乗る、という字は、人が、木の上に立つ形から来ているという。
木の上に立つのは、高いところから、遠くを見るためだ。遠くを見た人間は、もう、木の下には戻れない。見てしまったものが、足を、木の上に縫いとめる。
乗った人間は、降りるまで、乗った人間のままだ。
降りない人間は、ずっと、木の上に立っている。
坂柳さんから電話がかかってきたのは、二日後の夜だった。
『お詫びの二つ目の、ご報告です』
坂柳さんの声は、いつもと同じに、丁寧だった。
丁寧なのに、少しだけ、疲れていた。
『十三階段、という言葉は、表の記録には、どこにもありませんでした。……裏の記録にも、名前だけです。中身は、ほとんど、ありません』
『裏の記録』
『私の家にも、少しだけ、そういう繋がりがございますので』
坂柳さんは、それ以上は、言わなかった。
言わなかったけれど、高校の頃、坂柳さんの後ろに、何があったのかを、私は、少しだけ知っている。知っているから、訊かなかった。
『ただ、一つだけ。十三階段の頂点にいる人物を、裏の人たちは、人類最悪と呼んでいるそうです。……それから、その人物が、近く、京都の、ある学校の跡地を、使うつもりだという話がございました』
『澄百合学園でしょう』
電話の向こうで、坂柳さんが、少しだけ、黙った。
『……ご存じでしたか』
『本人から、聞いたわ』
『本人から』
坂柳さんの声が、半分だけ、高くなった。
『人類最悪と呼ばれる人物と、お会いになったのですか』
『二度、会ったわ』
『……堀北さん』
坂柳さんは、少しだけ、間を置いた。
『あなたは、高校の頃から、そういう方でしたね。勝てない卓だと分かっていても、座る』
あの卓で、坂柳さんは、私の向かいに座っていた。三度振り込んで、それでも席を立たなかった私を、見ていた。
『
坂柳さんは、話を戻した。
『こちらは、もう少し、記録がございました。……殺人鬼の一族。家族を殺されれば、相手を根絶やしにする。今年の春から夏にかけて、京都で、一賊の動きが、急に増えている、と』
『増えている』
『はい。……それから、もう一つ。一賊の長兄にあたる方が、六月の初めに、亡くなったそうです』
双識。
『その方が亡くなってから、一賊は、残った者で、身内を守るために、まとまりつつあるそうです。……新しく加わった者も、その中で、守られている、と』
守られている。
佐倉さんは、守られている。
殺人鬼の一族に。
それが、よいことなのか、わるいことなのか、私には、分からなかった。
『堀北さん』
坂柳さんの声が、少しだけ、低くなった。
『佐倉さんのことですね』
息が、止まった。
止まったまま、電話の向こうの坂柳さんの、沈黙を聞いていた。
『……どうして』
『零崎、という名前を調べてほしいと頼まれた時、堀北さんの声が、半拍、遅れました。高校の頃、堀北さんの声が遅れるのは、ご自分以外の誰かのことを考えている時だけでした』
坂柳さんは、少しだけ、笑った。
『それに、佐倉さんが二年生で学校をお辞めになったことは、綾小路くんから伺っております。行き先を誰も知らない、とも。……知らないということは、表ではない場所へ行かれた、ということです』
私は、何も言えなかった。
『ご安心ください。私は、このことを、誰にも申しません。綾小路くんにも』
『……綾小路くんは』
『綾小路くんは、たぶん、もうご存じです。彼は、知らないことの方が、少ないので』
坂柳さんは、言った。
『お詫びの二つ目は、これで、おしまいです。三つ目は、取っておきますね』
『……一つだけ、訊いてもいいかしら』
『はい』
『綾小路くんは、元気なの』
訊いてから、自分で驚いた。
綾小路くんの番号は、ノートのいちばん後ろにある。かければ、本人が出る。出て、いつもの声で答える。それなのに、私は、坂柳さんに訊いていた。
電話の向こうで、坂柳さんが、少しだけ、黙った。
『お元気ですよ』
坂柳さんは、言った。
『お元気で、少しだけ、退屈そうです。……作る側というのは、作られる側より、ずっと退屈なのだそうです。作られる子たちは、毎日、何かを失って、何かを覚えます。作る側は、それを、見ているだけですから』
見ているだけ。
答えをくれる人は、自分では、何も失わない。
『どうして、ご本人にお訊きにならないのですか』
『……本人に訊いたら、元気だ、としか言わないでしょう』
坂柳さんは、ふふっ、と笑った。
『その通りですね。あの方は、退屈だとは、決しておっしゃいません。退屈だと言うのは、損ですから』
退屈だと言うのは、損。
綾小路くんらしかった。
『堀北さんが、ご本人ではなく私にお訊きになったことは、申し上げないでおきます』
『そうして』
『はい。……これは、お詫びの外の、ただの約束です』
お詫びの外の、約束。
坂柳さんとの間に、お詫びではないものが、一つ、できた。
『ええ』
『堀北さん』
『何かしら』
『卓に座る時は、一人で座らないでください。……あの卓で、私は、堀北さんの隣に、赤木くんがいたことを、ずっと、羨ましく思っておりました』
電話が、切れた。
切れたあとで、私は、スマートフォンを、しばらく見ていた。
羨ましく思っていた。
坂柳さんが、私を。
あの卓で、坂柳さんの隣には、綾小路くんがいた。
私の隣には、赤木くんがいた。
隣に誰がいるかで、人は、人を羨むことがある。
その夜、私は、なかなか眠れなかった。
眠れないまま、あの卓のことを、思い出していた。
体育祭の次の週末の、日曜日。四人で囲んだ卓。私の向かいに、坂柳さんが座っていた。坂柳さんの隣に、綾小路くん。私の隣に、赤木くん。
私は、三度振り込んだ。
振り込むたびに、点棒が減った。減った点棒を、私は、数えないようにした。数えたら、席を立ちたくなる気がした。
隣の人は、ほとんど、私の方を見なかった。
見なかったのに、私が振り込むたびに、隣から、何かが、少しだけ、こちらへ寄ってくる気がした。手ではなかった。言葉でもなかった。座っている、ということそのものが、隣から、私の椅子の脚に、伝わってくる気がした。
坂柳さんは、それを、向かいの席から、見ていたのだろうか。
羨ましく思っていた、と坂柳さんは言った。
坂柳さんの隣にいた綾小路くんは、たぶん、坂柳さんの椅子の脚に、何も伝えなかった。伝えない人だった。伝えないことを、損得で選ぶ人だった。
私の隣にいた人は、何も伝えるつもりがなかったのに、伝わってきた。
その違いを、私は、あの時、知らなかった。知らないまま、隣にいてくれることを、当たり前だと思っていた。
当たり前だったものを、向かいの席の人が、羨んでいた。
羨まれていたことを、三年近く経って、京都で、電話越しに、知った。
知ってから、私は、自分の手を見た。
あの卓で、最後に、温まった手だった。
温まった、と私は思っていた。今も、そう思っている。
坂柳さんの手は、あの日、温まったのだろうか。
訊けなかった。訊いたら、お詫びの三つ目を、使わせてしまう気がした。
翌日の昼、骨董アパートへ行く前に、病院に寄った。
浅野さんは、眠っていた。
額の汗は、昨日より、少しだけ減っていた。減っていたけれど、右の手のひらから伸びた赤い線は、肘の手前まで来ていた。
近い方の椅子に、竹刀が、まだ立てかけてあった。
私は、遠い方の椅子に座った。
座って、浅野さんの寝息を、しばらく聞いていた。
熱のある人の寝息は、浅くて、速い。速いのに、途切れない。途切れないことを、私は、数えずに、ただ聞いていた。
十分ほどして、立ち上がった。
立ち上がってから、少しだけ、迷った。
眠っている人に、何かを言うのは、意味のないことだった。聞こえないのなら、言っても、言わなくても、同じだった。
同じなら、言っておこうと思った。
「骨董アパートへ、行ってきます」
浅野さんの寝顔に向かって、小さく言った。
《出ていく時は、誰かに、行き先を言いなさい》
七月の、帰りの車の中で、
仕舞ったものを、自分の行き先のために使うのは、初めてだった。
聞いている人は、いなかった。
いなかったけれど、言ったことで、行き先が、一つ、決まった。決まった行き先は、誰かに言った分だけ、少しだけ、取り消しにくくなる。
病室を出る時、看護師さんとすれ違った。
「お友達、今日は、少しだけ、お顔の色がいいですよ」
看護師さんは、そう言った。
いい、とは言わなかった。少しだけ、いい。
少しだけ、という言葉に、私は、少しだけ、救われた。
少しずつしか良くならないものは、少しずつしか悪くならない。そう思うことにした。思うことにしたものは、思っているあいだだけ、本当になる。
九月二十九日の夜、骨董アパートへ行った。
彼は、病院を出ていた。退院ではなかった。一晩だけの外泊の許しを、医者からもらったのだと、
二階の廊下に、三人がいた。
彼は、自分の部屋の扉の前に座っていた。床に、地図を広げていた。澄百合の、塀の形が描いてある地図だった。六月に、私が見た塀だった。
萌太くんは、手すりにもたれていた。火のついていない煙草を、くわえていた。
私は、階段を上りきったところで、足を止めた。
三人とも、こちらを見た。
誰も、来て、とも、帰って、とも言わなかった。
私は、廊下の、階段の側の端に、座った。
三人から、一つ空けて。
しばらく、誰も、何も言わなかった。地図をめくる音だけがした。
「先生」
萌太くんが、手すりにもたれたまま、言った。
「向かいの屋根、見えますか」
私は、廊下の窓から、外を見た。
向かいの古い家の屋根の上に、人影が二つ、並んでいた。
同じ背丈。同じ服。同じ形の眼鏡。外灯の光の中で、二つの眼鏡が、同じ角度で、こちらを向いていた。
「夕方から、ずっと、ああしてるんです」
萌太くんが、言った。
「九段目と、十段目。……
今夜は。
屋根の上の、右の影が、何かを言った。声は、ここまで届かなかった。届かなかったのに、左の影の口が、同じ形に動くのが、見えた。
同じ言葉を、二度。
「……ずっと、ああなんです。片方が言ったことを、もう片方が、言い直す」
「言い直す必要が、あるんでしょうか」
崩子さんが、壁にもたれたまま、言った。
「必要は、ないと思います」
萌太くんが、言った。
「必要は、ないと思います」
崩子さんが、言い直した。
萌太くんが、火のない煙草をくわえたまま、少しだけ咽せた。
彼は、地図から顔を上げずに、肩だけを、一度、揺らした。
萌太くんは、煙草を、指に外した。
「僕の家も、ちょっと、似たような家でした。
死神。
萌太くんは、天気の話でもするように、言った。
「崩子の家は、
崩子さんが、壁から、背中を離した。
離して、私の方を見た。
「名簿の、八段目」
崩子さんが、言った。
「闇口濡衣。……わたしの家の、人です。わたしたちが逃げてきた家の」
廊下が、静かになった。
彼は、地図から、顔を上げなかった。上げないまま、地図の上の、指を止めていた。
指が、小さな紙を一枚、押さえていた。夜明け前の時刻が、書いてあった。
八月の終わりの夜、この廊下で、崩子さんは言った。逃げてきたんです、と。生まれた家から。
逃げてきた家の名前が、今、九月の名簿の中にあった。
「お兄ちゃんは、わたしに、名簿を見せませんでした」
崩子さんは、彼の方を見ずに、言った。
「見せなかったのは、お兄ちゃんの優しさです。……でも、わたしは、もう、見ました。萌太が、見せてくれました」
萌太くんが、少しだけ、肩をすくめた。
「隠しておくと、崩子は、自分で調べるので。自分で調べたことは、一人で持っちゃうので。……僕が見せた方が、半分、僕が持てます」
半分、持てる。
萌太くんの煙草は、半分しか吸われない。
「明日、あの人が、来るかどうかは、分かりません」
崩子さんは、言った。
「来たら、わたしは、どうするのか、分かりません。……分からないまま、行きます。お兄ちゃんが、行くので」
「あなたは、彼に、仕えているの」
訊いてから、余計なことを訊いたと思った。
崩子さんは、少しだけ、黙った。
「まだ、です」
まだ、と崩子さんは言った。
「まだ、決めていません。決めたら、わたしは、闇口になってしまうので。……闇口になるのが嫌で、逃げてきたのに」
彼が、地図から、顔を上げた。
上げて、崩子さんを見た。
何も言わなかった。
崩子さんも、何も言わなかった。
言わないまま、崩子さんは、また、壁に背中を預けた。
私は、屋根の上の、二つの影を見た。
二つの眼鏡が、まだ、こちらを向いていた。
片方が言ったことを、もう片方が、言い直す。
一人で言えば済むことを、二人で言う。二人で言えば、言ったことが、二倍、確かになる。確かになった言葉は、たぶん、もう、取り消せない。
「先生は、明日」
萌太くんが、言った。
最後まで、言わなかった。
言わなかったことを、私は、訊き返さなかった。
彼も、何も言わなかった。
頼まない、と九月のはじめに、彼は言った。頼まれないまま、私は、廊下の端に座っていた。
十一時を過ぎて、私は、立ち上がった。
階段を降りる時、背中で、彼の声がした。
「堀北さん」
私の名前だった。
彼が、私の名前を呼ぶのは、珍しかった。
振り返った。
彼は、地図に、目を落としたままだった。
「……おやすみ」
それだけだった。
「おやすみなさい」
私は、階段を降りた。
一段ごとに、板が鳴った。
鳴る階段は、昇る人間の数を、数えている。降りる人間の数も、たぶん、数えている。
数えられたまま、私は、外へ出た。
向かいの屋根の上の影は、二つとも、もう、いなかった。
九月の最後の日の朝、骨董アパートへ向かった。
彼と、崩子さんと、萌太くんは、夜明け前に、もう発っていた。昨夜、帰り際に、それだけは分かっていた。地図の上の、彼の指が、夜明け前の時刻を書いたメモを押さえていたから。
分かっていて、向かった。誰もいない部屋の前に座るために。いつもなら、アパートの留守を見ているのは、浅野さんだった。浅野さんが病院にいる限り、それは、もう、私しかいなかった。
朝、病院に電話をして、訊いた。浅野さんの熱は、下がっていなかった。
下がっていないけれど、上がってもいなかった。
骨董アパートの前の道に、着いた時だった。
アパートの前に、男が一人、立っていた。
背の高い男だった。黒いコートを着ていた。九月なのに、コートの前を、首まで閉じていた。
顔に、何もついていなかった。
正確には、顔は、あった。目も、鼻も、口も、あった。あったのに、どれも、覚えられなかった。見た次の瞬間には、もう、どんな顔だったのかが、分からなくなっていた。
眼鏡を、かけていた。
その眼鏡だけが、顔の中で、はっきりと見えた。
男は、アパートの二階を見上げていた。
彼の部屋の、窓を。
私は、道の途中で、足を止めた。
男が、ゆっくりと、こちらを向いた。
「……アナタは、ダレですか」
声に、何かが混じっていた。
言葉の一部が、片仮名で書かれているような、平たい響きだった。
「この部屋の人の、知り合いよ」
「シリアイ。……ナマエは」
「人に名前を訊く時は、先に名乗るものよ」
男は、首を、傾けた。
傾けたまま、しばらく、私を見ていた。
「ワタシには、ナマエが、アリマセン」
名前が、ない。
「ナマエがないから、ワタシは、アナタの、戯言を、キキマセン。……ワタシは、戯言遣いのために、ツクラレマシタ。戯言が、キカナイように」
言葉が、効かないように。
名前のない人には、言葉が届かない。
届かない言葉を、彼は、どうやって、使うのだろう。
「ノイズ、と、ヨバレテイマス。……十三階段の、十一段目」
十三階段。
「戯言遣いは、ドコですか」
「知らないわ」
「ウソ、ですか」
「本当よ。知らないの」
ノイズさんは、私を見ていた。
覚えられない顔で、私を見ていた。
「アナタも、ナマエが、アリマスね」
「あるわ」
「ナマエがある人は、ワタシに、何もデキマセン」
ノイズさんは、私の方へ、一歩、踏み出した。
私は、動かなかった。
刃物の目でも、値札の目でもなかった。この人の目は、何も見ていなかった。何も見ていない目は、何を考えているのかも、分からなかった。
分からないものの前で、私は、座る。
立ったまま、座る。
ノイズさんの口が、また、動いた。
「アナタの、座り方は、ドコで、オボエましたか」
言葉が、平たかった。平たいのに、問いの形だけは、ちゃんとしていた。
「答える必要はないわ」
「ワタシには、ナマエが、アリマセン。ナマエのない者に、コタエても、ドコにも、ノコリマセン」
どこにも、残らない。
名前のない人に答えたことは、名前のない場所へ、消えていく。消えていくなら、言ってもいいのかもしれなかった。
言わなかった。
残らない場所に置くには、あの人の名前は、重すぎた。重いものは、残る場所にしか、置けない。
「残らないなら、なおさら、言わないわ」
ノイズさんは、首を、反対側に傾けた。
傾けたまま、何も言わなかった。言わないまま、私の言葉が、どこにも届かずに、自分の前で、止まっているのを、見ているようだった。
ノイズさんが、もう一歩、踏み出した時だった。
道の向こうから、エンジンの音が、聞こえた。
低い、獣のような音だった。
音は、あっという間に、近づいてきた。
赤い車だった。
二人乗りの、屋根のない、真っ赤な車。
車は、少しも速度を落とさずに、骨董アパートの前の道に飛び込んできた。
ノイズさんが、振り返った。
振り返った時には、もう、遅かった。
赤い車の鼻先が、ノイズさんの体を、正面から、はね上げた。
ノイズさんの体が、宙を舞った。
黒いコートが、空中で、一度だけ、大きく広がった。
それから、道の脇の、植え込みの中へ、落ちた。
赤い車が、私の目の前で、止まった。
タイヤが、アスファルトの上で、甲高く鳴った。
運転席に、赤い人が座っていた。
ワインレッドのスーツ。赤い髪。顔に、まだ、八月の傷が、薄く残っていた。
潤さんは、サングラスを額に押し上げて、植え込みの方を見た。
「名前のない奴に、戯言は効かない。……でも、車は効くんだよ」
それから、私を見た。
三白眼が、少しだけ、細くなった。
「よう、りんねちゃん」
「……潤さん」
「なんで、あんたが、名前のない奴の前に、突っ立ってんのさ」
呆れた声だった。
六月の、渡り廊下の声に、似ていた。
「突っ立っていたのではありません。座っていたんです」
「立ってたろ」
「立ったまま、座っていたんです」
潤さんは、しばらく、私を見ていた。
それから、ハンドルに額をつけて、笑い出した。
「……あんた、ほんっと、言われたことの、一番わけ分かんない方を選ぶな」
植え込みの中で、ノイズさんは、動かなかった。
死んだのかどうかは、分からなかった。
潤さんは、確かめに行かなかった。
「あいつは、死なないよ。名前がない奴は、死ぬのも下手なんだ。……そのうち、勝手に起きて、勝手にどっか行く」
植え込みの手前の道に、眼鏡が一つ、落ちていた。
ノイズさんの眼鏡だった。
はね上げられた時に、顔から外れたのだろう。レンズの片方に、細いひびが入っていた。
覚えられない顔の中で、眼鏡だけが、はっきりと見えた。その眼鏡が、今、持ち主から離れて、道の上にあった。
持ち主から離れた眼鏡は、ただの眼鏡だった。
十三階段の人は、だいたい、眼鏡をかけている。狐面のおじさんの趣味なのだと、
趣味で選ばれた眼鏡を、選ばれた人たちは、かけ続けている。
名前のない人が、名前の代わりに、かけさせられているものなのかもしれなかった。
私は、眼鏡を拾わなかった。
拾ったら、私の持ち物になる。かけない番号と、書き置きと、ひびの入った眼鏡。私の持ち物は、もう、十分に、重かった。
拾わずに、道の端に、少しだけ寄せた。
車に、踏まれないところへ。
「何してんだ」
潤さんが、運転席から言った。
「眼鏡を、寄せただけです」
「ふーん」
潤さんは、それ以上は、何も言わなかった。
言わなかったけれど、片方の口の端が、少しだけ、上がっていた。
「どこに、行っていたんですか」
私が訊くと、潤さんは、少しだけ、黙った。
「ちょっとな。……狐の面の男のとこ」
「会ったんですか」
「会ったっていうか、捕まってた。……逃げてきた」
潤さんは、片方の口の端を上げた。
傷のせいで、上げ方が、八月より、さらにぎこちなかった。
「狐の面の男が決めた日が、今日なんだ。……いーたんと、崩子ちゃんと、萌太くんは、もう澄百合へ向かってる。萌太くんの知り合いの車で。捕まってる間に、あいつが、そう喋ってた」
澄百合。
西東さんが、言った場所。
「浅野さんの毒は、どうなるんですか」
「狐の面の男が、澄百合で渡すってさ。いーたんが、そこまで来たら」
潤さんは、ハンドルを、指で叩いた。
「物語だとさ。……あいつの言いそうなことだ」
「潤さんも、行くんですか」
「行くよ。あいつの物語に付き合うのは、ほんとは、嫌なんだけどな」
潤さんは、助手席を、ちらりと見た。
空いていた。
「澄百合で、あいつは、新しい何かを、出してくるらしい。人類最強を、超えるやつだってさ。……あたしより強い奴なんか、いるわけねえけどな」
いるわけがない、と潤さんは言った。
言った声が、ほんの少しだけ、揺れていた。
八月に、私は、潤さんの肩が強ばるのを見た。
今、私は、潤さんの声が揺れるのを、聞いた。
見抜かれる側に慣れた分だけ、見抜く目も、少しだけ、ついていた。
「……言うなよ」
潤さんが、言った。
私の顔を、見ていた。
「今、あんたが聞いたもの。言うな」
「言いません」
「よろしい」
潤さんは、エンジンを、かけ直した。
低い、獣のような音が、また鳴った。
「じゃあな、りんねちゃん。……今度のは、ほんとに、やばいとこだ。あんたは、来なくていい」
来なくていい。
正しい答えだった。
六月、この人は、私を、赤信号で降りられる車に乗せた。降りなかったのは、私だった。
八月、紫木さんは、部屋にいてください、と書いた。私は、部屋にいた。
九月、この人は、来なくていい、と言った。
私は、助手席のドアに、手をかけた。
冷たかった。
六月の、赤い車の取っ手と、同じ冷たさだった。
「……あんた」
潤さんが、ハンドルから、手を離した。
「来なくていいって、言ったよな」
「聞きました」
「聞いて、それか」
「来なくていい、と言われただけです。来るな、とは言われていません」
潤さんは、口を開けて、何か言いかけた。
言いかけて、やめた。
やめて、天を仰いだ。
「……屁理屈だ」
「綾小路くんに、教わりました」
嘘だった。
綾小路くんは、屁理屈を言わない。正しい理屈しか、言わない。
屁理屈を言うのは、一つ空けた席の、彼の方だった。
潤さんは、しばらく、空を見上げていた。
それから、助手席のドアの鍵を、内側から、外した。
「乗んなよ」
六月と、同じ言葉だった。
「濡れるぜ、とは、今日は言わないよ。……晴れてるからな」
私は、ドアを開けた。
助手席に、座った。
座席が、低かった。膝が、少しだけ持ち上がった。
ダッシュボードの上に、漫画雑誌が、一冊、放り出してあった。
六月と、同じだった。
私は、漫画雑誌を、どかそうとした。
潤さんが、横から言った。
「それ、読んでていいよ。今週号。まだ、あたしも途中」
私は、雑誌を、膝の上に置いた。
開いてみた。
開いたページで、主人公らしい少年が、ぼろぼろになりながら、立ち上がっていた。向かいに、大きな敵が立っていた。少年の後ろに、仲間たちが、倒れていた。倒れた仲間たちの名前を、少年が、一人ずつ叫んでいた。
叫ぶたびに、少年の体が、少しずつ、光っていった。
「……仲間の名前を呼ぶと、強くなるんですか」
「強くなるんだよ。王道だからな」
潤さんは、前を向いたまま言った。
「名前を呼ばれた奴は、倒れてても、そこにいることになる。いることになった奴の分だけ、呼んだ奴が、重くなる。重くなった奴は、倒れにくくなる。……漫画は、そういうことを、ちゃんと絵で描いてくれるからいいんだよ」
名前を呼ぶと、そこにいることになる。
私は、ページをめくらなかった。
めくらずに、少年の叫んでいる口を、見ていた。
私は、名前を、ほとんど呼ばない。呼ばずに、一つ空けて、座っている。
呼ばない名前は、そこにいないことになるのだろうか。
それとも、呼ばずにいる分だけ、そこに、ずっと、いることになるのだろうか。
雑誌を、閉じた。
閉じて、ダッシュボードに戻した。
「続き、読まないの」
「勝つのは、分かっていますから」
「分かってても、読むんだよ。王道ってのは」
潤さんは、笑った。
「一個だけ、約束しろ」
潤さんが、車を出しながら、言った。
前を向いたままだった。
「何ですか」
「あたしが、降りろって言ったら、降りろ」
私は、潤さんの横顔を見た。
傷の残った横顔だった。
「……それは、約束できません」
「なんで」
「一つだけ、約束をしている人がいるので。……高校の時から」
潤さんは、黙った。
黙ったまま、ハンドルを、片手で回した。
赤い車が、骨董アパートの前の道を抜けて、大通りへ出た。
大通りに出てから、潤さんが、小さく言った。
「……降りるな、か」
「はい」
「赤木しげる、だっけ」
「はい。赤木しげる、です」
「あたしの色の、名前の奴」
潤さんは、アクセルを、踏み込んだ。
車が、低く唸った。
「しょうがねえな。……あたしより先に約束した奴がいるんじゃ、あたしの約束は、二番目だ」
二番目。
人類最強が、自分の約束を、二番目だと言った。
「じゃあ、こうしよう」
潤さんは、片方の口の端を上げた。
「降りなくていい。その代わり、あたしの隣から、離れんな。……隣の隣でも、いいからさ」
隣の隣。
人類最強の、隣の隣。
助手席は、運転席の、隣だった。
一つも、空いていなかった。
「……今は、隣です」
「知ってるよ。二人乗りだからな、この車」
潤さんは、笑った。
笑って、また、アクセルを踏んだ。
しばらく、どちらも、何も言わなかった。
信号で止まった時、潤さんが、前を向いたまま言った。
「あんた、狐の面の男に、二回会ったんだって?」
「……誰に、聞いたんですか」
「本人に。捕まってる間、あいつ、やたらと喋るんだよ。喋るくせに、肝心なことは言わない。……で、あんたの話だけ、妙に、楽しそうにしてた」
楽しそうに。
出町柳のベンチで、西東さんの声が、最後に少しだけ楽しそうになったのを、私は覚えていた。
「何て、言われた」
潤さんの声は、八月の夜と、同じ低さだった。
狐の面の男の話をする時だけ、この人の声は、この低さになる。
「最初は、保留だと言われました」
「それは、八月に聞いた」
「二度目に会った時、保留は終わりだ、と言われました」
潤さんの指が、ハンドルの上で、止まった。
「……で」
「俺の、並行世界だ、と」
信号が、青に変わった。
潤さんは、車を出さなかった。
後ろの車が、短くクラクションを鳴らした。
潤さんは、それを、聞いていないようだった。
「並行世界」
潤さんは、口の中で、繰り返した。
「あいつが、そんな言葉、使うのか」
「使いました」
「あいつはな、人を、自分の物語の中に、置くんだよ。敵、とか。娘、とか。孫、とか。……全部、あいつの物語の中の、役の名前だ」
潤さんは、ようやく、アクセルを踏んだ。
車が、ゆっくりと、動き出した。
「並行世界ってのは、役の名前じゃない。……あいつの物語の、外にあるもんの名前だ」
物語の、外。
「あいつが、自分の物語の外にあるもんに、名前をつけたのは、あたしの知る限り、初めてだ」
潤さんは、前を向いたまま、少しだけ、笑った。
笑い方が、少しだけ、苦かった。
「あいつの物語から逃げ回ってるあたしでも、まだ、娘って役の中にいる。……あんたは、四か月で、外に出た」
「出たのではありません。最初から、入っていなかっただけです」
「同じだよ」
「違います」
潤さんは、横目で、私を見た。
「……六月に、あたしが言ったろ。空けてないんでしょ、埋めてないだけ、って」
覚えていた。
六月の、雨の車の中で、返す言葉がなかったことを。
「あの時、あんた、黙ったよな。……今も、同じ顔してるよ」
私は、何も言わなかった。
潤さんは、また、前を向いた。
「何で、並行世界なのか、あいつは言ったか」
私は、少しだけ、迷った。
迷って、それから、言った。
「私の後ろに、別の川が流れている、と。……その川から、一人だけ、こちらの川に流し込まれた人がいる、と」
潤さんの横顔が、少しだけ、動いた。
動いたのは、頬の傷の、すぐ横だった。
「一人だけ」
「はい」
潤さんは、六月の、帰りの車の中で、私の話を、最後まで聞いた人だった。
あの人の話を。
十四になるな、と言った人の話を。
潤さんは、何も言わなかった。
言わないまま、ハンドルを、両手で握り直した。
「……あたしは、あの時、この時代の人間の座り方をしてねえ、って言ったよな」
「言いました」
「狐の面の男は、別の川、って言った」
潤さんは、短く、息を吐いた。
「同じもんを見て、あたしは、時代って言った。あいつは、川って言った。……あいつの方が、ちょっとだけ、遠くまで見えてやがる」
悔しそうな声だった。
人類最強が、人類最悪に、悔しがっていた。
「言うなよ、これ」
「言いません」
「あいつに、あたしが悔しがってたって、絶対、言うなよ」
「会う予定は、ありません」
「縁が合わなかったら、会うんだろ」
私は、答えなかった。
潤さんは、笑った。
今度の笑い方には、苦いものが、少しも混じっていなかった。京都の街が、窓の外を、後ろへ流れていった。
北へ。
六月に、雨の中を走った道だった。
今日は、晴れていた。
晴れた空の下を、赤い車は、澄百合学園の跡地へ向かって、走っていった。
私は、膝の上で、手を組んだ。
組んだ手の中に、何も持っていなかった。かけない番号も、書き置きも、眼鏡も。持っていない手を、組んでいた。
指先は、もう、冷たくなかった。
冷たくない指先で、私は、窓の外の、晴れた空を、見ていた。晴れた空の下で、坂の上の方に、高い塀が、少しずつ、見え始めていた。六月に見た塀と、同じ高さの。