ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第33話 写真(捨身)

会う理由のない人に会うのは、難しい。

 

理由がないから、約束ができない。約束ができないから、待ち合わせの場所がない。場所がないから、どこへ行けばいいのか、分からない。

 

それでも、人は、会う理由のない人に、会うことがある。

 

たいていは、偶然と呼ばれる。偶然と呼ぶのは、理由を探すのを、諦めた人だ。

 

 

 

 

 

九月の三週目の夕方、病院の玄関を出たところで、私は、一度だけ、引き返した。

 

浅野さんの病室の前で、足を止めた。

 

扉は、少しだけ開いていた。

 

中に、看護師さんはいなかった。点滴の袋が、ベッドの横で、ゆっくりと、一滴ずつ、落ちていた。

 

浅野さんは、眠っていた。

 

眠っている顔は、起きている時と、ほとんど変わらなかった。表情が、もともと、少ない人だった。違うのは、額に浮いた汗と、少しだけ速い息と、右の手のひらから腕へ伸びた、赤い線だけだった。

 

私は、病室に入った。

 

ベッドの横に、椅子が二つあった。

 

近い方の椅子に、竹刀が一本、立てかけてあった。崩子(ほうこ)さんが、骨董アパートから持ってきたのだろう。

 

私は、遠い方の椅子に、座った。

 

一つ、空けて。

 

座って、浅野さんの寝顔を見ていた。

 

保留にしたまま、と思った。

 

答えを、隣に置いたまま。

 

「……お前か」

 

声が、した。

 

浅野さんの目が、薄く、開いていた。

 

「起こしてしまいましたか」

 

「起きていた。……眠れんのだ。熱のせいで」

 

浅野さんは、天井を見たまま、言った。

 

「いの字は」

 

「自分の病室で、地図を見ています。九月の最後の日に、澄百合の跡へ行くそうです。崩子さんと、萌太(もえた)くんを連れて」

 

「どこへ」

 

「西東天(さいとうたかし)という人のところへ。解毒の薬を、もらいに行くのだと」

 

浅野さんは、黙った。

 

黙ったまま、天井を見ていた。

 

「……あの馬鹿」

 

小さな声だった。

 

責める声ではなかった。

 

「戦い方も知らんくせに」

 

「本人も、そう言っていました」

 

「言ったか」

 

「言いました。知らないけど、行く、と」

 

浅野さんの口元が、ほんの少しだけ、動いた。

 

笑ったのだと、遅れて分かった。

 

この人が笑うのを、初めて見た。

 

「お前は、行かんのか」

 

「頼まれませんでした」

 

「頼まれんと、行かんのか」

 

私は、答えなかった。

 

浅野さんは、首を、こちらへ少しだけ傾けた。

 

熱で潤んだ目が、私を見た。

 

「あの日、病室で、あの眼鏡の男が来た時」

 

「はい」

 

「お前は、騒がなかった。……私が手首を掴んでいる間も、男が逃げた時も。床の花と封筒に、手も触れずに、看護師を呼んだ」

 

「それしか、できなかったので」

 

「それしかできん時に、それをする人間は、少ない」

 

浅野さんは、天井に、目を戻した。

 

「騒ぐ方が、楽なのだ。騒いでいる間は、自分が何もできんことを、忘れられる。……お前は、忘れんかった」

 

鈴無(すずなし)さんにも、同じことを言われた。

 

浅野さんと鈴無さんは、親友なのだと、彼が言っていた。親友というのは、同じことを、別の言葉で言う人たちなのかもしれなかった。

 

「いの字が、逃げずにいられるのは」

 

浅野さんが、言った。

 

「隣に、誰かを座らせてきたからだと、私は思っていた。あの青い娘や、私や、崩子や。……だが、違うのかもしれん」

 

「違う、とは、どういうことですか」

 

「隣に座る人間は、いの字を支える。だが、支えられている人間は、支えがなくなると、倒れる。……一つ空けた場所に座る人間は、支えない。支えないが、倒れたら、見ている。見ている人間がいると、人は、倒れたままでいるのが、恥ずかしくなる」

 

浅野さんは、目を閉じた。

 

「お前は、いの字が倒れたら、見ている人間だ。……私にはできん。私は、手を出してしまう」

 

「手を出せる人の方が、ずっと強いです」

 

「強いのと、正しいのは、違う」

 

浅野さんは、目を閉じたまま、言った。

 

「行け」

 

「……どこへ、ですか」

 

「どこへでもいい。お前が、行くと決めた場所へ。……私の毒の心配なら、要らん。この程度で死ぬほど、私は、柔ではない」

 

浅野さんの息が、少しだけ、深くなった。

 

眠りに、落ちていくようだった。

 

落ちていく前に、もう一言だけ、言った。

 

「茶を、淹れてやれなくて、すまんな。……座る人間には、茶を出すものだ」

 

それきり、浅野さんは、眠った。

 

私は、しばらく、椅子に座ったまま、浅野さんの寝息を聞いていた。

 

それから、立ち上がった。

 

立ち上がって、近い方の椅子に立てかけてあった竹刀を、少しだけ、ベッドの方へ寄せた。

 

浅野さんの手が、届くところへ。

 

病院を出て、私は、歩いた。

 

どこへ行くのかは、決めていなかった。

 

決めていないのに、足は、北へ向かっていた。

 

八月の終わりに、彼は、行き先を決めずに、乗るものだけを決めた。決めていないから、出ていける、と言った。

 

私は、乗るものも、決めていなかった。

 

決めていないのに、歩いていた。

 

西東さんに、会わなければならない、と思っていた。

 

浅野さんの毒を解く薬は、奇野(きの)さんにしか作れない。奇野さんは、奇野さんの主が、解けと言った時だけ、解く。

 

奇野さんの主は、西東さんだ。

 

彼は、九月の最後の日に、崩子さんと萌太くんを連れて、西東さんのところへ向かう。戦い方を知らないまま。

 

私は、頼まれなかった。

 

保留だから。

 

保留の人は、頼まれなくても、来る時は来るし、来ない時は来ない。

 

崩子さんは、言った。保留の人は、会っても、何もしなくていい。何もしなくていい人間だけが、何でもできる。

 

何でもできる、と言われても、私には、何もできない。

 

できないけれど、会うことは、できるかもしれない。

 

会う理由のない人に、会いに行く。

 

その人は、別れ際に、こう言った。

 

縁が《合わなかったら》、また会おう。

 

 

 

 

 

鴨川の土手を、北へ歩いた。

 

日は、とうに暮れていた。

 

歩きながら、私は、自分が今から何をしようとしているのかを、言葉にしようとしていた。

 

頼みに行く。

 

そう言葉にした途端に、足が、少しだけ重くなった。

 

人に頼んだことが、私には、ほとんどなかった。高校の三年間、私は、誰にも頼らないことを、自分の値打ちだと思っていた。頼まずに済むように、全部を一人で数えていた。

 

自分のために、教えてほしいと頼んだのは、一度だけだ。

 

一年生の秋、体育祭の三日前の、非常階段で。

 

教えて、と私は言った。

 

言うまでに、何日もかかった。言ってから、言ったことを、何度も後悔した。後悔したのに、取り消さなかった。

 

あの人は、断った。

 

断ってから、まず座れ、と言った。三日で座れるようにはなる、と。

 

頼んだものは、もらえなかった。もらえなかった代わりに、別のものを渡された。渡されたものが何だったのかを、私は、京都に来てから、少しずつ知っている。

 

頼むというのは、たぶん、そういうことだ。

 

頼んだものが、そのまま返ってくることは、少ない。返ってこない代わりに、頼んだ人間の方が、少しだけ、変わる。

 

今夜、私は、二度目の頼みをしに行く。

 

一度目の相手は、断ってから、座らせてくれた。

 

二度目の相手は、どうするのだろう。

 

分からなかった。分からないまま、足の重さを、そのまま、北へ運んだ。

 

重い足で歩く道は、軽い足で歩く道より、少しだけ、短く感じた。一歩ごとに、自分の足音が、ちゃんと聞こえるからかもしれなかった。

 

途中で、一度だけ、立ち止まった。

 

橋の下だった。八月の夜、黒いマントの人が、柱にもたれていた橋。

 

今夜は、誰もいなかった。

 

誰もいない柱の陰を、私は、少しだけ見た。

 

出夢(いずむ)さんは、帳尻を合わせると言った。妹の帳尻を。合わせたあとで、零崎(ぜろざき)人識(ひとしき)は死んだ、と言った。守るための嘘だろう、と潤さんは言った。

 

守るための嘘をつく人が、どこかにいる。

 

それを、私は、少しだけ、心強く思った。思ってから、殺し屋の嘘を心強く思うのは、どうかしていると思った。

 

どうかしているのは、たぶん、この夏の私の方だった。

 

河川敷に、等間隔に、恋人たちが座っていた。九月の夜の鴨川にも、恋人たちは、ちゃんと、等間隔に座っていた。

 

一人で歩いているのは、私だけだった。等間隔の中で、私だけが、一人ずつだった。

 

出町柳の、川が二つに分かれるところまで来た。

 

三角の形をした、川の分かれ目。飛び石が、川の中に、並んでいた。亀の形をした石と、千鳥の形をした石。昼間なら子どもたちが跳んで渡る石が、外灯の光の中で、黒く濡れて光っていた。

 

 

 

 

 

分かれ目の、三角の先に、ベンチが一つあった。

 

ベンチに、誰かが座っていた。

 

紺の着流し。白い帯。雪駄。

 

顔に、狐の面。

 

 

 

 

 

私は、足を止めた。

 

止めて、それから、また、歩き出した。

 

ベンチの前まで、歩いた。

 

狐の面が、ゆっくりと、こちらを向いた。

 

向いたまま、動かなかった。

 

八月の朝、この人は、私を見て、鼻を鳴らした。ふん、と。

 

今夜は、鳴らさなかった。

 

面の切り抜きの奥が、私を見ていた。見ているのに、見ているものを、まだ信じていないように見えた。

 

「……誰に、聞いた」

 

低い声だった。

 

「誰にも」

 

「俺の敵か。俺の娘か。十三階段の誰かが、口を滑らせたか」

 

「誰にも聞いていないわ。歩いていたら、あなたがいたのよ」

 

西東さんは、黙った。

 

黙ったまま、長いあいだ、私を見ていた。

 

それから、ゆっくりと、面の顎に手を当てた。

 

「座れ」

 

私は、ベンチの、一つ空けた場所に座った。

 

西東さんは、それを見て、何も言わなかった。

 

言わないまま、川の分かれ目に、面を戻した。

 

「俺は、十年前に、死んだことになっている」

 

西東さんが、言った。

 

「死んだことになった人間は、因果から、追い出される。……縁というものが、俺には、もう、届かない。俺が誰かに会うのは、俺が会いに行く時だけだ。誰かが俺に会うのは、俺が呼んだ時か、物語が、そいつを俺の前に運んできた時だけだ」

 

物語が、運んでくる。

 

「俺の敵には、手紙を出した。浅野みいこの毒を、物語の入り口にして。……澄百合で薬を渡すと書いた。それで、九月の最後の日までの、あいつの物語は、決まった」

 

西東さんは、そこで、言葉を切った。

 

切ったまま、面を、私の方へ、少しだけ傾けた。

 

「決まったはずの九月に、お前が来た」

 

川の音が、していた。

 

「誰にも呼ばれず。物語にも運ばれず。縁も合わない。俺が、保留にした。……そういう者が、因果の外にいる俺のところへ、まっすぐ歩いてきた」

 

西東さんの声が、ほんの少しだけ、低くなった。

 

「偶然、と言うな。俺には、偶然すら届かない。偶然というのは、因果の中にいる人間同士が、たまたまぶつかることだ。俺は、因果の外にいる。ぶつかる相手が、いない」

 

「では、これは何なの」

 

「異常だ」

 

即答だった。

 

「十年、因果の外にいて、こんなことは、一度もなかった」

 

私は、川の分かれ目を見た。

 

黒く濡れた、亀の形の石。

 

「異常なのは、私ではないわ」

 

私は、言った。

 

「因果の外にいる人が、川の分かれ目のベンチに、一人で座っていることの方よ」

 

西東さんの面が、少しだけ、こちらを向いた。

 

「因果の外にいる人と、縁の外にいる人間が、同じ夜に、同じ場所を歩いていた。……外と外なら、ぶつかっても、おかしくないでしょう。内側にいる人たちには、見えないところで」

 

西東さんは、黙った。

 

黙って、それから、喉の奥で、低く笑った。

 

八月の朝の笑い方とは、違った。面白がっている笑い方ではなかった。面白いものを、初めて見つけた人の笑い方に、聞こえた。

 

「外と外、か。……ふん」

 

西東さんは、着流しの袖に、両手を入れた。

 

「そんなことは、どちらでも同じことだ。……と、言いたいところだが、言えんな。今夜は」

 

どちらでも同じこと。

 

この人の、決まり文句だった。

 

決まり文句を、この人は、今、言わなかった。

 

言えない、と言った。

 

 

 

 

 

「用件を、言え」

 

西東さんが、言った。

 

「俺の保留が、異常な道を通って、俺に会いに来た。用件くらいは、あるのだろう」

 

「浅野さんの毒を、解いてほしいの」

 

私は、言った。

 

「頼みに来たの」

 

西東さんは、また、黙った。

 

「……頼む、か」

 

面の奥で、何かが、もう一度、笑った気がした。

 

「俺の敵は、俺の前に来る時、戦いに来る。俺の娘は、殴りに来る。十三階段の連中は、従いに来る。……頼みに来た奴は、初めてだ。今夜は、初めてのことばかりだな」

 

「頼みは、聞いてもらえるの」

 

「断る」

 

即答だった。

 

「理由は、何かしら」

 

「お前が持っていく薬は、因果の外から来た薬になる」

 

西東さんは、言った。

 

「俺の敵の物語は、俺の敵が、澄百合で、俺の前に立って、薬を手に入れることで進む。……そこへ、因果の外から、保留の者の手で薬が届いたら、どうなる。浅野みいこは助かるだろう。だが、俺の敵の物語は、そこで、途中から、誰のものでもなくなる。誰のものでもない物語は、終わらない。終わらないまま、腐っていく」

 

「物語なんて、どうでもいいわ」

 

「お前には、どうでもいい。だから、保留なのだ」

 

西東さんは、面を、川に戻した。

 

「お前が、浅野みいこを助けたいのは、分かる。分かるが、お前の手から渡された薬を、俺の敵が、受け取れると思うか。……あいつは、自分で取りに行かなかった薬を、一生、飲み込めない。そういう男だ」

 

私は、何も言えなかった。

 

八月の病室で、彼は、知らない人に殴られた、と言い張った。私は、それを崩さなかった。

 

彼は、自分で決めたことを、人に崩されるのを、一番嫌がる。

 

私は、それを、知っていた。

 

知っていて、ここへ来た。

 

「……では、私は、何をしに来たのかしら」

 

自分に訊いたつもりだった。

 

西東さんが、答えた。

 

「俺に、異常を、見せに来た」

 

面が、また、こちらを向いた。

 

「お前は、たぶん、それだけのために、ここへ歩いてきた」

 

 

 

 

 

「一つ、見せてやろう」

 

西東さんが、袖から、片手を出した。

 

その手に、写真が一枚、あった。

 

表は、こちらを向いていなかった。裏が、外灯の光の中で、白く見えていた。

 

「零崎一賊に、今年の春、新しい娘が一人、入った。……カメラを持った娘だ。殺した相手を、最後に一枚、撮る。自分は、写らない」

 

息が、止まった。

 

止まったまま、戻らなかった。

 

「名付け親は、零崎双識(そうしき)。……六月の初めに、死んだがな」

 

双識。

 

五月の鴨川で、佐倉さんを迎えに来た、針金のような男。

 

死んだ。

 

「双識が死んで、その娘は、一賊の別の誰かに、守られている。……俺は、人識に会いたい。人識を探して、零崎を見ていたら、この一枚が、手元に来た」

 

西東さんは、写真を、私の方へ、差し出しはしなかった。

 

持っているところを、見せただけだった。

 

「見たいか」

 

私は、白い裏を見ていた。

 

見たかった。

 

見たら、佐倉さんが、今、どんな顔をしているのか、分かる。

 

見たら、その顔を、私は、二度と忘れられなくなる。

 

「……見ないわ」

 

西東さんの面が、少しだけ、傾いた。

 

「なぜ」

 

「あなたが見せる写真は、あなたが選んだ一枚だから」

 

私は、写真から、目を離した。

 

「佐倉さんの顔は、自分で見に行くわ。……あなたの手からではなく」

 

言ってから、名前を言ってしまったことに、気づいた。

 

佐倉さん、と。

 

西東さんは、写真を、袖の中へ戻した。

 

「……ふん。佐倉、か」

 

戻した手で、面の顎を、軽く撫でた。

 

「零崎愛織の、元の名か。お前は、それを、俺に渡した。渡すつもりは、なかったのにな」

 

私は、何も言えなかった。

 

「心配するな。保留の者から受け取ったものは、使えん」

 

西東さんは、言った。

 

「使えば、因果の外から来たものを、物語に混ぜることになる。……さっき、お前の薬を断ったのと、同じ理屈だ。俺は、自分の言ったことは、守る」

 

「自分の言ったことを守る人が、どうして、八月に、人を殺させたの」

 

言ってから、余計なことを言ったと思った。

 

西東さんは、怒らなかった。

 

「守ったからだ。木賀峰(きがみね)と朽葉(くちは)は、俺を待つと言った。待つと言ったことを、守り続けた。……俺は、待たれることを、守らなかった。だから、終わらせた。それだけのことだ」

 

それだけのこと。

 

八月の朝も、この人は、そう言った。

 

紫木(ゆかりき)さんと理澄(りずむ)さんの死も、それだけのことだと。

 

「それだけのことで、紫木さんは死んだわ」

 

私は、言った。

 

声が、少しだけ、震えていた。

 

西東さんは、しばらく、何も言わなかった。

 

それから、静かに言った。

 

「そうだ」

 

否定しなかった。

 

言い訳も、しなかった。

 

「お前は、それを、許さなくていい。保留の者に許されても、俺の物語は、変わらない」

 

 

 

 

 

西東さんは、立ち上がった。

 

雪駄が、土の上で、一度だけ鳴った。

 

「もう一つだけ、言っておく」

 

背を向けたまま、言った。

 

「お前の顔の後ろに、誰かが座っている」

 

六月に、潤さんも、同じことを言った。

 

「八月には、見えなかった。……今夜は、見える。お前が、因果の外の俺の前で、少しも怯えずに座っているからな。誰かの座り方を、なぞっている座り方だ」

 

西東さんは、少しだけ、振り返った。

 

「誰なのかは、分からん。分からんものは、分からんと言う。……ふん。俺にしては、珍しい夜だ」

 

誰かの座り方を、なぞっている座り方。

 

人類最強は名前を知っていて、人類最悪は、名前を知らない誰か。

 

私は、名前を言わないと決めた。

 

さっき、佐倉さんの名前を渡してしまった。二つ目は、渡さない。

 

渡さないと決めて、それから、別のことを決めた。

 

「一つだけ、訊いてもいいかしら」

 

西東さんの面が、こちらを向いた。

 

「因果の外にいる人に、訊きたいことがあるの」

 

「……ふん。頼みの次は、問いか。言ってみろ」

 

私は、川の分かれ目を見た。

 

二つの川が、一つになるところ。

 

「高校の同級生に、一人、どこから来たのか分からない人がいたわ」

 

名前は、言わなかった。

 

「麻雀の強い人だった。私より、二つ年下だった。同じ教室にいたのに、言葉が古かった。入学した日、学校の端末の触り方を知らなかった。……その人は、一度だけ、こう言ったの」

 

《前の晩まで、卓に座ってた。目が覚めたら、ここにいた》

 

西東さんは、動かなかった。

 

面の切り抜きの奥が、少しも、揺れなかった。

 

「入学して半年で、いなくなったわ。来た時と同じように、何も残さずに」

 

「……学校、と言ったな」

 

西東さんが、言った。

 

「どんな学校だ」

 

「政府が作った学校よ。三年間、外に出られない。外と連絡もできない。人を、点数で量る学校なのよ」

 

「人を量る場所は、たいてい、人を作る場所でもある」

 

西東さんの声が、少しだけ、低くなった。

 

「その学校に、作る側へ回った者はいるか」

 

息が、止まりかけた。

 

止めなかった。

 

「……いるわ。同じ年に、学校を辞めた人が。子どもを集めて作り直す場所で育って、今は、作る側にいる。電話で、そう言っていたわ」

 

綾小路くん、とは、言わなかった。

 

西東さんは、長いあいだ、黙っていた。

 

川の音だけが、していた。

 

それから、面の顎に、ゆっくりと手を当てた。

 

「……人を作る場所なら、俺も、一つ知っている」

 

低い声だった。

 

「海の向こうに、子どもを作り直す場所がある。俺の孫は、そこで作られた。……お前の同級生が育った場所とは、別の場所だ。別の場所なのに、同じ形をしている」

 

孫。

 

八月の朝、この人は、俺の娘、俺の敵、と言った。

 

孫、という言葉は、八月の朝にも、この人の口から聞いた。役の名前の一つとして。誰のことなのかを聞くのは、初めてだった。

 

「どこか別の卓から、移ってきた者。人を作る場所で育って、作る側に戻ったもう一人。……そいつらと同じ教室に、お前は、座っていた」

 

西東さんは、面を、少しだけ、私に近づけた。

 

「分かるか。お前は、一人で、ここへ歩いてきたのではない。お前の後ろには、そいつらがいる。そいつらの後ろには、そいつらの世界がある。……俺の知らない世界だ。俺の物語の、どこにも繋がっていない世界だ」

 

どこにも繋がっていない世界。

 

「因果というのはな、一本の川だ。誰も、その川から出られない。出られないから、俺は、外へ追い出された。……だが、お前の後ろにある世界は、この川とは別の川を流れている。別の川を流れているのに、どこかで、こちらの川に、一人だけ、人を流し込んだ。……別の卓から移ってきた、その者を」

 

西東さんは、川の分かれ目を、指さした。

 

二つに分かれた川が、一つになるところ。

 

「二本の川は、普通、交わらない。交わらないまま、並んで流れる。……並んで流れる川の、片方の岸から、お前は、歩いてきた」

 

西東さんの声が、ほんの少しだけ、楽しそうになった。

 

八月の朝にも、今夜のはじめにも、なかった響きだった。

 

「だから、縁が合わなかった。だから、因果の外にいる俺に、辿り着けた。……お前は、因果の外から来たのではない。因果の、隣から来た」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

隣。

 

一つ空けた席。

 

「保留は、終わりだ」

 

西東さんは、言った。

 

「敵でも、娘でも、孫でもない。……お前は、俺の並行世界(パラレルワールド)だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

並行世界。

 

並んで、行く、世界。

 

決して交わらないまま、隣を、同じ速さで流れていく川。

 

私は、何も言えなかった。

 

言えないまま、川の分かれ目を見ていた。

 

あの人は、前の晩まで卓に座っていた、と言った。目が覚めたら、ここにいた、と。

 

ここ、というのは、どこだったのだろう。

 

あの学校のことだと、私は、ずっと思っていた。

 

違ったのかもしれない。

 

あの人にとっての「ここ」は、川の、こちら側のことだったのかもしれない。

 

「お前の同級生が、どこから来て、どこへ行ったのか」

 

西東さんは、言った。

 

「俺には、分からん。分からんが、一つだけ分かる。……その者は、まだ、どこかの卓に座っている。川を跨げる者は、一度跨いだら、また跨ぐ」

 

《フフ、卓が一つ、空いたんだとさ》

 

あの朝、封筒を読んで、あの人は、そう言った。

 

「……それは、予言なの」

 

「予言は、占い師の仕事だ。俺は、物語を見ているだけだ」

 

西東さんは、背を向けた。

 

「眼鏡をかけていれば、十三階段に入れてやってもいいところだがな」

 

冗談だった。

 

「並行世界の者は、階段には乗らない。……乗らないまま、隣の階段を、勝手に上まで歩いてくる」

 

冗談なのに、少しも、笑えなかった。

 

笑えなかったけれど、面の奥で、この人は、たぶん、笑っていた。

 

「縁が《合わなかったら》、また会おう」

 

西東さんは、そう言って、川の分かれ目の、飛び石の方へ歩いていった。

 

雪駄のまま、黒く濡れた亀の石を跳び、千鳥の石を跳んだ。

 

跳ぶたびに、着流しの裾が、外灯の光の中で、一度だけ翻った。

 

因果の外にいる人も、飛び石は、順番どおりに跳んだ。

 

向こう岸に渡ったところで、西東さんの姿は、もう、見えなくなっていた。

 

 

 

 

 

私は、ベンチに、座ったままだった。

 

一つ空けた場所に、誰もいなかった。

 

川の音が、していた。

 

二つに分かれた川が、一つになって、南へ流れていく。

 

佐倉さんの顔を、自分で見に行く。

 

そう言った。

 

言ってしまった。

 

言ってしまったことは、もう、取り消せない。

 

私は、ポケットからスマートフォンを出した。

 

ノートは、部屋に置いてきた。いちばん後ろの紙も。

 

番号は、指が覚えている。

 

押さなかった。

 

押さずに、別の画面を開いた。

 

連絡先の一覧。

 

その中に、坂柳さん、という名前があった。

 

六月に、勝手にかかってきた電話。お詫びの一つ目、と言った声。

 

番号を、押した。

 

呼び出し音が、二回鳴った。

 

『……あら』

 

坂柳さんの声だった。

 

『堀北さんから、おかけになるのは、初めてですね』

 

『そうね』

 

『何か、ございましたか』

 

私は、川の分かれ目を見た。

 

亀の石の上には、もう、誰もいなかった。

 

『お詫びの、二つ目を、お願いしたいの』

 

電話の向こうで、坂柳さんが、少しだけ、黙った。

 

『……お聞きします』

 

『十三階段、という言葉を、調べてほしいの。それから、零崎一賊、という名前も、お願いしたいの』

 

『理由を、お伺いしても』

 

『理由は、ないわ』

 

私は、言った。

 

『理由がないから、頼んでいるの』

 

坂柳さんは、また、黙った。

 

それから、電話の向こうで、小さく、笑う気配がした。

 

『承りました。……お詫びの二つ目、ですね』

 

『ええ』

 

『堀北さん』

 

坂柳さんの声が、少しだけ、変わった。

 

『お詫びは、三つまでと、私は勝手に決めております。……三つ目は、堀北さんが、本当に、自分では抜け出せない場所に座った時のために、取っておきますね』

 

自分では抜け出せない場所。

 

六月に、綾小路くんが、そう言ったと、坂柳さんが言った。

 

『……ありがとう』

 

『お礼は、三つ目が済んでからで、結構です』

 

電話が、切れた。

 

切れたあとで、私は、ベンチから立ち上がった。

 

夜は、深くなっていた。

 

川の分かれ目の向こうに、京都の灯りが、等間隔に並んでいた。

 

 

 

歩きながら、一度だけ、振り返った。

 

川の分かれ目の、三角の先のベンチが、外灯の下に、小さく見えていた。

 

誰も座っていないベンチだった。

 

さっきまで、あそこに、二人が座っていた。一つ空けて。因果の外の人と、因果の隣から来た人間が。

 

並行世界、と西東さんは言った。

 

並んで、行く。交わらない。交わらないまま、隣を流れる。

 

私は、そういう座り方を、四月から、ずっとしてきたのかもしれなかった。大教室で、一つ空けて。骨董アパートの廊下で、一つ空けて。病院の長椅子で、一つ空けて。

 

交わらないまま、隣にいる。

 

それを、西東さんは、世界の名前で呼んだ。

 

私は、前を向いた。等間隔の灯りを見ながら、私は、南へ歩き出した。

 

二つに分かれた川が、一つになって、流れていく方へ。

 

帰る部屋は、この川の、こちら側にある。

 

こちら側、と思ってから、少しだけ、可笑しくなった。並行世界の岸から来た人間が、こちら側、と言っている。可笑しいのに、笑わなかった。笑う相手が、隣にいなかった。隣は、空けたままだった。

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