ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第32話 眼鏡(目金)

眼鏡というのは、目を良くする道具だと思われている。

 

違う。眼鏡は、見る人と見られる物のあいだに、一枚、ガラスを置く道具だ。

 

ガラス越しに見た物は、よく見える。よく見えるかわりに、触れなくなる。

 

触れないまま、よく見える。眼鏡をかける人は、たぶん、その距離を選んでいる。

 

 

 

 

 

九月の第二週、大教室の窓際のいちばん後ろに、私は座っていた。

 

隣は空けた。その向こうも、空いていた。

 

彼は、まだ、病院にいた。浅野さんと同じ階の、別の病室に。自分の足で歩けるようになってからも、退院の日を、医者に引き延ばしてもらっていると、萌太(もえた)くんが言っていた。浅野さんの病室の前を、一日に何度も通れるように。

 

講義が始まる前の、ざわついた数分間だった。

 

前の方の席は、いつもどおり、埋まっていった。真ん中の列も、ゆっくり埋まっていった。後ろの列は、いつもどおり、まばらだった。

 

私の列の、反対側の端に、女の人が一人、座った。

 

学生には見えなかった。二十代の半ばくらい。地味な服だった。紺とも灰色ともつかない、色の名前を思い出せない色のカーディガン。膝の下まであるスカート。髪は、後ろで一つに束ねていた。

 

眼鏡をかけていた。

 

細い縁の、目立たない眼鏡だった。

 

目立たない人だった。目立たない服を着て、目立たない眼鏡をかけて、目立たない席に座る。教室の後ろの列には、ときどき、そういう人が来る。もぐりの社会人。聴講生。時間を潰しに来た誰か。

 

誰も、その人を見ていなかった。

 

私も、見ていなかった。見ていなかったのに、なぜか、その人がどこに座ったのかだけは、分かっていた。

 

講義が始まった。

 

教授が、マイクの位置を直した。スクリーンに、最初の図が映った。

 

私は、ノートを開いた。

 

開いて、二行ほど書いたところで、手を止めた。

 

反対側の端の女の人が、前を見ていなかった。

 

教室の中を、見ていた。

 

前の方の席から、順番に。一列ずつ。誰がどこに座っているのか。誰と誰の間が、いくつ空いているのか。数えるような目だった。数えて、どこかに書き留めているような目だった。ノートは、開いていなかった。

 

その目が、最後に、私の列に来た。

 

反対側の端から、こちらの端へ。空いた席を、一つずつ。

 

私の隣の、空いた席で、止まった。

 

止まって、その向こうの、また空いた席を見た。

 

それから、私を見た。

 

眼鏡の奥の目が、少しだけ、細くなった。

 

笑ったのではなかった。測ったのだと思った。物の長さを測る時、人は、目を細める。

 

その人は、私と目が合ったまま、ほんの少しだけ、頭を下げた。

 

会釈だった。

 

丁寧な、教えられたとおりの、正確な角度の会釈だった。

 

私は、会釈を返さなかった。

 

返さなかったことに、その人は、少しも気分を害した様子がなかった。むしろ、少しだけ、満足したように見えた。

 

講義が終わるまで、その人は、一度も前を見なかった。

 

終わると、誰よりも先に、席を立った。

 

立って、出口へ向かう途中で、私の列の、私の隣の空いた席の横を、通った。

 

通りながら、空いた席の背もたれに、指先で、一度だけ、触れた。

 

「よい空け方ですわね」

 

小さな声だった。

 

私にしか聞こえない大きさの声。

 

「どなたが、作りましたの。……この並び」

 

私は、答えなかった。

 

その人は、答えを待たなかった。

 

待たずに、出口の方へ歩いていった。歩いていく背中は、すぐに、出ていく学生たちの背中に混じって、どれがその人なのか、分からなくなった。

 

分からなくなったのが、早すぎた。

 

あれほど、どこに座ったのかが分かっていた人が、立った途端に、どこにいるのか分からなくなった。

 

私は、空いた席の背もたれを見た。

 

指が触れたところに、何も、残っていなかった。

 

作りましたの、とその人は言った。

 

並びを。

 

席を空けるのは、私の癖だった。癖を、作ったとは、言わない。

 

言わないはずだった。

 

それなのに、その人の言い方は、私の癖を、誰かが設計した図面のように扱っていた。

 

 

 

 

 

人のいなくなった大教室に、私は、しばらく残っていた。

 

次の講義まで、この教室は、使われない。前の方の席から、誰かが置き忘れた傘が一本、通路に倒れていた。

 

私は、立ち上がった。

 

立ち上がって、隣の、空いた席の前に立った。

 

四月から、一度も座らなかった席だった。

 

座ってみようと思った。思ったのは、眼鏡の人が、作りましたの、と言ったからだった。作ったものなら、壊すこともできるはずだった。壊せるかどうか、確かめておきたかった。

 

背もたれに、手をかけた。

 

さっき、眼鏡の人の指が触れたところだった。

 

椅子を引いた。

 

引いた音が、誰もいない教室に、大きく響いた。

 

腰を下ろしかけて、止まった。

 

止まったのは、膝だった。膝が、勝手に、伸びたまま、曲がらなかった。

 

私は、引いた椅子を、元に戻した。

 

戻して、自分の席に、座り直した。

 

座り直してから、さっき座りかけた席を見た。

 

空いていた。

 

空いているのが、正しい形に見えた。正しい形に見える、ということが、少しだけ、怖かった。癖は、自分で作ったものだ。そう言い張るには、さっき止まった膝が、私の言うことを、少しも聞かなかった。

 

窓の外で、九月の雲が、ゆっくり流れていた。

 

流れていく雲の形を、私は、名前を付けずに、見ていた。

 

名前を付けると、その形に、決まってしまう気がした。

 

 

 

 

 

その日の午後、病院へ行った。

 

正面の玄関の前に、車寄せがある。タクシーが二台、並んで止まっていた。その脇を、私は歩いていた。

 

玄関の自動扉が開いて、彼が出てきた。

 

右腕のギプスは、まだ取れていなかった。左手に、コンビニの袋を提げていた。中に、ペットボトルのお茶が、二本、入っているのが見えた。

 

浅野さんの病室には、売店のお茶を持っていけない。浅野さんは、売店のお茶が嫌いだから。萌太くんが、そう言っていた。だから、彼は、病院の外のコンビニまで、わざわざ買いに行くのだと。

 

彼が、私に気づいた。

 

気づいて、片手を、少しだけ上げかけた。

 

上げかけたところで、車寄せに、車が一台、入ってきた。

 

白い、大きな車だった。

 

速かった。

 

車寄せに入ってくる速さではなかった。ブレーキの音がした。遅かった。タイヤが、地面を擦る音がした。

 

彼の、すぐ前で、車が止まった。

 

止まった、と思った。

 

止まりきっていなかった。

 

バンパーが、彼の膝に、触れた。

 

触れただけだった。押されて、彼が、一歩、よろめいた。コンビニの袋が、地面に落ちた。ペットボトルが一本、転がって、車の下に入った。

 

私は、走っていた。

 

いつ走り出したのか、分からなかった。

 

彼のそばに着いた時、運転席の扉が、勢いよく開いた。

 

降りてきたのは、女の人だった。

 

レインコートを着ていた。

 

透明な、ビニールのレインコートだった。外は、晴れていた。九月の、雲一つない空だった。

 

足元は、長靴だった。黄色い長靴。

 

レインコートの下に、白衣が見えた。

 

「ご、ごめんなさい」

 

女の人は、言った。

 

言いながら、もう、泣いていた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい。わたし、また、ぶつけちゃった。駐車、下手なの。いつも、下手なの。どうせ、わたしなんか、免許、返した方がいいって、みんな思ってるのよね。思ってるのよね、あなたも」

 

あなた、と言われたのは、彼だった。

 

彼は、膝を押さえて、地面に座り込んでいた。座り込んだまま、女の人を見上げていた。

 

「……思ってないです」

 

「嘘よ。思ってるわ。顔に書いてあるもの。この人、轢きかけた、って。轢きかけたわたしのこと、絶対、許さないって」

 

女の人は、彼の前に、しゃがみ込んだ。

 

しゃがみ込んで、彼の膝に、手を伸ばした。

 

伸ばした手が、ためらいなく、ズボンの裾をまくった。

 

膝が、少しだけ、赤くなっていた。擦り傷が一本。血は、ほとんど、出ていなかった。

 

女の人は、それを見て、また泣いた。

 

「血が出てる。わたしのせいで、血が出てる」

 

「ほとんど出てないです」

 

「ほとんど、ってことは、出てるのよ」

 

女の人は、レインコートのポケットから、小さな箱を出した。

 

救急箱だった。

 

ポケットに、救急箱が入っていた。

 

女の人は、泣きながら、消毒液の蓋を開けた。泣きながら、脱脂綿に、消毒液を含ませた。泣きながら、彼の膝の擦り傷を、拭いた。

 

手つきだけは、少しも、泣いていなかった。

 

迷いのない手だった。どこをどれだけ押さえれば、痛くないのかを、知っている手だった。

 

私は、彼の後ろに立っていた。

 

一つ、空けて。

 

女の人が、顔を上げた。

 

上げて、私を見た。

 

整った顔だった。泣いているのに、整っていた。泣き顔の下に、もう一つ、泣いていない顔が、置いてあるように見えた。

 

眼鏡をかけていた。

 

おしゃれな眼鏡だった。細いフレームに、小さな飾りが付いていた。

 

「あなたも、わたしのこと、責めてるわよね」

 

女の人は、言った。

 

「責めてるわよね。この人の連れなんでしょう。連れの人が轢かれかけたら、普通、責めるもの。わたし、責められるのには、慣れてるの。慣れてるけど、毎回、ちゃんと傷つくの」

 

「責めていません」

 

私は、言った。

 

「傷を、拭いてくださっているので」

 

女の人は、泣くのを、一瞬、止めた。

 

止めて、私を見た。

 

眼鏡の奥の目が、ほんの少しだけ、乾いた。

 

「……変な子」

 

それから、また、泣き始めた。

 

泣きながら、彼の膝に、絆創膏を貼った。大きすぎる絆創膏だった。擦り傷の三倍くらいの大きさがあった。

 

「はい。おしまい。……ばい菌が入ったら、わたしのせいだから、すぐ言ってね。すぐ来るから。どこにいても、来るから」

 

女の人は、立ち上がった。

 

レインコートが、晴れた空の下で、かさりと鳴った。

 

運転席に戻りかけて、女の人は、振り返った。

 

「あ、そうだ」

 

助手席の扉を開けて、中から、紙の箱を一つ、取り出した。

 

ドーナツの箱だった。

 

「お見舞い。……三階の、浅野さんに。熱がある時は、甘いものがいいの。フレンチクルーラー。わたしの、いちばん好きなの」

 

女の人は、箱を、彼の膝の上に、そっと置いた。

 

彼は、箱を見て、それから、女の人を見た。

 

「……三階の、浅野さん」

 

「そう」

 

「どうして、浅野さんを、知ってるんですか」

 

女の人は、少しだけ、首を傾げた。

 

傾げた拍子に、また、涙が一粒、落ちた。

 

「だって、わたし、お医者さんだもの。……患者さんのことは、知ってるわ。どんな毒で、どれくらいの速さで進むのかも」

 

彼の顔から、色が、引いた。

 

女の人は、それに気づいたようだった。気づいて、また、泣きそうな顔をした。

 

「あ、怖がらせた。ごめんなさい。わたし、いつも、言わなくていいことを言っちゃうの。でも、大丈夫よ。ゆっくりよ。ゆっくりしか進まないわ。ゆっくりしか進まないように、作ってあるもの」

 

作ってある。

 

彼が、この前、言ったのと、同じ言葉だった。

 

手紙に、そう書いてあった、と。

 

「あなたは」

 

彼が、言った。

 

「十三階段の」

 

女の人は、眼鏡の位置を、指で直した。

 

直しながら、涙を、袖で拭いた。

 

「絵本園樹(えもとそのき)。三段目。……本業は、精神科医。でも、怪我を治す方が、好きなの。心は、治っても、治ったかどうか分からないでしょう。傷は、治ったら、ちゃんと塞がるもの。塞がるのを見るのが、好き」

 

絵本さんは、運転席に乗り込んだ。

 

乗り込んで、窓を下ろした。

 

「狐さんから、伝言。……九月の最後の日、忘れないでね、って。それだけ。わたし、伝言を伝えるの、苦手なの。いつも、余計なことまで言っちゃう。今日も、言っちゃった。ごめんなさい」

 

車が、動き出した。

 

動き出して、車寄せの縁石に、前輪を、一度、ぶつけた。

 

ぶつけて、少しだけ止まって、それから、また、ふらふらと、出ていった。

 

晴れた空の下を、レインコートの人を乗せた白い車が、遠ざかっていった。

 

私は、地面に転がったペットボトルを、車の跡の中から、拾い上げた。

 

一本は、無事だった。

 

もう一本は、凹んでいた。凹んでいたけれど、蓋は、開いていなかった。

 

「……こっちを、浅野さんに」

 

私は、無事な方を、彼に渡した。

 

彼は、受け取った。

 

受け取ってから、私の手に残った、凹んだ方を見た。

 

「そっちは、ぼくが飲むよ」

 

「凹んでいるわ」

 

「同じ車に、ぶつけられた仲だから」

 

「あなたは、凹んでいないでしょう」

 

「膝が、少し」

 

彼は、大きすぎる絆創膏を、指さした。

 

私は、凹んだペットボトルを、彼の膝の上の、ドーナツの箱の上に載せた。轢かれかけたものが、一か所に、まとまった。

 

彼は、膝の上のドーナツの箱を、見下ろした。

 

「これ、どうしよう」

 

「捨てるの」

 

「捨てられないよ。……あの人、たぶん、本当に、浅野さんのために買ってきたんだ」

 

「毒を盛った側の人よ」

 

「毒を盛ったのは、奇野(きの)さん。あの人は、治す方」

 

彼は、箱を、左の脇に抱えて、立ち上がろうとした。

 

立ち上がれなかった。

 

絆創膏の上から、膝が、少しだけ、震えていた。

 

私は、手を貸さなかった。

 

貸さずに、彼が自分で立ち上がるのを、一つ空けた場所から、待っていた。

 

三度目で、彼は、立った。

 

立って、膝の絆創膏を、見下ろした。

 

「大きいね、これ」

 

「傷の、三倍はあるわ」

 

「三倍、塞がってほしかったのかな」

 

彼は、少しだけ笑った。笑ってから、笑ったことを、後悔するような顔をした。

 

「怪我を治すのが好きな人に、怪我をさせられて、治された。……ぼくは、今、何をされたんだろう」

 

「轢かれかけて、手当てをされたのよ」

 

「そうだね。順番どおりに言うと、そうなる」

 

順番どおりに言うと。

 

順番を入れ替えると、手当てをするために、轢かれかけたことになる。

 

私は、それを、口に出さなかった。出さなかったけれど、彼も、同じ順番を、頭の中で入れ替えている顔をしていた。

 

車寄せに、次のタクシーが入ってきた。ゆっくりと、正しい速さで。

 

 

 

 

 

浅野さんの病室は、静かだった。

 

窓の外に、比叡山の稜線が見えた。

 

浅野さんは、眠っていた。

 

熱は、まだ、下がっていなかった。額に、濡れたタオルが載っていた。右手は、布団の上に出ていた。手のひらの真ん中から、手首の内側へ、赤い線が伸びていた。一週間前より、ほんの少しだけ、長くなっていた。

 

ほんの少しだけ。

 

ゆっくりしか進まないように、作ってある。

 

ベッドの横の椅子に、崩子(ほうこ)さんが座っていた。

 

近い方の椅子だった。

 

崩子さんは、私たちが入ってきても、顔を上げなかった。浅野さんの額のタオルを、裏返していた。

 

彼は、ペットボトルを、枕元の台に置いた。

 

ドーナツの箱は、置かなかった。廊下の長椅子に、置いてきた。

 

「堀北さん」

 

崩子さんが、タオルを裏返し終えてから、言った。

 

前を見たままだった。

 

「今日、誰か、来ましたか」

 

「玄関で、十三階段の人に会ったわ。三段目の、お医者さん」

 

崩子さんの手が、止まった。

 

止まって、少しだけ、こちらを向いた。

 

「何を、しに」

 

「お見舞い、だそうよ。フレンチクルーラーを、置いていったわ」

 

崩子さんは、長いあいだ、黙っていた。

 

それから、小さく、息を吐いた。

 

「……そういう人たちなんですね」

 

「そういう、とは」

 

「殺すために来る人より、ずっと、怖いです。殺すために来る人なら、殺されないようにすればいい。……お見舞いに来る人は、どうすればいいのか、分かりません」

 

どうすればいいのか、分からない。

 

私にも、分からなかった。

 

分からないまま、私は、遠い方の椅子に座った。崩子さんと、一つ空けて。

 

彼は、座らなかった。

 

窓際に立って、比叡山の稜線を見ていた。

 

浅野さんが、少しだけ、身じろぎした。

 

まぶたが、ゆっくりと、開いた。

 

焦点の合わない目が、天井を見て、それから、窓際の彼を見た。

 

「……いの字か」

 

かすれた声だった。

 

「はい」

 

「茶は」

 

彼は、枕元の台のペットボトルを、左手で取った。

 

蓋を開けようとして、ギプスの右手が、使えなかった。

 

崩子さんが、立ち上がりかけた。

 

その前に、彼は、ベッドの柵に腰を預けて、ペットボトルを、膝で挟んだ。挟んで、左手だけで、蓋を回した。

 

時間がかかった。

 

浅野さんは、それを、黙って見ていた。

 

蓋が開いた。

 

彼は、浅野さんの口元に、ペットボトルを持っていった。浅野さんは、一口だけ飲んで、顔をしかめた。

 

「……ぬるい」

 

「すみません」

 

「外の、コンビニのだな」

 

「はい」

 

浅野さんは、もう一口だけ、飲んだ。

 

飲んでから、目を閉じた。

 

「売店のよりは、ましだ」

 

それきり、また、眠ってしまった。

 

彼は、ペットボトルを持ったまま、しばらく、動かなかった。

 

動かないまま、浅野さんの寝顔を見ていた。

 

崩子さんが、椅子に、座り直した。

 

座り直して、また、タオルを裏返し始めた。

 

私は、何もしなかった。

 

何もしないまま、一つ空けた椅子から、三人を見ていた。

 

眠っている人と、茶を持って立っている人と、タオルを裏返す人。

 

三人とも、私の隣にはいなかった。

 

隣にいないから、三人とも、よく見えた。

 

 

 

 

 

浅野さんの病室を出ると、彼は、自分の病室へ戻った。

 

私も、ついていった。ついていくつもりはなかった。彼が、廊下で一度だけ振り返って、来る? とも、来ないで、とも言わなかったから、ついていった。

 

彼の病室は、浅野さんの病室より、少しだけ狭かった。窓から、比叡山は見えなかった。隣の建物の壁が見えた。

 

彼は、ベッドの縁に腰を下ろした。

 

私は、扉の脇の椅子に座った。ベッドから、一つ分、離れた椅子に。

 

彼は、枕の下から、白い封筒を出した。

 

奇野さんが置いていった封筒だった。封は、切られていた。

 

「見る?」

 

彼が、言った。

 

「宛名は、あなたよ」

 

「宛名は、ぼくだ。でも、ぼくは、見せたい。……見せたいと思ったのは、初めてだけど」

 

彼は、封筒から、便箋を一枚、出した。

 

出して、ベッドの上に、広げた。

 

私は、椅子から立たなかった。立たずに、首だけを伸ばして、便箋を見た。

 

字は、少なかった。

 

いちばん上に、日付と、場所。九月の最後の日。澄百合学園、跡地。

 

その下に、毒のことが、二行。ゆっくり進むこと。解く薬は、こちらにあること。

 

その下に、名前が、並んでいた。

 

一段目、と書いてあって、名前の場所は、空白だった。

 

二段目、一里塚木の実(いちりづかこのみ)。

 

三段目、絵本園樹。

 

四段目、宴九段。

 

五段目、古槍頭巾。

 

六段目、時宮(ときのみや)時刻。

 

七段目、右下(みぎした)るれろ。

 

八段目、闇口(やみぐち)濡衣。

 

九段目と十段目が、二人並んで、澪標(みおつくし)深空、澪標高海。

 

十一段目、ノイズ。

 

十二段目、奇野頼知。

 

十三段目、と書いてあって、そこも、空白だった。

 

いちばん下に、署名の代わりに、狐の顔が、一つ、描いてあった。線の少ない、子どもの落書きのような、狐の顔だった。

 

「階段の、名簿ね」

 

私は、言った。

 

「うん。……全部、教えてくれるんだ。誰が来るのか。何段目なのか。隠さない。隠さないで、来いって言う」

 

隠さない。

 

八月の朝、西東(さいとう)さんは、言いたいことを言わない主義だと言った。言わないかわりに、隠しもしない。全部を、並べて、見せる。見せられた方が、勝手に、宛名を間違える。

 

「三段目」

 

私は、便箋の上の、三段目の名前を見た。

 

「三段目の人は、さっき、玄関で。……それと、大学の大教室にも、眼鏡の人が来たわ。どの名前の人かは、分からない」

 

彼が、こちらを向いた。

 

「大学に、来たの」

 

「私の列の、反対側の端に座っていたわ。講義のあいだ、ずっと、教室の中の並びを、数えていた」

 

彼は、しばらく、黙っていた。

 

それから、便箋の上の、八段目の名前を、指でなぞった。

 

闇口濡衣。

 

なぞった指が、そこで、止まった。

 

「崩子ちゃんには、まだ、見せてない」

 

「どうして」

 

「闇口、だから」

 

彼は、それ以上、言わなかった。

 

言わなかったけれど、私は、八月の終わりの夜の廊下を、思い出していた。逃げてきたんです、と崩子さんは言った。生まれた家から、萌太が、わたしを連れて。

 

その家の名前を、私は、まだ聞いていない。

 

聞いていないけれど、便箋の上の、その二文字の前で、彼の指が止まった理由は、少しだけ、分かる気がした。

 

彼は、便箋を、元の形に畳んだ。

 

封筒に戻して、枕の下に、しまった。

 

「十三段目は、空白なのね」

 

「空白だった。一段目も」

 

「欠けているの」

 

「分からない。欠けてるのか、隠してるのか。……隠さない人が、二つだけ、空けてる」

 

二つだけ、空けている。

 

一つ空けて、座る。私の座り方だった。

 

西東さんは、階段を、二つ空けて、並べていた。

 

空けた場所には、たいてい、誰かが座るはずの席がある。座るはずの誰かを、まだ、座らせていないだけで。

 

窓の外で、隣の建物の壁が、夕日で、橙色に変わり始めていた。

 

 

 

 

 

夕方、彼の病室を出た。

 

廊下の長椅子に、ドーナツの箱が、まだ置いてあった。

 

誰も、手を付けていなかった。

 

萌太くんが、その箱の前に立っていた。火のついていない煙草を、くわえていた。

 

「先生。これ、何ですか」

 

「三段目のお医者さんの、お見舞い」

 

萌太くんは、煙草を、指に外した。

 

外して、箱を、少しだけ開けた。

 

中に、フレンチクルーラーが、六つ、並んでいた。

 

「……六つ」

 

萌太くんは、箱の中を見たまま、言った。

 

「みー姉と、いー兄と、崩子と、僕と、先生と。……五人ですよね」

 

「五人ね」

 

「じゃあ、もう一つは、誰のでしょう」

 

私は、箱の中の、六つ目を見た。

 

並んだ五つと、同じ形だった。同じ大きさで、同じ焼き色だった。

 

紫木(ゆかりき)さんの分、と、言いかけて、やめた。

 

絵本さんは、紫木さんを知らない。知らないはずだった。

 

知らないはずの人が、六つ、買ってきた。

 

萌太くんは、箱の蓋を、閉じた。

 

「僕、これ、捨てますね」

 

「……そうね」

 

「先生が、そう言ってくれると、助かります」

 

萌太くんは、箱を抱えて、廊下の向こうのゴミ箱の方へ歩いていった。

 

歩きながら、一度だけ、振り返った。

 

「先生。眼鏡の人には、気をつけてください。崩子が、昔、言ってました。眼鏡の奥の目は、外からは、半分しか見えないって」

 

萌太くんは、角を曲がった。

 

半分しか見えない目。

 

奇野さんの目も、絵本さんの目も、大教室の人の目も、私は、半分しか見ていなかった。残りの半分は、ガラスの向こうにあった。ガラスの向こうで、あの人たちが私の何を見ていたのかは、こちらからは、分からない。

 

分からないまま、廊下を歩いて、玄関を出た。

 

外は、まだ、晴れていた。

 

晴れた空の下で、大学の大教室で会った、地味な服の人のことを、思い出していた。

 

その人の眼鏡も、思い出した。

 

目立たない、細い縁の眼鏡を。

 

奇野さんは、銀縁だった。絵本さんは、飾りの付いた、おしゃれな縁だった。大教室の人は、何も付いていない、細い縁だった。

 

三つの眼鏡が、九月のうちに、私の前を通り過ぎた。

 

通り過ぎるたびに、ガラス越しに、私は見られた。

 

見られて、触れられなかった。

 

 

 

 

 

その夜、部屋で、玖渚(くなぎさ)さんから電話があった。

 

『すずちゃん、今日、大学に、変な人、来なかった?』

 

『来たわ。地味な服の、眼鏡の人』

 

『やっぱり』

 

玖渚さんの声が、少しだけ、低くなった。

 

『名簿、いーちゃんに見せてもらった?』

 

『見たわ。でも、どの名前の人かは、分からなかった』

 

『二段目。一里塚木の実。……空間製作者、って呼ばれてる人。場所を作るの。人が、どこに立って、どこを見て、どこを見ないか。それを、作る人』

 

『魔法みたいなものなの』

 

『魔法じゃないよ。もっと、地味なの』

 

玖渚さんは、少しだけ、考えるように黙った。

 

『人って、一つのところを見てる時、他のところが、全部、見えなくなるでしょ。すずちゃんも、本を読んでる時、隣で誰かが座っても、気づかないこと、あるでしょ』

 

『あるわ』

 

『それを、わざと作るの。ここを見て、って場所を、一つだけ作る。そうしたら、ほかの場所は、全部、空白になる。空白になった場所に、あの人は、何でも置ける。人でも、物でも、自分でも』

 

眼鏡の人が、立った途端に、どこにいるのか分からなくなったことを、思い出した。

 

出ていく学生たちの背中に、混じった。混じったのではなかった。私が、出口の方を見ていた。出口を見るように、どこかで、作られていたのかもしれなかった。

 

『それで、私の並びを、数えていたのね』

 

『数えてたんじゃないと思う。……読んでたの。すずちゃんが作った場所を』

 

場所を作る。

 

その人は、教室の中の並びを、数えていた。誰がどこに座っているか。誰と誰の間が、いくつ空いているか。

 

数えて、最後に、私の列で止まった。

 

『澄百合の、作戦部にいた人なの。昔。……途中で、辞めちゃったけど。ER3にも、古いお友達が何人かいるんだって。僕様ちゃんの家の近くにも、ちょっとだけ、縁があるみたい』

 

澄百合。

 

六月に、私が、制服を着て入った学校だった。

 

『すずちゃん、その人に、何か言われた?』

 

『よい空け方ですわね、と。……どなたが作りましたの、この並び、と』

 

電話の向こうで、玖渚さんが、黙った。

 

いつもより、長く、黙った。

 

『……作ったのは、すずちゃんだよね』

 

『作っていないわ。癖よ』

 

『癖は、作ったものだよ』

 

玖渚さんは、言った。

 

『最初は、誰かが、教えたの。教えられたことを、繰り返したの。繰り返したら、癖になったの。……その最初の誰かのこと、あの人、知りたがってるんだと思う』

 

最初の誰か。

 

一年生の秋の、日曜日の卓。私の隣の席。

 

あの人は、私の隣に、座っていた。

 

ほとんど何も言わずに、座っていた。

 

『すずちゃん』

 

玖渚さんの声が、少しだけ、柔らかくなった。

 

『その人のことは、誰にも、教えなくていいからね。……僕様ちゃんにも』

 

電話が、切れた。

 

私は、スマートフォンを、机の上に伏せた。

 

伏せたまま、窓の外を見た。

 

窓ガラスに、自分の顔が映っていた。

 

眼鏡は、かけていなかった。

 

かけていないのに、ガラス越しに、自分を見ていた。

 

よく見えた。

 

触れなかった。

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