片付けるというのは、物を元の場所へ戻すことだと思われている。
違う。片付けるのは、元の場所が、もうないことを確かめることだ。
持ち主のいなくなった部屋で、物は、どこへも戻れない。戻る場所を失った物を、箱に詰める。箱に詰めた物は、もう、誰のものでもない。
誰のものでもない物の重さを、片付ける人間だけが、知っている。
八月十五日の昼、骨董アパートの一階の、いちばん奥の部屋で、私は、段ボール箱を組み立てていた。
研究所から戻った次の日だった。前の晩、潤さんが置いていった湯呑みを洗って、そのまま、眠らずに朝になった。朝になってから、
六畳一間。日に焼けた畳。真ん中に、小さな卓袱台が一つ。卓袱台の上に、国語の問題集が、開いたまま置いてあった。
開いていたページの余白に、大きな丸が描いてあった。丸の中に、自分のため、と書いてあった。
私は、その問題集を、閉じなかった。
閉じずに、そのまま、箱の一番上に入れた。
「……それ、持っていきますか」
扉のところで、
萌太くんと二人で、手伝いに来てくれていた。萌太くんは、押し入れの中の布団を、畳んでいた。崩子さんは、扉の脇に立って、私の手元を見ていた。
「紫木さんの家族に、送るのでは」
「姫ちゃんに、家族はいません」
崩子さんは、静かに言った。
「戯言遣いのお兄ちゃんが、そう言っていました。昔の学校が、家族の代わりだったと。……その学校は、もう、ありません」
学校は、もうない。
六月に、私は、それがなくなるところにいた。
「だから、持っていける人が、持っていくしかないんです」
萌太くんが、布団を畳みながら言った。
火のついていない煙草を、口にくわえていた。
「みー姉は、姫ちゃんの竹刀を一本、持っていきました。姫ちゃん、剣道なんてしてなかったのに、みー姉の竹刀を勝手に借りて、振り回してたから。……いー兄は、まだ、何も持っていってません。この部屋に、入れないんです」
彼は、この部屋に入れない。
研究所から戻って、まだ一日しか経っていなかった。彼は、昨日の夜から、自分の部屋の扉を、一度も開けていないと、萌太くんが言っていた。
「先生は、何を持っていきますか」
萌太くんが、私を見た。
私は、箱の一番上の問題集を見た。
「これを」
「国語の」
「ええ。……私が教えたのは、国語だけだったから」
萌太くんは、少しだけ笑った。
笑って、また、布団を畳み始めた。
崩子さんは、扉の脇に立ったまま、私を見ていた。
まばたきの少ない目だった。
「堀北さん」
崩子さんが、私の名前を、初めて呼んだ。
「あなたは、あの夜、姫ちゃんと同じ部屋にいたと聞きました」
「いたわ」
「姫ちゃんを、追わなかった」
「追わなかったわ」
崩子さんは、少しだけ、黙った。
黙ったまま、私の顔を見ていた。
「……責めているのではありません」
「分かっているわ」
「わたしでも、追いませんでした。追っても、姫ちゃんは、行ったと思います。護衛というのは、そういうものです。……わたしの家も、そういう家でしたから」
わたしの家。
この子が、どういう家の生まれなのか、私は知らない。知らないけれど、護衛というものが、どういうものなのかを、この子は、体のどこかで知っている気がした。
「ただ」
崩子さんは、言葉を探すように、少しだけ間を置いた。
「追わずに、待っている方が、ずっと難しいと思います。……追う方は、追ったあとで、自分を許せます。追おうとした、と言えるから。待っていた方は、何も言えません」
何も言えない。
六月、潤さんにも、言われた。
《待つってのは、優しいより、ずっと難しいんだ》
「あなたは、何も言わないんですね」
崩子さんが、言った。
「言うことがないから」
「言うことがないのに、ここに来て、箱を組み立てている」
崩子さんは、扉の脇から、一歩、部屋の中へ入った。
入って、畳の上に、膝をついた。
膝をついて、卓袱台の上の、消しゴムを一つ、拾い上げた。角が丸くなった、小さな消しゴムだった。
崩子さんは、それを、私の箱の中に、そっと入れた。
「これも、国語の時に、使っていたはずです」
私は、何も言わなかった。
何も言わないまま、箱の蓋を、閉じた。
片付けが終わる頃、廊下に、草履の音がした。
浅野さんだった。
甚平ではなく、紺の着物を着ていた。帯の締め方が、いつもより、少しだけ固かった。手に、細長い布の袋を提げていた。
浅野さんは、扉のところで足を止めて、空になった部屋を見た。
畳の上に、日に焼けていない四角が、いくつも残っていた。卓袱台のあった場所。布団を敷いていた場所。鞄を置いていた場所。物がなくなると、物があった形だけが、畳に残る。
「……早かったな」
浅野さんは、それだけ言った。
「萌太くんが、手際がよくて」
「そうか」
浅野さんは、部屋には入らなかった。入らずに、敷居の外から、壁の一点を見ていた。
壁に、小さな釘が一本、打ってあった。釘の下の壁だけ、少しだけ色が違っていた。細長い何かが、そこに掛かっていた跡だった。
「竹刀を、掛けていた」
浅野さんが、言った。
「私のを、勝手に持っていって、勝手に掛けた。返せと言ったら、師匠の師匠の竹刀だから、ここに掛けておくと御利益がある、と言った。……御利益の意味も、分かっていなかった」
萌太くんが、布団の山の向こうで、小さく笑った。
浅野さんは、手に提げていた布の袋を、少しだけ持ち上げた。
「今朝、取り返した。……取り返したら、軽かった」
軽かった、と浅野さんは言った。
竹刀の重さは、変わらないはずだった。変わったのは、持つ人の方だった。
「堀北」
「はい」
「お前は、何を持っていく」
「国語の問題集を」
「そうか」
浅野さんは、私の箱を見た。蓋の閉じた箱を。
「あの子は、お前の授業の日だけ、朝から、廊下を掃いていた」
知らなかった。
国語の日、私が骨董アパートに着く頃には、廊下は、いつも、きれいだった。古い建物なのに、砂一つ落ちていなかった。そういう建物なのだと、思っていた。
「先生が来るから、と言っていた。……先生というのが、どういうものかも、分かっていなかったくせに」
浅野さんは、敷居の外で、背筋を伸ばした。
伸ばしたまま、空の部屋に向かって、一度だけ、深く頭を下げた。
剣道の礼だった。試合の前と後に、相手に向かってするもの。
頭を上げて、浅野さんは、廊下を戻っていった。草履の音が、階段を、一段ずつ上っていった。
鳴る階段だった。昇る人間の数を、数えている階段。
その日、階段は、一人分だけ、鳴った。
八月十七日の夜、鴨川の土手を、一人で歩いた。
骨董アパートからの帰り道だった。片付けの日には持ちきれずに、萌太くんの部屋に預けてあった箱を、今日、取りに行った。
段ボール箱は、思ったより重かった。問題集と、消しゴムと、紫木さんが書いた答案用紙が、何枚か。それだけなのに、腕が、少しずつ、痺れていった。
土手の下の河川敷に、人が、等間隔に座っていた。
恋人たちだった。夏の夜の鴨川には、いつも、等間隔に恋人たちが座る。間隔は、誰が決めたのでもないのに、誰もが守っている。
隣の人との間を、一つ空ける。
私の座り方と、少しだけ、似ていた。
似ているのに、違った。恋人たちは、二人で一つの席を占めて、隣の二人との間を空ける。私は、一人で一つの席を占めて、隣の一人との間を空ける。
空ける数は、同じなのに。
橋の下に差しかかった時、暗がりの中で、何かが動いた。
足を止めた。
橋の柱の陰に、人が立っていた。
黒いマントだった。
髪の長い、背の高くない影。マントの合わせ目から、革のベルトが覗いていた。
外灯の光が、その顔の半分を照らした。
理澄さんの顔から、笑いを全部抜いて、代わりに刃物を一本入れたような顔。
「よう」
私は、箱を抱えたまま、動かなかった。
「また会ったな。殺し屋の前で震えねえ女」
出夢さんは、柱にもたれていた。
もたれた肩が、少しだけ、下がっていた。六日前、骨董アパートの前で見た時より、少しだけ、細く見えた。
「……何の用かしら」
「用はねえ。あんたを待ってたわけじゃねえからな」
出夢さんは、柱から背を離した。
「待ってたのは、あのおにーさんの方だ。……あんた、あいつの居場所、知ってるか」
「知らないわ」
本当だった。
彼は、片付けの翌日から、自分の部屋を出たきり、戻っていないと、萌太くんが言っていた。どこへ行ったのかは、誰も知らなかった。
「ふうん」
出夢さんは、私の腕の中の箱を、ちらりと見た。
「それ、曲絃糸のガキの荷物か」
私は、答えなかった。
答えなかったのに、出夢さんは、頷いた。
「あのガキは、強かったよ」
出夢さんの声は、乾いていた。
乾いているのに、どこか、湿った場所に触れているような声だった。
「妹を、殺された。……殺し合いだったからな。どっちが死んでも、文句は言えねえ。言えねえけど、帳尻は、合わせなきゃならねえ」
帳尻。
六日前も、この人は、その言葉を使った。仕事じゃねえ時に殺すと、あとで、帳尻が合わなくなる。
「だから、
出夢さんは、言った。
「あのガキの後ろには、哀川潤がいた。あのガキを澄百合から連れ出したのは、哀川潤だ。……妹の帳尻は、そっちで合わせる」
「潤さんと、戦うの」
「戦うっていうか、殺し合う」
出夢さんは、口の端を、大きく吊り上げた。
「ぎゃは。……でもな、あの女は、呼んでも来ねえ。来ねえ女を呼び出すには、来なきゃいけねえ理由を作るしかねえ」
来なきゃいけない理由。
私は、箱を、少しだけ、強く抱えた。
「彼を、使うつもりなの」
出夢さんは、何も言わなかった。
何も言わなかったけれど、目が、笑っていた。
刃物の目のまま、笑っていた。
「……あんた、哀川潤の番号、知ってるか」
「知らないわ」
「ほんとに?」
「本当に。あの人は、来ると言った時ほど来なくて、来ないと言った時に来る人よ。番号なんて、教えてもらったことがない」
出夢さんは、一瞬だけ、目を見開いた。
それから、腹を抱えて、笑った。
橋の下に、笑い声が反響した。等間隔の恋人たちが、何組か、こちらを振り返った。
「ぎゃははは。……そうだ、そういう女だ、あいつは。番号なんか、誰にも教えねえ。教えねえで、勝手に来る」
出夢さんは、笑いやんで、私を見た。
「あんた、震えねえのも変だけど、殺し屋に、哀川潤の悪口を言える一般人ってのも、変だな」
「悪口ではないわ。事実よ」
「事実か。ぎゃは」
出夢さんは、背を向けた。
「あのおにーさんに会ったら、言っとけ。……いや、言わなくていいや。言ったら、あいつは逃げる。逃げられると、帳尻が合わねえ」
出夢さんは、橋の下の暗がりへ、歩いていった。
歩きながら、一度だけ、振り返った。
「あんたは、殺さねえよ。殺す理由がねえ。……でも、あんたの隣にいる奴は、知らねえぞ」
足音が、暗がりの中へ消えた。
私は、箱を抱えたまま、橋の下に立っていた。
あんたの隣にいる奴は、知らない。
私の隣には、誰もいない。
一つ空けた向こうに、彼がいる。
一つ空けた分だけ、私は、彼を守れない。
それが、私の選んだ座り方だった。
翌朝、スマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
出ると、男の声がした。
『堀北鈴音さん、ですね。京都府警の、
五月に、佐々さんの後ろに立っていた、サングラスの男の人だった。
『昨夜、鴨川の近くで、男性が一人、怪我をして見つかりました。意識は、あります。……あなたの、大学の同級生だそうです』
息が、止まった。
『本人が、あなたの名前を言いました。連絡してほしいのは、あなただと。……他に連絡する相手がいない、と言っていました』
他に、連絡する相手がいない。
玖渚さんがいる。浅野さんがいる。崩子さんも、萌太くんもいる。
その中から、彼は、私の名前を言った。
なぜ、私なのか。
分からなかった。
分からないまま、病院の名前を訊いた。
『……一つだけ、伺ってもいいですか』
斑鳩さんが、言った。
『怪我をさせた相手を、本人は、知らないと言っています。知らない相手に、急に殴られた、と。……あなたに、心当たりは』
心当たりは、あった。
昨夜、橋の下で。黒いマントの、刃物の目の人。
あんたの隣にいる奴は、知らねえぞ。
私は、少しだけ、黙った。
黙ってから、答えた。
『……ありません』
嘘だった。
電話の向こうで、斑鳩さんが、少しだけ、黙った。
『そうですか』
それだけ言って、斑鳩さんは、電話を切った。
切れたあとで、私は、スマートフォンを握ったまま、立っていた。
嘘をついた。
警察に、嘘をついた。
彼が、知らないと言ったのなら、私も、知らないと言う。彼が、何かを決めたのなら、私が、それを崩すわけにはいかない。
七月の研究施設で、穴だらけの推理を聞いた時も、私は、そう決めた。
今度も、同じだった。
同じなのに、今度の嘘は、少しだけ、重かった。
嘘が下手だと、何人に言われただろう。
下手な嘘を、私は、今、上手につこうとしていた。
上手になってしまったら、それは、もう、私ではない気がした。
病院は、京都の北の方にあった。
白い建物だった。七月の研究施設の白とは、違う白だった。あちらの白は、何かを閉じ込めておくための白。こちらの白は、何かを閉じ込めておかないための白。
受付で名前を言うと、看護師さんが、病室の番号を教えてくれた。
「お友達ですか」
「大学が、同じです」
看護師さんは、少しだけ笑った。
「あの人、よく来るんですよ。ここに。……今年に入ってから、もう三回目」
三回目。
六月に一度。全治一週間。私は、それを知っていた。もう一度は、五月の、橋の下の夜かもしれなかった。左の腕を押さえて、一人で、夜の病院へ歩いていった背中を、私は見ている。
病室は、四人部屋だった。
窓際のベッドに、彼がいた。
顔の左半分が、腫れていた。右腕に、ギプスが巻かれていた。胸のあたりに、包帯の盛り上がりが見えた。
彼は、窓の外を見ていた。
私の足音に、ゆっくりと、こちらを向いた。
「……来たんだ」
「呼ばれたから」
「呼んだつもりは、ないんだけどね。警察の人に、誰か連絡する人はいるかって訊かれて、口が勝手に、君の名前を言った」
「勝手に」
「勝手に。ぼくの口は、ときどき、ぼくの知らないことを言う」
冗談のような言い方だった。
冗談なのに、本当のことに聞こえた。
ベッドの横に、椅子が二つあった。
私は、ベッドに近い方の椅子ではなく、遠い方の椅子に座った。
一つ、空けて。
彼は、それを見て、腫れていない方の口の端を、少しだけ上げた。
「いつもの席だね」
「いつもの席よ」
しばらく、どちらも、何も言わなかった。
窓の外で、蝉が鳴いていた。
「……誰に、やられたの」
私が、訊いた。
彼は、答えなかった。
「警察には、知らない人だと言ったそうね」
「言った」
「私も、知らないと言ったわ」
彼が、こちらを向いた。
腫れた顔の、腫れていない方の目が、少しだけ、見開かれていた。
「……君は、知ってたの」
「昨夜、橋の下で、会ったわ。あなたを、探していた。潤さんに会うために、来なきゃいけない理由を作る、と」
彼は、長いあいだ、私を見ていた。
それから、ゆっくりと、天井を見上げた。
「それで、知らないって、言ったんだ」
「あなたが、知らないと言ったから」
「ぼくが、どうしてそう言ったのかも、知らないのに」
「知らないわ。知らないけれど、あなたが決めたことを、私が崩すわけにはいかない」
彼は、天井を見たまま、少しだけ、笑った。
笑うと、胸の包帯が、痛むようだった。笑いが、途中で、息に変わった。
「……七月と、同じだね」
「同じよ」
「君は、ほんとに、何もしないね」
「何もできないのよ」
「違う。何もしないんだ。……それは、何かするより、ずっと難しい」
七月にも、同じことを言われた。
同じ人に、同じことを、二度言われた。
一度目は、褒め言葉に聞こえた。二度目は、少しだけ、違って聞こえた。
何もしないことを、二度、選んだ。二度選んだことは、もう、偶然ではない。
癖になる前に、気づいておかなければならない気がした。
「どうして、私の名前を言ったの」
もう一度、訊いた。
彼は、少しだけ、考える顔をした。
「研究所からの帰りの車で、ぼくが言ったこと、覚えてる?」
「……隣に座った私に、どうして、と訊いたわ。保留だから、と私は答えた」
「そう。縁が合わない人なら、ぼくの隣にいても、いなくならないのかもしれない。ぼくは、そう言った。君は、座ってみないと分からない、と言った」
彼は、ギプスの巻かれた右腕を、少しだけ動かした。
「昨夜、殴られながら、考えてたんだ。ぼくの周りで、誰がいなくなっていないか。……友は、いる。みいこさんも、いる。崩子ちゃんも、萌太くんも、いる。でも、みんな、ぼくと縁がある。縁がある人は、いつか、いなくなるかもしれない」
「私は」
「君は、いなくならない気がした。縁が、合わないから。……だから、口が勝手に、君の名前を言ったんだと思う」
縁が合わないから、呼ばれた。
縁が合わない人間を、人は、呼ばないものだと思っていた。
「それは、褒め言葉なの」
「分からない。ぼくにも」
彼は、窓の外を見た。
「でも、君は来た。来て、一つ空けて座った。……それで、十分だよ」
十分、と彼は言った。
私は、何も言わなかった。
言わないまま、一つ空けた椅子に、座り続けた。
午後になって、病室の扉が開いた。
崩子さんだった。
一人だった。手に、小さな紙袋を提げていた。
崩子さんは、病室に入るなり、彼の顔を見て、ほんの少しだけ、目を細めた。
細めただけで、何も言わなかった。
紙袋を、ベッドの脇の台に置いた。中から、林檎が三つ、転がり出た。
「萌太が、選びました。お兄ちゃんは、林檎の皮を剥くのが下手だから、剥かなくても食べられる小さいのを、と」
「……ありがとう」
「お礼は、萌太に言ってください」
崩子さんは、それから、私の方を見た。
一つ空けた椅子に座っている私を。
崩子さんは、ベッドに近い方の椅子を見た。空いている方の椅子を。
それから、その椅子には座らずに、壁際に、立った。
「座らないの」
私が訊くと、崩子さんは、首を振った。
「そこは、空けておくものだと思います」
「誰のために」
「分かりません。でも、堀北さんが空けているなら、空けておくべき席なんだと思います」
崩子さんは、壁に背中を預けた。
背中を預けたまま、彼を見た。
「お兄ちゃん」
「何」
「誰に、やられたんですか」
彼は、答えなかった。
崩子さんは、それ以上、訊かなかった。
訊かないかわりに、少しだけ、背筋を伸ばした。
伸ばした背筋が、さっきまでの崩子さんと、少しだけ、違って見えた。
護衛の背筋だった。
紫木さんが、あの夜、布団を畳んで出ていく前に、たぶん、同じ背筋をしていた。
「崩子ちゃん」
彼が、言った。
「やめてね」
「何をですか」
「分かってるでしょ」
崩子さんは、少しだけ、黙った。
それから、小さく、頷いた。
「……分かりました。お兄ちゃんが、そう言うなら」
頷いたのに、背筋は、伸びたままだった。
夕方、私と崩子さんは、一緒に病室を出た。
廊下は、夕日で、橙色に染まっていた。
エレベーターを待っている間、崩子さんが、言った。
「堀北さんは、お兄ちゃんの隣に座らないんですね」
「座らないわ」
「一つ空けて」
「一つ空けて」
崩子さんは、エレベーターの階数表示を、見上げていた。
「わたしは、お兄ちゃんの隣に座りたいと、ずっと思っていました。……でも、隣は、玖渚さんの席です。わたしには、座れません」
「座りたいのね」
「座りたいです。でも、座れないなら、守る側にいます。隣でなくても、守ることはできますから」
エレベーターが、来た。
扉が開いた。
崩子さんは、乗らずに、私を見た。
「堀北さん」
「何」
「お兄ちゃんの、隣の隣は、空けておいてください」
まっすぐな目だった。
「あそこは、あなたの席です。わたしは、そこには座りません。……座らないことで、わたしも、あの席を守ります」
扉が、閉まりかけた。
崩子さんが、片手で、それを押さえた。
「隣の隣に座る人がいると、お兄ちゃんは、少しだけ、ちゃんとご飯を食べるんです。……誰も見ていないところでも、誰かが、一つ空けた場所から見ている気がするから」
私は、何も言えなかった。
崩子さんは、エレベーターに乗った。
私も、乗った。
扉が閉まった。
狭い箱の中で、崩子さんは、私の隣に立っていた。
一つも、空けずに。
エレベーターの中では、空ける場所がなかった。
崩子さんは、階数表示を見上げたまま、少しだけ、笑ったようだった。
崩子さんと別れてから、私は、バスに乗らずに歩いた。
歩いているうちに、足が、あの路地の方へ向いていた。
雀荘のある路地だった。
四月に、牌を混ぜる音を聞いて、足を止めた路地。五月に、遠回りになるのに、何度か選んだ路地。その先の暗がりで、佐倉さんを見た路地。
あの夜から、私は、この路地の前を通り過ぎることはあっても、中へは、一度も入っていなかった。
入らなかったのは、避けていたからだ。避けていることを、認めたくなかった。認めたくないまま、三か月が過ぎた。
夕暮れの路地は、静かだった。
雀荘の窓が、少しだけ開いていた。二階から、牌を混ぜる音が、降ってきた。乾いていて、細かくて、途切れずに続く音。四月と、何も変わっていなかった。
何も変わっていないことに、少しだけ、腹が立った。
腹を立てる筋合いは、なかった。雀荘は、雀荘のまま、ここにある。変わったのは、こちらの方だった。四月の私は、この音を聞いて、あの人の指を思い出していた。今の私は、この音を聞いて、路地の先の暗がりを見ている。
暗がりは、ただの暗がりだった。
五月の夜、ここに、男が倒れていた。佐倉さんが、カメラのストラップを持って、立っていた。フラッシュが光って、目が合った。
今は、何もなかった。
誰も倒れていない。誰も立っていない。古い木造の建物の、格子戸の前に、植木鉢が一つ、置いてあるだけだった。
私は、暗がりの手前で、足を止めた。
止めた足の先に、一歩分の、地面があった。
五月の夜、私は、ここで止まった。止まって、佐倉さんの方へ、行かなかった。
今、一歩を踏み出しても、そこには、誰もいない。誰もいない場所に踏み出しても、何も取り戻せない。
踏み出さなかった。
踏み出さなかったけれど、目を、逸らさなかった。
何もない暗がりを、私は、しばらく見ていた。
見ていたのは、暗がりではなく、暗がりの向こうに、もういない人だった。
いつか、その名前の前に、私は、もう一度立つことになる。立った時に、また、一歩手前で止まるのかどうか。
二階で、誰かが、牌を倒す音がした。
和了ったのか、流れたのか。音だけでは、分からなかった。
分からない局を、分からないまま聞いているのは、卓に座っていない人間だけだ。座っている人間は、倒れた牌を、自分の目で見る。
分からないまま、私は、路地を抜けた。
その夜、部屋のチャイムが鳴った。
十一時を、過ぎていた。
ドアを開けると、赤い人が立っていた。
顔に、傷があった。
左の頬に、一本。額の端に、一本。黒いシャツの袖が、肘のところで、裂けていた。裂けた袖の下に、包帯が見えた。
「……よう」
「怪我を」
「怪我っていうか、帳尻」
潤さんは、勝手に部屋に入ってきた。
入ってきて、床に、あぐらをかいた。
四日前と、同じ場所だった。
「匂宮の兄貴と、やり合ってきた」
潤さんは、天井を見上げた。
「いーたんを、あんなにしたのは、あいつだ。あたしを呼び出すために。……呼び出されてやったよ。あいつの妹の帳尻を、あたしの体で合わせてやった」
「勝ったんですか」
「さあね」
潤さんは、片方の口の端を上げた。
傷のせいで、上げ方が、少しだけ、ぎこちなかった。
「勝ち負けは、つけなかった。あいつは、生きてる。……生かしたっていうか、生き残らせた。あいつ、最後に、変なこと言ってたからさ」
「変なこと」
「零崎
人識。六月に、潤さんが車の中で、ちょっと遊んだと言った、零崎の末っ子の名前だった。
「……六月に話していた、末っ子の人ですか」
「そ。覚えてたか。……で、こっからは、匂宮の兄貴の方の話だけどな」
潤さんは、天井に目を戻した。
「人識が死んだってのは、たぶん、嘘だ。あいつは、人識のことを、友達で、敵だと思ってる。友達を、狐の面の男から隠すために、死んだことにした。……そういう嘘は、だいたい、守るための嘘なんだよ」
守るための嘘。
斑鳩さんに、知らないと言った、私の嘘。
彼が、警察に、知らない人だと言った、彼の嘘。
この夏は、守るための嘘ばかりだった。
「前にも言ったけどな、りんねちゃん」
潤さんの声が、少しだけ、低くなった。
「家族を殺されたら、相手を皆殺しにする連中だ。家族の一人でも、誰かに触られたら、その誰かの周りまで、根こそぎ。……そういう連中の家族に、あんたの同級生が、なってる」
潤さんは、天井から、目を下ろした。
三白眼が、私を見た。
「その子のことは、六月に聞いた分で足りてる。あれ以上は、訊かないよ。あんたは、あれ以上は言わないって決めて、話したんだろうから」
「……はい」
「でも、一個だけ」
潤さんは、あぐらを解いて、立ち上がった。
「零崎の名前の周りが、騒がしくなってる」
私は、潤さんを見上げた。
「どうして、分かるんですか」
「分かるっていうか、並べただけ。匂宮の兄貴が言ってた。狐の面の男が、人識に会いたがってるって。匂宮の兄貴が、人識を死んだことにして隠した。……零崎の名前を、二人が、別々の向きから引っ張ってる。引っ張られた名前の周りは、だいたい、ろくなことにならない」
潤さんは、ドアの方へ歩いた。
ドアノブに手をかけて、振り返った。
「その時、あんたは、たぶん、降りないんだろうな」
「……分かりません」
「嘘、下手だな」
潤さんは、笑った。
笑ったまま、ドアを開けた。
「いーたんの見舞い、また行ってやって。あいつ、あんたが来ると、ちょっとだけ、ちゃんと飯を食うから」
崩子さんと、同じことを言った。
ドアが、閉まった。
私は、閉まったドアを見ていた。
零崎の名前の周りが、騒がしくなっている。
佐倉さんは、今、その名前の中にいる。
私は、ノートを開いた。
いちばん後ろの紙。十一桁。
それを見て、閉じた。
この問いの答えを、綾小路くんは、たぶん、持っている。
持っているから、かけなかった。
答えをもらったら、私は、その答えの通りに座ってしまう気がした。
八月は、まだ、半分残っていた。
残っているうちに、自分で、座る場所を決めておかなければならなかった。
決めておく、と思った。決めた、とは、まだ、思わなかった。思わないまま、灯りを消した。暗い部屋の中で、ノートのいちばん後ろの紙の角が、指に触れた気がした。