ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第29話 嘘(鷽)

片付けるというのは、物を元の場所へ戻すことだと思われている。

 

違う。片付けるのは、元の場所が、もうないことを確かめることだ。

 

持ち主のいなくなった部屋で、物は、どこへも戻れない。戻る場所を失った物を、箱に詰める。箱に詰めた物は、もう、誰のものでもない。

 

誰のものでもない物の重さを、片付ける人間だけが、知っている。

 

 

 

 

 

八月十五日の昼、骨董アパートの一階の、いちばん奥の部屋で、私は、段ボール箱を組み立てていた。

 

研究所から戻った次の日だった。前の晩、潤さんが置いていった湯呑みを洗って、そのまま、眠らずに朝になった。朝になってから、萌太(もえた)くんから、短いメッセージが来た。〈姫ちゃんの部屋、今日、片付けます。先生も、来ますか〉。行く、とだけ返した。

 

紫木(ゆかりき)さんの部屋だった。

 

六畳一間。日に焼けた畳。真ん中に、小さな卓袱台が一つ。卓袱台の上に、国語の問題集が、開いたまま置いてあった。

 

開いていたページの余白に、大きな丸が描いてあった。丸の中に、自分のため、と書いてあった。

 

私は、その問題集を、閉じなかった。

 

閉じずに、そのまま、箱の一番上に入れた。

 

「……それ、持っていきますか」

 

扉のところで、崩子(ほうこ)さんが言った。

 

萌太くんと二人で、手伝いに来てくれていた。萌太くんは、押し入れの中の布団を、畳んでいた。崩子さんは、扉の脇に立って、私の手元を見ていた。

 

「紫木さんの家族に、送るのでは」

 

「姫ちゃんに、家族はいません」

 

崩子さんは、静かに言った。

 

「戯言遣いのお兄ちゃんが、そう言っていました。昔の学校が、家族の代わりだったと。……その学校は、もう、ありません」

 

学校は、もうない。

 

六月に、私は、それがなくなるところにいた。

 

「だから、持っていける人が、持っていくしかないんです」

 

萌太くんが、布団を畳みながら言った。

 

火のついていない煙草を、口にくわえていた。

 

「みー姉は、姫ちゃんの竹刀を一本、持っていきました。姫ちゃん、剣道なんてしてなかったのに、みー姉の竹刀を勝手に借りて、振り回してたから。……いー兄は、まだ、何も持っていってません。この部屋に、入れないんです」

 

彼は、この部屋に入れない。

 

研究所から戻って、まだ一日しか経っていなかった。彼は、昨日の夜から、自分の部屋の扉を、一度も開けていないと、萌太くんが言っていた。

 

「先生は、何を持っていきますか」

 

萌太くんが、私を見た。

 

私は、箱の一番上の問題集を見た。

 

「これを」

 

「国語の」

 

「ええ。……私が教えたのは、国語だけだったから」

 

萌太くんは、少しだけ笑った。

 

笑って、また、布団を畳み始めた。

 

崩子さんは、扉の脇に立ったまま、私を見ていた。

 

まばたきの少ない目だった。玖渚(くなぎさ)さんの目に、少しだけ、似ていた。似ているのに、違った。玖渚さんの目は、最初から奥を見ていた。崩子さんの目は、奥を見る前に、一度、表面で止まって、確かめてから、奥へ行く。

 

「堀北さん」

 

崩子さんが、私の名前を、初めて呼んだ。

 

「あなたは、あの夜、姫ちゃんと同じ部屋にいたと聞きました」

 

「いたわ」

 

「姫ちゃんを、追わなかった」

 

「追わなかったわ」

 

崩子さんは、少しだけ、黙った。

 

黙ったまま、私の顔を見ていた。

 

「……責めているのではありません」

 

「分かっているわ」

 

「わたしでも、追いませんでした。追っても、姫ちゃんは、行ったと思います。護衛というのは、そういうものです。……わたしの家も、そういう家でしたから」

 

わたしの家。

 

この子が、どういう家の生まれなのか、私は知らない。知らないけれど、護衛というものが、どういうものなのかを、この子は、体のどこかで知っている気がした。

 

「ただ」

 

崩子さんは、言葉を探すように、少しだけ間を置いた。

 

「追わずに、待っている方が、ずっと難しいと思います。……追う方は、追ったあとで、自分を許せます。追おうとした、と言えるから。待っていた方は、何も言えません」

 

何も言えない。

 

六月、潤さんにも、言われた。

 

《待つってのは、優しいより、ずっと難しいんだ》

 

「あなたは、何も言わないんですね」

 

崩子さんが、言った。

 

「言うことがないから」

 

「言うことがないのに、ここに来て、箱を組み立てている」

 

崩子さんは、扉の脇から、一歩、部屋の中へ入った。

 

入って、畳の上に、膝をついた。

 

膝をついて、卓袱台の上の、消しゴムを一つ、拾い上げた。角が丸くなった、小さな消しゴムだった。

 

崩子さんは、それを、私の箱の中に、そっと入れた。

 

「これも、国語の時に、使っていたはずです」

 

私は、何も言わなかった。

 

何も言わないまま、箱の蓋を、閉じた。

 

 

 

 

 

片付けが終わる頃、廊下に、草履の音がした。

 

浅野さんだった。

 

甚平ではなく、紺の着物を着ていた。帯の締め方が、いつもより、少しだけ固かった。手に、細長い布の袋を提げていた。

 

浅野さんは、扉のところで足を止めて、空になった部屋を見た。

 

畳の上に、日に焼けていない四角が、いくつも残っていた。卓袱台のあった場所。布団を敷いていた場所。鞄を置いていた場所。物がなくなると、物があった形だけが、畳に残る。

 

「……早かったな」

 

浅野さんは、それだけ言った。

 

「萌太くんが、手際がよくて」

 

「そうか」

 

浅野さんは、部屋には入らなかった。入らずに、敷居の外から、壁の一点を見ていた。

 

壁に、小さな釘が一本、打ってあった。釘の下の壁だけ、少しだけ色が違っていた。細長い何かが、そこに掛かっていた跡だった。

 

「竹刀を、掛けていた」

 

浅野さんが、言った。

 

「私のを、勝手に持っていって、勝手に掛けた。返せと言ったら、師匠の師匠の竹刀だから、ここに掛けておくと御利益がある、と言った。……御利益の意味も、分かっていなかった」

 

萌太くんが、布団の山の向こうで、小さく笑った。

 

浅野さんは、手に提げていた布の袋を、少しだけ持ち上げた。

 

「今朝、取り返した。……取り返したら、軽かった」

 

軽かった、と浅野さんは言った。

 

竹刀の重さは、変わらないはずだった。変わったのは、持つ人の方だった。

 

「堀北」

 

「はい」

 

「お前は、何を持っていく」

 

「国語の問題集を」

 

「そうか」

 

浅野さんは、私の箱を見た。蓋の閉じた箱を。

 

「あの子は、お前の授業の日だけ、朝から、廊下を掃いていた」

 

知らなかった。

 

国語の日、私が骨董アパートに着く頃には、廊下は、いつも、きれいだった。古い建物なのに、砂一つ落ちていなかった。そういう建物なのだと、思っていた。

 

「先生が来るから、と言っていた。……先生というのが、どういうものかも、分かっていなかったくせに」

 

浅野さんは、敷居の外で、背筋を伸ばした。

 

伸ばしたまま、空の部屋に向かって、一度だけ、深く頭を下げた。

 

剣道の礼だった。試合の前と後に、相手に向かってするもの。

 

頭を上げて、浅野さんは、廊下を戻っていった。草履の音が、階段を、一段ずつ上っていった。

 

鳴る階段だった。昇る人間の数を、数えている階段。

 

その日、階段は、一人分だけ、鳴った。

 

 

 

 

 

八月十七日の夜、鴨川の土手を、一人で歩いた。

 

骨董アパートからの帰り道だった。片付けの日には持ちきれずに、萌太くんの部屋に預けてあった箱を、今日、取りに行った。

 

段ボール箱は、思ったより重かった。問題集と、消しゴムと、紫木さんが書いた答案用紙が、何枚か。それだけなのに、腕が、少しずつ、痺れていった。

 

土手の下の河川敷に、人が、等間隔に座っていた。

 

恋人たちだった。夏の夜の鴨川には、いつも、等間隔に恋人たちが座る。間隔は、誰が決めたのでもないのに、誰もが守っている。

 

隣の人との間を、一つ空ける。

 

私の座り方と、少しだけ、似ていた。

 

似ているのに、違った。恋人たちは、二人で一つの席を占めて、隣の二人との間を空ける。私は、一人で一つの席を占めて、隣の一人との間を空ける。

 

空ける数は、同じなのに。

 

橋の下に差しかかった時、暗がりの中で、何かが動いた。

 

足を止めた。

 

橋の柱の陰に、人が立っていた。

 

黒いマントだった。

 

髪の長い、背の高くない影。マントの合わせ目から、革のベルトが覗いていた。

 

外灯の光が、その顔の半分を照らした。

 

理澄さんの顔から、笑いを全部抜いて、代わりに刃物を一本入れたような顔。

 

「よう」

 

匂宮出夢(におうのみやいずむ)、と名乗った人だった。

 

 

 

 

 

私は、箱を抱えたまま、動かなかった。

 

「また会ったな。殺し屋の前で震えねえ女」

 

出夢さんは、柱にもたれていた。

 

もたれた肩が、少しだけ、下がっていた。六日前、骨董アパートの前で見た時より、少しだけ、細く見えた。

 

「……何の用かしら」

 

「用はねえ。あんたを待ってたわけじゃねえからな」

 

出夢さんは、柱から背を離した。

 

「待ってたのは、あのおにーさんの方だ。……あんた、あいつの居場所、知ってるか」

 

「知らないわ」

 

本当だった。

 

彼は、片付けの翌日から、自分の部屋を出たきり、戻っていないと、萌太くんが言っていた。どこへ行ったのかは、誰も知らなかった。

 

「ふうん」

 

出夢さんは、私の腕の中の箱を、ちらりと見た。

 

「それ、曲絃糸のガキの荷物か」

 

私は、答えなかった。

 

答えなかったのに、出夢さんは、頷いた。

 

「あのガキは、強かったよ」

 

出夢さんの声は、乾いていた。

 

乾いているのに、どこか、湿った場所に触れているような声だった。

 

「妹を、殺された。……殺し合いだったからな。どっちが死んでも、文句は言えねえ。言えねえけど、帳尻は、合わせなきゃならねえ」

 

帳尻。

 

六日前も、この人は、その言葉を使った。仕事じゃねえ時に殺すと、あとで、帳尻が合わなくなる。

 

「だから、哀川(あいかわ)潤に、会いたい」

 

出夢さんは、言った。

 

「あのガキの後ろには、哀川潤がいた。あのガキを澄百合から連れ出したのは、哀川潤だ。……妹の帳尻は、そっちで合わせる」

 

「潤さんと、戦うの」

 

「戦うっていうか、殺し合う」

 

出夢さんは、口の端を、大きく吊り上げた。

 

「ぎゃは。……でもな、あの女は、呼んでも来ねえ。来ねえ女を呼び出すには、来なきゃいけねえ理由を作るしかねえ」

 

来なきゃいけない理由。

 

私は、箱を、少しだけ、強く抱えた。

 

「彼を、使うつもりなの」

 

出夢さんは、何も言わなかった。

 

何も言わなかったけれど、目が、笑っていた。

 

刃物の目のまま、笑っていた。

 

「……あんた、哀川潤の番号、知ってるか」

 

「知らないわ」

 

「ほんとに?」

 

「本当に。あの人は、来ると言った時ほど来なくて、来ないと言った時に来る人よ。番号なんて、教えてもらったことがない」

 

出夢さんは、一瞬だけ、目を見開いた。

 

それから、腹を抱えて、笑った。

 

橋の下に、笑い声が反響した。等間隔の恋人たちが、何組か、こちらを振り返った。

 

「ぎゃははは。……そうだ、そういう女だ、あいつは。番号なんか、誰にも教えねえ。教えねえで、勝手に来る」

 

出夢さんは、笑いやんで、私を見た。

 

「あんた、震えねえのも変だけど、殺し屋に、哀川潤の悪口を言える一般人ってのも、変だな」

 

「悪口ではないわ。事実よ」

 

「事実か。ぎゃは」

 

出夢さんは、背を向けた。

 

「あのおにーさんに会ったら、言っとけ。……いや、言わなくていいや。言ったら、あいつは逃げる。逃げられると、帳尻が合わねえ」

 

出夢さんは、橋の下の暗がりへ、歩いていった。

 

歩きながら、一度だけ、振り返った。

 

「あんたは、殺さねえよ。殺す理由がねえ。……でも、あんたの隣にいる奴は、知らねえぞ」

 

足音が、暗がりの中へ消えた。

 

私は、箱を抱えたまま、橋の下に立っていた。

 

あんたの隣にいる奴は、知らない。

 

私の隣には、誰もいない。

 

一つ空けた向こうに、彼がいる。

 

一つ空けた分だけ、私は、彼を守れない。

 

それが、私の選んだ座り方だった。

 

 

 

 

 

翌朝、スマートフォンが鳴った。

 

知らない番号だった。

 

出ると、男の声がした。

 

『堀北鈴音さん、ですね。京都府警の、斑鳩(いかるが)です。佐々(ささ)の、相棒の』

 

五月に、佐々さんの後ろに立っていた、サングラスの男の人だった。

 

『昨夜、鴨川の近くで、男性が一人、怪我をして見つかりました。意識は、あります。……あなたの、大学の同級生だそうです』

 

息が、止まった。

 

『本人が、あなたの名前を言いました。連絡してほしいのは、あなただと。……他に連絡する相手がいない、と言っていました』

 

他に、連絡する相手がいない。

 

玖渚さんがいる。浅野さんがいる。崩子さんも、萌太くんもいる。

 

その中から、彼は、私の名前を言った。

 

なぜ、私なのか。

 

分からなかった。

 

分からないまま、病院の名前を訊いた。

 

『……一つだけ、伺ってもいいですか』

 

斑鳩さんが、言った。

 

『怪我をさせた相手を、本人は、知らないと言っています。知らない相手に、急に殴られた、と。……あなたに、心当たりは』

 

心当たりは、あった。

 

昨夜、橋の下で。黒いマントの、刃物の目の人。

 

あんたの隣にいる奴は、知らねえぞ。

 

私は、少しだけ、黙った。

 

黙ってから、答えた。

 

『……ありません』

 

嘘だった。

 

電話の向こうで、斑鳩さんが、少しだけ、黙った。

 

『そうですか』

 

それだけ言って、斑鳩さんは、電話を切った。

 

切れたあとで、私は、スマートフォンを握ったまま、立っていた。

 

嘘をついた。

 

警察に、嘘をついた。

 

彼が、知らないと言ったのなら、私も、知らないと言う。彼が、何かを決めたのなら、私が、それを崩すわけにはいかない。

 

七月の研究施設で、穴だらけの推理を聞いた時も、私は、そう決めた。

 

今度も、同じだった。

 

同じなのに、今度の嘘は、少しだけ、重かった。

 

嘘が下手だと、何人に言われただろう。

 

下手な嘘を、私は、今、上手につこうとしていた。

 

上手になってしまったら、それは、もう、私ではない気がした。

 

 

 

 

 

病院は、京都の北の方にあった。

 

白い建物だった。七月の研究施設の白とは、違う白だった。あちらの白は、何かを閉じ込めておくための白。こちらの白は、何かを閉じ込めておかないための白。

 

受付で名前を言うと、看護師さんが、病室の番号を教えてくれた。

 

「お友達ですか」

 

「大学が、同じです」

 

看護師さんは、少しだけ笑った。

 

「あの人、よく来るんですよ。ここに。……今年に入ってから、もう三回目」

 

三回目。

 

六月に一度。全治一週間。私は、それを知っていた。もう一度は、五月の、橋の下の夜かもしれなかった。左の腕を押さえて、一人で、夜の病院へ歩いていった背中を、私は見ている。

 

病室は、四人部屋だった。

 

窓際のベッドに、彼がいた。

 

顔の左半分が、腫れていた。右腕に、ギプスが巻かれていた。胸のあたりに、包帯の盛り上がりが見えた。

 

彼は、窓の外を見ていた。

 

私の足音に、ゆっくりと、こちらを向いた。

 

「……来たんだ」

 

「呼ばれたから」

 

「呼んだつもりは、ないんだけどね。警察の人に、誰か連絡する人はいるかって訊かれて、口が勝手に、君の名前を言った」

 

「勝手に」

 

「勝手に。ぼくの口は、ときどき、ぼくの知らないことを言う」

 

冗談のような言い方だった。

 

冗談なのに、本当のことに聞こえた。

 

ベッドの横に、椅子が二つあった。

 

私は、ベッドに近い方の椅子ではなく、遠い方の椅子に座った。

 

一つ、空けて。

 

彼は、それを見て、腫れていない方の口の端を、少しだけ上げた。

 

「いつもの席だね」

 

「いつもの席よ」

 

 

 

 

 

しばらく、どちらも、何も言わなかった。

 

窓の外で、蝉が鳴いていた。

 

「……誰に、やられたの」

 

私が、訊いた。

 

彼は、答えなかった。

 

「警察には、知らない人だと言ったそうね」

 

「言った」

 

「私も、知らないと言ったわ」

 

彼が、こちらを向いた。

 

腫れた顔の、腫れていない方の目が、少しだけ、見開かれていた。

 

「……君は、知ってたの」

 

「昨夜、橋の下で、会ったわ。あなたを、探していた。潤さんに会うために、来なきゃいけない理由を作る、と」

 

彼は、長いあいだ、私を見ていた。

 

それから、ゆっくりと、天井を見上げた。

 

「それで、知らないって、言ったんだ」

 

「あなたが、知らないと言ったから」

 

「ぼくが、どうしてそう言ったのかも、知らないのに」

 

「知らないわ。知らないけれど、あなたが決めたことを、私が崩すわけにはいかない」

 

彼は、天井を見たまま、少しだけ、笑った。

 

笑うと、胸の包帯が、痛むようだった。笑いが、途中で、息に変わった。

 

「……七月と、同じだね」

 

「同じよ」

 

「君は、ほんとに、何もしないね」

 

「何もできないのよ」

 

「違う。何もしないんだ。……それは、何かするより、ずっと難しい」

 

七月にも、同じことを言われた。

 

同じ人に、同じことを、二度言われた。

 

一度目は、褒め言葉に聞こえた。二度目は、少しだけ、違って聞こえた。

 

何もしないことを、二度、選んだ。二度選んだことは、もう、偶然ではない。

 

癖になる前に、気づいておかなければならない気がした。

 

 

 

 

 

「どうして、私の名前を言ったの」

 

もう一度、訊いた。

 

彼は、少しだけ、考える顔をした。

 

「研究所からの帰りの車で、ぼくが言ったこと、覚えてる?」

 

「……隣に座った私に、どうして、と訊いたわ。保留だから、と私は答えた」

 

「そう。縁が合わない人なら、ぼくの隣にいても、いなくならないのかもしれない。ぼくは、そう言った。君は、座ってみないと分からない、と言った」

 

彼は、ギプスの巻かれた右腕を、少しだけ動かした。

 

「昨夜、殴られながら、考えてたんだ。ぼくの周りで、誰がいなくなっていないか。……友は、いる。みいこさんも、いる。崩子ちゃんも、萌太くんも、いる。でも、みんな、ぼくと縁がある。縁がある人は、いつか、いなくなるかもしれない」

 

「私は」

 

「君は、いなくならない気がした。縁が、合わないから。……だから、口が勝手に、君の名前を言ったんだと思う」

 

縁が合わないから、呼ばれた。

 

縁が合わない人間を、人は、呼ばないものだと思っていた。

 

「それは、褒め言葉なの」

 

「分からない。ぼくにも」

 

彼は、窓の外を見た。

 

「でも、君は来た。来て、一つ空けて座った。……それで、十分だよ」

 

十分、と彼は言った。

 

私は、何も言わなかった。

 

言わないまま、一つ空けた椅子に、座り続けた。

 

 

 

 

 

午後になって、病室の扉が開いた。

 

崩子さんだった。

 

一人だった。手に、小さな紙袋を提げていた。

 

崩子さんは、病室に入るなり、彼の顔を見て、ほんの少しだけ、目を細めた。

 

細めただけで、何も言わなかった。

 

紙袋を、ベッドの脇の台に置いた。中から、林檎が三つ、転がり出た。

 

「萌太が、選びました。お兄ちゃんは、林檎の皮を剥くのが下手だから、剥かなくても食べられる小さいのを、と」

 

「……ありがとう」

 

「お礼は、萌太に言ってください」

 

崩子さんは、それから、私の方を見た。

 

一つ空けた椅子に座っている私を。

 

崩子さんは、ベッドに近い方の椅子を見た。空いている方の椅子を。

 

それから、その椅子には座らずに、壁際に、立った。

 

「座らないの」

 

私が訊くと、崩子さんは、首を振った。

 

「そこは、空けておくものだと思います」

 

「誰のために」

 

「分かりません。でも、堀北さんが空けているなら、空けておくべき席なんだと思います」

 

崩子さんは、壁に背中を預けた。

 

背中を預けたまま、彼を見た。

 

「お兄ちゃん」

 

「何」

 

「誰に、やられたんですか」

 

彼は、答えなかった。

 

崩子さんは、それ以上、訊かなかった。

 

訊かないかわりに、少しだけ、背筋を伸ばした。

 

伸ばした背筋が、さっきまでの崩子さんと、少しだけ、違って見えた。

 

護衛の背筋だった。

 

紫木さんが、あの夜、布団を畳んで出ていく前に、たぶん、同じ背筋をしていた。

 

「崩子ちゃん」

 

彼が、言った。

 

「やめてね」

 

「何をですか」

 

「分かってるでしょ」

 

崩子さんは、少しだけ、黙った。

 

それから、小さく、頷いた。

 

「……分かりました。お兄ちゃんが、そう言うなら」

 

頷いたのに、背筋は、伸びたままだった。

 

 

 

 

 

夕方、私と崩子さんは、一緒に病室を出た。

 

廊下は、夕日で、橙色に染まっていた。

 

エレベーターを待っている間、崩子さんが、言った。

 

「堀北さんは、お兄ちゃんの隣に座らないんですね」

 

「座らないわ」

 

「一つ空けて」

 

「一つ空けて」

 

崩子さんは、エレベーターの階数表示を、見上げていた。

 

「わたしは、お兄ちゃんの隣に座りたいと、ずっと思っていました。……でも、隣は、玖渚さんの席です。わたしには、座れません」

 

「座りたいのね」

 

「座りたいです。でも、座れないなら、守る側にいます。隣でなくても、守ることはできますから」

 

エレベーターが、来た。

 

扉が開いた。

 

崩子さんは、乗らずに、私を見た。

 

「堀北さん」

 

「何」

 

「お兄ちゃんの、隣の隣は、空けておいてください」

 

まっすぐな目だった。

 

「あそこは、あなたの席です。わたしは、そこには座りません。……座らないことで、わたしも、あの席を守ります」

 

扉が、閉まりかけた。

 

崩子さんが、片手で、それを押さえた。

 

「隣の隣に座る人がいると、お兄ちゃんは、少しだけ、ちゃんとご飯を食べるんです。……誰も見ていないところでも、誰かが、一つ空けた場所から見ている気がするから」

 

私は、何も言えなかった。

 

崩子さんは、エレベーターに乗った。

 

私も、乗った。

 

扉が閉まった。

 

狭い箱の中で、崩子さんは、私の隣に立っていた。

 

一つも、空けずに。

 

エレベーターの中では、空ける場所がなかった。

 

崩子さんは、階数表示を見上げたまま、少しだけ、笑ったようだった。

 

 

 

 

 

崩子さんと別れてから、私は、バスに乗らずに歩いた。

 

歩いているうちに、足が、あの路地の方へ向いていた。

 

雀荘のある路地だった。

 

四月に、牌を混ぜる音を聞いて、足を止めた路地。五月に、遠回りになるのに、何度か選んだ路地。その先の暗がりで、佐倉さんを見た路地。

 

あの夜から、私は、この路地の前を通り過ぎることはあっても、中へは、一度も入っていなかった。

 

入らなかったのは、避けていたからだ。避けていることを、認めたくなかった。認めたくないまま、三か月が過ぎた。

 

夕暮れの路地は、静かだった。

 

雀荘の窓が、少しだけ開いていた。二階から、牌を混ぜる音が、降ってきた。乾いていて、細かくて、途切れずに続く音。四月と、何も変わっていなかった。

 

何も変わっていないことに、少しだけ、腹が立った。

 

腹を立てる筋合いは、なかった。雀荘は、雀荘のまま、ここにある。変わったのは、こちらの方だった。四月の私は、この音を聞いて、あの人の指を思い出していた。今の私は、この音を聞いて、路地の先の暗がりを見ている。

 

暗がりは、ただの暗がりだった。

 

五月の夜、ここに、男が倒れていた。佐倉さんが、カメラのストラップを持って、立っていた。フラッシュが光って、目が合った。

 

今は、何もなかった。

 

誰も倒れていない。誰も立っていない。古い木造の建物の、格子戸の前に、植木鉢が一つ、置いてあるだけだった。

 

私は、暗がりの手前で、足を止めた。

 

止めた足の先に、一歩分の、地面があった。

 

五月の夜、私は、ここで止まった。止まって、佐倉さんの方へ、行かなかった。

 

今、一歩を踏み出しても、そこには、誰もいない。誰もいない場所に踏み出しても、何も取り戻せない。

 

踏み出さなかった。

 

踏み出さなかったけれど、目を、逸らさなかった。

 

何もない暗がりを、私は、しばらく見ていた。

 

見ていたのは、暗がりではなく、暗がりの向こうに、もういない人だった。

 

零崎(ぜろざき)の名前の中に、今、佐倉さんがいる。

 

いつか、その名前の前に、私は、もう一度立つことになる。立った時に、また、一歩手前で止まるのかどうか。

 

二階で、誰かが、牌を倒す音がした。

 

和了ったのか、流れたのか。音だけでは、分からなかった。

 

分からない局を、分からないまま聞いているのは、卓に座っていない人間だけだ。座っている人間は、倒れた牌を、自分の目で見る。

 

分からないまま、私は、路地を抜けた。

 

 

 

 

 

その夜、部屋のチャイムが鳴った。

 

十一時を、過ぎていた。

 

ドアを開けると、赤い人が立っていた。

 

顔に、傷があった。

 

左の頬に、一本。額の端に、一本。黒いシャツの袖が、肘のところで、裂けていた。裂けた袖の下に、包帯が見えた。

 

「……よう」

 

「怪我を」

 

「怪我っていうか、帳尻」

 

潤さんは、勝手に部屋に入ってきた。

 

入ってきて、床に、あぐらをかいた。

 

四日前と、同じ場所だった。

 

「匂宮の兄貴と、やり合ってきた」

 

潤さんは、天井を見上げた。

 

「いーたんを、あんなにしたのは、あいつだ。あたしを呼び出すために。……呼び出されてやったよ。あいつの妹の帳尻を、あたしの体で合わせてやった」

 

「勝ったんですか」

 

「さあね」

 

潤さんは、片方の口の端を上げた。

 

傷のせいで、上げ方が、少しだけ、ぎこちなかった。

 

「勝ち負けは、つけなかった。あいつは、生きてる。……生かしたっていうか、生き残らせた。あいつ、最後に、変なこと言ってたからさ」

 

「変なこと」

 

「零崎人識(ひとしき)は、死んだってさ」

 

人識。六月に、潤さんが車の中で、ちょっと遊んだと言った、零崎の末っ子の名前だった。

 

「……六月に話していた、末っ子の人ですか」

 

「そ。覚えてたか。……で、こっからは、匂宮の兄貴の方の話だけどな」

 

潤さんは、天井に目を戻した。

 

「人識が死んだってのは、たぶん、嘘だ。あいつは、人識のことを、友達で、敵だと思ってる。友達を、狐の面の男から隠すために、死んだことにした。……そういう嘘は、だいたい、守るための嘘なんだよ」

 

守るための嘘。

 

斑鳩さんに、知らないと言った、私の嘘。

 

彼が、警察に、知らない人だと言った、彼の嘘。

 

この夏は、守るための嘘ばかりだった。

 

「前にも言ったけどな、りんねちゃん」

 

潤さんの声が、少しだけ、低くなった。

 

「家族を殺されたら、相手を皆殺しにする連中だ。家族の一人でも、誰かに触られたら、その誰かの周りまで、根こそぎ。……そういう連中の家族に、あんたの同級生が、なってる」

 

潤さんは、天井から、目を下ろした。

 

三白眼が、私を見た。

 

「その子のことは、六月に聞いた分で足りてる。あれ以上は、訊かないよ。あんたは、あれ以上は言わないって決めて、話したんだろうから」

 

「……はい」

 

「でも、一個だけ」

 

潤さんは、あぐらを解いて、立ち上がった。

 

「零崎の名前の周りが、騒がしくなってる」

 

私は、潤さんを見上げた。

 

「どうして、分かるんですか」

 

「分かるっていうか、並べただけ。匂宮の兄貴が言ってた。狐の面の男が、人識に会いたがってるって。匂宮の兄貴が、人識を死んだことにして隠した。……零崎の名前を、二人が、別々の向きから引っ張ってる。引っ張られた名前の周りは、だいたい、ろくなことにならない」

 

潤さんは、ドアの方へ歩いた。

 

ドアノブに手をかけて、振り返った。

 

「その時、あんたは、たぶん、降りないんだろうな」

 

「……分かりません」

 

「嘘、下手だな」

 

潤さんは、笑った。

 

笑ったまま、ドアを開けた。

 

「いーたんの見舞い、また行ってやって。あいつ、あんたが来ると、ちょっとだけ、ちゃんと飯を食うから」

 

崩子さんと、同じことを言った。

 

ドアが、閉まった。

 

私は、閉まったドアを見ていた。

 

零崎の名前の周りが、騒がしくなっている。

 

佐倉さんは、今、その名前の中にいる。

 

私は、ノートを開いた。

 

いちばん後ろの紙。十一桁。

 

それを見て、閉じた。

 

この問いの答えを、綾小路くんは、たぶん、持っている。

 

持っているから、かけなかった。

 

答えをもらったら、私は、その答えの通りに座ってしまう気がした。

 

八月は、まだ、半分残っていた。

 

残っているうちに、自分で、座る場所を決めておかなければならなかった。

 

決めておく、と思った。決めた、とは、まだ、思わなかった。思わないまま、灯りを消した。暗い部屋の中で、ノートのいちばん後ろの紙の角が、指に触れた気がした。

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