逃げるというのは、遠くへ行くことだと思われている。
違う。逃げるのは、誰にも行き先を言わずに行くことだ。行き先を言ってしまえば、それは、ただの旅になる。
旅には、帰り道がある。
逃げには、ない。行き先を誰も知らないから、帰り道を、誰も用意してくれない。
寺の名前は、聞かなかった。京都の東の、山の裾の、小さな寺だった。本堂の脇に、墓地が、斜面に沿って並んでいた。
段取りをしたのは、潤さんだった。
ワインレッドのスーツではなかった。黒い服を着ていた。黒い服を着ていても、髪だけは、赤かった。
「身内がいないんだよ、あの子には」
本堂の前で、潤さんが言った。
「だから、あたしがやる。連れ出したのは、あたしだからな。連れ出した奴が、最後まで面倒を見る。……それが、請負人の筋ってもんだ」
筋、と潤さんは言った。
人の重さを、晩飯の回数で量る人が、今日は、筋という字で量っていた。
集まったのは、八人だった。
潤さん。浅野さん。
それから、車椅子に乗せられて、看護師さんに押されてきた、彼。
彼は、顔の腫れが、まだ引いていなかった。右腕のギプスを、膝の上に載せていた。病院から、半日だけ、外に出る許しをもらってきたのだと、潤さんが言った。
お経が、読まれた。
短いお経だった。
私は、本堂の、いちばん後ろの列に座った。
座ってから、気づいた。私の隣が、一つ、空いていた。
誰も、そこに座らなかった。
お経が終わって、墓地へ移る時、玖渚さんが、鈴無さんの背中から、私を呼んだ。
「すずちゃん」
鈴無さんが、私の方へ歩いてきた。玖渚さんを背負ったまま。
「この子が、あんたと話したいって。……アタシは、ちょっと、向こうで萌太の顔でも見てくるわ」
鈴無さんは、玖渚さんを、墓地の入り口の石のベンチに下ろした。
下ろして、萌太くんの方へ歩いていった。
私は、ベンチの、一つ空けた場所に座った。
玖渚さんは、それを見て、少しだけ笑った。
いつもの笑い方ではなかった。目の奥の青が、今日は、少しだけ、笑っていた。
「姫ちゃんとは、あんまり、話したことなかったの」
玖渚さんは、墓地の方を見ていた。
「いーちゃんの弟子だって。いーちゃんのこと、師匠って呼んでるって。……僕様ちゃん、ちょっとだけ、やきもち焼いてたの」
「やきもち」
「だって、いーちゃんの隣に、姫ちゃんが座ってたんだもん。台所で、お皿洗ってる時とか。僕様ちゃん、お皿洗えないから」
研究所の夜の、台所の窓を思い出した。
鍋を洗う紫木さんと、皿を拭く彼。言葉を使わずに、手の動きで話が済む距離。
「すずちゃんは、やきもち、焼かないの」
「焼かないわ」
「どうして」
「隣に、座ろうとしていないから」
玖渚さんは、私の方を向いた。
まばたきを、一度もしなかった。
「すずちゃん、いーちゃんのこと、好きじゃないでしょ」
まっすぐな訊き方だった。
「……好きか嫌いかで言えば、どちらでもないわ」
「だから、隣に座らないんだよね」
玖渚さんは、にっこりと笑った。
「僕様ちゃん、それ、好き」
好きじゃないから、隣に座らない。
それを、この子は、好きだと言った。
「隣に座る人は、みんな、いーちゃんのことが好きなの。好きだから、隣に座って、好きだから、いーちゃんのせいで、壊れちゃう。……すずちゃんは、好きじゃないから、壊れない。壊れないから、ずっと、隣の隣にいられる」
玖渚さんは、墓地の、斜面の上の方を見た。
潤さんが、新しい墓石の前に、しゃがんでいた。
「すずちゃんは、いーちゃんを、壊さなかったね」
玖渚さんが、言った。
「壊れも、しなかった。……僕様ちゃん、それ、できなかったんだよ」
「できなかった」
「僕様ちゃんは、いーちゃんを、壊しちゃったの。昔。いーちゃんも、僕様ちゃんを、壊しちゃったの。……隣同士で、壊し合っちゃったの。だから、今も、隣にいるの。壊れたところを、お互いに、支え合わないと、立ってられないから」
壊し合ったから、隣にいる。
隣、という場所の、私の知らない形だった。
「すずちゃんは、壊さないで、壊れないで、隣の隣にいて」
玖渚さんは、また、私を見た。
「それが、すずちゃんの席だよ。……僕様ちゃんが、あげた席」
「席だけ、くれると言ったわね」
「うん。席だけ」
玖渚さんは、ベンチの上で、足をぶらぶらさせた。
研究所の庭で、理澄さんも、同じように足をぶらぶらさせていた。
その理澄さんも、今は、いない。
斜面の上で、潤さんが、立ち上がった。
立ち上がって、こちらを見た。
それから、手招きをした。
「すずちゃん、行こ」
玖渚さんが、両手を、こちらへ伸ばした。
おぶって、ということだった。
私は、少しだけ迷った。
迷ってから、玖渚さんに背を向けて、しゃがんだ。
玖渚さんの体は、軽かった。
軽すぎて、少しだけ、怖かった。
斜面を、一段ずつ、昇った。
一段ごとに、玖渚さんの青い髪が、私の頬に触れた。
「すずちゃんの背中、いーちゃんのより、ちょっとだけ、高い」
「そう」
「でも、ちょっとだけ、狭い」
「そうね」
新しい墓石の前に、皆が、並んでいた。
墓石には、紫木一姫、と彫ってあった。
その前に、花と、国語の問題集が、一冊、置いてあった。
紫木さんが使っていたのと、同じ問題集だった。
萌太くんが、私を見て、小さく頷いた。
紫木さんの一冊は、私の部屋にある。墓の前のは、萌太くんが、同じものを買って、置いたのだと、あとで聞いた。
彼が、車椅子の上で、墓石を見ていた。
見ているのに、何も見ていない顔だった。
私は、玖渚さんを、彼の車椅子の隣に、下ろした。
下ろして、一歩、下がった。
もう一歩、下がった。
一つ空けた場所に、立った。
潤さんが、墓石に向かって、言った。
「姫ちゃん。出られて、よかったな」
それだけだった。
潤さんは、上着のポケットに手を入れた。
出てきたのは、小さく丸めた、細いものの束だった。
光の加減で、見えたり、見えなくなったりした。
糸だった。
六月、澄百合の門の前で、潤さんは、紫木さんの指に絡んだ糸を、一本ずつ外した。外した糸を、丸めて、ポケットに入れた。捨てなかった。捨てない理由を、あの時、潤さんは言わなかった。
二か月、持っていたのだ。
潤さんは、丸めた糸を、墓石の前の、国語の問題集の上に、そっと置いた。
「返すよ」
墓石に向かって、潤さんは言った。
「外の世界で使っちゃいけないもんだって、あんた、言ってたろ。だから、預かっといた。……もう、使うも使わないもないだろ。持ってきな」
糸が、問題集の表紙の上で、風に、少しだけ揺れた。
国語の問題集と、糸。
外で使うために覚えたものと、外で使ってはいけないもの。二つが、一つの墓石の前に、並んでいた。
紫木さんは、どちらを持っていきたかっただろう。
両方だ、と私は思った。両方を持って、ずれたことわざを言いながら、笑って行く子だった。
鈴無さんが、私の方へ来た。
一つ空けた場所に、立った。
この人は、私が空けている場所に、入らなかった。入らずに、そのまた隣に立った。
「あんた、あの子に国語を教えてたんだって?」
「少しだけ」
「少しでも、教えた子が先に行くのは、こたえるわよ」
鈴無さんは、墓石を見たまま言った。
「教えたことの半分も、まだ使ってないうちに行かれるとね、教えたことが、全部、宙に浮くのよ。行き先のない手紙みたいに。……アタシは説教しかしてこなかったから、見送ったことはないけどね。ないけど、分かるのよ」
行き先のない手紙。
私の本棚の端の、付箋の貼られた問題集を、思い出した。
「宙に浮いたものは、どうするんですか」
「どうもしないわよ。浮かせておくの。下ろそうとすると、どこかに落ちて、割れるから」
鈴無さんは、少しだけ、私の方を向いた。
「説教じゃないわよ、これ」
「独り言、ですか」
「独り言だわよ。よく分かってるじゃない」
鈴無さんは、また、墓石の方を向いた。
向いたまま、小さく、鼻を鳴らした。
鳴らした音が、少しだけ、湿っていた。
誰も、それ以上は、何も言わなかった。
蝉が、鳴いていた。
八月の、終わりの蝉だった。
寺の門を出たところで、潤さんが、私を待っていた。
皆は、先に、坂を下りていた。車椅子の彼と、看護師さんと、玖渚さんを背負った鈴無さん。浅野さんと、崩子さんと、萌太くんが、その後ろを、少しだけ離れて歩いていた。
「りんねちゃん」
潤さんは、門柱にもたれていた。黒い服の袖を、肘までまくっていた。まくった腕に、まだ、包帯が巻いてあった。
「
「答えたんですか」
「答えるわけないだろ。知らない、って言った。知ってるけどな」
潤さんは、片方の口の端を上げた。
「狐の面の男にも、匂宮の兄貴にも、顔を覚えられた。……この夏、あんたは、覚えられちゃいけない連中にばっかり、顔を覚えられてる」
「覚えられたくて、覚えられたわけではありません」
「知ってる。覚えられたくない奴ほど、覚えられるんだよ。そういうふうにできてる」
潤さんは、門柱から背を離した。
離して、坂の下の、車椅子の背中を見た。
「いーたんのこと、頼むな、とは言わないよ。頼まれたら、あんた、断るだろ」
「断ります」
「だよな」
潤さんは、笑った。
笑って、坂を下りていった。黒い服の背中が、一段ごとに、少しずつ、小さくなった。
頼まない、と言われた。頼まれないまま、私は、坂を下りた。一つ空けて、皆の後ろを。
葬儀の三日後、私は、病院へ行った。
病室の窓際のベッドで、彼は、窓の外を見ていた。
私は、一つ空けた椅子に座った。
彼は、こちらを向かなかった。向かないまま、言った。
「来たんだ」
「来たわ」
それきり、どちらも、何も言わなかった。
窓の外で、蝉が鳴いていた。葬儀の日より、少しだけ、声が細くなっていた。
三十分ほど経った頃、彼が、窓を見たまま言った。
「姫ちゃんの問題集。……どこまで、進んでた?」
「ことわざの単元よ。次はそこから、と付箋を貼っていたわ」
「ことわざ、か」
彼は、少しだけ、笑ったようだった。
「よりによって、いちばん間違えるところで止まったんだ」
「間違えたままの方が、紫木さんらしいわ」
「七転び八座り、とか?」
私は、彼を見た。
彼は、窓を見たままだった。
「研究所の夜、姫ちゃんが、君のことをそう言ってたって。……台所で、皿を洗いながら、聞いた。堀北さんは、七回転んで、八回目に座る人です、って。師匠は、何回目で座る人ですか、って訊かれた」
「何と答えたの」
「答えられなかった。ぼくは、たぶん、まだ一回も座ってない。転んで、転んだまま、寝てるだけだ」
彼は、ギプスの腕を、膝の上で、少しだけ動かした。
「姫ちゃんは、笑ってた。じゃあ師匠は、七転び八寝です、って」
七転び、八寝。
ずれたことわざが、もう一つ、あった。
私の知らないところで、紫木さんは、彼にも、ことわざを一つ、ずらして渡していた。
「……その単元、解いておくわ」
私は、言った。
「誰のために」
「分からないわ。でも、付箋を貼ったのは私だから」
彼は、初めて、こちらを向いた。
腫れの引きかけた顔に、何も浮かんでいなかった。
浮かんでいなかったけれど、目だけが、少しだけ、濡れていた。
濡れていることを、私は、言わなかった。
言わないまま、一つ空けた椅子から、立ち上がった。
「また来るわ」
「……うん」
病室を出る時、振り返らなかった。
振り返ったら、濡れた目を、もう一度、見てしまう。見たものは、見た人の目に残る。
残すのは、一度でよかった。一度だけなら、見間違いだったことにも、できる。
八月の終わりの夜、スマートフォンが鳴った。
画面に、公衆電話、と出ていた。
出ると、彼の声がした。
『……起きてた?』
『起きていたわ。どうしたの』
『公衆電話。病院の、一階の。スマートフォンは、殴られた時に、どこかに行っちゃったから』
彼の声は、いつもより、少しだけ低かった。
低いのに、どこか、軽かった。重いものを、全部どこかに置いてきた人の声だった。
研究所の朝、紫木さんの部屋の前で聞いた声に、似ていた。
『明日、退院なの?』
『退院は、来週。……でも、今夜、出ていこうと思って』
『出ていく』
『京都を』
私は、スマートフォンを、握り直した。
『どこへ』
『決めてない。決めてないから、出ていけるんだと思う。決めたら、誰かに言わなきゃいけなくなる』
誰にも言わないで出ていく子は、いつか、誰にも見つけてもらえない場所に行ってしまう。
七月の、帰りの車の中で、鈴無さんがそう言った。
『どうして、私に電話をしたの』
『縁が合わないから』
彼は、言った。
『縁がある人に言ったら、止められる。友は、泣く。みいこさんは、たぶん、竹刀を持って追いかけてくる。崩子ちゃんは、黙って、ついてくる。……君は、止めないでしょ』
止めない。
七月の研究施設で、私は、彼と玖渚さんが並べた嘘を、崩さなかった。八月の病室で、彼の、知らない人だという嘘を、崩さなかった。
彼が決めたことを、私は、崩さない。
それを、彼は、知っていた。
知っていて、私に電話をかけてきた。
『止めないわ』
私は、言った。
『そうだよね』
彼の声が、少しだけ、ほっとしたように聞こえた。
『……止めないけれど、一つだけ、訊いていい?』
『何』
『何時の、何に乗るの』
電話の向こうで、彼が、黙った。
黙ったまま、何秒か、経った。
『……それを訊いたら、行き先を言ったのと、同じになるよ』
『同じにはならないわ。行き先は、決めていないのでしょう。乗るものを訊いているだけよ』
彼は、また、黙った。
それから、小さく、笑った。
『戯言だね』
『あなたの口癖でしょう』
『そうだった』
彼は、駅の名前と、時刻を言った。
京都駅。夜の、最後の在来線。どこまで行くのかは、言わなかった。
『じゃあね』
電話が、切れた。
私は、部屋を出た。
鞄は、持たなかった。スマートフォンと、財布だけを、ポケットに入れた。
ノートは、置いていった。
いちばん後ろの紙も、置いていった。
今夜は、あの番号に、かけるつもりがなかった。かけるつもりがないものを持っていくと、かけたくなる。
夜の道を、骨董アパートの方へ歩いた。
京都駅へは、行かなかった。
止めない、と私は言った。
止めない。
止めないけれど、行き先を、誰かに言うことはできる。
彼が言わなかった行き先を、彼の代わりに、縁のある人に言う。
それは、彼の決めたことを、崩すことになるのだろうか。
分からなかった。
分からないまま、歩いていた。
鈴無さんは、言った。
《出ていく時は、誰かに、行き先を言いなさい》
あれは、私に向けられた言葉だった。
彼に向けられた言葉ではなかった。
それでも、私は、あの言葉を、彼の代わりに、使おうとしていた。
使っていいのかどうか、誰にも訊けなかった。
訊ける人の番号は、部屋のノートの中に、置いてきた。
骨董アパートの階段を、昇った。
一段ごとに、板が鳴った。
夜中の階段は、昼の階段より、ずっと大きな音で鳴った。
二階の、彼の部屋の、隣の扉の前で、私は、足を止めた。
彼の部屋の扉には、紙が一枚、挟まっていた。何も書いていない紙だった。
隣の扉を、叩いた。
二度。
しばらくして、扉が、内側から開いた。
浅野さんが、立っていた。
甚平を着ていた。寝ていたのではなかった。目が、少しも眠そうではなかった。
「……お前か」
浅野さんは、私を見下ろした。
背の高い人だった。鈴無さんほどではないけれど、私より、ずっと高かった。
「夜分に、すみません」
「構わん。起きていた」
浅野さんの部屋の奥に、竹刀が一本、壁に立てかけてあった。
紫木さんが、勝手に借りて振り回していたという竹刀かもしれなかった。
「いの字のことか」
浅野さんが、言った。
私が、まだ何も言っていないのに。
「……どうして」
「お前が、夜中にここへ来る理由が、他に思いつかん」
浅野さんは、扉の縁に、手をかけた。
「言え」
私は、言った。
病院の公衆電話からの電話。京都を出ていくと言ったこと。駅の名前と、時刻。
それだけを、言った。
止めてください、とは、言わなかった。
浅野さんは、黙って聞いていた。
聞き終えて、しばらく、何も言わなかった。
それから、私を見た。
「お前は、止めないのか」
「止めないと、彼に言いました」
「言ったから、止めない」
「彼が、決めたことだから」
浅野さんは、長いあいだ、私を見ていた。
道場で、相手の構えを見る時の目だった。
「では、なぜ、ここへ来た」
私は、答えを探した。
探して、一つしか見つからなかった。
「……行き先を、誰かに言うためです」
浅野さんの目が、少しだけ、動いた。
「彼は、誰にも言わずに行こうとしていました。誰にも言わずに出ていった人は、いつか、誰にも見つけてもらえない場所に行ってしまう。……私は、止めません。止めないけれど、行き先を、縁のある人に、言っておくことはできます」
「それを聞いた私が、追いかけたら」
「それは、浅野さんが決めることです」
私は、言った。
「私が決めることではありません」
浅野さんは、黙った。
黙って、部屋の奥を、振り返った。
壁に立てかけた竹刀を、見た。
それから、私に向き直った。
「……卑怯だな、お前は」
卑怯、と言われた。
意地悪だと言われたことは、あった。玖渚さんに。意地悪だと思ったことも、あった。非常階段の、あの人に。
卑怯は、初めてだった。
「止めないと言っておいて、止める人間のところへ、行き先を届けに来る。自分の手は、汚さずに」
「そうかもしれません」
「そうかもしれない、ではない。そうだ」
浅野さんは、甚平の帯を、締め直した。
締め直しながら、言った。
「だが、私は、そういう卑怯は、嫌いではない」
浅野さんは、部屋の奥へ戻って、竹刀を取った。
竹刀袋に、入れなかった。むき出しのまま、手に提げた。
「お前は、来るのか」
「行きません」
「なぜ」
「私は、彼の隣の隣に座っている人間です。隣に座る人が、迎えに行くべきだと思います」
浅野さんは、私の顔を、もう一度だけ見た。
それから、階段の方へ歩き出した。
すれ違いざまに、浅野さんは、言った。
「いの字の隣に座る気は、ない。……隣は、あの青い娘のものだ」
「知っています」
「だが、今夜だけは、借りる」
階段が、鳴った。
一段ごとに、大きく鳴った。
夜中の骨董アパートの階段が、浅野さんの足音を、全部、数えていた。
私は、二階の廊下に、一人で立っていた。
彼の部屋の扉に挟まった、何も書いていない紙を、見ていた。
見ているうちに、上の階から、足音が降りてきた。
崩子さんだった。
寝間着の上に、薄い上着を羽織っていた。
崩子さんは、階段の方を見て、それから、私を見た。
「……みいこさんが、竹刀を持って、出ていきました」
「ええ」
「お兄ちゃんですか」
「ええ」
崩子さんは、少しだけ、黙った。
黙ってから、言った。
「わたしは、行きません」
「どうして」
「みいこさんが行ったなら、わたしが行くと、邪魔になります。……護衛は、守るものの数が少ないほど、うまくいきますから」
紫木さんの書き置きを、思い出した。
〈師匠の護衛の時間です。堀北さんは、お部屋にいてください。 姫〉
私は、あの夜、部屋にいた。
今夜も、行かないことを選んだ。
崩子さんも、同じことを選んだ。
崩子さんは、廊下の壁に、背中を預けた。
私も、同じ壁に、背中を預けた。
一つ、空けて。
廊下に並んで、私たちは、何も言わずに、階段の方を見ていた。
上の階から、煙草の匂いが、かすかに降りてきていた。萌太くんの部屋の方からだった。
今夜は、火がついていた。
「……萌太が、吸っています」
崩子さんが、壁に背中を預けたまま、言った。
「わたしの前では、吸わないんです。匂いが嫌いだと、昔、言ったから。……それから、ずっと、火をつけずにくわえています」
「今夜は、つけているのね」
「わたしが、部屋にいないからです」
崩子さんは、天井を見上げた。
天井の向こうの、三階の部屋を、見ているようだった。
「わたしがいない時だけ、萌太は、火をつけます。わたしがいる時は、口を塞ぐために、くわえるだけ。……萌太は、わたしのために、半分しか吸わない煙草を、ずっと持っています」
半分しか吸わない煙草。
萌太くんは、言っていた。くわえていると、口が塞がるから、余計なことを言わなくて済む、と。
余計なことを言わないのは、誰のためだったのだろう。
「止めないの」
「止めません。……萌太が、自分で決めて、わたしのいない時だけ吸っているなら、それは、萌太のものです」
崩子さんは、少しだけ、目を伏せた。
「わたしたちは、逃げてきたんです。生まれた家から。萌太が、わたしを連れて。……逃げてきた人間は、自分で決められることが、少ないんです。だから、萌太が自分で決めたことは、取り上げたくない」
逃げてきた。
私も、逃げてきた。
東京から、京都へ。誰にも、何も取り上げられずに、自分で、逃げてきた。
自分で決めて逃げてきた人間と、連れられて逃げてきた人間。崩子さんは、たぶん、後の方だった。後の方の人間が、前の方の人間の決めたことを、守っている。
「堀北さんも、逃げてきたんですか」
崩子さんが、私を見た。
まばたきの少ない目だった。
「……ええ」
「誰かに、連れられて」
「いいえ。一人で」
崩子さんは、少しだけ、黙った。
「一人で逃げてきた人は、強いですね」
「強くはないわ」
「強いです。……誰のせいにもできないから」
誰のせいにもできない。
逃げたことを、私は、認めている。認めているのは、たぶん、誰のせいにもできないからだった。誰かに連れられて逃げたのなら、その人のせいにできた。
一人で逃げた人間は、逃げたことを、一人で持つしかない。
崩子さんは、それ以上、何も言わなかった。
上の階から、煙草の匂いが、まだ、降りてきていた。
半分だけの匂いだった。
京都駅の、在来線のホームで、何があったのかを、私は見ていない。
見ないことを、選んだ。
翌日の昼、萌太くんが、骨董アパートの前で、私を待っていた。
「先生」
萌太くんは、いつものように、火のついていない煙草をくわえていた。
「いー兄、戻ってきました。みー姉に、引きずられて。……病院には、みー姉が、ちゃんと送っていきました」
「そう」
「ホームのベンチに、座ってたんだそうです。最後の電車が来る前から、ずっと。来ても、乗らなかったって」
乗らなかった。
行き先を決めずに、乗るものだけを決めた人が、乗らなかった。
「みー姉が、隣に座ったら、いー兄、泣いたそうです。……みー姉が言うには、子どもみたいに」
萌太くんは、煙草を、指で外した。
「それから、いー兄、みー姉に、好きです、って言ったそうです」
私は、何も言わなかった。
「みー姉は、保留だって。……保留って、断るより、ずっとみー姉らしいですよね」
萌太くんは、笑った。
保留。
八月の朝、狐の面の男も、私をそう呼んだ。決めないまま、手元に置いておく。
浅野さんは、彼の言葉を、手元に置いた。狐の面の男は、私を、手元に置いた。置かれた方は、置かれたまま、次の日を生きる。
笑ってから、萌太くんは、少しだけ、真面目な顔になった。
「先生が、みー姉に、知らせたんですよね」
「……ええ」
「いー兄は、それ、知らないと思います。みー姉は、言わないって言ってました。先生が、そうしてほしいだろうからって」
浅野さんは、言わないと決めた。
私の卑怯を、黙って、持っていくと決めた。
「ありがとうございます、先生」
萌太くんは、頭を下げた。
「僕も、崩子も、たぶん、行けなかったから。……行ける人のところへ、行き先を届けてくれる人が、いてよかった」
私は、頭を下げ返さなかった。
下げ返したら、何かを、受け取ってしまう気がした。
受け取るほどのことは、していなかった。
ただ、行き先を、言っただけだった。
その夜、部屋で、ノートを開いた。
いちばん後ろの紙。十一桁。
番号を押した。
三回目の呼び出し音で、つながった。
『堀北か』
『今、話せる?』
『話せる』
いつも通りの声だった。
私は、八月のことを話した。
話しながら、自分の声が、何度か、途切れた。
紫木さんのところで、二度。
綾小路くんは、途切れても、何も言わなかった。途切れた分だけ、黙って、待っていた。
話し終えると、少しだけ、間があった。
『それで』
『それで、一つだけ、訊きたいことがあるの』
『何だ』
『止めないと言っておいて、止める人のところへ行き先を届けるのは、卑怯かしら』
電話の向こうで、綾小路くんが、黙った。
いつもより、ずっと長く、黙った。
『……答えが、欲しいのか』
『いいえ』
私は、言った。
『あなたなら、どう答えるのかを、聞いておきたかっただけ。答えの通りにするつもりは、ないわ』
また、間があった。
『卑怯だ』
綾小路くんは、言った。
『止めないと言った相手の決定を、別の人間の手で覆させた。自分の言葉に、嘘をつかずに。……損得で言えば、最善の手だ』
『最善の手は、卑怯なの』
『最善の手は、たいてい、卑怯だ。オレは、そういう手しか打たない』
綾小路くんは、少しだけ、間を置いた。
『お前が、その手を打つとは、思わなかった』
『私も、思わなかったわ』
『そうか』
それだけだった。
正しいとも、間違っているとも、言わなかった。
『もう一つだけ』
私は、言った。
『西東天という名前を、聞いたことは』
『ない』
即答だった。
『ないが、覚えておく』
覚えておく、と、綾小路くんは言った。
この人が、何かを覚えておくと言うのを、初めて聞いた。
『切るわ』
『ああ』
電話を切った。
切ってから、スマートフォンを、机の上に伏せた。
卑怯だ、と、二人に言われた。
浅野さんと、綾小路くんに。
一人は、嫌いではないと言った。一人は、自分はそういう手しか打たないと言った。
どちらも、褒め言葉ではなかった。
どちらも、責める言葉でもなかった。
窓の外で、蝉が、もう、ほとんど鳴いていなかった。
八月が、終わろうとしていた。
終わる八月の夜を、私は、窓を開けたまま、しばらく、聞いていた。虫の声が、少しだけ、細くなっていた。もう、九月の虫の声に近かった。