見る、と、見てしまう、は違う。
見るのは、自分で選ぶことだ。見てしまうのは、選ぶ前に終わっていることだ。目を閉じる暇もなく、もう網膜に焼きついている。
人は、見たものには責任を持てる。
見てしまったものには、責任の持ちようがない。
その日、私は大学の図書館に遅くまで残っていた。
理由はない。部屋に帰っても、することがなかった。京都に来て、部屋にいる時間がいちばん長くなった。いちばん長いのに、いちばん何もしていない時間だった。することのない部屋で一人でいるより、することのない図書館で一人でいる方が、まだ一人であることに言い訳が立つ。
その日の昼、語学の授業のあとで、
「ほりきたさん! 明後日だよ、明後日! 気、変わった?」
「変わらないわ」
「えー、まだ二日あるよ! 二日あったら、何だって変わるんだよ! 《締め切り二日前、ただし原稿は白紙》みたいなっ!」
「それは、変わらない方の例でしょう」
葵井さんは、きょとんとして、それから吹き出した。
「ほんとだ! ほりきたさん、ツッコミうまいね!」
褒められたのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
江本さんは、葵井さんの隣で、黙って笑っていた。
あの男は、教室の反対側の隅で、何もしていなかった。
四人と一人と、もう一人。教室の中で、私たちは三つに分かれていた。分かれたまま、明後日、同じ部屋に集まることになっている。私を除いて。
図書館の窓際の席で、私は写真集を開いていた。
開くつもりで手に取ったのではない。返却棚に置かれていたのを、なんとなく取った。京都の古い町並みを撮った写真集だった。路地。格子戸。石畳。人のいない朝の通り。
ページをめくっているうちに、気づいた。
どの写真にも、人がいない。
撮った人間が、人のいない瞬間だけを選んで、シャッターを切っている。そういう写真集だった。人がいないことが、かえって、そこに誰かがいたことを思い出させる。
写真というのは、写っているものより、写っていないものの方が多い。
写真。真を写す、と書く。写っていないものの方が多いのに、真を名乗る。名前というのは、たいてい、中身より少しだけ図々しい。
高校に、カメラを持っている子がいた。
佐倉さん。同じクラスの、目立たない女の子だった。いつも誰かの陰に隠れるように座っていて、話しかけられると、あ、あの、と言いかけて言葉を飲み込む。そういう子だった。
そういう子が、カメラを持つと、別人のようになった。
一年生の二学期、体育祭の記録係を頼まれて、佐倉さんはあちこちで写真を撮っていた。行事のたびに、カメラを構えて、人の輪の外側を歩いていた。輪の中には入らないのに、輪の全部を撮っていた。
夏休みにも、佐倉さんは写真を撮っていたらしい。その夏の写真を、誰に渡すつもりでいたのか。私が知っているのは、一年生の秋、昇降口で、佐倉さんが茶色い封筒を両手で差し出しているところだけだ。私が写ってるのは入れてません、撮ったのは私なので、と言っていた。赤木くんは、受け取って、中を見なかった。
佐倉さんは、二年生の途中で学校を辞めた。
理由は、誰も知らなかった。私も、知ろうとしなかった。外と連絡が取れない学校では、辞めた人間は、そのまま消える。消えた人間のことを考える余裕が、あの頃の私にはなかった。
写真集を閉じて、返却棚に戻した。
人のいない路地の写真が、表紙になっていた。
閉館の案内が流れて、ようやく席を立った。
外は暗かった。図書館の明かりが背中で消えると、急に夜が近くなった。五月の夜は、昼の暖かさを少しだけ残している。肌寒いというほどではない。けれど、上着を持ってこなかったことを、少しだけ後悔する程度には冷えていた。
駅前の掲示板の前を通った。貼り紙が、数日前と同じ場所に、同じ文面のまま貼られていた。雨に濡れたのか、紙だけが新しく貼り直されていた。
京都連続通り魔事件。夜間の一人歩きに注意。
私は一人で歩いていた。
大学から部屋までの道は、三通り覚えた。
大通りを行く道と、川沿いを行く道と、あの雀荘のある路地を抜ける道。三つ目の道は、少し遠回りになる。遠回りになるのに、私はこの二週間で、何度かその道を選んでいた。
選んでいた、と言えば聞こえはいい。足が勝手に向いていた、と言えば言い訳になる。聞こえのいい言い訳を、私は自分に許していた。
その夜も、足は路地の方へ向いた。
雀荘の窓は閉まっていた。看板の明かりも消えていた。二階からは、何の音もしなかった。定休日なのか、もう閉めたのか。牌の音のしない路地は、ただの古い路地だった。木造の建物が両側に並び、街灯が一本だけ、少し離れたところで瞬いている。
私は、看板の前で立ち止まりかけて、立ち止まらずに通り過ぎた。
路地は、その先でもう一度折れる。
折れた先は、街灯の光が届かない。
足元の石畳が、少しずつ見えなくなっていく。見えなくなっていくのに、足は止まらなかった。この路地を抜ければ、部屋まであと五分。何度も通った道だった。何度も通ったということが、怖さを薄めていた。
怖さが薄まった道ほど、人は注意を払わない。
注意を払わない道で起きることを、人は後になって、運が悪かったと呼ぶ。
運が悪い。運ぶ、と同じ字だ。悪いものを運んでくるのは、たいてい、自分の足の方だ。
音がした。
牌の音ではなかった。
もっと鈍い音だった。重いものが、壁に押しつけられる音。それから、息の音。息を吸おうとして、吸えない音。喉の奥で、空気が詰まる音。
私は足を止めた。
止めるべきではなかった、と今なら思う。足を止めずに、来た道を引き返して、大通りに出て、明るいところで誰かに電話をかければよかった。それが正しい判断だった。
正しい判断というのは、いつも後から分かる。
暗がりの奥で、何かが動いていた。二つの影が、一つに重なっていた。片方が、もう片方の首のあたりに、何かを巻きつけている。巻きつけた方の影は小さかった。巻きつけられた方の影は大きかった。大きい方が、小さい方の手を掴もうとして、掴めずに、壁を掻いた。
私は、声を出さなかった。
出すより先に、見てしまっていた。
大きい方の影が、ゆっくりと膝をついた。膝をついて、それから前に倒れた。小さい方の影は、倒れた体に合わせて屈み、巻きつけていたものを、最後まで離さなかった。
しばらく、何の音もしなかった。
それから、小さい方の影が立ち上がった。
首から何かを外して、手の中で構えた。
光った。
白い光だった。暗がりの全部を、一瞬で塗りつぶす光。倒れた男の顔と、壁の染みと、地面の石畳と、それを撮っている人間の横顔を、残らず照らし出した。
フラッシュだった。
撮る、と、獲る。音が同じなのは、たぶん偶然ではない。
光は一度だけで、すぐに消えた。消えたあとも、私の目の中に、白い形が残っていた。
残っていた形の中に、知っている顔があった。
眼鏡をかけていた。
髪は、高校の頃より短かった。肩の上で、無造作に切りそろえてあった。自分で切ったのかもしれない。少し痩せたのかもしれない。頬の線が、教室にいた頃より、ずっと細かった。それでも、見間違えようがなかった。教室の隅で、いつも誰かの陰に隠れるように座っていた顔。カメラを持つと別人のように明るくなる、と誰かが言っていた顔。
その顔は、明るくなっていなかった。
笑ってもいなかった。泣いてもいなかった。倒れた男を見下ろして、手の中のカメラの画面を確かめている。確かめて、小さく頷いた。うまく撮れた写真を見る時の、頷き方だった。
カメラのストラップが、手首に巻きついていた。
さっきまで、男の首に巻きついていたものだ。
その顔が、こちらを向いた。
暗がりの中で、目が合った。
カメラの画面が消えると、顔はもう見えなかった。街灯の光は届かない。それでも、目が合ったことだけは分かった。向こうも、分かったはずだ。フラッシュの光は、撮られる側だけでなく、撮る側の前に立っていた人間のことも、照らしてしまう。
「……堀北さん」
小さな声だった。
教室で、誰かに話しかけられた時の声と、同じ大きさだった。あ、あの、と言いかけて、言えずに飲み込む時の声。その声が、私の名前を呼んだ。
私は、何も言えなかった。
何をしているの、と訊くべきだったのかもしれない。逃げるべきだったのかもしれないし、近寄るべきだったのかもしれない。どれも、正しい判断だった気がする。
どれも、しなかった。
正しい判断を一つも選べなかった理由を、あとで何度も考えた。
驚いたから、ではない。驚くより先に、私は分かってしまった。
何を思っていたのかは、分からない。分かったのは、手つきだけだ。倒れた男にカメラを向けた時の手つきには、迷いが一つもなかった。教室で人の輪の外側を歩きながら、シャッターを切っていた時と、同じ手つきだった。
同じ手つきで、人が死んでいた。
それが分かってしまったから、私は動けなかった。
佐倉さんは、少しだけ首を傾げた。何かを言いかけて、やめた。
やめて、カメラを首にかけ直した。ストラップが、首の後ろで一度、揺れた。
それから、私に背を向けて、路地の奥へ歩いていった。
走らなかった。急ぎもしなかった。誰かに見られたことを、少しも恐れていない歩き方だった。
路地の角で、佐倉さんは一度だけ立ち止まった。
振り返りはしなかった。首から下げたカメラを持ち上げて、背面の画面を、もう一度だけ確かめた。画面の小さな光が、眼鏡に映った。確かめて、満足したように、カメラを胸に戻した。
撮った一枚を、確かめたのだ。
撮った人間がそこにいることを、私に確かめさせないまま。
路地の角を曲がって、見えなくなった。
私は、そこに立っていた。
どれくらい立っていたのか分からない。倒れた男は、動かなかった。動かないことを確かめに近づくことも、私にはできなかった。
ポケットの中で、スマートフォンが重かった。
警察に電話をかける。それが、いちばん正しい判断だった。三つの数字を押すだけでいい。いま見たことを、見たとおりに話せばいい。
指が、動かなかった。
見たとおりに話せば、私は佐倉さんの名前を言うことになる。
言えば、あの子は捕まる。捕まって、たぶん二度と、カメラを持てなくなる。
それが正しいことだと、分かっていた。
分かっていて、指が動かなかった。
どうやって部屋に帰ったのか、よく覚えていない。
覚えているのは、大通りに出たところで、パトカーが一台、すぐ横を通り過ぎたことだけだ。
赤い光が、建物の壁を順番に舐めていった。速くはなかった。巡回の速さだった。通り魔の事件が続いているから、夜の見回りを増やしているのだろう。
手を挙げれば、止まった。
止まって、窓が開いて、どうしましたか、と訊かれる。私は、路地の奥を指さす。それだけで、全部が始まる。
私は、手を挙げなかった。
挙げなかった。挙げられなかった、ではない。手を挙げる、というのは、降参の形でもある。私はまだ、何に降参するのかを決められずにいた。
パトカーは、信号を一つ越えて、角を曲がって見えなくなった。赤い光の名残だけが、しばらく壁に残っていた。残っていたように見えたのは、私の目の方に、まだ白い光が焼きついていたからかもしれない。
正しい判断というのは、いつも後から分かる。
後から分かるのに、分かった時にはもう、選べなくなっている。
後悔、という言葉は、悔いが後から来ることを言う。先に来る悔いには、名前がない。名前がないから、人は先に悔やむことができない。
気がつくと、洗面所の鏡の前に立っていた。
蛇口から、水が出しっぱなしになっていた。いつ捻ったのか、覚えていない。顔を洗ったのかどうかも、覚えていない。鏡の中の私の顔は、濡れていなかった。
鏡の中に、知らない顔があった。
知っているはずの顔だった。毎朝見ている顔だ。それなのに、知らない顔に見えた。目が、さっきの白い光の残像を、まだ映しているような気がした。
鏡の中の私は、左右が逆だった。
右の頬に触れると、鏡の中の私は左の頬に触れる。毎朝見ているこの顔は、本当の私の顔ではない。本当の私の顔を、私は一度も見たことがない。
佐倉さんは、何を撮ったのだろう。
倒れた男の、最後の顔を。誰にも見られていない、本当の顔を。
蛇口を閉めた。閉めた音が、狭い部屋に大きく響いた。
いつの間にか、机の前に座っていた。鞄が床に落ちていた。落ちた鞄の口から、ノートが半分はみ出していた。
いちばん後ろのページの、十一桁。
私はそれを見ないようにした。
見ないようにしたことで、かえって見てしまった。
目を閉じると、白い光が浮かんだ。光の中の横顔と、手首に巻きついたストラップと、うまく撮れた写真を見る時の、小さな頷き。
私は、見てしまった。
見てしまったものには、責任の持ちようがない。
持ちようがないものを、私は朝まで持っていた。
答えというのは、問いより先にあるものではない。
問いを立てた人間の手の中で、初めて答えになる。だから同じ答えでも、誰の手に渡るかで、正解にも不正解にもなる。
正しい答えを持っている人間は、そのことを知らない。
知らなくていいから、正しいままでいられる。
朝のニュースは、通り魔の七人目を伝えていた。テレビをつけたのは、つけないでいることに耐えられなかったからだ。
場所は、あの路地だった。被害者は四十代の会社員。発見は早朝、新聞配達の人。死因は、首を絞められたことによる窒息。
キャスターは、こう続けた。
これまでの六件はいずれも刃物によるもので、今回は手口が異なります。警察は、一連の事件との関連を慎重に調べています。
慎重に、という言葉を、私は何度か頭の中で転がした。慎重に調べるということは、関連があると思っているということだ。関連があると思っている人間は、関連がない証拠を、たいてい見落とす。
関連はない。
慎重に、と言った人は、慎重に、の中身を知らない。中身を知っている私は、慎重に、黙っている。同じ言葉を、正反対の理由で使っている。
私は知っている。
知っているのは、たぶん、この町で私だけだった。
午前中の講義に、私は、出なかった。出なかった席は、名簿の上でだけ、私を待っている。目立たないためには、その方がいいと思った。
それが言い訳だということは、自分でも分かっていた。見たことを黙っている人間は、いつも通りに振る舞うのがいちばん目立たない。いつも通りに振る舞えないから、部屋にいたのだ。
それでも、昼前に一度だけ、部屋を出た。
出たのは、あの路地を見るためだった。
見てどうするのかは、考えていなかった。考えないまま、足が向いた。昨夜と同じ道を、昨夜とは反対の向きに歩いた。
明るい路地は、ただの路地だった。
木造の建物が並び、格子戸の前に植木鉢が置いてあった。雀荘の看板は、昼の光の中で、いっそう色褪せて見えた。
折れた先に、黄色いテープが張られていた。
テープの向こうの石畳は、きれいに洗われていた。何も残っていなかった。壁の染みも、昨夜フラッシュの中で見た染みと同じものなのか、分からなかった。テープの前に、花束が一つ置かれていた。誰が置いたのかは、分からない。
私は、テープの手前で立ち止まった。
「人が死んだ場所は、昼の方が怖いね」
後ろから声がした。
振り返ると、あの男が立っていた。大学へ行く途中なのか、鞄を肩にかけて。私と、一人分の距離を空けて。
「……どうして、ここに」
「通り道だから」
嘘かもしれなかった。嘘ではないのかもしれなかった。この男の言うことは、どちらとも決められない形をしている。
「昼の方が怖い、というのは」
訊いてから、訊いたことを後悔した。彼は、黄色いテープを見たまま答えた。
「夜は、何も見えないから、何でも想像できる。想像したものは、たいてい本物より大げさだから、どこかで嘘だと分かる。昼は、何もないのが見えてしまう。何もないのが見えると、想像する余地がなくなる。あるのは、ここで人が死んだっていう事実だけになる」
私は、何も言えなかった。
彼の言うことが正しいかどうかは、分からなかった。分からなかったけれど、昨夜の私は、何もかもを見てしまった。想像する余地など、最初からなかった。
「君は、何か見た?」
彼は、テープを見たまま訊いた。
心臓が、一度だけ強く打った。
「いいえ」
「そう」
彼はそれだけ言って、歩き出した。大学の方へ。私の横を、一人分空けて通り過ぎて。
振り返らなかった。
私も、振り返らなかった。
花束のセロファンが、風で小さく鳴った。
昼過ぎに、部屋のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、スーツの女性が立っていた。黒い髪をまっすぐ伸ばした、背の高い人だった。その後ろに、サングラスをかけた長身の男性がいた。
「京都府警の
警察手帳が、目の高さに差し出された。
「この近くで昨夜、事件がありました。ご存じですか」
「ニュースで見ました」
「昨夜の十時から十一時ごろ、この辺りを歩いていませんでしたか」
息が、一拍だけ止まった。
止まったことを、顔に出さないようにした。高校の三年間で、それだけは上手くなった。
「大学の図書館にいました。閉館まで。そのあとは、大通りを通って帰りました」
嘘ではなかった。
半分だけ、嘘ではなかった。半分の本当と、半分の嘘を足すと、一つの嘘になる。嘘を半分混ぜた本当は、もう本当には戻らない。算数は、いつも嘘の側の味方をする。大通りを通ったのは、路地を抜けて、震えながら歩いた後のことだ。
佐々という刑事は、私の顔をじっと見ていた。見て、何かを確かめるように、もう一度だけ質問をした。
「何か、変わったものを見たり、聞いたりは」
「いいえ」
「そうですか」
刑事は、それ以上は訊かなかった。
訊かない代わりに、私の部屋の中を、ドアの隙間から一度だけ見た。机の上。本棚。床に置いたままの鞄。見たものを、どこかに書き留めるような目だった。
「京都には、いつから」
「四月からです。大学に入るために」
「お一人で」
「はい」
「ご家族は、ご心配でしょう。こういう事件が続いていると」
兄の顔が浮かんだ。入学式の朝の、短いメッセージ。おめでとう、の一言。
「……連絡は、取っていません」
言ってから、余計なことを言ったと思った。佐々さんは、何も言わなかった。言わないまま、私の顔を、もう一度だけ見た。
名刺を一枚、私に渡した。
「何か思い出したら、いつでも」
ドアを閉めたあと、私は名刺を机の上に置いた。
置いた名刺の隣に、ノートがあった。
夕方、スマートフォンが短く震えた。
葵井さんからのメッセージだった。誕生会に誘われた日に、半ば無理やり連絡先を交換させられていた。交換した相手から、何かが届くのは初めてだった。
『明日だよ! 気が変わったら、いつでも来てね! ケーキ、六人分頼んじゃった!』
最後に、ケーキの写真が一枚付いていた。白いクリームの上に、苺が六つ並んでいた。
六人分。
苺が六つ。一つは、私の分。数えられた苺は、食べられなくても、数には入る。数に入れられるというのは、こういうことなのだと思った。
私は、まだ行くとは言っていない。言っていないのに、葵井さんは私の分の苺を、もう数えに入れていた。
断られても笑って引き下がるのは平気だからじゃない、と貴宮さんは言った。平気なふりが上手いだけだ、と。
平気なふりをしている人間が、断った相手の分まで、苺を数えている。
返信の欄に、指を置いた。
何を書けばいいのか、分からなかった。行けない、と書けば、葵井さんはまた笑って、じゃあ今度ね、と返してくるだろう。行く、と書けるほど、昨夜のことは、まだ私の中で片づいていなかった。
何も書かずに、画面を閉じた。
苺の写真だけが、閉じた画面の奥に残った気がした。
夜になった。
名刺とノートが、机の上に並んでいた。
名刺に書かれた番号にかければ、正しいことができる。見たことを、見たとおりに話せばいい。佐倉さんは捕まり、町は少しだけ安全になる。
ノートのいちばん後ろの番号にかけても、何が起きるのかは分からない。
分からない方を、私は手に取った。
ノートを開いた。
いちばん後ろのページ。罫線の切れ端。十一桁の数字。名前はない。癖のない字。癖がないことが、綾小路くんの癖だった。
この紙を初めて見つけたのは、一年生の十月だった。あれから二年半。あの学校の外に出たら、と思いながら、私はこの紙を一度も捨てなかった。卒業してからは、毎日鞄に入れて持ち歩いた。
一度も、開かなかった。
開かなかった紙を、私は今、開いている。
スマートフォンに、数字を一つずつ打ち込んだ。十一回、指を動かした。最後の数字を押したあと、発信のボタンの上で、指が止まった。
かけて、何を言うのか。
一か月前の私なら、そこで止まっていた。
今夜の私には、言うことがあった。
押した。
呼び出し音が、三回鳴った。
四回目は、鳴らなかった。
向こうは、何も言わなかった。私も、すぐには何も言えなかった。耳の奥で、何かの音がした。風のような、機械のような、遠い音。向こうの部屋の音なのか、電話の線の音なのか、分からなかった。
『……堀北か』
声だった。
平らで、温度のない、それでいて聞き取りやすい声。一年生の頃、隣の席から何度も聞いた声だった。
『なぜ分かったの』
『この番号を知っているのは、お前だけだ』
お前だけ、と言われて、嬉しくなかった。だけ、というのは、限定の言葉だ。特別の言葉ではない。
それだけだった。久しぶりだとも、元気かとも言わなかった。二年半の間を、綾小路くんは一言で飛び越えた。飛び越えたことにも、たぶん気づいていない。
私は、昨夜のことを話した。
見たとおりに話した。路地のこと。音のこと。二つの影。フラッシュ。倒れた男。眼鏡と、短くなった髪と、手首のストラップ。私の名前を呼んだ、小さな声。
佐倉さんの名前を言った時、私は一度だけ、言葉に詰まった。
名前を言う、と、名指しする。名指しの指は、たぶん、人を差す指だ。
詰まったのは、名前が重かったからではない。名前を口に出した瞬間に、それが本当のことになってしまう気がしたからだ。頭の中で何度繰り返しても、口に出さない限り、昨夜のことは、まだ私一人の見間違いでいられた。
口に出したら、もう見間違いではなくなった。
綾小路くんは、何も言わずに最後まで聞いた。途中で一度も、相槌を打たなかった。打たないのが、この人の聞き方だった。
話し終えると、少しだけ間があった。
『警察には』
『話していない。刑事が来たけれど、見ていないと言ったわ』
『そうか』
また、間があった。
『通報しろ』
短い一言だった。
『見たことを全部話せ。今夜のうちに』
『……佐倉さんは、同じクラスだったのよ』
『だからだ』
だから、と、なのに。綾小路くんは、私が、なのに、と言うと思ったところで、だから、と言う。接続詞を一つ入れ替えるだけで、情は理屈に変わる。
綾小路くんの声は、変わらなかった。
『佐倉はお前の顔を見た。お前が見たことを知っている。お前が黙っている限り、佐倉にとってお前は、まだ片づいていない一枚だ。通報すれば、お前は佐倉の側から外れる。それがいちばん安全だ』
正しかった。
一つ残らず、正しかった。綾小路くんは、私が怖がっていることを、私が言葉にする前に、もう答えの中に入れていたように聞こえた。
正しすぎて、私には受け取れなかった。
『それが、あなたの答え?』
『お前の安全を最優先するなら、それ以外にない』
『佐倉さんの安全は』
『佐倉は、もう自分で選んだ』
選んだ、と、選ばされた。綾小路くんの言葉には、いつも、受け身の形がない。
私は、何も言い返せなかった。言い返す言葉を、持っていなかった。
『……考えるわ』
『考えるのは構わない。ただ、時間は佐倉の側にある』
切られる前に、私は一つだけ訊いた。
『あなたは今、どこにいるの』
少しだけ、間があった。
『答える必要はない』
『必要がないから、答えないの? それとも、答えられないの?』
『どちらでも、お前の判断は変わらない』
『変わらないのは、私の判断ではなくて、あなたの答え方でしょう』
『そうだな』
認められると、それ以上は何も言えなかった。綾小路くんは、負けを認めるのが、昔から誰よりも上手かった。勝ちを認めさせないのと、同じくらい。
綾小路くんは、いつもそうだった。私が何かを訊くと、その問いが、私にとって役に立つかどうかで答えを選ぶ。役に立たない問いには、答えない。役に立たないと、私が気づくように答える。
一年生の頃、それが嫌いだった。
今は、嫌いだと言えるほど、強くなかった。
電話は、それで切れた。
切ったのは、私だったのか、向こうだったのか、よく分からなかった。
スマートフォンを机の上に置いた。
名刺と、ノートと、スマートフォン。三つが並んでいた。
赤木くんなら、と考えた。
あの人なら、正しいかどうかより、降りるかどうかを見ただろう。
今、隣には誰もいない。
綾小路くんの答えは、正しかった。正しいのに、手の中で、それは答えにならなかった。
不思議なことに、かけたことを、後悔はしていなかった。
その夜は、眠れなかった。
目を閉じると、白い光が浮かんだ。光の中で、佐倉さんが小さく頷く。うまく撮れた写真を見る時の頷き方。それから、私の名前を呼ぶ。小さな声で。
目を開けると、天井があった。白い、何もない天井。昼の路地と同じだった。何もないのが見えると、想像する余地がなくなる、とあの男は言った。
想像する余地がなくなったあとに残るのは、事実だけだ。
事実は、一つだった。
佐倉さんが人を殺した。それを見たのは、私だけだ。
明け方近くに、ようやく少しだけ眠った。眠る直前に、もう一つだけ、事実が浮かんだ。
警察には、まだ言っていない。
十一桁の数字は、もう紙の上だけのものではなくなっていた。発信履歴のいちばん上に、名前のないまま、並んでいた。