手紙は、宛名のある人に届くものだと思われている。
違う。手紙は、受け取った人に届くものだ。宛名が誰であっても、封を切った人間が、中身を引き受ける。
間違って届いた手紙は、間違って受け取った人間を、宛名の人間に変えてしまう。
変えられた人間は、宛名の人間の代わりに、中身の重さを背負う。
九月の最初の週、大学の後期が始まった。
大教室の、窓際のいちばん後ろの列に、私は座った。
隣は、空けた。
その向こうの、一つ空けた席も、空いていた。
彼は、まだ、病院にいた。
八月の終わりに、京都駅のホームから引きずり戻されて、そのまま、退院が延びた。殴られた傷のほかに、熱が出たのだと、
講義が始まった。
教授の声が、窓の外の、まだ夏の残っている空に混じって、遠く聞こえた。
私は、ノートを取らなかった。
取らずに、一つ空けた向こうの、空いた席を見ていた。
四月、私は、隣に誰も座らないように、この席を選んだ。
九月、私は、隣の隣に誰かが座ることを、待っていた。
待っている、と、
座っているだけよ、と、私は答える。
答えるたびに、少しずつ、嘘になっていく気がした。
講義のあと、語学の教室へ移った。
後期の最初の語学だった。教室に入って、私は、入口で一度、足を止めた。
机の数が、変わっていた。
前期には、二十あった。今は、十六だった。いちばん後ろに、空いたまま並んでいた四つの机が、なくなっていた。なくなった跡の床だけが、ほかより少しだけ色が薄かった。机の脚が、四か月、日の光を遮っていた分の、色の薄さだった。
誰かが、夏休みのあいだに、運び出したのだ。
運び出した人は、たぶん、何も悪くない。座る人のいない机を、座る人のいる教室に置いておく理由は、どこにもない。
理由がないから、運び出された。
私は、いつもの席に座った。
座ってから、振り返って、いちばん後ろの、色の薄い床を見た。
色の薄い四角が、四つ並んでいた。机が置いてあった時より、ずっと、そこに誰かがいたことが分かった。
なくなったものの跡は、あったものより、はっきりしている。
先生が、出席を取った。
名簿の読み上げの途中で、先生の声が、一度だけ、少しだけ途切れた。途切れて、何事もなかったように、次の名前に進んだ。
途切れたところに、前期までは、四つの名前があったのだろう。
線を引いたのは、誰だったのか。夏休みのあいだに、誰かが、あの四つの名前の上に、線を引いた。引けずにいた人が、ようやく、引いた。
私の名前が、呼ばれた。
「はい」
答えた声は、少しも、震えていなかった。
震えないことに、もう、慣れていた。慣れていることが、少しだけ、嫌だった。
講義のあと、病院へ向かった。
それを、真に受けたわけではなかった。
ただ、行かない理由が、見つからなかった。
病院の受付で、名前を言った。看護師さんが、病室の番号を教えてくれた。八月と、同じ番号だった。
「今日は、もう、お一人いらしてますよ」
看護師さんが、言った。
「背の高い、甚平の方」
浅野さんだった。
病室の前まで来た時、中から、声が聞こえた。
浅野さんの声だった。
「林檎くらい、自分で剥け」
「腕が、これなので」
「左手がある」
「左手は、利き手じゃないです」
「お前は、両利きだと聞いた」
「……誰に聞いたんですか」
「崩子だ」
私は、扉の前で、足を止めた。
入るべきか、迷った。
迷っているうちに、扉の内側から、浅野さんが、私に気づいた。
「入れ。そこに立っていられると、廊下が狭い」
私は、病室に入った。
窓際のベッドに、彼がいた。顔の腫れは、ほとんど引いていた。右腕のギプスは、まだ、巻かれたままだった。
ベッドの横の椅子に、浅野さんが座っていた。
ベッドに近い方の椅子だった。
膝の上に、林檎と、果物ナイフを載せていた。林檎の皮が、途中まで、一本の帯のように剥かれていた。
私は、遠い方の椅子に座った。
一つ、空けて。
浅野さんは、それを見て、何も言わなかった。
何も言わないまま、林檎の皮を、最後まで剥いた。剥き終えた皮が、途中で一度も切れずに、床に届きそうなほど長く垂れていた。
「……上手ですね」
私が言うと、浅野さんは、少しだけ、眉を動かした。
「刃物の扱いは、慣れている」
「剣道の」
「剣道は、竹刀だ。刃物ではない」
浅野さんは、林檎を、八つに切った。
切って、皿に並べて、彼の膝の上に置いた。
「食え」
彼は、左手で、一切れを取った。
取って、少しだけ、ためらってから、口に入れた。
浅野さんは、それを、黙って見ていた。
見ていて、少しだけ、肩の力を抜いた。
八月の終わりに、京都駅のホームで、浅野さんの隣に座って、彼は泣いたのだと、萌太くんが言った。泣いて、好きです、と言ったのだと。
浅野さんは、保留にした。
保留にした人が、林檎を剥いて、食えと言っている。
保留というのは、断ることでも、受け入れることでもない。答えを、隣に置いたまま、林檎を剥き続けることなのかもしれなかった。
病室の扉が、叩かれた。
二度。
看護師さんの叩き方ではなかった。もっと軽くて、もっと、楽しそうな叩き方だった。
「はーい」
彼が、答えた。
扉が開いた。
男が、一人、立っていた。
若い男だった。二十歳を少し過ぎたくらいに見えた。細身で、白いシャツを着ていた。眼鏡をかけていた。銀縁の、細い眼鏡。
手に、花束を持っていた。
白い花だった。名前の分からない、小さな花が、たくさん束ねてあった。
男は、病室の中を、ぐるりと見回した。
ベッドの彼を見た。
一つ空けた椅子の、私を見た。
それから、ベッドの横の椅子の、浅野さんを見た。
見て、男の顔が、ぱっと明るくなった。
「あ、いたいた」
男は、まっすぐに、浅野さんの方へ歩いていった。
「いーちゃん、だよね?」
病室が、静かになった。
浅野さんは、果物ナイフを持ったまま、男を見上げた。
「……何だと」
「いーちゃん。戯言遣いの。……あれ、違った? 聞いてた話だと、背が高くて、無表情で、甚平を着てて、病院のベッドの横で、林檎を剥いてるって」
男は、首を傾げた。
傾げたまま、花束を、浅野さんの膝の上に、そっと置いた。
「お見舞い。……それと、これ」
男は、シャツの胸ポケットから、白い封筒を一枚、取り出した。
宛名も、差出人も、書いていなかった。
男は、それを、花束の上に、載せた。
「狐面の旦那から。いーちゃんに、渡せって」
狐面。
八月の、
《お前は──俺の、保留だ》
あの声を、私は、まだ覚えていた。
私は、ベッドの彼を見た。
彼は、男を見ていた。
見ている顔から、色が、少しずつ、引いていった。
「……人違いだ」
浅野さんが、言った。
「私は、いの字ではない。浅野みいこだ」
「え?」
男は、きょとんとした顔をした。
それから、ベッドの彼を見た。
一つ空けた椅子の、私を見た。
もう一度、浅野さんを見た。
「えー、でも、狐面の旦那が言ってたんだよなあ。甚平で、林檎で、無表情って。……あの人、嘘つかないんだけどなあ」
嘘をつかない。
西東さんは、言いたいことを言わない主義だと、言っていた。
言いたいことを言わない人は、嘘をつかずに、人を間違わせることができる。
甚平で、林檎で、無表情。
それは、全部、本当のことだった。本当のことだけを並べて、宛名を、すり替えた。
「まあ、いいや」
男は、肩をすくめた。
「どっちにしても、もう渡しちゃったし。……受け取ったのは、そっちだからね」
男は、浅野さんの膝の上の花束に、指先で、軽く触れた。
触れた指先を、すぐに、引っ込めた。
「じゃ、お大事に」
男は、背を向けた。
背を向けて、扉の方へ歩いた。
「待て」
浅野さんが、立ち上がった。
膝の上の花束と封筒が、床に落ちた。
果物ナイフを、右手に持ったままだった。
男は、扉のところで、振り返った。
「何?」
「名を名乗れ」
「名前?」
男は、眼鏡の位置を、指で直した。
「
十三階段。
初めて聞く言葉だった。
聞いたことがないのに、その言葉は、どこかで、階段を昇る足音のように、鳴った。
骨董アパートの、一段ごとに鳴る階段。鳴る階段は、昇る人間の数を、数えている。
奇野さんは、扉を開けた。
開けたところで、浅野さんが、一歩、踏み込んだ。
踏み込んだ、と思った次の瞬間には、浅野さんの右手が、奇野さんの手首を、掴んでいた。
速かった。
七月に、彼が
果物ナイフは、浅野さんの手の中で、刃を、浅野さん自身の方へ向けていた。人を斬るための持ち方ではなかった。人を止めるための持ち方だった。
「封筒の中身は、何だ」
奇野さんは、手首を掴まれたまま、笑った。
「さあ。狐面の旦那の手紙は、俺も読まないから」
「花は」
「花は、花だよ。……ただ、ちょっとだけ、俺の手で、触ったけど」
浅野さんの目が、床の花束に落ちた。
その一瞬に、奇野さんは、手首を、するりと抜いた。
抜いて、廊下へ出た。
浅野さんが、追おうとした。
追おうとして、足を止めた。
止めて、自分の手を見た。
奇野さんの手首を掴んでいた、右手を。
「……みいこさん」
彼が、ベッドの上から、言った。
浅野さんは、答えなかった。
右手を見たまま、少しだけ、指を、開いたり閉じたりした。
「何でもない」
浅野さんは、言った。
「少し、痺れただけだ」
廊下の向こうで、足音が、遠ざかっていった。
軽い、楽しそうな足音だった。
看護師さんを呼んだのは、私だった。
床に落ちた花束と、封筒を、私は、触らなかった。触らずに、ナースコールのボタンを押した。
看護師さんが来て、浅野さんの手を見た。
赤くなっていた。
奇野さんの手首を掴んだ、手のひらの真ん中が、薄く、赤くなっていた。
「念のため、検査をしましょう」
看護師さんが言った。
浅野さんは、首を振った。
「大げさだ。痺れは、もう引いた」
「引いていても、です」
看護師さんは、譲らなかった。
浅野さんは、看護師さんを見下ろして、それから、ベッドの彼を見た。
彼は、浅野さんの手を、じっと見ていた。
見ている顔に、色が、まだ戻っていなかった。
「……行ってください」
彼が、言った。
「お願いです」
浅野さんは、しばらく、彼を見ていた。
それから、黙って、看護師さんの後について、病室を出ていった。
出ていく前に、一度だけ、私を見た。
道場で、相手の構えを見る時の目だった。
構えを見て、何も言わずに、出ていった。
病室に、私と、彼が残った。
床の上に、白い花束と、白い封筒が、落ちていた。
「……封筒、開けるの」
私が訊くと、彼は、首を振った。
「開けない。……開けたら、宛名がぼくに戻ってくる」
「宛名は、あなたでしょう」
「宛名は、ぼくだった。でも、受け取ったのは、みいこさんだ」
彼は、天井を見上げた。
「あの人は、そういうことをする人なんだ。……宛名を、間違えさせる。間違えて受け取った人に、中身を背負わせる。それで、ぼくを、動かそうとする」
あの人、と彼は言った。
狐の面の男のことだった。
彼は、八月の朝に一度会っただけの西東さんのことを、もう、ずっと知っている人の顔で話していた。
「どうして、浅野さんなの」
「ぼくが、一番、動くから」
彼は、言った。
「ぼく自身に毒を盛っても、ぼくは、たぶん、何もしない。何もしないで、死んでいく。……でも、みいこさんに何かあったら、ぼくは、動く。動かずにいられない。あの人は、それを、知ってる」
隣に座る人が、狙われる。
彼の隣に座る人は、いなくなる。
彼自身も、
浅野さんは、彼の隣に座っていた。
保留にしたまま、林檎を剥くために。
「……私は」
言いかけて、やめた。
私は、一つ空けた椅子に座っていた。
奇野さんは、私を見た。見て、素通りした。
宛名を間違えるにしても、私の席は、選ばれなかった。
隣の隣は、狙われない。
縁が合わないから。
それが、少しだけ、悔しかった。
悔しいと思った自分に、驚いた。
悔しい、という字には、心が、毎日の毎と並んでいる。毎日、心に残るもの。一度で消えるものは、悔しいとは言わない。
この悔しさは、たぶん、明日も残る。
残ると分かっていて、私は、それを、どこにも置けずにいた。狙われなかったことを悔しがるのは、狙われた人に、失礼だった。失礼だと分かっていても、悔しさは、礼儀を知らなかった。
その夜、部屋で、スマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
出ると、間延びした声がした。
『もしもーし。すずちゃーん』
玖渚さんだった。
『……どうして、私の番号を』
『調べたもん。最初に会った日に。……でも、かけるのは、初めて。かける用事が、なかったから』
かける用事が、できた。
『今日、病院に、変な人が来たでしょ』
『どうして、それを』
『病院の、廊下のカメラ。僕様ちゃん、見えるの。見えるようにしたの、今日のお昼』
今日のお昼。
奇野さんが来る、前だった。
『見張っていたの』
『今朝、いーちゃんの病院のそばで、狐面のおじさんの周りの人の名前が、一つ、引っかかったの。だから、お昼に。……いーちゃんの周りには、変な人が来るから』
玖渚さんの声は、いつもより、少しだけ、早かった。
『あの人、奇野頼知。十三階段の、十二段目。……十三階段っていうのはね、狐面のおじさんの、手足なの。十三人。一段ずつ、狐面のおじさんの言うことを聞く人』
『十三人』
『うん。毒の人とか、殺し屋さんとか、心を操る人とか。……みんな、眼鏡をかけてるの。狐面のおじさんの、趣味なんだって』
眼鏡。
奇野さんの、銀縁の細い眼鏡を、思い出した。
『狐面のおじさんはね、
人類最強の、反対。
八月に、潤さんは、狐の面の男の話をした時だけ、肩を強ばらせた。
『潤さんは、今、どこに』
訊いてから、玖渚さんが、黙った。
『……分かんないの』
小さな声だった。
『潤ちゃん、先週から、連絡がつかないの。いつもは、連絡なんかしなくても、勝手に来るのに。今は、来ないの。……来ないって言った時に来る人が、来るって言ってないのに、来ないの』
来ると言った時ほど来なくて、来ないと言った時に来る人。
その人が、何も言わずに、来なくなった。
『それから、もう一つ、変な噂があるの』
『噂』
『
同じ噂を、八月に、潤さんから聞いていた。たぶん嘘だ、守るための嘘だ、と潤さんは言った。
『知っているわ。死んだことにして、隠したのだと聞いた』
『……誰に?』
『潤さん』
玖渚さんが、少しだけ黙った。
『そっか。潤ちゃん、すずちゃんには、話したんだ』
『でも、すずちゃん。零崎の人たちのまわり、今、すごく、ざわざわしてるの。狐面のおじさんが、零崎を、見てるの。……すずちゃんの知ってる零崎の人が、誰か知らないけど、その人のまわりも、たぶん、ざわざわしてる』
佐倉さん。
零崎愛織。
『気をつけてね、すずちゃん』
玖渚さんの声が、少しだけ、柔らかくなった。
『僕様ちゃんがあげた席、空いたら、困るから』
電話が、切れた。
切れたあとで、私は、スマートフォンを、しばらく見ていた。
人類最悪。十三階段。眼鏡。潤さんの不在。玖渚さんの耳にも届いていた、零崎人識の死の噂。
八月の終わりに、潤さんは、零崎の名前の周りが騒がしくなっている、と言った。
その潤さんが、いなくなった。
騒がしさの真ん中に、自分から、入っていったのかもしれなかった。
翌々日の夕方、骨董アパートの前で、浅野さんに会った。
国語の問題集を、ことわざの単元まで解き終えて、それを、
浅野さんは、二階から、降りてくるところだった。
甚平の上に、薄い羽織をかけていた。九月の夕方にしては、厚着だった。
「……お前か」
浅野さんは、階段の途中で、足を止めた。
止めた時、右手を、羽織の袖の中に、引っ込めた。
引っ込める動きが、ほんの少しだけ、遅かった。
遅かった分だけ、見えた。手のひらの真ん中から、手首の内側へ、細い、赤い線が、一本、伸びていた。
「浅野さん、その手」
「言うな」
短い声だった。
八月の夜、潤さんが、肩の強ばりを指摘されかけて、遮った時と、同じ短さだった。
「いの字には、言うな」
「でも」
「言えば、あいつは、病院を抜け出す。抜け出して、何をするか分からん。……あいつが、まともに何かできる体になるまで、待て」
浅野さんは、袖の中の手を、もう一度、握り直したようだった。
「医者には」
「行った。微熱だと言われた。薬をもらった。……それで、足りる」
足りる、と浅野さんは言った。
足りない時に、人は、足りると言う。
「崩子さんには」
「言っていない。あれは、言えば、私の部屋の前で、寝ずに座る」
浅野さんは、階段を、一段、降りた。
降りて、私の手元の問題集を、見た。
「それは」
「紫木さんの、国語の続きです」
浅野さんは、しばらく、問題集の表紙を見ていた。
「……解いたのか」
「解きました」
「姫の代わりに」
「付箋を貼ったのは、私なので」
浅野さんは、何も言わなかった。
言わないまま、袖の中でない方の、左手を、伸ばした。
問題集を、受け取った。
「私が、置いておく。あの子の部屋は、今、私が鍵を預かっている」
浅野さんは、問題集を、羽織の内側に、抱えるようにしまった。
それから、私を、もう一度だけ見た。
「お前は、言うなと言われたことを、言わずにいられるか」
「……言わずにいます。何度も」
「そうだろうな」
浅野さんは、階段を降りて、私の横を通り過ぎた。
通り過ぎる時、少しだけ、足元がふらついた。
ふらついたのを、私は、見た。
見て、言わなかった。
言うなと言われたから、ではなかった。言えば、この人は、もっと無理をして、まっすぐに歩こうとする。その方が、悪い気がした。
それが、正しかったのかどうか。
答えは、少しあとに、出た。
浅野さんが倒れたのは、その三日後だった。
骨董アパートの、二階の廊下で。
崩子さんが、見つけた。
熱が、高かった。右の手のひらの真ん中から、腕の内側へ、赤い線が、一本、伸びていた。
病院へ運ばれた。
彼と、同じ病院だった。同じ階の、別の病室だった。
医者は、毒だと言った。
何の毒なのかは、分からないと言った。分からないから、解毒の薬も、分からない。分からないまま、熱を下げる薬を、点滴で入れ続けるしかないと言った。
私は、病院の廊下の長椅子に座っていた。
崩子さんが、隣に座っていた。
一つ、空けて。
萌太くんは、廊下の端で、火のついていない煙草を、くわえていた。
「奇野は、毒を使う家の人間です」
崩子さんが、言った。
前を見たままだった。
「病毒遣い。……呪い名の、奇野。わたしの家の人間から、聞いたことがあります。奇野の毒は、奇野にしか、解けない」
奇野にしか、解けない。
「では、奇野さんを、見つけなければ」
「奇野を見つけても、解いてはくれません。奇野が解くのは、奇野の主が、解けと言った時だけです」
奇野の主。
十三階段の、十二段目、と奇野さんは言った。
階段には、上がある。十二段目の上に、十三段目がある。その上に、階段そのものを持っている人がいる。
狐面の旦那から、と奇野さんは言った。
「……西東さん」
私が言うと、崩子さんは、初めて、こちらを向いた。
「知っているんですか」
「八月に、一度、会ったわ。紫木さんが死んだ朝に」
崩子さんの目が、少しだけ、細くなった。
「何と言われましたか」
「俺の、保留だ、と」
崩子さんは、しばらく、私を見ていた。
それから、また、前を向いた。
「保留なら、会っても、構いませんね」
崩子さんは、静かに言った。
「敵は、会うと、戦わなければなりません。身内は、会うと、従わなければなりません。……保留の人は、会っても、何もしなくていい。何もしなくていい人間だけが、何でもできます」
何もしなくていい人間だけが、何でもできる。
私は、崩子さんの横顔を見た。
十三か、十四の、横顔だった。
その歳の子が、そんなことを、知っていた。
廊下の端から、萌太くんが、こちらへ歩いてきた。
くわえていた煙草を、指に外して、私の前で、少しだけ屈んだ。
「先生、何か飲みますか。下の自動販売機、行ってきます」
「……要らないわ」
「じゃあ、崩子の分だけ」
萌太くんは、崩子さんを見た。崩子さんは、前を見たまま、首を小さく横に振った。
萌太くんは、それを見て、少しだけ笑った。笑って、私と崩子さんの間の、空いた場所を見た。
「ここ、座っていいですか」
崩子さんが、萌太くんを見上げた。
私も、萌太くんを見た。
「……どうぞ」
萌太くんは、私と崩子さんの間に、腰を下ろした。
一つ空けた場所が、埋まった。
埋まっても、萌太くんは、私の方にも、崩子さんの方にも、寄らなかった。真ん中に、きちんと、座っていた。
「先生は、いつも、どこかの扉の前に座ってますね」
萌太くんが、言った。
前を見たままだった。
「研究所の夜も、扉の内側に座ってたって、いー兄から聞きました。京都駅の夜も、みー姉の部屋の前に来て、そのあと、廊下で崩子と並んでた。……今日も、扉の前です」
「偶然よ」
「偶然が三回続いたら、それは、たぶん、先生の座り方です」
萌太くんは、火のついていない煙草を、指の間で、くるりと回した。
「僕は、崩子の部屋の前に、よく座るんです。崩子が、眠れない夜に。……扉の前に座ってる人間は、中の人を守ってるように見えて、本当は、中の人が出てくるのを待ってるだけなんですよね。守る力なんて、ないのに」
守る力なんて、ない。
それでも、座る。
「先生は、浅野さんが出てくるのを、待ってるんですか」
「……分からないわ」
「分からないのに、座ってる」
「ええ」
萌太くんは、少しだけ、笑った。
「僕と、同じですね」
崩子さんが、萌太くんの袖を、指先で、一度だけ引いた。
萌太くんは、それに気づいて、煙草を、上着のポケットにしまった。
しまってから、もう、何も言わなかった。
三人で、並んで、浅野さんの病室の扉を見ていた。
一つも、空けずに。
真ん中に、萌太くんがいたから。
病室の扉が、開いた。
浅野さんを見舞っていた彼が、出てきた。
車椅子ではなかった。自分の足で、立っていた。左手で、点滴の台を押していた。
右腕には、まだ、ギプスが巻かれていた。
彼は、廊下の長椅子の、私たち三人の前で、足を止めた。
「封筒、開けたよ」
彼が、言った。
床に落ちていた、あの白い封筒だった。私は、触らなかった。看護師さんが拾って、ベッドの脇の台に置いたのを、見ていた。
「開けたら、宛名が、ぼくに戻ってきた。……九月の最後の日に、来いって。場所は、澄百合の跡。それまで、みいこさんの毒は、ゆっくりしか進まないって、書いてあった。ゆっくり進むように、作ってあるんだって」
ゆっくり進むように、作ってある。
殺すためではなく、来させるための毒だった。
「行くんですか」
崩子さんが、訊いた。
「行く。解毒の薬を、もらいに。……たぶん、戦わなきゃいけない。戦い方は、知らないけど」
彼は、少しだけ、笑った。
八月の終わりの、病院の公衆電話からの声とは、違う笑い方だった。重いものを置いてきた人の笑い方ではなかった。重いものを、これから持ちに行く人の笑い方だった。
「崩子ちゃん。萌太くん。……手を、貸してくれる?」
崩子さんが、立ち上がった。
萌太くんも、黙って、立ち上がった。
「お兄ちゃんが、頼むなら」
崩子さんは、言った。
背筋が、伸びていた。
護衛の背筋だった。
彼は、それから、私を見た。
萌太くんが立ったあとの、また一つ空いた長椅子の、私を。
何も、言わなかった。
頼まなかった。
私は、彼を見上げた。
「私には、頼まないの」
「頼まない」
彼は、言った。
「君は、あの人の保留だから。……保留の人は、頼まれなくても、来る時は来るし、来ない時は来ない。ぼくが決めることじゃない」
保留の人は、会っても、何もしなくていい。
何もしなくていい人間だけが、何でもできる。
彼は、背を向けた。
崩子さんと萌太くんが、その後に続いた。
三人の足音が、廊下の向こうへ、遠ざかっていった。
私は、長椅子に、座ったままだった。
座ったまま、浅野さんの病室の扉を見ていた。
扉の向こうで、浅野さんが、熱に浮かされて、眠っていた。
保留にしたまま。
答えを、隣に置いたまま。
私は、立ち上がった。
立ち上がって、ポケットのスマートフォンを、握った。
誰の番号にも、かけなかった。
かけずに、病院の玄関を出た。
外は、九月の夕方だった。病院の前の道を、学生らしい二人連れが、笑いながら通り過ぎていった。笑い声は、毒の名前も、階段の数も、知らない声だった。
風が、少しだけ、冷たくなり始めていた。
冷たい風の中を、私は、北へ、歩き出した。どこへ行くのかは、まだ、決めていなかった。決めていないのに、足は、もう、動いていた。
八月の終わりに、彼は、行き先を決めずに、乗るものだけを決めた。私は、乗るものも、決めていなかった。決めていない方が、たぶん、遠くまで行ける。