ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第28話 縁(円)

縁は、円に似ている。

 

どちらも、えん、と読む。どちらも、ぐるりと回って、元の場所へ戻ってくる。

 

円には、中心がある。縁には、ない。

 

中心のない輪の中に、人は、知らないうちに立っている。立っていることに気づくのは、輪の外にいる誰かに、指をさされた時だ。

 

 

 

 

 

どれくらい、床に座っていたのかは、分からない。

 

窓の外が、すっかり明るくなっていた。

 

紫木(ゆかりき)さんの指が、朝の光の中で、白く見えた。

 

いつのまにか、私の手は、その指の上にあった。

 

隣で、彼が、壁に背中を預けていた。膝を抱えて、顔を伏せていた。肩が、少しも動いていなかった。泣いているのではなかった。泣くことさえ、どこかに置いてきたような座り方だった。

 

警察を、呼ばなければならない。

 

そう思ったのは、私だった。

 

思ったのに、すぐには、立てなかった。

 

立ったら、紫木さんの前から、離れることになる。

 

離れなければ、誰も、紫木さんを、ここから運び出してくれない。

 

私は、手を、離した。

 

離して、立った。

 

膝が、少しだけ、震えた。

 

震えたまま、廊下へ出た。

 

玄関の脇に、古い黒電話があった。スマートフォンは、ここでは、ほとんど電波が入らなかった。

 

受話器を取った。

 

ダイヤルを、三つ回した。

 

一、一、〇。

 

指が、覚えている十一桁とは、違う数字だった。

 

 

 

 

 

『事件ですか、事故ですか』

 

「事件です」

 

声は、思ったより、落ち着いていた。

 

住所を言った。看板の名前を言った。何人が、どうなっているのかを、見たとおりに言った。

 

見たとおりに言うのは、難しくなかった。

 

見たものを、見なかったことにするのが、難しいのだ。

 

受話器を置いた。

 

置いてから、もう一度、受話器を取りかけた。

 

十一桁の番号が、指先にあった。

 

かけなかった。

 

この問いの答えを、綾小路くんは、持っていない。誰も、持っていない。

 

受話器を、置いた。

 

廊下を戻った。

 

奥の部屋の敷居で、彼は、さっきと同じ形で座っていた。膝を抱えて、顔を伏せて。

 

私は、その隣に、もう一度座った。

 

一つ空けずに。さっき、そう座ったから。座り直すのに、空ける理由を、今は思いつかなかった。

 

「呼んだわ。警察」

 

「……うん」

 

「来るまで、ここにいるわ」

 

「うん」

 

彼は、顔を上げなかった。

 

上げないまま、小さく言った。

 

「姫ちゃんの、書き置き。……君の部屋に、あった?」

 

「あったわ。お部屋にいてください、と」

 

「ぼくの部屋には、なかった」

 

彼の声は、平らだった。平らなまま、少しだけ、掠れていた。

 

「護衛するって言われて、断って、それきりだった。書き置きは、ぼくには、なかった。……師匠には、何も残さないで、君には、残していった」

 

「あなたには、言わなくても伝わると思ったのよ」

 

言ってから、慰めの形をした言葉だと気づいた。

 

気づいたけれど、取り消さなかった。慰めの形をしていても、嘘ではないかもしれなかった。嘘ではないかもしれないものを、取り消す理由はなかった。

 

彼は、何も言わなかった。

 

言わないまま、膝を抱える腕に、少しだけ、力を入れた。

 

遠くで、鳥が鳴いていた。

 

サイレンは、まだ、聞こえなかった。山の奥まで、警察の車が登ってくるには、時間がかかる。かかる時間の分だけ、私たちは、ここに座っていられる。座っていられる時間を、私は、少しだけ、ありがたいと思った。ありがたいと思ったことを、誰にも言わないでおこうと思った。

 

 

 

 

 

玄関の扉が、開いた。

 

警察ではなかった。まだ、早すぎた。

 

男が、一人、立っていた。

 

 

 

 

 

背の高い男だった。和服を着ていた。紺の着流しに、白い帯。足元は、雪駄だった。

 

顔に、面をつけていた。

 

狐の面だった。白い地に、赤い隈取り。目のところだけが、細く切り抜かれていた。切り抜かれた奥の目は、見えなかった。

 

見たことのある面だった。

 

研究室の壁の、白黒の写真。診療所の前で、白衣を着て、面をつけて立っていた人。顔を残すと、物語がそこで終わってしまうから、と木賀峰(きがみね)さんは言った。

 

写真の中の人が、写真の外に、立っていた。

 

男は、玄関に立ったまま、家の中を、ぐるりと見回した。

 

見回して、私で、止まった。

 

「ふん」

 

鼻を鳴らした。

 

それだけだった。

 

男は、私の横を通り過ぎて、廊下の奥へ歩いていった。雪駄の音が、古い床板の上で、ぺたぺたと鳴った。

 

奥の部屋の扉の前で、男は、足を止めた。

 

扉の中を、見た。

 

窓際の椅子に座ったまま、目を閉じている円(まどか)さんを、見た。

 

男は、長いあいだ、動かなかった。

 

面の奥の顔が、どんな顔をしているのか、私には分からなかった。分からないように、面をつけているのだと思った。

 

「……八百年か」

 

男が、言った。

 

低い声だった。

 

「待たせすぎたな。ふん。待つ方も、待たせる方も、同じことだ」

 

同じこと、と男は言った。

 

同じであるはずがなかった。

 

扉の前の床に、彼が座っていた。

 

男は、そこで初めて、彼に気づいたように、首を傾けた。

 

傾けた首が、ゆっくりと、元に戻った。

 

「よう」

 

男が、言った。

 

「──俺の敵」

 

彼が、顔を上げた。

 

上げた顔に、何も、浮かんでいなかった。

 

「……誰ですか、あなたは」

 

「《誰ですか》、か。ふん。そんなことは、どちらでも同じことだ」

 

男は、着流しの袖に、両手を入れた。

 

「西東天(さいとうたかし)。この家の、元の持ち主だ。十年前に、死んだことになっている」

 

西東診療所。

 

文字の消えかけた看板。研究室の、面の写真。

 

木賀峰さんの、昔の師。円さんを、研究のために買い取った人。円さんが、待ち続けた人。

 

戻ってこねえよ、と円さんは言った。戻ってこねえ奴を、八百年分の最後の十年、待った、と。待ったことは、待ったまま、ここに残る、と。

 

戻ってきた。

 

円さんが、目を閉じたあとで。

 

「お前のことは、木賀峰から聞いていた」

 

西東さんは、彼を見下ろした。

 

「お前の周りでは、人が死ぬ。死ぬというより、狂う。狂って、勝手に終わっていく。……お前は、物語を、終わらせる側の人間だ。俺は、物語の終わりが見たい。だから、お前は、俺の敵だ」

 

彼は、何も言わなかった。

 

言い返す言葉を、持っていないのではなかった。持っていた言葉を、全部、紫木さんの前に置いてきてしまった顔だった。

 

「今朝のこれは、お前のせいではない」

 

西東さんは、言った。

 

「俺が、頼んだ。木賀峰と、朽葉を。……匂宮(におうのみや)の、殺し屋にな」

 

息が、止まった。

 

頼んだ。

 

この人が、頼んだ。

 

「どうして」

 

声を出したのは、私だった。

 

西東さんの面が、ゆっくりと、こちらを向いた。

 

「木賀峰は、俺の研究を、俺の許しなく続けていた。朽葉は、俺を待ちすぎた。待たれすぎると、人は、物語から降りられなくなる。……俺は、降りたかった。それだけだ」

 

降りたかった。

 

その字を、この人の口から聞くとは、思わなかった。

 

「降りるために、人を殺させたの」

 

「殺させたのは、木賀峰と朽葉だけだ。あとの二人は、俺の頼んだことではない。……殺し屋の妹と、お前たちの護衛の娘が、勝手に殺し合った。殺し屋の兄が、勝手に後始末をした。……兄の方から、さっき聞いた。それだけのことだ」

 

それだけのこと。

 

紫木さんが。理澄さんが。

 

勝手に。

 

兄の方から、聞いた。

 

一つの体の兄妹だと、理澄さんは言った。その体は、奥の部屋で、動かなくなっていた。

 

動かなくなった体の外で、兄の方が、この人に、話をしたという。

 

体は、一つではなかった。

 

私は、西東さんを見ていた。

 

面の、細い切り抜きの奥を、見ようとしていた。

 

見えなかった。

 

見えなかったけれど、目を、逸らさなかった。

 

 

 

 

 

西東さんは、廊下を少し戻って、窓の大きな部屋に入った。

 

三日前、私が、木賀峰さんの質問を受けた部屋だった。

 

机の上に、紙の束が、置いたままになっていた。

 

西東さんは、その束を、一枚ずつめくった。

 

めくる手が、ある一枚で、止まった。

 

裏返しに置かれていた紙だった。三日前、木賀峰さんが、私の答えを書きつけて、裏返した紙。

 

西東さんは、それを、表に返した。

 

読んだ。

 

それから、面を、私の方へ向けた。

 

「堀北鈴音」

 

名前を、呼ばれた。

 

「木賀峰の字だ。……《死を怖がる。避けたいとも言う。だが、避けるために降りるのは嫌だ、と言う。死を笑う者を知っている顔をする。死なない者と、死ぬ場所に座る者は逆だ、と言った》」

 

西東さんは、紙を、机の上に戻した。

 

「お前は、戯言遣いの、隣の隣に座っていた。四月から、ずっと。……木賀峰の調べでは、そうなっている」

 

私は、何も言わなかった。

 

「五月に、三人が死んだ。三人とも、お前と同じ語学の教室にいた。六月に、学校が一つ潰れた。お前は、その中にいた。七月に、研究所が一つ潰れた。お前は、その地下にいた。……木賀峰は、戯言遣いの四月からを調べていて、どの月にも、お前の名前に行き当たったそうだ。そして、今朝」

 

西東さんは、首を、少しだけ傾けた。

 

「お前は、どの物語にも、いた。いたのに、どの物語にも、巻き込まれていない。狂ってもいない。死んでもいない。……物語の中に立っていて、物語の糸が、一本も、お前に絡まっていない」

 

糸。

 

紫木さんの、切れて散らばった糸が、頭に浮かんだ。

 

「お前は、何者だ」

 

西東さんが、言った。

 

「……ふん。《何者ですか》、と訊かれたら、俺は、どちらでも同じことだと答える。だが、お前の場合は、本当に、何者でもない。だから、困る」

 

困る、と、この人は言った。

 

困っているようには、聞こえなかった。

 

面白がっている声だった。

 

「戯言遣いは、俺の敵だ。俺の娘は、俺の娘だ。……お前は」

 

西東さんは、そこで、言葉を止めた。

 

止めたまま、長いあいだ、私を見ていた。

 

面の奥で、何かを探しているように見えた。

 

それから、ゆっくりと、言った。

 

「お前は──俺の、何だ」

 

 

 

 

 

問いの形をしていた。

 

この人が、自分のことを人に問うのを、初めて聞いた。

 

西東さんは、しばらく、黙っていた。私の答えを待っているようには、見えなかった。

 

「……分からん。敵でも、娘でも、孫でもない。……ふん。では、こうしておこう」

 

西東さんは、面の顎を、一度だけ撫でた。

 

「お前は──俺の、保留だ」

 

 

 

 

 

保留。

 

保って、留める。決めないまま、手元に置いておくこと。

 

人は、決められないものを、一番怖がる。怖がって、とりあえず、何かの名前で呼ぶ。化け物、と。他人、と。呼んでしまえば、少しだけ、怖くなくなるからだ。

 

この人は、呼ばなかった。

 

呼ぶのを、保留した。

 

「保留なら」

 

私は、言った。

 

「会う理由も、ないでしょう」

 

「ない」

 

西東さんは、即答した。

 

「理由がないから、話している。理由のある奴とばかり話していると、物語が、すぐに終わる。……保留の奴とは、終わらない話ができる」

 

「私は、あなたと、終わらない話をするつもりはないわ」

 

「だろうな」

 

西東さんは、面の下で、少しだけ笑ったようだった。

 

「もう一つ、教えておいてやろう。俺は、零崎(ぜろざき)」

 

西東さんは、そこで、一度だけ、言葉を切った。

 

零崎。

 

七度目だった。

 

私の指が、机の縁を、掴んでいた。

 

掴んでから、気づいた。

 

「……人識に、会いたいと思っている」

 

人識、と続いた時、指は、掴んだ形のまま、それ以上は、動かなかった。

 

西東さんの面が、私の指を見ていた。

 

「……ふん。零崎、に反応したな」

 

切り抜きの奥の目は、見えなかった。

 

見えないのに、見られていることだけは、分かった。

 

「人識、ではなく、零崎の方に。……木賀峰の紙には、そのことは書いていなかった。あいつも、そこまでは調べきれなかったか」

 

私は、指を、机から離した。

 

離すのが、遅かった。

 

この夏、私は、同じことを何度もしている。零崎、と聞くたびに、どこかを掴んで、掴んだことを、相手に見られる。

 

「お前の縁の中に、零崎がいる。人識ではない、誰かが」

 

西東さんは、袖から、片手を出した。

 

出した手で、面の顎のあたりを、軽く撫でた。

 

「お前自身は、縁に絡まっていない。だが、お前の知っている誰かが、絡まっている。……面白い。名前も付かんくせに、誰かの縁を、一本だけ握っている」

 

「何が言いたいの」

 

「何も。俺は、言いたいことを言わない主義だ。言ったら、物語が、俺の言ったとおりに動いてしまう」

 

西東さんは、背を向けた。

 

部屋を出かけて、扉のところで、足を止めた。

 

振り返らなかった。

 

「俺は、別れ際に、決まってこう言う。縁が合ったら、また会おう、とな」

 

雪駄が、床板の上で、一度だけ鳴った。

 

「だが、お前には、合う縁がない。……だから、お前には、こう言っておく」

 

西東さんは、少しだけ、間を置いた。

 

「縁が《合わなかったら》、また会おう」

 

 

 

 

 

ぺたぺたと、雪駄の音が、廊下を遠ざかっていった。

 

奥の部屋の前で、一度だけ、止まった。

 

止まって、彼に、何かを言ったようだった。何を言ったのかは、聞こえなかった。

 

それから、玄関の扉が開いて、閉まった。

 

遠くで、サイレンの音が、聞こえ始めていた。

 

 

 

 

 

警察が来て、帰りの車を手配してくれたのは、昼を過ぎてからだった。

 

佐々(ささ)さんが、来た。

 

京都府警の、あの刑事。五月に四度、私の部屋に来た人。

 

佐々さんは、奥の部屋を見て、それから、廊下の床に座ったままの彼を見て、最後に、私を見た。

 

「……また、あなたね」

 

責める声ではなかった。

 

「見たものを、話してもらえる?」

 

「話します」

 

私は、話した。

 

紫木さんの書き置き。夜中の音。扉の内側で、座っていたこと。廊下を通り過ぎた、一つの足音。朝の、四人。それから、狐の面の男のこと。

 

西東天、という名前を出した時、佐々さんの手帳を持つ指が、一瞬だけ止まった。

 

止まって、何も言わなかった。

 

言わなかったけれど、その名前を、この人は、知っているのだと思った。

 

「春日井(かすがい)さんは」

 

私は、訊いた。

 

「見つかっていないわ。荷物ごと、いなくなってる」

 

いなくなった。

 

春日井さんは、自分で、どこかへ行ったのだろうか。行く所がないと言っていた人が、行く所を、自分で決めたのだろうか。

 

そうであってほしい、と思った。

 

佐々さんは、手帳を閉じた。

 

閉じてから、私の顔を、もう一度だけ見た。

 

「名刺、まだ持ってる?」

 

「三枚、持っています」

 

「そう」

 

佐々さんは、少しだけ、口の端を緩めた。緩めたのは、ほんの一瞬だった。

 

「五月に、見たものを全部一人で持っている必要はない、って言ったわね」

 

「覚えています」

 

「今日のあなたは、全部、話してくれた。……話してくれた人に、こういうことを言うのは、刑事としては、たぶん、間違ってるんだけど」

 

佐々さんは、廊下の奥の、閉じられた扉の方を見た。

 

「話したからって、軽くなるとは限らないの。話したものは、私の手帳に移る。でも、見たものは、あなたの目に残る。手帳には、目の分までは、移せない」

 

移せない。

 

見たものは、見た人の目に、残る。

 

「分かっています」

 

「分かってるなら、いいわ」

 

佐々さんは、手帳を、上着の内ポケットにしまった。

 

「四枚目の名刺は、置いていかない。三枚あれば、足りるでしょ。……足りなくなったら、それは、私が、あなたのところに来すぎたってことだから」

 

佐々さんは、それだけ言って、廊下の奥へ戻っていった。

 

戻っていく背中を、私は見ていた。

 

三枚の名刺は、部屋の机の引き出しに入っている。一度も、そこに書いてある番号にかけたことはなかった。

 

かけたことがないのに、三枚とも、捨てていない。

 

ノートのいちばん後ろの紙と、同じだった。

 

私の持ち物は、かけない番号ばかりで、できている。

 

かけない番号は、減らない。かける番号は、かけるたびに、少しずつ、すり減っていく気がする。すり減らないように、かけずにおいているのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

帰りの車の中で、彼は、一言も喋らなかった。

 

窓の外を見ていた。

 

見ているのに、何も見ていなかった。

 

私は、隣に座っていた。

 

後ろの座席で、一つ空けずに、隣に。

 

空けるべきだったのかもしれない。いつものように、一つ空けて。

 

空けなかった。

 

空けたら、この人が、どこかへ落ちていってしまう気がした。

 

京都の街が、見えてきた頃、彼が、初めて口を開いた。

 

「……あの人に、言われたんだ」

 

「西東さんに?」

 

「出ていく時に。……《お前の隣には、俺の保留が座っているな》って」

 

彼は、窓の外を見たままだった。

 

「ぼくは、隣に誰かを座らせると、その誰かが、いなくなる。姫ちゃんも、いなくなった。……君は、今、ぼくの隣に座ってる」

 

「座っているわ」

 

「どうして」

 

私は、答えを探した。

 

探して、見つからなかった。

 

見つからないまま、言った。

 

「保留だから、だそうよ」

 

彼は、少しだけ、こちらを向いた。

 

何も浮かんでいなかった顔に、ほんの少しだけ、何かが戻ってきていた。

 

「保留、か」

 

「ええ。西東さんに、そう言われたわ。お前は、俺の保留だ、と」

 

「……縁がない、ってことかな」

 

「縁が合わない、ということらしいわ」

 

彼は、また、窓の外を向いた。

 

向いたまま、小さく言った。

 

「縁が合わない人なら、ぼくの隣にいても、いなくならないのかもしれないね」

 

「さあ」

 

私は、言った。

 

「それは、座ってみないと分からないわ」

 

彼は、何も言わなかった。

 

何も言わなかったけれど、肩が、ほんの少しだけ、下がった。

 

ずっと、上がったままだった肩が。

 

車が、骨董アパートの前で止まった。

 

一階の、いちばん奥の扉が、閉まっていた。

 

もう、誰も、そこから飛び出してこなかった。

 

二階の窓に、浅野(あさの)さんが立っていた。

 

甚平の袖が、風に揺れていた。

 

浅野さんは、車から降りる彼を、黙って見下ろしていた。

 

それから、窓を閉めて、姿を消した。

 

階段が、鳴った。

 

浅野さんが、降りてくる音だった。

 

私は、それを聞いて、車を降りなかった。

 

降りずに、運転手に、自分の部屋の住所を告げた。

 

ここから先は、私の座る場所ではない。

 

隣の部屋の人が、降りてくる。

 

彼の隣は、今は、浅野さんのものだ。

 

車が、走り出した。

 

バックミラーの中で、骨董アパートの前に、二つの影が並んでいるのが見えた。

 

並んだ影を、私は、最後まで見ていた。

 

見えなくなってから、窓の外に、目を移した。

 

八月の京都は、暑かった。

 

暑いのに、指先だけが、ずっと冷たかった。

 

紫木さんの指の上に置いた手だった。

 

 

 

 

 

部屋に着いたのは、三時を過ぎた頃だった。

 

鍵を開けて、靴を脱いで、鞄を床に置いた。

 

置いた鞄の口から、ノートの角が、少しだけ覗いていた。

 

拾い上げて、いちばん後ろのページを開いた。

 

十一桁の紙と、姫、とだけ書いた紙が、並んで挟まっていた。

 

並んでいる二枚を、しばらく見ていた。

 

見ているうちに、机の上の、別のものが目に入った。

 

国語の問題集だった。

 

紫木さんの部屋で使っていたものと、同じ問題集だった。教える前に、自分でも一度解いておこうと思って、本屋で買った。次の金曜日に、紫木さんの部屋で、続きをやる約束になっていた。

 

付箋が、一枚、貼ってあった。

 

次はここから、と、私の字で書いてあった。

 

ことわざの単元だった。

 

情けは人の為ならず。急がば回れ。七転び八起き。

 

紫木さんが、どれも少しずつずらして覚えたことわざが、問題集の上に、正しい形で並んでいた。

 

正しい形の方が、ずっと、知らない言葉に見えた。

 

私は、付箋を剥がさなかった。

 

剥がさずに、問題集を、閉じた。

 

閉じた問題集を、本棚の、いちばん端に差し込んだ。

 

次の金曜日は、来る。

 

来るけれど、次はここから、の、ここから先を、解く人は、もういない。

 

答えの決まっている問題を、答えを書く人がいなくなったまま、本棚に置いておく。

 

語学の試験の日、教卓の端に重ねられていた、白い四枚の答案用紙を、思い出した。

 

あの四枚を、先生は、捨てずに、鞄にしまっていた。

 

私も、捨てなかった。

 

捨てないことしか、できなかった。

 

 

 

 

 

その夜、部屋のチャイムが鳴った。

 

十時を、過ぎていた。

 

ドアを開けると、赤い人が立っていた。

 

ワインレッドのスーツではなかった。黒いシャツに、黒いズボン。髪だけが、いつもと同じに、赤かった。

 

「……よう」

 

潤さんの声は、低かった。

 

六月の車の中で、赤木くんの話を聞き終えた時の声に、似ていた。

 

「入っていい?」

 

この人が、入っていいかと訊くのを、初めて聞いた。

 

私は、ドアを大きく開けた。

 

潤さんは、部屋の真ん中に、あぐらをかいて座った。座って、しばらく、何も言わなかった。

 

私は、台所で、お茶を淹れた。

 

湯呑みを一つ、潤さんの前に置いた。もう一つは、自分の膝の前に置いた。潤さんは、それを見たけれど、手を伸ばさなかった。

 

「姫ちゃんのこと、聞いた」

 

潤さんが、言った。

 

「佐々から。……あたしが、行くはずだったんだよ。木賀峰の仕事。別の仕事が入って、行けなくなって、代わりに姫ちゃんが行った」

 

「紫木さんは、師匠の護衛をすると言っていました」

 

「知ってる。あたしが、そう頼んだから」

 

潤さんは、湯呑みを、両手で包んだ。

 

飲まなかった。包んでいるだけだった。

 

「頼まなきゃよかった、なんて、言わないよ。言ったら、姫ちゃんが、あたしの頼みで死んだことになる。……あの子は、自分で行ったんだ。自分で決めて、自分で護衛して、自分で、そこで終わった」

 

自分で、と、潤さんは、四度言った。

 

四度言わなければ、自分に言い聞かせられないような言い方だった。

 

「あんたは」

 

潤さんが、顔を上げた。

 

三白眼が、私を見た。

 

「あんたは、何してた」

 

「部屋にいました」

 

私は、話した。

 

紫木さんの書き置き。部屋にいてください、という字。扉の内側の床に、座っていたこと。遠い音。乾いた笑い声。部屋の前で止まらずに通り過ぎた、一つの足音。

 

潤さんは、黙って聞いていた。

 

聞き終えて、長い息を吐いた。

 

「扉の前に、座ってたんだ」

 

「はい」

 

「出ていかないで」

 

「出ていったら、紫木さんが、私を守るために、手を一本、余計に使うと思いました」

 

潤さんは、湯呑みを、床に置いた。

 

置いて、片手で、顔を覆った。

 

覆ったまま、低く笑った。

 

笑い声の中に、何か、別のものが混じっていた。

 

「……なんだよ、それ」

 

覆った手の隙間から、声が漏れた。

 

「降りるなって言われた奴が、今度は、座ってろって言われて、ちゃんと座ってたのかよ。……あんた、ほんと、言われたことの、一番難しい方ばっかり選ぶな」

 

一番難しい方。

 

出ていく方が、楽だった。出ていって、何かをしている間は、自分が何もできないことを、忘れられる。鈴無(すずなし)さんが、そう言った。

 

私は、忘れないために、座っていた。

 

「それが、正しかったのかどうか、分かりません」

 

「分かんなくていいんだよ」

 

潤さんは、手を、顔から離した。

 

離した顔は、いつもの顔ではなかった。いつもより、少しだけ、年を取って見えた。

 

「正しかったかどうかなんて、誰にも分かんないよ。あたしにだって分かんない。……でもな、姫ちゃんは、あんたに、部屋にいてくれって書いたんだろ。書いた通りに、あんたがいてくれた。それだけは、あの子の思った通りになったんだ」

 

あの子の、思った通り。

 

紫木さんが、最後に、思った通りになったこと。

 

それが、一つでも、あったのなら。

 

私は、何も言えなかった。

 

潤さんは、しばらく、私の顔を見ていた。

 

それから、湯呑みを取って、一口で、半分飲んだ。

 

「ぬるい」

 

「十分以上、置いていましたから」

 

「ぬるい茶は、嫌いじゃない」

 

潤さんは、残りを、また一口で飲んだ。

 

飲み終えて、湯呑みを置いた。

 

「もう一つ、佐々から聞いた」

 

声が、変わった。

 

低いままなのに、低さの種類が、変わった。

 

「狐の面の男に、会ったって」

 

「会いました」

 

「何て言われた」

 

「彼は、俺の敵。私は、俺の保留、と」

 

潤さんの肩が、ほんの少しだけ、強ばった。

 

強ばったのは、一瞬だった。一瞬だったのに、私は、それを見ていた。

 

この夏、私は、何度も、人に見抜かれてきた。零崎と聞いて止まる指を。佐倉さんと聞いて止まる息を。

 

見抜かれる側に、慣れてしまった。

 

慣れた分だけ、見抜く側の目が、少しだけ、ついたのかもしれなかった。

 

「……今、肩が」

 

私が言いかけると、潤さんは、片手を上げて、遮った。

 

「言うな」

 

短い声だった。

 

「あんたが今、何を見たのかは、分かってる。分かってるから、言うな。……言われたら、あたしは、答えなきゃいけなくなる。答えたくないことを、答えなきゃいけなくなる」

 

答えたくないこと。

 

この人にも、それがあった。

 

人の顔を、全部読んでしまう人にも、自分の顔の中に、読まれたくない場所があった。

 

「言いません」

 

私は、言った。

 

「言いたくない顔は、調べないことにしています。……玖渚(くなぎさ)さんに、教わりました」

 

潤さんは、目を丸くした。

 

それから、天井を仰いで、笑った。

 

今度の笑い声には、何も混じっていなかった。

 

「あいつに、教わったのかよ。……あんた、ほんと、いろんな奴の隣で、いろんなもん拾ってくるな」

 

潤さんは、立ち上がった。

 

立ち上がって、ドアの方へ歩いた。

 

ドアノブに手をかけて、振り返らずに言った。

 

「りんねちゃん」

 

「その呼び方は」

 

「やーだね」

 

六月と、同じやりとりだった。

 

「狐の面の男には、近づくな。……って言っても、あんたは近づくんだろうけど」

 

「近づきません」

 

「嘘、下手だな」

 

潤さんは、ドアを開けた。

 

「保留って言われたんなら、あいつ、別れ際に、縁が合わなかったら、って言ったろ」

 

私は、答えなかった。

 

答えなかったのに、潤さんは、頷いた。

 

「あいつの決まり文句は、知ってる。縁が合ったら、また会おう、ってな。……保留にした奴とは、縁を合わせようがないんだから、言い換えるしかないだろ。あいつは、そういうところだけ、律儀なんだよ」

 

潤さんは、少しだけ、間を置いた。

 

「合わなかったら、なんて言わせた奴は、あたしの知る限り、あんたが初めてだよ」

 

ドアが、閉まった。

 

廊下を、足音が遠ざかっていった。

 

軽い足音だった。

 

来た時よりも、少しだけ、軽い足音だった。

 

私は、閉まったドアを、しばらく見ていた。

 

それから、床に置かれた、空の湯呑みを、二つ、台所へ運んだ。

 

洗いながら、指先が、少しだけ、温まっていくのを感じた。

 

紫木さんの指の上に置いた手だった。

 

まだ、冷たさは、残っていた。

 

残っていたけれど、もう、それだけではなかった。

 

冷たさと温かさが、同じ指先に、並んでいた。

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