眼鏡というのは、目を良くする道具だと思われている。
違う。眼鏡は、見る人と見られる物のあいだに、一枚、ガラスを置く道具だ。
ガラス越しに見た物は、よく見える。よく見えるかわりに、触れなくなる。
触れないまま、よく見える。眼鏡をかける人は、たぶん、その距離を選んでいる。
九月の第二週、大教室の窓際のいちばん後ろに、私は座っていた。
隣は空けた。その向こうも、空いていた。
彼は、まだ、病院にいた。浅野さんと同じ階の、別の病室に。自分の足で歩けるようになってからも、退院の日を、医者に引き延ばしてもらっていると、
講義が始まる前の、ざわついた数分間だった。
前の方の席は、いつもどおり、埋まっていった。真ん中の列も、ゆっくり埋まっていった。後ろの列は、いつもどおり、まばらだった。
私の列の、反対側の端に、女の人が一人、座った。
学生には見えなかった。二十代の半ばくらい。地味な服だった。紺とも灰色ともつかない、色の名前を思い出せない色のカーディガン。膝の下まであるスカート。髪は、後ろで一つに束ねていた。
眼鏡をかけていた。
細い縁の、目立たない眼鏡だった。
目立たない人だった。目立たない服を着て、目立たない眼鏡をかけて、目立たない席に座る。教室の後ろの列には、ときどき、そういう人が来る。もぐりの社会人。聴講生。時間を潰しに来た誰か。
誰も、その人を見ていなかった。
私も、見ていなかった。見ていなかったのに、なぜか、その人がどこに座ったのかだけは、分かっていた。
講義が始まった。
教授が、マイクの位置を直した。スクリーンに、最初の図が映った。
私は、ノートを開いた。
開いて、二行ほど書いたところで、手を止めた。
反対側の端の女の人が、前を見ていなかった。
教室の中を、見ていた。
前の方の席から、順番に。一列ずつ。誰がどこに座っているのか。誰と誰の間が、いくつ空いているのか。数えるような目だった。数えて、どこかに書き留めているような目だった。ノートは、開いていなかった。
その目が、最後に、私の列に来た。
反対側の端から、こちらの端へ。空いた席を、一つずつ。
私の隣の、空いた席で、止まった。
止まって、その向こうの、また空いた席を見た。
それから、私を見た。
眼鏡の奥の目が、少しだけ、細くなった。
笑ったのではなかった。測ったのだと思った。物の長さを測る時、人は、目を細める。
その人は、私と目が合ったまま、ほんの少しだけ、頭を下げた。
会釈だった。
丁寧な、教えられたとおりの、正確な角度の会釈だった。
私は、会釈を返さなかった。
返さなかったことに、その人は、少しも気分を害した様子がなかった。むしろ、少しだけ、満足したように見えた。
講義が終わるまで、その人は、一度も前を見なかった。
終わると、誰よりも先に、席を立った。
立って、出口へ向かう途中で、私の列の、私の隣の空いた席の横を、通った。
通りながら、空いた席の背もたれに、指先で、一度だけ、触れた。
「よい空け方ですわね」
小さな声だった。
私にしか聞こえない大きさの声。
「どなたが、作りましたの。……この並び」
私は、答えなかった。
その人は、答えを待たなかった。
待たずに、出口の方へ歩いていった。歩いていく背中は、すぐに、出ていく学生たちの背中に混じって、どれがその人なのか、分からなくなった。
分からなくなったのが、早すぎた。
あれほど、どこに座ったのかが分かっていた人が、立った途端に、どこにいるのか分からなくなった。
私は、空いた席の背もたれを見た。
指が触れたところに、何も、残っていなかった。
作りましたの、とその人は言った。
並びを。
席を空けるのは、私の癖だった。癖を、作ったとは、言わない。
言わないはずだった。
それなのに、その人の言い方は、私の癖を、誰かが設計した図面のように扱っていた。
人のいなくなった大教室に、私は、しばらく残っていた。
次の講義まで、この教室は、使われない。前の方の席から、誰かが置き忘れた傘が一本、通路に倒れていた。
私は、立ち上がった。
立ち上がって、隣の、空いた席の前に立った。
四月から、一度も座らなかった席だった。
座ってみようと思った。思ったのは、眼鏡の人が、作りましたの、と言ったからだった。作ったものなら、壊すこともできるはずだった。壊せるかどうか、確かめておきたかった。
背もたれに、手をかけた。
さっき、眼鏡の人の指が触れたところだった。
椅子を引いた。
引いた音が、誰もいない教室に、大きく響いた。
腰を下ろしかけて、止まった。
止まったのは、膝だった。膝が、勝手に、伸びたまま、曲がらなかった。
私は、引いた椅子を、元に戻した。
戻して、自分の席に、座り直した。
座り直してから、さっき座りかけた席を見た。
空いていた。
空いているのが、正しい形に見えた。正しい形に見える、ということが、少しだけ、怖かった。癖は、自分で作ったものだ。そう言い張るには、さっき止まった膝が、私の言うことを、少しも聞かなかった。
窓の外で、九月の雲が、ゆっくり流れていた。
流れていく雲の形を、私は、名前を付けずに、見ていた。
名前を付けると、その形に、決まってしまう気がした。
その日の午後、病院へ行った。
正面の玄関の前に、車寄せがある。タクシーが二台、並んで止まっていた。その脇を、私は歩いていた。
玄関の自動扉が開いて、彼が出てきた。
右腕のギプスは、まだ取れていなかった。左手に、コンビニの袋を提げていた。中に、ペットボトルのお茶が、二本、入っているのが見えた。
浅野さんの病室には、売店のお茶を持っていけない。浅野さんは、売店のお茶が嫌いだから。萌太くんが、そう言っていた。だから、彼は、病院の外のコンビニまで、わざわざ買いに行くのだと。
彼が、私に気づいた。
気づいて、片手を、少しだけ上げかけた。
上げかけたところで、車寄せに、車が一台、入ってきた。
白い、大きな車だった。
速かった。
車寄せに入ってくる速さではなかった。ブレーキの音がした。遅かった。タイヤが、地面を擦る音がした。
彼の、すぐ前で、車が止まった。
止まった、と思った。
止まりきっていなかった。
バンパーが、彼の膝に、触れた。
触れただけだった。押されて、彼が、一歩、よろめいた。コンビニの袋が、地面に落ちた。ペットボトルが一本、転がって、車の下に入った。
私は、走っていた。
いつ走り出したのか、分からなかった。
彼のそばに着いた時、運転席の扉が、勢いよく開いた。
降りてきたのは、女の人だった。
レインコートを着ていた。
透明な、ビニールのレインコートだった。外は、晴れていた。九月の、雲一つない空だった。
足元は、長靴だった。黄色い長靴。
レインコートの下に、白衣が見えた。
「ご、ごめんなさい」
女の人は、言った。
言いながら、もう、泣いていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。わたし、また、ぶつけちゃった。駐車、下手なの。いつも、下手なの。どうせ、わたしなんか、免許、返した方がいいって、みんな思ってるのよね。思ってるのよね、あなたも」
あなた、と言われたのは、彼だった。
彼は、膝を押さえて、地面に座り込んでいた。座り込んだまま、女の人を見上げていた。
「……思ってないです」
「嘘よ。思ってるわ。顔に書いてあるもの。この人、轢きかけた、って。轢きかけたわたしのこと、絶対、許さないって」
女の人は、彼の前に、しゃがみ込んだ。
しゃがみ込んで、彼の膝に、手を伸ばした。
伸ばした手が、ためらいなく、ズボンの裾をまくった。
膝が、少しだけ、赤くなっていた。擦り傷が一本。血は、ほとんど、出ていなかった。
女の人は、それを見て、また泣いた。
「血が出てる。わたしのせいで、血が出てる」
「ほとんど出てないです」
「ほとんど、ってことは、出てるのよ」
女の人は、レインコートのポケットから、小さな箱を出した。
救急箱だった。
ポケットに、救急箱が入っていた。
女の人は、泣きながら、消毒液の蓋を開けた。泣きながら、脱脂綿に、消毒液を含ませた。泣きながら、彼の膝の擦り傷を、拭いた。
手つきだけは、少しも、泣いていなかった。
迷いのない手だった。どこをどれだけ押さえれば、痛くないのかを、知っている手だった。
私は、彼の後ろに立っていた。
一つ、空けて。
女の人が、顔を上げた。
上げて、私を見た。
整った顔だった。泣いているのに、整っていた。泣き顔の下に、もう一つ、泣いていない顔が、置いてあるように見えた。
眼鏡をかけていた。
おしゃれな眼鏡だった。細いフレームに、小さな飾りが付いていた。
「あなたも、わたしのこと、責めてるわよね」
女の人は、言った。
「責めてるわよね。この人の連れなんでしょう。連れの人が轢かれかけたら、普通、責めるもの。わたし、責められるのには、慣れてるの。慣れてるけど、毎回、ちゃんと傷つくの」
「責めていません」
私は、言った。
「傷を、拭いてくださっているので」
女の人は、泣くのを、一瞬、止めた。
止めて、私を見た。
眼鏡の奥の目が、ほんの少しだけ、乾いた。
「……変な子」
それから、また、泣き始めた。
泣きながら、彼の膝に、絆創膏を貼った。大きすぎる絆創膏だった。擦り傷の三倍くらいの大きさがあった。
「はい。おしまい。……ばい菌が入ったら、わたしのせいだから、すぐ言ってね。すぐ来るから。どこにいても、来るから」
女の人は、立ち上がった。
レインコートが、晴れた空の下で、かさりと鳴った。
運転席に戻りかけて、女の人は、振り返った。
「あ、そうだ」
助手席の扉を開けて、中から、紙の箱を一つ、取り出した。
ドーナツの箱だった。
「お見舞い。……三階の、浅野さんに。熱がある時は、甘いものがいいの。フレンチクルーラー。わたしの、いちばん好きなの」
女の人は、箱を、彼の膝の上に、そっと置いた。
彼は、箱を見て、それから、女の人を見た。
「……三階の、浅野さん」
「そう」
「どうして、浅野さんを、知ってるんですか」
女の人は、少しだけ、首を傾げた。
傾げた拍子に、また、涙が一粒、落ちた。
「だって、わたし、お医者さんだもの。……患者さんのことは、知ってるわ。どんな毒で、どれくらいの速さで進むのかも」
彼の顔から、色が、引いた。
女の人は、それに気づいたようだった。気づいて、また、泣きそうな顔をした。
「あ、怖がらせた。ごめんなさい。わたし、いつも、言わなくていいことを言っちゃうの。でも、大丈夫よ。ゆっくりよ。ゆっくりしか進まないわ。ゆっくりしか進まないように、作ってあるもの」
作ってある。
彼が、この前、言ったのと、同じ言葉だった。
手紙に、そう書いてあった、と。
「あなたは」
彼が、言った。
「十三階段の」
女の人は、眼鏡の位置を、指で直した。
直しながら、涙を、袖で拭いた。
「
絵本さんは、運転席に乗り込んだ。
乗り込んで、窓を下ろした。
「狐さんから、伝言。……九月の最後の日、忘れないでね、って。それだけ。わたし、伝言を伝えるの、苦手なの。いつも、余計なことまで言っちゃう。今日も、言っちゃった。ごめんなさい」
車が、動き出した。
動き出して、車寄せの縁石に、前輪を、一度、ぶつけた。
ぶつけて、少しだけ止まって、それから、また、ふらふらと、出ていった。
晴れた空の下を、レインコートの人を乗せた白い車が、遠ざかっていった。
私は、地面に転がったペットボトルを、車の跡の中から、拾い上げた。
一本は、無事だった。
もう一本は、凹んでいた。凹んでいたけれど、蓋は、開いていなかった。
「……こっちを、浅野さんに」
私は、無事な方を、彼に渡した。
彼は、受け取った。
受け取ってから、私の手に残った、凹んだ方を見た。
「そっちは、ぼくが飲むよ」
「凹んでいるわ」
「同じ車に、ぶつけられた仲だから」
「あなたは、凹んでいないでしょう」
「膝が、少し」
彼は、大きすぎる絆創膏を、指さした。
私は、凹んだペットボトルを、彼の膝の上の、ドーナツの箱の上に載せた。轢かれかけたものが、一か所に、まとまった。
彼は、膝の上のドーナツの箱を、見下ろした。
「これ、どうしよう」
「捨てるの」
「捨てられないよ。……あの人、たぶん、本当に、浅野さんのために買ってきたんだ」
「毒を盛った側の人よ」
「毒を盛ったのは、
彼は、箱を、左の脇に抱えて、立ち上がろうとした。
立ち上がれなかった。
絆創膏の上から、膝が、少しだけ、震えていた。
私は、手を貸さなかった。
貸さずに、彼が自分で立ち上がるのを、一つ空けた場所から、待っていた。
三度目で、彼は、立った。
立って、膝の絆創膏を、見下ろした。
「大きいね、これ」
「傷の、三倍はあるわ」
「三倍、塞がってほしかったのかな」
彼は、少しだけ笑った。笑ってから、笑ったことを、後悔するような顔をした。
「怪我を治すのが好きな人に、怪我をさせられて、治された。……ぼくは、今、何をされたんだろう」
「轢かれかけて、手当てをされたのよ」
「そうだね。順番どおりに言うと、そうなる」
順番どおりに言うと。
順番を入れ替えると、手当てをするために、轢かれかけたことになる。
私は、それを、口に出さなかった。出さなかったけれど、彼も、同じ順番を、頭の中で入れ替えている顔をしていた。
車寄せに、次のタクシーが入ってきた。ゆっくりと、正しい速さで。
浅野さんの病室は、静かだった。
窓の外に、比叡山の稜線が見えた。
浅野さんは、眠っていた。
熱は、まだ、下がっていなかった。額に、濡れたタオルが載っていた。右手は、布団の上に出ていた。手のひらの真ん中から、手首の内側へ、赤い線が伸びていた。一週間前より、ほんの少しだけ、長くなっていた。
ほんの少しだけ。
ゆっくりしか進まないように、作ってある。
ベッドの横の椅子に、
近い方の椅子だった。
崩子さんは、私たちが入ってきても、顔を上げなかった。浅野さんの額のタオルを、裏返していた。
彼は、ペットボトルを、枕元の台に置いた。
ドーナツの箱は、置かなかった。廊下の長椅子に、置いてきた。
「堀北さん」
崩子さんが、タオルを裏返し終えてから、言った。
前を見たままだった。
「今日、誰か、来ましたか」
「玄関で、十三階段の人に会ったわ。三段目の、お医者さん」
崩子さんの手が、止まった。
止まって、少しだけ、こちらを向いた。
「何を、しに」
「お見舞い、だそうよ。フレンチクルーラーを、置いていったわ」
崩子さんは、長いあいだ、黙っていた。
それから、小さく、息を吐いた。
「……そういう人たちなんですね」
「そういう、とは」
「殺すために来る人より、ずっと、怖いです。殺すために来る人なら、殺されないようにすればいい。……お見舞いに来る人は、どうすればいいのか、分かりません」
どうすればいいのか、分からない。
私にも、分からなかった。
分からないまま、私は、遠い方の椅子に座った。崩子さんと、一つ空けて。
彼は、座らなかった。
窓際に立って、比叡山の稜線を見ていた。
浅野さんが、少しだけ、身じろぎした。
まぶたが、ゆっくりと、開いた。
焦点の合わない目が、天井を見て、それから、窓際の彼を見た。
「……いの字か」
かすれた声だった。
「はい」
「茶は」
彼は、枕元の台のペットボトルを、左手で取った。
蓋を開けようとして、ギプスの右手が、使えなかった。
崩子さんが、立ち上がりかけた。
その前に、彼は、ベッドの柵に腰を預けて、ペットボトルを、膝で挟んだ。挟んで、左手だけで、蓋を回した。
時間がかかった。
浅野さんは、それを、黙って見ていた。
蓋が開いた。
彼は、浅野さんの口元に、ペットボトルを持っていった。浅野さんは、一口だけ飲んで、顔をしかめた。
「……ぬるい」
「すみません」
「外の、コンビニのだな」
「はい」
浅野さんは、もう一口だけ、飲んだ。
飲んでから、目を閉じた。
「売店のよりは、ましだ」
それきり、また、眠ってしまった。
彼は、ペットボトルを持ったまま、しばらく、動かなかった。
動かないまま、浅野さんの寝顔を見ていた。
崩子さんが、椅子に、座り直した。
座り直して、また、タオルを裏返し始めた。
私は、何もしなかった。
何もしないまま、一つ空けた椅子から、三人を見ていた。
眠っている人と、茶を持って立っている人と、タオルを裏返す人。
三人とも、私の隣にはいなかった。
隣にいないから、三人とも、よく見えた。
浅野さんの病室を出ると、彼は、自分の病室へ戻った。
私も、ついていった。ついていくつもりはなかった。彼が、廊下で一度だけ振り返って、来る? とも、来ないで、とも言わなかったから、ついていった。
彼の病室は、浅野さんの病室より、少しだけ狭かった。窓から、比叡山は見えなかった。隣の建物の壁が見えた。
彼は、ベッドの縁に腰を下ろした。
私は、扉の脇の椅子に座った。ベッドから、一つ分、離れた椅子に。
彼は、枕の下から、白い封筒を出した。
奇野さんが置いていった封筒だった。封は、切られていた。
「見る?」
彼が、言った。
「宛名は、あなたよ」
「宛名は、ぼくだ。でも、ぼくは、見せたい。……見せたいと思ったのは、初めてだけど」
彼は、封筒から、便箋を一枚、出した。
出して、ベッドの上に、広げた。
私は、椅子から立たなかった。立たずに、首だけを伸ばして、便箋を見た。
字は、少なかった。
いちばん上に、日付と、場所。九月の最後の日。澄百合学園、跡地。
その下に、毒のことが、二行。ゆっくり進むこと。解く薬は、こちらにあること。
その下に、名前が、並んでいた。
一段目、と書いてあって、名前の場所は、空白だった。
二段目、
三段目、絵本園樹。
四段目、宴九段。
五段目、古槍頭巾。
六段目、
七段目、
八段目、
九段目と十段目が、二人並んで、
十一段目、ノイズ。
十二段目、奇野頼知。
十三段目、と書いてあって、そこも、空白だった。
いちばん下に、署名の代わりに、狐の顔が、一つ、描いてあった。線の少ない、子どもの落書きのような、狐の顔だった。
「階段の、名簿ね」
私は、言った。
「うん。……全部、教えてくれるんだ。誰が来るのか。何段目なのか。隠さない。隠さないで、来いって言う」
隠さない。
八月の朝、
「三段目」
私は、便箋の上の、三段目の名前を見た。
「三段目の人は、さっき、玄関で。……それと、大学の大教室にも、眼鏡の人が来たわ。どの名前の人かは、分からない」
彼が、こちらを向いた。
「大学に、来たの」
「私の列の、反対側の端に座っていたわ。講義のあいだ、ずっと、教室の中の並びを、数えていた」
彼は、しばらく、黙っていた。
それから、便箋の上の、八段目の名前を、指でなぞった。
闇口濡衣。
なぞった指が、そこで、止まった。
「崩子ちゃんには、まだ、見せてない」
「どうして」
「闇口、だから」
彼は、それ以上、言わなかった。
言わなかったけれど、私は、八月の終わりの夜の廊下を、思い出していた。逃げてきたんです、と崩子さんは言った。生まれた家から、萌太が、わたしを連れて。
その家の名前を、私は、まだ聞いていない。
聞いていないけれど、便箋の上の、その二文字の前で、彼の指が止まった理由は、少しだけ、分かる気がした。
彼は、便箋を、元の形に畳んだ。
封筒に戻して、枕の下に、しまった。
「十三段目は、空白なのね」
「空白だった。一段目も」
「欠けているの」
「分からない。欠けてるのか、隠してるのか。……隠さない人が、二つだけ、空けてる」
二つだけ、空けている。
一つ空けて、座る。私の座り方だった。
西東さんは、階段を、二つ空けて、並べていた。
空けた場所には、たいてい、誰かが座るはずの席がある。座るはずの誰かを、まだ、座らせていないだけで。
窓の外で、隣の建物の壁が、夕日で、橙色に変わり始めていた。
夕方、彼の病室を出た。
廊下の長椅子に、ドーナツの箱が、まだ置いてあった。
誰も、手を付けていなかった。
萌太くんが、その箱の前に立っていた。火のついていない煙草を、くわえていた。
「先生。これ、何ですか」
「三段目のお医者さんの、お見舞い」
萌太くんは、煙草を、指に外した。
外して、箱を、少しだけ開けた。
中に、フレンチクルーラーが、六つ、並んでいた。
「……六つ」
萌太くんは、箱の中を見たまま、言った。
「みー姉と、いー兄と、崩子と、僕と、先生と。……五人ですよね」
「五人ね」
「じゃあ、もう一つは、誰のでしょう」
私は、箱の中の、六つ目を見た。
並んだ五つと、同じ形だった。同じ大きさで、同じ焼き色だった。
絵本さんは、紫木さんを知らない。知らないはずだった。
知らないはずの人が、六つ、買ってきた。
萌太くんは、箱の蓋を、閉じた。
「僕、これ、捨てますね」
「……そうね」
「先生が、そう言ってくれると、助かります」
萌太くんは、箱を抱えて、廊下の向こうのゴミ箱の方へ歩いていった。
歩きながら、一度だけ、振り返った。
「先生。眼鏡の人には、気をつけてください。崩子が、昔、言ってました。眼鏡の奥の目は、外からは、半分しか見えないって」
萌太くんは、角を曲がった。
半分しか見えない目。
奇野さんの目も、絵本さんの目も、大教室の人の目も、私は、半分しか見ていなかった。残りの半分は、ガラスの向こうにあった。ガラスの向こうで、あの人たちが私の何を見ていたのかは、こちらからは、分からない。
分からないまま、廊下を歩いて、玄関を出た。
外は、まだ、晴れていた。
晴れた空の下で、大学の大教室で会った、地味な服の人のことを、思い出していた。
その人の眼鏡も、思い出した。
目立たない、細い縁の眼鏡を。
奇野さんは、銀縁だった。絵本さんは、飾りの付いた、おしゃれな縁だった。大教室の人は、何も付いていない、細い縁だった。
三つの眼鏡が、九月のうちに、私の前を通り過ぎた。
通り過ぎるたびに、ガラス越しに、私は見られた。
見られて、触れられなかった。
その夜、部屋で、
『すずちゃん、今日、大学に、変な人、来なかった?』
『来たわ。地味な服の、眼鏡の人』
『やっぱり』
玖渚さんの声が、少しだけ、低くなった。
『名簿、いーちゃんに見せてもらった?』
『見たわ。でも、どの名前の人かは、分からなかった』
『二段目。一里塚木の実。……空間製作者、って呼ばれてる人。場所を作るの。人が、どこに立って、どこを見て、どこを見ないか。それを、作る人』
『魔法みたいなものなの』
『魔法じゃないよ。もっと、地味なの』
玖渚さんは、少しだけ、考えるように黙った。
『人って、一つのところを見てる時、他のところが、全部、見えなくなるでしょ。すずちゃんも、本を読んでる時、隣で誰かが座っても、気づかないこと、あるでしょ』
『あるわ』
『それを、わざと作るの。ここを見て、って場所を、一つだけ作る。そうしたら、ほかの場所は、全部、空白になる。空白になった場所に、あの人は、何でも置ける。人でも、物でも、自分でも』
眼鏡の人が、立った途端に、どこにいるのか分からなくなったことを、思い出した。
出ていく学生たちの背中に、混じった。混じったのではなかった。私が、出口の方を見ていた。出口を見るように、どこかで、作られていたのかもしれなかった。
『それで、私の並びを、数えていたのね』
『数えてたんじゃないと思う。……読んでたの。すずちゃんが作った場所を』
場所を作る。
その人は、教室の中の並びを、数えていた。誰がどこに座っているか。誰と誰の間が、いくつ空いているか。
数えて、最後に、私の列で止まった。
『澄百合の、作戦部にいた人なの。昔。……途中で、辞めちゃったけど。ER3にも、古いお友達が何人かいるんだって。僕様ちゃんの家の近くにも、ちょっとだけ、縁があるみたい』
澄百合。
六月に、私が、制服を着て入った学校だった。
『すずちゃん、その人に、何か言われた?』
『よい空け方ですわね、と。……どなたが作りましたの、この並び、と』
電話の向こうで、玖渚さんが、黙った。
いつもより、長く、黙った。
『……作ったのは、すずちゃんだよね』
『作っていないわ。癖よ』
『癖は、作ったものだよ』
玖渚さんは、言った。
『最初は、誰かが、教えたの。教えられたことを、繰り返したの。繰り返したら、癖になったの。……その最初の誰かのこと、あの人、知りたがってるんだと思う』
最初の誰か。
一年生の秋の、日曜日の卓。私の隣の席。
あの人は、私の隣に、座っていた。
ほとんど何も言わずに、座っていた。
『すずちゃん』
玖渚さんの声が、少しだけ、柔らかくなった。
『その人のことは、誰にも、教えなくていいからね。……僕様ちゃんにも』
電話が、切れた。
私は、スマートフォンを、机の上に伏せた。
伏せたまま、窓の外を見た。
窓ガラスに、自分の顔が映っていた。
眼鏡は、かけていなかった。
かけていないのに、ガラス越しに、自分を見ていた。
よく見えた。
触れなかった。