ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第31話 誤配(誤牌)

手紙は、宛名のある人に届くものだと思われている。

 

違う。手紙は、受け取った人に届くものだ。宛名が誰であっても、封を切った人間が、中身を引き受ける。

 

間違って届いた手紙は、間違って受け取った人間を、宛名の人間に変えてしまう。

 

変えられた人間は、宛名の人間の代わりに、中身の重さを背負う。

 

 

 

 

 

九月の最初の週、大学の後期が始まった。

 

大教室の、窓際のいちばん後ろの列に、私は座った。

 

隣は、空けた。

 

その向こうの、一つ空けた席も、空いていた。

 

彼は、まだ、病院にいた。

 

八月の終わりに、京都駅のホームから引きずり戻されて、そのまま、退院が延びた。殴られた傷のほかに、熱が出たのだと、萌太(もえた)くんが言っていた。熱は、体の傷から出るものなのか、別のところから出るものなのか、萌太くんにも分からないようだった。

 

講義が始まった。

 

教授の声が、窓の外の、まだ夏の残っている空に混じって、遠く聞こえた。

 

私は、ノートを取らなかった。

 

取らずに、一つ空けた向こうの、空いた席を見ていた。

 

四月、私は、隣に誰も座らないように、この席を選んだ。

 

九月、私は、隣の隣に誰かが座ることを、待っていた。

 

待っている、と、円(まどか)さんなら言うだろう。

 

座っているだけよ、と、私は答える。

 

答えるたびに、少しずつ、嘘になっていく気がした。

 

講義のあと、語学の教室へ移った。

 

後期の最初の語学だった。教室に入って、私は、入口で一度、足を止めた。

 

机の数が、変わっていた。

 

前期には、二十あった。今は、十六だった。いちばん後ろに、空いたまま並んでいた四つの机が、なくなっていた。なくなった跡の床だけが、ほかより少しだけ色が薄かった。机の脚が、四か月、日の光を遮っていた分の、色の薄さだった。

 

誰かが、夏休みのあいだに、運び出したのだ。

 

運び出した人は、たぶん、何も悪くない。座る人のいない机を、座る人のいる教室に置いておく理由は、どこにもない。

 

理由がないから、運び出された。

 

私は、いつもの席に座った。

 

座ってから、振り返って、いちばん後ろの、色の薄い床を見た。

 

色の薄い四角が、四つ並んでいた。机が置いてあった時より、ずっと、そこに誰かがいたことが分かった。

 

なくなったものの跡は、あったものより、はっきりしている。

 

先生が、出席を取った。

 

名簿の読み上げの途中で、先生の声が、一度だけ、少しだけ途切れた。途切れて、何事もなかったように、次の名前に進んだ。

 

途切れたところに、前期までは、四つの名前があったのだろう。

 

線を引いたのは、誰だったのか。夏休みのあいだに、誰かが、あの四つの名前の上に、線を引いた。引けずにいた人が、ようやく、引いた。

 

私の名前が、呼ばれた。

 

「はい」

 

答えた声は、少しも、震えていなかった。

 

震えないことに、もう、慣れていた。慣れていることが、少しだけ、嫌だった。

 

 

 

 

 

講義のあと、病院へ向かった。

 

崩子(ほうこ)さんにも、潤さんにも、言われた。彼は、私が来ると、少しだけ、ちゃんとご飯を食べる。

 

それを、真に受けたわけではなかった。

 

ただ、行かない理由が、見つからなかった。

 

病院の受付で、名前を言った。看護師さんが、病室の番号を教えてくれた。八月と、同じ番号だった。

 

「今日は、もう、お一人いらしてますよ」

 

看護師さんが、言った。

 

「背の高い、甚平の方」

 

浅野さんだった。

 

病室の前まで来た時、中から、声が聞こえた。

 

浅野さんの声だった。

 

「林檎くらい、自分で剥け」

 

「腕が、これなので」

 

「左手がある」

 

「左手は、利き手じゃないです」

 

「お前は、両利きだと聞いた」

 

「……誰に聞いたんですか」

 

「崩子だ」

 

私は、扉の前で、足を止めた。

 

入るべきか、迷った。

 

迷っているうちに、扉の内側から、浅野さんが、私に気づいた。

 

「入れ。そこに立っていられると、廊下が狭い」

 

私は、病室に入った。

 

窓際のベッドに、彼がいた。顔の腫れは、ほとんど引いていた。右腕のギプスは、まだ、巻かれたままだった。

 

ベッドの横の椅子に、浅野さんが座っていた。

 

ベッドに近い方の椅子だった。

 

膝の上に、林檎と、果物ナイフを載せていた。林檎の皮が、途中まで、一本の帯のように剥かれていた。

 

私は、遠い方の椅子に座った。

 

一つ、空けて。

 

浅野さんは、それを見て、何も言わなかった。

 

何も言わないまま、林檎の皮を、最後まで剥いた。剥き終えた皮が、途中で一度も切れずに、床に届きそうなほど長く垂れていた。

 

「……上手ですね」

 

私が言うと、浅野さんは、少しだけ、眉を動かした。

 

「刃物の扱いは、慣れている」

 

「剣道の」

 

「剣道は、竹刀だ。刃物ではない」

 

浅野さんは、林檎を、八つに切った。

 

切って、皿に並べて、彼の膝の上に置いた。

 

「食え」

 

彼は、左手で、一切れを取った。

 

取って、少しだけ、ためらってから、口に入れた。

 

浅野さんは、それを、黙って見ていた。

 

見ていて、少しだけ、肩の力を抜いた。

 

八月の終わりに、京都駅のホームで、浅野さんの隣に座って、彼は泣いたのだと、萌太くんが言った。泣いて、好きです、と言ったのだと。

 

浅野さんは、保留にした。

 

保留にした人が、林檎を剥いて、食えと言っている。

 

保留というのは、断ることでも、受け入れることでもない。答えを、隣に置いたまま、林檎を剥き続けることなのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

病室の扉が、叩かれた。

 

二度。

 

看護師さんの叩き方ではなかった。もっと軽くて、もっと、楽しそうな叩き方だった。

 

「はーい」

 

彼が、答えた。

 

扉が開いた。

 

男が、一人、立っていた。

 

若い男だった。二十歳を少し過ぎたくらいに見えた。細身で、白いシャツを着ていた。眼鏡をかけていた。銀縁の、細い眼鏡。

 

手に、花束を持っていた。

 

白い花だった。名前の分からない、小さな花が、たくさん束ねてあった。

 

男は、病室の中を、ぐるりと見回した。

 

ベッドの彼を見た。

 

一つ空けた椅子の、私を見た。

 

それから、ベッドの横の椅子の、浅野さんを見た。

 

見て、男の顔が、ぱっと明るくなった。

 

「あ、いたいた」

 

男は、まっすぐに、浅野さんの方へ歩いていった。

 

「いーちゃん、だよね?」

 

病室が、静かになった。

 

浅野さんは、果物ナイフを持ったまま、男を見上げた。

 

「……何だと」

 

「いーちゃん。戯言遣いの。……あれ、違った? 聞いてた話だと、背が高くて、無表情で、甚平を着てて、病院のベッドの横で、林檎を剥いてるって」

 

男は、首を傾げた。

 

傾げたまま、花束を、浅野さんの膝の上に、そっと置いた。

 

「お見舞い。……それと、これ」

 

男は、シャツの胸ポケットから、白い封筒を一枚、取り出した。

 

宛名も、差出人も、書いていなかった。

 

男は、それを、花束の上に、載せた。

 

「狐面の旦那から。いーちゃんに、渡せって」

 

狐面。

 

八月の、西東(さいとう)診療所の朝。紺の着流しに、狐の面の男。

 

《お前は──俺の、保留だ》

 

あの声を、私は、まだ覚えていた。

 

私は、ベッドの彼を見た。

 

彼は、男を見ていた。

 

見ている顔から、色が、少しずつ、引いていった。

 

「……人違いだ」

 

浅野さんが、言った。

 

「私は、いの字ではない。浅野みいこだ」

 

「え?」

 

男は、きょとんとした顔をした。

 

それから、ベッドの彼を見た。

 

一つ空けた椅子の、私を見た。

 

もう一度、浅野さんを見た。

 

「えー、でも、狐面の旦那が言ってたんだよなあ。甚平で、林檎で、無表情って。……あの人、嘘つかないんだけどなあ」

 

嘘をつかない。

 

西東さんは、言いたいことを言わない主義だと、言っていた。

 

言いたいことを言わない人は、嘘をつかずに、人を間違わせることができる。

 

甚平で、林檎で、無表情。

 

それは、全部、本当のことだった。本当のことだけを並べて、宛名を、すり替えた。

 

「まあ、いいや」

 

男は、肩をすくめた。

 

「どっちにしても、もう渡しちゃったし。……受け取ったのは、そっちだからね」

 

男は、浅野さんの膝の上の花束に、指先で、軽く触れた。

 

触れた指先を、すぐに、引っ込めた。

 

「じゃ、お大事に」

 

男は、背を向けた。

 

背を向けて、扉の方へ歩いた。

 

「待て」

 

浅野さんが、立ち上がった。

 

膝の上の花束と封筒が、床に落ちた。

 

果物ナイフを、右手に持ったままだった。

 

男は、扉のところで、振り返った。

 

「何?」

 

「名を名乗れ」

 

「名前?」

 

男は、眼鏡の位置を、指で直した。

 

「奇野頼知(きのらいち)。……十三階段の、十二段目」

 

十三階段。

 

初めて聞く言葉だった。

 

聞いたことがないのに、その言葉は、どこかで、階段を昇る足音のように、鳴った。

 

骨董アパートの、一段ごとに鳴る階段。鳴る階段は、昇る人間の数を、数えている。

 

奇野さんは、扉を開けた。

 

開けたところで、浅野さんが、一歩、踏み込んだ。

 

踏み込んだ、と思った次の瞬間には、浅野さんの右手が、奇野さんの手首を、掴んでいた。

 

速かった。

 

七月に、彼が斜道(しゃどう)博士の襟を掴んだ時よりも、ずっと速かった。

 

果物ナイフは、浅野さんの手の中で、刃を、浅野さん自身の方へ向けていた。人を斬るための持ち方ではなかった。人を止めるための持ち方だった。

 

「封筒の中身は、何だ」

 

奇野さんは、手首を掴まれたまま、笑った。

 

「さあ。狐面の旦那の手紙は、俺も読まないから」

 

「花は」

 

「花は、花だよ。……ただ、ちょっとだけ、俺の手で、触ったけど」

 

浅野さんの目が、床の花束に落ちた。

 

その一瞬に、奇野さんは、手首を、するりと抜いた。

 

抜いて、廊下へ出た。

 

浅野さんが、追おうとした。

 

追おうとして、足を止めた。

 

止めて、自分の手を見た。

 

奇野さんの手首を掴んでいた、右手を。

 

「……みいこさん」

 

彼が、ベッドの上から、言った。

 

浅野さんは、答えなかった。

 

右手を見たまま、少しだけ、指を、開いたり閉じたりした。

 

「何でもない」

 

浅野さんは、言った。

 

「少し、痺れただけだ」

 

廊下の向こうで、足音が、遠ざかっていった。

 

軽い、楽しそうな足音だった。

 

 

 

 

 

看護師さんを呼んだのは、私だった。

 

床に落ちた花束と、封筒を、私は、触らなかった。触らずに、ナースコールのボタンを押した。

 

看護師さんが来て、浅野さんの手を見た。

 

赤くなっていた。

 

奇野さんの手首を掴んだ、手のひらの真ん中が、薄く、赤くなっていた。

 

「念のため、検査をしましょう」

 

看護師さんが言った。

 

浅野さんは、首を振った。

 

「大げさだ。痺れは、もう引いた」

 

「引いていても、です」

 

看護師さんは、譲らなかった。

 

浅野さんは、看護師さんを見下ろして、それから、ベッドの彼を見た。

 

彼は、浅野さんの手を、じっと見ていた。

 

見ている顔に、色が、まだ戻っていなかった。

 

「……行ってください」

 

彼が、言った。

 

「お願いです」

 

浅野さんは、しばらく、彼を見ていた。

 

それから、黙って、看護師さんの後について、病室を出ていった。

 

出ていく前に、一度だけ、私を見た。

 

道場で、相手の構えを見る時の目だった。

 

構えを見て、何も言わずに、出ていった。

 

病室に、私と、彼が残った。

 

床の上に、白い花束と、白い封筒が、落ちていた。

 

「……封筒、開けるの」

 

私が訊くと、彼は、首を振った。

 

「開けない。……開けたら、宛名がぼくに戻ってくる」

 

「宛名は、あなたでしょう」

 

「宛名は、ぼくだった。でも、受け取ったのは、みいこさんだ」

 

彼は、天井を見上げた。

 

「あの人は、そういうことをする人なんだ。……宛名を、間違えさせる。間違えて受け取った人に、中身を背負わせる。それで、ぼくを、動かそうとする」

 

あの人、と彼は言った。

 

狐の面の男のことだった。

 

彼は、八月の朝に一度会っただけの西東さんのことを、もう、ずっと知っている人の顔で話していた。

 

「どうして、浅野さんなの」

 

「ぼくが、一番、動くから」

 

彼は、言った。

 

「ぼく自身に毒を盛っても、ぼくは、たぶん、何もしない。何もしないで、死んでいく。……でも、みいこさんに何かあったら、ぼくは、動く。動かずにいられない。あの人は、それを、知ってる」

 

隣に座る人が、狙われる。

 

彼の隣に座る人は、いなくなる。

 

彼自身も、玖渚(くなぎさ)さんも、同じことを言った。

 

浅野さんは、彼の隣に座っていた。

 

保留にしたまま、林檎を剥くために。

 

「……私は」

 

言いかけて、やめた。

 

私は、一つ空けた椅子に座っていた。

 

奇野さんは、私を見た。見て、素通りした。

 

宛名を間違えるにしても、私の席は、選ばれなかった。

 

隣の隣は、狙われない。

 

縁が合わないから。

 

それが、少しだけ、悔しかった。

 

悔しいと思った自分に、驚いた。

 

悔しい、という字には、心が、毎日の毎と並んでいる。毎日、心に残るもの。一度で消えるものは、悔しいとは言わない。

 

この悔しさは、たぶん、明日も残る。

 

残ると分かっていて、私は、それを、どこにも置けずにいた。狙われなかったことを悔しがるのは、狙われた人に、失礼だった。失礼だと分かっていても、悔しさは、礼儀を知らなかった。

 

 

 

 

 

その夜、部屋で、スマートフォンが鳴った。

 

知らない番号だった。

 

出ると、間延びした声がした。

 

『もしもーし。すずちゃーん』

 

玖渚さんだった。

 

『……どうして、私の番号を』

 

『調べたもん。最初に会った日に。……でも、かけるのは、初めて。かける用事が、なかったから』

 

かける用事が、できた。

 

『今日、病院に、変な人が来たでしょ』

 

『どうして、それを』

 

『病院の、廊下のカメラ。僕様ちゃん、見えるの。見えるようにしたの、今日のお昼』

 

今日のお昼。

 

奇野さんが来る、前だった。

 

『見張っていたの』

 

『今朝、いーちゃんの病院のそばで、狐面のおじさんの周りの人の名前が、一つ、引っかかったの。だから、お昼に。……いーちゃんの周りには、変な人が来るから』

 

玖渚さんの声は、いつもより、少しだけ、早かった。

 

『あの人、奇野頼知。十三階段の、十二段目。……十三階段っていうのはね、狐面のおじさんの、手足なの。十三人。一段ずつ、狐面のおじさんの言うことを聞く人』

 

『十三人』

 

『うん。毒の人とか、殺し屋さんとか、心を操る人とか。……みんな、眼鏡をかけてるの。狐面のおじさんの、趣味なんだって』

 

眼鏡。

 

奇野さんの、銀縁の細い眼鏡を、思い出した。

 

『狐面のおじさんはね、人類最悪(じんるいさいあく)って呼ばれてるの。潤ちゃんが、人類最強だから、その反対』

 

人類最強の、反対。

 

八月に、潤さんは、狐の面の男の話をした時だけ、肩を強ばらせた。

 

『潤さんは、今、どこに』

 

訊いてから、玖渚さんが、黙った。

 

『……分かんないの』

 

小さな声だった。

 

『潤ちゃん、先週から、連絡がつかないの。いつもは、連絡なんかしなくても、勝手に来るのに。今は、来ないの。……来ないって言った時に来る人が、来るって言ってないのに、来ないの』

 

来ると言った時ほど来なくて、来ないと言った時に来る人。

 

その人が、何も言わずに、来なくなった。

 

『それから、もう一つ、変な噂があるの』

 

『噂』

 

『零崎(ぜろざき)人識(ひとしき)が、死んだって』

 

同じ噂を、八月に、潤さんから聞いていた。たぶん嘘だ、守るための嘘だ、と潤さんは言った。

 

『知っているわ。死んだことにして、隠したのだと聞いた』

 

『……誰に?』

 

『潤さん』

 

玖渚さんが、少しだけ黙った。

 

『そっか。潤ちゃん、すずちゃんには、話したんだ』

 

『でも、すずちゃん。零崎の人たちのまわり、今、すごく、ざわざわしてるの。狐面のおじさんが、零崎を、見てるの。……すずちゃんの知ってる零崎の人が、誰か知らないけど、その人のまわりも、たぶん、ざわざわしてる』

 

佐倉さん。

 

零崎愛織。

 

『気をつけてね、すずちゃん』

 

玖渚さんの声が、少しだけ、柔らかくなった。

 

『僕様ちゃんがあげた席、空いたら、困るから』

 

電話が、切れた。

 

切れたあとで、私は、スマートフォンを、しばらく見ていた。

 

人類最悪。十三階段。眼鏡。潤さんの不在。玖渚さんの耳にも届いていた、零崎人識の死の噂。

 

八月の終わりに、潤さんは、零崎の名前の周りが騒がしくなっている、と言った。

 

その潤さんが、いなくなった。

 

騒がしさの真ん中に、自分から、入っていったのかもしれなかった。

 

翌々日の夕方、骨董アパートの前で、浅野さんに会った。

 

国語の問題集を、ことわざの単元まで解き終えて、それを、紫木(ゆかりき)さんの部屋の前に置いていこうと思って来たのだった。置いていっても、誰も読まない。読まないと分かっていて、置きに来た。

 

浅野さんは、二階から、降りてくるところだった。

 

甚平の上に、薄い羽織をかけていた。九月の夕方にしては、厚着だった。

 

「……お前か」

 

浅野さんは、階段の途中で、足を止めた。

 

止めた時、右手を、羽織の袖の中に、引っ込めた。

 

引っ込める動きが、ほんの少しだけ、遅かった。

 

遅かった分だけ、見えた。手のひらの真ん中から、手首の内側へ、細い、赤い線が、一本、伸びていた。

 

「浅野さん、その手」

 

「言うな」

 

短い声だった。

 

八月の夜、潤さんが、肩の強ばりを指摘されかけて、遮った時と、同じ短さだった。

 

「いの字には、言うな」

 

「でも」

 

「言えば、あいつは、病院を抜け出す。抜け出して、何をするか分からん。……あいつが、まともに何かできる体になるまで、待て」

 

浅野さんは、袖の中の手を、もう一度、握り直したようだった。

 

「医者には」

 

「行った。微熱だと言われた。薬をもらった。……それで、足りる」

 

足りる、と浅野さんは言った。

 

足りない時に、人は、足りると言う。

 

「崩子さんには」

 

「言っていない。あれは、言えば、私の部屋の前で、寝ずに座る」

 

浅野さんは、階段を、一段、降りた。

 

降りて、私の手元の問題集を、見た。

 

「それは」

 

「紫木さんの、国語の続きです」

 

浅野さんは、しばらく、問題集の表紙を見ていた。

 

「……解いたのか」

 

「解きました」

 

「姫の代わりに」

 

「付箋を貼ったのは、私なので」

 

浅野さんは、何も言わなかった。

 

言わないまま、袖の中でない方の、左手を、伸ばした。

 

問題集を、受け取った。

 

「私が、置いておく。あの子の部屋は、今、私が鍵を預かっている」

 

浅野さんは、問題集を、羽織の内側に、抱えるようにしまった。

 

それから、私を、もう一度だけ見た。

 

「お前は、言うなと言われたことを、言わずにいられるか」

 

「……言わずにいます。何度も」

 

「そうだろうな」

 

浅野さんは、階段を降りて、私の横を通り過ぎた。

 

通り過ぎる時、少しだけ、足元がふらついた。

 

ふらついたのを、私は、見た。

 

見て、言わなかった。

 

言うなと言われたから、ではなかった。言えば、この人は、もっと無理をして、まっすぐに歩こうとする。その方が、悪い気がした。

 

それが、正しかったのかどうか。

 

答えは、少しあとに、出た。

 

 

 

 

 

浅野さんが倒れたのは、その三日後だった。

 

骨董アパートの、二階の廊下で。

 

崩子さんが、見つけた。

 

熱が、高かった。右の手のひらの真ん中から、腕の内側へ、赤い線が、一本、伸びていた。

 

病院へ運ばれた。

 

彼と、同じ病院だった。同じ階の、別の病室だった。

 

医者は、毒だと言った。

 

何の毒なのかは、分からないと言った。分からないから、解毒の薬も、分からない。分からないまま、熱を下げる薬を、点滴で入れ続けるしかないと言った。

 

私は、病院の廊下の長椅子に座っていた。

 

崩子さんが、隣に座っていた。

 

一つ、空けて。

 

萌太くんは、廊下の端で、火のついていない煙草を、くわえていた。

 

「奇野は、毒を使う家の人間です」

 

崩子さんが、言った。

 

前を見たままだった。

 

「病毒遣い。……呪い名の、奇野。わたしの家の人間から、聞いたことがあります。奇野の毒は、奇野にしか、解けない」

 

奇野にしか、解けない。

 

「では、奇野さんを、見つけなければ」

 

「奇野を見つけても、解いてはくれません。奇野が解くのは、奇野の主が、解けと言った時だけです」

 

奇野の主。

 

十三階段の、十二段目、と奇野さんは言った。

 

階段には、上がある。十二段目の上に、十三段目がある。その上に、階段そのものを持っている人がいる。

 

狐面の旦那から、と奇野さんは言った。

 

「……西東さん」

 

私が言うと、崩子さんは、初めて、こちらを向いた。

 

「知っているんですか」

 

「八月に、一度、会ったわ。紫木さんが死んだ朝に」

 

崩子さんの目が、少しだけ、細くなった。

 

「何と言われましたか」

 

「俺の、保留だ、と」

 

崩子さんは、しばらく、私を見ていた。

 

それから、また、前を向いた。

 

「保留なら、会っても、構いませんね」

 

崩子さんは、静かに言った。

 

「敵は、会うと、戦わなければなりません。身内は、会うと、従わなければなりません。……保留の人は、会っても、何もしなくていい。何もしなくていい人間だけが、何でもできます」

 

何もしなくていい人間だけが、何でもできる。

 

私は、崩子さんの横顔を見た。

 

十三か、十四の、横顔だった。

 

その歳の子が、そんなことを、知っていた。

 

廊下の端から、萌太くんが、こちらへ歩いてきた。

 

くわえていた煙草を、指に外して、私の前で、少しだけ屈んだ。

 

「先生、何か飲みますか。下の自動販売機、行ってきます」

 

「……要らないわ」

 

「じゃあ、崩子の分だけ」

 

萌太くんは、崩子さんを見た。崩子さんは、前を見たまま、首を小さく横に振った。

 

萌太くんは、それを見て、少しだけ笑った。笑って、私と崩子さんの間の、空いた場所を見た。

 

「ここ、座っていいですか」

 

崩子さんが、萌太くんを見上げた。

 

私も、萌太くんを見た。

 

「……どうぞ」

 

萌太くんは、私と崩子さんの間に、腰を下ろした。

 

一つ空けた場所が、埋まった。

 

埋まっても、萌太くんは、私の方にも、崩子さんの方にも、寄らなかった。真ん中に、きちんと、座っていた。

 

「先生は、いつも、どこかの扉の前に座ってますね」

 

萌太くんが、言った。

 

前を見たままだった。

 

「研究所の夜も、扉の内側に座ってたって、いー兄から聞きました。京都駅の夜も、みー姉の部屋の前に来て、そのあと、廊下で崩子と並んでた。……今日も、扉の前です」

 

「偶然よ」

 

「偶然が三回続いたら、それは、たぶん、先生の座り方です」

 

萌太くんは、火のついていない煙草を、指の間で、くるりと回した。

 

「僕は、崩子の部屋の前に、よく座るんです。崩子が、眠れない夜に。……扉の前に座ってる人間は、中の人を守ってるように見えて、本当は、中の人が出てくるのを待ってるだけなんですよね。守る力なんて、ないのに」

 

守る力なんて、ない。

 

それでも、座る。

 

「先生は、浅野さんが出てくるのを、待ってるんですか」

 

「……分からないわ」

 

「分からないのに、座ってる」

 

「ええ」

 

萌太くんは、少しだけ、笑った。

 

「僕と、同じですね」

 

崩子さんが、萌太くんの袖を、指先で、一度だけ引いた。

 

萌太くんは、それに気づいて、煙草を、上着のポケットにしまった。

 

しまってから、もう、何も言わなかった。

 

三人で、並んで、浅野さんの病室の扉を見ていた。

 

一つも、空けずに。

 

真ん中に、萌太くんがいたから。

 

病室の扉が、開いた。

 

浅野さんを見舞っていた彼が、出てきた。

 

車椅子ではなかった。自分の足で、立っていた。左手で、点滴の台を押していた。

 

右腕には、まだ、ギプスが巻かれていた。

 

彼は、廊下の長椅子の、私たち三人の前で、足を止めた。

 

「封筒、開けたよ」

 

彼が、言った。

 

床に落ちていた、あの白い封筒だった。私は、触らなかった。看護師さんが拾って、ベッドの脇の台に置いたのを、見ていた。

 

「開けたら、宛名が、ぼくに戻ってきた。……九月の最後の日に、来いって。場所は、澄百合の跡。それまで、みいこさんの毒は、ゆっくりしか進まないって、書いてあった。ゆっくり進むように、作ってあるんだって」

 

ゆっくり進むように、作ってある。

 

殺すためではなく、来させるための毒だった。

 

「行くんですか」

 

崩子さんが、訊いた。

 

「行く。解毒の薬を、もらいに。……たぶん、戦わなきゃいけない。戦い方は、知らないけど」

 

彼は、少しだけ、笑った。

 

八月の終わりの、病院の公衆電話からの声とは、違う笑い方だった。重いものを置いてきた人の笑い方ではなかった。重いものを、これから持ちに行く人の笑い方だった。

 

「崩子ちゃん。萌太くん。……手を、貸してくれる?」

 

崩子さんが、立ち上がった。

 

萌太くんも、黙って、立ち上がった。

 

「お兄ちゃんが、頼むなら」

 

崩子さんは、言った。

 

背筋が、伸びていた。

 

護衛の背筋だった。

 

彼は、それから、私を見た。

 

萌太くんが立ったあとの、また一つ空いた長椅子の、私を。

 

何も、言わなかった。

 

頼まなかった。

 

私は、彼を見上げた。

 

「私には、頼まないの」

 

「頼まない」

 

彼は、言った。

 

「君は、あの人の保留だから。……保留の人は、頼まれなくても、来る時は来るし、来ない時は来ない。ぼくが決めることじゃない」

 

保留の人は、会っても、何もしなくていい。

 

何もしなくていい人間だけが、何でもできる。

 

彼は、背を向けた。

 

崩子さんと萌太くんが、その後に続いた。

 

三人の足音が、廊下の向こうへ、遠ざかっていった。

 

私は、長椅子に、座ったままだった。

 

座ったまま、浅野さんの病室の扉を見ていた。

 

扉の向こうで、浅野さんが、熱に浮かされて、眠っていた。

 

保留にしたまま。

 

答えを、隣に置いたまま。

 

私は、立ち上がった。

 

立ち上がって、ポケットのスマートフォンを、握った。

 

誰の番号にも、かけなかった。

 

かけずに、病院の玄関を出た。

 

外は、九月の夕方だった。病院の前の道を、学生らしい二人連れが、笑いながら通り過ぎていった。笑い声は、毒の名前も、階段の数も、知らない声だった。

 

風が、少しだけ、冷たくなり始めていた。

 

冷たい風の中を、私は、北へ、歩き出した。どこへ行くのかは、まだ、決めていなかった。決めていないのに、足は、もう、動いていた。

 

八月の終わりに、彼は、行き先を決めずに、乗るものだけを決めた。私は、乗るものも、決めていなかった。決めていない方が、たぶん、遠くまで行ける。

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