会う理由のない人に会うのは、難しい。
理由がないから、約束ができない。約束ができないから、待ち合わせの場所がない。場所がないから、どこへ行けばいいのか、分からない。
それでも、人は、会う理由のない人に、会うことがある。
たいていは、偶然と呼ばれる。偶然と呼ぶのは、理由を探すのを、諦めた人だ。
九月の三週目の夕方、病院の玄関を出たところで、私は、一度だけ、引き返した。
浅野さんの病室の前で、足を止めた。
扉は、少しだけ開いていた。
中に、看護師さんはいなかった。点滴の袋が、ベッドの横で、ゆっくりと、一滴ずつ、落ちていた。
浅野さんは、眠っていた。
眠っている顔は、起きている時と、ほとんど変わらなかった。表情が、もともと、少ない人だった。違うのは、額に浮いた汗と、少しだけ速い息と、右の手のひらから腕へ伸びた、赤い線だけだった。
私は、病室に入った。
ベッドの横に、椅子が二つあった。
近い方の椅子に、竹刀が一本、立てかけてあった。
私は、遠い方の椅子に、座った。
一つ、空けて。
座って、浅野さんの寝顔を見ていた。
保留にしたまま、と思った。
答えを、隣に置いたまま。
「……お前か」
声が、した。
浅野さんの目が、薄く、開いていた。
「起こしてしまいましたか」
「起きていた。……眠れんのだ。熱のせいで」
浅野さんは、天井を見たまま、言った。
「いの字は」
「自分の病室で、地図を見ています。九月の最後の日に、澄百合の跡へ行くそうです。崩子さんと、
「どこへ」
「
浅野さんは、黙った。
黙ったまま、天井を見ていた。
「……あの馬鹿」
小さな声だった。
責める声ではなかった。
「戦い方も知らんくせに」
「本人も、そう言っていました」
「言ったか」
「言いました。知らないけど、行く、と」
浅野さんの口元が、ほんの少しだけ、動いた。
笑ったのだと、遅れて分かった。
この人が笑うのを、初めて見た。
「お前は、行かんのか」
「頼まれませんでした」
「頼まれんと、行かんのか」
私は、答えなかった。
浅野さんは、首を、こちらへ少しだけ傾けた。
熱で潤んだ目が、私を見た。
「あの日、病室で、あの眼鏡の男が来た時」
「はい」
「お前は、騒がなかった。……私が手首を掴んでいる間も、男が逃げた時も。床の花と封筒に、手も触れずに、看護師を呼んだ」
「それしか、できなかったので」
「それしかできん時に、それをする人間は、少ない」
浅野さんは、天井に、目を戻した。
「騒ぐ方が、楽なのだ。騒いでいる間は、自分が何もできんことを、忘れられる。……お前は、忘れんかった」
浅野さんと鈴無さんは、親友なのだと、彼が言っていた。親友というのは、同じことを、別の言葉で言う人たちなのかもしれなかった。
「いの字が、逃げずにいられるのは」
浅野さんが、言った。
「隣に、誰かを座らせてきたからだと、私は思っていた。あの青い娘や、私や、崩子や。……だが、違うのかもしれん」
「違う、とは、どういうことですか」
「隣に座る人間は、いの字を支える。だが、支えられている人間は、支えがなくなると、倒れる。……一つ空けた場所に座る人間は、支えない。支えないが、倒れたら、見ている。見ている人間がいると、人は、倒れたままでいるのが、恥ずかしくなる」
浅野さんは、目を閉じた。
「お前は、いの字が倒れたら、見ている人間だ。……私にはできん。私は、手を出してしまう」
「手を出せる人の方が、ずっと強いです」
「強いのと、正しいのは、違う」
浅野さんは、目を閉じたまま、言った。
「行け」
「……どこへ、ですか」
「どこへでもいい。お前が、行くと決めた場所へ。……私の毒の心配なら、要らん。この程度で死ぬほど、私は、柔ではない」
浅野さんの息が、少しだけ、深くなった。
眠りに、落ちていくようだった。
落ちていく前に、もう一言だけ、言った。
「茶を、淹れてやれなくて、すまんな。……座る人間には、茶を出すものだ」
それきり、浅野さんは、眠った。
私は、しばらく、椅子に座ったまま、浅野さんの寝息を聞いていた。
それから、立ち上がった。
立ち上がって、近い方の椅子に立てかけてあった竹刀を、少しだけ、ベッドの方へ寄せた。
浅野さんの手が、届くところへ。
病院を出て、私は、歩いた。
どこへ行くのかは、決めていなかった。
決めていないのに、足は、北へ向かっていた。
八月の終わりに、彼は、行き先を決めずに、乗るものだけを決めた。決めていないから、出ていける、と言った。
私は、乗るものも、決めていなかった。
決めていないのに、歩いていた。
西東さんに、会わなければならない、と思っていた。
浅野さんの毒を解く薬は、
奇野さんの主は、西東さんだ。
彼は、九月の最後の日に、崩子さんと萌太くんを連れて、西東さんのところへ向かう。戦い方を知らないまま。
私は、頼まれなかった。
保留だから。
保留の人は、頼まれなくても、来る時は来るし、来ない時は来ない。
崩子さんは、言った。保留の人は、会っても、何もしなくていい。何もしなくていい人間だけが、何でもできる。
何でもできる、と言われても、私には、何もできない。
できないけれど、会うことは、できるかもしれない。
会う理由のない人に、会いに行く。
その人は、別れ際に、こう言った。
縁が《合わなかったら》、また会おう。
鴨川の土手を、北へ歩いた。
日は、とうに暮れていた。
歩きながら、私は、自分が今から何をしようとしているのかを、言葉にしようとしていた。
頼みに行く。
そう言葉にした途端に、足が、少しだけ重くなった。
人に頼んだことが、私には、ほとんどなかった。高校の三年間、私は、誰にも頼らないことを、自分の値打ちだと思っていた。頼まずに済むように、全部を一人で数えていた。
自分のために、教えてほしいと頼んだのは、一度だけだ。
一年生の秋、体育祭の三日前の、非常階段で。
教えて、と私は言った。
言うまでに、何日もかかった。言ってから、言ったことを、何度も後悔した。後悔したのに、取り消さなかった。
あの人は、断った。
断ってから、まず座れ、と言った。三日で座れるようにはなる、と。
頼んだものは、もらえなかった。もらえなかった代わりに、別のものを渡された。渡されたものが何だったのかを、私は、京都に来てから、少しずつ知っている。
頼むというのは、たぶん、そういうことだ。
頼んだものが、そのまま返ってくることは、少ない。返ってこない代わりに、頼んだ人間の方が、少しだけ、変わる。
今夜、私は、二度目の頼みをしに行く。
一度目の相手は、断ってから、座らせてくれた。
二度目の相手は、どうするのだろう。
分からなかった。分からないまま、足の重さを、そのまま、北へ運んだ。
重い足で歩く道は、軽い足で歩く道より、少しだけ、短く感じた。一歩ごとに、自分の足音が、ちゃんと聞こえるからかもしれなかった。
途中で、一度だけ、立ち止まった。
橋の下だった。八月の夜、黒いマントの人が、柱にもたれていた橋。
今夜は、誰もいなかった。
誰もいない柱の陰を、私は、少しだけ見た。
守るための嘘をつく人が、どこかにいる。
それを、私は、少しだけ、心強く思った。思ってから、殺し屋の嘘を心強く思うのは、どうかしていると思った。
どうかしているのは、たぶん、この夏の私の方だった。
河川敷に、等間隔に、恋人たちが座っていた。九月の夜の鴨川にも、恋人たちは、ちゃんと、等間隔に座っていた。
一人で歩いているのは、私だけだった。等間隔の中で、私だけが、一人ずつだった。
出町柳の、川が二つに分かれるところまで来た。
三角の形をした、川の分かれ目。飛び石が、川の中に、並んでいた。亀の形をした石と、千鳥の形をした石。昼間なら子どもたちが跳んで渡る石が、外灯の光の中で、黒く濡れて光っていた。
分かれ目の、三角の先に、ベンチが一つあった。
ベンチに、誰かが座っていた。
紺の着流し。白い帯。雪駄。
顔に、狐の面。
私は、足を止めた。
止めて、それから、また、歩き出した。
ベンチの前まで、歩いた。
狐の面が、ゆっくりと、こちらを向いた。
向いたまま、動かなかった。
八月の朝、この人は、私を見て、鼻を鳴らした。ふん、と。
今夜は、鳴らさなかった。
面の切り抜きの奥が、私を見ていた。見ているのに、見ているものを、まだ信じていないように見えた。
「……誰に、聞いた」
低い声だった。
「誰にも」
「俺の敵か。俺の娘か。十三階段の誰かが、口を滑らせたか」
「誰にも聞いていないわ。歩いていたら、あなたがいたのよ」
西東さんは、黙った。
黙ったまま、長いあいだ、私を見ていた。
それから、ゆっくりと、面の顎に手を当てた。
「座れ」
私は、ベンチの、一つ空けた場所に座った。
西東さんは、それを見て、何も言わなかった。
言わないまま、川の分かれ目に、面を戻した。
「俺は、十年前に、死んだことになっている」
西東さんが、言った。
「死んだことになった人間は、因果から、追い出される。……縁というものが、俺には、もう、届かない。俺が誰かに会うのは、俺が会いに行く時だけだ。誰かが俺に会うのは、俺が呼んだ時か、物語が、そいつを俺の前に運んできた時だけだ」
物語が、運んでくる。
「俺の敵には、手紙を出した。浅野みいこの毒を、物語の入り口にして。……澄百合で薬を渡すと書いた。それで、九月の最後の日までの、あいつの物語は、決まった」
西東さんは、そこで、言葉を切った。
切ったまま、面を、私の方へ、少しだけ傾けた。
「決まったはずの九月に、お前が来た」
川の音が、していた。
「誰にも呼ばれず。物語にも運ばれず。縁も合わない。俺が、保留にした。……そういう者が、因果の外にいる俺のところへ、まっすぐ歩いてきた」
西東さんの声が、ほんの少しだけ、低くなった。
「偶然、と言うな。俺には、偶然すら届かない。偶然というのは、因果の中にいる人間同士が、たまたまぶつかることだ。俺は、因果の外にいる。ぶつかる相手が、いない」
「では、これは何なの」
「異常だ」
即答だった。
「十年、因果の外にいて、こんなことは、一度もなかった」
私は、川の分かれ目を見た。
黒く濡れた、亀の形の石。
「異常なのは、私ではないわ」
私は、言った。
「因果の外にいる人が、川の分かれ目のベンチに、一人で座っていることの方よ」
西東さんの面が、少しだけ、こちらを向いた。
「因果の外にいる人と、縁の外にいる人間が、同じ夜に、同じ場所を歩いていた。……外と外なら、ぶつかっても、おかしくないでしょう。内側にいる人たちには、見えないところで」
西東さんは、黙った。
黙って、それから、喉の奥で、低く笑った。
八月の朝の笑い方とは、違った。面白がっている笑い方ではなかった。面白いものを、初めて見つけた人の笑い方に、聞こえた。
「外と外、か。……ふん」
西東さんは、着流しの袖に、両手を入れた。
「そんなことは、どちらでも同じことだ。……と、言いたいところだが、言えんな。今夜は」
どちらでも同じこと。
この人の、決まり文句だった。
決まり文句を、この人は、今、言わなかった。
言えない、と言った。
「用件を、言え」
西東さんが、言った。
「俺の保留が、異常な道を通って、俺に会いに来た。用件くらいは、あるのだろう」
「浅野さんの毒を、解いてほしいの」
私は、言った。
「頼みに来たの」
西東さんは、また、黙った。
「……頼む、か」
面の奥で、何かが、もう一度、笑った気がした。
「俺の敵は、俺の前に来る時、戦いに来る。俺の娘は、殴りに来る。十三階段の連中は、従いに来る。……頼みに来た奴は、初めてだ。今夜は、初めてのことばかりだな」
「頼みは、聞いてもらえるの」
「断る」
即答だった。
「理由は、何かしら」
「お前が持っていく薬は、因果の外から来た薬になる」
西東さんは、言った。
「俺の敵の物語は、俺の敵が、澄百合で、俺の前に立って、薬を手に入れることで進む。……そこへ、因果の外から、保留の者の手で薬が届いたら、どうなる。浅野みいこは助かるだろう。だが、俺の敵の物語は、そこで、途中から、誰のものでもなくなる。誰のものでもない物語は、終わらない。終わらないまま、腐っていく」
「物語なんて、どうでもいいわ」
「お前には、どうでもいい。だから、保留なのだ」
西東さんは、面を、川に戻した。
「お前が、浅野みいこを助けたいのは、分かる。分かるが、お前の手から渡された薬を、俺の敵が、受け取れると思うか。……あいつは、自分で取りに行かなかった薬を、一生、飲み込めない。そういう男だ」
私は、何も言えなかった。
八月の病室で、彼は、知らない人に殴られた、と言い張った。私は、それを崩さなかった。
彼は、自分で決めたことを、人に崩されるのを、一番嫌がる。
私は、それを、知っていた。
知っていて、ここへ来た。
「……では、私は、何をしに来たのかしら」
自分に訊いたつもりだった。
西東さんが、答えた。
「俺に、異常を、見せに来た」
面が、また、こちらを向いた。
「お前は、たぶん、それだけのために、ここへ歩いてきた」
「一つ、見せてやろう」
西東さんが、袖から、片手を出した。
その手に、写真が一枚、あった。
表は、こちらを向いていなかった。裏が、外灯の光の中で、白く見えていた。
「零崎一賊に、今年の春、新しい娘が一人、入った。……カメラを持った娘だ。殺した相手を、最後に一枚、撮る。自分は、写らない」
息が、止まった。
止まったまま、戻らなかった。
「名付け親は、零崎
双識。
五月の鴨川で、佐倉さんを迎えに来た、針金のような男。
死んだ。
「双識が死んで、その娘は、一賊の別の誰かに、守られている。……俺は、人識に会いたい。人識を探して、零崎を見ていたら、この一枚が、手元に来た」
西東さんは、写真を、私の方へ、差し出しはしなかった。
持っているところを、見せただけだった。
「見たいか」
私は、白い裏を見ていた。
見たかった。
見たら、佐倉さんが、今、どんな顔をしているのか、分かる。
見たら、その顔を、私は、二度と忘れられなくなる。
「……見ないわ」
西東さんの面が、少しだけ、傾いた。
「なぜ」
「あなたが見せる写真は、あなたが選んだ一枚だから」
私は、写真から、目を離した。
「佐倉さんの顔は、自分で見に行くわ。……あなたの手からではなく」
言ってから、名前を言ってしまったことに、気づいた。
佐倉さん、と。
西東さんは、写真を、袖の中へ戻した。
「……ふん。佐倉、か」
戻した手で、面の顎を、軽く撫でた。
「零崎愛織の、元の名か。お前は、それを、俺に渡した。渡すつもりは、なかったのにな」
私は、何も言えなかった。
「心配するな。保留の者から受け取ったものは、使えん」
西東さんは、言った。
「使えば、因果の外から来たものを、物語に混ぜることになる。……さっき、お前の薬を断ったのと、同じ理屈だ。俺は、自分の言ったことは、守る」
「自分の言ったことを守る人が、どうして、八月に、人を殺させたの」
言ってから、余計なことを言ったと思った。
西東さんは、怒らなかった。
「守ったからだ。
それだけのこと。
八月の朝も、この人は、そう言った。
「それだけのことで、紫木さんは死んだわ」
私は、言った。
声が、少しだけ、震えていた。
西東さんは、しばらく、何も言わなかった。
それから、静かに言った。
「そうだ」
否定しなかった。
言い訳も、しなかった。
「お前は、それを、許さなくていい。保留の者に許されても、俺の物語は、変わらない」
西東さんは、立ち上がった。
雪駄が、土の上で、一度だけ鳴った。
「もう一つだけ、言っておく」
背を向けたまま、言った。
「お前の顔の後ろに、誰かが座っている」
六月に、潤さんも、同じことを言った。
「八月には、見えなかった。……今夜は、見える。お前が、因果の外の俺の前で、少しも怯えずに座っているからな。誰かの座り方を、なぞっている座り方だ」
西東さんは、少しだけ、振り返った。
「誰なのかは、分からん。分からんものは、分からんと言う。……ふん。俺にしては、珍しい夜だ」
誰かの座り方を、なぞっている座り方。
人類最強は名前を知っていて、人類最悪は、名前を知らない誰か。
私は、名前を言わないと決めた。
さっき、佐倉さんの名前を渡してしまった。二つ目は、渡さない。
渡さないと決めて、それから、別のことを決めた。
「一つだけ、訊いてもいいかしら」
西東さんの面が、こちらを向いた。
「因果の外にいる人に、訊きたいことがあるの」
「……ふん。頼みの次は、問いか。言ってみろ」
私は、川の分かれ目を見た。
二つの川が、一つになるところ。
「高校の同級生に、一人、どこから来たのか分からない人がいたわ」
名前は、言わなかった。
「麻雀の強い人だった。私より、二つ年下だった。同じ教室にいたのに、言葉が古かった。入学した日、学校の端末の触り方を知らなかった。……その人は、一度だけ、こう言ったの」
《前の晩まで、卓に座ってた。目が覚めたら、ここにいた》
西東さんは、動かなかった。
面の切り抜きの奥が、少しも、揺れなかった。
「入学して半年で、いなくなったわ。来た時と同じように、何も残さずに」
「……学校、と言ったな」
西東さんが、言った。
「どんな学校だ」
「政府が作った学校よ。三年間、外に出られない。外と連絡もできない。人を、点数で量る学校なのよ」
「人を量る場所は、たいてい、人を作る場所でもある」
西東さんの声が、少しだけ、低くなった。
「その学校に、作る側へ回った者はいるか」
息が、止まりかけた。
止めなかった。
「……いるわ。同じ年に、学校を辞めた人が。子どもを集めて作り直す場所で育って、今は、作る側にいる。電話で、そう言っていたわ」
綾小路くん、とは、言わなかった。
西東さんは、長いあいだ、黙っていた。
川の音だけが、していた。
それから、面の顎に、ゆっくりと手を当てた。
「……人を作る場所なら、俺も、一つ知っている」
低い声だった。
「海の向こうに、子どもを作り直す場所がある。俺の孫は、そこで作られた。……お前の同級生が育った場所とは、別の場所だ。別の場所なのに、同じ形をしている」
孫。
八月の朝、この人は、俺の娘、俺の敵、と言った。
孫、という言葉は、八月の朝にも、この人の口から聞いた。役の名前の一つとして。誰のことなのかを聞くのは、初めてだった。
「どこか別の卓から、移ってきた者。人を作る場所で育って、作る側に戻ったもう一人。……そいつらと同じ教室に、お前は、座っていた」
西東さんは、面を、少しだけ、私に近づけた。
「分かるか。お前は、一人で、ここへ歩いてきたのではない。お前の後ろには、そいつらがいる。そいつらの後ろには、そいつらの世界がある。……俺の知らない世界だ。俺の物語の、どこにも繋がっていない世界だ」
どこにも繋がっていない世界。
「因果というのはな、一本の川だ。誰も、その川から出られない。出られないから、俺は、外へ追い出された。……だが、お前の後ろにある世界は、この川とは別の川を流れている。別の川を流れているのに、どこかで、こちらの川に、一人だけ、人を流し込んだ。……別の卓から移ってきた、その者を」
西東さんは、川の分かれ目を、指さした。
二つに分かれた川が、一つになるところ。
「二本の川は、普通、交わらない。交わらないまま、並んで流れる。……並んで流れる川の、片方の岸から、お前は、歩いてきた」
西東さんの声が、ほんの少しだけ、楽しそうになった。
八月の朝にも、今夜のはじめにも、なかった響きだった。
「だから、縁が合わなかった。だから、因果の外にいる俺に、辿り着けた。……お前は、因果の外から来たのではない。因果の、隣から来た」
隣。
一つ空けた席。
「保留は、終わりだ」
西東さんは、言った。
「敵でも、娘でも、孫でもない。……お前は、俺の
並行世界。
並んで、行く、世界。
決して交わらないまま、隣を、同じ速さで流れていく川。
私は、何も言えなかった。
言えないまま、川の分かれ目を見ていた。
あの人は、前の晩まで卓に座っていた、と言った。目が覚めたら、ここにいた、と。
ここ、というのは、どこだったのだろう。
あの学校のことだと、私は、ずっと思っていた。
違ったのかもしれない。
あの人にとっての「ここ」は、川の、こちら側のことだったのかもしれない。
「お前の同級生が、どこから来て、どこへ行ったのか」
西東さんは、言った。
「俺には、分からん。分からんが、一つだけ分かる。……その者は、まだ、どこかの卓に座っている。川を跨げる者は、一度跨いだら、また跨ぐ」
《フフ、卓が一つ、空いたんだとさ》
あの朝、封筒を読んで、あの人は、そう言った。
「……それは、予言なの」
「予言は、占い師の仕事だ。俺は、物語を見ているだけだ」
西東さんは、背を向けた。
「眼鏡をかけていれば、十三階段に入れてやってもいいところだがな」
冗談だった。
「並行世界の者は、階段には乗らない。……乗らないまま、隣の階段を、勝手に上まで歩いてくる」
冗談なのに、少しも、笑えなかった。
笑えなかったけれど、面の奥で、この人は、たぶん、笑っていた。
「縁が《合わなかったら》、また会おう」
西東さんは、そう言って、川の分かれ目の、飛び石の方へ歩いていった。
雪駄のまま、黒く濡れた亀の石を跳び、千鳥の石を跳んだ。
跳ぶたびに、着流しの裾が、外灯の光の中で、一度だけ翻った。
因果の外にいる人も、飛び石は、順番どおりに跳んだ。
向こう岸に渡ったところで、西東さんの姿は、もう、見えなくなっていた。
私は、ベンチに、座ったままだった。
一つ空けた場所に、誰もいなかった。
川の音が、していた。
二つに分かれた川が、一つになって、南へ流れていく。
佐倉さんの顔を、自分で見に行く。
そう言った。
言ってしまった。
言ってしまったことは、もう、取り消せない。
私は、ポケットからスマートフォンを出した。
ノートは、部屋に置いてきた。いちばん後ろの紙も。
番号は、指が覚えている。
押さなかった。
押さずに、別の画面を開いた。
連絡先の一覧。
その中に、坂柳さん、という名前があった。
六月に、勝手にかかってきた電話。お詫びの一つ目、と言った声。
番号を、押した。
呼び出し音が、二回鳴った。
『……あら』
坂柳さんの声だった。
『堀北さんから、おかけになるのは、初めてですね』
『そうね』
『何か、ございましたか』
私は、川の分かれ目を見た。
亀の石の上には、もう、誰もいなかった。
『お詫びの、二つ目を、お願いしたいの』
電話の向こうで、坂柳さんが、少しだけ、黙った。
『……お聞きします』
『十三階段、という言葉を、調べてほしいの。それから、零崎一賊、という名前も、お願いしたいの』
『理由を、お伺いしても』
『理由は、ないわ』
私は、言った。
『理由がないから、頼んでいるの』
坂柳さんは、また、黙った。
それから、電話の向こうで、小さく、笑う気配がした。
『承りました。……お詫びの二つ目、ですね』
『ええ』
『堀北さん』
坂柳さんの声が、少しだけ、変わった。
『お詫びは、三つまでと、私は勝手に決めております。……三つ目は、堀北さんが、本当に、自分では抜け出せない場所に座った時のために、取っておきますね』
自分では抜け出せない場所。
六月に、綾小路くんが、そう言ったと、坂柳さんが言った。
『……ありがとう』
『お礼は、三つ目が済んでからで、結構です』
電話が、切れた。
切れたあとで、私は、ベンチから立ち上がった。
夜は、深くなっていた。
川の分かれ目の向こうに、京都の灯りが、等間隔に並んでいた。
歩きながら、一度だけ、振り返った。
川の分かれ目の、三角の先のベンチが、外灯の下に、小さく見えていた。
誰も座っていないベンチだった。
さっきまで、あそこに、二人が座っていた。一つ空けて。因果の外の人と、因果の隣から来た人間が。
並行世界、と西東さんは言った。
並んで、行く。交わらない。交わらないまま、隣を流れる。
私は、そういう座り方を、四月から、ずっとしてきたのかもしれなかった。大教室で、一つ空けて。骨董アパートの廊下で、一つ空けて。病院の長椅子で、一つ空けて。
交わらないまま、隣にいる。
それを、西東さんは、世界の名前で呼んだ。
私は、前を向いた。等間隔の灯りを見ながら、私は、南へ歩き出した。
二つに分かれた川が、一つになって、流れていく方へ。
帰る部屋は、この川の、こちら側にある。
こちら側、と思ってから、少しだけ、可笑しくなった。並行世界の岸から来た人間が、こちら側、と言っている。可笑しいのに、笑わなかった。笑う相手が、隣にいなかった。隣は、空けたままだった。