縁は、円に似ている。
どちらも、えん、と読む。どちらも、ぐるりと回って、元の場所へ戻ってくる。
円には、中心がある。縁には、ない。
中心のない輪の中に、人は、知らないうちに立っている。立っていることに気づくのは、輪の外にいる誰かに、指をさされた時だ。
どれくらい、床に座っていたのかは、分からない。
窓の外が、すっかり明るくなっていた。
いつのまにか、私の手は、その指の上にあった。
隣で、彼が、壁に背中を預けていた。膝を抱えて、顔を伏せていた。肩が、少しも動いていなかった。泣いているのではなかった。泣くことさえ、どこかに置いてきたような座り方だった。
警察を、呼ばなければならない。
そう思ったのは、私だった。
思ったのに、すぐには、立てなかった。
立ったら、紫木さんの前から、離れることになる。
離れなければ、誰も、紫木さんを、ここから運び出してくれない。
私は、手を、離した。
離して、立った。
膝が、少しだけ、震えた。
震えたまま、廊下へ出た。
玄関の脇に、古い黒電話があった。スマートフォンは、ここでは、ほとんど電波が入らなかった。
受話器を取った。
ダイヤルを、三つ回した。
一、一、〇。
指が、覚えている十一桁とは、違う数字だった。
『事件ですか、事故ですか』
「事件です」
声は、思ったより、落ち着いていた。
住所を言った。看板の名前を言った。何人が、どうなっているのかを、見たとおりに言った。
見たとおりに言うのは、難しくなかった。
見たものを、見なかったことにするのが、難しいのだ。
受話器を置いた。
置いてから、もう一度、受話器を取りかけた。
十一桁の番号が、指先にあった。
かけなかった。
この問いの答えを、綾小路くんは、持っていない。誰も、持っていない。
受話器を、置いた。
廊下を戻った。
奥の部屋の敷居で、彼は、さっきと同じ形で座っていた。膝を抱えて、顔を伏せて。
私は、その隣に、もう一度座った。
一つ空けずに。さっき、そう座ったから。座り直すのに、空ける理由を、今は思いつかなかった。
「呼んだわ。警察」
「……うん」
「来るまで、ここにいるわ」
「うん」
彼は、顔を上げなかった。
上げないまま、小さく言った。
「姫ちゃんの、書き置き。……君の部屋に、あった?」
「あったわ。お部屋にいてください、と」
「ぼくの部屋には、なかった」
彼の声は、平らだった。平らなまま、少しだけ、掠れていた。
「護衛するって言われて、断って、それきりだった。書き置きは、ぼくには、なかった。……師匠には、何も残さないで、君には、残していった」
「あなたには、言わなくても伝わると思ったのよ」
言ってから、慰めの形をした言葉だと気づいた。
気づいたけれど、取り消さなかった。慰めの形をしていても、嘘ではないかもしれなかった。嘘ではないかもしれないものを、取り消す理由はなかった。
彼は、何も言わなかった。
言わないまま、膝を抱える腕に、少しだけ、力を入れた。
遠くで、鳥が鳴いていた。
サイレンは、まだ、聞こえなかった。山の奥まで、警察の車が登ってくるには、時間がかかる。かかる時間の分だけ、私たちは、ここに座っていられる。座っていられる時間を、私は、少しだけ、ありがたいと思った。ありがたいと思ったことを、誰にも言わないでおこうと思った。
玄関の扉が、開いた。
警察ではなかった。まだ、早すぎた。
男が、一人、立っていた。
背の高い男だった。和服を着ていた。紺の着流しに、白い帯。足元は、雪駄だった。
顔に、面をつけていた。
狐の面だった。白い地に、赤い隈取り。目のところだけが、細く切り抜かれていた。切り抜かれた奥の目は、見えなかった。
見たことのある面だった。
研究室の壁の、白黒の写真。診療所の前で、白衣を着て、面をつけて立っていた人。顔を残すと、物語がそこで終わってしまうから、と
写真の中の人が、写真の外に、立っていた。
男は、玄関に立ったまま、家の中を、ぐるりと見回した。
見回して、私で、止まった。
「ふん」
鼻を鳴らした。
それだけだった。
男は、私の横を通り過ぎて、廊下の奥へ歩いていった。雪駄の音が、古い床板の上で、ぺたぺたと鳴った。
奥の部屋の扉の前で、男は、足を止めた。
扉の中を、見た。
窓際の椅子に座ったまま、目を閉じている
男は、長いあいだ、動かなかった。
面の奥の顔が、どんな顔をしているのか、私には分からなかった。分からないように、面をつけているのだと思った。
「……八百年か」
男が、言った。
低い声だった。
「待たせすぎたな。ふん。待つ方も、待たせる方も、同じことだ」
同じこと、と男は言った。
同じであるはずがなかった。
扉の前の床に、彼が座っていた。
男は、そこで初めて、彼に気づいたように、首を傾けた。
傾けた首が、ゆっくりと、元に戻った。
「よう」
男が、言った。
「──俺の敵」
彼が、顔を上げた。
上げた顔に、何も、浮かんでいなかった。
「……誰ですか、あなたは」
「《誰ですか》、か。ふん。そんなことは、どちらでも同じことだ」
男は、着流しの袖に、両手を入れた。
「
西東診療所。
文字の消えかけた看板。研究室の、面の写真。
木賀峰さんの、昔の師。円さんを、研究のために買い取った人。円さんが、待ち続けた人。
戻ってこねえよ、と円さんは言った。戻ってこねえ奴を、八百年分の最後の十年、待った、と。待ったことは、待ったまま、ここに残る、と。
戻ってきた。
円さんが、目を閉じたあとで。
「お前のことは、木賀峰から聞いていた」
西東さんは、彼を見下ろした。
「お前の周りでは、人が死ぬ。死ぬというより、狂う。狂って、勝手に終わっていく。……お前は、物語を、終わらせる側の人間だ。俺は、物語の終わりが見たい。だから、お前は、俺の敵だ」
彼は、何も言わなかった。
言い返す言葉を、持っていないのではなかった。持っていた言葉を、全部、紫木さんの前に置いてきてしまった顔だった。
「今朝のこれは、お前のせいではない」
西東さんは、言った。
「俺が、頼んだ。木賀峰と、朽葉を。……
息が、止まった。
頼んだ。
この人が、頼んだ。
「どうして」
声を出したのは、私だった。
西東さんの面が、ゆっくりと、こちらを向いた。
「木賀峰は、俺の研究を、俺の許しなく続けていた。朽葉は、俺を待ちすぎた。待たれすぎると、人は、物語から降りられなくなる。……俺は、降りたかった。それだけだ」
降りたかった。
その字を、この人の口から聞くとは、思わなかった。
「降りるために、人を殺させたの」
「殺させたのは、木賀峰と朽葉だけだ。あとの二人は、俺の頼んだことではない。……殺し屋の妹と、お前たちの護衛の娘が、勝手に殺し合った。殺し屋の兄が、勝手に後始末をした。……兄の方から、さっき聞いた。それだけのことだ」
それだけのこと。
紫木さんが。理澄さんが。
勝手に。
兄の方から、聞いた。
一つの体の兄妹だと、理澄さんは言った。その体は、奥の部屋で、動かなくなっていた。
動かなくなった体の外で、兄の方が、この人に、話をしたという。
体は、一つではなかった。
私は、西東さんを見ていた。
面の、細い切り抜きの奥を、見ようとしていた。
見えなかった。
見えなかったけれど、目を、逸らさなかった。
西東さんは、廊下を少し戻って、窓の大きな部屋に入った。
三日前、私が、木賀峰さんの質問を受けた部屋だった。
机の上に、紙の束が、置いたままになっていた。
西東さんは、その束を、一枚ずつめくった。
めくる手が、ある一枚で、止まった。
裏返しに置かれていた紙だった。三日前、木賀峰さんが、私の答えを書きつけて、裏返した紙。
西東さんは、それを、表に返した。
読んだ。
それから、面を、私の方へ向けた。
「堀北鈴音」
名前を、呼ばれた。
「木賀峰の字だ。……《死を怖がる。避けたいとも言う。だが、避けるために降りるのは嫌だ、と言う。死を笑う者を知っている顔をする。死なない者と、死ぬ場所に座る者は逆だ、と言った》」
西東さんは、紙を、机の上に戻した。
「お前は、戯言遣いの、隣の隣に座っていた。四月から、ずっと。……木賀峰の調べでは、そうなっている」
私は、何も言わなかった。
「五月に、三人が死んだ。三人とも、お前と同じ語学の教室にいた。六月に、学校が一つ潰れた。お前は、その中にいた。七月に、研究所が一つ潰れた。お前は、その地下にいた。……木賀峰は、戯言遣いの四月からを調べていて、どの月にも、お前の名前に行き当たったそうだ。そして、今朝」
西東さんは、首を、少しだけ傾けた。
「お前は、どの物語にも、いた。いたのに、どの物語にも、巻き込まれていない。狂ってもいない。死んでもいない。……物語の中に立っていて、物語の糸が、一本も、お前に絡まっていない」
糸。
紫木さんの、切れて散らばった糸が、頭に浮かんだ。
「お前は、何者だ」
西東さんが、言った。
「……ふん。《何者ですか》、と訊かれたら、俺は、どちらでも同じことだと答える。だが、お前の場合は、本当に、何者でもない。だから、困る」
困る、と、この人は言った。
困っているようには、聞こえなかった。
面白がっている声だった。
「戯言遣いは、俺の敵だ。俺の娘は、俺の娘だ。……お前は」
西東さんは、そこで、言葉を止めた。
止めたまま、長いあいだ、私を見ていた。
面の奥で、何かを探しているように見えた。
それから、ゆっくりと、言った。
「お前は──俺の、何だ」
問いの形をしていた。
この人が、自分のことを人に問うのを、初めて聞いた。
西東さんは、しばらく、黙っていた。私の答えを待っているようには、見えなかった。
「……分からん。敵でも、娘でも、孫でもない。……ふん。では、こうしておこう」
西東さんは、面の顎を、一度だけ撫でた。
「お前は──俺の、保留だ」
保留。
保って、留める。決めないまま、手元に置いておくこと。
人は、決められないものを、一番怖がる。怖がって、とりあえず、何かの名前で呼ぶ。化け物、と。他人、と。呼んでしまえば、少しだけ、怖くなくなるからだ。
この人は、呼ばなかった。
呼ぶのを、保留した。
「保留なら」
私は、言った。
「会う理由も、ないでしょう」
「ない」
西東さんは、即答した。
「理由がないから、話している。理由のある奴とばかり話していると、物語が、すぐに終わる。……保留の奴とは、終わらない話ができる」
「私は、あなたと、終わらない話をするつもりはないわ」
「だろうな」
西東さんは、面の下で、少しだけ笑ったようだった。
「もう一つ、教えておいてやろう。俺は、
西東さんは、そこで、一度だけ、言葉を切った。
零崎。
七度目だった。
私の指が、机の縁を、掴んでいた。
掴んでから、気づいた。
「……人識に、会いたいと思っている」
人識、と続いた時、指は、掴んだ形のまま、それ以上は、動かなかった。
西東さんの面が、私の指を見ていた。
「……ふん。零崎、に反応したな」
切り抜きの奥の目は、見えなかった。
見えないのに、見られていることだけは、分かった。
「人識、ではなく、零崎の方に。……木賀峰の紙には、そのことは書いていなかった。あいつも、そこまでは調べきれなかったか」
私は、指を、机から離した。
離すのが、遅かった。
この夏、私は、同じことを何度もしている。零崎、と聞くたびに、どこかを掴んで、掴んだことを、相手に見られる。
「お前の縁の中に、零崎がいる。人識ではない、誰かが」
西東さんは、袖から、片手を出した。
出した手で、面の顎のあたりを、軽く撫でた。
「お前自身は、縁に絡まっていない。だが、お前の知っている誰かが、絡まっている。……面白い。名前も付かんくせに、誰かの縁を、一本だけ握っている」
「何が言いたいの」
「何も。俺は、言いたいことを言わない主義だ。言ったら、物語が、俺の言ったとおりに動いてしまう」
西東さんは、背を向けた。
部屋を出かけて、扉のところで、足を止めた。
振り返らなかった。
「俺は、別れ際に、決まってこう言う。縁が合ったら、また会おう、とな」
雪駄が、床板の上で、一度だけ鳴った。
「だが、お前には、合う縁がない。……だから、お前には、こう言っておく」
西東さんは、少しだけ、間を置いた。
「縁が《合わなかったら》、また会おう」
ぺたぺたと、雪駄の音が、廊下を遠ざかっていった。
奥の部屋の前で、一度だけ、止まった。
止まって、彼に、何かを言ったようだった。何を言ったのかは、聞こえなかった。
それから、玄関の扉が開いて、閉まった。
遠くで、サイレンの音が、聞こえ始めていた。
警察が来て、帰りの車を手配してくれたのは、昼を過ぎてからだった。
京都府警の、あの刑事。五月に四度、私の部屋に来た人。
佐々さんは、奥の部屋を見て、それから、廊下の床に座ったままの彼を見て、最後に、私を見た。
「……また、あなたね」
責める声ではなかった。
「見たものを、話してもらえる?」
「話します」
私は、話した。
紫木さんの書き置き。夜中の音。扉の内側で、座っていたこと。廊下を通り過ぎた、一つの足音。朝の、四人。それから、狐の面の男のこと。
西東天、という名前を出した時、佐々さんの手帳を持つ指が、一瞬だけ止まった。
止まって、何も言わなかった。
言わなかったけれど、その名前を、この人は、知っているのだと思った。
「
私は、訊いた。
「見つかっていないわ。荷物ごと、いなくなってる」
いなくなった。
春日井さんは、自分で、どこかへ行ったのだろうか。行く所がないと言っていた人が、行く所を、自分で決めたのだろうか。
そうであってほしい、と思った。
佐々さんは、手帳を閉じた。
閉じてから、私の顔を、もう一度だけ見た。
「名刺、まだ持ってる?」
「三枚、持っています」
「そう」
佐々さんは、少しだけ、口の端を緩めた。緩めたのは、ほんの一瞬だった。
「五月に、見たものを全部一人で持っている必要はない、って言ったわね」
「覚えています」
「今日のあなたは、全部、話してくれた。……話してくれた人に、こういうことを言うのは、刑事としては、たぶん、間違ってるんだけど」
佐々さんは、廊下の奥の、閉じられた扉の方を見た。
「話したからって、軽くなるとは限らないの。話したものは、私の手帳に移る。でも、見たものは、あなたの目に残る。手帳には、目の分までは、移せない」
移せない。
見たものは、見た人の目に、残る。
「分かっています」
「分かってるなら、いいわ」
佐々さんは、手帳を、上着の内ポケットにしまった。
「四枚目の名刺は、置いていかない。三枚あれば、足りるでしょ。……足りなくなったら、それは、私が、あなたのところに来すぎたってことだから」
佐々さんは、それだけ言って、廊下の奥へ戻っていった。
戻っていく背中を、私は見ていた。
三枚の名刺は、部屋の机の引き出しに入っている。一度も、そこに書いてある番号にかけたことはなかった。
かけたことがないのに、三枚とも、捨てていない。
ノートのいちばん後ろの紙と、同じだった。
私の持ち物は、かけない番号ばかりで、できている。
かけない番号は、減らない。かける番号は、かけるたびに、少しずつ、すり減っていく気がする。すり減らないように、かけずにおいているのかもしれなかった。
帰りの車の中で、彼は、一言も喋らなかった。
窓の外を見ていた。
見ているのに、何も見ていなかった。
私は、隣に座っていた。
後ろの座席で、一つ空けずに、隣に。
空けるべきだったのかもしれない。いつものように、一つ空けて。
空けなかった。
空けたら、この人が、どこかへ落ちていってしまう気がした。
京都の街が、見えてきた頃、彼が、初めて口を開いた。
「……あの人に、言われたんだ」
「西東さんに?」
「出ていく時に。……《お前の隣には、俺の保留が座っているな》って」
彼は、窓の外を見たままだった。
「ぼくは、隣に誰かを座らせると、その誰かが、いなくなる。姫ちゃんも、いなくなった。……君は、今、ぼくの隣に座ってる」
「座っているわ」
「どうして」
私は、答えを探した。
探して、見つからなかった。
見つからないまま、言った。
「保留だから、だそうよ」
彼は、少しだけ、こちらを向いた。
何も浮かんでいなかった顔に、ほんの少しだけ、何かが戻ってきていた。
「保留、か」
「ええ。西東さんに、そう言われたわ。お前は、俺の保留だ、と」
「……縁がない、ってことかな」
「縁が合わない、ということらしいわ」
彼は、また、窓の外を向いた。
向いたまま、小さく言った。
「縁が合わない人なら、ぼくの隣にいても、いなくならないのかもしれないね」
「さあ」
私は、言った。
「それは、座ってみないと分からないわ」
彼は、何も言わなかった。
何も言わなかったけれど、肩が、ほんの少しだけ、下がった。
ずっと、上がったままだった肩が。
車が、骨董アパートの前で止まった。
一階の、いちばん奥の扉が、閉まっていた。
もう、誰も、そこから飛び出してこなかった。
二階の窓に、
甚平の袖が、風に揺れていた。
浅野さんは、車から降りる彼を、黙って見下ろしていた。
それから、窓を閉めて、姿を消した。
階段が、鳴った。
浅野さんが、降りてくる音だった。
私は、それを聞いて、車を降りなかった。
降りずに、運転手に、自分の部屋の住所を告げた。
ここから先は、私の座る場所ではない。
隣の部屋の人が、降りてくる。
彼の隣は、今は、浅野さんのものだ。
車が、走り出した。
バックミラーの中で、骨董アパートの前に、二つの影が並んでいるのが見えた。
並んだ影を、私は、最後まで見ていた。
見えなくなってから、窓の外に、目を移した。
八月の京都は、暑かった。
暑いのに、指先だけが、ずっと冷たかった。
紫木さんの指の上に置いた手だった。
部屋に着いたのは、三時を過ぎた頃だった。
鍵を開けて、靴を脱いで、鞄を床に置いた。
置いた鞄の口から、ノートの角が、少しだけ覗いていた。
拾い上げて、いちばん後ろのページを開いた。
十一桁の紙と、姫、とだけ書いた紙が、並んで挟まっていた。
並んでいる二枚を、しばらく見ていた。
見ているうちに、机の上の、別のものが目に入った。
国語の問題集だった。
紫木さんの部屋で使っていたものと、同じ問題集だった。教える前に、自分でも一度解いておこうと思って、本屋で買った。次の金曜日に、紫木さんの部屋で、続きをやる約束になっていた。
付箋が、一枚、貼ってあった。
次はここから、と、私の字で書いてあった。
ことわざの単元だった。
情けは人の為ならず。急がば回れ。七転び八起き。
紫木さんが、どれも少しずつずらして覚えたことわざが、問題集の上に、正しい形で並んでいた。
正しい形の方が、ずっと、知らない言葉に見えた。
私は、付箋を剥がさなかった。
剥がさずに、問題集を、閉じた。
閉じた問題集を、本棚の、いちばん端に差し込んだ。
次の金曜日は、来る。
来るけれど、次はここから、の、ここから先を、解く人は、もういない。
答えの決まっている問題を、答えを書く人がいなくなったまま、本棚に置いておく。
語学の試験の日、教卓の端に重ねられていた、白い四枚の答案用紙を、思い出した。
あの四枚を、先生は、捨てずに、鞄にしまっていた。
私も、捨てなかった。
捨てないことしか、できなかった。
その夜、部屋のチャイムが鳴った。
十時を、過ぎていた。
ドアを開けると、赤い人が立っていた。
ワインレッドのスーツではなかった。黒いシャツに、黒いズボン。髪だけが、いつもと同じに、赤かった。
「……よう」
潤さんの声は、低かった。
六月の車の中で、赤木くんの話を聞き終えた時の声に、似ていた。
「入っていい?」
この人が、入っていいかと訊くのを、初めて聞いた。
私は、ドアを大きく開けた。
潤さんは、部屋の真ん中に、あぐらをかいて座った。座って、しばらく、何も言わなかった。
私は、台所で、お茶を淹れた。
湯呑みを一つ、潤さんの前に置いた。もう一つは、自分の膝の前に置いた。潤さんは、それを見たけれど、手を伸ばさなかった。
「姫ちゃんのこと、聞いた」
潤さんが、言った。
「佐々から。……あたしが、行くはずだったんだよ。木賀峰の仕事。別の仕事が入って、行けなくなって、代わりに姫ちゃんが行った」
「紫木さんは、師匠の護衛をすると言っていました」
「知ってる。あたしが、そう頼んだから」
潤さんは、湯呑みを、両手で包んだ。
飲まなかった。包んでいるだけだった。
「頼まなきゃよかった、なんて、言わないよ。言ったら、姫ちゃんが、あたしの頼みで死んだことになる。……あの子は、自分で行ったんだ。自分で決めて、自分で護衛して、自分で、そこで終わった」
自分で、と、潤さんは、四度言った。
四度言わなければ、自分に言い聞かせられないような言い方だった。
「あんたは」
潤さんが、顔を上げた。
三白眼が、私を見た。
「あんたは、何してた」
「部屋にいました」
私は、話した。
紫木さんの書き置き。部屋にいてください、という字。扉の内側の床に、座っていたこと。遠い音。乾いた笑い声。部屋の前で止まらずに通り過ぎた、一つの足音。
潤さんは、黙って聞いていた。
聞き終えて、長い息を吐いた。
「扉の前に、座ってたんだ」
「はい」
「出ていかないで」
「出ていったら、紫木さんが、私を守るために、手を一本、余計に使うと思いました」
潤さんは、湯呑みを、床に置いた。
置いて、片手で、顔を覆った。
覆ったまま、低く笑った。
笑い声の中に、何か、別のものが混じっていた。
「……なんだよ、それ」
覆った手の隙間から、声が漏れた。
「降りるなって言われた奴が、今度は、座ってろって言われて、ちゃんと座ってたのかよ。……あんた、ほんと、言われたことの、一番難しい方ばっかり選ぶな」
一番難しい方。
出ていく方が、楽だった。出ていって、何かをしている間は、自分が何もできないことを、忘れられる。
私は、忘れないために、座っていた。
「それが、正しかったのかどうか、分かりません」
「分かんなくていいんだよ」
潤さんは、手を、顔から離した。
離した顔は、いつもの顔ではなかった。いつもより、少しだけ、年を取って見えた。
「正しかったかどうかなんて、誰にも分かんないよ。あたしにだって分かんない。……でもな、姫ちゃんは、あんたに、部屋にいてくれって書いたんだろ。書いた通りに、あんたがいてくれた。それだけは、あの子の思った通りになったんだ」
あの子の、思った通り。
紫木さんが、最後に、思った通りになったこと。
それが、一つでも、あったのなら。
私は、何も言えなかった。
潤さんは、しばらく、私の顔を見ていた。
それから、湯呑みを取って、一口で、半分飲んだ。
「ぬるい」
「十分以上、置いていましたから」
「ぬるい茶は、嫌いじゃない」
潤さんは、残りを、また一口で飲んだ。
飲み終えて、湯呑みを置いた。
「もう一つ、佐々から聞いた」
声が、変わった。
低いままなのに、低さの種類が、変わった。
「狐の面の男に、会ったって」
「会いました」
「何て言われた」
「彼は、俺の敵。私は、俺の保留、と」
潤さんの肩が、ほんの少しだけ、強ばった。
強ばったのは、一瞬だった。一瞬だったのに、私は、それを見ていた。
この夏、私は、何度も、人に見抜かれてきた。零崎と聞いて止まる指を。佐倉さんと聞いて止まる息を。
見抜かれる側に、慣れてしまった。
慣れた分だけ、見抜く側の目が、少しだけ、ついたのかもしれなかった。
「……今、肩が」
私が言いかけると、潤さんは、片手を上げて、遮った。
「言うな」
短い声だった。
「あんたが今、何を見たのかは、分かってる。分かってるから、言うな。……言われたら、あたしは、答えなきゃいけなくなる。答えたくないことを、答えなきゃいけなくなる」
答えたくないこと。
この人にも、それがあった。
人の顔を、全部読んでしまう人にも、自分の顔の中に、読まれたくない場所があった。
「言いません」
私は、言った。
「言いたくない顔は、調べないことにしています。……
潤さんは、目を丸くした。
それから、天井を仰いで、笑った。
今度の笑い声には、何も混じっていなかった。
「あいつに、教わったのかよ。……あんた、ほんと、いろんな奴の隣で、いろんなもん拾ってくるな」
潤さんは、立ち上がった。
立ち上がって、ドアの方へ歩いた。
ドアノブに手をかけて、振り返らずに言った。
「りんねちゃん」
「その呼び方は」
「やーだね」
六月と、同じやりとりだった。
「狐の面の男には、近づくな。……って言っても、あんたは近づくんだろうけど」
「近づきません」
「嘘、下手だな」
潤さんは、ドアを開けた。
「保留って言われたんなら、あいつ、別れ際に、縁が合わなかったら、って言ったろ」
私は、答えなかった。
答えなかったのに、潤さんは、頷いた。
「あいつの決まり文句は、知ってる。縁が合ったら、また会おう、ってな。……保留にした奴とは、縁を合わせようがないんだから、言い換えるしかないだろ。あいつは、そういうところだけ、律儀なんだよ」
潤さんは、少しだけ、間を置いた。
「合わなかったら、なんて言わせた奴は、あたしの知る限り、あんたが初めてだよ」
ドアが、閉まった。
廊下を、足音が遠ざかっていった。
軽い足音だった。
来た時よりも、少しだけ、軽い足音だった。
私は、閉まったドアを、しばらく見ていた。
それから、床に置かれた、空の湯呑みを、二つ、台所へ運んだ。
洗いながら、指先が、少しだけ、温まっていくのを感じた。
紫木さんの指の上に置いた手だった。
まだ、冷たさは、残っていた。
残っていたけれど、もう、それだけではなかった。
冷たさと温かさが、同じ指先に、並んでいた。