ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第30話 卑怯(秘境)

逃げるというのは、遠くへ行くことだと思われている。

 

違う。逃げるのは、誰にも行き先を言わずに行くことだ。行き先を言ってしまえば、それは、ただの旅になる。

 

旅には、帰り道がある。

 

逃げには、ない。行き先を誰も知らないから、帰り道を、誰も用意してくれない。

 

 

 

 

 

紫木(ゆかりき)さんを見送ったのは、八月の、二十日を過ぎた日だった。

 

寺の名前は、聞かなかった。京都の東の、山の裾の、小さな寺だった。本堂の脇に、墓地が、斜面に沿って並んでいた。

 

段取りをしたのは、潤さんだった。

 

ワインレッドのスーツではなかった。黒い服を着ていた。黒い服を着ていても、髪だけは、赤かった。

 

「身内がいないんだよ、あの子には」

 

本堂の前で、潤さんが言った。

 

「だから、あたしがやる。連れ出したのは、あたしだからな。連れ出した奴が、最後まで面倒を見る。……それが、請負人の筋ってもんだ」

 

筋、と潤さんは言った。

 

人の重さを、晩飯の回数で量る人が、今日は、筋という字で量っていた。

 

集まったのは、八人だった。

 

潤さん。浅野さん。崩子(ほうこ)さん。萌太(もえた)くん。鈴無(すずなし)さん。鈴無さんの背中に負われた、玖渚(くなぎさ)さん。私。

 

それから、車椅子に乗せられて、看護師さんに押されてきた、彼。

 

彼は、顔の腫れが、まだ引いていなかった。右腕のギプスを、膝の上に載せていた。病院から、半日だけ、外に出る許しをもらってきたのだと、潤さんが言った。

 

お経が、読まれた。

 

短いお経だった。

 

私は、本堂の、いちばん後ろの列に座った。

 

座ってから、気づいた。私の隣が、一つ、空いていた。

 

誰も、そこに座らなかった。

 

お経が終わって、墓地へ移る時、玖渚さんが、鈴無さんの背中から、私を呼んだ。

 

「すずちゃん」

 

鈴無さんが、私の方へ歩いてきた。玖渚さんを背負ったまま。

 

「この子が、あんたと話したいって。……アタシは、ちょっと、向こうで萌太の顔でも見てくるわ」

 

鈴無さんは、玖渚さんを、墓地の入り口の石のベンチに下ろした。

 

下ろして、萌太くんの方へ歩いていった。

 

私は、ベンチの、一つ空けた場所に座った。

 

玖渚さんは、それを見て、少しだけ笑った。

 

いつもの笑い方ではなかった。目の奥の青が、今日は、少しだけ、笑っていた。

 

「姫ちゃんとは、あんまり、話したことなかったの」

 

玖渚さんは、墓地の方を見ていた。

 

「いーちゃんの弟子だって。いーちゃんのこと、師匠って呼んでるって。……僕様ちゃん、ちょっとだけ、やきもち焼いてたの」

 

「やきもち」

 

「だって、いーちゃんの隣に、姫ちゃんが座ってたんだもん。台所で、お皿洗ってる時とか。僕様ちゃん、お皿洗えないから」

 

研究所の夜の、台所の窓を思い出した。

 

鍋を洗う紫木さんと、皿を拭く彼。言葉を使わずに、手の動きで話が済む距離。

 

「すずちゃんは、やきもち、焼かないの」

 

「焼かないわ」

 

「どうして」

 

「隣に、座ろうとしていないから」

 

玖渚さんは、私の方を向いた。

 

まばたきを、一度もしなかった。

 

「すずちゃん、いーちゃんのこと、好きじゃないでしょ」

 

まっすぐな訊き方だった。

 

「……好きか嫌いかで言えば、どちらでもないわ」

 

「だから、隣に座らないんだよね」

 

玖渚さんは、にっこりと笑った。

 

「僕様ちゃん、それ、好き」

 

好きじゃないから、隣に座らない。

 

それを、この子は、好きだと言った。

 

「隣に座る人は、みんな、いーちゃんのことが好きなの。好きだから、隣に座って、好きだから、いーちゃんのせいで、壊れちゃう。……すずちゃんは、好きじゃないから、壊れない。壊れないから、ずっと、隣の隣にいられる」

 

玖渚さんは、墓地の、斜面の上の方を見た。

 

潤さんが、新しい墓石の前に、しゃがんでいた。

 

「すずちゃんは、いーちゃんを、壊さなかったね」

 

玖渚さんが、言った。

 

「壊れも、しなかった。……僕様ちゃん、それ、できなかったんだよ」

 

「できなかった」

 

「僕様ちゃんは、いーちゃんを、壊しちゃったの。昔。いーちゃんも、僕様ちゃんを、壊しちゃったの。……隣同士で、壊し合っちゃったの。だから、今も、隣にいるの。壊れたところを、お互いに、支え合わないと、立ってられないから」

 

壊し合ったから、隣にいる。

 

隣、という場所の、私の知らない形だった。

 

「すずちゃんは、壊さないで、壊れないで、隣の隣にいて」

 

玖渚さんは、また、私を見た。

 

「それが、すずちゃんの席だよ。……僕様ちゃんが、あげた席」

 

「席だけ、くれると言ったわね」

 

「うん。席だけ」

 

玖渚さんは、ベンチの上で、足をぶらぶらさせた。

 

研究所の庭で、理澄さんも、同じように足をぶらぶらさせていた。

 

その理澄さんも、今は、いない。

 

斜面の上で、潤さんが、立ち上がった。

 

立ち上がって、こちらを見た。

 

それから、手招きをした。

 

「すずちゃん、行こ」

 

玖渚さんが、両手を、こちらへ伸ばした。

 

おぶって、ということだった。

 

私は、少しだけ迷った。

 

迷ってから、玖渚さんに背を向けて、しゃがんだ。

 

玖渚さんの体は、軽かった。

 

軽すぎて、少しだけ、怖かった。

 

斜面を、一段ずつ、昇った。

 

一段ごとに、玖渚さんの青い髪が、私の頬に触れた。

 

「すずちゃんの背中、いーちゃんのより、ちょっとだけ、高い」

 

「そう」

 

「でも、ちょっとだけ、狭い」

 

「そうね」

 

新しい墓石の前に、皆が、並んでいた。

 

墓石には、紫木一姫、と彫ってあった。

 

その前に、花と、国語の問題集が、一冊、置いてあった。

 

紫木さんが使っていたのと、同じ問題集だった。

 

萌太くんが、私を見て、小さく頷いた。

 

紫木さんの一冊は、私の部屋にある。墓の前のは、萌太くんが、同じものを買って、置いたのだと、あとで聞いた。

 

彼が、車椅子の上で、墓石を見ていた。

 

見ているのに、何も見ていない顔だった。

 

私は、玖渚さんを、彼の車椅子の隣に、下ろした。

 

下ろして、一歩、下がった。

 

もう一歩、下がった。

 

一つ空けた場所に、立った。

 

潤さんが、墓石に向かって、言った。

 

「姫ちゃん。出られて、よかったな」

 

それだけだった。

 

潤さんは、上着のポケットに手を入れた。

 

出てきたのは、小さく丸めた、細いものの束だった。

 

光の加減で、見えたり、見えなくなったりした。

 

糸だった。

 

六月、澄百合の門の前で、潤さんは、紫木さんの指に絡んだ糸を、一本ずつ外した。外した糸を、丸めて、ポケットに入れた。捨てなかった。捨てない理由を、あの時、潤さんは言わなかった。

 

二か月、持っていたのだ。

 

潤さんは、丸めた糸を、墓石の前の、国語の問題集の上に、そっと置いた。

 

「返すよ」

 

墓石に向かって、潤さんは言った。

 

「外の世界で使っちゃいけないもんだって、あんた、言ってたろ。だから、預かっといた。……もう、使うも使わないもないだろ。持ってきな」

 

糸が、問題集の表紙の上で、風に、少しだけ揺れた。

 

国語の問題集と、糸。

 

外で使うために覚えたものと、外で使ってはいけないもの。二つが、一つの墓石の前に、並んでいた。

 

紫木さんは、どちらを持っていきたかっただろう。

 

両方だ、と私は思った。両方を持って、ずれたことわざを言いながら、笑って行く子だった。

 

鈴無さんが、私の方へ来た。

 

一つ空けた場所に、立った。

 

この人は、私が空けている場所に、入らなかった。入らずに、そのまた隣に立った。

 

「あんた、あの子に国語を教えてたんだって?」

 

「少しだけ」

 

「少しでも、教えた子が先に行くのは、こたえるわよ」

 

鈴無さんは、墓石を見たまま言った。

 

「教えたことの半分も、まだ使ってないうちに行かれるとね、教えたことが、全部、宙に浮くのよ。行き先のない手紙みたいに。……アタシは説教しかしてこなかったから、見送ったことはないけどね。ないけど、分かるのよ」

 

行き先のない手紙。

 

私の本棚の端の、付箋の貼られた問題集を、思い出した。

 

「宙に浮いたものは、どうするんですか」

 

「どうもしないわよ。浮かせておくの。下ろそうとすると、どこかに落ちて、割れるから」

 

鈴無さんは、少しだけ、私の方を向いた。

 

「説教じゃないわよ、これ」

 

「独り言、ですか」

 

「独り言だわよ。よく分かってるじゃない」

 

鈴無さんは、また、墓石の方を向いた。

 

向いたまま、小さく、鼻を鳴らした。

 

鳴らした音が、少しだけ、湿っていた。

 

誰も、それ以上は、何も言わなかった。

 

蝉が、鳴いていた。

 

八月の、終わりの蝉だった。

 

 

 

 

 

寺の門を出たところで、潤さんが、私を待っていた。

 

皆は、先に、坂を下りていた。車椅子の彼と、看護師さんと、玖渚さんを背負った鈴無さん。浅野さんと、崩子さんと、萌太くんが、その後ろを、少しだけ離れて歩いていた。

 

「りんねちゃん」

 

潤さんは、門柱にもたれていた。黒い服の袖を、肘までまくっていた。まくった腕に、まだ、包帯が巻いてあった。

 

「匂宮(におうのみや)の兄貴のことだけどな。……あいつ、京都を出たよ。出る前に、あたしに一つだけ訊いてった。あの、震えねえ女は、どこの誰だ、って」

 

「答えたんですか」

 

「答えるわけないだろ。知らない、って言った。知ってるけどな」

 

潤さんは、片方の口の端を上げた。

 

「狐の面の男にも、匂宮の兄貴にも、顔を覚えられた。……この夏、あんたは、覚えられちゃいけない連中にばっかり、顔を覚えられてる」

 

「覚えられたくて、覚えられたわけではありません」

 

「知ってる。覚えられたくない奴ほど、覚えられるんだよ。そういうふうにできてる」

 

潤さんは、門柱から背を離した。

 

離して、坂の下の、車椅子の背中を見た。

 

「いーたんのこと、頼むな、とは言わないよ。頼まれたら、あんた、断るだろ」

 

「断ります」

 

「だよな」

 

潤さんは、笑った。

 

笑って、坂を下りていった。黒い服の背中が、一段ごとに、少しずつ、小さくなった。

 

頼まない、と言われた。頼まれないまま、私は、坂を下りた。一つ空けて、皆の後ろを。

 

 

 

 

 

葬儀の三日後、私は、病院へ行った。

 

病室の窓際のベッドで、彼は、窓の外を見ていた。

 

私は、一つ空けた椅子に座った。

 

彼は、こちらを向かなかった。向かないまま、言った。

 

「来たんだ」

 

「来たわ」

 

それきり、どちらも、何も言わなかった。

 

窓の外で、蝉が鳴いていた。葬儀の日より、少しだけ、声が細くなっていた。

 

三十分ほど経った頃、彼が、窓を見たまま言った。

 

「姫ちゃんの問題集。……どこまで、進んでた?」

 

「ことわざの単元よ。次はそこから、と付箋を貼っていたわ」

 

「ことわざ、か」

 

彼は、少しだけ、笑ったようだった。

 

「よりによって、いちばん間違えるところで止まったんだ」

 

「間違えたままの方が、紫木さんらしいわ」

 

「七転び八座り、とか?」

 

私は、彼を見た。

 

彼は、窓を見たままだった。

 

「研究所の夜、姫ちゃんが、君のことをそう言ってたって。……台所で、皿を洗いながら、聞いた。堀北さんは、七回転んで、八回目に座る人です、って。師匠は、何回目で座る人ですか、って訊かれた」

 

「何と答えたの」

 

「答えられなかった。ぼくは、たぶん、まだ一回も座ってない。転んで、転んだまま、寝てるだけだ」

 

彼は、ギプスの腕を、膝の上で、少しだけ動かした。

 

「姫ちゃんは、笑ってた。じゃあ師匠は、七転び八寝です、って」

 

七転び、八寝。

 

ずれたことわざが、もう一つ、あった。

 

私の知らないところで、紫木さんは、彼にも、ことわざを一つ、ずらして渡していた。

 

「……その単元、解いておくわ」

 

私は、言った。

 

「誰のために」

 

「分からないわ。でも、付箋を貼ったのは私だから」

 

彼は、初めて、こちらを向いた。

 

腫れの引きかけた顔に、何も浮かんでいなかった。

 

浮かんでいなかったけれど、目だけが、少しだけ、濡れていた。

 

濡れていることを、私は、言わなかった。

 

言わないまま、一つ空けた椅子から、立ち上がった。

 

「また来るわ」

 

「……うん」

 

病室を出る時、振り返らなかった。

 

振り返ったら、濡れた目を、もう一度、見てしまう。見たものは、見た人の目に残る。佐々(ささ)さんは、そう言った。

 

残すのは、一度でよかった。一度だけなら、見間違いだったことにも、できる。

 

 

 

 

 

八月の終わりの夜、スマートフォンが鳴った。

 

画面に、公衆電話、と出ていた。

 

出ると、彼の声がした。

 

『……起きてた?』

 

『起きていたわ。どうしたの』

 

『公衆電話。病院の、一階の。スマートフォンは、殴られた時に、どこかに行っちゃったから』

 

彼の声は、いつもより、少しだけ低かった。

 

低いのに、どこか、軽かった。重いものを、全部どこかに置いてきた人の声だった。

 

研究所の朝、紫木さんの部屋の前で聞いた声に、似ていた。

 

『明日、退院なの?』

 

『退院は、来週。……でも、今夜、出ていこうと思って』

 

『出ていく』

 

『京都を』

 

私は、スマートフォンを、握り直した。

 

『どこへ』

 

『決めてない。決めてないから、出ていけるんだと思う。決めたら、誰かに言わなきゃいけなくなる』

 

誰にも言わないで出ていく子は、いつか、誰にも見つけてもらえない場所に行ってしまう。

 

七月の、帰りの車の中で、鈴無さんがそう言った。

 

『どうして、私に電話をしたの』

 

『縁が合わないから』

 

彼は、言った。

 

『縁がある人に言ったら、止められる。友は、泣く。みいこさんは、たぶん、竹刀を持って追いかけてくる。崩子ちゃんは、黙って、ついてくる。……君は、止めないでしょ』

 

止めない。

 

七月の研究施設で、私は、彼と玖渚さんが並べた嘘を、崩さなかった。八月の病室で、彼の、知らない人だという嘘を、崩さなかった。

 

彼が決めたことを、私は、崩さない。

 

それを、彼は、知っていた。

 

知っていて、私に電話をかけてきた。

 

『止めないわ』

 

私は、言った。

 

『そうだよね』

 

彼の声が、少しだけ、ほっとしたように聞こえた。

 

『……止めないけれど、一つだけ、訊いていい?』

 

『何』

 

『何時の、何に乗るの』

 

電話の向こうで、彼が、黙った。

 

黙ったまま、何秒か、経った。

 

『……それを訊いたら、行き先を言ったのと、同じになるよ』

 

『同じにはならないわ。行き先は、決めていないのでしょう。乗るものを訊いているだけよ』

 

彼は、また、黙った。

 

それから、小さく、笑った。

 

『戯言だね』

 

『あなたの口癖でしょう』

 

『そうだった』

 

彼は、駅の名前と、時刻を言った。

 

京都駅。夜の、最後の在来線。どこまで行くのかは、言わなかった。

 

『じゃあね』

 

電話が、切れた。

 

 

 

 

 

私は、部屋を出た。

 

鞄は、持たなかった。スマートフォンと、財布だけを、ポケットに入れた。

 

ノートは、置いていった。

 

いちばん後ろの紙も、置いていった。

 

今夜は、あの番号に、かけるつもりがなかった。かけるつもりがないものを持っていくと、かけたくなる。

 

夜の道を、骨董アパートの方へ歩いた。

 

京都駅へは、行かなかった。

 

止めない、と私は言った。

 

止めない。

 

止めないけれど、行き先を、誰かに言うことはできる。

 

彼が言わなかった行き先を、彼の代わりに、縁のある人に言う。

 

それは、彼の決めたことを、崩すことになるのだろうか。

 

分からなかった。

 

分からないまま、歩いていた。

 

鈴無さんは、言った。

 

《出ていく時は、誰かに、行き先を言いなさい》

 

あれは、私に向けられた言葉だった。

 

彼に向けられた言葉ではなかった。

 

それでも、私は、あの言葉を、彼の代わりに、使おうとしていた。

 

使っていいのかどうか、誰にも訊けなかった。

 

訊ける人の番号は、部屋のノートの中に、置いてきた。

 

 

 

 

 

骨董アパートの階段を、昇った。

 

一段ごとに、板が鳴った。

 

夜中の階段は、昼の階段より、ずっと大きな音で鳴った。

 

二階の、彼の部屋の、隣の扉の前で、私は、足を止めた。

 

彼の部屋の扉には、紙が一枚、挟まっていた。何も書いていない紙だった。

 

隣の扉を、叩いた。

 

二度。

 

しばらくして、扉が、内側から開いた。

 

浅野さんが、立っていた。

 

甚平を着ていた。寝ていたのではなかった。目が、少しも眠そうではなかった。

 

「……お前か」

 

浅野さんは、私を見下ろした。

 

背の高い人だった。鈴無さんほどではないけれど、私より、ずっと高かった。

 

「夜分に、すみません」

 

「構わん。起きていた」

 

浅野さんの部屋の奥に、竹刀が一本、壁に立てかけてあった。

 

紫木さんが、勝手に借りて振り回していたという竹刀かもしれなかった。

 

「いの字のことか」

 

浅野さんが、言った。

 

私が、まだ何も言っていないのに。

 

「……どうして」

 

「お前が、夜中にここへ来る理由が、他に思いつかん」

 

浅野さんは、扉の縁に、手をかけた。

 

「言え」

 

私は、言った。

 

病院の公衆電話からの電話。京都を出ていくと言ったこと。駅の名前と、時刻。

 

それだけを、言った。

 

止めてください、とは、言わなかった。

 

浅野さんは、黙って聞いていた。

 

聞き終えて、しばらく、何も言わなかった。

 

それから、私を見た。

 

「お前は、止めないのか」

 

「止めないと、彼に言いました」

 

「言ったから、止めない」

 

「彼が、決めたことだから」

 

浅野さんは、長いあいだ、私を見ていた。

 

道場で、相手の構えを見る時の目だった。

 

「では、なぜ、ここへ来た」

 

私は、答えを探した。

 

探して、一つしか見つからなかった。

 

「……行き先を、誰かに言うためです」

 

浅野さんの目が、少しだけ、動いた。

 

「彼は、誰にも言わずに行こうとしていました。誰にも言わずに出ていった人は、いつか、誰にも見つけてもらえない場所に行ってしまう。……私は、止めません。止めないけれど、行き先を、縁のある人に、言っておくことはできます」

 

「それを聞いた私が、追いかけたら」

 

「それは、浅野さんが決めることです」

 

私は、言った。

 

「私が決めることではありません」

 

浅野さんは、黙った。

 

黙って、部屋の奥を、振り返った。

 

壁に立てかけた竹刀を、見た。

 

それから、私に向き直った。

 

「……卑怯だな、お前は」

 

卑怯、と言われた。

 

意地悪だと言われたことは、あった。玖渚さんに。意地悪だと思ったことも、あった。非常階段の、あの人に。

 

卑怯は、初めてだった。

 

「止めないと言っておいて、止める人間のところへ、行き先を届けに来る。自分の手は、汚さずに」

 

「そうかもしれません」

 

「そうかもしれない、ではない。そうだ」

 

浅野さんは、甚平の帯を、締め直した。

 

締め直しながら、言った。

 

「だが、私は、そういう卑怯は、嫌いではない」

 

浅野さんは、部屋の奥へ戻って、竹刀を取った。

 

竹刀袋に、入れなかった。むき出しのまま、手に提げた。

 

「お前は、来るのか」

 

「行きません」

 

「なぜ」

 

「私は、彼の隣の隣に座っている人間です。隣に座る人が、迎えに行くべきだと思います」

 

浅野さんは、私の顔を、もう一度だけ見た。

 

それから、階段の方へ歩き出した。

 

すれ違いざまに、浅野さんは、言った。

 

「いの字の隣に座る気は、ない。……隣は、あの青い娘のものだ」

 

「知っています」

 

「だが、今夜だけは、借りる」

 

階段が、鳴った。

 

一段ごとに、大きく鳴った。

 

夜中の骨董アパートの階段が、浅野さんの足音を、全部、数えていた。

 

私は、二階の廊下に、一人で立っていた。

 

彼の部屋の扉に挟まった、何も書いていない紙を、見ていた。

 

見ているうちに、上の階から、足音が降りてきた。

 

崩子さんだった。

 

寝間着の上に、薄い上着を羽織っていた。

 

崩子さんは、階段の方を見て、それから、私を見た。

 

「……みいこさんが、竹刀を持って、出ていきました」

 

「ええ」

 

「お兄ちゃんですか」

 

「ええ」

 

崩子さんは、少しだけ、黙った。

 

黙ってから、言った。

 

「わたしは、行きません」

 

「どうして」

 

「みいこさんが行ったなら、わたしが行くと、邪魔になります。……護衛は、守るものの数が少ないほど、うまくいきますから」

 

紫木さんの書き置きを、思い出した。

 

〈師匠の護衛の時間です。堀北さんは、お部屋にいてください。 姫〉

 

私は、あの夜、部屋にいた。

 

今夜も、行かないことを選んだ。

 

崩子さんも、同じことを選んだ。

 

崩子さんは、廊下の壁に、背中を預けた。

 

私も、同じ壁に、背中を預けた。

 

一つ、空けて。

 

廊下に並んで、私たちは、何も言わずに、階段の方を見ていた。

 

上の階から、煙草の匂いが、かすかに降りてきていた。萌太くんの部屋の方からだった。

 

今夜は、火がついていた。

 

「……萌太が、吸っています」

 

崩子さんが、壁に背中を預けたまま、言った。

 

「わたしの前では、吸わないんです。匂いが嫌いだと、昔、言ったから。……それから、ずっと、火をつけずにくわえています」

 

「今夜は、つけているのね」

 

「わたしが、部屋にいないからです」

 

崩子さんは、天井を見上げた。

 

天井の向こうの、三階の部屋を、見ているようだった。

 

「わたしがいない時だけ、萌太は、火をつけます。わたしがいる時は、口を塞ぐために、くわえるだけ。……萌太は、わたしのために、半分しか吸わない煙草を、ずっと持っています」

 

半分しか吸わない煙草。

 

萌太くんは、言っていた。くわえていると、口が塞がるから、余計なことを言わなくて済む、と。

 

余計なことを言わないのは、誰のためだったのだろう。

 

「止めないの」

 

「止めません。……萌太が、自分で決めて、わたしのいない時だけ吸っているなら、それは、萌太のものです」

 

崩子さんは、少しだけ、目を伏せた。

 

「わたしたちは、逃げてきたんです。生まれた家から。萌太が、わたしを連れて。……逃げてきた人間は、自分で決められることが、少ないんです。だから、萌太が自分で決めたことは、取り上げたくない」

 

逃げてきた。

 

私も、逃げてきた。

 

東京から、京都へ。誰にも、何も取り上げられずに、自分で、逃げてきた。

 

自分で決めて逃げてきた人間と、連れられて逃げてきた人間。崩子さんは、たぶん、後の方だった。後の方の人間が、前の方の人間の決めたことを、守っている。

 

「堀北さんも、逃げてきたんですか」

 

崩子さんが、私を見た。

 

まばたきの少ない目だった。

 

「……ええ」

 

「誰かに、連れられて」

 

「いいえ。一人で」

 

崩子さんは、少しだけ、黙った。

 

「一人で逃げてきた人は、強いですね」

 

「強くはないわ」

 

「強いです。……誰のせいにもできないから」

 

誰のせいにもできない。

 

逃げたことを、私は、認めている。認めているのは、たぶん、誰のせいにもできないからだった。誰かに連れられて逃げたのなら、その人のせいにできた。

 

一人で逃げた人間は、逃げたことを、一人で持つしかない。

 

崩子さんは、それ以上、何も言わなかった。

 

上の階から、煙草の匂いが、まだ、降りてきていた。

 

半分だけの匂いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京都駅の、在来線のホームで、何があったのかを、私は見ていない。

 

見ないことを、選んだ。

 

翌日の昼、萌太くんが、骨董アパートの前で、私を待っていた。

 

「先生」

 

萌太くんは、いつものように、火のついていない煙草をくわえていた。

 

「いー兄、戻ってきました。みー姉に、引きずられて。……病院には、みー姉が、ちゃんと送っていきました」

 

「そう」

 

「ホームのベンチに、座ってたんだそうです。最後の電車が来る前から、ずっと。来ても、乗らなかったって」

 

乗らなかった。

 

行き先を決めずに、乗るものだけを決めた人が、乗らなかった。

 

「みー姉が、隣に座ったら、いー兄、泣いたそうです。……みー姉が言うには、子どもみたいに」

 

萌太くんは、煙草を、指で外した。

 

「それから、いー兄、みー姉に、好きです、って言ったそうです」

 

私は、何も言わなかった。

 

「みー姉は、保留だって。……保留って、断るより、ずっとみー姉らしいですよね」

 

萌太くんは、笑った。

 

保留。

 

八月の朝、狐の面の男も、私をそう呼んだ。決めないまま、手元に置いておく。

 

浅野さんは、彼の言葉を、手元に置いた。狐の面の男は、私を、手元に置いた。置かれた方は、置かれたまま、次の日を生きる。

 

笑ってから、萌太くんは、少しだけ、真面目な顔になった。

 

「先生が、みー姉に、知らせたんですよね」

 

「……ええ」

 

「いー兄は、それ、知らないと思います。みー姉は、言わないって言ってました。先生が、そうしてほしいだろうからって」

 

浅野さんは、言わないと決めた。

 

私の卑怯を、黙って、持っていくと決めた。

 

「ありがとうございます、先生」

 

萌太くんは、頭を下げた。

 

「僕も、崩子も、たぶん、行けなかったから。……行ける人のところへ、行き先を届けてくれる人が、いてよかった」

 

私は、頭を下げ返さなかった。

 

下げ返したら、何かを、受け取ってしまう気がした。

 

受け取るほどのことは、していなかった。

 

ただ、行き先を、言っただけだった。

 

 

 

 

 

その夜、部屋で、ノートを開いた。

 

いちばん後ろの紙。十一桁。

 

番号を押した。

 

三回目の呼び出し音で、つながった。

 

『堀北か』

 

『今、話せる?』

 

『話せる』

 

いつも通りの声だった。

 

私は、八月のことを話した。

 

木賀峰(きがみね)さんの研究所。紫木さんのこと。西東天(さいとうたかし)という人のこと。匂宮出夢(におうのみやいずむ)という人のこと。病院の公衆電話。浅野さん。

 

話しながら、自分の声が、何度か、途切れた。

 

紫木さんのところで、二度。

 

綾小路くんは、途切れても、何も言わなかった。途切れた分だけ、黙って、待っていた。

 

話し終えると、少しだけ、間があった。

 

『それで』

 

『それで、一つだけ、訊きたいことがあるの』

 

『何だ』

 

『止めないと言っておいて、止める人のところへ行き先を届けるのは、卑怯かしら』

 

電話の向こうで、綾小路くんが、黙った。

 

いつもより、ずっと長く、黙った。

 

『……答えが、欲しいのか』

 

『いいえ』

 

私は、言った。

 

『あなたなら、どう答えるのかを、聞いておきたかっただけ。答えの通りにするつもりは、ないわ』

 

また、間があった。

 

『卑怯だ』

 

綾小路くんは、言った。

 

『止めないと言った相手の決定を、別の人間の手で覆させた。自分の言葉に、嘘をつかずに。……損得で言えば、最善の手だ』

 

『最善の手は、卑怯なの』

 

『最善の手は、たいてい、卑怯だ。オレは、そういう手しか打たない』

 

綾小路くんは、少しだけ、間を置いた。

 

『お前が、その手を打つとは、思わなかった』

 

『私も、思わなかったわ』

 

『そうか』

 

それだけだった。

 

正しいとも、間違っているとも、言わなかった。

 

『もう一つだけ』

 

私は、言った。

 

『西東天という名前を、聞いたことは』

 

『ない』

 

即答だった。

 

『ないが、覚えておく』

 

覚えておく、と、綾小路くんは言った。

 

この人が、何かを覚えておくと言うのを、初めて聞いた。

 

『切るわ』

 

『ああ』

 

電話を切った。

 

切ってから、スマートフォンを、机の上に伏せた。

 

卑怯だ、と、二人に言われた。

 

浅野さんと、綾小路くんに。

 

一人は、嫌いではないと言った。一人は、自分はそういう手しか打たないと言った。

 

どちらも、褒め言葉ではなかった。

 

どちらも、責める言葉でもなかった。

 

窓の外で、蝉が、もう、ほとんど鳴いていなかった。

 

八月が、終わろうとしていた。

 

終わる八月の夜を、私は、窓を開けたまま、しばらく、聞いていた。虫の声が、少しだけ、細くなっていた。もう、九月の虫の声に近かった。

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