

 

「ほりきたさんと同じ部屋です! 修学旅行です!」

 

「修学旅行には、行ったことがないの?」

 

紫木さんの転がるのが、止まった。

 

「……行ったこと、ないです。澄百合の修学旅行は、なんか、違う旅行でしたから」

 

違う旅行。

 

何が違ったのかは、訊かなかった。

 

六月に、私は、あの学校の中を見た。首吊高校、と呼ばれる学校の、生徒たちの目を見た。あの学校の修学旅行が、どこへ行って、何をするものだったのか。想像はできた。想像して、やめた。

 

「ほりきたさんは、行ったことあるですか」

 

「……あるわ。北海道に」

 

「えー、いいなあ!」

 

「よくはないわ。私の学校も、違う学校だったから」

 

政府が作った、全寮制の学校。三年間、外に出られない場所。

 

旅行は、あった。あったけれど、どれも、旅行の形をした試験だった。船の上で、無人島で、私たちは、点数を奪い合った。北海道の雪の中でさえ、私は、誰が誰と組むのかを数えていた。

 

「じゃあ、今日が、二人とも初めての、試験じゃない修学旅行です!」

 

紫木さんは、また、ごろごろと転がった。

 

転がりながら、笑っていた。

 

私は、自分のベッドに腰を下ろした。

 

灯りを消す前に、紫木さんが、急に静かになった。

 

枕を抱えたまま、天井を見ていた。

 

「ほりきたさん」

 

「何」

 

「姫ちゃん、澄百合から出られて、よかったです」

 

小さな声だった。

 

さっきまでの声とは、違った。

 

「ほりきたさんが、《出たいの》って訊いてくれたから。……あの時、誰も、姫ちゃんに、そういうこと訊かなかったです。出ろとか、出るなとか、そういうのばっかりで。出たいかどうかは、誰も訊かなかったです」

 

六月の、糸の廊下。

 

私は、紫木さんに向かって、一歩、踏み出した。踏み出して、出たいの、と訊いた。

 

訊いた隙に、赤い人が、背後へ回った。

 

私は、隙を作るために訊いたのではなかった。訊きたかったから、訊いた。けれど、結果として、私の問いは、隙になった。

 

紫木さんは、それを、知っているのだろうか。

 

知っていて、よかった、と言っているのだろうか。

 

「……あの時、あなたは、出たい、と答えたわ」

 

「答えたです。最初のは、出たいって言うのが正解だと思ったからです。二回目のは、……ほんとでした。でも、出たあとのことは、考えたこと、なかったです」

 

紫木さんは、天井を見たまま、続けた。

 

「今なら、答えられるです。出たかったです。出て、赤点取って、師匠に怒られて、ほりきたさんに国語を教わって、今日みたいに、お泊まりしたかったです」

 

したかった、と、紫木さんは言った。

 

過去の形だった。

 

したい、ではなかった。

 

私は、その言い方に、少しだけ、引っかかった。引っかかったけれど、何も言わなかった。言葉を、少しずつずらして覚える子だ。今のも、きっと、ずれただけだと思った。

 

思った。

 

「ほりきたさんみたいな人を、なんていうか、知ってるです」

 

「何」

 

「七転び、八座り!」

 

紫木さんは、天井に向かって、指を八本立てた。

 

「七回転んで、八回目に、座るんです。起きるんじゃなくて、座るんです。ほりきたさんは、転んでも、起き上がらないで、そこに座っちゃう人です」

 

「起き上がらないのは、褒め言葉ではないでしょう」

 

「褒め言葉です! 起き上がる人は、また走って転ぶです。座る人は、もう転ばないです。……姫ちゃん、転んでばっかりだったから、座る人、好きです」

 

七転び八起き。

 

七回転んでも、八回起き上がる。不屈の言葉だった。

 

紫木さんは、それを、八回目に座る、とずらした。

 

ずらした方が、私には、合っていた。

 

「……ありがとう」

 

言ってから、自分で驚いた。

 

紫木さんは、枕から顔を上げて、目を丸くした。

 

「ほりきたさんが、ありがとうって言ったです!」

 

「言ったわ」

 

「明日、雪が降るです!」

 

「八月よ」

 

「じゃあ、明日は、八月の雪です!」

 

紫木さんは、笑った。

 

笑って、枕に顔を埋めた。

 

「おやすみなさいです、ほりきたさん」

 

「おやすみなさい」

 

灯りを、消した。

 

暗くなった部屋の中で、紫木さんの寝息が、すぐに聞こえ始めた。

 

私は、なかなか眠れなかった。

 

眠れないまま、タイヤに刺さっていた釘のことを、考えていた。

 

新しすぎる釘。

 

口に出さなかった。口に出したら、誰かが、何かを決めなければならなくなる気がした。

 

けれど、口に出さなかったことで、誰かが、何かを決めずに済んだのだろうか。

 

それとも、決めるべき人が、決めないまま、夜になっただけなのだろうか。

 

 

 

 

 

夜中に、目が覚めた。

 

何の音で目が覚めたのかは、分からなかった。

 

部屋は、真っ暗だった。カーテンの隙間から、星の光が、細く差し込んでいた。

 

隣のベッドを見た。

 

空だった。

 

紫木さんが、いなかった。

 

布団が、きれいに畳まれていた。枕が、布団の上に、まっすぐに置かれていた。いつ畳んだのか、音は聞こえなかった。

 

畳まれた布団の上に、紙が一枚、置いてあった。

 

暗くて、字は読めなかった。

 

カーテンを、少しだけ開けた。星の光で、紙を照らした。

 

〈師匠の護衛の時間です。堀北さんは、お部屋にいてください。 姫〉

 

字は、きれいだった。

 

国語の問題集の余白に、自分のため、と書いた時の字だった。

 

お部屋にいてください。

 

私は、紙を持ったまま、しばらく動かなかった。

 

出ない方がいい。ここにいなさい。部屋にいてください。

 

正しい答えを、私は、何度も聞いてきた。聞くたびに、違う方へ座ってきた。

 

今度も、違う方へ座るべきだろうか。

 

廊下に出て、紫木さんを探して、何が起きているのかを、この目で見るべきだろうか。

 

見て、何ができるのだろう。

 

六月の糸の廊下で、私は、紫木さんの糸の前に立った。立って、問いかけた。問いかけることしか、できなかった。問いかけが隙になったのは、赤い人が、そこにいたからだ。

 

今夜、赤い人は、いない。

 

私が廊下に出て、紫木さんの前に立ったら、紫木さんは、私を守るために、手を一本、余計に使うことになる。

 

護衛の時間です、と紫木さんは書いた。

 

護衛というのは、守るものの数が少ないほど、うまくいく。

 

私は、紙を、畳まれた布団の上に戻した。

 

戻して、部屋の扉の前まで歩いた。

 

扉を、開けなかった。

 

開けずに、扉の内側の床に、座った。

 

背中を、扉に預けた。

 

ここにいてください、と言われた場所に、私は、座ることにした。言われたからではない。ここに座ることを、自分で選んだ。

 

扉の外で何かが起きたら、扉越しに、聞こえる。聞こえたら、そこで、もう一度選ぶ。

 

それまでは、ここで、待つ。

 

円さんの言葉を、思い出した。待ってる、と、はっきり言える人だった。来ないと分かっていて、待っている、と。私は、座っている、としか言えない。それでも、今夜だけは、待っている、と言ってもいい気がした。

 

私は、待っていた。

 

紫木さんが、戻ってくるのを。

 

 

 

 

 

音が、した。

 

遠い音だった。一階の、奥の方からだった。

 

何かが、壁にぶつかる音。何かが、割れる音。それから、短い、笑い声のようなもの。

 

笑い声は、紫木さんのものではなかった。

 

もっと低くて、もっと乾いていた。喉の奥で、何かを引き裂くような笑い方だった。

 

私は、扉の取っ手に手をかけた。

 

冷たかった。

 

赤い車の取っ手と、同じ冷たさだった。

 

かけて、動かなかった。

 

動かないまま、音を、聞いていた。

 

音は、長くは続かなかった。

 

続かなかったことが、何を意味するのかを、私は考えないようにした。

 

考えないようにして、考えていた。

 

それから、静かになった。

 

静かになってから、長い時間が経った。

 

廊下を、足音が一つ、通り過ぎた。

 

紫木さんの足音ではなかった。紫木さんの足音は、もっと軽くて、もっと跳ねる。

 

この足音は、重くはなかった。重くはないのに、一歩ごとに、床板が、深く沈んだ。

 

足音は、私の部屋の前で、止まらなかった。

 

止まらずに、通り過ぎて、階段を降りていった。

 

玄関の扉が、開いて、閉まった。

 

それきり、何も聞こえなくなった。

 

私は、扉に背を預けたまま、座っていた。

 

紫木さんは、戻ってこなかった。

 

カーテンの隙間の星が、一つずつ、薄くなっていった。

 

 

 

 

 

窓の外が、白み始める少し前に、私は、立ち上がった。

 

立ち上がって、畳まれた布団の上の紙を、取った。

 

〈師匠の護衛の時間です。堀北さんは、お部屋にいてください。 姫〉

 

もう一度読んで、二つに折った。

 

鞄からノートを出して、いちばん後ろのページを開いた。十一桁の数字が書いてある紙が、そこに挟まっていた。

 

その隣に、折った紙を挟んだ。

 

名前のない番号と、姫、とだけ書いた紙。

 

どちらも、私に、何かを頼んではいなかった。一枚は、いつかかけるかもしれない番号を、置いていっただけ。もう一枚は、ここにいてください、と書いていっただけ。

 

頼まれていないのに、私は、どちらも、捨てられずにいる。

 

ノートを閉じた。

 

閉じたノートの、いちばん後ろが、少しだけ、厚くなった。

 

窓の外が、白み始めた頃、私は、扉を開けた。

 

廊下は、静かだった。

 

隣の部屋の扉が、開いていた。彼の部屋だった。

 

中に、彼はいなかった。

 

春日井さんの部屋の扉も、開いていた。中は、空だった。荷物も、なかった。

 

階段を、降りた。

 

一段ごとに、板が鳴った。

 

鳴る階段は、昇る人間の数を、数えている。降りる人間の数も、たぶん、数えている。

 

一階の廊下に、彼が立っていた。

 

奥の部屋の、扉の前だった。

 

 

 

 

 

彼は、扉の中を見ていた。

 

私の足音に、振り返らなかった。

 

「……見ない方がいい」

 

彼が、言った。

 

いつもの声ではなかった。

 

声の中に、何も入っていなかった。中身を全部どこかに置いてきて、外側だけが喋っているような声だった。

 

「見ます」

 

私は、言った。

 

彼は、止めなかった。

 

止める力が、もう、残っていないように見えた。

 

私は、彼の隣に立った。

 

隣に、立った。

 

一つ空けずに、隣に立つのには、まだ、慣れていなかった。

 

扉の中を、見た。

 

 

 

 

 

奥の部屋には、三人がいた。

 

木賀峰さんと、円さんと、黒いマントの少女。

 

理澄さんだった。

 

昨夜、庭のベンチで、足をぶらぶらさせていた子だった。お兄ちゃんのお仕事を止める、と言った子だった。

 

内緒にしていてね、と言われた。

 

私は、誰にも言わなかった。

 

言っていたら、何かが、変わったのだろうか。

 

変わらなかったかもしれない。変わったかもしれない。どちらなのかを、私は、もう、確かめることができない。

 

三人とも、動いていなかった。

 

動いていないことの意味を、私は、もう、知っていた。五月に知った。六月に、もう一度知った。七月にも、壁の前で知った。

 

円さんは、窓際の椅子に座ったまま、目を閉じていた。

 

死ねない、と言った人だった。選べない方だ、と言った人だった。

 

選べないまま、八百年を待った人が、目を閉じていた。

 

選べたのだろうか、と思った。

 

最期に。

 

最後、ではなく。

 

それとも、誰かに、選ばされたのだろうか。

 

部屋の真ん中に、糸が、切れて散らばっていた。

 

細い、細い糸だった。光の加減で、見えたり、見えなくなったりした。

 

床の上に、蜘蛛の巣を引き裂いたような形で、散らばっていた。

 

その糸の、端の方に。

 

紫木さんが、倒れていた。

 

枕を抱えて転がっていた子だった。七転び八座り、と言った子だった。明日は八月の雪です、と笑った子だった。

 

うつ伏せだった。

 

顔は、見えなかった。

 

見えなかったけれど、紫木さんだと、分かった。

 

指が、見えたからだ。

 

床の上に投げ出された手の、細い指。七月に、国語の問題集の余白に、自分のため、と書いた指。糸が伸びていた指。私が、一度だけ手を置いた指。

 

その指が、もう、何も握っていなかった。

 

私は、部屋の中へ、一歩、入った。

 

彼が、私の腕を掴んだ。

 

掴む力は、弱かった。

 

弱かったけれど、私は、そこで止まった。

 

止まって、紫木さんを見ていた。

 

目を、逸らさなかった。

 

逸らさないでいることだけが、今の私に、できることだった。

 

《姫ちゃん、澄百合から出られて、よかったです》

 

昨夜の声が、耳の奥で鳴った。

 

したかった、と、紫木さんは言った。

 

過去の形で。

 

ずれたのではなかった。

 

あの子は、たぶん、分かっていた。今夜、師匠の護衛をすることが、何を意味するのかを。分かっていて、私に、部屋にいてください、と書いた。

 

私は、部屋にいた。

 

紫木さんが、そう頼んだから。

 

頼まれたとおりに、座っていた。

 

座っていたことが、正しかったのかどうか。

 

答えは、もう、どこにもなかった。答えをくれる人に電話をしても、この問いの答えだけは、誰も持っていない。

 

私は、紫木さんの前で、膝をついた。

 

膝をついて、そのまま、床に座った。

 

七回転んで、八回目に、座る。

 

あの子が、そう言った。

 

私は、座った。

 

隣で、彼が、壁に背中を預けて、ずるずると、床に沈んでいった。

 

二人とも、床に座っていた。

 

一つ空けずに、隣に。

 

窓の外で、鳥が鳴き始めていた。

 

八月の朝だった。

 

雪は、降っていなかった。

 

降っていない雪の代わりに、窓の外の光が、床の上の細い糸を、白く照らしていた。

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