ヒトミシリアリスト 凡庸なる才媛と戯言遣い   作:GC

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第34話 同乗(同情)

乗る、という字は、人が、木の上に立つ形から来ているという。

 

木の上に立つのは、高いところから、遠くを見るためだ。遠くを見た人間は、もう、木の下には戻れない。見てしまったものが、足を、木の上に縫いとめる。

 

乗った人間は、降りるまで、乗った人間のままだ。

 

降りない人間は、ずっと、木の上に立っている。

 

 

 

 

 

坂柳さんから電話がかかってきたのは、二日後の夜だった。

 

『お詫びの二つ目の、ご報告です』

 

坂柳さんの声は、いつもと同じに、丁寧だった。

 

丁寧なのに、少しだけ、疲れていた。

 

『十三階段、という言葉は、表の記録には、どこにもありませんでした。……裏の記録にも、名前だけです。中身は、ほとんど、ありません』

 

『裏の記録』

 

『私の家にも、少しだけ、そういう繋がりがございますので』

 

坂柳さんは、それ以上は、言わなかった。

 

言わなかったけれど、高校の頃、坂柳さんの後ろに、何があったのかを、私は、少しだけ知っている。知っているから、訊かなかった。

 

『ただ、一つだけ。十三階段の頂点にいる人物を、裏の人たちは、人類最悪と呼んでいるそうです。……それから、その人物が、近く、京都の、ある学校の跡地を、使うつもりだという話がございました』

 

『澄百合学園でしょう』

 

電話の向こうで、坂柳さんが、少しだけ、黙った。

 

『……ご存じでしたか』

 

『本人から、聞いたわ』

 

『本人から』

 

坂柳さんの声が、半分だけ、高くなった。

 

『人類最悪と呼ばれる人物と、お会いになったのですか』

 

『二度、会ったわ』

 

『……堀北さん』

 

坂柳さんは、少しだけ、間を置いた。

 

『あなたは、高校の頃から、そういう方でしたね。勝てない卓だと分かっていても、座る』

 

あの卓で、坂柳さんは、私の向かいに座っていた。三度振り込んで、それでも席を立たなかった私を、見ていた。

 

『零崎(ぜろざき)一賊については』

 

坂柳さんは、話を戻した。

 

『こちらは、もう少し、記録がございました。……殺人鬼の一族。家族を殺されれば、相手を根絶やしにする。今年の春から夏にかけて、京都で、一賊の動きが、急に増えている、と』

 

『増えている』

 

『はい。……それから、もう一つ。一賊の長兄にあたる方が、六月の初めに、亡くなったそうです』

 

双識。

 

西東(さいとう)さんも、そう言った。

 

『その方が亡くなってから、一賊は、残った者で、身内を守るために、まとまりつつあるそうです。……新しく加わった者も、その中で、守られている、と』

 

守られている。

 

佐倉さんは、守られている。

 

殺人鬼の一族に。

 

それが、よいことなのか、わるいことなのか、私には、分からなかった。

 

『堀北さん』

 

坂柳さんの声が、少しだけ、低くなった。

 

 

 

『佐倉さんのことですね』

 

 

 

息が、止まった。

 

止まったまま、電話の向こうの坂柳さんの、沈黙を聞いていた。

 

『……どうして』

 

『零崎、という名前を調べてほしいと頼まれた時、堀北さんの声が、半拍、遅れました。高校の頃、堀北さんの声が遅れるのは、ご自分以外の誰かのことを考えている時だけでした』

 

坂柳さんは、少しだけ、笑った。

 

『それに、佐倉さんが二年生で学校をお辞めになったことは、綾小路くんから伺っております。行き先を誰も知らない、とも。……知らないということは、表ではない場所へ行かれた、ということです』

 

私は、何も言えなかった。

 

『ご安心ください。私は、このことを、誰にも申しません。綾小路くんにも』

 

『……綾小路くんは』

 

『綾小路くんは、たぶん、もうご存じです。彼は、知らないことの方が、少ないので』

 

坂柳さんは、言った。

 

『お詫びの二つ目は、これで、おしまいです。三つ目は、取っておきますね』

 

『……一つだけ、訊いてもいいかしら』

 

『はい』

 

『綾小路くんは、元気なの』

 

訊いてから、自分で驚いた。

 

綾小路くんの番号は、ノートのいちばん後ろにある。かければ、本人が出る。出て、いつもの声で答える。それなのに、私は、坂柳さんに訊いていた。

 

電話の向こうで、坂柳さんが、少しだけ、黙った。

 

『お元気ですよ』

 

坂柳さんは、言った。

 

『お元気で、少しだけ、退屈そうです。……作る側というのは、作られる側より、ずっと退屈なのだそうです。作られる子たちは、毎日、何かを失って、何かを覚えます。作る側は、それを、見ているだけですから』

 

見ているだけ。

 

答えをくれる人は、自分では、何も失わない。

 

『どうして、ご本人にお訊きにならないのですか』

 

『……本人に訊いたら、元気だ、としか言わないでしょう』

 

坂柳さんは、ふふっ、と笑った。

 

『その通りですね。あの方は、退屈だとは、決しておっしゃいません。退屈だと言うのは、損ですから』

 

退屈だと言うのは、損。

 

綾小路くんらしかった。

 

『堀北さんが、ご本人ではなく私にお訊きになったことは、申し上げないでおきます』

 

『そうして』

 

『はい。……これは、お詫びの外の、ただの約束です』

 

お詫びの外の、約束。

 

坂柳さんとの間に、お詫びではないものが、一つ、できた。

 

『ええ』

 

『堀北さん』

 

『何かしら』

 

『卓に座る時は、一人で座らないでください。……あの卓で、私は、堀北さんの隣に、赤木くんがいたことを、ずっと、羨ましく思っておりました』

 

 

 

 

 

電話が、切れた。

 

切れたあとで、私は、スマートフォンを、しばらく見ていた。

 

羨ましく思っていた。

 

坂柳さんが、私を。

 

あの卓で、坂柳さんの隣には、綾小路くんがいた。

 

私の隣には、赤木くんがいた。

 

隣に誰がいるかで、人は、人を羨むことがある。

 

その夜、私は、なかなか眠れなかった。

 

眠れないまま、あの卓のことを、思い出していた。

 

体育祭の次の週末の、日曜日。四人で囲んだ卓。私の向かいに、坂柳さんが座っていた。坂柳さんの隣に、綾小路くん。私の隣に、赤木くん。

 

私は、三度振り込んだ。

 

振り込むたびに、点棒が減った。減った点棒を、私は、数えないようにした。数えたら、席を立ちたくなる気がした。

 

隣の人は、ほとんど、私の方を見なかった。

 

見なかったのに、私が振り込むたびに、隣から、何かが、少しだけ、こちらへ寄ってくる気がした。手ではなかった。言葉でもなかった。座っている、ということそのものが、隣から、私の椅子の脚に、伝わってくる気がした。

 

坂柳さんは、それを、向かいの席から、見ていたのだろうか。

 

羨ましく思っていた、と坂柳さんは言った。

 

坂柳さんの隣にいた綾小路くんは、たぶん、坂柳さんの椅子の脚に、何も伝えなかった。伝えない人だった。伝えないことを、損得で選ぶ人だった。

 

私の隣にいた人は、何も伝えるつもりがなかったのに、伝わってきた。

 

その違いを、私は、あの時、知らなかった。知らないまま、隣にいてくれることを、当たり前だと思っていた。

 

当たり前だったものを、向かいの席の人が、羨んでいた。

 

羨まれていたことを、三年近く経って、京都で、電話越しに、知った。

 

知ってから、私は、自分の手を見た。

 

あの卓で、最後に、温まった手だった。

 

温まった、と私は思っていた。今も、そう思っている。

 

坂柳さんの手は、あの日、温まったのだろうか。

 

訊けなかった。訊いたら、お詫びの三つ目を、使わせてしまう気がした。

 

 

 

 

 

翌日の昼、骨董アパートへ行く前に、病院に寄った。

 

浅野さんは、眠っていた。

 

額の汗は、昨日より、少しだけ減っていた。減っていたけれど、右の手のひらから伸びた赤い線は、肘の手前まで来ていた。

 

近い方の椅子に、竹刀が、まだ立てかけてあった。

 

私は、遠い方の椅子に座った。

 

座って、浅野さんの寝息を、しばらく聞いていた。

 

熱のある人の寝息は、浅くて、速い。速いのに、途切れない。途切れないことを、私は、数えずに、ただ聞いていた。

 

十分ほどして、立ち上がった。

 

立ち上がってから、少しだけ、迷った。

 

眠っている人に、何かを言うのは、意味のないことだった。聞こえないのなら、言っても、言わなくても、同じだった。

 

同じなら、言っておこうと思った。

 

「骨董アパートへ、行ってきます」

 

浅野さんの寝顔に向かって、小さく言った。

 

《出ていく時は、誰かに、行き先を言いなさい》

 

七月の、帰りの車の中で、鈴無(すずなし)さんにそう言われた。あの時、私は、答えなかった。答えなかったけれど、その言葉を、ノートのいちばん後ろの紙と同じ場所に、仕舞った。

 

仕舞ったものを、自分の行き先のために使うのは、初めてだった。

 

聞いている人は、いなかった。

 

いなかったけれど、言ったことで、行き先が、一つ、決まった。決まった行き先は、誰かに言った分だけ、少しだけ、取り消しにくくなる。

 

病室を出る時、看護師さんとすれ違った。

 

「お友達、今日は、少しだけ、お顔の色がいいですよ」

 

看護師さんは、そう言った。

 

いい、とは言わなかった。少しだけ、いい。

 

少しだけ、という言葉に、私は、少しだけ、救われた。

 

少しずつしか良くならないものは、少しずつしか悪くならない。そう思うことにした。思うことにしたものは、思っているあいだだけ、本当になる。

 

 

 

 

 

九月二十九日の夜、骨董アパートへ行った。

 

紫木(ゆかりき)さんの国語の問題集は、入院する前に、もう、浅野さんが部屋に置いてくれていた。置きに行く用事は、なかった。用事がないのに、足が向いた。

 

彼は、病院を出ていた。退院ではなかった。一晩だけの外泊の許しを、医者からもらったのだと、萌太(もえた)くんが言った。

 

二階の廊下に、三人がいた。

 

彼は、自分の部屋の扉の前に座っていた。床に、地図を広げていた。澄百合の、塀の形が描いてある地図だった。六月に、私が見た塀だった。

 

萌太くんは、手すりにもたれていた。火のついていない煙草を、くわえていた。

 

崩子(ほうこ)さんは、彼の部屋の扉の、隣の壁に、背中を預けて立っていた。

 

私は、階段を上りきったところで、足を止めた。

 

三人とも、こちらを見た。

 

誰も、来て、とも、帰って、とも言わなかった。

 

私は、廊下の、階段の側の端に、座った。

 

三人から、一つ空けて。

 

しばらく、誰も、何も言わなかった。地図をめくる音だけがした。

 

「先生」

 

萌太くんが、手すりにもたれたまま、言った。

 

「向かいの屋根、見えますか」

 

私は、廊下の窓から、外を見た。

 

向かいの古い家の屋根の上に、人影が二つ、並んでいた。

 

同じ背丈。同じ服。同じ形の眼鏡。外灯の光の中で、二つの眼鏡が、同じ角度で、こちらを向いていた。

 

「夕方から、ずっと、ああしてるんです」

 

萌太くんが、言った。

 

「九段目と、十段目。……澪標(みおつくし)っていう家の、双子です。匂宮(におうのみや)の、分家。見てるだけで、何もしてきません。今夜は」

 

今夜は。

 

屋根の上の、右の影が、何かを言った。声は、ここまで届かなかった。届かなかったのに、左の影の口が、同じ形に動くのが、見えた。

 

同じ言葉を、二度。

 

「……ずっと、ああなんです。片方が言ったことを、もう片方が、言い直す」

 

「言い直す必要が、あるんでしょうか」

 

崩子さんが、壁にもたれたまま、言った。

 

「必要は、ないと思います」

 

萌太くんが、言った。

 

「必要は、ないと思います」

 

崩子さんが、言い直した。

 

萌太くんが、火のない煙草をくわえたまま、少しだけ咽せた。

 

彼は、地図から顔を上げずに、肩だけを、一度、揺らした。

 

萌太くんは、煙草を、指に外した。

 

「僕の家も、ちょっと、似たような家でした。石凪(いしなぎ)っていうんです。……死神の家。人が死ぬ時に、そこにいる仕事」

 

死神。

 

萌太くんは、天気の話でもするように、言った。

 

「崩子の家は、闇口(やみぐち)。……仕える家です。主を決めて、主のために、何でもする。主がいない闇口は、闇口じゃない」

 

崩子さんが、壁から、背中を離した。

 

離して、私の方を見た。

 

「名簿の、八段目」

 

崩子さんが、言った。

 

「闇口濡衣。……わたしの家の、人です。わたしたちが逃げてきた家の」

 

廊下が、静かになった。

 

彼は、地図から、顔を上げなかった。上げないまま、地図の上の、指を止めていた。

 

指が、小さな紙を一枚、押さえていた。夜明け前の時刻が、書いてあった。

 

八月の終わりの夜、この廊下で、崩子さんは言った。逃げてきたんです、と。生まれた家から。

 

逃げてきた家の名前が、今、九月の名簿の中にあった。

 

「お兄ちゃんは、わたしに、名簿を見せませんでした」

 

崩子さんは、彼の方を見ずに、言った。

 

「見せなかったのは、お兄ちゃんの優しさです。……でも、わたしは、もう、見ました。萌太が、見せてくれました」

 

萌太くんが、少しだけ、肩をすくめた。

 

「隠しておくと、崩子は、自分で調べるので。自分で調べたことは、一人で持っちゃうので。……僕が見せた方が、半分、僕が持てます」

 

半分、持てる。

 

萌太くんの煙草は、半分しか吸われない。

 

「明日、あの人が、来るかどうかは、分かりません」

 

崩子さんは、言った。

 

「来たら、わたしは、どうするのか、分かりません。……分からないまま、行きます。お兄ちゃんが、行くので」

 

「あなたは、彼に、仕えているの」

 

訊いてから、余計なことを訊いたと思った。

 

崩子さんは、少しだけ、黙った。

 

「まだ、です」

 

まだ、と崩子さんは言った。

 

「まだ、決めていません。決めたら、わたしは、闇口になってしまうので。……闇口になるのが嫌で、逃げてきたのに」

 

彼が、地図から、顔を上げた。

 

上げて、崩子さんを見た。

 

何も言わなかった。

 

崩子さんも、何も言わなかった。

 

言わないまま、崩子さんは、また、壁に背中を預けた。

 

私は、屋根の上の、二つの影を見た。

 

二つの眼鏡が、まだ、こちらを向いていた。

 

片方が言ったことを、もう片方が、言い直す。

 

一人で言えば済むことを、二人で言う。二人で言えば、言ったことが、二倍、確かになる。確かになった言葉は、たぶん、もう、取り消せない。

 

「先生は、明日」

 

萌太くんが、言った。

 

最後まで、言わなかった。

 

言わなかったことを、私は、訊き返さなかった。

 

彼も、何も言わなかった。

 

頼まない、と九月のはじめに、彼は言った。頼まれないまま、私は、廊下の端に座っていた。

 

十一時を過ぎて、私は、立ち上がった。

 

階段を降りる時、背中で、彼の声がした。

 

「堀北さん」

 

私の名前だった。

 

彼が、私の名前を呼ぶのは、珍しかった。

 

振り返った。

 

彼は、地図に、目を落としたままだった。

 

「……おやすみ」

 

それだけだった。

 

「おやすみなさい」

 

私は、階段を降りた。

 

一段ごとに、板が鳴った。

 

鳴る階段は、昇る人間の数を、数えている。降りる人間の数も、たぶん、数えている。

 

数えられたまま、私は、外へ出た。

 

向かいの屋根の上の影は、二つとも、もう、いなかった。

 

 

 

 

 

九月の最後の日の朝、骨董アパートへ向かった。

 

彼と、崩子さんと、萌太くんは、夜明け前に、もう発っていた。昨夜、帰り際に、それだけは分かっていた。地図の上の、彼の指が、夜明け前の時刻を書いたメモを押さえていたから。

 

分かっていて、向かった。誰もいない部屋の前に座るために。いつもなら、アパートの留守を見ているのは、浅野さんだった。浅野さんが病院にいる限り、それは、もう、私しかいなかった。

 

朝、病院に電話をして、訊いた。浅野さんの熱は、下がっていなかった。

 

下がっていないけれど、上がってもいなかった。

 

骨董アパートの前の道に、着いた時だった。

 

アパートの前に、男が一人、立っていた。

 

背の高い男だった。黒いコートを着ていた。九月なのに、コートの前を、首まで閉じていた。

 

顔に、何もついていなかった。

 

正確には、顔は、あった。目も、鼻も、口も、あった。あったのに、どれも、覚えられなかった。見た次の瞬間には、もう、どんな顔だったのかが、分からなくなっていた。

 

眼鏡を、かけていた。

 

その眼鏡だけが、顔の中で、はっきりと見えた。

 

男は、アパートの二階を見上げていた。

 

彼の部屋の、窓を。

 

私は、道の途中で、足を止めた。

 

男が、ゆっくりと、こちらを向いた。

 

「……アナタは、ダレですか」

 

声に、何かが混じっていた。

 

言葉の一部が、片仮名で書かれているような、平たい響きだった。

 

「この部屋の人の、知り合いよ」

 

「シリアイ。……ナマエは」

 

「人に名前を訊く時は、先に名乗るものよ」

 

男は、首を、傾けた。

 

傾けたまま、しばらく、私を見ていた。

 

「ワタシには、ナマエが、アリマセン」

 

名前が、ない。

 

「ナマエがないから、ワタシは、アナタの、戯言を、キキマセン。……ワタシは、戯言遣いのために、ツクラレマシタ。戯言が、キカナイように」

 

言葉が、効かないように。

 

名前のない人には、言葉が届かない。

 

届かない言葉を、彼は、どうやって、使うのだろう。

 

「ノイズ、と、ヨバレテイマス。……十三階段の、十一段目」

 

十三階段。

 

奇野(きの)さんが、十二段目。この人が、十一段目。

 

「戯言遣いは、ドコですか」

 

「知らないわ」

 

「ウソ、ですか」

 

「本当よ。知らないの」

 

ノイズさんは、私を見ていた。

 

覚えられない顔で、私を見ていた。

 

「アナタも、ナマエが、アリマスね」

 

「あるわ」

 

「ナマエがある人は、ワタシに、何もデキマセン」

 

ノイズさんは、私の方へ、一歩、踏み出した。

 

私は、動かなかった。

 

刃物の目でも、値札の目でもなかった。この人の目は、何も見ていなかった。何も見ていない目は、何を考えているのかも、分からなかった。

 

分からないものの前で、私は、座る。

 

立ったまま、座る。

 

ノイズさんの口が、また、動いた。

 

「アナタの、座り方は、ドコで、オボエましたか」

 

言葉が、平たかった。平たいのに、問いの形だけは、ちゃんとしていた。

 

「答える必要はないわ」

 

「ワタシには、ナマエが、アリマセン。ナマエのない者に、コタエても、ドコにも、ノコリマセン」

 

どこにも、残らない。

 

名前のない人に答えたことは、名前のない場所へ、消えていく。消えていくなら、言ってもいいのかもしれなかった。

 

言わなかった。

 

残らない場所に置くには、あの人の名前は、重すぎた。重いものは、残る場所にしか、置けない。

 

「残らないなら、なおさら、言わないわ」

 

ノイズさんは、首を、反対側に傾けた。

 

傾けたまま、何も言わなかった。言わないまま、私の言葉が、どこにも届かずに、自分の前で、止まっているのを、見ているようだった。

 

ノイズさんが、もう一歩、踏み出した時だった。

 

道の向こうから、エンジンの音が、聞こえた。

 

低い、獣のような音だった。

 

音は、あっという間に、近づいてきた。

 

赤い車だった。

 

二人乗りの、屋根のない、真っ赤な車。

 

車は、少しも速度を落とさずに、骨董アパートの前の道に飛び込んできた。

 

ノイズさんが、振り返った。

 

振り返った時には、もう、遅かった。

 

赤い車の鼻先が、ノイズさんの体を、正面から、はね上げた。

 

ノイズさんの体が、宙を舞った。

 

黒いコートが、空中で、一度だけ、大きく広がった。

 

それから、道の脇の、植え込みの中へ、落ちた。

 

赤い車が、私の目の前で、止まった。

 

タイヤが、アスファルトの上で、甲高く鳴った。

 

運転席に、赤い人が座っていた。

 

ワインレッドのスーツ。赤い髪。顔に、まだ、八月の傷が、薄く残っていた。

 

潤さんは、サングラスを額に押し上げて、植え込みの方を見た。

 

「名前のない奴に、戯言は効かない。……でも、車は効くんだよ」

 

それから、私を見た。

 

三白眼が、少しだけ、細くなった。

 

「よう、りんねちゃん」

 

「……潤さん」

 

「なんで、あんたが、名前のない奴の前に、突っ立ってんのさ」

 

呆れた声だった。

 

六月の、渡り廊下の声に、似ていた。

 

「突っ立っていたのではありません。座っていたんです」

 

「立ってたろ」

 

「立ったまま、座っていたんです」

 

潤さんは、しばらく、私を見ていた。

 

それから、ハンドルに額をつけて、笑い出した。

 

「……あんた、ほんっと、言われたことの、一番わけ分かんない方を選ぶな」

 

 

 

 

 

植え込みの中で、ノイズさんは、動かなかった。

 

死んだのかどうかは、分からなかった。

 

潤さんは、確かめに行かなかった。

 

「あいつは、死なないよ。名前がない奴は、死ぬのも下手なんだ。……そのうち、勝手に起きて、勝手にどっか行く」

 

植え込みの手前の道に、眼鏡が一つ、落ちていた。

 

ノイズさんの眼鏡だった。

 

はね上げられた時に、顔から外れたのだろう。レンズの片方に、細いひびが入っていた。

 

覚えられない顔の中で、眼鏡だけが、はっきりと見えた。その眼鏡が、今、持ち主から離れて、道の上にあった。

 

持ち主から離れた眼鏡は、ただの眼鏡だった。

 

十三階段の人は、だいたい、眼鏡をかけている。狐面のおじさんの趣味なのだと、玖渚(くなぎさ)さんが言っていた。

 

趣味で選ばれた眼鏡を、選ばれた人たちは、かけ続けている。

 

名前のない人が、名前の代わりに、かけさせられているものなのかもしれなかった。

 

私は、眼鏡を拾わなかった。

 

拾ったら、私の持ち物になる。かけない番号と、書き置きと、ひびの入った眼鏡。私の持ち物は、もう、十分に、重かった。

 

拾わずに、道の端に、少しだけ寄せた。

 

車に、踏まれないところへ。

 

「何してんだ」

 

潤さんが、運転席から言った。

 

「眼鏡を、寄せただけです」

 

「ふーん」

 

潤さんは、それ以上は、何も言わなかった。

 

言わなかったけれど、片方の口の端が、少しだけ、上がっていた。

 

「どこに、行っていたんですか」

 

私が訊くと、潤さんは、少しだけ、黙った。

 

「ちょっとな。……狐の面の男のとこ」

 

「会ったんですか」

 

「会ったっていうか、捕まってた。……逃げてきた」

 

潤さんは、片方の口の端を上げた。

 

傷のせいで、上げ方が、八月より、さらにぎこちなかった。

 

「狐の面の男が決めた日が、今日なんだ。……いーたんと、崩子ちゃんと、萌太くんは、もう澄百合へ向かってる。萌太くんの知り合いの車で。捕まってる間に、あいつが、そう喋ってた」

 

澄百合。

 

西東さんが、言った場所。

 

「浅野さんの毒は、どうなるんですか」

 

「狐の面の男が、澄百合で渡すってさ。いーたんが、そこまで来たら」

 

潤さんは、ハンドルを、指で叩いた。

 

「物語だとさ。……あいつの言いそうなことだ」

 

「潤さんも、行くんですか」

 

「行くよ。あいつの物語に付き合うのは、ほんとは、嫌なんだけどな」

 

潤さんは、助手席を、ちらりと見た。

 

空いていた。

 

「澄百合で、あいつは、新しい何かを、出してくるらしい。人類最強を、超えるやつだってさ。……あたしより強い奴なんか、いるわけねえけどな」

 

いるわけがない、と潤さんは言った。

 

言った声が、ほんの少しだけ、揺れていた。

 

八月に、私は、潤さんの肩が強ばるのを見た。

 

今、私は、潤さんの声が揺れるのを、聞いた。

 

見抜かれる側に慣れた分だけ、見抜く目も、少しだけ、ついていた。

 

「……言うなよ」

 

潤さんが、言った。

 

私の顔を、見ていた。

 

「今、あんたが聞いたもの。言うな」

 

「言いません」

 

「よろしい」

 

潤さんは、エンジンを、かけ直した。

 

低い、獣のような音が、また鳴った。

 

「じゃあな、りんねちゃん。……今度のは、ほんとに、やばいとこだ。あんたは、来なくていい」

 

来なくていい。

 

正しい答えだった。

 

六月、この人は、私を、赤信号で降りられる車に乗せた。降りなかったのは、私だった。

 

八月、紫木さんは、部屋にいてください、と書いた。私は、部屋にいた。

 

九月、この人は、来なくていい、と言った。

 

私は、助手席のドアに、手をかけた。

 

冷たかった。

 

六月の、赤い車の取っ手と、同じ冷たさだった。

 

「……あんた」

 

潤さんが、ハンドルから、手を離した。

 

「来なくていいって、言ったよな」

 

「聞きました」

 

「聞いて、それか」

 

「来なくていい、と言われただけです。来るな、とは言われていません」

 

潤さんは、口を開けて、何か言いかけた。

 

言いかけて、やめた。

 

やめて、天を仰いだ。

 

「……屁理屈だ」

 

「綾小路くんに、教わりました」

 

嘘だった。

 

綾小路くんは、屁理屈を言わない。正しい理屈しか、言わない。

 

屁理屈を言うのは、一つ空けた席の、彼の方だった。

 

潤さんは、しばらく、空を見上げていた。

 

それから、助手席のドアの鍵を、内側から、外した。

 

「乗んなよ」

 

六月と、同じ言葉だった。

 

「濡れるぜ、とは、今日は言わないよ。……晴れてるからな」

 

私は、ドアを開けた。

 

助手席に、座った。

 

座席が、低かった。膝が、少しだけ持ち上がった。

 

ダッシュボードの上に、漫画雑誌が、一冊、放り出してあった。

 

六月と、同じだった。

 

私は、漫画雑誌を、どかそうとした。

 

潤さんが、横から言った。

 

「それ、読んでていいよ。今週号。まだ、あたしも途中」

 

私は、雑誌を、膝の上に置いた。

 

開いてみた。

 

開いたページで、主人公らしい少年が、ぼろぼろになりながら、立ち上がっていた。向かいに、大きな敵が立っていた。少年の後ろに、仲間たちが、倒れていた。倒れた仲間たちの名前を、少年が、一人ずつ叫んでいた。

 

叫ぶたびに、少年の体が、少しずつ、光っていった。

 

「……仲間の名前を呼ぶと、強くなるんですか」

 

「強くなるんだよ。王道だからな」

 

潤さんは、前を向いたまま言った。

 

「名前を呼ばれた奴は、倒れてても、そこにいることになる。いることになった奴の分だけ、呼んだ奴が、重くなる。重くなった奴は、倒れにくくなる。……漫画は、そういうことを、ちゃんと絵で描いてくれるからいいんだよ」

 

名前を呼ぶと、そこにいることになる。

 

私は、ページをめくらなかった。

 

めくらずに、少年の叫んでいる口を、見ていた。

 

私は、名前を、ほとんど呼ばない。呼ばずに、一つ空けて、座っている。

 

呼ばない名前は、そこにいないことになるのだろうか。

 

それとも、呼ばずにいる分だけ、そこに、ずっと、いることになるのだろうか。

 

雑誌を、閉じた。

 

閉じて、ダッシュボードに戻した。

 

「続き、読まないの」

 

「勝つのは、分かっていますから」

 

「分かってても、読むんだよ。王道ってのは」

 

潤さんは、笑った。

 

「一個だけ、約束しろ」

 

潤さんが、車を出しながら、言った。

 

前を向いたままだった。

 

「何ですか」

 

「あたしが、降りろって言ったら、降りろ」

 

私は、潤さんの横顔を見た。

 

傷の残った横顔だった。

 

「……それは、約束できません」

 

「なんで」

 

「一つだけ、約束をしている人がいるので。……高校の時から」

 

潤さんは、黙った。

 

黙ったまま、ハンドルを、片手で回した。

 

赤い車が、骨董アパートの前の道を抜けて、大通りへ出た。

 

大通りに出てから、潤さんが、小さく言った。

 

「……降りるな、か」

 

「はい」

 

「赤木しげる、だっけ」

 

「はい。赤木しげる、です」

 

「あたしの色の、名前の奴」

 

潤さんは、アクセルを、踏み込んだ。

 

車が、低く唸った。

 

「しょうがねえな。……あたしより先に約束した奴がいるんじゃ、あたしの約束は、二番目だ」

 

二番目。

 

人類最強が、自分の約束を、二番目だと言った。

 

「じゃあ、こうしよう」

 

潤さんは、片方の口の端を上げた。

 

「降りなくていい。その代わり、あたしの隣から、離れんな。……隣の隣でも、いいからさ」

 

隣の隣。

 

人類最強の、隣の隣。

 

助手席は、運転席の、隣だった。

 

一つも、空いていなかった。

 

「……今は、隣です」

 

「知ってるよ。二人乗りだからな、この車」

 

潤さんは、笑った。

 

笑って、また、アクセルを踏んだ。

 

 

 

 

 

しばらく、どちらも、何も言わなかった。

 

信号で止まった時、潤さんが、前を向いたまま言った。

 

「あんた、狐の面の男に、二回会ったんだって?」

 

「……誰に、聞いたんですか」

 

「本人に。捕まってる間、あいつ、やたらと喋るんだよ。喋るくせに、肝心なことは言わない。……で、あんたの話だけ、妙に、楽しそうにしてた」

 

楽しそうに。

 

出町柳のベンチで、西東さんの声が、最後に少しだけ楽しそうになったのを、私は覚えていた。

 

「何て、言われた」

 

潤さんの声は、八月の夜と、同じ低さだった。

 

狐の面の男の話をする時だけ、この人の声は、この低さになる。

 

「最初は、保留だと言われました」

 

「それは、八月に聞いた」

 

「二度目に会った時、保留は終わりだ、と言われました」

 

潤さんの指が、ハンドルの上で、止まった。

 

「……で」

 

「俺の、並行世界だ、と」

 

 

 

 

 

信号が、青に変わった。

 

潤さんは、車を出さなかった。

 

後ろの車が、短くクラクションを鳴らした。

 

潤さんは、それを、聞いていないようだった。

 

「並行世界」

 

潤さんは、口の中で、繰り返した。

 

「あいつが、そんな言葉、使うのか」

 

「使いました」

 

「あいつはな、人を、自分の物語の中に、置くんだよ。敵、とか。娘、とか。孫、とか。……全部、あいつの物語の中の、役の名前だ」

 

潤さんは、ようやく、アクセルを踏んだ。

 

車が、ゆっくりと、動き出した。

 

「並行世界ってのは、役の名前じゃない。……あいつの物語の、外にあるもんの名前だ」

 

物語の、外。

 

「あいつが、自分の物語の外にあるもんに、名前をつけたのは、あたしの知る限り、初めてだ」

 

潤さんは、前を向いたまま、少しだけ、笑った。

 

笑い方が、少しだけ、苦かった。

 

「あいつの物語から逃げ回ってるあたしでも、まだ、娘って役の中にいる。……あんたは、四か月で、外に出た」

 

「出たのではありません。最初から、入っていなかっただけです」

 

「同じだよ」

 

「違います」

 

潤さんは、横目で、私を見た。

 

「……六月に、あたしが言ったろ。空けてないんでしょ、埋めてないだけ、って」

 

覚えていた。

 

六月の、雨の車の中で、返す言葉がなかったことを。

 

「あの時、あんた、黙ったよな。……今も、同じ顔してるよ」

 

私は、何も言わなかった。

 

潤さんは、また、前を向いた。

 

「何で、並行世界なのか、あいつは言ったか」

 

私は、少しだけ、迷った。

 

迷って、それから、言った。

 

「私の後ろに、別の川が流れている、と。……その川から、一人だけ、こちらの川に流し込まれた人がいる、と」

 

潤さんの横顔が、少しだけ、動いた。

 

動いたのは、頬の傷の、すぐ横だった。

 

「一人だけ」

 

「はい」

 

潤さんは、六月の、帰りの車の中で、私の話を、最後まで聞いた人だった。

 

あの人の話を。

 

十四になるな、と言った人の話を。

 

潤さんは、何も言わなかった。

 

言わないまま、ハンドルを、両手で握り直した。

 

「……あたしは、あの時、この時代の人間の座り方をしてねえ、って言ったよな」

 

「言いました」

 

「狐の面の男は、別の川、って言った」

 

潤さんは、短く、息を吐いた。

 

「同じもんを見て、あたしは、時代って言った。あいつは、川って言った。……あいつの方が、ちょっとだけ、遠くまで見えてやがる」

 

悔しそうな声だった。

 

人類最強が、人類最悪に、悔しがっていた。

 

「言うなよ、これ」

 

「言いません」

 

「あいつに、あたしが悔しがってたって、絶対、言うなよ」

 

「会う予定は、ありません」

 

「縁が合わなかったら、会うんだろ」

 

私は、答えなかった。

 

潤さんは、笑った。

 

今度の笑い方には、苦いものが、少しも混じっていなかった。京都の街が、窓の外を、後ろへ流れていった。

 

北へ。

 

六月に、雨の中を走った道だった。

 

今日は、晴れていた。

 

晴れた空の下を、赤い車は、澄百合学園の跡地へ向かって、走っていった。

 

私は、膝の上で、手を組んだ。

 

組んだ手の中に、何も持っていなかった。かけない番号も、書き置きも、眼鏡も。持っていない手を、組んでいた。

 

指先は、もう、冷たくなかった。

 

冷たくない指先で、私は、窓の外の、晴れた空を、見ていた。晴れた空の下で、坂の上の方に、高い塀が、少しずつ、見え始めていた。六月に見た塀と、同じ高さの。

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