ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

3 / 3
第3話 目撃(黙劇)

見る、と、見てしまう、は違う。

 

見るのは、自分で選ぶことだ。見てしまうのは、選ぶ前に終わっていることだ。目を閉じる暇もなく、もう網膜に焼きついている。

 

人は、見たものには責任を持てる。

 

見てしまったものには、責任の持ちようがない。

 

 

 

 

 

その日、私は大学の図書館に遅くまで残っていた。

 

理由はない。部屋に帰っても、することがなかった。京都に来て、部屋にいる時間がいちばん長くなった。いちばん長いのに、いちばん何もしていない時間だった。することのない部屋で一人でいるより、することのない図書館で一人でいる方が、まだ一人であることに言い訳が立つ。

 

その日の昼、語学の授業のあとで、葵井(あおいい)さんがまた私の袖を引いた。

 

「ほりきたさん! 明後日だよ、明後日! 気、変わった?」

 

「変わらないわ」

 

「えー、まだ二日あるよ! 二日あったら、何だって変わるんだよ! 《締め切り二日前、ただし原稿は白紙》みたいなっ!」

 

「それは、変わらない方の例でしょう」

 

葵井さんは、きょとんとして、それから吹き出した。

 

「ほんとだ! ほりきたさん、ツッコミうまいね!」

 

褒められたのだと気づくまでに、少し時間がかかった。

 

江本さんは、葵井さんの隣で、黙って笑っていた。貴宮(あてみや)さんは、窓の外を見ていた。宇佐美くんは、スマートフォンを触っていた。

 

あの男は、教室の反対側の隅で、何もしていなかった。

 

四人と一人と、もう一人。教室の中で、私たちは三つに分かれていた。分かれたまま、明後日、同じ部屋に集まることになっている。私を除いて。

 

図書館の窓際の席で、私は写真集を開いていた。

 

開くつもりで手に取ったのではない。返却棚に置かれていたのを、なんとなく取った。京都の古い町並みを撮った写真集だった。路地。格子戸。石畳。人のいない朝の通り。

 

ページをめくっているうちに、気づいた。

 

どの写真にも、人がいない。

 

撮った人間が、人のいない瞬間だけを選んで、シャッターを切っている。そういう写真集だった。人がいないことが、かえって、そこに誰かがいたことを思い出させる。

 

写真というのは、写っているものより、写っていないものの方が多い。

 

写真。真を写す、と書く。写っていないものの方が多いのに、真を名乗る。名前というのは、たいてい、中身より少しだけ図々しい。

 

高校に、カメラを持っている子がいた。

 

佐倉さん。同じクラスの、目立たない女の子だった。いつも誰かの陰に隠れるように座っていて、話しかけられると、あ、あの、と言いかけて言葉を飲み込む。そういう子だった。

 

そういう子が、カメラを持つと、別人のようになった。

 

一年生の二学期、体育祭の記録係を頼まれて、佐倉さんはあちこちで写真を撮っていた。行事のたびに、カメラを構えて、人の輪の外側を歩いていた。輪の中には入らないのに、輪の全部を撮っていた。

 

夏休みにも、佐倉さんは写真を撮っていたらしい。その夏の写真を、誰に渡すつもりでいたのか。私が知っているのは、一年生の秋、昇降口で、佐倉さんが茶色い封筒を両手で差し出しているところだけだ。私が写ってるのは入れてません、撮ったのは私なので、と言っていた。赤木くんは、受け取って、中を見なかった。

 

佐倉さんは、二年生の途中で学校を辞めた。

 

理由は、誰も知らなかった。私も、知ろうとしなかった。外と連絡が取れない学校では、辞めた人間は、そのまま消える。消えた人間のことを考える余裕が、あの頃の私にはなかった。

 

写真集を閉じて、返却棚に戻した。

 

人のいない路地の写真が、表紙になっていた。

 

閉館の案内が流れて、ようやく席を立った。

 

外は暗かった。図書館の明かりが背中で消えると、急に夜が近くなった。五月の夜は、昼の暖かさを少しだけ残している。肌寒いというほどではない。けれど、上着を持ってこなかったことを、少しだけ後悔する程度には冷えていた。

 

駅前の掲示板の前を通った。貼り紙が、数日前と同じ場所に、同じ文面のまま貼られていた。雨に濡れたのか、紙だけが新しく貼り直されていた。

 

京都連続通り魔事件。夜間の一人歩きに注意。

 

私は一人で歩いていた。

 

 

 

 

 

大学から部屋までの道は、三通り覚えた。

 

大通りを行く道と、川沿いを行く道と、あの雀荘のある路地を抜ける道。三つ目の道は、少し遠回りになる。遠回りになるのに、私はこの二週間で、何度かその道を選んでいた。

 

選んでいた、と言えば聞こえはいい。足が勝手に向いていた、と言えば言い訳になる。聞こえのいい言い訳を、私は自分に許していた。

 

その夜も、足は路地の方へ向いた。

 

雀荘の窓は閉まっていた。看板の明かりも消えていた。二階からは、何の音もしなかった。定休日なのか、もう閉めたのか。牌の音のしない路地は、ただの古い路地だった。木造の建物が両側に並び、街灯が一本だけ、少し離れたところで瞬いている。

 

私は、看板の前で立ち止まりかけて、立ち止まらずに通り過ぎた。

 

路地は、その先でもう一度折れる。

 

折れた先は、街灯の光が届かない。

 

足元の石畳が、少しずつ見えなくなっていく。見えなくなっていくのに、足は止まらなかった。この路地を抜ければ、部屋まであと五分。何度も通った道だった。何度も通ったということが、怖さを薄めていた。

 

怖さが薄まった道ほど、人は注意を払わない。

 

注意を払わない道で起きることを、人は後になって、運が悪かったと呼ぶ。

 

運が悪い。運ぶ、と同じ字だ。悪いものを運んでくるのは、たいてい、自分の足の方だ。

 

 

 

 

 

音がした。

 

牌の音ではなかった。

 

もっと鈍い音だった。重いものが、壁に押しつけられる音。それから、息の音。息を吸おうとして、吸えない音。喉の奥で、空気が詰まる音。

 

私は足を止めた。

 

止めるべきではなかった、と今なら思う。足を止めずに、来た道を引き返して、大通りに出て、明るいところで誰かに電話をかければよかった。それが正しい判断だった。

 

正しい判断というのは、いつも後から分かる。

 

暗がりの奥で、何かが動いていた。二つの影が、一つに重なっていた。片方が、もう片方の首のあたりに、何かを巻きつけている。巻きつけた方の影は小さかった。巻きつけられた方の影は大きかった。大きい方が、小さい方の手を掴もうとして、掴めずに、壁を掻いた。

 

私は、声を出さなかった。

 

出すより先に、見てしまっていた。

 

大きい方の影が、ゆっくりと膝をついた。膝をついて、それから前に倒れた。小さい方の影は、倒れた体に合わせて屈み、巻きつけていたものを、最後まで離さなかった。

 

しばらく、何の音もしなかった。

 

それから、小さい方の影が立ち上がった。

 

首から何かを外して、手の中で構えた。

 

光った。

 

白い光だった。暗がりの全部を、一瞬で塗りつぶす光。倒れた男の顔と、壁の染みと、地面の石畳と、それを撮っている人間の横顔を、残らず照らし出した。

 

フラッシュだった。

 

撮る、と、獲る。音が同じなのは、たぶん偶然ではない。

 

光は一度だけで、すぐに消えた。消えたあとも、私の目の中に、白い形が残っていた。

 

残っていた形の中に、知っている顔があった。

 

 

 

 

 

眼鏡をかけていた。

 

髪は、高校の頃より短かった。肩の上で、無造作に切りそろえてあった。自分で切ったのかもしれない。少し痩せたのかもしれない。頬の線が、教室にいた頃より、ずっと細かった。それでも、見間違えようがなかった。教室の隅で、いつも誰かの陰に隠れるように座っていた顔。カメラを持つと別人のように明るくなる、と誰かが言っていた顔。

 

その顔は、明るくなっていなかった。

 

笑ってもいなかった。泣いてもいなかった。倒れた男を見下ろして、手の中のカメラの画面を確かめている。確かめて、小さく頷いた。うまく撮れた写真を見る時の、頷き方だった。

 

カメラのストラップが、手首に巻きついていた。

 

さっきまで、男の首に巻きついていたものだ。

 

その顔が、こちらを向いた。

 

暗がりの中で、目が合った。

 

カメラの画面が消えると、顔はもう見えなかった。街灯の光は届かない。それでも、目が合ったことだけは分かった。向こうも、分かったはずだ。フラッシュの光は、撮られる側だけでなく、撮る側の前に立っていた人間のことも、照らしてしまう。

 

 

 

「……堀北さん」

 

 

 

小さな声だった。

 

教室で、誰かに話しかけられた時の声と、同じ大きさだった。あ、あの、と言いかけて、言えずに飲み込む時の声。その声が、私の名前を呼んだ。

 

私は、何も言えなかった。

 

何をしているの、と訊くべきだったのかもしれない。逃げるべきだったのかもしれないし、近寄るべきだったのかもしれない。どれも、正しい判断だった気がする。

 

どれも、しなかった。

 

正しい判断を一つも選べなかった理由を、あとで何度も考えた。

 

驚いたから、ではない。驚くより先に、私は分かってしまった。

 

何を思っていたのかは、分からない。分かったのは、手つきだけだ。倒れた男にカメラを向けた時の手つきには、迷いが一つもなかった。教室で人の輪の外側を歩きながら、シャッターを切っていた時と、同じ手つきだった。

 

同じ手つきで、人が死んでいた。

 

それが分かってしまったから、私は動けなかった。

 

 

 

 

 

佐倉さんは、少しだけ首を傾げた。何かを言いかけて、やめた。

 

 

 

 

やめて、カメラを首にかけ直した。ストラップが、首の後ろで一度、揺れた。

 

それから、私に背を向けて、路地の奥へ歩いていった。

 

走らなかった。急ぎもしなかった。誰かに見られたことを、少しも恐れていない歩き方だった。

 

路地の角で、佐倉さんは一度だけ立ち止まった。

 

振り返りはしなかった。首から下げたカメラを持ち上げて、背面の画面を、もう一度だけ確かめた。画面の小さな光が、眼鏡に映った。確かめて、満足したように、カメラを胸に戻した。

 

撮った一枚を、確かめたのだ。

 

撮った人間がそこにいることを、私に確かめさせないまま。

 

路地の角を曲がって、見えなくなった。

 

 

 

 

 

私は、そこに立っていた。

 

どれくらい立っていたのか分からない。倒れた男は、動かなかった。動かないことを確かめに近づくことも、私にはできなかった。

 

ポケットの中で、スマートフォンが重かった。

 

警察に電話をかける。それが、いちばん正しい判断だった。三つの数字を押すだけでいい。いま見たことを、見たとおりに話せばいい。

 

指が、動かなかった。

 

見たとおりに話せば、私は佐倉さんの名前を言うことになる。

 

言えば、あの子は捕まる。捕まって、たぶん二度と、カメラを持てなくなる。

 

それが正しいことだと、分かっていた。

 

分かっていて、指が動かなかった。

 

 

 

 

 

どうやって部屋に帰ったのか、よく覚えていない。

 

覚えているのは、大通りに出たところで、パトカーが一台、すぐ横を通り過ぎたことだけだ。

 

赤い光が、建物の壁を順番に舐めていった。速くはなかった。巡回の速さだった。通り魔の事件が続いているから、夜の見回りを増やしているのだろう。

 

手を挙げれば、止まった。

 

止まって、窓が開いて、どうしましたか、と訊かれる。私は、路地の奥を指さす。それだけで、全部が始まる。

 

私は、手を挙げなかった。

 

挙げなかった。挙げられなかった、ではない。手を挙げる、というのは、降参の形でもある。私はまだ、何に降参するのかを決められずにいた。

 

パトカーは、信号を一つ越えて、角を曲がって見えなくなった。赤い光の名残だけが、しばらく壁に残っていた。残っていたように見えたのは、私の目の方に、まだ白い光が焼きついていたからかもしれない。

 

正しい判断というのは、いつも後から分かる。

 

後から分かるのに、分かった時にはもう、選べなくなっている。

 

後悔、という言葉は、悔いが後から来ることを言う。先に来る悔いには、名前がない。名前がないから、人は先に悔やむことができない。

 

気がつくと、洗面所の鏡の前に立っていた。

 

蛇口から、水が出しっぱなしになっていた。いつ捻ったのか、覚えていない。顔を洗ったのかどうかも、覚えていない。鏡の中の私の顔は、濡れていなかった。

 

鏡の中に、知らない顔があった。

 

知っているはずの顔だった。毎朝見ている顔だ。それなのに、知らない顔に見えた。目が、さっきの白い光の残像を、まだ映しているような気がした。

 

鏡の中の私は、左右が逆だった。

 

右の頬に触れると、鏡の中の私は左の頬に触れる。毎朝見ているこの顔は、本当の私の顔ではない。本当の私の顔を、私は一度も見たことがない。

 

佐倉さんは、何を撮ったのだろう。

 

倒れた男の、最後の顔を。誰にも見られていない、本当の顔を。

 

蛇口を閉めた。閉めた音が、狭い部屋に大きく響いた。

 

いつの間にか、机の前に座っていた。鞄が床に落ちていた。落ちた鞄の口から、ノートが半分はみ出していた。

 

いちばん後ろのページの、十一桁。

 

私はそれを見ないようにした。

 

見ないようにしたことで、かえって見てしまった。

 

目を閉じると、白い光が浮かんだ。光の中の横顔と、手首に巻きついたストラップと、うまく撮れた写真を見る時の、小さな頷き。

 

私は、見てしまった。

 

見てしまったものには、責任の持ちようがない。

 

持ちようがないものを、私は朝まで持っていた。

 

 

 

 

 

答えというのは、問いより先にあるものではない。

 

問いを立てた人間の手の中で、初めて答えになる。だから同じ答えでも、誰の手に渡るかで、正解にも不正解にもなる。

 

正しい答えを持っている人間は、そのことを知らない。

 

知らなくていいから、正しいままでいられる。

 

 

 

 

 

朝のニュースは、通り魔の七人目を伝えていた。テレビをつけたのは、つけないでいることに耐えられなかったからだ。

 

場所は、あの路地だった。被害者は四十代の会社員。発見は早朝、新聞配達の人。死因は、首を絞められたことによる窒息。

 

キャスターは、こう続けた。

 

これまでの六件はいずれも刃物によるもので、今回は手口が異なります。警察は、一連の事件との関連を慎重に調べています。

 

慎重に、という言葉を、私は何度か頭の中で転がした。慎重に調べるということは、関連があると思っているということだ。関連があると思っている人間は、関連がない証拠を、たいてい見落とす。

 

関連はない。

 

慎重に、と言った人は、慎重に、の中身を知らない。中身を知っている私は、慎重に、黙っている。同じ言葉を、正反対の理由で使っている。

 

私は知っている。

 

知っているのは、たぶん、この町で私だけだった。

 

 

 

 

 

午前中の講義に、私は、出なかった。出なかった席は、名簿の上でだけ、私を待っている。目立たないためには、その方がいいと思った。

 

それが言い訳だということは、自分でも分かっていた。見たことを黙っている人間は、いつも通りに振る舞うのがいちばん目立たない。いつも通りに振る舞えないから、部屋にいたのだ。

 

それでも、昼前に一度だけ、部屋を出た。

 

出たのは、あの路地を見るためだった。

 

見てどうするのかは、考えていなかった。考えないまま、足が向いた。昨夜と同じ道を、昨夜とは反対の向きに歩いた。

 

明るい路地は、ただの路地だった。

 

木造の建物が並び、格子戸の前に植木鉢が置いてあった。雀荘の看板は、昼の光の中で、いっそう色褪せて見えた。

 

折れた先に、黄色いテープが張られていた。

 

テープの向こうの石畳は、きれいに洗われていた。何も残っていなかった。壁の染みも、昨夜フラッシュの中で見た染みと同じものなのか、分からなかった。テープの前に、花束が一つ置かれていた。誰が置いたのかは、分からない。

 

私は、テープの手前で立ち止まった。

 

「人が死んだ場所は、昼の方が怖いね」

 

後ろから声がした。

 

振り返ると、あの男が立っていた。大学へ行く途中なのか、鞄を肩にかけて。私と、一人分の距離を空けて。

 

「……どうして、ここに」

 

「通り道だから」

 

嘘かもしれなかった。嘘ではないのかもしれなかった。この男の言うことは、どちらとも決められない形をしている。

 

「昼の方が怖い、というのは」

 

訊いてから、訊いたことを後悔した。彼は、黄色いテープを見たまま答えた。

 

「夜は、何も見えないから、何でも想像できる。想像したものは、たいてい本物より大げさだから、どこかで嘘だと分かる。昼は、何もないのが見えてしまう。何もないのが見えると、想像する余地がなくなる。あるのは、ここで人が死んだっていう事実だけになる」

 

私は、何も言えなかった。

 

彼の言うことが正しいかどうかは、分からなかった。分からなかったけれど、昨夜の私は、何もかもを見てしまった。想像する余地など、最初からなかった。

 

「君は、何か見た?」

 

彼は、テープを見たまま訊いた。

 

心臓が、一度だけ強く打った。

 

「いいえ」

 

「そう」

 

彼はそれだけ言って、歩き出した。大学の方へ。私の横を、一人分空けて通り過ぎて。

 

振り返らなかった。

 

私も、振り返らなかった。

 

花束のセロファンが、風で小さく鳴った。

 

 

 

 

 

昼過ぎに、部屋のチャイムが鳴った。

 

ドアを開けると、スーツの女性が立っていた。黒い髪をまっすぐ伸ばした、背の高い人だった。その後ろに、サングラスをかけた長身の男性がいた。

 

「京都府警の佐々(ささ)といいます。こちらは斑鳩(いかるが)。少しだけ、お話をよろしいですか」

 

警察手帳が、目の高さに差し出された。

 

「この近くで昨夜、事件がありました。ご存じですか」

 

「ニュースで見ました」

 

「昨夜の十時から十一時ごろ、この辺りを歩いていませんでしたか」

 

息が、一拍だけ止まった。

 

止まったことを、顔に出さないようにした。高校の三年間で、それだけは上手くなった。

 

「大学の図書館にいました。閉館まで。そのあとは、大通りを通って帰りました」

 

嘘ではなかった。

 

半分だけ、嘘ではなかった。半分の本当と、半分の嘘を足すと、一つの嘘になる。嘘を半分混ぜた本当は、もう本当には戻らない。算数は、いつも嘘の側の味方をする。大通りを通ったのは、路地を抜けて、震えながら歩いた後のことだ。

 

佐々という刑事は、私の顔をじっと見ていた。見て、何かを確かめるように、もう一度だけ質問をした。

 

「何か、変わったものを見たり、聞いたりは」

 

「いいえ」

 

「そうですか」

 

刑事は、それ以上は訊かなかった。

 

訊かない代わりに、私の部屋の中を、ドアの隙間から一度だけ見た。机の上。本棚。床に置いたままの鞄。見たものを、どこかに書き留めるような目だった。

 

「京都には、いつから」

 

「四月からです。大学に入るために」

 

「お一人で」

 

「はい」

 

「ご家族は、ご心配でしょう。こういう事件が続いていると」

 

兄の顔が浮かんだ。入学式の朝の、短いメッセージ。おめでとう、の一言。

 

「……連絡は、取っていません」

 

言ってから、余計なことを言ったと思った。佐々さんは、何も言わなかった。言わないまま、私の顔を、もう一度だけ見た。

 

名刺を一枚、私に渡した。

 

「何か思い出したら、いつでも」

 

ドアを閉めたあと、私は名刺を机の上に置いた。

 

置いた名刺の隣に、ノートがあった。

 

 

 

 

 

夕方、スマートフォンが短く震えた。

 

葵井さんからのメッセージだった。誕生会に誘われた日に、半ば無理やり連絡先を交換させられていた。交換した相手から、何かが届くのは初めてだった。

 

『明日だよ! 気が変わったら、いつでも来てね! ケーキ、六人分頼んじゃった!』

 

最後に、ケーキの写真が一枚付いていた。白いクリームの上に、苺が六つ並んでいた。

 

六人分。

 

苺が六つ。一つは、私の分。数えられた苺は、食べられなくても、数には入る。数に入れられるというのは、こういうことなのだと思った。

 

私は、まだ行くとは言っていない。言っていないのに、葵井さんは私の分の苺を、もう数えに入れていた。

 

断られても笑って引き下がるのは平気だからじゃない、と貴宮さんは言った。平気なふりが上手いだけだ、と。

 

平気なふりをしている人間が、断った相手の分まで、苺を数えている。

 

返信の欄に、指を置いた。

 

何を書けばいいのか、分からなかった。行けない、と書けば、葵井さんはまた笑って、じゃあ今度ね、と返してくるだろう。行く、と書けるほど、昨夜のことは、まだ私の中で片づいていなかった。

 

何も書かずに、画面を閉じた。

 

苺の写真だけが、閉じた画面の奥に残った気がした。

 

夜になった。

 

名刺とノートが、机の上に並んでいた。

 

名刺に書かれた番号にかければ、正しいことができる。見たことを、見たとおりに話せばいい。佐倉さんは捕まり、町は少しだけ安全になる。

 

ノートのいちばん後ろの番号にかけても、何が起きるのかは分からない。

 

分からない方を、私は手に取った。

 

ノートを開いた。

 

いちばん後ろのページ。罫線の切れ端。十一桁の数字。名前はない。癖のない字。癖がないことが、綾小路くんの癖だった。

 

この紙を初めて見つけたのは、一年生の十月だった。あれから二年半。あの学校の外に出たら、と思いながら、私はこの紙を一度も捨てなかった。卒業してからは、毎日鞄に入れて持ち歩いた。

 

一度も、開かなかった。

 

開かなかった紙を、私は今、開いている。

 

スマートフォンに、数字を一つずつ打ち込んだ。十一回、指を動かした。最後の数字を押したあと、発信のボタンの上で、指が止まった。

 

かけて、何を言うのか。

 

一か月前の私なら、そこで止まっていた。

 

今夜の私には、言うことがあった。

 

押した。

 

 

 

 

 

呼び出し音が、三回鳴った。

 

四回目は、鳴らなかった。

 

向こうは、何も言わなかった。私も、すぐには何も言えなかった。耳の奥で、何かの音がした。風のような、機械のような、遠い音。向こうの部屋の音なのか、電話の線の音なのか、分からなかった。

 

『……堀北か』

 

声だった。

 

平らで、温度のない、それでいて聞き取りやすい声。一年生の頃、隣の席から何度も聞いた声だった。

 

『なぜ分かったの』

 

『この番号を知っているのは、お前だけだ』

 

お前だけ、と言われて、嬉しくなかった。だけ、というのは、限定の言葉だ。特別の言葉ではない。

 

それだけだった。久しぶりだとも、元気かとも言わなかった。二年半の間を、綾小路くんは一言で飛び越えた。飛び越えたことにも、たぶん気づいていない。

 

私は、昨夜のことを話した。

 

見たとおりに話した。路地のこと。音のこと。二つの影。フラッシュ。倒れた男。眼鏡と、短くなった髪と、手首のストラップ。私の名前を呼んだ、小さな声。

 

佐倉さんの名前を言った時、私は一度だけ、言葉に詰まった。

 

名前を言う、と、名指しする。名指しの指は、たぶん、人を差す指だ。

 

詰まったのは、名前が重かったからではない。名前を口に出した瞬間に、それが本当のことになってしまう気がしたからだ。頭の中で何度繰り返しても、口に出さない限り、昨夜のことは、まだ私一人の見間違いでいられた。

 

口に出したら、もう見間違いではなくなった。

 

綾小路くんは、何も言わずに最後まで聞いた。途中で一度も、相槌を打たなかった。打たないのが、この人の聞き方だった。

 

話し終えると、少しだけ間があった。

 

『警察には』

 

『話していない。刑事が来たけれど、見ていないと言ったわ』

 

『そうか』

 

また、間があった。

 

 

 

『通報しろ』

 

 

 

短い一言だった。

 

『見たことを全部話せ。今夜のうちに』

 

『……佐倉さんは、同じクラスだったのよ』

 

『だからだ』

 

だから、と、なのに。綾小路くんは、私が、なのに、と言うと思ったところで、だから、と言う。接続詞を一つ入れ替えるだけで、情は理屈に変わる。

 

綾小路くんの声は、変わらなかった。

 

『佐倉はお前の顔を見た。お前が見たことを知っている。お前が黙っている限り、佐倉にとってお前は、まだ片づいていない一枚だ。通報すれば、お前は佐倉の側から外れる。それがいちばん安全だ』

 

正しかった。

 

一つ残らず、正しかった。綾小路くんは、私が怖がっていることを、私が言葉にする前に、もう答えの中に入れていたように聞こえた。

 

正しすぎて、私には受け取れなかった。

 

『それが、あなたの答え?』

 

『お前の安全を最優先するなら、それ以外にない』

 

『佐倉さんの安全は』

 

『佐倉は、もう自分で選んだ』

 

選んだ、と、選ばされた。綾小路くんの言葉には、いつも、受け身の形がない。

 

私は、何も言い返せなかった。言い返す言葉を、持っていなかった。

 

『……考えるわ』

 

『考えるのは構わない。ただ、時間は佐倉の側にある』

 

切られる前に、私は一つだけ訊いた。

 

『あなたは今、どこにいるの』

 

少しだけ、間があった。

 

『答える必要はない』

 

『必要がないから、答えないの? それとも、答えられないの?』

 

『どちらでも、お前の判断は変わらない』

 

『変わらないのは、私の判断ではなくて、あなたの答え方でしょう』

 

『そうだな』

 

認められると、それ以上は何も言えなかった。綾小路くんは、負けを認めるのが、昔から誰よりも上手かった。勝ちを認めさせないのと、同じくらい。

 

綾小路くんは、いつもそうだった。私が何かを訊くと、その問いが、私にとって役に立つかどうかで答えを選ぶ。役に立たない問いには、答えない。役に立たないと、私が気づくように答える。

 

一年生の頃、それが嫌いだった。

 

今は、嫌いだと言えるほど、強くなかった。

 

電話は、それで切れた。

 

切ったのは、私だったのか、向こうだったのか、よく分からなかった。

 

 

 

 

 

スマートフォンを机の上に置いた。

 

名刺と、ノートと、スマートフォン。三つが並んでいた。

 

赤木くんなら、と考えた。

 

あの人なら、正しいかどうかより、降りるかどうかを見ただろう。

 

今、隣には誰もいない。

 

綾小路くんの答えは、正しかった。正しいのに、手の中で、それは答えにならなかった。

 

不思議なことに、かけたことを、後悔はしていなかった。

 

その夜は、眠れなかった。

 

目を閉じると、白い光が浮かんだ。光の中で、佐倉さんが小さく頷く。うまく撮れた写真を見る時の頷き方。それから、私の名前を呼ぶ。小さな声で。

 

目を開けると、天井があった。白い、何もない天井。昼の路地と同じだった。何もないのが見えると、想像する余地がなくなる、とあの男は言った。

 

想像する余地がなくなったあとに残るのは、事実だけだ。

 

事実は、一つだった。

 

佐倉さんが人を殺した。それを見たのは、私だけだ。

 

明け方近くに、ようやく少しだけ眠った。眠る直前に、もう一つだけ、事実が浮かんだ。

 

警察には、まだ言っていない。

 

十一桁の数字は、もう紙の上だけのものではなくなっていた。発信履歴のいちばん上に、名前のないまま、並んでいた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

【完結】アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜(作者:GC)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

盲目の代打ち・市川との、生死を賭けた一局。それを制した直後、十三歳の赤木しげるは、勝利の余韻でも高揚でもなく、ただつまらなそうな顔で夜の中へ歩き去った。▼【挿絵表示】▼次に目を開けたとき、そこは見知らぬ寮の一室だった。▼畳もなければ、煙草の匂いもない。清潔すぎる部屋に残されていたのは、名前だけが刷られた一枚の学生証。誰が用意したのかは、わからない。わかる必要…


総合評価:1309/評価:7.46/完結:75話/更新日時:2026年10月03日(土) 00:05 小説情報

ようこそ超能力者のいる教室へ -2年生編-(作者:オールF)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

母の善意から最初志望していた高校ではなく、高度育成高等学校に入学した斉木楠雄。自身の希望する進学先、就職先への進学、就職が確約されていると謳われていた高校は実力至上主義の学校だった。しかも、超能力者故に教師や先輩の無意識のテレパシーで、数々のネタバレを喰らいながらも平穏に学園生活を送ることを目指していたが───────!?▼1年生編▶︎https://syo…


総合評価:11626/評価:9.11/連載:67話/更新日時:2026年10月04日(日) 00:22 小説情報

堀北さんは諦めない!(作者:BM-13)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

Dクラスの生徒、堀北鈴音は気がつくと登校初日のバスの中。▼しかし彼女には、すでにその学校で過ごした記憶があった。▼何度も繰り返した経験を元に、彼女はこのループを終わらせてAクラスで卒業することができるのか?▼「この周回は捨てるわ」▼「土下座?別に構わないわ」▼「別に見てもいいわよ?減るものじゃないし」▼※あらすじ詐欺です。▼※一部AIを使って添削をしておりま…


総合評価:1284/評価:8.74/連載:9話/更新日時:2026年10月04日(日) 09:00 小説情報

ようこそ超能力者のいる教室へ -1年生編-(作者:オールF)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

母の善意からPK学園ではなく、高度育成高等学校に入学した斉木楠雄が教師や先輩の無意識のテレパシーで、数々のネタバレを喰らいながらも平穏に学園生活を送ることを目指す話。▼2年生編▶︎https://syosetu.org/novel/420896/▼高度育成高等学校くーちゃんのイラストをいただいたので公開しやがれーッ!▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼突如作者の中…


総合評価:20457/評価:9.03/完結:133話/更新日時:2026年09月08日(火) 00:00 小説情報

ようこそ才能至上主義の教室へ(作者:ディメラ)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

▼超高校級の希望が実力至上主義の教室へ行く物語▼plugxさんから素敵な表紙をいただきました!▼是非ご覧になってください!▼【挿絵表示】▼ワタさんからの素敵な挿絵をいただきました!▼是非ご覧になってください!▼【挿絵表示】▼plugxさんから再び素敵な挿絵をいただきました!▼1周年記念です!ぜひご覧になってください!▼【挿絵表示】▼


総合評価:21951/評価:9.08/連載:160話/更新日時:2026年10月03日(土) 19:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>